峠と旅
毛無峠
 
けなしとうげ
 
雄大な稜線上の峠
 
    
 
毛無峠 (撮影 2004. 8.11)
なだらかな稜線の右手前側が長野県高山村・牧(まき)
左手奧側が群馬県嬬恋村(つまごいむら)・干俣(ほしまた)
標高は1,823m(峠にあった看板などから)
道は県道112号・大前須坂線
右手の山は破風岳、左手奧が土鍋山
 
 信州(長野県)は峠の宝庫で、多くの峠が存在する。車やバイクで越えられる車道の峠に限ってみても、その数は随分なものだろう。それらを単なる一個人で回ろうとしても、それは到底無理というもの。峠が趣味で旅に出たなら必ずと言っていい程、その土地にある峠や峠道を旅しているが、それでもまだまだ訪れたことがない峠が、この日本に沢山残っている。ましてや、信州だけを旅している訳ではないので、まだ見ぬ信州の峠は多い。
 
 この毛無峠もその一つであった。
 
 もっと計画的に旅をすれば、時間は掛かるが信州だけでも全ての峠を回りきれるかもしれない。しかし、私の旅はいつも気まぐれである。ちょっとした気分で行き先を決める。だから、何度も訪れる土地がある一方、全く訪れない所も出てきてしまう。必然的に峠の取りこぼしともなる。
 
 そんな訳で、毛無峠がある長野県高山村とその周辺の地域は長年の間、旅の空白地帯となっていた。ツーリングマップル3・関東(1997年3月、昭文社発行)の77ページを見ると、そのほぼ中央に高山村があり、毛無峠がある。他にも万座峠やら笠岳峠(マップルに名前の記載はない)、未舗装の湯沢林道というのもあって、旅をするにはとても良さそうな所である。しかし、高山村の東の方にある渋峠(国道最高所の峠で有名)はこれまで何度も越えたことがあり、西隣の須坂市も何度か訪れたが、どういう偶然か高山村の中の方は、これまでの長い間、ポッカリ抜け落ちたままだった。それがやっと去年の夏、これも偶然の巡り合わせで訪れる機会がやってきた。
 
    
 
<須坂市から出発> 
 
 昨日は、須坂市の米子大瀑布と言う滝の、見物客用の駐車広場に野宿した。今朝はやや体調が思わしくないまま、我が家系のご先祖様がいらしたと聞く須坂市郊外の一角を訪れた。こらからの旅は、更に北の新潟を目指す予定だ。しかし、ちょっとマップルを見れば、須坂市のお隣りが高山村で、まだ見ぬ毛無峠の文字が目に入る。毛無峠は長野県と群馬県の境に位置するが、群馬県側の道が途中で途切れていて、抜けることができない。かなりの寄り道になりそうだが、ここは一つ、まだ訪れたことがない林道や峠を堪能してみようと思った。
 
 県道(主要地方道)54号で須坂市から高山村に入り、更に県道112号・大前須坂線に乗り継いだ。毛無峠はこのままこの県道を行けばよい。しかし、湯沢林道という道が別ルートで存在する。県道がほぼ柞沢川沿いを行くのに対し、一つ南の樋沢川沿いを湯沢林道は遡り、峠の近くで県道に合流している。しかも未舗装だ。ここを通って峠を見物し、県道で帰って来れば、いい周遊コースになるではないか。その為にはまず林道探しである。
 

福井原付近を峠方向へ進む
<福井原を通る>
 
 ツーリングマップルには目立つように描かれている湯沢林道ではあるが、その実態はと言うと、あまり人が使うことがない寂しい道に決まっている。そんな道を探すのは厄介なことだ。そこで工夫が要る。地図には林道起点付近に「福井原ゴルフ場」とある。林道の案内看板はなくても、こうした施設の看板は必ずある。それを頼りにするのだ。
 
 案の定、県道を走っていると「福井原」の文字を看板に見つけ、その道へと入り込む。主要な分岐には例のゴルフ場の案内があり、道に迷うことはない。味気ない県道と違い、周囲にはのどかな田園風景が広がる。車の往来は全くなく、こういう所を走るのは楽しいことだ。これが旅の「通」と言うものである。
 
<湯沢林道を進む>
 
 目印としてきたゴルフ場を左に見て過ぎると、その少し先で道は林の中へと入って行く。間もなく路面が未舗装となり、いよいよ湯沢林道の始まりである。「一般車通行止」の看板がやや気になったが、ゲートもないのでそのまま進ませて頂く。
 
 樋沢川を左岸に渡り、尚も暗い林の中を道が続く。樋沢川の上流の峠直下では、湯沢と呼ぶ川らしい。それがこの林道名にもなっているようだ。
 
 暫くすると、寂しい筈の林道に車が沢山停まっている。これは何やら様子がおかしい。更に進むと、林道沿線の草刈作業をやっていた。作業車が道の真中に停まって、行く手を塞いでいる。「一般車通行止」ということもあり、ここはあっさり退散することとした。折角の周遊コースは諦めるしかない。今後、どの様に旅の経路を組み立てればいいか分からないが、とにかく、県道を使って峠まで行くしかない。

湯沢林道を進む
誰も居ない寂しい道の筈が、何やら様子がおかしい
 

県道から湯沢林道方面への分岐
橋の左脇に保安林の看板が立つ
橋の先にはゴルフ場の案内看板も見える(緑色)
<出直しで県道を行く> 
 
 林道を起点まで戻り、ゴルフ場の付近を右に折れて、勘を頼りに県道へ向かう。紆余曲折するも、柞沢川を渡ってひょっこり県道に出た。県道上には分岐に関した道路標識がなく、これが湯沢林道へと続く道の分岐であることが直ぐには分からない。しかし、良く見れば、橋の袂に保安林の看板が傾いて立ち、そこに描かれた地図には湯沢林道も記載されていた。橋を渡った先には、「福井原ゴルフ場 ショートコース9ホール」と緑色の看板もあった。これがいい目印となる。
 
 看板の地図の林道沿いには、峠に近い方から順に、「第一油差」、「第二油差」、「第三油差」と書かれているが、「油差」とは何のことだろうか。
 
保安林の看板にあった地図(北が下)
名称は記されていないが、ほぼ中央を左右に通る道(茶色)が湯沢林道だ
 
 また看板では、県道を「県道湯沢牧線」と記してある。「牧」は高山村の市街地に近い所の地名だ。「湯沢」とは湯沢川の上流部である毛無峠付近のことを言うのであろうか。どちらも高山村内である。一方、現在の県道名称は大前須坂線だ。大前は、毛無峠を群馬県側に下った嬬恋村の村役場付近にその地名が見られる。須坂は勿論須坂市のことだ。県道の名前に高山村の地名が入らなくなってしまった。それでいて、県道は毛無峠を嬬恋村に下った直ぐの所で途絶し、相変わらず嬬恋の市街には出られないのである。
 
<湯峰展望広場>
 
 県道は川沿いから離れて高度を上げると、俄然眺めが広がる。ぼんやり車を運転してなどいられない。景色見たさに、脇見がしたくなる。写真も撮りたい。しかし、道は幾重にも九十九折りが続き、油断がならない。勢い、路肩に車を停めて、眺めを堪能することになる。通行する車に気を使いながら、やや気ぜわしい。
 
 すると、「湯峰展望広場」というのがヘアピンカーブの脇にあった。ここなら車を停めてゆっくり眺めに見入ることができる、と思ったら、展望所らしき所からは、木々が邪魔をして、全く眺めが得られないではないか。展望がない展望広場であった。

湯峰展望広場
 
湯峰展望広場にあった案内図
 

県道の様子
 展望所にあった「湯峰公園案内図」によると、この場所を「湯峰」と呼ぶらしい。長野・群馬県境の峰から長野県側に伸びた一つの尾根の突端に位置する。空が開け開放感がある。
 
 湯峰を過ぎてからは、ほぼ尾根の上を行く。それまでの急な登りは、比較的道幅のある快適な道路であったが、尾根上になってから、やや狭い区間も出てきた。部分的に林の中に隠れてしまうこともある。
 
 その代わり、東の方向にも時折眺めが得られるようになる。山田牧場付近が壮観だ。山の斜面に牧場が広がる様子が手に取るように分かる。
 
 場所は特定できなかったが、県道は途中で「万山望」という所を通ることになっている。その名の通り、この付近からは多くの山々を望める。季節は夏で、遠望はやや霞んでしまったが、それでも高山村が眼下に広がった。この県道は期待以上に眺めが良い道であった。

県道からの眺め
 

老ノ倉の分岐
左に上信スカイライン、右に県道112号の続き
<老ノ倉の分岐>
 
 県道がほぼ尾根を登り詰め、県境も間近になった頃、老ノ倉と言う分岐に着く。車道の左手近くに老ノ倉山といのがある筈だが、よく分からない。分岐の奧にとんがり帽子の小山が見えるが、それは県境の稜線上に位置する御飯岳のようである。
 
 分岐は左に上信スカイラインが行き、右に毛無峠への道が分かれる。道路標識には次のようにある。
 
左:万座 manza 白根 shirane
右:小串 ogushi 毛無峠 kenashitoge 行止まり
 
 本来、毛無峠への道の方が県道の続きなのだが、道は上信スカイラインへと真っ直ぐ進み、その途中から県道が分岐するような形になっている。さすがに行止りとなる毛無峠方向より、万座へ抜ける車の方が多いのだろう。老ノ倉の分岐近くに暫く佇んでいた間も、高山村から登って来た数台の車は、毛無峠方向には見向きもせず、そのまま上信スカイラインへと走り去って行った。
 
 上の写真にも写っているが、分岐のちょっと手前にカーブミラーが立つ。それに並んで低い所にカーブ番号が書かれた看板がある。この老ノ倉が「第1号カーブ」となっていた。ここまで登って来る間に、カーブ番号があるのは気づいていた。途中で調べた時には第86号であった。少なくとも86箇所以上のカーブがあることになる。距離はそれ程長く感じなかったので、そんなに多くのカーブがあっただろうかと不思議に思った。峠道が好きで、楽しみながら走っているからこそ、そう思えるのかもしれない。
 
<老ノ倉から毛無峠へ>
 
 分岐から毛無峠へ続く道に入ると、やはりそれまでとはちょっと違う雰囲気となる。路面はきちっと整備されているが、道の両脇から迫る草木が、何となく寂れた感じを受けさせる。
 
 道に入って直ぐに、右手に看板が出ていた。一つは白い工事案内看板で次のようにある。
 
名称:県道大前須坂線
区間:高山村老ノ倉・高山村毛無
 
 但し、工事内容は記されておらず、今は通行が可能なようだ。

毛無峠への道
右手に看板が二つ
 
 もう一つは黄色の「道路情報」で比較的新しい。後で林道湯沢線の終点にも同じ物が立っていた。それをしげしげ眺めると、老ノ倉から毛無峠まで3.7Kmの区間は、「通行注意」とのことである。その区間が赤い線で描かれている。「降雨時には特に落石、土砂崩等に注意」とある。いよいよ峠が近いという期待が高まる一方、何やら恐ろしげな道が最後に待ち受けていた。一度も訪れたことがなく、どんな所だかさっぱり分からないので、やや不安な気持ちになる。見た限りではそれほど危険があるような道ではないが、慎重に進むことにする。
 
 尚、道路情報の地図には、上信スカイラインの道が「牧干俣線」と書かれている。よくよく調べて見ると、上信スカイラインは通称で、老ノ倉から始まっているのは、県道466号・牧干俣線というのが正式な名称だった。「牧」は前述した高山村の地名だ。一方、「干俣」(ほしまた)というのは、県道112号が毛無峠の群馬県嬬恋村側で一旦途切れ、その下流で再び現れた道沿いに見られる地名だ。また、文献で調べてみると、毛無峠の嬬恋村側に少し下った所に小串鉱山があることになっているが、その住所の大字名でもある。とにかく、万座へ抜ける上信スカイラインの行き先が「干俣」とは、ちょっと変な感じがした。
 
道路情報の案内図(左が北)
 

県道より湯沢林道を望む
 道は登ることなく、ほとんど水平移動である。国土地理院の地形図では老ノ倉が1,919mで、毛無峠が1,823mだ。80m以上下ることになる。峠道としてはあまり感心したことではない。峠は道を上り詰めた所にあって欲しいのだ。その方が、峠に着いた時の感動が大きいように思う。
 
 本来この県道より、もっと谷の底から登って来る湯沢林道の方が、峠道としてふさわしいのだろう。県道を暫く行くと、その林道が右下に見えてきた。クネクネと幾重もの九十九折りで、谷から駆け上がって来るのが望める。何とも羨ましい光景だ。峠道はあのようであって欲しい。今回あの道を走れなかったのは、如何にも残念に思えた。
 
 県道は左手にそびえる御飯岳の山肌を縫うように走る。右手には毛無峠直下の景色が広がりだす。何とも雄大である。その内前方に、なだらかな稜線の鞍部が見えだした。あれが始めて見る毛無峠だ。長く水平な稜線が形成されていて、それ全体が峠なのだろう。
 
 峠の形にはいろいろある。狭い切り通しの峠もあれば、この毛無峠の様にスケールの大きなものもある。同じ信州にある大河原峠を思い出す。大河原峠も雄大で、片側が未開通であるという事情なども同じだ。スケールではこちらの毛無峠の方が大きいかもしれない。
 
 こうした雄大な山岳地帯の峠も嫌いではないが、情緒に欠ける点が否めない。景色が良くて壮観な気分になれるのもいいが、個人的な趣味としては、狭く深い切り通しを、寂しく越えている峠の方が、性にあっているような気がする。

峠を遠望する
 

湯沢林道の終点
<湯沢林道の分岐>
 
 峠を目前に、県道の右手を鋭角に下る道の分岐が現れる。それが湯沢林道の終点である。林道入り口には林道標識が立つが、下の起点にあった林道通行止の看板はこちらにはない。こちらからなら知らん振りして入り込めそうだ。
 
 老ノ倉にあった黄色い「道路情報」の看板が、この分岐にも立つ。林道側から分岐を眺めると、「通行禁止」の看板が目に飛び込んできた。しかし、これは林道の通行を禁止するものではなかった。県道大前須坂線のことだった。老ノ倉から毛無の間は「積雪による通行不能」になるとのことである。期間は未記入。
 

林道終点にも立つ道路情報

林道終点を林道側から見る
右手奧の看板には次のようにある
林道 湯沢線 終点
巾員 4.0M 延長 17,395m
 
 峠を前に道の様相が更に険しくなった。周囲の景観と呼応して荒々しい感じである。雰囲気は満点だ。
 
峠直前の県道の様子(道を老ノ倉方向に見る)
 
    
 
<峠>
 
 いよいよ毛無峠に到着する。しかし、だだっ広くて、どこが峠だか分からない。言ってみれば、そこらじゅうが峠なのである。カメラを構えてみても、どこを撮っていいかキョロキョロしてしまう。28mmの広角レンズでさえ、全く入りきらない大きさだ。勢い、パノラマ写真になる。一つの景色を何枚もの写真に分けて撮るのだ。しかし、パノラマ写真は旅から帰って貼り合わせるのが大変である。
 
峠の広い稜線上のパノラマ写真(高山村方向に見る)
左手に見えるは破風岳、右手は毛無山
毛無山の肩を5本の古そうな鉄塔が並んでいる
 
 県道の続きの道は、そのまま稜線上を進む。ここに至っては未舗装で、県道としての体裁は保たれていない。稜線上の東方には毛無山があり、西方には破風岳(はふうだけ、1,999m)がそびえる。道は毛無山方向から破風岳方向へと稜線を渡って行く。道の脇には車を停められるスペースがある。
 
 峠が雄大なら、また峠からの眺めも雄大である。高山村側は急峻な谷間を抜けて下界まで見通せる。嬬恋村側は峠を下る山肌がどこまでも続き、その中に赤茶けた土が露出する異様な場所が見える。あれが小串鉱山の跡だろう。殺伐した感じを受ける。
 
峠より高山村側を望む
 
峠より嬬恋村側を望む
中央の赤茶けた土が露出する部分は小串鉱山跡
 
 本日は2004年8月11日(水)。休日ではないが、夏期休暇中の人も多いことだろう。この毛無峠にも既に何台かの乗用車が停められ、峠からの景色を眺めている者もちらほら見かけられる。観光地でもなく、ほとんど行止りと言っていいこの峠へ車でやって来るのは、一体何を期待してのことだろう。私の様に峠が趣味だなんていう者は少ない筈だ。単なるドライブがてらに来たまでのことだろうか。景色はいいが、車の外に出れば風は強く、殺風景な所である。数分も佇めば、もうすることはない。
 
 訪れた者の乗用車に混じり、片隅にバスが1台停まっていた。中には誰も居そうにない。何かの倉庫代わりにでもなっているらしかった。
 

道の峠
この手前、右手方向に破風岳への登山口がある
 道が稜線を渡り切ると、その正面に破風岳への登山道が始まる。山肌をジグザグに道が登っているのが見える。山は直ぐ間近に見えるのだが、歩いて片道40分程かかるそうだ。ちょっとした登山を覚悟しなければならない。でもきっと、頂上からの眺めはいいことだろう。この毛無峠もよく見渡せるに違いない。毛無峠へやって来る者の目的の一つに、この破風岳登山があった。一方、反対側の毛無峠はあまり登山にはポピュラーではないようだ。道路地図に破風岳は記載されても、毛無山の文字はない。
 
 破風岳への登山口を右に見て、道は左に急転回する。そこが言ってみれば道の峠の部分となる。「群馬県」と書かれた県境を示す看板もある。その隣りには次のようにある。
 
 この先危険につき
 関係者以外立入禁止
 中之条土木事務所
 
 また付近には右の写真の看板などが立つ。
 
 毛無峠 1,823米
 ↓ジロー坂
 (アチャとダンベの国境)
 ←小串「御地蔵堂参道」先約4km
 
 他にも
 小串鉱山跡
 慰霊堂
 植生実験場
 
 ジロー坂とは峠を群馬県側に下る道を指すらしい。

看板
 
    
 
<峠名>
 
 毛無峠という名は、稜線に立つ毛無山にちなんだものなのか、あるいはこの付近は高木のない土地なので、そこにある山は毛無山で、峠は毛無峠と呼んだまでのことかもしれない。確かに、山肌にはコケモモ類ばかりで、岩陰などに身を寄せて僅かに潅木が茂る程度である。それは、ここに硫黄鉱山があったように、鉱毒によるものとうこともあるのかもしれないが、一般的には冬の強い北西季節風によって、高い木が育たないことが原因らしい。
 
<ちょっと歴史>
 
 毛無峠の歴史は、信州と上州を結ぶ交通路などとしてではなく、やはり小串硫黄鉱山と共に歩んだ歴史の道である。今は群馬県側に大きな鉱山跡を残すが、そもそもの小串鉱山は、明治期に長野県側から小規模に掘られたのが始まりだそうだ。採掘・精錬された硫黄は、一旦須坂市に集められ、その後北陸(富山、福井)や瀬戸内(香川、山口)へと運ばれ、人絹・スフの原料、ナイロンの製造原料として使われたそうだ。
 
 大正12年には峠を越えて群馬県側からも採掘が始められた。その場合も、採られた硫黄はそのまま群馬県側に下ろすのではなく、峠を越えて長野県側にもたらされた。
 
 昭和4年からは大きな企業の資金により、本格的な鉱山運営が群馬県側で始まった。毛無山の肩口に朽ち果てた鉄塔が並んで県境を越えているが、これらは硫黄搬送の為に、その当時に建設された索道の残骸だろう。また、県境の峠の下300mに、1,300mの毛無大隧道(別名長大坑)を掘り抜いたとも言う。
 
 昭和40年頃の最盛期には、職員や従業員、その家族など千数百人もの鉱山関係者からなる、一大鉱山集落が築かれたそうだ。峠から見る現在の小串鉱山跡は、ただただ荒涼とした姿ばかりを見せつけるが、そこにかつては人々の暮らし、生活があったのだ。この険しい山の中に全く信じられない、という思いがつのる。
 
 時代の波に押されての小串鉱山の閉山は、昭和46年のことである。長い鉱山の歴史の陰には、山崩れにより245名の犠牲者が出るという悲劇も隠れているそうな。
 
 小串鉱山の廃鉱に伴い、毛無峠はある意味で大きな役目を終えてしまった。峠からは人の姿が消え、時折訪れる登山者や酔狂なドライバーを見るばかりである。そんな人の歴史にはお構いなしに、相変わらず強い風が吹き抜ける毛無峠であった。
 
    
 
<群馬県側に下る>
 
 看板に立入禁止とはあるが、峠から群馬県側をのぞくと、楽しそうな道が下っている。その先にある小串鉱山跡も見てみたい。幸い道にあったバリケードは横を向いて置かれ、車は難なく入り込める。そう何度も来れる所ではないので、ここはひとつ走らさせて頂くことにする。
 
峠より嬬恋村に下る道
 

これより豪快な九十九折
低速・徐行 安全運転を!!
小串御地蔵堂
 今日は運良く天候に恵まれ、爽快に豪快な道を下る。こうした標高が高い所では、ガスって何も見えないという不運がよく付きまとう。峠愛好家泣かせである。最初に訪れた峠で、今日は本当にラッキーである。天気もどうぞ走ってくださいと言っているのだと、勝手に解釈するのであった。
 
 下り始めると直ぐの路肩に不審車が1台。付近に人影はなし。登山者の物にしては、不自然な場所だ。いぶかりながら側らを過ぎる。小さな看板に、「低速・徐行 安全運転を!!」とある。その先は豪快な九十九折りが待っていた。
 
<九十九折りを下る>
 
 峠道には付き物の九十九折り。しかし、これだけ豪快なのは、なかなか例がない。とにかくスケールが大きい。しかも高木がない為に、それが明け透けになっている。常に自分がどの辺りにいるのか良く分かる。時折峠を見上げたり、下界を眺めたり、これは楽しい。
 
 路面は粗い石ばかりで道幅も狭く、やや緊張はするものの、ゆっくり車を進めればそれ程危険は感じない。切り立った足下の崖にびびるような個所はないのだ。それよりも何だか空を飛ぶような浮遊感のようなものを感じる。長野県側の県道も悪くはなかったが、やはり峠道というのはこうあって欲しい。これぞ峠道というところだ。

九十九折りを下る途中
前方に見えるは破風岳
 

小串鉱山跡はなかなか近付かない
 せせこましい九十九折りではハンドル操作が忙しくてしょうがないが、毛無峠の九十九折は、一旦カーブを曲がってしまうと、また暫く真っ直ぐな道が続く。全く暇である。といってもスピードは出せない。ガードレールなど皆無だから、一つ間違えば路肩から転げ落ちてしまう。ただただゆっくり真っ直ぐ進む。目指す鉱山跡は常に右手か左手にある。なかなか近付いてはくれない。
 
 九十九折りが終わって少し行くと、谷の低部に差し掛かった。ここは嬬恋村市街へと流れ下る万座川の支流・不動沢川の上流部に当たる。道は最後にそこを横切るように水平移動する。
 
 そこより沢沿いの道が分かれて下っていそうで、探して見ると実際に2本ほど道らしい痕跡が見られた。帰りのその一本に入ろうとしたが、数m車を突っ込んだ所で慌ててバックした。急坂の上にひどくガレていて、車の走行は到底無理そうだった。道ではないのかもしれない。もう一本は細々と下に続いていそうだったが、幅が狭く車道とは言えない代物だった。
 
 峠道の探索では、こういうところが悩ましい。行ける所まで行って確かめたいのもやまやまだが、行ったきり帰って来れなくなるのも困る。道は続いていてもバリケードなどでしっかり通行止になっていた方が、かえってきっぱり諦めがついていいくらいだ。下れるか下れないか分からない谷の下を恨めしげに眺めつつも、先程のガレ場の恐怖を思い出し、毛無峠の群馬県側の探索は諦めることにしたのであった。

九十九折りを下り切り、不動沢川の上流部に出た
ここより右手の下流に下る道を探したが・・・
 

道の終点
 本線の道は最後に少し登って広場の片隅に到着する。そこには小串御地蔵堂への入り口があった。
 
 峠からここまでの道が未舗装ながらもどうにか車が走れるように維持・整備されているのは、この小串御地蔵堂へ訪れる人の為のようだ。さもなければ、廃鉱になった今では道の役目はなく、とっくに廃道になっていたかもしれない。
 
 道の終点から仰ぎ見ると、破風岳の頂上が望めた。峠は隠れて見えない。位置的には毛無山側に近い山麓である。
 
<小串御地蔵堂へ>
 
 地蔵堂参詣の駐車場ともなっている道の終点には、小さな看板が幾つか立つ。
 
 ご苦労様です
 御地蔵堂へ
    200m
 安全運転で
 ←お願いします
 
 小串なつかしの集い
 慰霊祭会場
 
 6000尺の毛無峠を越えての出会い
 
 尚、「尺(しゃう)」とは昔の長さの単位だが、1尺は30.3cmになるそうだ。よって6000尺とは約1,800m。そう言えば歌にも「アルプス1万尺」とある。

正面に小串御地蔵堂への道が登る
 

小串御地蔵堂
 地蔵堂へは毛無山方向へ狭い急坂を登るが、200mとの案内があったので、ちょっと迷って結局歩いて行くことにした。途中に廃材などが置かれ、廃屋の様な物も見られる。上り詰めると地蔵堂が真新しいかった。
 
 そこに立つ石碑の裏に、当時の集落の略図が描かれていた。鉱山設備の他に、小中学校や幼稚園、商店、マーケット、遊園地、浴場、診療所なども見受けられる。地蔵堂が立つ高台から眺める一帯に、こうした集落が存在したとは、今では想像もつかない。ただただ荒地を残すばかりで、集落であったと言う痕跡らしい痕跡がない。
 
「小串鉱山(昭和46年6月)施設概略図」
石板に当時の小串鉱山集落が描かれている
 
<地すべり地帯へ>
 
 地蔵堂脇に立つ小さな看板に従って更に裏手に進むと、水場がありちっちゃな鐘楼が立っている。この付近は昭和12年11月11日に発生した地すべりの発生源に近い地帯だそうだ。突如として裏山が崩れ集落を襲い、245名もの命を奪った。
 
 地蔵堂の建立は1998年9月27日と新しく、小串鉱山の跡地を記念して建てられたのでもあるだろうが、一つにはこの大災害の慰霊の意味も強いようだ。今は草に覆われた山肌に険しい様相は伺われないが、ひとたび大雨などに襲われれば厳しい自然が牙をむく環境なのである。鐘を一つつくと、寂しく鳴った。
 
 あっちこっち写真を撮っていたら、フィルムが終わってしまった。予備を持って来ていなかった。石板の地図も撮りたいし、碑文も写したい。歩いて車に戻り、今度は車で地蔵堂まで登ってしまった。

地すべり地帯に鐘が立つ
 

山肌に坑道口の跡などが見られる
<廃鉱跡>
 
 地蔵堂見学から戻ると、そこから続く荒れ果てた広場に車を乗り入れて行った。側らの山肌には坑道の跡らしき物も眺められ、建物の跡らしいコンクリートの残骸もちらほら見られる。それらが小串鉱山の名残だ。しかし、全般的には赤茶けた土の台地が荒涼と広がるばかりである。
 
 台地の端まで車を進めると、その下に更に荒涼とした世界が広がっていた。その中にポツンとトラックが1台あったが、打ち捨てられているのだろう。これらが小串鉱山のなれの果てである。地蔵堂の碑文にもあったが、全く「強者どもの夢の跡」である。
 
小串鉱山跡
 
 この荒れた様子を見ていると、昔起ったと言われる大災害を連想させられるが、小串鉱山の廃鉱とその地すべりとは直接の関係はないようだ。廃鉱は昭和46年だが、地すべりの発生は更に古く昭和12年のことである。
 
 昭和42年に公害基本法が制定されている。戦後の高度成長の中で野放しになっていた公害にメスが入れられたのだ。それにより、硫黄生産の分野にも大きな変化が生まれた。それまでの硫黄採掘に代わって、重油から脱硫装置により硫黄を生産する方式が盛んになったのだ。これが日本各地の硫黄鉱山に壊滅的な打撃を与え、次々と閉山へと追い込んでいった。小串鉱山もその一つなのである。
 
 車道の終点から続く広場の台地より、更に下流へと下る車道は見当たらなかった。歩いてなら探索できるが、この荒地に人ひとりは、ちっぽけ過ぎて、怖いことだろう。そそくさと毛無峠へ車で戻ることとした。
 
 それにしても、この先のコース取りが悩ましい。同じ県道を元来た高山村方面に戻るのも芸がない。さりとて、この寄り道をどの様に軌道修正していいか分からない。峠への豪快な九十九折りをトコトコ登りながら、やや体調不良の冴えない頭でボンヤリ思案する毛無峠であった。
 
    
 
<参考資料>
 昭文社 関東 ツーリングマップ 1989年1月発行
 昭文社 ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 長野県 2004年4月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
    (四阿山、大前、御飯岳、中野東部)
 角川 地名大辞典 長野県、群馬県
 
<走行日:2004. 8.11 制作:2005. 4. 5 蓑上誠一>
  
    
 
峠と旅