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古和峠
 
こわとうげ No.194
 
志摩半島の内陸部からリアス式海岸沿いへと越える峠道
 
(初掲載 2012. 3.23  最終峠走行 2004. 5. 2)
 
  
 
古和峠 (撮影 2004. 5. 2)
手前は三重県大紀町(旧紀勢町)柏野(かしわの)
奥は同県南伊勢町(旧南島町)古和浦(こわうら)
道は県道(主要地方道)33号・南島紀勢線
峠の標高は約400m(国土地理院の1:25,000地形図より読む)
深く細く暗い切り通し
これでも主要地方道
舗装されていなかったら、険しい林道の峠のようだ
これだから三重県の峠道は楽しい
写真の右下に「塞の神」と刻まれた小さな石碑が立ち
殺風景で荒々しい峠に、小さなともし火が灯るようである
 
 
 
 三重県の志摩半島の南岸は、典型的なリアス式海岸で、山が直接海に迫り、海岸線は複雑に入り組んでいる。以前の南勢町(なんせいちょう)から南島町(なんとうちょう)、紀勢町(きせいちょう)に至る熊野灘に面した町々がそうで、背後には山が迫り、ほぼ海岸に沿って東西に町を貫く国道260号が、主幹線路となっている。内陸側からこれらの地域に直接行こうとすると、どの道も必然的に峠越えとなる。
 
 例えば東から剣峠(つるぎ)、鍛冶屋峠、能見坂(のみざか)、藤坂峠(ふじさか)、そして今回の古和峠などがある。どれも県道で、しかも剣、能見、藤坂、古和の峠道はどれも主要地方道である。しかし、剣峠や藤坂峠のページをご覧頂けば分るように、ほとんど林道のままのような道である(近況は不明)。これらの峠に共通する点がある。どちらも峠が深く細い切り通しになっていることだ。そしてこの古和峠もそうである。特に剣峠と良く似た感じがある。深く、細く、そして暗い峠だ。三重苦である。少なくとも峠の切り通しだけ見れば、どこぞの険しい林道の峠と何ら変わりがないのであった。
 
 峠名となっている古和(こわ)については、峠の南の南伊勢町(旧南島町)側に古和浦(こわうら、大字名)、古和川(河川名)があり、北の大紀町(旧紀勢町)側にも古和河内の集落や古和河内川(河川名)などが見られる。
 
 文献によると、「古和」の地名は各地に散見でき、多くは「クエ(崩)」の転訛(てんか)で、崩壊地のことを指すという。峠の大紀町側の道で、斜面が大きく崩れて険しい箇所があったが、「崩壊地」となるとそのことを思い出す。この峠道がその「クエ」の由来とは限らないが、現在の古和峠の道は「崩壊地」の一端をのぞかせている。
 
 古和峠を越えたのは過去に一度きりで、随分昔のことだと思っていたら、8年前(2004年)であった。ずっと昔の峠の様子を知っている訳でなく、さりとてつい最近の状況が分るでもなく、全く中途半端である。ただ、平成の大合併が行われる前で、紀勢町とか南島町の旧町名を記した看板が見られるのが、せめてものことか。
 
 尚、この峠は妻の方が数年先に経験していた。女の一人旅で越えたそうだ。女性がこの道を選ぶこと自体、私以上に変わり者であることは間違いない。
 
 
大紀町から峠を目指す
 
 軽自動車のパジェロミニに乗った二人の変わり者は、旧紀勢町内の国道42号を南の紀伊長島方面に向けて走る。乗っている本人たちは気付かないが、真っ黄色のボディーは周囲から良く目立つ。目指すは同乗者の一人が既に経験済みの古和峠で、以前の愛車であった三菱のミラージュで越えたが、とにかく大変な道だっと豪語する。峠が趣味の相方は、予てよりその古和峠には目を付けていて、これは楽しそうだと期待が高まる。
 
 国道42号は志摩半島の付け根辺りを走る大幹線路で、ここより南の沿岸を通る寂しい国道260号に古和峠で抜ける計画だ。古和峠の道は主要地方道33号で南島紀勢線と呼び、その名の通り、海岸側の南島町と内陸側の紀勢町を結ぶ。その主要地方道は国道42号上の沼ヶ野交差点から分かれていることになっているが、信号機もあるその交差点を二人で見張っていながらあっさり通り過ぎてしまった。寂しい道は得意だが、交通量の多い国道は苦手である。
 
 数100m行き過ぎて、やっと左に入る道を見付けた。大きく「エサ」と書かれた看板がある店の横だ。
 

国道42号を松阪方向に見る (撮影 2004. 5. 2)

国道42号より分岐する古和峠への道 (撮影 2004. 5. 2)
路地のような道を行く
こちらは現在の主要地方道ではないが、
元の県道である
 
 車がビュンビュン走る国道を引き返すのは嫌なので、その集落(栃ヶ久保)内を行く路地のような道を進む。するとそのまま峠道に乗れたようだ。
 
 後日、古いツーリングマップ(関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社)を見ると、その道こそが古和峠を越える元の県道であった。絶えず古和河内川の左岸を進む。一方、現在の主要地方道は、広い道を確保する為か、北の注連小路(しめこうじ)川の右岸の方から遥々やって来て、途中で古和河内川左岸の道に接続する。その2つのルートを比較すると、「エサ」の店の脇から入る道の方が、道幅は狭いがやっぱり素直である。図らずしも旧道の峠道を選んだ訳であった。
 
 道路脇に立つ「南島町」と書かれた看板を見て、古和峠を越える道であることを確信する(右の写真)。カーブミラーもあり、多分ここが主要地方道が合流する地点である。

主要地方道との合流地点 (撮影 2004. 5. 2)
右脇の看板には「南島町」とある
 

前方に古和河内の集落を見る (撮影 2004. 5. 2)
この道が主要地方道とは
 集落を抜けるとその先で水田が広がり、その中をガードレールや橋の欄干もない、畦道に毛が生えたような道が進む。これが三重県の主要地方道である。早くも面目躍如といった感じだ。
 
 生憎の雨模様に、この先にある古和河内の集落が霧に霞んでボンヤリ見える。峠越えにはやっぱり青空が良いが、こんな雨の日もまたそれなりの旅の味わいが感じられる。
 
 
分岐
 
 古和河内の小さな集落を過ぎると、左手の古和河内川が徐々に近付いてきて、そこを右手の山の中へと進む道が分岐している。「南島町」の看板の矢印が、その道の方向を示している。「この先(古和峠) 道路幅員狭少のため 大型車通行不能 三重県」と書かれた大きな看板も立つ。これらの看板がなければ、思わずそのまま直進し、気にも留めそうにない分岐である。
 
 古和峠は、結果的には古和河内川の上流域(支流の一つ)に位置するが、峠道は早々と川沿いを離れ、山腹を上りだすのだ。ここより古和河内川の上流方向には、尚も胡桃(くるみ)と呼ばれる集落があるようだが、そちらへの道(直進方向)は、行く行くは行止りとなるらしい。

峠はここを右に入る (撮影 2004. 5. 2)
直進は古和河内川の左岸をそのまま行く
 

分岐から峠方向を見る (撮影 2004. 5. 2)
道が林の中に消えている

大型車通行不能の看板 (撮影 2004. 5. 2)
同じ物がこの後幾度か登場する
 

林の中に入る (撮影 2004. 5. 2)
思わずヘッドライトを点灯
 大型車通行不能と豪語してはばからない主要地方道の方をのぞくと、狭い道が暗い林の中へと消えて行く。これは説得力がある。これまで幾度となく「通行不能」の文句に惹かれ、いろいろな峠道を旅してきたが、この古和峠も噂通りに期待できそうな予感である。
 
 
 
 分岐を右に曲がって峠を目指す。直ぐに林の中に入る。いくら本日の雲行きが悪いといっても、夕暮れ時のような暗さだ。思わずヘッドライトを点灯する。路面は舗装されているのだが、そこには枯葉が積り、車の轍が二筋延びる。まるで未舗装路である。先が思いやられ・・・、いや、期待される。
 
 
山腹を登る
 
 暗い林は直ぐに途切れ、抜けた先はもう深い谷の中だ。白い霧が谷間に漂う。ほんの10分前には、のどかな川沿いの田園風景の中に身を置いていたのに、今は方向感覚も定まらぬ山中に居る。麓の古和河内川の本流は、もうどこにも見えない。
 
 道は複雑な山ひだを縫って進む。一つの谷を詰めると、また尾根の先端へと戻り、そしてまた次の谷の奥深くへ回り込む。

一つの谷を詰める (撮影 2004. 5. 2)
 

谷の下流方向を望む (撮影 2004. 5. 2)
 谷の奥では濃い霧が満ち、遠くを眺めると目の高さに白い霧がたなびいている。白黒の水墨画のような世界が広がる。その中を細々と続くこの細い道だけが頼りである。
 
 
崩壊地を行く
 
 進むに連れ、谷は急峻になって行く。土が露出し、明らかに土砂崩れの跡らしき箇所が現れる。元あった木々が根こそぎなぎ倒され、その部分だけ茶色の山肌があらわになっている。そんな箇所を処々に目にするようになる。

崩れた跡 (撮影 2004. 5. 2)
 

路肩は切れ落ちている (撮影 2004. 5. 2)
 車の直ぐ横のガードレールの向こうは、一気に谷底へと切れ落ちている(左の写真)。如何にも脆そうな崖である。ガードレールで守られていなければ、落ち着いて走っていられない。そのガードレールも、落石の為か、ガタガタに曲がっている。
 
 また一つの谷を詰めた所で一際大きな崩落箇所に達した(下の写真)。しかも、まだ復旧工事の途中なのか、ガードレールの新設が全く行われていない。崖崩れの際にほとんどのガードレールが落ちてしまったようだ。そこを通過するのは、少しためらわれる程である。ただ、アスファルトの路面上はきれいに片付けられ、小石が散らばっている程度であった。
 
 「古和」の語源に崩れを意味する「クエ」があるそうだが、正しくその崩壊地を目の当たりにする思いである。これが林道の峠道なら、こんなこともままあろうかと、特段に驚きはしない。しかし、主要地方道がこの有様となれば、少し考えずには居られない。カーナビは装備したことがないが、平気でこの道を案内するのだろうか。
 

大きな崩落箇所 (撮影 2004. 5. 2)
ガードレールがほとんどない

大きな崩落箇所 (撮影 2004. 5. 2)
左の写真の続き
 
 一つのカーブを曲がると、その先で路上を動く物がある。よく見ると、名前は分らないが尾の長い茶色い鳥が、車に驚いて路上を走って逃げて行く。しかし、なかなか飛び立とうとはしない。大規模な崩落箇所があったり、野生動物が出てきたりと、全く面白い主要地方道である。
 
 道は谷の出入りを繰り返しながらも、徐々に南の稜線方向深くへと入り込んで行く。古和河内川の大きな支流の一つが、古和峠から北へ流れ下っている。道はその谷間へと差し掛かる。

路上に鳥 (撮影 2004. 5. 2)
 
 
 
古和峠 (撮影 2004. 5. 2)
手前は大紀町、奥は南伊勢町
 
 左手にそれまでにない大きな谷を望みつつ、その谷の源頭部へと登り詰める。そして右カーブを一つ曲がるとそこが峠だ。両側から草木が路面上空を覆うように茂り、暗く細い切り通しになっている。両側に切り立つ法面は、切り通しを開削した時の岩盤がそのまま露出しているようである。素掘りのトンネルを見るような荒々しさがある。
 
 それにしても細長い。車一台を通せるだけの最低限の土木工事で、峠を切開いたようなものである。「大型車通行不能」の看板は伊達ではないのであった。
 

峠より大紀町方向を見る (撮影 2004. 5. 2)
町名を記した看板には、まだ「紀勢町」とある
 峠の切り通しの手前には、以前は「紀勢町」(きせいちょう)と書かれた看板が立っていた(左の写真)。今頃は「大紀町」(たいきちょう)となっているのだろう。地図を見ると、現在の大紀町とは、以前の大内山村、大宮町、紀勢町の範囲のようだ。大内山村と大宮町の「大」の字と、紀勢町の「紀」の字を取って、「大紀」としたのだろうか。
 
 こうして合併後も以前の町村名の名残を僅かに留めているが、一字づつ取っただけでは、もう何が何だか分らない。徐々に紀勢町の名は忘れられていく運命か。しかし、紀勢町の名前自身も、実は合成らしいのだ。紀伊錦の「紀」と、伊勢柏崎の「勢」の字をくっ付けたとのこと。紀勢町は南北に細長い町で、南の錦地区と北の柏崎地区から成っていた。以前はそれぞれの地区が別々の町村だったようである。
 
 尚、「錦」と言えば錦峠を思い出す。旧紀勢町の錦地区と柏崎地区を結ぶ峠である。仮称棚橋峠(たなはし)のページで触れている。棚橋峠とは、この古和峠と同様、旧紀勢町と旧南島町の境にあり、国道260号の棚橋隧道が通じている峠だ。古和峠の稜線をもっと南に下った所にある。現在は新道の紀勢南島トンネルが通じている。
 
 峠の切り通しの手前には、右手の稜線上へ登る道が分岐する。入口に「NTT大河内無線中継所」の看板が立つ(下の写真)。関係者以外通行禁止とのこと。稜線上に登ることができたら、景色が良いことだろう。
 
 また、左の稜線沿いに荒れた未舗装路が延びている。ガードレールは続いているようだが、路面は草が生えていて、あまり入り込みたくない道である。道路地図や地形図にもその道の記載は見られない。

峠の大紀町側 (撮影 2004. 5. 2)
この先、右にカーブして峠の切り通し
車の左脇から林道が始まっている
また右手のガードレールはNTT無線中継所へ登る道
 

NTTの無線中継所の看板 (撮影 2004. 5. 2)
 峠の旧紀勢町側からは、深い谷の景色が望める(下の写真)。古和峠のある稜線の鞍部から北西方向に形成された谷間が広がる。古和河内川の支流の谷である。
 
古和峠から大紀町側の眺め (撮影 2004. 5. 2)
4枚のパノラマ写真
右手のガードレールは謎の林道
 
古和峠から大紀町側の眺め (撮影 2004. 5. 2)
幾重にも尾根が重なり、山深さを感じる谷間
上の写真とは少し別の角度に見る
 
 
峠の南伊勢町側
 
 峠の切り通しを南伊勢町側に抜けると、正面に町名が書かれた看板が立っていた。以前は「南島町」(なんとうちょう)とあった(右の写真)。現在は南伊勢町(みなみいせちょう)に変わっていることだろう。南伊勢町は、以前の南島町と南勢町(なんせいちょう)を合わせた町のようだ。
 
 確か南勢町とは、伊勢の南に位置することから、そのような名前になったとの覚えがある。新しくできた南伊勢町の町名は、由来そのものという訳だ。それにしても新旧取り混ぜて、南勢、南島、紀勢、大紀、南伊勢と、この付近の町は似通った名前が多く、訳が分らなくなってくる。
 
 峠から南伊勢町側に下る道は、町名看板の前を右に折れ、林の中へと降りて行く。

峠の南伊勢町側 (撮影 2004. 5. 2)
「南島町」とある
 

峠の南伊勢町側から東へ分かれる道 (撮影 2004. 5. 2)
 麓に下る峠道とは反対方向の東へ、道が一本分岐する(左の写真)。直ぐ先にゲートがあり通行止だ。ゲートから向こうに道が続いているのかは確かめていない。少なくとも地図上に道の記載はない。
 
 古和峠から東に続く峰上には、大紀町の古和河内川の上流域から南伊勢町の古和川上流域へと、古和峠とはまた別ルートで峠道があるようだ。また南伊勢町の村山川方向へ下る道に「桧尾越」という峠名が見られる。これらは車道ではないらしい。更にその東には、大紀南島林道という車道がトンネルで峰を越えているようだ。
 
 南島町と南勢町を合わせた南伊勢町は、東西に細長く、前(南側)は複雑な海岸線で熊野灘に面し、後(北側)はその背梁を成す山々が近くに迫っている。深い湾を形成するリアス式海岸では、海上交通もそれ程容易ではなかったのではなかろうか。そこで峠越えの陸路も重要な交通手段であったのだろう。
 
 古和峠の直ぐ西にある大河内山(546m)から、背梁の尾根は南へと方向を転じ、その途中、大紀町との境界上に棚橋隧道、紀勢南島トンネルがあり、行く行くは太平洋へと通じる。一方、古和峠から東方へ延びる峰は、ずっと先の錦峠辺りまで、その途中に多くの峠が存在するようだ。どれも主に、湾の奥に開かれた港町と背後の山を越えて内陸とを繋ぐ、生活路として開削されてきたのではないだろうか。
 
 峠の南伊勢町側から峠の切り通しを眺めると、切り通しの入口近く、右側の路傍に、小さな石柱が立つ。「塞の神」と刻まれている。塞の神は「さえのかみ」と読み、峠などの境界に祀られる神とのこと。通行人を災難から守り、悪霊が境界を越えて村に入って来るのを遮るご利益があるらしい。古和峠にある石碑は比較的新しい物のようだが、今もこうして古くからの信仰が受け継がれていることが分る。峠の目立たない所に祀られた小さな塞の神であるが、旅の安全を祈願し、手を合わせたくなる思いである。

塞の神の石柱 (撮影 2004. 5. 2)
 
 
南伊勢町へ下る
 

南伊勢町に下る途中の景色 (撮影 2004. 5. 2)
稜線方向を振り返る
 古和峠の南伊勢町側は、道路沿いに木々が多く視界が広がらない。暫く林の中の狭い道を下ると、稜線方向に視界がある(左の写真)。標高400mを少し超える峰が連なる。稜線はゴツゴツしていてなかなか険しそうである。その峰の僅かな鞍部を越えて峠道が幾筋か築かれているのであろう。古和峠の切り通しが険しいことが納得させられる。
 
 道は、大河内山の南東の山腹に源を発する古和川の源頭部を大きく巻いて、古和川の谷の右岸へと下る。林を抜けると、左手に古和川の谷を望む(下の写真)。
 
古和川の谷を望む (撮影 2004. 5. 2)
 
 沿道からはほとんど視界が広がることなく、道は古和川の谷へと降り立つ。それまで小さな屈曲を繰り返していた下り坂は、川に近い平坦地を行く道と変わる(右の写真)。沿道には田畑が現れ、落ち着いた雰囲気である。道は相変らず狭く、主要地方道とは到底思えないが、こののどかな景観の中を一筋通じる道は、とても親しみ深い感じがする。

古和川近くの安定した道となる (撮影 2004. 5. 2)
 

大型車通行不能の看板 (撮影 2004. 5. 2)
峠方向に見る
 大きな看板を過ぎたので、振り返って見ると、大紀町側の分岐にあった物と同じ内容であった。「大型車通行不能」とある。その看板の向こうには、軽トラックが一台停まるが、放置車両のようであった。周囲ののどかな景観にあまりそぐわない。
 
 古和川に沿った道になると間もなく、左手方向に川を渡って分岐があった(右の写真)。林道看板が立ち、「林道 樫谷線」とある。地図上では、古和川の左岸に沿って遡り、途中で車道は途切れているようだ。その先は、古和峠の東を越える峠道へと続いている。こちらの古和川から向こうの古和河内川に越える、最短のルートとなるようだ。それに比べ古和峠は、車道の峠道として大きく迂回して開削された格好だ。
 
 ところで、道路地図上では確かに主要地方道になっているこの峠道に、それを示す道路看板が全く見当たらない。どこかにあの六角形をした青地に白文字の県道看板が出てこないかと、ずっと注意していたのだが、一つも見掛けなかったと思う。道があまり悪いので、主要地方道から格下げされたのかとも疑う始末だった。
 
 看板の代わりに、よくガードレールの端にシールで県道番号などが記されていることがある。剣峠などもそうだった。改めて写真を調べ直してみると、樫谷林道が分岐する所のガードレールに、それらしきマークが確認できる。写真からは判読できないが、「南島紀勢線」と書かれていたのではないだろうか。県道番号33が記された物もあったかもしれない。今では南島町も紀勢町もなくなってしまったので、せめて道の名前として残されるのは良いことだと思う。

左手に林道分岐 (撮影 2004. 5. 2)
左のガードレールの端にシールが貼ってある
 
 
国道260号に出る
 

国道260号に突き当たる (撮影 2004. 5. 2)
 樫谷林道の分岐を過ぎると、周辺に人家がポツポツ現れて、町中が近いことを感じさせる。大河内集落に入って来たのだと思われる。暫く川沿いを行き、道がそのまま左岸へと渡ると、その先で国道260号に行き着いた。
 
 この地は古和浦(こわうら)と呼ぶ。前を行く国道の標識にも「古和浦」と地名が記されている。広くは旧南島町の大字で、古和峠から南の広い地域を指す。また、古和浦湾の奥に形成された集落の名でもあるようだ。古和川が古和浦湾に注ぐ右岸に広がる。そこが古和浦の中心街だ。県道終点からは古和浦市街まで数100mの距離となる。
 
 国道から県道(主要地方道)33号方向を見ると、入って直ぐ左に、例の「大型車通行不能」の看板が立つ。その向こうには古和峠がある峰が直ぐそこまで迫ってきている。
 
 出た国道を左に行けば、旧南勢町方面へと続くが、その先もなかなか伊勢市の方には出られない。また国道を右に行けば、昔は棚橋隧道が唯一の道で、その細いトンネルを抜けて旧紀勢町へと辛うじて繋がっていた。棚橋隧道の狭さといったら、古和峠の切り通しより狭いのではないかと思われるほどだ。それから考えても、この古和浦の地は、隔絶された観がある。やっと最近になって紀勢南島トンネルが開通し、棚橋隧道の代わりの新しい国道が通じるようになった。

国道を背に峠方向を見る (撮影 2004. 5. 2)
道の左手に例の「大型車通行不能」の看板が立つ
 

国道を旧南勢町方向に見る (撮影 2004. 5. 2)

国道を大紀町方向に見る (撮影 2004. 5. 2)
古和川を渡る
 
 国道260号は、最も海に近い所に通じる道だが、入り組んだ海岸線の為、あまり海を望むことがない。走っていても眺めは広がらず面白くない。そこで国道を外れ、古和浦の市街を抜けて海岸線沿いの道を行くと、ニラハマ展望台なるものがある。正面に古和浦の湾を見渡し、なかなか眺めが良い(下の写真)。古和峠を越えてここまで来れば、はるばる山を越えてやっと海に出たのだと実感する。
 

古和浦湾を望む (撮影 2001. 5. 4)
ニラハマ展望台より

古和浦湾を望む (撮影 2001. 5. 4)
左の写真の続き
 
  
 
 古和峠は余程の機会がなければ、もう二度と越えることがないような気がする。それで最近の様子が分らないまま、ここに掲載することとしたのだった。全長14Kmの小さな峠道は、この近辺に似たような峠が幾つもあり、古和峠ばかりに固執してはいられないのだ。峠前後の町名は変わったが、あの深く細く暗い切り通しは、今も健在なのだろうかと思う古和峠であった。
 
  
 
<走行日>
・2004. 5. 2 旧紀勢町→旧南島町 (パジェロミニにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 24 三重県 昭和58年 6月 8日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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