ホームページ★ 峠と旅
国士峠
  こくしとうげ  (峠と旅 No.230)
  井上靖のふるさと、湯ヶ島へと通じる峠道
  (掲載 2015. 2.21  最終峠走行 2015. 1.20)
   
   
   
国士峠 (撮影 2007. 3. 5)
手前が静岡県伊豆市市山(いちやま)・湯ヶ島(ゆがしま)
奥が同市筏場(いかだば)
道は県道(主要地方道)59号・伊東西伊豆線
標高は510m (峠に立つ標柱より)
作家井上靖が幼い頃、この峠を越えて「馬飛ばし」を見に行った
   
   
概要
   
<伊豆半島の峠>
 伊豆半島の峠では、何といっても天城峠である。 規模の大きな峠道であると同時に、旧道の天城(山)隧道(旧天城トンネル)が今でも健在で、 往時をしのぶことができるのが素晴らしい。天城隧道は道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されている。また、天城峠は小説や映画、歌謡曲の舞台となり、その名は日本で広く知られている。
 
<狩野川水系>
 天城山脈に源を発する狩野川(かのがわ)は、半島の中央部をその付け根に向かって北流し、 最後に少し西に折れて駿河湾に注いでいる。 伊豆半島は狩野川の谷により中央部が大きく削れた格好だ。 その狩野川水系から半島の南側の下田へと天城山脈を越えるのが天城峠(下田街道)で、 その立地からしてもやはり伊豆半島随一の峠道と言えよう。 また、狩野川水系から伊豆半島の東側へと越える峠に、鹿路庭峠(ろくろば)や冷川峠(ひえかわ)、亀石峠があり、 西側へは仁科峠(にしな)、土肥峠(とい、船原峠とも)、戸田峠(へだ)などがある。 これら狩野川水系から半島周辺の沿岸へと越える峠が、伊豆半島を代表的する峠と言えそうだ。
 
<国士峠>
 そんなことを言っていては、いつまでも今回の国士峠は出て来ない。 国士峠の道は、峠を越えてもずっと狩野川水系の内に居る。 狩野川の支流同士を繋ぐ小さな峠なのである。 この程度の峠は、伊豆半島内だけでも幾つもある。
   
<所在>
 天城連山から北方に狩野川の本流・本谷川が下るが、その東に並んで長野川が下り、更にその東に大見川(おおみがわ)が下る。 長野川も大見川も天城連山を源とし、狩野川の支流である。 国士峠はこの2つの川を隔てる尾根を越える。
 
 長野川側は伊豆市湯ヶ島、旧天城湯ヶ島町(田方郡、たがたぐん)だ。 道の起点は国道414号・下田街道沿線で、付近は湯ヶ島温泉で知られる。 峠道は峠の直前で一時期(0.5km程)市山(いちやま)を通過するが、基本的には湯ヶ島である。
 
 大見川側は伊豆市筏場(いかだば)で、旧中伊豆町(田方郡)に属す。 峠道は伊豆市八幡(はつま)で冷川峠を越える県道12号から分岐して始まる。
   
<地図>
 国土地理院ホームページの 地形図を参照
上の地図は国土地理院のホームページにリンクしています
拡大・縮小や移動が可能です
   
<馬飛ばし>
 さて、どうしてこの小さな峠を掲載するかと言うと、ちょっとした思い入れがある。 湯ヶ島は作家井上靖氏の故郷で、氏の幼少期をモデルとした作品「しろばんば」(新潮文庫)がある。 この小説では昔の湯ヶ島やその付近の様子が実際の地名で登場する。 国士峠も出てくる(前編五章)。 作者の分身である主人公の少年・洪作(こうさく)は、歩いてこの峠を越え、筏場で行われる「馬飛ばし」を見に行く。 「馬飛ばし」とは近隣の村人達で催される小規模な草競馬のことだ。 馬飛ばしに限らず、当時の風物や村の様子、人々の暮らしが読み取れる。 「しろばんば」の続編とも言える「夏草冬夏濤」(なつぐさふゆなみ)、「北の海」なども好きな作品で、 何度か読み返している。 すなわち、かなり個人的な思い入れでの国士峠の掲載であった。
   
   
八幡より
   
<八幡東交差点>
 冷川峠を越えるのは県道(主要地方道)12号・修善寺伊東線で、修善寺方面より大見川沿い遡り、 支流の冷川沿いに移って冷川峠を越える。 国士峠の道はその冷川が合流する付近より分岐する。 現在は八幡(はつま)東という交差点で分岐しているが、以前はもう少し下流側の八幡(はつま)で分岐していた。
 
 尚、手持ちのツーリングマップルなどでは、冷川峠を越える道も、中伊豆バイパスの冷川トンネルを抜ける道も、 どちらも県道12号の表記になっている。 しかし、現地では冷川峠の方は県道59号と表示されていた。

県道12号から県道59号へ (撮影 2015. 1.20)
分岐を示す道路看板が出てきた
(県道12号上を修善寺方向に見る)
   

道路看板 (撮影 2015. 1.20)
県道59号の行先には「国士峠」とある

八幡東の交差点 (撮影 2015. 1.20)
左に県道59号が分岐
県道12号上より修善寺方向に見る

   

県道59号側から見る八幡東の交差点 (撮影 2007. 3. 5)

県道59号側から見る道路看板 (撮影 2007. 3. 5)

   

県道59号を峠方向に見る (撮影 2015. 1.20)
この付近は新しいバイパス路的な道
この先で冷川を渡る
<県道59号>
 県道12号に代わって大見川沿いを遡るのは、国士峠を越える県道(主要地方道)59号・伊東西伊豆線となる。 「伊東」は冷川峠を越えた先の伊豆半島の東海岸沿いなので、やはり冷川峠を越えるのは県道59号かもしれない。 その場合、八幡東から冷川トンネルへの分岐・徳永までは県道12号と59号の併用区間となる。
 
 また「西伊豆」とは、湯ヶ島から先、仁科峠を越えて西海岸の西伊豆町に至ることを示す。 県道59号は、東海岸から西海岸までを通して走る、伊豆半島横断道路とも言えそうだ。 その間、冷川、仁科の大きな両峠を越えている。
   
 そうした中、国士峠はちょっと余計な存在だ。 西伊豆町まで行くなら、県道12号で一路修善寺に出て、大幹線路である国道414号で湯ヶ島まで南下し、 そこから改めて県道59号に入り直した方が早そうだ。 わざわざ狭い坂道の国士峠を越える必要はない。 道路看板の行先も「国士峠」とある。湯ヶ島とも西伊豆ともない。
   
<八幡東より>
 八幡東から始まる県道59号は、暫くは新しいバイパス路的な道で、道幅が広く快適である。 直ぐに冷川を渡り、大見川右岸側に出る。
 
 <大見川の左岸へ>
 0.5km程で大見川を左岸へ渡る。橋の手前を右から旧道が合している。 旧道はこの地点まで大見川右岸沿に通じていた。

大見川を渡る (撮影 2015. 1.20)
右手より旧道が合する
   
   
大見川沿い
   
  この大見川沿いになってから峠への登り口である筏場に至るまでが意外と長い。 大見川とその支流の地蔵堂川沿いに幾つかの集落が点在し、道はその集落を走り繋いで行く。 沿道にこれといって目を引く物もなく、やや単調な走りとなる。 行く手にそびえる天城連山が眺められるが、道はそこを越える訳でもない。
   
大見川左岸沿いの道 (撮影 2015. 1.20)
左手に大見川が流れる
   
 それでも付近の観光地を案内する看板が出てくる(下の写真)。 「わさびの郷、キャンプ場、萬城の滝」などとある。 「わさびの里」は県道59号沿いにある。 「萬城の滝」は県道から少し外れた地蔵堂川に架かる滝で、隣接して「萬城の滝キャンプ場」がある。 一帯は比較的整備された大きな施設となり、滝をめぐる遊歩道なども完備されている。 旧中伊豆町の町営観光施設としては、最も大きいのではないだろうか。 山の中に立派な建物などがあり、ちょっとびっくりする。
   

案内看板が出ている (撮影 2015. 1.20)

案内看板 (撮影 2015. 1.20)
   
<原保温泉付近>
 道路地図などには示されていないようだが、途中の信号機がある交差点の角に「はらぼ温泉」と看板あった。 この付近の地名が「原保」(はらぼ)である。
   

旧道と交差 (撮影 2015. 1.20)
左角に原保温泉

原保温泉 (撮影 2015. 1209)
   
 県道59号はこの付近のほとんど唯一の幹線路であり、八幡東交差点以降、信号機など全く無しで突き進んで来たが、 ここに来て信号機で停まらされたのがやや奇異な感じを受けた。 後で調べてみると、原保温泉で交差する相手の道は、旧県道であった。 地蔵堂川右岸沿いに立ち並ぶ人家を避けて、県道が新しく敷き直されたようだ。
   

地蔵堂左岸の道 (撮影 2015. 1.20)
萬城の滝へはここを左に
 旧道と交差した後、道は地蔵堂川を渡ってその左岸沿いを行く。 人家を避けて通した新道なので、道は幅が広いが沿道は寂しい限りだ。
 
 途中、案内看板があり、萬城の滝やそのキャンプ場への道が左に分岐する。 同時にそこで旧道が合流したことにもなる。
   
<大見川沿いへ>
  道はいつの間にか支流の地蔵堂川沿いに居た。狭い区間を走って本流の大見川沿いへと戻って行く。距離で1km以上はある。途中には人家は皆無で、林に囲ま れた寂しい道だ。そんな所を中学生らしい学生服を着た男の子が一人、黙々を歩いている。帰宅途中だろうか。随分と寂しい通学路である。

地蔵堂川沿いより大見川沿いへ (撮影 2015. 1.20)
やや狭い道が続く
   
   
再び大見川沿い
   

大見川沿いの道に合流する (撮影 2015. 1.20)
こちらが一時停止
<大見川右岸>
 小さな峠越えの後、右から道を合する。大見川本流の右岸沿いに通じる道だ。 何故そちらが県道にならなかったのだろうかと、地図を眺めても不思議に思う。 そちらの方が道のコースとしては素直だ。 今の県道は、わざわざ支流経由で大回りしている。 大見川沿いは地形が厳しかったのだろうか、地蔵堂川沿いの方が集落が多いのだろうか。
   
<貴僧坊>
 県道標識の地名には貴僧坊(きそうぼう)と出てきた。 変わった地名だ。 付近には貴僧坊水神社(すいじんじゃ)という神社があるようだが、寺院と神社が合わさったような名称だ。
 
 貴僧坊集落の端で公民館を過ぎた先、道は改修されたセンターラインがある快適路となる。 しかし、筏場集落に入ると、また狭い道に戻っていった。
 
<筏場>
 国士峠の東側の広い地域が筏場だ。 集落内に入っても、まだ峠への登りは少し先である。

貴僧坊から筏場へ (撮影 2015. 1.20)
右手に大見川が流れる
   

左手に県道標識が立つ (撮影 2015. 1.20)

県道標識 (撮影 2015. 1.20)
地名は筏場
   

筏場の集落内 (撮影 2015. 1.20)
大型バスが脇道に突っ込んでいる
<筏場集落内>
 県道はそのまま路線バスの経路になっている。狭い集落内も大型のバスが通行するようだ。 県道から更に脇道にも入り込むようで、バスがお尻を少し見せた状態で停車していた。 如何にも窮屈そうであった。
   
<大見川左岸へ>
 筏場の中心地を過ぎた先で、道は小さな橋(追越橋)を渡る。 ここから上流側0.5km程は、大見川の谷は狭まり、道も川も少し険しい様相を示す。

大見川を渡る (撮影 2015. 1.20)
   

右に蛇喰川沿いの道を分岐 (撮影 2014. 1.20)
<蛇喰川>
 大見川の左岸に入って直ぐ、細い道が右に下る。 大見川の支流・蛇喰川(じゃばみがわ)沿いに延びる道のようだ。 分岐の角には「椎の木平の巨木」と看板が立っていた。
   
蛇喰川沿いの道への分岐付近 (撮影 2007. 3. 5)
大見川の下流方向に見る
   
<筏場の大崩壊>
 道は数100m程の狭小区間を抜ける。 そこでは谷が狭まり、川が蛇行する。 ほぼ上流側に抜け切った所の路肩にちょっとした空き地があり、その奥に下記の看板が立っている。 狩野川台風によりこの付近で大きな崩壊があったことを伝えている。 氾濫した大見川の水が、屈曲した狭小区間ではなく、丁度看板の奥方向、支流の蛇喰川へと流れ、大崩壊を起こしたようだ。 昭和33年(1958年)のことで、今は草木が生い茂り、ちょっと見る限りでは、その大崩壊の様子はうか がえない。

狭小区間を抜ける (撮影 2015. 1.20)
この右手に筏場の大崩壊の看板が立つ
   

「筏場の大崩壊」の看板 (撮影 2007. 3. 5)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

「狩野川台風」の看板 (撮影 2007. 3. 5)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<わさび田>
 大崩壊個所の直ぐ上流側は、大見川の谷が広がり、道路と川との間ににわさび田や棚田が築かれている。 伊豆半島では天城連山から流れ下る清流を使ったわさびの栽培で知られる。 わさび田としては規模が大きいものが多く、眺めは壮観だ。 しかし、この地も狩野川台風では甚大な被害を被ったことだろう。
   

この先でわさび田が広がる (撮影 2015. 1.20)

沿道にわさび田 (撮影 2007. 3. 5)
下流方向に見る
   
大きなわさび田の眺めは壮観 (撮影 2015. 1.20)
   
<わさびの郷>
 わさび田の上流側まで登ると、沿道に「わさびの郷」の看板が立っている。 この付近にでわさびが購入できるようだ。
   
左手に「わさびの郷」の看板 (撮影 2015. 1.20)
   

筏場新田バス停 (撮影 2015. 1.20)
<筏場新田>
 わさび田やわさびの郷の周辺は筏場の「新田」という集落で、県道沿いに人家が立ち並ぶ。 「(筏場)新田入口」とか「筏場新田」といったバス停が見られる。 「筏場新田」のバス停が最終かと思ったら、その少し先で左に下る道があった。 下をのぞくと円形の広場があり、どうやらバスの回転場らしかった。 バス停も立っていたようだが、名前は調べなかった。 道路地図でも不明である。同じ「筏場新田」のバス停名だろうか。
   

左手にバスの転回場へ下る道 (撮影 2015. 1.20)

バスの転回場 (撮影 2015. 1.20)
   
   
峠への登り
   
<峠への登り>
 バスの転回場を過ぎると人家は途切れ、道は大見川本流沿いを離れて西の尾根へと登りだす。 直ぐに改修された道が現われ、下には大見川の谷が一段と広がっていた。 その谷を埋めるようにしてわさび田が上流部へと続いていく。

この先で道が広くなる (撮影 2015. 1.20)
   
改修された道 (撮影 2015. 1.20)
   
広い谷をわさび田が埋める (撮影 2015. 1.20)
   
   
筏場林道分岐
   

筏場林道分岐 (撮影 2015. 1.20)
左に筏場林道が分岐する
県道は右にカーブ
<筏場林道分岐>
 改修部分は僅か100m〜200mで終わり、林の中を登る狭い道に変わる。 左手の林を通してわさび田が続いているのが見える。 バス回転場から1km足らずで道が鋭く右に屈曲する。 その角から左に筏場林道が分岐している。
   

筏場林道方向を見る (撮影 2007. 3. 5)

県道方向を見る (撮影 2007. 3. 5)
   

分岐を示す看板 (撮影 2007. 3. 5)

道路看板 (撮影 2007. 3. 5)
「林道」とは筏場林道のこと
   
筏場林道の分岐点 (撮影 2007. 3. 5)
筏場林道側から見る(手前が筏場林道)
前方でU字のカーブを描くのが県道59号
   
<筏場のわさび田>
 筏場林道に入ると直ぐに橋が架かっていて(大見川の支流の川)、 その橋の下流側にも上流側にも一段と広いわさび田が谷を埋め尽くしている。 特に国士峠から降りて来ると、暗い林を抜けた先にパッと目の前が開け、その眺めは壮観である。 これまでも小さい沢にわさび田が造られているのを何度か見たことがあるが、これ程大規模なわさび田は初めてである。

筏場林道方向を見る (撮影 2007. 3. 5)
   

橋より下流方向に見る (撮影 2007. 3. 5)
一面のわさび田

橋より上流方向に見る (撮影 2007. 3. 5)
上の方まで続いている
   
<看板>
 県道沿いには旧中伊豆町に関する観光案内などの看板が立つ(下の写真)。 中には「中伊豆町筏場のわさび田」として静岡県棚田等十選に認定された旨を示す看板もあった。
   

「わさびの里」の看板 (撮影 2007. 3. 5)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

旧中伊豆町の観光案内図 (撮影 2007. 3. 5)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
   
筏場林道分岐以降
   

筏場林道分岐以降の道 (撮影 2015. 1.20)
<本格的な登り坂>
 筏場林道の分岐を過ぎると、道の勾配が増し、いよいよ峠に向けて本格的な登りを開始する。 道は一度通り過ぎた大見川の支流・蛇喰川(じゃばみがわ)の上流部へと向かう。
 
<上大見川部落>
 「しろばんば」では、「長野部落の向うにある小さな峠を越えると、 隣村の上大見部落になる」とある。 この「小さな峠」とは国士峠のことだ。 旧天城湯ヶ島町側の大字湯ヶ島の中には確かに「長野」という集落名が今でも見られる。 しかし、旧中伊豆町側には「上大見」(かみおおみ)という地名が見当たらない。 大字筏場の最終集落は新田だったと思う。あるいは「上大見」とはもっと広い範囲を指す地名だったのだろうか。
   
<上大見村>
 調べてみると、明治22年から昭和32年まで上大見という村が存在した。筏場村(江戸期〜明治22年)など8ヵ村が合併してできた村で、やはり大字筏場よりもずっと広い範囲である。昭和33年には中大見村、下大見村と合併し中伊豆町になっている。
   
<馬飛ばしの筏場(余談)>
 馬飛ばしが行われたのは「上大見部落にはいったところにある小さな平坦地の筏場」だったそうだ。 この場合の「筏場」とは地名ではなく、筏を組んだり川に流したりする、そうした場所であろう。
 
 筏場林道分岐から少し(300m程)登ると、右手に一本の分岐がある。 林の中を入った先は、何かの企業の敷地で行き止まる。 工場らしき建屋がのぞく。 地図を見ると、敷地に隣接して蛇喰川が流れる。 工場が立地するだけあって、なかなか広そうな平坦地である。 敷地内に貯水池もあるようだ。 貯木場の跡か。 ここがかつて馬飛ばしが行われた「筏場」ではないかったかと想像したりする。

右手に分岐 (撮影 2015. 1.20)
行先は企業の敷地のようだ
   

また右に分岐 (撮影 2015. 1.20)
 少し登るとまた右に分岐がある。先程の工場の敷地よりも狭いが、ここにも蛇喰川沿いに平坦地がある。 今は個人宅か。 あるいは、筏場とはもっと下流の大見川本流沿いにあったのかもしれい。
 
 筏場については何の知識もないが、山から切り出した材木を筏に組み、川に流して運搬したものか。 勿論現在そのようなことは行われていない。 その痕跡を探すのも難しいだろう。 今はただ、地名として「筏場」の名が残り、わさびの産地となっている。
   
<道の様子>
 筏場林道分岐から峠までは2km少しと短い。 蛇喰川の上流部を回り込んで登る。 峠は長野川との境を成す尾根上にあり、道の右手は絶えず尾根の麓方向になる。 沿道は林に囲まれ、ほとんど視界がない。 こうなると、あまり面白い峠道ではない。

道の様子 (撮影 2015. 1.20)
   
   
   
国士峠 (撮影 2015. 1.20)
手前が旧中伊豆町・筏場、奥が旧天城湯ヶ島町・市山
   
<峠の様子>
 道は尾根の上部をほぼ180度回転して回り込む。くるくる回るので、どこが峠だかよく分からない。峰の鞍部を越える一般的な峠と異なり、道の片側は常に谷となって落ちている。峠の形態としてもあまり面白みはない。
 
 くるくる回る途中に看板や詩碑などが立ち並ぶ個所がある。 そこが峠だ。 以前は中伊豆町と天城湯ヶ島町の境だったので、その町境を示す看板が掛かっていた筈だ。しかし、 今は看板が外されてポールのみ立っている。 1990年前後にこの峠を越えているのだが、残念ながら写真を撮っておかなかった。
   

筏場方向に下る道を見る (撮影 2015. 1.20)

筏場方向から峠方向を見る (撮影 2015. 1.20)
峠のカーブ2つ手前
   

峠直前のカーブを見る (撮影 2015. 1.20)
角に車が停まる

峠直前のカーブより筏場方向を見る (撮影 2015. 1.20)
   

湯ヶ島方向より峠を見る (撮影 2015. 1.20)

峠より湯ヶ島方向を見る (撮影 2015. 1.20)
この先更にカーブする
   

以前は角にキャミを停めた (撮影 2007. 3. 5)
土を掘った跡があり、土の採集が行われているようだった
<市山>
 地図を見ると、峠は大字筏場と大字市山(いちやま)との境にあるようだ。 市山の中心地は湯ヶ島と同じく国道414号線沿いである。 峠道は1km程市山の地内を抜け、その後湯ヶ島との境を走り、結局は湯ヶ島の中心地へと下る。 実質的には国士峠は筏場と湯ヶ島とを結ぶ峠である。
   
<峠の標柱など>
 あまり目立たないが、路傍にいろいろと看板や詩碑などが並ぶ。 その中でも「名勝 国士峠」と書かれた古そうな木製の標柱が一本立つ。 道路地図などによっては、この峠を「国峠」と誤記しているものもあるが、 この標柱で正しい峠名が判明する。 「国士」と「国土」では随分と意味が違う。
 
<峠名>
 国士峠は時には「国士」と表記されることもある。 中には「国越」と書かれているのも見受けるが、 やはり「士」の間違いであろう。

峠の標柱など (撮影 2015. 1.20)
   

「名勝 国士峠」の標柱 (撮影 2015. 1.20)

標柱の別の面 (撮影 2015. 1.20)
   

「国士峠」の標柱 (撮影 2007. 3. 5)
 標柱には峠名の他に、「標五一〇メートル」とか「上杉憲政の子竜若丸の遺骸を輿にさげて通った峠」、「昭和五十七年八月中伊豆町教育委員会」とある。
 
<標高>
 現在の地形図では、等高線で500mと510mの間に峠が通じている。 標柱が示す510mは現在でも正しいようだ。
 
<由来>
 そもそも「国士」とは、「国のために尽くす人」とか「その国で特に優れた人物」などという意味があるようだ。 それと標柱にある「上杉憲政の子竜若丸の遺骸を輿(こし)にさげて通った峠」とはどのように関係するのだろうか。
 
 歴史好きなら上杉憲政(のりまさ)とは関東管領(かんれい)を務め、家督を長尾景虎に譲った人物であると知る。 景虎とは後の世で有名な戦国武将・上杉謙信で、これなら誰でも知っている。 憲政が上杉の名を譲ったことが、米沢の上杉家の興りとなり、江戸期へと続いていく。 最近のNHK大河ドラマでは、直江兼続の生涯を描いた「天地人」で、時折憲政が登場していたと思うが、そこではあまり良い 人物としては描かれていなかった。
   
  文献(角川日本地名大辞典)によると、永禄年間、北条氏康に追われた憲政の嫡子・竜若丸が、峠の西約2kmの湯ヶ島東原桜地蔵付近で自刀し、家臣がその遺 骸を輿に乗せて運んだという。それにより「輿さげ峠」と呼ばれた。後世、「こしさんげ」、「こくさんげ」と転じ、ついには「国士」となったというのであ る。本来の「国士」の意味はなく、単なる当て字ということであった。
 
 国士峠の由来もさることながら、伊豆の地は意外と歴史の表舞台になることがある。あの 源頼朝が幽閉され、後に挙兵する地である。 司馬遼太郎の「箱根の坂」という作品は、伊勢新九郎長氏(盛時とも)、後の世でいう北条早雲(ほうじょうそううん)として知られる後北条家を興した人物を描いているが、 早雲が晩年に活動したのも伊豆の地だ。関東管領の上杉家とも大きく関わる。そういえば、氏康は早雲の孫に当たる。
 
 国士峠は同じ狩野川水系内に通じる小さな峠道であるが、冷川峠などと繋げば、 伊豆から遠く関東の小田原などとも連絡する道筋にある。竜若丸の伝承以外にも それなりに歴史的な関わりを持つ峠なのかもしれない。
   

詩碑 (撮影 2007. 3. 5)
雲湧ける 天城もおくや おとし角

看板 (撮影 2007. 3. 5)
   
<茅場>
 しろばんばの洪作は、友達と馬飛ばしを見物する行き帰り、峠の茅場(かやば)で休息したとある。 峠近くの斜面に茅が多く茂る原があったそうだ。 それで村人たちは「茅場」と通称した。 現在の峠にそのような原っぱは見られない。 車道はくるりと尾根を回り、その尾根の上も、周辺も立木で埋め尽くされている。
 
 一つ気掛かりなのは、現在の峠と古くからの峠は位置が違うのではないかという疑惑だ。 今の車道は悠長に大きく尾根を回り込んでいるが、徒歩でこんな無駄はしないのではないだろうか。 もっとショートカットで尾根を越えるのではないかと思う。茅場も他の場所にあるのかも・・・。

峠道が回る尾根の上 (撮影 2015. 1.20)
付近に茅場はない
   
<旧峠>
 調べてみると、文献(角川日本地名大辞典)に「旧道は峠の南約400mの鞍部にあった」とある。峠の北側一帯はカヤの草原で、富士、伊豆の山々の眺望があったらしい。
 
 地形図では、確かに峠の南400m程に標高で520m〜530mの鞍部が存在する。丁度蛇喰川の上流部に当たる。現在の車道からは随分と離れた位置で、林の中の旧峠の様子はうかがいようもない。
 
 馬飛ばしの記述は「しろばんば」以外にも「幼き日のこと・青春放浪」(新潮文庫)に見られる。伊豆半島の山塊や富士山、その左手には駿河湾の一部が望め たようだ。井上靖氏が越えたのは、旧峠のようである。ただ、馬飛ばしには旧道や間道を行ったともあるので、その時期(大正初年)に現在の峠がまだなかたっ とは言いきれない。
 
 当然ながら、竜若丸の遺骸を乗せた輿が越えたのも旧峠であろう。現在の峠に「名勝」と標柱が立つが、実際はその場所ではなかった。「標高510m」は正しいようだが。
 
 現在の峠には茅場もなければ富士の眺望もなく、深く刻まれた歴史もない。そう思うとやや寂しい気がする。思い入れで取り上げた国士峠だけに、旧峠の存在は痛手であった。
   
   
峠より湯ヶ島側に下る
   

道の様子 (撮影 2015. 1.20)
少し視界が良くなってきた
<湯ヶ島側の道>
 峠を湯ヶ島側に下っても、相変わらず視界はなく、絶えず右手に尾根の麓方向を臨む。 それでも暫くすると狩野川本流の大きな谷に面するようになり、少し明るさが出てくる。
 
 道は狩野川の支流・長野川の幾筋もある支流の内の一つに向かって下って行く。 その川の谷筋に入ると、今度は左手が谷側、右手が山側と転じる。大きな屈曲を過ぎる。 その部分では真上にさっき通ってきた道を見上げることとなる。 筏場側に比べ、道にやや変化があり、少しは峠道らしく感じる。
   

道の様子 (撮影 2015. 1.20)
左手が谷側になる

道の様子 (撮影 2015. 1.20)
   

道の様子 (撮影 2015. 1.20)

道の様子 (撮影 2015. 1.20)
さっき通った道が上の方に見える
   
<分岐>
 車道が大きく蛇行する中、左手に車が入れないような道の分岐を数回見掛ける。 多分、車道が通じる以前の古い峠道ではないかと想像する。 古道はもっと川筋に近い所に通じていたものと思う。
 
 車道もやっと川筋に近付くと、前方が明るくなって来た。そろそろ集落は近い。

集落直前 (撮影 2015. 1.20)
   

長野の集落 (撮影 2015. 1.20)
<長野の集落>
 県道標識に書かれている地名は、湯ヶ島側に入って「伊豆市長野」と変わった。 最初に現れる人家はその長野の集落と思う。 「しろばんば」でも長野部落としてこの地名が登場する。 ただ、道はまだ坂道が続く。 比較的山の上の方まで人家が立っている。 長野集落の中心地まではまだ1km程を残す。
 
 人家が出始めて直ぐ、道幅が広がった。 側らに「通行注意」の看板が立て掛けてあった。 「凍結のため 長野〜筏場」とあった。
   

道幅がやや広くなった (撮影 2015. 1.20)
この右手後方にに「通行注意」の看板

「通行注意」の看板 (撮影 2015. 1.20)
   
<長野の中心部>
 長野川の支流を渡った先が長野集落の中心地であるようで、比較的人家が密集し、バス停「長野」が立っていた。 こちらのバス停は特徴があり、ほとんど棒が一本立っているかのようだ。
   

長野川の支流を渡って長野の中心部へ (撮影 2015. 1.20)

左手に「長野」のバス停が立つ (撮影 2015. 1.20)
   
   
長野川沿いに
   
<長野川沿いへ下る>
 長野集落はまだまだ高地に位置し、集落の中心地を過ぎると、棚田などの間を抜けて、道は更に下って行く。 いつしかセンターラインがある幅の広い2車線路と変わり、大きなS字カーブでダイナミックに高度を下げる。 その先でやっと長野川沿いになる。
   
長野川沿いへと下る (撮影 2015. 1.20)
   
<長野川沿い>
 県道59号が長野川沿いを進むのは僅か1km程だ。最初は右岸沿いを進む。県道標識にはまだ「伊豆市長野」とある。
 
<長野川左岸へ>
 直ぐに長野橋で左岸に渡る。この橋の名は後で出て来る「しろばんばの里」の地図で知ることになった。 この付近の集落名には「東原」と地図にある。竜若丸自刀の地である。 長野橋を渡る頃からは、沿道に人家が絶えることはなくなった。 国道414号に突き当たるまで700m程を残すだけだ。

長野川を渡る (撮影 2015. 1.20)
   

狭い集落内へ (撮影 2015. 1.20)
<しろばんばの里>
 国道接続の200m程前からは、人家の軒先をすり抜けるような狭い道となる。 この近所は井上靖の故郷であり、「しろばんば」の主な舞台となる。 確か母方の実家があったのだと思う。 その狭い集落内に十字路があり、その角に「洪作少年が歩いた道(四辻)」と書かれた看板が立つ。 そこに描かれた地図に「しろばんば」由来の地が示されている。
   
<四辻>
 その「四辻」と呼ばれる十字路で、県道59号と交差するのは旧下田街道である。 国道414号の前身となる道だ。 「しろばんば」でもこの旧道と現在の国道である新道が登場する。 ただ、新道といってもまだ自動車が頻繁に往来する様な道ではない。 洪作少年が走り回っていたのは大正時代(1910年代)で、 この湯ヶ島を起点とする馬車が土埃を上げて大仁(おおひと)まで通じていた程度だ。 それも間もなくバス運行に切り替わるが。
 
 小説「しろばんば」から想像するイメージでは、田畑が広がりその中に人家がポツリポツリと点在するような光景だった。 しかし、現在のしろばんばの里は人家が密集している。 もっと田舎の雰囲気を想像していたが、なかなかの街中だ。 昔はもっと人家が少なかったのだろうか。

四辻 (撮影 2015. 1.20)
峠方向に見る
   

湯ヶ島温泉の案内看板 (撮影 2015. 1.20)
近くのコンビニ横の国道沿いに立つ
地図は下が北
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

しろばんばの里の看板 (撮影 2015. 1.20)
四辻に立つ
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<しろばんば(余談)>
 そんな中、洪作たちは夕方になって現れ出て来る「しろばんば」を追い回す。 2年前に山梨県に引っ越したが、2度目の秋に私もその「しろばんば」を目撃することとなった。 別にお化けを見た訳ではない。
 
 「しろばんば」とは「白髪の老婆」とでもいう意味合いがあるように思えるが、 子供たちが追い駆けるのは小さな白い綿屑の様な浮遊物である。 実際は白い羽を持つ虫らしい。 秋の夕暮れ、健康の為にと近所を40分程散歩するようになった。 すると、時々ふわふわと小さい物が体の回りに飛んでいるのに気付いた。 小さいので1、2mくらいの距離にならないとその存在は目に入らない。 私が気付いても直ぐ隣りを歩く妻は気付かなかったりする。 たまたま目の前を飛んでいるのをじっと観察すると、確かに羽のある虫だった。
 
 子供の頃はまだ畑も田んぼも多い田舎に住んでいたのだが、この「しろばんば」にはお目に掛かったことがない。 逆に現在の住まいは近くに田畑などほとんどない住宅街の一角にあるが、その住宅地の外側は山がちで、標高も320m程ある。 「しろばんば」と呼ばれる虫は、こうした山間地で見られるものだろう。 散歩コースは住宅地の外周を回るので、周囲の山々が見渡せる。 林の直ぐ脇を通ることもあり、そうした条件が「しろばんば」に巡り合わせてくれたのだろう。
 
 散歩の途中、妻にこれは「しろばんば」というのだと話すと、子供のように単純な妻は直ぐに信じ込んでしまった。 最初は半信半疑だった私も、自分で話している内に、本当に「しろばんば」ではないかと思うようになった。 この次の秋も是非見たいものだ。
   
   
国道と接続
   

前方で国道414号に接続 (撮影 2015. 1.20)
<国道414号に接続>
 四辻から100m足らずで国道414号・下田街道に接続する。 信号機がある交差点で、交差点名は「湯ヶ島宿」(ゆがしましゅく)である。 「宿」(しゅく)とはこの付近の集落名のようだ。 信号機は押しボタン式で、県道から出る場合は信号機がなかったように思う。 国道から分かれる県道は、狭くて路地裏のような道に見える。 新道で行われる馬車の発着を見物する為に、旧道沿いにあった家から洪作少年はこの道を駆け下りたのであろう。
 
 この現在の「しろばんばの里」ではまだ「しろばんは」は見られるのだろうか。 国道414号は交通量も多く、天城トンネルを抜けて大型輸送トラックなども頻繁に往来する。 県道が分岐する交差点付近は人家や商店が沿道ギリギリに立っていて、その軒先を大型ダンプなどが通過すると、 歩行も難しい程だ。
   
 しかし一歩入った旧道の四辻付近は、国道の喧騒を離れ、静かな雰囲気である。 井上靖ゆかりの場所も多い。 国道脇に天城会館などがあるので、そこに車を停め、歩いて散策するとよいかもしれない。

湯ヶ島宿の交差点 (撮影 2015. 1.20)
国道を大仁方向に見る
   

国道414号を天城峠方向に見る (撮影 2015. 1.20)

国道より県道59号を見る (撮影 2015. 1.20)
   
   
   
 峠や峠道そのものはあまり面白いとはいえない国士峠かもしれない。 何しろ、10歳に満たない子供たちが歩いて馬飛ばしを見に行く時に越えた小さな峠である。 同じ県道59号でも仁科峠の方がよっぽど面白い。 でも、湯ヶ島温泉では往時の「しろばんばの里」を思い浮かべ、山中では伊豆名産のわさび田を眺め、 峠では戦国の武将たちに思いを馳せれば、味わいのある峠の旅となる。 秋の夕暮れ時に訪れたなら、「しろばんば」に会えるかもしれないと思う、国士峠であった。
   
  
   
<走行日>
(1990年前後に一度越える)
・2007. 3. 5 湯ヶ島 → 筏場 キャミにて
・2015. 1.20 筏場 → 湯ヶ島 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 22 静岡県 昭和57年10月 8日発行 角川書店
・県別マップル道路地図 22 静岡県 2006年 2版20刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<1997〜2014 Copyright 蓑上誠一>
   
峠と旅         峠リスト