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黒河峠・黒河越(え)
  くろことうげ・くろこごえ  (峠と旅 No.245)
  今も険しい未舗装林道で中央分水界を越える峠道
  (掲載 2015.12. 2  最終峠走行 2015.11.12)
   
   
   
黒河越 (撮影 2015.11.12)
切通しの手前は滋賀県高島市(旧高島郡マキノ町)マキノ町白谷(まきのちょうしらたに)
奥は福井県敦賀市(つるがし)山(やま)
道は黒河林道(敦賀市側)・マキノ林道(高島市側)
峠の標高は約570m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠の標高はそれ程でもないが、
ここは福井・滋賀の県境であり、
日本列島を太平洋側と日本海側に分かつ中央分水界でもある・・・
そんなことより何より、とにかく道が険しい
これまで13年間乗って来たパジェロ・ミニだが、こんなに傾いたのは初めてだ
   
   
   
<乗り換え(余談)>
 近々車を乗り換える予定で、それに伴いパジェロ・ミニは廃車となる。 新車納入までまだ少し猶予があるので、パジェロ・ミニにもう一働きしてもらおうという魂胆だ。 次の車はスズキのハスラーで、未舗装路などの走破性能はやはりパジェロ・ミニに劣るだろう。今後はあまり険しい峠道を走れない。 それなら、最後になるべく険しい峠道をパジェロ・ミニに経験させてあげようと考えた。その手始めが今回の黒河越となった。
 
<掲載の動機>
 この峠は既に掲載済みだと思っていた。 かつて近くに位置する粟柄河内谷林道の峠(仮称粟柄峠)と同時期に越えていたので、 掲載もほぼ一緒に済んでいたと勘違いしていた。ところが、旅から戻って調べてみても、峠リストに見当たらない。 これ程の険しい峠、早速掲載することとしたのだった。
   
<峠名>
 実は、これまでこの峠の名を全く忘れていた。現地に立つ看板などには書いてあるのだが、ツーリングマップルや地形図には峠名の記載がない。 粟柄河内谷林道の峠も地図には名前がなく、そもそも名無しの峠の可能性がある。それで、これらの峠の名前については、あまり気にしたことがなかったのだ。
 
 今回、改めて看板を撮った写真を見てみると、「黒河越(え)」または「黒河峠」の2種類があった。どちらかというと「黒河越」の方がやや多かったようだ。 粟柄河内谷林道の峠とは別物だが、近くに古くからある粟柄越という峠がツーリングマップルや地形図に記されていて、こちらも「越」である。 それで、今後は便宜上「黒河越」と記すが特別な意図なはく、「黒河峠」と同じ意味の積りだ。
   
<峠名の由来>
 「黒河」は「くろこ」と読む。峠の北側の福井県敦賀市に黒河川(くろこがわ)が流れ下り、この「黒河」という河川名が峠名の大元と想像される。 現在の峠には黒河林道が通じるが、その林道開通以前に黒河越と呼ばれる峠が存在したかどうかは不明だ。 しかし、車道開通に伴い新しく名付けられた峠名のように思われる。
 
<黒河川の由来>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、黒河川は「荒れ川で竜伝説があり、川を染めた竜の血の色が川の名の由来と伝える」とのこと。 竜の血は黒かったのであろうか。この河川名の「黒河」が後の世の林道やその峠の名となった。黒河山と呼ばれる山もあるようだ。
 
 ただ、「黒河」は全て福井県側に因む名である。 峠の南の滋賀県側からすると、「黒河越」とは福井県側の「黒河」へ越える峠道という意味合いが含めらるように思う。
   
<雨谷越>
 尚、文献の「黒河川」の項に「雨谷越」(あまだにごえ)という気になる記述を見付けた。「古く雨谷越の間道がこの谷を近江へ通じていた」とある。 雨谷(あまだに)とは黒河川上流部に位置する集落名で、今でも一般の道路地図に見られる。 かつて、この雨谷集落を経て滋賀県(近江)へと越える峠道があったことは確かなようだ。 現在の黒河越は未舗装林道が越える荒々しい車道だが、古くに人が歩いて越えた道の存在は、この峠道に歴史の深みを与えてくれる。 「雨谷越」はその重要なキーワードとなる。
  
<所在>
 琵琶湖の北西に野坂(のざか)山地がほぼ東西に走る。その稜線は福井と滋賀の県境を成す。この山地を越えて幾つかの峠道が通じ、黒河越もその一つだ。 峠の北側は福井県敦賀市、南は滋賀県高島市だが古くは高島郡マキノ町であった。郡名が市名になったようだ。私にはマキノ町の方が馴染深い。 以前はカタカナの町名は珍しかった。
  
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
<中央分水嶺>
 野坂山地は単に県境を成すだけではなく、中央分水嶺(大分水嶺)でもある。琵琶湖のある付近は伊勢湾と若狭湾に挟まれ、本州が細くくびれている。 しかも中央に琵琶湖が大きく占めているので、中央分水界は随分と日本海側に偏って通じる。野坂山地は、近い所では日本海沿いから僅かに10kmちょっとに位置する。 黒河越の峠道は敦賀湾に面した敦賀市街から始まるので、峠越えはほぼ日本海沿岸から中央分水嶺へと直登することになるのだ。なかなか面白い峠である。
   
   
   
敦賀市街より峠へ
   

粟野の交差点 (撮影 2015.11.12)
県道225号を西に見る
左に県道211号が始まる
<粟野>
 旅の都合で福井県敦賀市の中心部より県道225号で西へと向かった。途中、笙の川(笙ノ川、しょうのかわ)を渡る。 黒河川の本流で日本海の敦賀湾に注いでいる。よって黒河川は笙の川水系である。
 
 敦賀市の南西の外れに「粟野」という交差点があり、ここより左(南)に県道211号が始まっている。 黒河川は別名「粟野川」とも呼ばれるそうで、粟野という交差点名は峠道と関連深い。 粟野交差点から県道211号を行くと、その先が黒河林道となり、峠を越えるのだ。
   
<助高川>
 県道225号から211号へと続く道は、助高(すけたか)川というやはり笙の川の支流沿いに遡っていた。 この付近は黒河川の広い扇状地で、洪水により河道が幾度か変わっているとのこと。助高川は黒河川の旧河道の一つと考えられるそうだ。 概ね、黒河川沿いに遡っていると見てよい。
   
県道211号を行く (撮影 2015.11.12)
如何にも扇状地という景観
   
<県道211号>
 県道211号は南に向けて快適な2車線路を延ばす。早くも前方に野坂山地を望む。 ちょっと残念なのは、太陽も正面にあり、写真を撮るには逆光になってしまうことだ。ドラレコ(ドライブレコーダー)の画像にも不適である。 パジェロ・ミニの記念としても、写真も動画も一杯撮りたいところなのだが。
 
 県道標識には「山櫛林線」とある。「山櫛林」はどこで区切るのか迷ってしまいそうだ。山(やま)と櫛林(くしばやし)に分けるのが正しい。 櫛林が市街地側、山が山側である。現在地は砂流(すながれ)とあった(下の写真)。
   

左手に県道標識 (撮影 2015.11.12)
現在地は砂流

県道標識 (撮影 2015.11.12)
   
<野坂岳>
 右手前方に一山を望む。野坂岳(913m)のようだ。敦賀市街の観光案内所かどこかで登山案内のパンフレットを頂戴した。 市民にとっては親しみ易い山であろうか。野坂山地の名は多分この山名から来ていると思われる。野坂山地の中で最高峰となるらしい。 ただ、この山は滋賀県との県境、更には中央分水界となる稜線上にはない。 中央分水界上に位置する三国山(876m)から北に延びる稜線上7km程の距離にあり、敦賀市街には近い存在だ。
   
野坂岳を望む (撮影 2015.11.12)
   
<小浜線など>
 県道211号は更に黒河川の扇状地の中央を遡って行く。もう、敦賀市街から遠く離れ、閑散とした雰囲気だ。 ここに来て単線の小浜線の踏切を越え、更にその先で舞鶴若狭自動車道の高架をくぐる。もう扇状地と山腹との境に近い。 これだけ広い平坦地があるのに、どうして鉄路も自動車道も扇状地の奥の方を迂回するのかと不思議に思う。 想像だが、黒河川の水害を避け、なるべく土地の高い所を選んだのではないだろうか。この付近では水害の記録が多く残る。

舞鶴若狭自動車道をくぐる (撮影 2015.11.12)
   
<エネルギー研究センター(余談)>
 粟野の交差点で、唯一県道211号方向に案内があったのは「福井県若狭湾エネルギー研究センター」であった。 県道途中にも看板が出ていた。その研究センターへは舞鶴若狭自動車道をくぐった先の交差点を右折する。どんな施設かは全く知らない。
   

エネルギー研究センターへはここを右折 (撮影 2015.11.12)

エネルギー研究センターの看板 (撮影 2015.11.12)
  
<山>
 県道標識の地名が「敦賀市 山」となった。 広くは小浜線を越える辺りから上流の雨谷集落付近までが大字の山となるが、狭くは黒河川沿いに位置する一集落となるようだ。
   

山集落に入る (撮影 2015.11.12)

県道標識 (撮影 2015.11.12)
     

ふれあい会館に立っていた看板 (撮影 2015.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<黒河農村ふれあい会館>
 そろそろ山集落かと思われる頃、右手に「敦賀市黒河農村ふれあいセンター」なる施設が立ていた。 その駐車場の一角、道路に向かって山地区の案内看板が立っていて、参考になった。黒河川に架かる河川名なども記されている。 尚、看板の副題に「マナの里 黒河」とあるが、黒河マナとは黒河地区でのみ栽培される伝統野菜とのこと。
   
   
   
黒河林道起点
   
<山集落の中心>
 県道の沿線に山集落の人家が建て混み、それまで2車線路の幅を維持してきた道が急に狭くなる。いよいよ黒河川の谷間に入って行くようだ。 ふれあい会館にあった看板によると「いなりばし」という橋が左手に架かっているが、その先の道が更に狭い。 橋の袂には商店らしい建物も見られ、ここが山集落の中心地かと思われた。
 
<林道標柱>
 すると動体視力の良い妻が、橋の欄干の脇にひっそりと林道標柱があるのを発見した。私だけなら完全に見落としていただろう。 妻は女性ながら林道を走り慣れていて、こうした林道標柱や林道看板は見慣れている。
 
 木製の標柱は朽ち掛け、文字はかすれている。ほぼ次のように書かれていたようだ。
 黒河林道 自動車道
 幅員 三・六 四・〇 米
 延長 九九?  米
   

林道起点 (撮影 2015.11.12)
この付近が山集落の中心地

林道標柱 (撮影 2015.11.12)
この木柱にはなかなか気付かない
   
<林道起点>
 林道標柱が立つので、この「いなりばし」袂が黒河林道の起点である。ここより峠まで10km弱であり、その全線が黒河林道となるようだ。
 
 尚、古いツーリングマップには「白谷黒川林道」などと書かれていた。「白谷」(しらたに)とは峠を高島市側に越えた所にある地名である。 よって敦賀市側の黒川(黒河?)から高島市(旧マキノ町)白谷に至る林道の全線をそのように呼んだのかもしれない。
 
<県道終点>
 ここより林道が始まるので、ここまでの県道211号にとってはここが終点となる。粟野交差点より約3.5kmととても短い県道であった。
   
<黒河林道へ>
 黒河林道は暫く黒河川の左岸にぴったり寄り添って行く。ここに来て初めて黒河川を間近に見る。 川床の傾斜は大きく、コンクリートの段差が幾段にも設けられていた。 この川を激流が下り、下流の扇状地に洪水の被害を幾度となくもたらしたという歴史がある。
 
 黒河川の谷は更に狭まって行くが、左岸側の高みにはまだ暫く人家が点在していた。


黒河川沿いを行く (撮影 2015.11.12)
   

みやのもりばし (撮影 2015.11.12)
<みやのもりばし>
 間もなく赤い欄干の橋の袂を過ぎる。ふれあい会館にあった看板によると、その橋は「みやのもりばし」となる。
 
<農村公園(余談)>
 渡った先には農村公園があるらしいのだが、案内看板などは全く見掛けなかった。他にもいろいろな施設があるようなのだが、賑わっている気配はない。 なかなかこの付近までやって来る者は少ないのだろう。ましてや黒河越を楽しみに訪れる者など滅多に居ないだろうし・・・。 農村公園には公衆トイレもあるようで、看板があれば休憩に少し立ち寄ることもあるかもしれない。 旅の途中でこうした素朴な園地で一時を過ごすのは、私たち夫婦は好きである。
   
<雨谷集落>
 みやのもりばし以降、対岸(右岸)沿いには車道は通じていないようだ。勿論人家は見られない。 黒河林道沿いにも人家がまばらになり、少し途切れた先でまた集落が出て来た。雨谷(あまだに)集落のようだ。黒河川が僅かに山間部に入った地である。 川に並走する林道沿いというよりは、林道より一本西に通じる道沿いに数軒の人家が並ぶ。やはり黒河川の氾濫を避け、高台に人家を構えたものか。 この付近、やや谷が広がっていて、周辺には田畑が耕作されていた。

右手に雨谷の集落 (撮影 2015.11.12)
かつての雨谷越の道は、その人家の中に通じていたのだろう
   
<尼谷村>
 この敦賀市大字山(やま)の中の一寒村に過ぎない雨谷ではあるが、文献にはしっかり登場する。
 江戸期、越前国敦賀郡に「尼谷村」(あまだに)と呼ばれる村が存在した。「黒河川中流左岸、平野部に流入する直前の谷あいに位置する」とある。 「尼谷」は「雨谷」とも書いた。すなわち江戸期の「尼谷村」とは現在の雨谷集落の前身と思われる。江戸後期には山村の一部となったようだ。 現在、大字山の一部になっていることと繋がる。
 
 文献はまた、「当村から黒河川の谷を登り、三国山の峠を越えて八王子川の谷から近江高島郡白谷へ出る道があり、 雨谷越と呼ばれた」と記す。 現在、黒河川沿いに幹線路としての黒河林道が通っているが、かつての雨谷越はこの川筋から少し離れた雨谷の人家の間に通じていたのではないだろうか。
 
<雨谷越>
 雨谷越について詳しくは、三国山東方の標高約570mの峠を越えていたようだ。正に現在の黒河越に一致する。 滋賀県側からは白谷(しらたに)越とも呼ばれたと文献にあるが、これは逆ではないだろうか。 福井県側から見て、峠の向こうの滋賀県の白谷へと越える道として、白谷越と呼ぶのではないかと思う。
 
 古くは帝(みかど)の住む京の地が国の中心的存在である。京から見て遠国の越前国雨谷へと通じる道を雨谷越と呼んだものと想像する。 福井県美浜町と滋賀県旧マキノ町との境にある粟柄越(粟柄峠)についても、かつて福井県側の峠直下にあった粟柄集落(大正期に廃村)が峠名の元になっている。 峠や峠道の名は、峠を越えた先の地名で呼ぶことが多いのではないかと思う。どちらにしろ、雨谷越も白谷越も、峠直下の集落名に由来しているようだ。
   
<雨谷より上流部>
 雨谷より上流部の黒河川は急流を成す渓谷であった為、古くから人が住むことはなかったようだ。今も昔も、雨谷が越前(福井県)側最終の集落なのだろう。 雨谷は黒河川の谷間の中と言えども、谷を抜けた平地に程近いので、現在もまだ人の住む集落として維持されている様子だ。 ここを過ぎると、この先近江の白谷まで、人気のない険しい峠道が延々と続く。
 
 ただ、現在の人家の数からすると、かつて雨谷が一村を成したとするにはやや規模が小さいように思える。 また、文献では「雨谷が廃村になって、今は全く無住の山地である」などとの記述も見られる。 誤記かもしれないが、現在人家が立つ場所よりもう少し上流まで、雨谷村が広がっていた可能性は残る。
   

雨谷集落の先 (撮影 2015.11.12)
工事看板が立つ
<工事看板>
 雨谷最終の人家の前を過ぎると、やや緊張してくる。雨谷までは当然ながら車の通行が可能だが、ここから先は全く保証がない。 案の定、工事看板などが出て来た。
 黒河山治山外工事
 こわれた林道 山を直しています
 林道状況 規制有
 大型ダンプ通行中
 
 などと看板にある。黒河山という山があるようだが、地形図には見られない。
   
   
   
雨谷以降
   
<工事箇所>
 道は如何にも林道らしい様相となる。暫くはアスファルトの舗装路が続くが、路面状況は悪い。谷は狭まり、道の左右を林が囲むことも多くなった。
 
 その後も、工事看板や林道の通行注意を促す看板などがポツポツ出て来る。いつしか路面は未舗装となり、遂に嫌な物がちらりと目に入った。 路傍に古ぼけた通行止の標識が立っていたようだ。
 
 どうしたものかと思っていると、その直ぐ先で工事箇所に差し掛かった。 作業員が一人、地面にしゃがんで休憩していたので、話を聞こうと近付いてみる。

最初の工事現場 (撮影 2015.11.12)
作業員のおじさんがしゃがんでいる
ひょうきんそうな方だった
   
 「滋賀県へ越えられますか」という問いに、こっちの道なら通れるんじゃないかな、と黒河林道の続きを指差した。その手前右に、別の支線林道が分岐している。そっちは通れないよと言う。私達は通行してもいいかという意味で尋ねたのだったが・・・。
 
 その時、前方から大きな重機が道幅一杯にやって来た。慌てて支線林道へと退避する。 重機が去ると、さっきの作業員のおじさんが近付いて来て、こっちの道は通れないよとまた注意してくれた。 それではありがとうございましたと、重機が走り去った黒河林道の続きに入り込むのであった。
   

重機が正面から襲ってきた (撮影 2015.11.12)

支線林道との分岐に立つ保安林の看板 (撮影 2015.11.12)
反対側には「ニッセイ敦賀の森」の看板
   

保安林の看板 (撮影 2015.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<アシ谷支線>
 その工事現場には「ニッセイ敦賀の森 約2.4km先を左折」と、付近には似つかわしくないきれいな看板が立っていた。 こんな険しい林道の先に一体何があるのだろうかと思わされた。
 
 また、支線林道が分岐する角には、水源かん養保安林の看板が立っていた。保安林の看板は、そこに書かれている地図がとても役に立つ。 それによると、その支線林道はアシ谷支線と呼んだ。上流で芦谷支線と合流している。尚、2.4km程先の左には、クチナシ谷支線が分岐する。 そちらに「ニッセイ敦賀の森」があるのだろう。
   
<黒河川右岸へ>
 アシ谷支線の分岐の先は、直ぐに黒河川を渡る。欄干のない無防備は橋だ。ここで初めて右岸に出ることになる。 さっきの保安林の看板に並んで工事看板が「100M先」とあったので、また重機や工事車両に出くわさないようにと先を急ぐ。 道は狭く、丁度うまい具合に退避がなければ、離合に手間取ることになる。

黒河川を渡る (撮影 2015.11.12)
   

右岸沿いの道 (撮影 2015.11.12)
<道の様子>
 暫くは何事もなく進む。道は未舗装だが、路面は安定している。傍らを流れる黒河川も、この付近はまだ川幅が十分あり、穏やかな様子だ。
 
 工事の作業小屋(営林署の事務所?)や小規模な砂防ダムの工事個所らしき場所を過ぎる。 多分、少し前までは路上でさっきの大型重機が作業していたのであろう。今はトラックや重機が路肩に避けてあり、作業員の姿も見えない。 道路上はクリアである。運が良かった。
   
砂防ダムの工事個所 (撮影 2015.11.12)
路面に重機のキャタピラの痕
   
   
   
工事箇所以降
   
<落ち着いた林道へ>
 どうにか工事への妨げにもならずに工事箇所を過ぎ、もう工事車両の往来にびくびくすることもなくなったようだ。 ただ、この先峠を越えて無事に滋賀県に抜けられるかどうかは依然不明である。こうした林道走行には最後まで不安が付きまとう。
 
 路面には水たまりの穴があいた箇所がやや見られたが、概ね状態は良い。締まった土の道で、程よく砂利が敷かれている区間もある。

右手に黒河川を望む (撮影 2015.11.12)
   

黒河川の様子 (撮影 2015.11.12)
橋の上から見る
<黒河川を望む>
 側らを流れる黒河川は相変わらず穏やかな様子だ。清らかな水が流れ下っている。石の河原も広く、川遊びもできそうだ。 雨谷集落に「アマゴ遊漁券」と書かれた看板が立っていたが、川釣りも行われるらしい。
   
<一度左岸へ>
 橋が2つ連続し、300m程左岸沿いを行くが、直ぐにまた右岸へと戻って来る。この先、黒河林道は暫く右岸沿いを行く。
 
<林道情報>
 今回の旅は、福井県や滋賀県の県別マップルなどは持ち合わせておらず、今年買ったツーリングマップル(関西 2015年8版1刷発行)があるだけだ。 細かい道路情報がない。 そのツーリングマップルには黒河林道を指して、 「北の川沿いはフラット 南は荒れていてクレバスあり 東屋・WCあり ダート8.4km」とだけある。 「南」というのは峠の南ではなく、敦賀市側の南部を指しているのかどうか、ちょっと迷った。「東屋・WC」は峠にあった。

また右岸へ (撮影 2015.11.12)
   
<クレバス(余談)>
 それにしても「クレバス」という文字が気に掛かった。氷河などの深い切れ目を思い出す。恐ろしげな響きがある。 多分、路面に亀裂が入っているのをそう表現したものだろう。これまでもそんな道は何度も経験していて、あまりに深い場合は引き返したこともあった。 最近は寄る年波で、険路に対する恐怖心が増してきている。パジェロ・ミニの実力なら十分通れそうだと頭は判断しても、恐怖が先に立って通れないことが多い。 わざわざパジェロ・ミニに有終の美を飾ってあげようと入り込んだ林道だが、果して通り抜けることができるかどうか。 そんな心配をよそに、黒河林道はまだ安定している。
   
長い右岸沿い (撮影 2015.11.12)
道はまだ安定している
   

左にクチナシ谷支線が分岐 (撮影 2015.11.12)
<クチナシ谷支線>
 左に林道看板が立ち、林道が分岐していた。「黒河林道 クチナシ谷支線」とある。その林道の先に「ニッセイ 敦賀の森」があるのだろうか。 あまり入り込みたいと思う道ではない。黒河林道にはこうした支線が多い。黒河川の支流沿いに通じるので、その支流の名前が付けられているようだ。
 
 林道看板に並んで、「黒河山国有林」と書かれた標柱が立つ。この付近一帯がその国有林である。
   
<道の様子>
 路面にはクレバスという程の物はないが、水たまり程度のデコボコは多くなった。時折道を横切るようにゴム製のシートが埋設されている。 湧水を川へと導く措置だ。柔らかいゴムでできているので、車で越えても何ら支障はない。 こうした措置を講じていないと、流水が路面を洗い、大きなクレバスが生じてしまう。
ゴムシートが横切る (撮影 2015.11.12)
   
   
   
待避所
   

広い待避所 (撮影 2015.11.12)
<広い待避所>
 林道起点から6.5km、日当たりの良い広い待避所に至った。ここまでの林道走行で緊張を強いられてきた身体を休めるには、丁度良い場所だ。 車を降りて背筋を伸ばす。周囲の谷はやや広がりを見せ、山肌を染める紅葉も少し楽しめた。 一方、黒河川はやや渓谷の様相を呈し、川面は車道より下を覗き込むような所にある。
   
<保安林の看板>
 待避所の傍らには、ここにも水源かん養保安林の看板が立っていた。しげしげと眺めたが、これまでにも見掛けた看板と内容には大差はない。ただ、地図は下を北にして描かれており、一般の地図とは逆さまだった。これから峠方向に向かう場合には丁度良い向きである。

退避所に立つ保安林の看板 (撮影 2015.11.12)
地図は下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

待避所を示す看板 (撮影 2015.11.12)
文字はかすれてしまっている
<待避所の看板(余談)>
 これまでの待避所でも見掛けたが、待避所の端に小さな看板が立っている。 「待避所 No.15」などと待避所番号が書かれていて、更にその前後にある待避所までの距離が記してあるようだった。狭い道でのこうした配慮はありがたい。 ただ、看板設置から長い歳月が過ぎていて、看板に書かれた内容は、車の中からちょっと眺めただけではもう判読できそうにない。 それに、林道全体の様子も変わって来ているだろうから、当初の待避所が今も使える状態で残っているとは限らない。
 
 ただ、今回この黒河林道を走っている最中、あの大型重機以外には一台の車とも出会わなかった。 路傍に立つ待避所の看板を気にしながら走っているより、しっかり前を見て運転していればそれで良さそうな気がした。
   
   
   
菩提谷支線分岐
   
<菩提谷支線分岐>
 前記の広い待避所から道の先を見ると、数10m程の所で道が分岐している。左に分かれ、川の右岸沿いをそのまま遡るのは菩提谷支線である。 一方、本線は右に曲がって川を渡って行く。
   
左に菩提谷支線分岐 (撮影 2015.11.12)
右の橋を渡るのが本線
   
<以前の分岐の様子>
 現在は、菩提谷支線の方にはチェーンが渡され、車は進入できないようになっている。それで本線を間違うことはない。 しかし、以前は菩提谷支線も走れる状態だった。これまであった支線は如何にも枝道という感じの寂しい道だったが、菩提谷支線はかなりしっかりした道だ。 ここは看板で本線を確認しなければならない重要な分岐点である。 それもあって、18年前に初めて黒河越を越えた時も、この分岐の様子を写真に収めてあった(次の写真)。
   
以前の分岐の様子 (撮影 1997. 4.28)
周辺の木々が少なく、さっぱりしている
菩提谷支線の通行止はなかった
  
<分岐の看板>
 林道本線が渡る橋の袂には2つ程看板が立つ。一つは関西電力の物で、峠から少し歩いた所に敦賀試験線というのがあり、その道案内の看板だ。 黒河林道の所々に立っている。
 
 もう一つは水源かん養保安林の看板だが、これまであった物と比べるとちょっと古い。しかし、18年前にはなかった看板だ。 かなり傷んでいるが、内容がなかなか詳しく、参考になる。

橋の袂に立つ看板 (撮影 2015.11.12)
   

関西電力の看板 (撮影 2015.11.12)

保安林の看板 (撮影 2015.11.12)
内容が詳しく、参考になる
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
  
<黒河川本流>
 ここが重要な分岐点である本質的な理由は、ここより上流側で黒河川が大きく2筋に分かれていることだ。 そもそも黒河川源流は、中央分水嶺となる西の三国山(三国岳とも)から東の乗鞍岳(865m)に至る山稜の北斜面に分布する。 その内、三国山に近い黒河越付近から下る川と、乗鞍岳付近から下る川が、2大源流と言える。
 
 どちらが本流であるかは、地形図などでは分からない。川の長さでは乗鞍岳側の方が長く、そちらが黒河川本流である可能性が高い。 ここでは今後そのように扱う。
 
 その本流沿いに遡るのが菩提谷支線である。道が本線に負けないくらいしっかりしているのも、これでうなづける。 一方、黒河林道の本線は、これより黒河川本流を渡り、その支流沿いに遡ることになる。

本線が渡る橋 (撮影 2015.11.12)
峠方向に見る
  
分岐より黒河林道本線方向を見る (撮影 1997. 4.28)
橋を渡った所にジムニーが停まる
   
<川の名>
 菩提谷支線という名からして、ここより上流側はもう黒河川とは呼ばず、菩提谷と呼ぶのかもしれない。 少なくとも乗鞍岳に近いこの最上流部は、先程の保安林の看板によると、「ボダイ谷」となっている。一方、黒河越直下に流れる川は「オスガ谷」である。
  

橋の欄干 (撮影 2015.11.12)
刻まれた文字は読めなかった
<橋の名(余談)>
 林道本線が渡る橋の欄干を写真に撮っておいたが、どうしても橋の名が判読できない。 諦め掛けた時、保安林の看板を確かめると、「紅慕橋」と書かれていた。読み方までは分からないが、「こうぼばし」とでも読むのだろうか。
 
 橋の名が分かったところで、別にどうということもないのだが、何となく嬉しい。改めて保安林の看板は役に立つと思った。 尚、その看板によると、黒河林道本線の名は「黒河川林道幹線」とある。「川」の字が入るが何か意味があるのだろうか。
  
<雨谷越の道筋(余談)>
 ここまで黒河川本流沿いに登って来た黒河林道ではあるが、いにしえの雨谷越の道筋も、 少なくともこの地点まではほぼ同じ道筋を辿っていたのは間違いないと思う。
 
 しかし、これから上流部はどうであろうか。川としては本流沿いとなる菩提谷支線方向かもしれない。 菩提谷支線は越前・近江の国境を越えていないが、峠の向こうの近江側からは乗鞍岳近くの稜線まで車道が通じているようだ。 かつてはこれらを繋ぐ峠道があったかもしれない。
 
 ただ、乗鞍岳付近の標高は高く、前記の場合だと峠の標高は800m近いことになる。 一方、現在林道が通じる黒河越は約570mと低く、三国山から乗鞍岳に至る稜線上で最も低い鞍部でもある。 やはりかつての雨谷越もここからは黒河川本流ではなく、この上流のオスガ谷方向へと通じていたらしい。
   

菩提谷支線の入口 (撮影 2015.11.12)
今はチェーンで通行止
「黒河山国有林」の看板が右手に立つ

菩提谷支線の看板 (撮影 2015.11.12)
色あせた通行止の道路標識も立つ
   
   
   
紅慕橋以降
   

右手に黒河林道の看板 (撮影 2015.11.12)
<支流沿い>
 道は黒河川本流を渡り、その支流沿いを進む。紅慕橋から峠まで残すところ約3kmと短いが、これからが険しい林道の本番だ。 この先どんな「クレバス」が待ち受けているのだろうか。
 
 緑色の背景に白色で木を模したデザインの林道看板が立っていた。これまでも支線の入口に見掛けている。 ここでは「黒河林道」とあり、この道が本線であることが示されている。
   
<道の様子>
 心配をよそに、道は暫くは安定している。川の左岸を行ったり、また右岸に戻ったりと渡河を繰り返す。

道の様子 (撮影 2015.11.12)
この先右岸に戻る
   

右手に芦谷支線分岐 (撮影 2015.11.12)
<芦谷支線>
 右岸に戻った所で、右に芦谷支線が分岐している。入口には「黒河芦谷林道」と看板があるが、チェーンが張られていて通行止だ。 ちょっとのぞいた限りには、路面に大きな陥没が見られ、車など到底走れない状態だった。この分岐は地形図では標高290mと記されている地点だ。 峠との標高差280mを残す。
   
<黒河山保安林管理道>
 この黒河林道芦谷支線はこれまでの単なる行止りの支線とはちょっと性格を異にする。 最初に出くわした工事現場よりアシ谷支線が分岐していて、この道は通れないよと工事のおじさんが言ってたが、その道と芦谷支線とが繋がっているようなのだ。 支線の名も「芦谷」と「アシ谷」と似ている。紅慕橋袂に立っていた保安林の看板では接続部分の道を「黒河山保安林管理道」と記していた。 黒河川の支流同士の分水界を越えるちょっとした峠道となるようだ。「通れないよ」と言われたが、全く可能性がなかった訳でもなかったのだ。

芦谷支線入口 (撮影 2015.11.12)
   

道の様子 (撮影 2015.11.12)
やや険しい
<支流へ迂回>
 道はこの先、概ね峠直下に下るオスガ谷の右岸沿いに峠を目指すのだが、 一先ずは東(左手)方向の小さな支流の「ガワ谷」あるいは「アシ原谷」と呼ばれる谷を迂回する。左手にその川を見て登る。
 
 道がこうした支流を迂回するようになると、地形が険しくなった証拠だ。案の定、道幅が狭くなり、急カーブも出て来る。
   
<支流の右岸へ>
 道は更に支流の右岸を一時期迂回する。その橋がなかなか怖い。欄干や車止めブロックなどは全くなく、その手前は急カーブだ。 やっと渡り切ったと思うと、その先のヘアピンカーブはアスファルト舗装となっていた。 センターデフのないパートタイム4WDのパジェロ・ミニでは、4駆のままでは曲がり切れそうにない。しかし、妻の運転では簡単には4駆を解除できない。 単に切替レバーを2駆に戻しただけでは、ギヤが噛み込んでいて実際は2駆にはなっていない。4駆を示すインジケータも点灯したままだ。 仕方なく運転を交代。狭い道の中で車を小刻みに前後させ、やっとギヤを抜いた。

支流を渡る (撮影 2015.11.12)
   
<アスファルト舗装>
 その後も要所要所でアスファルト舗装が出て来た。急坂・急カーブの箇所では確かに有効なのだが、2駆と4駆の切り替えが煩雑でしょうがない。 「クレバス」が出て来るまではと、ほとんど2駆のままで走った。
 
<ハスラーの4駆(余談)>
 ところで、今度乗り換えるハスラーはフルタイム4WDだと聞いていて、妻と喜んでいた。これで煩雑な切り替えが必要ない。 4駆が抜けないと騒ぐこともなくなる。しかし、以前乗っていたキャミなどとは機構が随分と異なるようだ。 通常は2駆で走り、駆動輪がスリップすると、それを検知して一時的に4駆になるとのこと。未舗装路や凍結路でどれ程効果があるのかやや不安が残った。 以前、ジムニーに乗っていた時、2駆に入れ忘れて凍結路面を走り、 スリップしてひどい目に遭ったことがある(アイスバーンは怖い)。 ハスラー以外の候補ではやはり同じスズキのジムニーを考えていた。しかし、パジェロ・ミニからジムニーでは、あまりにも能がない。 ハスラーのフルタイム4WDに期待することとしたのだった。
   
左にアシ原谷支線分岐 (撮影 2015.11.12)
この先ちょっとした切通しで分水界をまたぐ
<アシ原谷支線分岐>
 支流を詰めた先で左にアシ原谷支線が分岐する。こちらもチェーンで通行止。進入禁止の道路標識も立つ。
 
 最初に黒河越を訪れた時にも、この林道入口を写真に収めてあった(左下の写真)。まだ林道を開削して日が浅いのか、法面は土が露出していた。 林道標柱がポツンと立ち、
 黒河林道アシ原支線 (自動車道)
 幅員 三.六〇 米
 延長 七四二  米
 
 とあった。今も同じ林道標柱が立つが、かなり傷んで来ている。
   

以前の分岐の様子 (撮影 1997. 4.28)
前の写真とほぼ同じ場所

アシ原谷支線入口 (撮影 2015.11.12)
林道j標柱はかなりくたびれている
   
<オスガ谷沿い>
 アシ原谷支線を分けた後は、もう峠まで枝道が分かれることはない。 一本道だ。ちょっとした切通しのような箇所を過ぎ、道は多分「オスガ谷」と呼ばれる谷の右岸に取り付く。この谷がほぼそのまま黒河越へと続いている。 道は最後の谷をよじ登り始めた。
 
<補修箇所>
 ちょっと大きな土砂崩れ箇所に差し掛かる。十分に補修されているので危険はなさそうだが、なかなか険しい様相だ。オスガ谷は谷を深く削った渓谷である。

補修箇所 (撮影 2015.11.12)
   

そろそろクレバス (撮影 1997. 4.28)

道路上の岩をどけて通る (撮影 2015.11.12)
   

傾くパジェロ・ミニ (撮影 2015.11.12)
ドラレコの画像
<クレバス>
 そろそろ道の縦方向に入った亀裂が目立ってくる。これを「クレバス」と表現したものだろう。 ただ、亀裂の深さはそれ程でもなく、最低地上高195mmのパジェロ・ミニなら気にせず通れそうだ。途中、岩が道路の真ん中に転がっていた。 念の為、どけて通る。
 
<パジェロ・ミニ傾く>
 ちょっと油断していたらコース取りを誤り、左の車輪をもろにクレパスに落としてしまった。 落ち葉が積もっていて分からなかったが、意外と深い。車が大きく左右に傾く感覚は久しぶりに味わう。 あまり気持ちのいいものではない。パジェロ・ミニは結婚前からの妻の所有車で、妻もパジェロ・ミニも今回が初めての経験となるのであった。
  
<関西電力の看板(余談)>
 車が傾いた時のドラレコ動画を見ていたら、皮肉なことに車が傾いた絵が描かれた「路肩注意」の看板が写っていた。その右脇に関西電力の看板も立つ。 どういう訳か、その看板を写真に撮ってあった(左下の写真)。「現在地」の近くに小屋の絵の中に「P」とあるが、現在ではそれらしい場所は見当たらない。 山側には土砂崩れの痕も見られるので、その「P」はもうないのかもしれない。看板はこの先橋を渡るとその右手に退避所があることとなっていた。 確かに道はしっかりした橋で支流を渡ると、その先の待避所は健在だった。
  

関西電力の看板 (撮影 1997. 4.28)

支流を渡る橋 (撮影 2015.11.12)
この先右に待避所あり
   

落石が転がる (撮影 2015.11.12)
<落石>
 クレバスも厄介だが、落石も多い。大抵は既に路肩にどかされてあるのだが、その脇をすり抜けなければならない。 また、新たに落ちて来ている可能性もある。こうした林道の状況は時々刻々と変わるので安心できない。右に左にと傾きながら、慎重に車を進める。
   
<狭路箇所>
 軽自動車の規格は幅が約1.5mである。黒河林道の林道標柱では幅員3.6mとあった。 軽自動車一台で通る分には全く問題ない筈だが、どう見ても無事に通れそうにない箇所が現れた。道が谷側に張り出していて、道幅は2m以下である。 山側の土砂が崩れて道幅を狭くしてしまったようだ。崖側の路肩は石積みで補強してあるが、石の先はストンと谷に切れ落ちている。 脱輪すればこの深い山の中で身動きできなくなるし、下手をすれば谷にずり落ちてしまう。 かつて他人の車が谷に落ちて行く現場を目撃したことがあり、自分自身もあわや転落かという寸前を経験した。緊張が走る。
 
 一先ず歩いて偵察。道幅や路肩の強度を確認。どうにか通れそうなので、先に進むこととした。

狭路箇所 (撮影 2015.11.12)
   
狭路箇所を見る(麓方向に見る) (撮影 1994.10. 9)
路肩は谷にストンと切れ落ちている
   
<狭路箇所を通過(余談)>
 妻が外から誘導することとした。こういう場合、二人居ると助かる。私は崖側との間合いを測りながら車を運転する。 妻は山側ギリギリに車を寄せるよう前方から指示する。こうして一人が車から離れていることは重要だと思った。 万が一のことがあっても、残った一人が助けを呼べに行ける。 路肩の縁までは30cm程残して通過できたが、崖を見下ろしながらの運転はなかなかスリルがあった。
   
   
   
オスガ谷源流部
  

黒河山林木遺伝資源保存林の看板 (撮影 2015.11.12)
この前で林道はオスガ谷を横切る
左上へと谷は遡っている
<オスガ谷を横切る>
 狭路箇所の直ぐ先で、道はオスガ谷を横切る。この付近ではもう水が常時流れる川の様相はなく、橋も架かっていない。 山側に「黒河山林木遺伝資源保存林」と題した看板が立っている。平成25年以降に立てられた物で、比較的新しい。
 
<雨谷越の古道>
 黒河越方向へと至るオスガ谷の谷筋は、その看板の背後より山稜へと登って行く。 もし雨谷越が現在の黒河越と一致するなら、その古道はこの看板の箇所を通って峠に至っていたことだろう。 そう思うと、何となく道らしい筋が谷に刻まれているようにも見えた。
   
<オスガ谷左岸>
 道はオスガ谷左岸に入ると、やや北西に迂回する。本流の谷から200m離れ、大きな砂防ダムがある所で支流の谷を詰め、また本流側へと引き返して来る。 峠まで後500m程の道程だ。どうにか辿り着いて欲しいと思う。あの狭路箇所を引き返すのは御免である。 倒木が道を塞ぐように倒れていたが、途中で切断してあった。窓にぶつけないように慎重に通過する。
 
<オスガ谷源頭部>
 行く手に大きな岩壁を望み、その前で道が急カーブして行く。地形図ではこの付近まで川が描かれていて、そこがオスガ谷の源頭部と言える。

大きな砂防ダム (撮影 2015.11.12)
  
この先でオスガ谷の源頭部を詰める (撮影 2015.11.12)
  

岩をよける (撮影 2015.11.12)
なかなか狭い
<岩をよける>
 源頭部を前に落石の岩が行く手を阻んだ。左手に谷を臨むが、それ程深くないので恐怖感はない。 しかし、車が通るのに残された道幅は先程の狭路箇所より狭そうだ。岩は大き過ぎて人力では到底動かせない。この林道はほとんど軽自動車限定の道である。 どうせ廃車予定の車だからこすっても構わないと、岩まで数10mmの距離まで寄せて無事に通過。
  

前方に岩壁を望む (撮影 1997. 4.28)
ここがオスガ谷の源頭部

岩がそそり立つ (撮影 2015.11.12)
   
   
   
峠の福井県側
   

峠直前 (撮影 2015.11.12)
<峠直前>
 右手に岩の壁を見て過ぎると、後は峠まで一直線だ。右手に立ち上がる山稜は既に福井・滋賀の県境である。空が開け、初冬の落葉樹の林は明るい。 前方に車が停まっているのが見えた。軽自動車などではない。明らかに滋賀県側から登って来た車であろう。これで峠が越えられることがはっきりした。 やっと安堵の胸を撫で下ろす。
   
峠の福井県側 (撮影 2015.11.12)
峠はこの先を右に
   
<峠の福井県側>
 峠はなだらかな鞍部に位置する。峰も平坦で幅があり、地形的には穏やかな雰囲気だ。車が停まる脇に黒河山国有林と保安林の看板が立つ。 車の後から東の乗鞍岳方向に登山道が始まっているように思えたが、そうではなさそうだ。単なる待避所的な場所だった。
   

黒河山国有林などの看板 (撮影 2015.11.12)

保安林の看板 (撮影 2015.11.12)
これまでの物とはちょっと違う
   
 峠を背に福井県側を望むと、正面が黒河林道、右が待避所、そして左に分岐がある。
   

峠を背に福井県側を見る (撮影 2015.11.12)
正面が黒河林道
左に28林班支線
右は待避所

福井県側に下る黒河林道 (撮影 2015.11.12)
   
<28林班支線>
 峠の福井県側で西の稜線方向に延びる林道は、黒河林道28林班支線である。折りしも何かの作業車が2台、その林道脇に停められていた。 かつて私が訪れた時も、そこにジムニーを退避させたのだった。

28林班支線入口 (撮影 2015.11.12)
   

28林班支線の林道標柱 (撮影 1997. 4.28)
延長1.384m

上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.28)
支線にジムニーを一時退避
   
   
   
峠を抜けて滋賀県へ
   
福井県側から見る峠 (撮影 2015.11.12)
浅い切通し
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.28)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<峠の様子>
 山稜には浅い切通しが通じる。ここが福井と滋賀の県境であり、太平洋と日本海を分かつ中央分水界でもあるのに、そうした境界を示す看板は一切ない。 さっぱりしたものだ。林道の峠とはこんなものである。山中に狭い未舗装路が一本通じるばかりだ。
   
峠から滋賀県側を見る (撮影 1994.10. 9)
ジムニーの左手に関西電力の看板
その奥には山田山国有林の看板が立つ
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<峠の滋賀県側>
 峠の滋賀県側は小広くなっている。道は右(西)に曲がって下って行く。こちらの路肩にも工事車両が停まっていた。 荷台から何かを降ろした形跡がある。

峠の滋賀県側 (撮影 2015.11.12)
   

峠に向かって右に敦賀試験線への山道 (撮影 2015.11.12)
<敦賀試験線への道>
 これまで関西電力の看板が幾つか立っていたが、それが示す敦賀試験線への道が、峠の脇から東の稜線方向へと登って行く。 徒歩で50分とのこと。この県境付近の山稜に鉄塔が並ぶが、敦賀試験線とはそれのことだろうか。峠周辺に停められた工事車両も関西電力関係だろうか。 ただ、福井県側の待避所に停められた車は一般車のようで、登山者も居るのかもしれない。遠く乗鞍岳方面まで、山道が続いているようだ。
   

今の関西電力の看板 (撮影 2015.11.12)

かつての関西電力の看板 (撮影 1997. 4.28)
   
<峠の看板>
 ここまで峠名を示すものは見当たらなかったが、峠の滋賀県側にやっと峠の看板を発見した。 停められたトラックの直ぐ脇に、ポツンと立っていた。しかし、看板は剥がれ落ち、支柱の下に転がっていた。「黒河峠」とある。 「越」ではなく、ここでは「峠」を使っていた。看板の一部が欠け、「黒」が「里」になっていた。始めて来た時は、この看板はなかったものと思う。 後に立てられ、今はもう朽ちてしまったようだ。
   

峠の看板 (撮影 2015.11.12)

峠の看板 (撮影 2015.11.12)
「黒」が「里」になっている
   
<マキノ林道>
 何もない峠の切通しではあるが、福井県寄りに黒河林道の看板、滋賀県寄りに「マキノ林道」と書かれた林道標柱が立つ。 峠の滋賀県側は旧マキノ町で、その名を持つマキノ林道が通じる。ただ、林道標柱は以前も草に埋もれ、幅員や延長の値は読めない。

滋賀県側から見る峠 (撮影 2015.11.12)
見ずらいが、右手の斜面にマキノ林道の標柱が立つ
向こうには黒河林道の看板
   

峠に立つ林道標柱 (撮影 2015.11.12)

以前の林道標柱 (撮影 1997. 4.28)
   
<峠からの展望>
 峠からは両県側ともにあまり眺望はない。滋賀県側を望むと、林越しに峠直下に通じるつづら折りの車道が覗く程度だ。 そうした意味ではあまり感動のない峠だが、落ち着いた静かな山間である。のんびりお茶をするには良い場所だ。我々夫婦もこの峠で一息入れる。
   
峠から見る滋賀県側の景色 (撮影 2015.11.12)
直下につづら折りが下る
   
<黒河山>
 現在黒河越と呼ばれるこの峠が、いにしえの雨谷越(の峠)と一致するかどうか興味のあるところだ。 文献をいろいろ調べると、西の三国山と「黒河山」の間にその古道が越えていたとあった。
 更に黒河山について調べてみると、その山は葦原(あしはら)山とも呼び、県境にある標高849mの山だそうだ。 地形図では三国山と乗鞍岳の間で、やや乗鞍岳に寄った所にその標高のピークが見られる。保安林の看板にあるアシ原谷の上流部だ。これが黒河山であろう。
 
<黒河越=雨谷越>
 現在の黒河越はこの黒河山と三国山の間にあり、その峠の標高も雨谷越(570m)と一致する。 これらのことからして、やはり黒河越はそのまま雨谷越とみてよいのではないかと思う。
 
<峠の変遷>
 雨谷越は古代の「北陸道」がここを通ったとする説もあるそうだ。旧マキノ町白谷の南の「石庭」から、敦賀市沿岸の「松原」への最短路となる。 地図を見ると確かに南北一直線に峠道が通じる。
 「北陸道」とは古代律令制下の地方行政区画(五畿七道)の1つで、現在の「北陸地方」という名称に繋がり、ほぼ福井、石川、富山の3県に相当する。 また「北陸道」とは都から北陸道諸国を結ぶ交通路の名称でもあり、特に近江から越前に至る道は北陸道本道となり、ほぼ現在の国道161号がそれに相当する。 雨谷越もその一種ということだろうか。
 
 ただ、律令制衰退と共にこの峠道は間道となっていったようだ。重要な通行の記録がなく、あまり世に知られることはない。 今は廃道に近く、「敦賀市側は林道が峠の直下に至る」と文献は結ぶ。この林道が今の黒河林道であろう。 古代律令制の北陸道から昭和後期の林道開通まで、あまりにも長い空白期間であった。
 
 後の世に峠を越えて林道は開通したが、峠名は「雨谷越」が引き継がれることはなかった。 現在は一山村の名でしかない「雨谷」では、あまりネームバリューがないのであろうか。 その点「黒河」なら、福井県側の山間部一帯が広義の「黒河山」とも呼ばれ、その中央に竜伝説を持つ黒河川が流れ下り、その川に沿って黒河林道が通じる。 「黒河」なら世間に知られた名である。しかし、峠名だけでもいにしえの「雨谷越」を復活してはどうだったろうか。
   
   
   
旧マキノ町へ下る
   
<白谷>
 峠の滋賀県側は旧マキノ町(現高島市)の大字白谷である。高島市になってからは「マキノ町白谷」と呼ぶようだ。 白谷は「しらたに」が一般的な読み方だが、一部に「しらだに」とするものも見掛けた。雨谷が「あまだに」なので、そういうこともあるだろうか。
 
<トイレ箇所>
 峠を100m弱も下ると、直ぐにトイレがある。ツーリングマップルには「東屋」ともあるが、その山小屋風のトイレは純粋にトイレだけの機能のようだった。 その周囲には6、7台の工事車両が停められていて、その脇を通り過ぎるのも大変であった。

トイレ箇所に差し掛かる (撮影 2015.11.12)
   

山小屋風のトイレ (撮影 2015.11.12)
<赤坂山歩道入口>
 トイレとは道を挟んで反対側に登山道が始まる(下の写真)。入口に「赤坂山歩道」と看板がある。 峠にもこのトイレ箇所にも、車が多く停まるが人影を全く見ない。これらの車に乗って来た作業員たちは一体どこに消えたのであろうか。 赤坂山歩道の先だろうか、あるいは峠から始まる敦賀試験線への山道であろうか。 どちらにしろ、車に電力会社の名が記されていたことを思うと、この山中に立つ鉄塔に取り付いているのだろう。大変な仕事である。 側らに立つトイレは、赤坂山歩道を歩く登山者の為だけでなく、この山中で仕事をする者の為でもあるようだった。
   
<高島トレイル>
 以前の赤坂山歩道の入口にはなかったが、最近は「高島トレイル」という標柱が立つ。 どこかでこの「高島トレイル」の案内が書かれたパンフレットを見掛けた覚えがあるが見付からない。
 
 どちらにしろ登山届のポスト(登山者カードポスト)や「登山者のみなさんへ」と書かれた注意書き看板(今はないようだ)が並び、 如何にもここは登山基地という感じでもある。

赤坂山歩道入口 (撮影 2015.11.12)
   
以前の赤坂山歩道入口 (撮影 1994.10. 9)
多くの登山客がここを登るのだろうか
   

道しるべ (撮影 1997. 4.28)
<道しるべ>
 福井県敦賀市 13.0Km
 白谷集落 4.8Km
 
 敦賀市の13kmとは市の中心地には届かない。丁度、粟野の交差点までの距離である。白谷集落とはマキノ林道に続く県道533号沿いにある。
   
<赤坂山歩道の看板>
 最初に訪れた時に撮った写真の方が鮮明であった。 その看板によると、この歩道はマキノ高原から粟柄越・赤坂山・三国山を経て黒河林道を通り、白谷集落までのおよそ12kmの自然探勝道とのこと。 地図にも「黒河林道」とあるが、正確にはマキノ林道(あるいは黒河マキノ林道)であろう。
 
<マキノ町の由来(余談)>
 尚、マキノスキー場は古く大正5年にできたもので、マキノ町の名の由来ともなったそうだ。 昭和30年に4か村の合併でできた町だが、その折、町名を住民の公募で決めた。 牧野扇状地にできたマキノスキー場の「マキノ」は地名の「牧野」が元だが、 大正期にはまだ珍しいスキー場をモダンな名前として片仮名で「マキノスキー場」と呼んだのだろう。それが片仮名の珍しい町名にもなったようだ。

赤坂山歩道の看板 (撮影 1997. 4.28)
   
赤坂山歩道の看板
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

   
<三国山湿原植物群落保護林の看板(余談)>
 赤坂山歩道の入口の右脇に、今は壊れ掛けているが、「三国山湿原植物群落保護林」と題した看板が立っていた。 県境より福井県側が黒河山国有林、滋賀県側が山田山国有林となる。どちらの山も地形図には見られない。 尚、この看板では林道は「マキノ林道」と記している。
   

三国山湿原植物群落保護林の看板 (撮影 2015.11.12)
壊れ掛けている

以前の三国山湿原植物群落保護林の看板 (撮影 1997. 4.28)
   
トイレの前より下る道 (撮影 1994.10. 9)
この時はまだトイレなどなかったかもしれない
   
   
   
トイレ箇所以降
   

谷の源頭部へと下る道 (撮影 2015.11.12)
<谷の源頭部へ>
 トイレの周囲を回り込むようにして、道は西から東へと方向転換し、峠直下の谷の源頭部へと下って行く。 福井県側が黒河川源流部の深い溪谷が刻んだ暗く険しい地形だったのに対し、こちらの滋賀県側は幾分地形が穏やかで、南斜面ともあって明るい雰囲気だ。
 
<源頭部を回り込む>
 道はペアピンカーブで谷の源頭部を回り込む。カーブの上が峠である。雨谷越の古道はその山の斜面を下って来ていたことだろう。
   
谷の源頭部 (撮影 2015.11.12)
正面の上が峠
雨谷越の古道はその斜面を下って来ていたことだろう
   
<荒れた道>
 黒河林道で十分険しい道を味わったので、マキノ林道は安心して下りたいものだ。 峠やトイレ箇所にトラックやワンボックスカーまで来ていたので、さぞかしマキノ林道はいい道だろうと期待した。 ところが谷沿いになった頃から道が荒れ始めたのだ。小規模ながらクレバスもある。崩れ掛けた路肩もある。 よくこんな道をあの大きな車が登って来たものだと感心しきり。でも、あれだけの車が通れたのだから、我がパジェロ・ミニが通れないことはない。 黒河林道ではいつ引き返しになるかとビクビクしていたが、少なくともマキノ林道はその心配がない。その意味でも福井県側から登ったのは正解だったと思う。 難所は先にクリアしておきたいものだ。

こちらにも小規模なクレバス (撮影 2015.11.12)
   
荒れた道 (撮影 1994.10. 9)
崩れそうな路肩
   
<林道の開通>
 実は古いツーリングマップ(中部1988年5月発行)にはマキノ林道はまだ記されていなかった。峠から県道533号に接続するまでの区間が空白だったのだ。 多分、黒河越(雨谷越)の峠道ではこの区間が最も後に車道開削が行われたのではないだろうか。 文献にも敦賀市側には峠直下に林道が至るとあったので、やはり福井県側(黒河林道)の車道開通が先と思われる。 古いツーリングマップには、現在峠から分岐する28林班支線までは描かれていた。
 
 マキノ林道の正確な開通年は不明だが、文献やツーリングマップの発行年からすると、1980年代に開通したのではないかと想像する。 また、黒河林道に立っていた関西電力の看板には昭和60年(1985年)6月との日付があったが、黒河林道が峠に達して敦賀試験線の設置に寄与したのも、 それ程昔のことではないらしい。あるいは、黒河林道はその試験線の為に開削されたものか。

谷の右岸沿いの道 (撮影 2015.11.12)
ちょっと安定して来た
   
<琵琶湖を望む>
 この野坂山地南面に通じる道では、琵琶湖の眺めが期待できる。赤坂山歩道の案内でも琵琶湖の眺望を謳っていた。 マキノ林道ではどうかと思ったが、谷間の向こうにかすかに望めるだけで、眺望と言う程ではなかった。更に谷を下ると全く遠望がない。
   

遠く谷間の先に琵琶湖を望む (撮影 2015.11.12)

琵琶湖遠望 (撮影 2015.11.12)
   
<道の様子>
 道が谷の右岸沿いに出て直線的になると、ちょっと安定した感があったが、その先でまたクネクネ道が現れる。 それ程深いクレバスではないので不安感は全くないが、黒河林道よりも長いクレバスが頻繁に出て来た。 つづら折りと路面のクレバスで、車は右に左にとよく傾く。オフロード車として生まれたパジェロ・ミニもこれで本望であろう。 私ももう十分だ。
  

また荒れた区間 (撮影 2015.11.12)

クレバスは長く続く (撮影 2015.11.12)
   

傾くパジェロ・ミニ (撮影 2015.11.12)

傾くパジェロ・ミニ (撮影 2015.11.12)
   
<本流の谷へ>
 道は、峠直下に下る谷から、峠から三国山に掛けての稜線を源流とする谷を集めた本流の谷へと降り立つ。谷は広くその右岸に沿う道もやっと安定して来た。
   
峠方向を望む (撮影 2015.11.12)
谷はやや紅葉している
   
<分水界>
 その谷は、琵琶湖に注ぐ知内川(ちないがわ、淀川水系)の支流の八王子川(はちおうじがわ)の支流のそのまた支流である。 マキノ林道沿いには水源かん養保安林などの看板がなく、細かい谷や川の名が分からないのが残念だ。 ただ、乗鞍岳から西の三国山に掛けての滋賀県側は八王子川の水域となるようだ。 黒河越は、大きくは太平洋側の淀川水系と日本海側の笙の川水系の中央分水界であり、狭くは八王子川と黒河川の分水界である。
   
道の様子 (撮影 2015.11.12)
   
   
   
舗装路へ
   

左手に山田山国有林の看板が立つ (撮影 2015.11.12)
この直ぐ先で舗装路が始まっている
<舗装路>
 ツーリングマップルではマキノ林道のダートは2.3kmとある。 峠から下って丁度そのくらいに山田山国有林の看板があり、直ぐ後ろに林道黒河マキノ線の林道標柱が立っていた。その標柱脇からアスファルト舗装に変わる。
 
<黒河マキノ林道>
 林道標柱によると、その林道は幅員4.0m、延長785mとある。この後も同様の標柱を見掛けたので、ここより下流側の道を指していると思う。 林道名と延長は書き直された跡があった。
 峠から県道533に接続すまでの林道全長は約3kmである。 その内、前半のマキノ林道が約2.3km、後半の黒河マキノ林道が約0.8kmということではないだろうか。 何かの理由で林道を2区間に分けたのかと思われた。その理由かどうかは分からないが、マキノ林道は未舗装路、黒河マキノ林道は舗装路となる。
   

山田山国有林の看板 (撮影 2015.11.12)

黒河マキノ林道の標柱 (撮影 2015.11.12)
   
<以前の舗装区間>
 初めて黒河越を越えた時も、舗装路になった箇所を写真に撮っておいた(下の写真)。 山田山国有林の看板は古い物で、側らに立つ林道標柱も「マキノ林道」とあり現在の物とは異なる。 しかし、その林道標柱の脇が舗装と未舗装の境目になっていた。現在と全く変わらない。
   

舗装路となった直後 (撮影 1997. 4.28)
麓方向に見る
路肩に林道標柱が立つ

ジムニーの少し後ろは未舗装路 (撮影 1997. 4.28)
峠方向に見る
   
<変わらぬ未舗装林道(余談)>
 黒河林道については、正確には分からないが、雨谷集落を少し過ぎた先からもう基本的には未舗装路で、これは以前とほとんど変わらないと思われる。 一方、マキノ林道の未舗装は全く以前のままだ。
 
 昨今の林道は、舗装化されるか閉鎖されるかの2極化が多い。ちなみに、この後訪れた粟柄河内谷林道(仮称:粟柄峠)はゲートで通行止だった。
 それに比べ、黒河林道・マキノ林道は10年一日の如く、変わらぬ険しい未舗装林道を保っている。 多分、クレバスは威力を増してきたことだろう。今回、昔とほとんど変わらぬ峠道に会えて、何となく嬉しい気持ちである。
 


以前立っていたマキノ林道の標柱 (撮影 1997. 4.28)
残念ながら「延長」は読めない
   

広場の前より峠方向の道を見る (撮影 2015.11.12)
<広場>
 舗装路になってから目と鼻の先にちょっとした広場がある。東の黒河山方面からの川も集め、八王子川の直接の支流となる付近だ。 広場からは峠方向が見渡せる。峠が通じる峰に鉄塔が並ぶのが望めた。あれが敦賀試験線だろうか。
 
 広場を過ぎると谷は一段と広がる。道はその谷の右岸の高みに通じるが、沿道に木々が多くもう視界は広がらない。 舗装路となったのでクレバスなどの心配はないが、道幅は狭いままだ。そこに対向車がやって来た。 作業車などではなく、一般のワンボックスカーと次にはオフロード車だった。どちらも大きいので、こちらが路肩に寄ったり、藪に突っ込んだりして離合。 どちらの車も黒河林道を走れば大変な恐怖を味わうことだろう。あまり一般車の来ない黒河林道の方が良かったような気がしてきた。
   
広場より峠方向を望む (撮影 2015.11.12)
山稜上に鉄塔が並ぶ
   
県道533号へ
   
<分岐>
 道はいつしか八王子川本流の右岸に入り、周辺は平坦地の気配だ。幾つか分岐が出て来る中で、左に鋭角に分かれる道の角に道標が立つ。県道533号に接続する直ぐ手前で、もうそこに県道が見える。

峠方向に見る分岐 (撮影 2015.11.12)
左が峠へ、右は在原へ
   

分岐に立つ道標 (撮影 1997. 4.28)
<道標>
 道標には次のようにある。
 峠方向:三国山 4.5Km 黒河越え
 直進方向:白谷温泉 1.5Km
 左への分岐方向:在原 3Km
 
 どうも分岐する道は県道533号の前身だったようだ。道が改修され直線的に県道が通じたので、元の屈曲する道の一部がこのように残されたらしい。 初めはこの分岐こそが峠に至るマキノ林道の起点だったようだ。その名残として道標が今も立っているらしい。
   
道標 (撮影 1997. 4.28)
   
<県道533号に接続>
 道は林の中を抜け、県道533号にひょっこり顔を出す。険しかったこれまでの林道のことを思うと、何だか夢から覚めたような気分だ。 目の前には立派な舗装路がよそよそしく通じる。通る車も少なく、閑散としていた。
 
 県道からの分岐の角にも先程と同じような道標が立つ。 峠方向に「三国山 4.5Km」とある。峠から三国山まで1.5kmなので、県道分岐から峠まではやはり3kmと計算される。意外と短い。 その内未舗装区間は2km強で、そこがなかなか険しい。
 
 県道上にはそこが県道あることを示す看板はなく、かつまた分岐方向の案内看板もない。あの小さな道標だけが、黒河越へのいざないとなる。

この先、県道533号に接続 (撮影 2015.11.12)
   

県道からの分岐 (撮影 2015.11.12)
角に道標が立つ

道標 (撮影 2015.11.12)
   
以前の県道からの分岐 (撮影 1997. 4.28)
   

以前の道標 (撮影 1997. 4.28)
右端が隠れているが「黒河越え」とある
この看板は今も変わりない
<黒河越(え)(余談)>
 道標にあるように、峠方向は「黒河越え」と書かれている。「越」という場合、峠を指すこともあるが、峠道を指すことも多く、その時々で適宜判断するしかない。 「黒河越え」の道標はといえば、そのどちらにも取れそうだ。
 
 ただ、現代は道の名称は林道名や県道名などに取って代わられているので、道のことを「越」を使って呼ぶ習慣が少ない。 そこで「越」は「峠」と受け取ることが多く、「黒河越え」の場合も「峠」を指したものだろうと判断した。
 
 加えて、もし峠道を指したのなら、「黒河越え」とは県境を越えて雨谷集落までにも至る道を案内していることになる。一般者に黒河林道は到底お勧めできない。
   
 今の県道からの分岐には林道看板はなかったように思う。 マキノ林道(黒河マキノ林道)の元の起点は、旧県道からの分岐点だったので、こちらには立てないのかもしれない。 もし、その林道名の代わりに「黒河越え」と標柱を立てたのなら、それは道を指していることになるのではあるが・・・。
   
県道側から林道方向を見る (撮影 2015.11.12)
最近はどこでも「熊出没注意」である
   
以前の分岐の様子 (撮影 1997. 4.28)
前の写真とほぼ同じ場所
   
   
   
県道533号沿い(これ以降余談)
   
<県道533号>
 県道533号・白谷野口線(旧県道白谷在原路原線)は八王子川沿いに通じる。 黒河越はその支流の上流部に位置するので、県道533号の方が峠道としては格上となる。しかし、県道533号は直接は福井県との県境を越えていない。 一旦本流の知内川(ちないがわ)沿いに出て国道161号に接続する。 その国道は国境(くにざかい)という峠で福井県敦賀市に越えている。国境も中央分水界だ。
 
<八王子川>
 八王子川の源流は白谷より東方の大字在原(ありはら)で、在原地内では竜田川と呼ばれて西流する。 黒河越方面からの川を合わせて白谷地内を南流する頃には八王子川と名を変える。 これら中央分水界南面に広がる八王子川水源域を眺めると、在原から県道533号を分かれて乗鞍岳近くの稜線へ駆け上がる車道が見える。 しかし、福井県側には続く道がない。やはり八王子川水域から中央分水界を越えて通じる車道は、黒河越だけと言ってよさそうだ。 そこで、もう少し道を下ってみることとする。
 
<県道沿い>
 八王子川が流れる谷はこの辺ではもう浅く広く、開けた雰囲気だ。沿道にはススキの穂がなびく。 時折、旧道の名残を脇に見る。古くは寂しい道が続いていたようだ。暫く建物を見ない。
   
県道の様子 (撮影 2015.11.12)
右脇に旧道の名残
   
<白谷集落>
 県道を1kmも走ると人家が現れた。白谷集落である。集落内へと分岐する道の角にペンションなどの看板が立っていた。

白谷集落に入る (撮影 2015.11.12)
   

ペンションなどの看板が立つ (撮影 2015.11.12)
<マキノ白谷温泉>
 白谷には温泉が湧き、マキノ白谷温泉と呼ばれる。宿泊施設などもあるようで、手元に八王子荘という温泉旅館のパンフレットがある。 道の駅マキノ追坂峠(おっさかとうげ)でもらったものだ。
 
 峠に道の駅があるのも珍しい。追坂峠は国道161号上にあり、知内川上流部と琵琶湖との境となる。 知内川源流部の国境から下って来た国道161号は、そのまま川沿いには琵琶湖に至らず、追坂峠でシュートカットしている。
   
<八王子川を望む>
 道は左手に八王子川を望む。黒河越の滋賀県側では、ここでやっと川らしい川が望める。
 
<八王子(余談)>
 ところで「八王子」(はちおうじ)という名は私には馴染が深い。東京都の八王子市のことだが、そこは私の生まれ故郷だ。 ただ、正確には市に編入される前の由木村(ゆぎむら)が出生地となる。八王子市の中では南東の端っこにあった村で、祖先は代々そこで農家を営んでいた。

八王子川を眺める (撮影 2015.11.12)
   

白谷集落内を行く (撮影 2015.11.12)
<県道287号に接続>
 県道533号は白谷集落内を抜けて県道287号・小荒路牧野沢線(旧県道小荒路牧野蛭口線)に接続する。
   

この先で県道287号に接続 (撮影 2015.11.12)

道路看板 (撮影 2015.11.12)
   
<県道287号>
 県道287号は国道161号の代わりに追波峠を越えずに知内川沿いに下って来た道だ。 知内川は八王子川の本流であり、県道287号の方が峠道としては格が上となる。よって、黒河越の峠道もさすがにここで終わりである。
 
 余談だが、知内川上流に位置する国境の峠は標高389mと黒河越(約570m)よりかなり低い。 ただ、知内川の源流は乗鞍岳の東麓で、八王子川源流よりその峰は高い。

県道287号に接続する交差点 (撮影 2015.11.12)
   
   
   
 18年ぶりの黒河越だったが、険しい林道を無事に走り通すことができて良かった。 それにしても、以前はよくあんな寂しい道を一人で走り回っていたものだと思う。それでいて、あまり怖いと感じた覚えがない。
 
 今回の黒河越はパジェロ・ミニの走り納めの積りでもあった。ハスラーになってからはもう未舗装林道など走れないだろう。 それより何より自分の心身がもう未舗装路には耐えられないと痛感した、黒河越であった。
   
   
   
<走行日>
・1997. 4.28 敦賀市 → 旧マキノ町(現高島市) ジムニーにて
・2015.11.12 敦賀市 → 高島市 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 18 福井県 1989年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 25 滋賀県 昭和54年 4月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<参考動画>
黒河峠/敦賀市側 1/2(粟野交差点より菩提谷支線分岐まで)
黒河峠/敦賀市側 2/2(菩提谷支線分岐まで峠まで)
黒河峠/高島市側 2/2(峠から林道起点まで)
 
<1997〜2015 Copyright 蓑上誠一>
   
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