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黒田峠
  くろんだ  (峠と旅 No.272)
  廃村の地・内ヶ谷へと越える峠道
  (掲載 2017. 2.25  最終峠走行 1994. 9.25)
   
   
   
黒田峠 (撮影 1994. 9.25)
手前は岐阜県郡上市大和町(旧大和町)落部(おちべ)
奥は同町内ヶ谷(うちがたに)
道は県道52号(主要地方道)・白鳥板取線
峠の標高は約855m (地形図より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
20数年振りの再訪は断念
初めてこの峠を訪れた時の写真が残るだけ(しかもピンボケ)
 
 
 
   

<峠名>
 この黒田峠は、前回のクナジロ峠(西峠)と一緒に扱う積りだったが、あまりに道が長い(話も長い)ので、急きょここに切り分けて掲載することとした。
 
 また、これまで峠の名を知らずにいたが、旧岐阜国道工事事務所(現岐阜国道事務所)の「ぎふこくナビ」というホームページ(現在はない)を思い出し、 他にもいろいろ調べてみると黒田峠(くろんだとうげ)ということが分かった。名前が分かれば表題が書けるので、別ページとしたものでもある。
 
<ぎふこくナビ(余談)>
 「ぎふこくナビ」には、当然ながら岐阜県内及び隣県との県境にある峠に限られるが、峠別に詳しい調査結果が載せられていて、非常に魅力的なページだった。 東隣の長野県は峠の宝庫と言われるが、同じく海に面せず山がちな岐阜県にも峠は多い。 「ぎふこくナビ」では、美濃地方(岐阜県の南側半分)には確認しているだけで約130もの峠がある、と記していた。 特に私好みの峠が多いように思う。天生峠、温見峠、神坂峠、八草峠などなど。この「峠と旅」で取り上げた峠も、岐阜県のものが多いように思う。

   

<所在>
 峠は岐阜県郡上市大和町(ぐじょうしやまとちょう)、旧郡上郡(ぐじょうぐん)大和町(やまとちょう)の大字内ヶ谷(うちがたに)と大字落部(おちべ)との大字境にある。 旧大和町は美濃地方の中でも中濃地域に属し、福井県との境に接する山村だ。実際にも昭和60年まで大和村(やまとむら)であった。
 
 内ヶ谷は亀尾島川(きびしまがわ)上流部の内ヶ谷川流域にあり、一方、落部は落部谷川流域に位置する。亀尾島川(内ヶ谷川)も落部谷川も長良川(木曽水系)の第一次支流になる。峠は亀尾島川と落部谷川の分水界の峰に位置する。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<内ヶ谷の立地>
 亀尾島川の下流域は旧八幡町(現郡上市八幡町)になるが、その上流部は旧大和町に属し、大和町側ではそこの地名を使って内ヶ谷川と呼ぶようだ。 内ヶ谷川から亀尾島川は南に流れ下る一続きの川である。しかし、途中に険しい絶壁の渓谷が阻み、川沿いの道が発達し得なかった。 内ヶ谷は「落が谷」が転訛したとも言われ、平家の落人が住み着いたのを祖とすると伝わる。それ程、山間部に隔絶した地であったのだろう。
 
<内ヶ谷の3つの峠>
 その為、内ヶ谷と外界との交通はもっぱら峠道に頼ることとなったようだ。 「ぎふこくナビ」では、内ヶ谷に関わる峠としては、西に西峠(クナジロ峠とも)、北に内ヶ谷峠(越佐峠(こっさとうげ)とも)、そして東に黒田峠の3つが記されていた。 西峠は旧板取村(現関市板取)へ、内ヶ谷峠は旧白鳥町(現郡上市白鳥町)へと通じる。一方、黒田峠は同じ町内の落部を経由し、その先、町の中心地がある交通至便な長良川沿いへと至る。 内ヶ谷集落にとって一番重要な峠道が黒田峠であったろう。

   
   
   
内ヶ谷より峠へ
   

<宮ヶ洞橋以降>
 話はクナジロ峠に続く。 県道52号(主要地方道)・白鳥板取線が宮ヶ洞谷を宮ヶ洞橋で渡り、黒田峠への登りを開始したところだ。内ヶ谷川左岸上部を通るこの県道沿いに人家などは全く見られない。 集落は内ヶ谷川に沿って点在していたようだ。上流側より金山、上会津、山下といった集落名が地形図などに見られる。
 
 文献(角川日本地名大辞典)によると、内ヶ谷は平家の落人といわれる隠田集落で、江戸期から明治初頭にかけて木地師の生活舞台でもあったとする。 明治5年(1872年)の内ヶ谷村(当時)の戸数17、人口86とある。明治22年に落部村の大字内ヶ谷となり、その後、明治30年からは西川村、昭和30年からは大和村、昭和60年から大和町の大字と続く。
 
 しかし、高度経済成長に伴う過疎化が内ヶ谷を襲う。ついに昭和45年11月、集落再編成事業により内ケ谷集落は解散、廃村となった。 集落の全戸は同町の剣(つるぎ)や島(しま)の地区へ移住したそうだ。現在の内ヶ谷に定住者は居ないものと思う。金山、上会津、山下といった集落も、今はただ名前だけが地図上に残るばかりのようだ。

   

<内ヶ谷集落への旧道分岐>
 廃村後の内ヶ谷には新たに内ヶ谷治水ダムの工事が始まった。元の山下集落があった付近で現在も工事が進行している模様だ。その関係もあって、新たに造られた県道315号が、県道52号から分かれて内ヶ谷川沿いへと下っている。
 
 それ以前は別のルートが内ヶ谷集落へと通じていた。宮ヶ洞橋から200m程峠方向に進むと、右手の川側へ逆Y字に分かれて細い道が下る。 古い道路地図を見ると、その道は宮ヶ洞谷近くを下って、内ヶ谷川本流左岸に出る。そこに橋が架かり、右岸へと渡っていた。 古くから黒田峠を越えて来た峠道は、最終的にその道筋で内ヶ谷川沿いに降り立ち、川沿いに点在する各集落へと至っていたようだ。 内ヶ谷の住民にとっての重要な生活路を担っていたのであろう。今でも橋の右岸側の袂近くに家屋が立っているのが見られる。峠に林道が通じた以後も、その道筋が使われた。 ただ、内ヶ谷川に架かっていた橋は今はなく、その旧道はもう使うことができないようだ。


右に旧道 (撮影 2016.10. 9)
かつて黒田峠を越えて内ヶ谷集落に通じていた道筋
   

宮前橋の手前 (撮影 2016.10. 9)
この左手に黒田林道の峠への道が分かれる

<黒田峠旧道分岐>
 県道315号から県道52号に続く道には、内ヶ谷1号橋・2号橋、宮ヶ洞橋と橋が多い。内ヶ谷川左岸に幾つもの急な支流が流れ込んでいて、それらを渡って行く。 改修される前は、山肌に沿って屈曲した道が続いていた。宮ヶ洞橋ができる前も、橋の少し上流側に道が通じていたらしいことが、その痕跡で分かる。
 
 また次の橋が現れる(左の写真)。銘板に宮前橋とある。その橋を渡る前に山腹を登る古い道が分かれる(下の写真)。それが黒田峠を越える旧道だ。 1994年に訪れた時は、その道を登って行った。現在、峠の下に内ヶ谷トンネルが開通しているが、当時はまだ建設途中だったのだ。

   

黒田峠への旧道入口 (撮影 2016.10. 9)
1994年9月に訪れた時は、この道を登って行った

分岐近くにある橋には「宮前橋」とある (撮影 2016.10. 9)
   

<内ヶ谷トンネルへ>
 今回、クナジロ峠(西峠)に続いてこの黒田峠も再訪したいと思っていたのだが、今朝、岐阜市街を出発してからもう随分長い距離を走って来ている。 好きな峠の旅と言えども、さすがにウンザリし始めていた。旧道入口に通行止の看板などはなく、未だに通行可能なようだ。しかし、荒れ果てた細い道に違いない。 旧道区間は3km余りだが、時間が掛かり気も遣うことだろう。この際、遠慮させて頂くこととした。
 
 そこで、そのまま新道を内ヶ谷トンネルへと向かう。初めてこのトンネルを抜ける。道はセンターラインこそないが十分な幅がある。 この立派な道も、廃村前の内ヶ谷集落の住民の役に立ったことはなく、もっぱらダム工事の為であろう。カーブをいくつか曲がった先で、峠の鞍部が見えて来た(下の写真)。

   
峠の鞍部を望む (撮影 2016.10. 9)
   

<トンネル直前>
 新道だけあって勾配の緩い安定した道が通じる。トンネルの300m程手前で内ヶ谷川の支流・地蔵谷を地蔵橋(じぞうはし)で渡る。そろそろ内ヶ谷川の水域ともお別れである。

   

道の様子 (撮影 2016.10. 9)

地蔵橋を渡る (撮影 2016.10. 9)
地蔵谷に架かる橋
   

<旧道からの眺め>
 初めて黒田峠を登った時は、途中で内ヶ谷川の谷間の様子を写真に撮った(下の写真)。中央に赤い橋が見えるが、内ヶ谷1号橋と2号橋のようだ。 まだ県道52はその橋に接続してなく、橋の奥に道が通じる。当時、付近はダム関係工事の真っ最中だったと記憶する。手前の谷底に内ヶ谷川が流れるが、橋が一本架かっているようだ。今はもうない、内ヶ谷集落に通じていた旧道に架かる橋だと思う。

   
旧道からの内ヶ谷の眺め (撮影 1994. 9.25)
中央の下に、橋らしい物が見られる
   

内ヶ谷トンネル直前 (撮影 2016.10. 9)

<内ヶ谷トンネル>
 クナジロ峠を過ぎてから一峰越え、そしてやっと内ヶ谷トンネルである。白鳥板取線の前身となる長大な岐阜白鳥線の険しさを物語る。 ただ、このトンネルが一般に利用され始めた時は、既に白鳥板取線の時代だった筈だ。秘境とも言える内ヶ谷と外界との交通も、このトンネル開通で格段に改善された。しかし、その時には既に集落はなく、今後、内ヶ谷の地ではダム湖の出現を待つばかりなのであろう。

   
内ヶ谷側の坑口 (撮影 2016.10. 9)
   

<坑口の様子など>
 内ヶ谷トンネルはあっさりした扁額が掛かる以外何もない。コンクリートの打ちっぱなしといった化粧っ気のなさである。この内ヶ谷側の坑口には銘板もない。盗まれたのではなく、元からないようだ。


内ヶ谷側の扁額 (撮影 2016.10. 9)
   
   
   
落部側へ 
   

内ヶ谷トンネル内 (撮影 2016.10. 9)

<内ヶ谷トンネル内>
 ひっそりとしたトンネル内をオレンジ色の照明が照らす。工事車両を除けば、日に何台の車がこのトンネルを抜けるのだろうかと思う。いつ来るか分からない通行車を待って、内ヶ谷トンネル内は昼夜明かりを灯し続けるのか。
 
<落部側>
 トンネルの落部側付近はちょっとカーブしているので、近付かないと坑口から先が見えて来ない。トンネルを抜けた直ぐ先は十字路になっていて、黒田峠を越えて来た旧道が交差する。左手の旧道との分岐の角にちょっとした空地があり、車が停められる。

   
内ヶ谷トンネルを落部側に抜けた所 (撮影 2016.10. 9)
   
落部側より内ヶ谷トンネルを見る (撮影 2016.10. 9)
   
内ヶ谷トンネルの落部側坑口 (撮影 2016.10. 9)
   

<坑口の様子>
 扁額は内ヶ谷側とほとんど同じだが、落部側には銘板がある。それにはトンネル完成は1990年12月とあった。ただ、1994年9月に訪れた時は、まだ新道の工事が続けられていて一般車は通行できず、相変わらず黒田峠を越えていた。

   

落部側の扁額 (撮影 2016.10. 9)

銘板 (撮影 2016.10. 9)
「1990年12月完成」とあるが、
実際に一般車が通れたのは数年の後
   

<旧道の様子>
 トンネルに続く道とほぼ直角に旧道が交差する。峠方向の道からは流水が路面を流れ下っていて、荒れた感じである。落部側の旧道は峠まで近いので、ちょっと寄ってみようかという気にさせられるが、道が悪そうなのでやはり断念することとした。これでもう、黒田峠を訪れることはない。

   

峠方向の旧道 (撮影 2016.10. 9)
流水が激しい

麓方向の旧道 (撮影 2016.10. 9)
   
黒田峠(再掲) (撮影 1994. 9.25)
手前は落部、奥が内ヶ谷
ジムニーの後ろに林道開通記念碑などが立つ
   

<黒田峠>
 この峠の名は、落部側の峠直下にあった黒田という集落名から来ているものと思う。その黒田は「くろんだ」と発音したようだが、その集落に関する詳しいことは分からない。
 
  外界から内ヶ谷に通じていた峠は、他にクナジロ峠(西峠とも)と越佐峠(内ヶ谷峠とも)があったが、クナジロは板取村、越佐(こっさ)は白鳥町の地名(あるいはそれに類したもの)である。 これらの峠名は内ヶ谷を中心に何処へ越えるかを示していた。内ヶ谷側の住民にとって峠道が重要だったことを表しているのではないだろうか。
 
<初めて峠を訪れた時>
 黒田峠は旧大和町の落部と内ヶ谷の大字境でしかなく、地形図や一般の道路地図では何の境界線も引かれない。内ヶ谷トンネルが描かれる前では、そこが峠であることが気付き難い。 訪れてみて初めて峠と知り、ツーリングマップに「峠」とだけ書き込んでおいた。名前なども分からず、ただ元の黒田林道の峠だと記憶した。その時の峠の写真が2枚残る(上と下)。クナジロ峠から少し内ヶ谷に入った県道脇で野宿した朝で、まだ十分に陽が昇る前であった。薄暗い峠で、写真もピンボケとなる。林道の開通記念碑が立っていたが、写真からは碑文も十分には読み取れない。黒田亀尾島林道とあったようだが、開通年などは不詳である。

 
林道の開通記念碑 (撮影 1994. 9.25)
ピンボケで細かい字は読めない
   

<黒田亀尾島林道>
 この林道名からすると、落部の黒田集落から「亀尾島」(きびしま)に至る道となる。この「亀尾島」は亀尾島川(内ヶ谷川でもある)を指すのかと思う。 ただ、亀尾島川の八幡町側の流域に明治初期まで亀尾島村が存在した。現在の八幡町相生(あいおい)の一部で、田口・中・荒倉・雛成(ひななり)の集落から成る。 明治8年より相生村の字と変わったが、現在は地名での亀尾島は見掛けることがない。黒田亀尾島林道はこの亀尾島村への道と考えるのは、林道開削時期とも隔たり、ちょっと行き過ぎのようだ。
 
<「黒田〜亀尾島林道」の標柱>
 県道52号が内ヶ谷川を渡る橋の袂の林道分岐に「黒田〜亀尾島林道」と書かれた林道標柱が立っていた(クナジロ峠参照)。「延長11.827米」ともあった。 この林道が黒田峠に碑がある黒田亀尾島林道と同一かははっきりしないが、もしそうだとする。すると、延長約12kmは黒田集落から黒田峠を越え、丁度クナジロ峠に至る距離に相当する。
 
<林道開通年>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、昭和50年(1975年)に板取村側からクナジロ峠まで自動車道が開通し、大和村側の「林道」に接続したとある。 その「林道」が黒田亀尾島林道だったのではないか。すると、昭和50年以前には既に黒田峠からクナジロ峠まで車道が通じていたことになる。 ただ、内ヶ谷集落の廃村が昭和45年(1970年)なので、少なくともそれ以前には黒田峠の前後だけでも林道は通じていたのではないだろうか。それに遅れ、昭和50年に内ヶ谷と板取村の間で車の行き来が可能となる。尚、内ヶ谷峠(越佐峠)には現在も車道が通じていない模様だ。
 
<峠道の変遷>
 古くから内ヶ谷集落と外界とを結ぶ主要な交通路であった黒田峠に、黒田亀尾島林道により初めて車道が通じた。 その後、クナジロ峠で板取村と繋がると(1975年)、遠く岐阜市街を起点とする長大な県道岐阜白鳥線の一部となり、主要地方道ともなって行く。 ただ、1993年頃に重要な岐阜市から板取村までの区間を国道256号に取って変わられ、残りの板取村〜白鳥町は主要地方道・白鳥板取線となる。その間、県道とか主要地方道と呼ばれながらも、黒田峠前後は林道開通時と変わらぬ狭い道のままであった。
 
 それが内ヶ谷トンネルの完成(1990年12月)により峠区間の道は生まれ変わった(トンネル併用開始は1996年頃)。これは内ヶ谷治水ダム工事に関係するのだろう。 既に内ヶ谷廃村(1970年)から時が経っていた。新道開通で黒田峠前後3km余りは旧道の身となる。 建設中の内ヶ谷治水ダムの工事車両などが内ヶ谷トンネルを行き交うのだろうが、旧道は通る車も絶えて久しい。今の黒田峠は、かつて内ヶ谷集落に暮らした人たちの思いだけをひっそり留める峠である。

   
   
   
落部側に下る 
   

<落部側に下る>
 黒田峠の標高は約855mで、内ヶ谷トンネル坑口標高は810m弱だ。標高差は50mに満たないが、沿道から見える景色は異なったようだ。 多分、今は旧道となっている区間から落部側を望んだ風景が下の写真である。朝日を眺めているので、東を向いている。比較的大きな川が見えているが、長良川本流ではないだろうか。現在の内ヶ谷トンネルに続く道では、暫く視界は広がらない。

   
朝日を望む (撮影 1994. 9.25)
長良川本流沿いが見えているようだ
   

<道の様子>
 快適だがどことなく寂しい道が落部側に下る。峠方向に向く距離を示した番号の看板が立つ。「74」とあるのは7.4kmを表す。これは長良川沿いに至るまでの距離に相当し、多分、起点は国道156からの分岐付近だろう。

   

道の様子 (撮影 2016.10. 9)
あまり視界は広がらない

距離の看板 (撮影 2016.10. 9)
「74」は7.4kmの意味
   

左に分岐 (撮影 2016.10. 9)

<黒田集落>
 「74」の看板より数100m下った辺りで、何本か左に道が分かれる。道と言っても、人がやっと通れるかどうかの古い物で、今はどれも荒れ果てている。 古い道路地図では、この道を少し奥に入った辺りに黒田の集落が記載されている。地形図でも「黒田」の文字だけは残る。元の峠道はその黒田集落を通過していたのではないだろうか。車道開通により、この付近の道筋は大分変わったものと思う。その後も、旧道ではないかと思われる道の痕跡が沿道に見られた。
 
 黒田集落付近で路肩に停まって地図を確認していると、後方より軽ワゴン車一台が追い越して行った。多分、板取村の島口手前で板取ふれあいバスにすれ違って以来の、動いている車である。

   

左に分岐 (撮影 2016.10. 9)
この奥に黒田集落があったのか

左に分岐 (撮影 2016.10. 9)
   

<展望>
 車道は大きな弧を描いて下る。明らかに昔の峠道ではない。車道を通す為だけに切り開かれた道なので、沿道に人家などが立つ様子はない。そこがどこか寂しげに思えたところだろうか。
 
 道は北方へ一段と大きく張り出し、その先カーブを曲がった所で展望が広がった。落部谷川の谷間から更に峰を越えた先の長良川方面が見渡せた。

   
展望 (撮影 2016.10. 9)
   

<林道相生〜落部線>
 車が入れる林道の分岐が一箇所ある。林道看板の文字はかすれて読めないが、工事看板に「林道相生〜落部線」とある。相生は旧八幡町側にある地名だ。

   

右に林道相生〜落部線分岐 (撮影 2016.10. 9)

林道関係の看板 (撮影 2016.10. 9)
   

<樹魂(余談)>
 林道分岐のちょっと先で、林の中にひっそり佇む石碑を見掛けた。こういうのを発見するのはいつも妻だ。何か峠道に関する物かと期待したが、「樹魂 平成拾年度」と刻まれるだけだ。妻は外すことも多い。


樹魂の碑 (撮影 2016.10. 9)
   

ゲート箇所 (撮影 2016.10. 9)

<ゲート箇所>
 内ヶ谷トンネルから4km程も走ると、山腹を大きく蛇行しながら下って来た道も、そろそろ落ち着いて来る。するとゲート箇所を通過する。 峠方向に見る道路情報看板には「落石 通行注意」と電光表示されていた。また、その横に立つ通行規制看板では、規制区間が「大和町内ヶ谷〜落部区間」となっていた。距離は17.5kmとあった。
 
 この落部のゲート箇所から17.5kmとなると、内ヶ谷も過ぎ、クナジロ峠を越えて関市板取に入ってしまう。関市板取側の麓にある最初の集落・三洞(さんぼら)にゲート箇所があるが、丁度そこまでの距離に相当する。

   

道路情報看板など (撮影 2016.10. 9)

通行規制看板 (撮影 2016.10. 9)
   
   
   
ゲート箇所以降 
   

<支流の川を渡る>
 ゲート箇所の直後より、道は次々と橋を渡って行く。落部谷川の2、3の支流の川を右岸に左岸にと渡り返しながら下る。

   
落部谷川支流の川を渡って行く (撮影 2016.10. 9)
   

「この先 一般車両に注意」の看板 (撮影 2016.10. 9)

<家屋や耕作地>
 「この先 一般車両に注意」の看板が立つ先には、家屋も一軒見られた。「一般車両」としているのは、やはり内ヶ谷治水ダムの工事関係車両が多く通行する為だろう。
 
 道はちょっとしたつづら折りの様にして支流沿いを下る。沿道には造成地や畑などの耕作地も現れ始める。関市板取の三洞集落を過ぎて以降、こうした景色はトンと見られなかった。

   

造成地 (撮影 2016.10. 9)

耕作地など (撮影 2016.10. 9)
   

<宮前集落へ>
 沿道に人家が増え始め、道が集落内に入って来たことをうかがわせる。落部の宮前集落だと思う。支流沿いを集落内に通じる道を右に分けると、県道52号は集落をやや北に外れて進む。


集落内へ (撮影 2016.10. 9)
   

2車線路 (撮影 2016.10. 9)
右手の下に人家

<道の様子>
 人家の間をそれた分、道幅が広くなり、一部にセンターラインも見える。距離は長いが、快適ではある。ただ、元からの黒田峠に至る峠道は集落内に通じる細い道の方であろう。

   

<T字路>
 県道52号はやっと落部谷川本流沿いに出る。T字路を右折すれば、落部谷川右岸沿いだ。分岐の角にはいろいろ看板が立つ。やはりダム工事関係が多い。


落部谷川沿いに出る (撮影 2016.10. 9)
   

分岐に立つ看板 (撮影 2016.10. 9)
県道52号はT字路を右折

分岐に立つ看板 (撮影 2016.10. 9)
左折が県道52号、直進は「行き止り」とある
   
分岐の角に立つお堂 (撮影 2016.10. 9)
   

落部谷川沿いの道に出た (撮影 2016.10. 9)

<穏やかな地形>
 関市板取の三洞からここまで20km近い峠道が続いた。比較的大きな落部谷川に沿うようになり、道はやっと安定する。周囲の地形も穏やかだ。分岐の角に立つ地蔵も迎えてくれている。
 
 20数年前に黒田峠を越えてここに降り立った時は、ここまで来れば一安心と思った。前日の内ヶ谷での野宿の夜は、酷い雷に悩まされ、生きた心地がしなかった。 また、内ヶ谷トンネルを抜ける新道の建設途中で、道が通り抜けられるかどうかも分からなかった。無事にこの落部谷川沿いまで来られ、記念写真を撮ったのだった(下の写真)。

   
分岐近くを峠方面に見る (撮影 1994. 9.25)
この先、県道52号は左に曲がって登って行く
道路看板には左折が「内ヶ谷」、直進は「落部」
分岐角には既にダム工事関係の看板が並んでいた
   

落部公民館付近 (撮影 2016.10. 9)
バス停が立つ

<落部谷川沿いに下る>
 落部谷川は本流の長良川とほぼ並行して南流している。左手の低い尾根一つ越えれば長良川沿いだ。
 
 道はほとんど平坦である。沿道には田んぼや畑が広がる。関市板取の板取川沿いではあまり見られなかった風景だ。

   
田畑が広がる (撮影 2016.10. 9)
奥に東海北陸自動車の高架が見えて来た
   

<ぎふ大和ICへの分岐>
 落部谷川沿いになって4km足らず行くと、東海北陸自動車の高架を過ぎ、ぎふ大和ICへの分岐がある(下の写真)。そこをそのまま直進すれば、直ぐに長良川を渡って国道156号に出る。
 
 今日の宿はひるがの高原の郡上高原ホテルに予約してあった。午前中は岐阜駅周辺の散策や岐阜城の見学で随分時間を使い、その後、延々とクナジロ峠から黒田峠へと続く峠道を走って来た。 本日の残り時間は少なく、東海北陸自動車を使って宿に急ぐとする。以前の旅では一日に幾つもの峠を越えていたが、最近はメインの峠一つに、近くの峠を2、3越えるのがやっとだ。気力も体力も続かない。早く宿に着いて風呂にでも入り、のんびりしようと思うばかりだ。

   
ぎふ大和ICへの分岐 (撮影 2016.10. 9)
ここを直進すると国道156号に出る
   
   
   

 これまで「黒田林道の峠」と記憶していた峠の名を知ることになり、少しすっきりした気分だ。名前があるかないかでは、峠に関するイメージもちょっと変わって来る。 ただ、22年振りの峠の再訪ができなかったのは、後から考えるととても残念だ。峠に立つ開通記念碑などもしっかり写真に撮りたかった。 以前乗り回していたジムニーやパジェロ・ミニに比べ、まだハスラーに対する信頼感が持てない気もする。それより何より、険しい道を走る自分自身の精神力が欠如してしまったようだ。 かつては、誰も住まない内ヶ谷の地で、激しい雷雨の夜、一人で野宿した経験もあるというのに・・・。最近はとにかく明るい内に宿に入って体を休めることばかり考える。 年は取りたくないものだと思う、黒田峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 9.25 内ヶ谷 → 落部 ジムニーにて (前日は内ヶ谷で野宿)
・2016.10. 9 内ヶ谷 → 落部 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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