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四十八曲峠
  しじゅうはちまがりとうげ  (峠と旅 No.313)
  屈曲の多さが名の由来となった峠道
  (掲載 2020. 6. 3  最終峠走行 2015.10.12)
   
   
   
四十八曲峠(隧道) (撮影 1998.11.15)
手前は長野県東筑摩郡筑北村坂井
奥は同県千曲市大字上山田
道は長野県道(主要地方道)55号・大町麻績インター千曲線
隧道坑口の標高は990m (ツーリングマップルより)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
もう、この隧道は通行不可となっているようだ
坂上トンネルという新道が通じているらしい
  

<四十八>
 前回、四十八ヵ所越を掲載したのだが、その「四十八ヵ所」という名の由来が分からなかった。 ただ、峠道の各カーブに立つカーブミラーに番号が書かれていて、それが1番から始まり40番台まであることが判明した(48番まではないようだ)。 そこでハタと、今回の四十八曲峠を思い出したという次第だ。 この峠道にはヘアピンカーブが多く、実際に48ヶ所あるという訳ではないが、それくらい屈曲が多いという意味で四十八曲峠と呼ばれるようになったと思われる。 すると、佐渡島の四十八ヵ所越というのも、同様な理由で名付けられたのではないかと気付いた訳だ。
 
 今回は「四十八」繋がりでの掲載で、四十八曲峠を越えたのはもう22年前にたった一度だけである。撮った写真も2枚のみである。最近の状況などは分かりませんので、悪しからず。

   

<所在>
 四十八曲峠が長野県にあることだけは覚えていたが、ツーリングマップルなどの道路地図ではなかなかその場所が見付けられない。長野県は峠の宝庫で、それが嬉しい半面、あまりに多過ぎて見付け出すのに煩わしい程である。
 
 峠道は概ね東西方向に通じ、峠の東側は長野県千曲市(ちくまし)大字上山田(かみやまだ)になる。更級郡(さらしなぐん)の旧上山田町(かみやまだまち)だ。
 
 西側は東筑摩郡(ひがしちくまぐん)筑北村(ちくほくむら)坂井で、旧東筑摩郡坂井村(さかいむら)だ。私が越えた当時は、上山田町と坂井村の境に峠はあった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 峠は大きく見て南北方向に連なる筑摩山地(ちくまさんち)に通じる。 この山地は、北は長野市鬼無里(きなさ)付近から、南の美ヶ原(松本市・上田市・長和町にまたがる)付近までの山地および丘陵地で、途中犀川(さいがわ)が横切っている。 南に位置する八ケ岳連峰とともに、長野県を東北信と中南信の大きく二つに分断する存在になっている。その為、この山地に通じる峠は多い。ちょっと挙げてみると、猿ケ馬場峠、修那羅峠、青木峠、保福寺峠三才山峠、武石峠などであり、正に交通の要衝だ。
 
 四十八曲峠もそうした峠の仲間で、筑摩山地中の冠着山(かむりきやま、1252m)と八頭山(1204m)との間の鞍部に位置する。 ただ、筑摩山地というのははっきりした一本の主脈を連ねた山脈などではないので、これ自身地図で判別し難い。 一般の道路地図で四十八曲峠を見付ける場合、松本市の右上、上田市の左上、修那羅峠より更に北辺りだと、見当を付けて探している。

   

<水系>
 峠の東側は大筋千曲川(信濃川水系)本流左岸沿いになり、その小さな支流・女沢川の更に支流上部に峠は通じる。
 
 峠の西側は大きく千曲川の支流・犀川(さいがわ)の右岸域になる。その支流・麻績川(おみがわ)の源流部に峠は位置する。麻績川の上流部は地元では永井川と呼ぶそうで、地形図などでも永井川で出ている。永井川に安坂川(あさかがわ)が合流して以降を麻績川と記している。
 
 尚、文献(角川日本地名大辞典)では麻績川源流を八頭山より更に南にある大林山(1333m)西麓としている。地形図では稲倉沢という支流が流れ下っている。もしかしたらそちらが麻績川(永井川)本流で、四十八曲峠の方は源流の一つではあるが、支流かもしれない。

   

<車道開通>
 四十八曲峠に隧道を抜ける車道が開削されたのは、文献(角川日本地名大辞典)によると、昭和39年(1964年)のことだそうだ。 東筑摩郡麻績村(おみむら)から坂井村(現築北村)を経て、上山田町(現千曲市)の戸倉・上山田両温泉に至る県道が開通している。 初期の県道名や県道番号は分からないが、主要地方道になってからは長野県道55号・大町麻績インター戸倉(とぐら)線で、いつからか大町麻績インター千曲線と名が変わった。
 
 旧坂井村側の坑口を写真に撮ってあり、それを見ると扁額らしい物がある。そこに隧道名が書かれていたのかもしれないが、はっきりとは写っていない。果して「四十八曲峠隧道」という名であったかどうか?

   

<坂上トンネル>
 現在、初期の隧道の約600m南、八頭山の下辺りに坂上(さかがみ)トンネルが通じている。トンネル開通は2005年とのこと。坂井と上山田からそれぞれ一字を取って「坂上」と名付けたのだろう。
 
 そもそも、「坂井」も合成された地名で、江戸期からある安坂村(あさかむら)と永井村(ながいむら)が明治8年に合併した時、それぞれの一字を取って坂井村としたものだった。 一方、「上山田」は元は山田村で、千曲川下流の高井郡山田村(現高山村)と区別する為、上流側にあることから上山田村としたようだ。「坂上」などと言うともっともらしく思えるが、大元の地名からは程遠い名になっている。
 
 尚、トンネル名を四十八曲トンネルなどとしなかったのは、もうそんなに多くのカーブを曲がらずに済むからだ、などと勘繰ったりする。
 
<旧道の状況>
 坂上トンネルを抜ける新道の出現により、初期の隧道を通る旧道区間は廃道の方向にあるようだ。特に上山田側は車両通行止となり、地形図上からも消えようとしている。坂井側では隧道の少し手前より冠着山方面へと村道冠着線が分かれているので、旧道区間はまだ通れるのかもしれない。
 
 それにしても、ちょっと見ない内に四十八曲峠は大きく変貌してしまった。元々、名前程に険しい峠道ではなかったので、じっくり見ながら走った訳ではなく、写真も2枚しか撮っていない。通行止となるくらいなら、もっとシャッターを切っておけばよかったと思うばかりだ。

   
峠の旧坂井村側の様子 (撮影 1998.11.15)
右手の大きな標柱には「聖山高原県立公園 四十八曲峠」とある
標柱の裏手からは冠着山への登山道となる村道冠着線が分かれる
この時は当時付き合っていた妻のミラージュでやって来た
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
看板 (撮影 1998.11.15)
「冠着山 2Km」の看板が村道冠着山線を示している
当時はまだ坂井村と上山田町との境で、「坂井村」の看板が立つ
   

<旧峠>
 新しいトンネルができる一方、車道開通前には古い峠があった筈である。多分、旧隧道の真上を越えていたものと思う。地形図に上山田側からの徒歩道がその地点まで登って来ている。 文献によると峠の標高は1,037mとのこと。現在の地形図では、隧道坑口が約990m、その上部の鞍部は1,020mを少し超えている。八頭山から冠着山に至る稜線上では、まあまあ低い鞍部で、峠が通じていた可能性は高い。
 
 尚、地形図(地理院地図 電子国土web)で「四十八曲峠」と検索すると、旧隧道上部でもましてや坂上トンネルでもない、全く別の場所(地形図)を指し示す。旧隧道から稜線上を北へ600m足らず行った地点だ。最初、そこが元の四十八曲峠なのかと思った。しかし、標高は1,060m前後と高く、文献の値とも大きく異なる。やはり、旧隧道上部が古い四十八曲峠ではなか。

   

<峠名>
 地形図に見られる旧峠を越える道と、その後の隧道を抜ける車道では、全く道筋が異なっている。 車道の方は48ヶ所ものカーブがあるか分からないものの、確かに屈曲が多い道で、四十八曲峠という名は納得が行く。 一方、旧道は概ね川筋に通じ、大きな屈曲は見られない。坂井側の旧道は不明だが、峠直下に下る永井川沿いに通じていておかしくない。どうも旧峠には「四十八曲」という名は相応しいようには思えないのだが。
 
 すると、四十八曲峠とは昭和39年の車道開通時に新しく生まれた名前だったのだろうか。 通常、車道開削によって通じた峠は、旧峠の名を引き継ぐのが一般で、新規に命名することは少ない。その為、旧峠が存在しない時などは名無しのままのことが多い。 四十八曲峠の場合、旧峠が存在するようなのに、新しい名前を付けたということだろうか。旧峠には名がなかったのか。
 
 似たケースではないかと想像するのが二十曲峠だ。 ここにも旧峠があったようだが、峠名は林道開通時に付けられたように思える。
 
 仮に四十八曲峠という名が元からあったとすると、それは車で走った場合ではない。全く違った峠道の景色を見て、我々は「四十八曲」だと思っていることになる。

   

<波閇科峠>
 文献(角川日本地名大辞典)を調べていると、波閇科神社(はべしなじんじゃ)の項に、「当町(上山田町)から東筑摩郡麻績村への峠を往古閇科峠(現在四十八曲峠)、登り口を科坂という」とあるのを見付けた。ただ、「閇科峠」とあるのは「波閇科峠」(はべしなとうげ)の誤植のようである。これが隧道上部にあった旧峠の名なのかもしれない。
 
 波閇科神社の創建は日本武尊が波閇科峠を越えた際、天照大神を勧請したのが初まりと伝えられるそうだ。遠く神話の話である。元は波閇科峠の麓にあったのが、現在の場所(旧上山田町上山田字城山)に移転したとのこと。

   

<冠着山周辺の峠(余談)>
 四十八曲峠の北方にそびれる冠着山(かむりきやま)は歌枕となる姨捨山(おばすてやま)とされる(異説あり)。和歌に詠まれる程、世に知られた山ということになる。 冠着山から派生する尾根上には四十八曲峠(波閇科峠)を含め、幾つかの峠道が通じる。古(いにしえ)の東山道(とうさんどう)と近い関係にもあるようだ。 ここ信濃は関東への入口に当たる要衝の地となる。こうしたことも冠着山(姥捨山)が都で知られた一因ではないか。次回は東山道の支路とも言われる古峠でも掲載しようと思う。

   
   
   

<何々曲峠(余談)>
 「数値」+「曲峠」という名の峠はいろいろある。余談だが以下に主な峠を挙げてみようと思う。

   

<七曲峠>
 七曲峠(ななまがりとうげ)というのは各地に見られる。峠道の一部につづら折り等の屈曲があることが由来となる場合が多いようだ。 「七」という数値は古くから「多い」ということを示す代名詞のような物である。今回の四十八曲峠などは車道開通に伴う命名のように思われるが、七曲峠は古くからある峠名だ。 以下に主な七曲峠を挙げる。
◯岩手県一関市川崎町門崎(地形図
◯岩手県一関市藤沢町・宮城県登米市東和町(地形図
◯秋田県雄勝郡羽後町梺(ふもと)・菅生(すごう)(地形図
◯京都府福知山市字川北・大字報恩寺(下報恩寺村)(ほぼ地形図
◯岡山県岡山市北区御津河内(地形図
◯広島県広島市佐伯区湯来町大字葛原(つづらはら)・廿日市市原
 (地形図
◯山口県長門市三隅上(地形図
◯福岡県香春町大字鏡山・みやこ町勝山松田(ほぼ地形図
◯福岡県糸島市二丈鹿家(地形図
◯福岡県那珂川市・佐賀県上峰町(地形図
◯熊本県南阿蘇村(ほぼ地形図
 
 中には七曲峠と呼んだり呼ばなかったり、はっきりしないものも含む。また、これら以外にも七曲峠と名が付く小さな峠をどこかで見掛けたような気がする。

   

<十曲峠>
 「七」の次は十曲峠(じっきょくとうげ)になる。地形図にはないが、文献に「岐阜県中津川市落合字山中から新茶屋付近までの旧中山道の坂」と出ている。江戸期に中山道が頻繁に利用された時には既に「十こく峠」などと記されている。今も旧街道の石畳が残るそうだ。(ほぼ地形図)。

   

<二十曲峠>
 次は前述の二十曲峠となる。山梨県都留(つる)市鹿留と同県忍野(おしの)村内野の境にある。車道開削時に付けられた名に思える。(地形図

   

<四十曲峠>
 十、二十と続き、次は四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)になる。岡山県真庭郡新庄村と鳥取県日野郡日野町との県境にある。四十曲乢(だわ)とか単に「四十曲」とも呼ぶ。 かつては出雲往来の峠であった。鳥取県側につづら折りの区間があり、それが峠名の由来だそうだ。古くからある名の様である。井出孫六編・日本百名峠の一つになっている。現在は四十曲トンネルが通じる。(地形図

   

<四十八曲峠>
 今回の峠となる。佐渡の四十八ヵ所越も親戚のようなものか。
 
 峠ではないが四十八坂(しじゅうはっさか)と呼ばれる所がある。岩手県山田町の海岸線付近一帯の通称とのこと。 (地形図
 文献には次のようにある。
 「昔は山腹を横断し、四十八か所の険しい坂道を上下したことからその名がついた。 昭和4年県道を通し、坂を削って海岸線に沿って平坦な曲り道にしたことから四十八曲りといわれるようにもなった」。
 「四十八曲り」というのはやはり車道開通後の名のようだが、それ以前に「四十八坂」と呼ばれていたようだ。
 
 他にも「四十八」が付く地名などは多く、三重県名張市の赤目四十八滝などを思い出す。峠では2つしかないのは寂しいくらいだ。

   

<九十九曲峠>
 最後は九十九曲峠(くじゅうくまがりとうげ)となる。四国の愛媛県西予市城川町と高知県檮原(ゆすはら)町との県境にある。峠道のつづら(九十九)折りが由来となるようだ。土佐勤王志士脱藩の峠として知られる。井出孫六編・日本百名峠の地芳峠の項で少し登場する。(地形図

   

<馬曲峠>
 番外編として「馬曲峠」というのがあるようだ。長野県木島平村のかつての木島郷と同県栄村の志久見郷を結んだそうである。峠の場所などはよく分からない。

   
   
   

 新型コロナウィルス対策の一環で自宅に居る機会が多くなり、暇を持て余すという声もあるようだ。しかし、私にはそのような心配は全くいらない。 「何々曲峠」を全てリストアップしてみようか、などと思い立てば、いくらでも時間が潰せる。ただ、最近はパソコンの前に長時間座っているのもやや辛い。ホームページ「峠と旅」の掲載を続けて23年、「峠」一つをテーマに書くことは尽きないが、そろそろ自分の体力が尽きそうに思う、四十八曲峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1998.11.15 旧坂井村 → 旧上山田町 ミラージュにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・関東 2輪車 ツーリングマップ 1989年1月発行 昭文社
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸  2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2020 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
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