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諸坪峠
  しょつぼとうげ  (峠と旅 No.233)
  天城山脈の只中を豪快に越える未舗装林道の峠道
  (掲載 2015. 3.24  最終峠走行 1991.11. 4)
   
   
   
諸坪峠 (撮影 1991.11. 4)
奥が静岡県(賀茂郡)西伊豆町大沢里(おおそうり)
手前が同県(賀茂郡)河津町梨本(なしもと)
道は、西伊豆町側は白川林道、河津町側は荻ノ入林道
峠の標高は730m〜740 (国土地理院の地形図の等高線より読む)
   
   
   
 このところ、国士峠鹿路庭峠蛇石峠と、伊豆の峠の掲載が続き、こうなったらついでである。 ちょっと古い記録だが、諸坪峠を越えた時のことを取り上げてみたい。 この付近の林道は、今はほとんど通行止のようで、もう一般車が諸坪峠を越えることはなさそうだ。 私のアルバムにも、もう諸坪峠の写真が増えていくことはない。
   

峠の看板 (撮影 1991.11. 4)
峠の西伊豆町側に立つ
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<峠名>
 国土地理院 地形図には「諸坪峠」と記され、ルビが「しょつぼとうげ」と振られている。このルビがないと、ちょっと読めない。
 
 峠には小さな看板が立ち、こちらには「藷坪峠」と書かれている(左の写真)。 草冠が付いた「藷」の訓読みは「イモ」で、サツマイモなどを指すようだ。 「諸」と「藷」では大違いである。果たしてどちらが正しいのだろうか。 この付近はイモが採れた土地だというようなことに由来する峠名かと想像する。
   
<地形図(参考)>

(上の地図は、マウスによる拡大縮小、移動ができます)
   
<所在>
 地形図の諸坪峠の近くには、大きく「天城山脈」と書かれている。 伊豆半島をほぼ東西に連なる天城山脈だが、諸坪峠付近は南北に稜線が延びている。 北の猿山(1000m)付近から南の十郎左エ門(山)(953.6m)付近までである。 よって諸坪峠は天城山脈を越える峠ながら、峠道は東西に通じている。
 
<天城山脈を越える峠>
 天城山脈を越える峠道は幾筋もあるようだが、車道が越える峠となると限られてくる。 まず、天城山脈の中核部を天城峠が越え、 天城山隧道(旧天城トンネル)と新天城トンネルという2つの車道が通じている。 東の端では矢筈山付近に鹿路庭峠(ろくろば)が越えているが、 これはもう天城山脈と言っていいかどうか微妙な程、東の外れである。 一方、西側は、今回の諸坪峠くらいで他に峠らしい峠が見当たらない。 諸坪峠から続く長九郎林道途中に八瀬峠があるが、道のコースからして峠道らしく思えない。 何にしても、諸坪峠は天城峠に次ぐ天城山脈屈指の車道の峠と言えそうだ。
 
<標高>
 改めて天城峠の天城山隧道の標高を調べてみると、河津町側で710m〜720m、伊豆市側でも720m〜730mである。 一方、諸坪峠は730m〜740mだ(何れも国土地理院の地形図の等高線より読む)。ツーリングマップルにはきっかり730mともある。 僅かではあるが、諸坪峠は天城山隧道より標高が高そうだ。 天城山脈最高所の車道の峠道と言える。ただ、伊豆半島最高所ではなかった。 天城山脈から西伊豆山地へと連なる稜線上に、仁科峠(にしな)があり、標高890mを超える。
   
<河津町・西伊豆町>
 峠は伊豆半島の東海岸に面する河津町(かわづちょう)と、西海岸に面する西伊豆町の境にある。
 
 河津町の中央部を河津川(かわづがわ)が南流し相模灘に注いでいるが、その支流・荻ノ入川の上流部に諸坪峠は位置する。 天城峠も同じように河津川の上流部で、より本流に近い源頭部にある。
 
 諸坪峠の西伊豆町側は仁科川(にしながわ)の支流・白川(しらかわ)が流れ下る。仁科川は駿河湾に注いでいる。 一方、天城峠を越えると、そこは伊豆半島中央部を北流する狩野川(かのがわ)水系になる。 そこが諸坪峠と天城峠の大きな違いであった。
 
 天城山脈とは、伊豆半島の沿岸域と中央部の狩野川水系を大きく隔てる山脈というイメージがあり、 そこを越える峠は海岸と内陸という異なった地域を繋ぐという印象を持っていた。 旅をする時の味わいが違うのだ。鹿路庭峠は小さな峠道ながら、そうした峠の一つだ。一方、諸坪峠の場合、沿岸同士を繋いでいる。 その点がやや残念な気がする。やはり天城峠には勝てないのであった。
   
   
河津町側より峠へ
   
<ループ橋>
 河津町側からの峠道への入口には大きな目印がある。ループ橋だ。国道414号・下田街道に架かる。下田市街方向から天城峠を越えるべく、下田街道をやって来ると、そのループ橋を渡る少し手前で「河津七滝」と看板がある道が分かれる。そこに入ればよい。
   

河津ループ橋を降りて来たところ (撮影 2015. 1.20)
左に河津七滝入口

これから河津ループ橋を登るところ (撮影 2015. 1.21)
右に河津七滝入口
   

河津七滝ループ橋を下から眺める (撮影 2001. 1. 4)
 正確には河津七滝ループ橋と呼ぶようだ。以前はこうしたちょっと変わった道を走るのは楽しいものだったが、最近は疲れるだけである。グルグルと何周も回っているようで、その内目まいがして気分が悪くなった。
 
 尚、七滝は「ななだる」と読み、河津川の本流に架かる7つの滝が観光名所となっている。ただ、その中の大滝(おおだる)は比較的大きく見栄えがするが、他は小さな滝ばかりだった。沿道は観光客の車や人で賑っていて注意が必要だ。
 
 大滝のちょっと上流側から河津川を渡って支流の荻ノ入川沿いに道が分かれて行く。そちらに進むと人影は減り、やっと落ち着けるようになる。
   
 道は荻ノ入川の左岸に入り、直ぐに右岸に渡る。 川に沿った寂しい道となる。 喧騒から分かれて2km程で、また沿道に建物がわずかに見える。 最初、そこが萩ノ入集落かと思っていたが、後に地図で見ると「沼ノ川」とある。 ただ、人が住む様な人家はほとんどなかったようだ。
 
<荻ノ入林道起点>
 すると道は左岸に渡り返す(右の写真)。 渡った橋の欄干に、赤い柱が立て掛けてあって、「林道起点」と書かれている。伊豆の林道では、こうした赤い柱をよく目にする。 多分、ここから先が荻ノ入林道なのであろう。直ぐに左への分岐があるが、直進が諸坪峠に通じる荻ノ入林道である。 分岐方向から流れて来る支流の川が、沼ノ川という川だろうか。

荻ノ入林道起点 (撮影 1991.11. 4)
橋の欄干に「林道起点」の赤い標柱
   

右に分岐あり (撮影 1991.11. 4)
左が峠へ
<林道通行止>
 沼ノ川集落から先は、家屋はほとんど見られない。 寂しい未舗装の林道が続く。この先、もう 人家がないことからか、現在はこの途中で荻ノ入林道は通行止になっているようだ。
 
<再び右岸へ>
 林道起点から2km程で、道は再び荻ノ入川を右岸へ渡る。 渡った先で、道が二手に分かれる(左の写真)。 右の林道は荻ノ入川の右岸を更に遡る方向に進んでいる。 しかし、入口には「この先行き止まり」と看板があった。 林道名は二本杉?林道と書かれていたようだ。
 
 諸坪峠へは左の道を行く。 右岸を少し下流側に進み、沼ノ川(?)とはまた別の支流沿いに遡る。 やがて、峠がある峰へとダイナミックに登って行く(残念ながら写真はなし)。
   
   
   
<峠の様子>
 赤茶けた土の林道がそのまま峠を越えている。 峠の切通しは土や岩が露出し、荒々しいばかりだ。 草木がほとんど生えていないことから、斜面は崩れ易いのだろう。
 
<峠の河津町側>
 峠からは河津町側に眺めが広がる。 峠に至る林道の道筋が、山腹に刻まれている光景が目に入ってくる。 如何にも険しそうである。遠くに目をやると、天城山脈が連なっている。 一際高くそびえているのは、天城連山の主峰であり、伊豆半島の最高峰でもある、万三郎岳(ばんざぶろうだけ)だろうか。

峠の河津町側 (撮影 1991.11. 4)
荻ノ入林道の終点である
   
峠の河津町側の景色(左) (撮影 1991.11. 4)
遠くに見えるのは天城山の中枢部、一際高い山は万三郎岳?
   
峠の河津町側の景色(中) (撮影 1991.11. 4)
山腹に荻ノ入林道の道筋が見える
   
峠の河津町側の景色(左) (撮影 1991.11. 4)
峠直前の様子
未舗装林道には昔の武骨なジムニーが似合っていた
   
   
峠の西伊豆町側
   
<峠の西伊豆町側>
 西伊豆町側から見る諸坪峠も荒々しい。峠の切通しから西伊豆町側に道はやや下って来ている。
   
諸坪峠 (撮影 1991.11. 4)
峠の切通し
   
<林道分岐>
  峠の西伊豆町側では道が分岐している。一本は白川(しらかわ)の谷に下る白川林道、もう一本は峠から南に延びる稜線沿いに進む長九郎林道(長九郎山林道とも)だ。長九郎林道はその先長九郎山 の西を八瀬峠で越え、那賀川沿いへと下って行く。当然ながら、白川上流部に位置する諸坪峠から白川に下る白川林道が、峠道の本線と言えるだろう。
   
諸坪峠 (撮影 1991.11. 4)
峠の看板が立つ
   
<峠の看板>
 峠の切通しと長九郎林道分岐の角に、「藷坪峠」と書かれた看板が立つ(前出)。峠の切通し方向を指して「河津、七滝、ループ橋」と書かれている。「橋」の字がくるくる輪を描いていて、ループ橋の2重らせんを表現しているかのようだ。
 
 長九郎林道方向には「長九郎山、池代、大沢」とある。池代(いけしろ)は那賀川沿いに通じる県道115号に降りたった所の地名、大沢は更に県道115号を下り、県道15号と接続する辺りの地名だ。
   
諸坪峠 (撮影 1991.11. 4)
長九郎林道方向を見る
   
 残念ながら峠の西伊豆町側には眺望はあまりない。 代わりに道が分岐していることもあって、広いスペースがあり、ゆったり車が停められる。
   
諸坪峠 (撮影 1991.11. 4)
白川林道方向を見る
   
   
峠より西伊豆町側へ下る
   

白川林道途中 (撮影 1991.11. 4)
ゲート個所
<白川林道>
 白川林道は、峠より白川の本流へと比較的素直に下って行く。 谷に降り立つと、もう視界は狭い。河津町側の方が豪快な山岳道路の雰囲気が強かった。
 
 白川沿いになってゲート個所を過ぎた(左の写真)。峠方向を見ると、黄色い看板に「通行止」とあった。
   
<一般車両通行止め>
 諸坪峠を越えたのは1991年のことだが、3年後の1994年4月にも今度は白川林道から峠に向かった。 しかし、途中で通行止に遭い、引き返している。
 
 暫く経った2003年に再訪したが、やはり白川の支流(赤川?)を渡る橋で「一般車両通行止め」となっていた。 しっかりしたバリケードで橋が塞がれている。 伊豆の林道は1990年代から急激に通行止となっていったようだ。 私が1990年前後に林道を走ったのが、一般人が林道を走れた最後の時期だろう。現在、ほとんどの林道で通行止になっている。

通行止の橋 (撮影 2003. 7.27)
   
橋で通行止 (撮影 2003. 7.27)
   

「あかがわはし」とある (撮影 2003. 7.27)

「昭和三十九年十月竣工」とある (撮影 2003. 7.27)
   
 通行止の橋の手前は、丁度車の回転場のようになり、側らに慰霊碑が建立されていた。中国人殉職者鎮魂の慰霊碑だった。
   

通行止の前 (撮影 2003. 7.27)

慰霊碑 (撮影 2003. 7.27)
   
 現在の白川林道はこの慰霊碑を訪ねる道になっている。もうここより先には一般車両は容易には進めない。通行止の橋には「あかがわはし」とあった。その橋が渡る支流の川が「赤川」なのであろうか。

碑文 (撮影 1991.11. 4)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
(文字はやや不鮮明です)
   
   
白川林道起点
   

林道起点の看板が立つ (撮影 1991.11. 4)
<林道起点>
 通行止箇所より0.5km程下ると、何でもない道の途中に林道看板が立ち、「白川林道(起点)」とある。 その直ぐ下流側に白川を渡る橋が架かっている。峠側は左岸に、麓側は右岸に道が通じる。 その橋がある意味、道の分岐点のようであった。
 
 1991年当時はこの付近はまだ未舗装路だったが(左の写真)、2003年に訪れた時は、小奇麗なアスファルト舗装に変わっていた(下の写真)。 通行止の橋まで舗装化が行われたようだ。
   

上とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 7.27)
きれいはアスファルト舗装になっている

白川林道(起点)の看板 (撮影 2003. 7.27)
   
林道起点より下流側を見る (撮影 2003. 7.27)
   
<白川集落付近>
 右岸を少し下るとまた左岸に渡り返す橋が架かっている。付近には建物が出てくる。白川集落に入ったようだ。橋を渡ると林道が一本分岐している。林道看板に「林道 白川富貴野線(起点)」とある。
   

白川を渡る(峠方向に見る) (撮影 1991.11. 4)
橋の手前を右に白川富貴野林道が分岐する

白川富貴野林道入口 (撮影 1991.11. 4)
この林道はまだ走ったことがない
   
林道分岐付近を見る(峠方向) (撮影 1991.11. 4)
   
出合
   
<出合>
 道は出合で県道(主要地方道)59号・伊東西伊豆線に合流する。 付近は出合と呼ばれるようだ。 白川が本流の仁科川に注ぐ部分である。ただ、交差点付近には人家は見られない。 県道沿いに「出合」のバス停が寂しく佇むばかりで、何となく殺風景な道の分岐点である。
 
 ここ出合で白川が尽き、よって諸坪峠の峠道もここが終点である。仁科川沿いは仁科峠の領分である。次回は仁科峠を取り上げることになりそうだ。

県道59号から白石集落方向に見る (撮影 1991.11. 4)
   

県道59号を下流方向に見る (撮影 2003. 7.27)
側らに「出合」バス停がある

県道59号を上流側に見る (撮影 2003. 7.27)
この先に仁科峠が待っている
   
県道から分かれる峠への道 (撮影 2003. 7.27)
白川の左岸を遡る
   
<分岐に立つ看板>
 寂いしい交差点だが、一つ印象的な看板が角に立っていた。 「ようこそ大沢里へ」とある。「大沢里」は「おおそうり」と読む。 看板にもローマ字で「OH SOU RI」とルビが振ってあった。 諸坪峠の西伊豆町側は大字大沢里の地である。 看板に示された地図には、諸坪峠への白川林道の所に「未舗装 大沢、河津」と案内があった。
   

案内看板 (撮影 1991.11. 4)

案内看板 (撮影 1991.11. 4)
   
 看板によると大沢里の中でもこの出合は祢宜(ノ)畑(ねぎのはた)と呼ばれる地区のようだ。白川の他には大城(おおしろ)、宮ヶ原(みやがはら)という地区名が見られる。1994年に訪れた時も同じ看板が立っていた(右の写真)。

同じ看板が立つ (撮影 1994. 4. 4)
   

新しい看板 (撮影 2003. 7.27)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<新しい看板>
 2003年に訪れた時は、看板は新しくなっていた。 以前の方が味わいがあったように思う。 中国人慰霊碑の先は、道にバッテンが手書きで書かれ、「通行不可」となっていた。 「製材所」の所から分岐する道は白川富貴野林道だと思うが、そちらには何も記されていないので、 まだ一般車が通れるのかもしれない。
   
   
池代(余談)
   
 諸坪峠の道の本筋ではないが、長九郎林道の池代(いけしろ)側起点へ行ったことがある(2003年)。 大鍋越へと続く県道115号の途中の池代より道が分岐する(右の写真)。 しかし、入口には看板が立ち、「ここより2.5km先に車止めがあり 車両は侵入できません。」と出ていた(下の写真)。 長九郎林道もほとんど通れなくなってしまったようだ。

池代の分岐 (撮影 2003. 7.27)
県道115号から分かれる長九郎林道方向を見る
右脇に看板が立つ
   

池代分岐に立つ看板 (撮影 2003. 7.27)
八瀬峠が記されている
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

池代分岐に立つ看板 (撮影 2003. 7.27)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<長九郎林道途中>
 1991年に池代より途中まで長九郎林道に入ったことがある(下の写真)。 途中、八瀬峠より手前でカンス林道が右に分岐しているのだが、 当時使っていたツーリングマップ(関東 2輪車 1989年1月発行 昭文社)にはその道はまだ記されていなかった。 諸坪峠はどっちかと迷った末、カンス林道の方を進んでしまった。 結局、大鍋林道に出て、仕方がないのでそのまま大鍋越を越えることとなった。 その翌日、改めて荻ノ入林道から諸坪峠に向かったのだった。
 
 偶然に走ったカンス林道であったが、こちらも今はもう通れない様子だ。 それでもまだ一度は経験し、途中の景色などを写した写真が10枚ほどアルバムに残る。 残念なのは長九郎林道で、八瀬峠はもうお目に掛かれることはなさそうだ。
   

カンス林道分岐 (撮影 1991.11. 3)
直進の長九郎林道方向を見る

カンス林道分岐 (撮影 1991.11. 3)
右折するカンス林道方向を見る
   
   
   
 伊豆の林道を旅したのはもう20数年前のこととなる。 当時から通れない林道はいろいろあり、是非また来ようと思っている内に、ほとんど通れなくなってしまった。
 
  今とは違いデジカメなどない時代なので、頻繁に写真を撮ることはなかった。 後からすれば、もっと旅の様子を写しておけばよかったと思う。 カンス林道を抜けた後の肝心な大鍋越の写真も全くない。 当時はまだそれ程峠に関心があった訳ではなかった。まあ、名所旧跡でもなく知られた観光地でも何でもない単なる道を、いちいち写真に撮ることなど一般にはあまりしないだろう。その点、諸坪峠の写真が何枚か残っていたのは幸運である。 あの荒々しい峠の様子は、峠に関心がない者でも、思わず見惚れてしまう(?)、であろう。 もう二度と越えられないかと思うと、写真に残る峠の姿は何故かいとおしくも思える、諸坪峠であった。
   
  
   
<走行日>
(1991.11. 3 池代から長九郎林道のカンス林道分岐まで ジムニーにて)
・1991.11. 4 河津町 → 西伊豆町(白川林道) ジムニーにて
(2003. 7.27 池代入口、白川林道通行止箇所 キャミにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 22 静岡県 昭和57年10月 8日発行 角川書店(及びオンライン版/JLogos)
・県別マップル道路地図 22 静岡県 2006年 2版20刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2015 Copyright 蓑上誠一>
   
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