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大道峠
     だいどうとうげ   (峠と旅 No.225)  
  中之条と三国街道を繋ぐ脇往還が越える峠道
  (掲載 2014. 8.18  最終峠走行 2014. 6.25)
   
   
   
大道峠 (撮影 2014. 6.25)
手前は群馬県(利根郡)みなかみ町(旧新治村)入須川(いりすかわ)
奥は同県(吾妻郡)中之条町(なかのじょうまち)大道
道は県道(主要地方道)53号・中之条湯河原線
峠の標高は780m (ツーリングマップルより)
   
   
<所在>
 大道峠は群馬県の中之条町(なかのじょうまち)とみなかみ町との境に位置する。 少し前は中之条町と新治村(にいはるむら)との境であった。新治村が水上 町などと合併して、未だに見慣れない「みなかみ町」というひらがなを使った新しい町名になっている。 峠は吾妻郡(あがつま)と利根郡(とね)との郡境でもある。
 
 新治村と言えば、群馬・新潟の県境に接し、新潟県湯沢町との間にあの三国峠が通じている。 背後に上越国境の大山脈を控えた地である。 一方、中之条町と言えば四万(しま)温泉で有名だ。 何度か訪れたことがある。 中之条町も平成の大合併で、以前の六合村(くにむら)を含んで大きくなっている。 旧六合村には太平洋と日本海を分かつ大分水嶺になる野反峠(富士見峠とも)がある。
 
<立地>
 大道峠は、地形的には利根川の支流・吾妻川(あがつまがわ)ともう一つ上流側の支流・赤谷川(あかやがわ)との境を成す尾根上に位置する。 吾妻川の上流は鳥居峠を越えて信州(長野県)上田に通じる。一方、 赤谷川の上流は三国峠で、その先は越後(新潟県)ある。
 
<近くの峠>
 同じ尾根上には、西に霧峠があり、東に赤根峠・金比羅峠がある。 霧峠は険しい林道の峠だ。 金比羅峠は旧三国街道の峠で、現在は林道が通じる。 赤根峠にはトンネルが通じて快適になった。
 
<道筋>
 現在は、中之条町の市街に通じる国道353号の「中之条町」の交差点より分岐し、大道峠を越え、 国道17号・三国街道の「湯宿温泉」の交差点に至る県道(主要地方道)53号・中之条湯河原線が通じている。 これが大道峠の今現在の峠道となる。
 
<峠名>
 峠名は「大道」と呼ばれる地名に由来するようだ。 現在、峠の中之条町側が大字の「大道」と呼ばれる。 一方、峠のみなかみ町側の大字は入須川(いりすかわ)だが、峠に隣接した地に人家が立ち、その集落の名も「大道」と呼ばれるようだ。 大道は「峠部落」だったという記述(冨沢家住宅のパンフレット)を見たことがあり、それから想像すると、 大道は元々峠を挟んでその周辺に形成された一つの集落だったのではないだろうか。 それが後の中之条町に大字として残り、新治村には字として名を留めたのではないか。
 
<「大道」の由来>
 文献によると「大道」は「大洞」によるとのこと。 「洞」とは「入り込んで見えぬ所」を意味するそうだ。 中之条町の大字大道字囀石(しゃべりいし)には、地名の由来となった岩があり、それにまつわる伝説が残るという。
 
<三国街道脇往還>
 古来、大道峠は吾妻郡と三国通り(三国街道)を結ぶ道として使われたそうだ。 三国峠を介して越後と繋がるだけでなく、鳥居峠を経れば信濃とも通じる。 中世の中之条町は越後・信濃への交通の要所として栄えたようだ。
 近世では、大道峠は三国街道脇往還としての交通の要衝となっていく。 三国街道の永井宿(ながいじゅく、旧新治村永井)には、越後から三国峠を越えて運ばれた米の市が開かれたそうだ。 そこで取引された越後米が、大道峠を越えて吾妻郡方面へも運ばれた。 その時、峠は継立場となったそうだ。
 
<道の変遷>
 往時の三国街道脇往還は、昭和6年(1931年)に県道、更に主要地方道・中之条湯宿線となり、 昭和36年(1961年)に改修工事完了、主要地方道・中之条湯河原線と名称を変更していく。
 中之条湯河原線は現在も、吾妻川沿いの吾妻郡地方(国道353号や145号が通る)と現代の三国街道である国道17号とを結ぶ峠道には変わりないが、 往時のような物資が行き交う賑わいは感じられない。 中之条市街から沼田の方へ抜ける国道145号の方が遥かに利用が多そうだ。 現在は関越自動車道が関越トンネルで三国山脈を抜けている。 国道17号の三国峠(三国トンネル)方面へと越える大道峠より、関越道の沼田IC(インターチェンジ)方面へ出る国道145号の方が、 より利便性が高いということになるだろう。
   
<峠道の特徴(余談)>
 今は物資輸送などにはほとんど縁のない道だろうが、旅をする者にはなかなか面白い峠道だ。 中之条町の四万(しま)温泉などを訪ねた後、同じ群馬県内の法師(ほうし)温泉にでも行こうとか、更に三国トンネルで新潟まで足を伸ばそうとした時は、 手頃なショートカットの道となる。 交通量が少ない点は、かえってメリットである。 道の途中には重要文化財の冨沢家住宅があり、ちょっと立寄るのも面白い。 また、今も尚、峠集落が残っている点も、この峠道の特徴と言えるだろう。
   
中之条町側より峠を目指す
   
<中之条市街>
 中之条町の町役場近くを東西に通じる国道353号は、沿道に商店などが立ち並び、賑やかな繁華街となっている。この中之条町の中心部では、国道353号 と国道145号が複雑に交差し、それに幾つかの県道が絡み合って複雑なので、必要がない場合はあまり通りたくない場所だ。市街地を通り抜けるだけなら、吾 妻川の右岸に通じる県道35号を使ってしまう。しかし、大道峠へと続く県道53号はこの国道353号から分岐するので、この時ばかりは繁華街へと足を踏み 入れなければならない。車の列に並んで国道353号を進んでいると、青い道路看板が県道53号の分岐を示している。行先には「大道峠」とある。
   

国道353号を渋川市方面へ進む (撮影 2004. 2.14)
中之条市街を通過

県道分岐を示す看板 (撮影 2004. 2.14)
行先は「大道峠」とある
   
<「中之条町」の交差点>
 県道53号が分岐する交差点は、その名も「中之条町」である。これからしても、ここが町の中心であることが分かる。往時、三国街道脇往還と呼ばれて賑 わった大道峠の道が、今の県道53号の道筋とどれだけ一致するかは分らないが、この「中之条町」の交差点は、古くからの道の分岐点ではなかったかと想像す る。

「中之条町」の交差点 (撮影 2003. 8.11)
左に県道53号が分岐
   

市街の県道53号を峠方向に進む (撮影 2014. 2. 3)
この分岐を左に行くと町役場
<県道53号に入る>
 「中之条町」の交差点から入った県道53号は、暫く家屋の間を通って狭い。かえってその道の狭さが古くからの道筋に一致する証左ではないかと思ったりする。
 
 直ぐに左手を指して「中之条町役場」の看板が出て来る。役場へは更に狭い路地のような道を行くようだ。直進方向には、道の駅「霊山たけやま」と看板が案内している。
   
<市街地を抜ける>
 国道から別れ500m程も行くと、家屋が立ち並ぶ市街を外れ、沿道には耕作地も多く見られるようになる。ここまで道は吾妻川の支流である胡桃沢川の右岸側を遡って来たが、その川を横切り、更にその支流の左岸沿いに山を登り始める。
   
市街地を抜け、沿道は閑散としてきた (撮影 2014. 6.25)
この先で胡桃沢川を渡り、その支流の右岸沿いとなる
   
<中之条町側の地形>
 大道峠の道の中之条町側はやや複雑である。みなかみ町側はほぼ赤谷川の支流・須川川(すかわがわ)の流域を下り、赤谷川沿いに出る、比較的単純な経路である。
 
 一方、中之条町側の道は、一旦は胡桃沢川水域に入ったが、その後、吾妻川の別の支流・名久田川(なくたがわ)流域に移って行く。名久田川は沼田方面に通 じる国道145号の今井峠付近を水源とする川だ。その名久田川の更に支流である蟻川(ありがわ)川や赤坂川の上流部を横切って進む。その為、大道峠への道 は、登り一辺倒の道ではなく、幾度となくアップダウンを繰り返す。あまり峠道らしい峠道ではない。
   
道の駅 霊山たけやま
   
<道の駅>
 ちょっと前までの道路地図には「ふるさと公園 たけやま」とある。現在はその場所が道の駅になったようだ。「道の駅 霊山たけやま 1Km」と書かれた看板が出て来る。この先の県道沿いにあり、嵩山(たけやま、789m)という山の南麓に位置する道の駅だ。
 
 中之条町の中心部付近には、道は多いが、こうした気軽に車を停めて休憩できるスポットが少ない。市街地から2、3kmとちょっと離れているが、トイレ休憩などにこの道の駅を利用したことがある。道の駅近くは道路も整備され、走り易くなっている。

道の駅の看板 (撮影 2014. 2. 3)
この先1km
   

道の駅より男岩を望む (撮影 2014. 2. 3)
<男岩>
 道の駅「霊山たけやま」は大きな施設で、敷地内にいろいろな建物や遊具が並ぶ。広い駐車場から北を望むと、大きな岩がそそり立つのが見える。それは嵩山 の頂上ではなく、南麓にある「男岩」と呼ばれる岩らしい。この道の駅を起点として嵩山へのハイキングコースが延びている。
 
 通常、道の駅というのはその道を通る者が休憩などに立ち寄るのが普通だろう。しかし、どう考えても大道峠を越えてみなかみ町まで行く車は極めて少ない。峠越えの前にちょっと立寄るなどというケースはほとんど稀ではないだろうか。
   
  初めからちょっと辺ぴな所にあるなと思っていたが、案の定、その道の駅を訪れた時は、停めてある車もほとんどなく、閑散としていた。施設の一部で何か工事 をしているらしく、その工事業者の車や、あるいは荷物を運んできた運搬業者などの車だけである。一般客の姿は一人も見掛けない。
 
 この道の駅は、中之条町の住民が休日などにやって来て、家サービスをしたり、友人たちと行楽やハイキングを楽しむ為の施設といった感じである。数少ない大道峠を越える者たちは、用がなくても、必ず立寄ってあげたらどうだろうか。
  
道の駅以降
   
<四万温泉方面から接続(余談)>
 最後に大道峠を越えたのはつい最近、今年(2014年)の6月のことであった。しかし、初めから大道峠を目指した訳ではない。最初は秋鹿大影林道の 霧峠を越えようとしたのだ。この「霧峠」の名は道路地図などには載っていない。どうやってこの名を知ったのかもう覚えていないが、是非越えたいものだと 思っていた。
 
 この峠道は中之条町の四万温泉へと続く国道353号の途中に「四万の甌穴(おうけつ)」と呼ばれる観光スポットがあるが、その近くより始まる林道で、霧峠を越えてみなかみ町に入り、 入須川で大道峠を越えて来た県道53号に合する。今回、甌穴の方から秋鹿大影林道に入ると間もなく崖崩れがあり、あえなく引き返しとなった。そこで、国道353号の帰り道の途中から脇道に入り、「上の台」という所で県道53号に乗った。
   
<上の台>
 県道に合した所は、道の駅より2、3km上である。分岐には案内看板が立ち、中之条方面の案内が4件出ていた(下の写真)。その内、「たけやま館 そば打ち体験」とあるのは、道の駅・霊山たけやまの敷地内にある施設だ。
 
<伊参>
 尚、「伊参スタジオ」とあるが、「伊参」とはこの付近の古くからの地名である。「いさま」と読むことがこの看板で初めて分った。

上の台で県道に合流 (撮影 2014. 6.25)
ここを左折が大道峠方面
右折は道の駅・霊山たけやま方面
   

分岐に立つ案内看板 (撮影 2014. 6.25)
「伊参」は「いさま」と読むようだ

分岐に立つ道路看板 (撮影 2014. 6.25)
右折は中之条の市街方向
(「中之条」の文字が消え掛かっている)
左折は大道の峠方向
   
<蟻川川上流部>
 道は蟻川川の上流部に達する。この辺りから道の様相がおかしくなる。登ったり下ったりを繰り返す様になるのだ。何だか峠道らしくない。ここまで中之条市街からほぼ真北に進んで来た道は、やや東へと向きを転じる。蟻川川上流域から東方の赤坂川上流域へと移動を始めるのだ。
 
 道は少し下って蟻川川を渡る。周辺には岩本の集落が見える。付近の県道標識に書かれた住所は「中之条町 岩本」となっている。
   

快適な二車線路が続く (撮影 2014. 6.25)
しかし、人家は少ない
<蟻川分岐>
 間もなく右に分岐があり、道路看板にはその方向に「蟻川」とあった。県道の方は快適な二車線路が続いている。しかし、沿道に人家は少ない。ポツリポツリと立っているだけで、岩本の様な集落という程の集まりにはなっていない。
 
 蟻川方面へと一旦分岐した道が、またこの県道へと戻って来るのだが、その道の方に集落があるようだ。そちらが旧道だろうか。道路地図を見るとバス路線もそちらを迂回しているらしい。
   
 道は快適だが、相変わらずアップダウンの変な感じである。総合的には登っているのだろうが。

道の様子 (撮影 2014. 6.25)
  
大字大道へ
   

雨量による通行止の看板 (撮影 2014. 6.25)
<大字大道へ>
 県道標識の住所が「中之条町 大道」へと変わった。地形的にも、蟻川川上流域から赤坂川上流域へと移った頃である。
 
<道幅が狭くなる>
 間もなく、通行規制の看板が出て来る。「お知らせ ここから4.3Km間は連続雨量150mmに達した時、通行止になります。」とある(左の写真)。そ の看板を過ぎると、そこまで続いていたセンターラインが途切れ、一挙に狭い道となる(下の写真)。やはり峠道はこうでなければと思う。しかし、相変わらず 道は時々下る。多分、赤坂川の源流となる幾つかの小さな支流を横切って行くのであろう。
   
道が狭く、寂しくなる (撮影 2014. 6.25)
この先で赤坂川上流部の支流を渡る
   
囀石
   
<囀石>
 突然、「←囀石」と小さな看板が頭上に現れた(右の写真)。木の陰になって、見え難かったのだ。「囀」の字は、この以外に「口」辺に「転」の字も使われるが、フォントがないのでここでは「囀」の字のみを用いる。
 
 「しゃべりいし」とは面白そうな名前なので、立寄ってみることとした。看板の直ぐ先の狭い道を左に入る。コンクリート舗装の急坂で、途中に訳が分らない分岐 もあり、妻が怖気(おじけ)づいてしまった。どうにか勇気を奮い立たせ、適当に進んでいると、何やら大きな木の下に看板が立っているのを見付けた。

「囀石」の看板 (撮影 2014. 6.25)
   
<囀石のモミ>
 看板には「囀石のモミ」とあった。中之条町の天然記念物だそうで、「町天 囀石のモミ」と標柱もあった。県道の看板には「囀石」とだけあったので、何かの石かと思っていたのだが、このモミの巨木のことを示していたようだ。
   

囀石のモミ (撮影 2014. 6.25)
横から見る
周辺の道は狭い

囀石のモミ (撮影 2014. 6.25)
正面より見る
   
<囀石集落>
  周囲には人家が2、3軒、ポツリポツリと離れて立っているのが見掛けられた。畑などもあって、その間を細い道が縦横に通じている。現在の県道からは少し奥 まった所にあり、こうして入り込まなければ、その様子は皆目分らない。ここが「囀石」という面白い地名の集落のようだ。
 
  集落内の道はまるで迷路で、現在は住民のみが利用する生活道となっているのだろう。そもそも天然記念物のモミの木も個人の敷地内宅に立っているものだ。こ の地帯はあまり他人がずかずかと入り込む様な所ではない。路傍に停めた車も近所迷惑である。そそくさと退散することとする。
   

囀石のモミの看板と標柱 (撮影 2014. 6.25)
他に新聞記事の切り抜きなどが掲示してあった

「囀石のモミ」の看板 (撮影 2014. 6.25)
火災により幹が「空洞」になったとあるが、
大道(大洞)の由来となった「洞」は一体どこにあったのだろうか
   

「日本一大モミ」の木柱 (撮影 2014. 6.25)
 大道(大洞)の地名の由来となった岩が囀石にあると文献で知ったのは後のことで、 モミの大木を見ただけで囀石集落からは元来た道を県道へと戻って来てしまった。 モミの大木の周辺にはまだまだ細い道がいろいろ通じていたようだが、人家の庭先にでも飛び出してはかなわないので、冒険はできなかった。 あの近くのどこかに大道の由来となる岩があったのかもしれない。
 
<モミの木への別の道>
 県道に戻り、少し先に進むと、また左手に道が別れ、その入口に「日本一大モミ」と木柱が立っていた。 こちらからも囀石集落へと行けるようだ。 大モミの所にあった新聞記事の説明では、歩いて旅をしていた頃は、そのモミが道しるべになっていたとのこと。 現在の県道は囀石集落を外れて通じているが、古い大道峠の道は、集落内を通るあの狭い道だったのかもしれない。 そして、この「日本一大モミ」の標柱が立つ所へと通じていたのだろうか。
   
 「大道」の地名の元となった「洞」とは、「入り込んで見えぬ所」の意だそうだが、今の囀石の集落自体が、「入り込んで見えぬ所」にあるように思われた。大モミ近辺以外にも、県道からは見えない所に人家がポツリポツリと佇むようだ。
   
囀石以降
   
<道の様子>
 道は相変わらず赤坂川の源流となる幾筋かの川を越えて行く。その度に道は一旦下るので、相変わらず峠道らしさが感じられない。
   
前方にやや家屋が見られる (撮影 2014. 6.25)
   
<大道公民館付近>
 囀石集落もそうだったが、その後にも県道からはほとんど人家が見られない。沿道に少し家屋が見られる場所があったが、結局人が住む人家ではなかった。地 図では「囀石」に続く「十二原」と呼ばれる集落のようで、県道脇には大道公民館があり、スクールバスの停留所が見られた。人家は県道から少し脇に入った道沿 いにあるようだ。
   
大道公民館付近を過ぎる (撮影 2014. 6.25)
左手にスクールバスのバス停がある
   
<バス路線>
  手持ちの道路地図では、中之条市街から峠の手前までバス路線になっていたが、一般のバス停はもう見掛けなかったように思う。この県道が大改修を終え、中之条湯宿線から中 之条湯河原線に名称変更された後の一時期は、JR吾妻線の中之条駅とJR上越線の後閑(ごかん)駅の間にバスが通じていたそうだ。大道峠を越えるバス路線である。し かし、その後、バスは峠を越えなくなり、今は県道脇にスクールバスのバス停が目に付くばかりである。妻は囀石にもスクールバスのバス停があったと言ってい る。
   
冨沢家住宅への分岐
   
<第二の名所案内看板>
 中之条町側の峠道沿いで「囀石」に次ぐ2番目の名所案内の看板が出てくる。「冨沢家住宅」とある。その国指定の重要文化財である冨沢家住宅へは、左手に始まる坂道を登って行く。
   

右手上のに「←冨沢家住宅」の看板 (撮影 2014. 6.25)
右手の建物は以前はドライブインだったようだ

左に入る道がある (撮影 2014. 6.25)
その手前に「伊参村記念碑」の石碑
   
冨沢家住宅への道の分岐付近 (撮影 2003. 8.11)
初めて冨沢家住宅を訪れた時
   
<集落への分岐>
 国重文・冨沢家住宅は、その建物だけがポツンとある訳ではなく、人家が集まった集落の一角に立つ。その集落はやはり県道からそれて少し奥まった地にあり、県道からは全くその様子が分らない。細い道が一本、分岐しているだけだ。
 
<案内看板>
 その集落への道の入口に「旧冨沢家住宅」と書かれた案内看板が立ち、道順も示されている(右の写真)。それによると、マイクロバスが通れる所と、普通乗用車ではなければ通れない所があるようだ。様子が分らないだけに、何だか不安にさせられる看板である。

県道からの入口にある看板 (撮影 2003. 8.11)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

伊参村記念碑 (撮影 2003. 8.11)
<分岐脇の広場>
 分岐の側にちょっとした広場がある。以前は片隅に簡易トイレもあり、車を停められる様になっていたので、そこに車を置いて冨沢家住宅まで歩くのだろうか とも思った。しかし、最近はロープが張られ、駐車禁止のコーンが置かれている。道の反対側に今は使われていない建物があるが、以前はドライブインであった ようだ。その広場はそのドライブイン用の駐車場でもあったのではないだろうか。
 
<伊参村>
 広場には大きく「伊参村記念碑」と書かれた石碑が立つ。「伊参」は「いさま」と読むようだ。伊参村は明治22年に市制町村制が施行された時に誕生し、大 正6年には「大道村」と改称されている。その後、昭和30年に中之条町の大字となる。よって現在の大字大道の地域がほぼそのまま伊参村の村域だったのだと 思う。
 
<新田村>
 前掲の「旧冨沢家住宅」の看板に、「この大道部落は、室町末期に開かれた新田村で」とある。また、冨沢家住宅でもらったパンフレットには、「この地は天 正の頃(1575年前後)拓かれた新田村で」とか、「富沢家は(中略)天正の頃大道に新田を拓いた小池三郎右衛門を祖とする」などとある。
   
<大道新田村>
 大道という地名は元々からあり、そこに新田村ができたようだが、文献によると江戸期には大道新田村と呼ばれる村が存在したようだ。赤坂村が分村した後、明治22年に伊参村の大字となたっとのこと。
   
冨沢家住宅へ寄り道(余談)
   
<冨沢家住宅へ>
 妻と一緒に旅をするようになってからは、一人旅の時には滅多に立寄らなかった名所・旧跡などにも積極的に訪れてみるようになっていた。それも、旅の途中でふと見付けた、それ程有名でない所に寄り道する。他に観光客など誰も居なくて、のんびり一時が過ごせるのが良い。
 
 冨沢家住宅もそんな名所・旧跡の一つだった。安全をみて、「マイクロバス通行可」の道を進む。その道が尽き、狭い道に変わると、沿道に人家が並び、 ちょっとした集落を形成していた。県道から離れ、森に囲まれた地にあり、隠れ里の雰囲気である。その集落の一画に冨沢家住宅はあった。
 
<冨沢家住宅>
 管理人などは常駐せず、建物は無人で、周囲に人影も見ない。建物内部の観覧は自由で、2階にも上がらせてもらった。パンフレットが置かれていて、一枚貰って来た。こうしてホームページを書く時に役立つ。
   
冨沢家住宅 (撮影 2003. 8.11)
   
  冨沢家は米作、養蚕などを生業とする豪農であったが、三国街道の脇往還が通る地にあることから、駄馬による運送業なども営んだようだ。ならば、冨沢家を含 む周囲の集落内を通る狭い道が、囀石集落と同様、古くからの大道峠の峠道かとも思ったが、そうではなさそうだ。集落近くの県道は、ほとんどアップダウンな く、峠へと緩やかに登っている。一方、冨沢家のある集落は、県道より40〜50m高い所に位置する。たまたまこの地に開墾に適した平坦地があったので、こ こに集落が築かれたということだろう。
   

冨沢家住宅の庭 (撮影 2003. 8.11)

周辺の集落の様子 (撮影 2003. 8.11)
手前が冨沢家
奥が人家の間を抜けてマイクロバス通行可の道へ
左は普通自動車通行可の道を県道方向へ
   
 冨沢家住宅は車が往来する県道から離れた静寂の中にドッシリ構えている。かつては養蚕や運搬業で賑わったのだろうが、今はこうして訪れる者たちの一時の 憩いの場である。父の実家も、規模は小さいが、昔はこうした草葺きの農家であった。広い屋根裏部屋があり、そこで蚕を飼っているのを子供の頃に見た覚えがある。冨 沢家住宅を眺めていると、懐かしい思いがさせられる。
   

冨沢家住宅の二階の内部 (撮影 2003. 8.11)
ここで蚕を飼っていたのだろうか

冨沢家住宅の二階からの眺め (撮影 2003. 8.11)
   
 冨沢家住宅からの帰りは、普通自動車通行可の道を進んだ。県道近くでマイクロバス通行可の道に接続していて、ほぼ集落を一周できるようになっていた。
   
県道231号分岐
   
<県道231号分岐>
 峠の1km程手前で、右に県道231号・大道横尾線の分岐がある。看板には、直進は「月夜野 15km」、右折は「2k 横尾」とある。
 
 県道231号は、赤坂川沿いに登って来るので、アップダウンがなく、赤坂川の源流部に位置する大道峠への道としては、県道53号よリかえって峠道らしく 思える。しかし、県道231号のルートは、赤坂川の上流部で地形がやや険しい。道は急斜面をジグザグに登ることとなる。一方、県道53号のルートは、無駄 なアップダウンがあるものの、傾斜は終始緩やかだ。また、中之条の市街から直接通じている。そんなことから、大道峠を越える峠道は、現在の県道53号の道 筋が主流となったのではないだろうか。

右への分岐を示す看板 (撮影 2014. 6.25)
   
   
大道峠 (撮影 2014. 6.25)
中之条町側からみなかみ町方向に見る
   
大道峠 (撮影 2014. 6.25)
奥がみなかみ町、手前が中之条町
   
<峠>
 大道峠は開けている。あまり峠らしくは見えない。道は峠の前後でなだらかで、辛うじてそこに道のピークがあることが分かる。よくよく見れば、町境を示す看板も路傍に立っている。現在は中之条町とみなかみ町との境であるが、以前は中之条町と新治村との境であった。
   
11年前の大道峠 (撮影 2003. 8.11)
前の写真とほぼ同じ場所
この時は「新治村」である
   
<峠の中之条町側の様子>
 11年前に初めて訪れた時と峠の様子はあまり変わりなさそうだが、峠から見る中之条町側の景色が少し違うようだ。以前は、峠から赤坂川へと下る谷の様子がある程度眺められたが、最近は木々が成長し、ほとんど遠望がない峠になっている。
   
峠より中之条町側を見る (撮影 2014. 6.25)
ほとんど遠望がない
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 8.11)
今より視界が開けていた
   
峠のみなかみ町側
   
<峠集落>
 峠からみなかみ町側に続く道は更になだらかで、その沿道に家屋が並ぶ。入須川(いりすかわ)の大道と呼ばれる集落と思われる。いわゆる峠集落だ。付近の畑で作業する人の姿も見られ、現在も人が住んでいる峠集落としてちょっと珍しい存在だと思う。
   
峠よりみなかみ町側を見る (撮影 2014. 6.25)
   

峠のみなかみ町側 (撮影 2014. 6.25)
  ただ、心なしか以前に比べると、寂れた感じを受ける。木々が成長した分、それらに囲まれる家屋が目立たなくなってきている。道路のセンターラインも消えて しまった。以前は、赤地に白文字で「新治村」と書かれていた看板が目だっていたが、それがないのも寂しい。多分地蔵を祀ったものであろう社が路肩にあるの だが、その瓦屋根も傷んできている。以前来た時は花が手向けられていたのだが。
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 8.11)
左手奥に地蔵の社
花が手向けられていた
   
峠周辺
   
みなかみ町側から峠を見る(再掲) (撮影 2014. 6.25)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 8.11)
約11年前の峠の様子
   
 峠道は峠でほぼ南北に通じている。道の両側には畑が広がる。西側へと登るコンクリート舗装の道があるが、農作業用の道であろうか。東側は南東方向の赤坂川源流部の谷へと斜面が下る。
 
<道路開通記念碑>
 峠の東側の路肩に道路開通記念碑と石像が一体立つ。この記念碑があるので、大道峠はどうにか峠らしく見える。石碑の表には、「群馬縣知事神田坤六書」と 添え書きがある。坤六(こんろく)と言えば県道63号の峠(みなかみ町・片品村)が坤六峠である。峠にご執心があった知事であろうか。

峠周辺の様子(西側) (撮影 2014. 6.25)
   

峠の東側 (撮影 2014. 6.25)
道路開通記念碑などが立つ

道路開通記念碑と石像 (撮影 2014. 6.25)
   

道路開通記念碑 (撮影 2014. 6.25)

11年前の道路開通記念碑 (撮影 2003. 8.11)
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開通記念碑の裏側 (撮影 2003. 8.11)
<碑文>
 開通記念碑などの碑文はいつも気になるが、その場で読むことはない。 しかし写真に撮るだけは撮る。面倒だったが、今回は碑の裏側に刻まれた碑文を以下に書き写してみた。 (カタカナはひらがなに変えてあります)
 
 大道峠は利根吾妻郡境に位置し 古から両郡を結ぶ要
路であったが峻険隘路に阻まれ難渋を極めた これが
開鑿貫通は地元民の熱望するところにあり 昭和六年
十二月十四日中之條湯宿線として縣道に認定され よ
うやく改修の機運を迎え 同七年中之條町基点より着
工 これが促進のため同二十一年縣道路協会を結成 地
元民の協力で早期貫通への努力を結集 着々工事は延
長 一方新治村側からも工事を進め難関は避けて迂回
路を開き 残存地区峠路の大改修を最後に ついに着工
以来三十有余年を費し 全長二四三0五米を総工費一
億一千九百三十四万円で待望の全線開通の偉業を成
し遂げた ここに削骨の労を捧げた業績の人達を下記
に連ねて碑を建てる

昭和三十六年十二月十四日 中之條町
                  新治村    建之

 
 県道中之条湯宿線は昭和6年の12月14日に認定されたようだ。 その丁度30年後の同じ日付で碑が建之されている。 その後、道は中之条湯河原線と名を変えていく。
   
<峠の標高>
 沿道に集落があることからも、大道峠の位置は昔から大きくは変わりがないものと思う。文献では峠の標高を770mと記していたが、ツーリングマップルなどの道路地図などでは780mとある。地形図で読むと780mと790mの等高線の間に位置する。
 
 道路開通記念碑の右側に少し離れて一体の石像が佇む。開通記念碑よりも古そうだ。木の陰になってしまっているが、それだけ長い年月が経っているのだろう。古くからこの大道峠を見守っていた石像かもしれない。
   

木陰に佇む石像 (撮影 2003. 8.11)

何の石像? (撮影 2003. 8.11)
   
峠のみなかみ町側に下る
   

左に分岐 (撮影 2014. 6.25)
こちらが旧道?
<旧道分岐?>
 峠のみなかみ町側は赤谷川の支流・須川川の流域だが、道は直接には須川川沿いへとは下っていかない。大道の峠集落からそのままほぼ真っ直ぐ北へと向かえ ば最短で川沿いに出るが、今の県道はやや東寄りに迂回を始める。碑文にあったが、旧新治村側の難関を避けて新しく道が開削されたようだ。
 
 集落の北の端にある地蔵の社を過ぎると、直ぐ左に分岐がある(左の写真)。車一台がやっと通れるくらいの細い道だ。家屋の脇をすり抜け、その先森の中に入って行く。そちらが古い大道峠の峠道ではなかったかと思う。
   
<道の様子>
 中之条町側では、県道沿いや少し脇道に入った所々に人 家や集落が見られた。しかし、みなかみ町側では、大道の峠集落を過ぎると、その後川沿いに至るまでの暫くの間、人家はおろか建物の一つも見掛けない。道が新しい証拠である。快適だが、歴史の深みなどに欠ける道である。
 
<途中の景色>
 以前は峠をみなかみ町側に少し下ると、須川川の谷を広く望める箇所があったように思う(下の写真)。麓に家屋が並ぶのが望めた。その家屋がある付近から直接峠に登る様に旧道が通じていたのではないかと思う。

道の様子 (撮影 2014. 6.25)
快適だが殺風景
   
途中の景色 (撮影 2003. 8.11)
須川川の谷を望む
   
<須川川の谷沿い>
 最近はほとんど遠望がないまま道は下る。成長した木々が視界をさえぎっているようだ。路傍に立つ県道標識を見るだけである。住所は「みなかみ町 入須川」とある。作業員が路肩の草刈の作業をたった一人で行っていた。
 
 川が近くになってからやっと左手に谷の景色が広がる(下の写真)。川沿いに家屋が集中しているのが望める。
   
左手に須川川の谷を見渡すようになる (撮影 2014. 6.25)
      
須川川沿い

左に2本の分岐 (撮影 2014. 6.25)
手前が須川川の右岸を行く旧峠道か?
奥は須川川を左岸に渡る
<分岐>
  峠から2、3kmで急に人家が現れだし、沿道は街中の雰囲気になって行く。直ぐ左へと大きな分岐がある。角に立つ看板には「町営温泉 遊神館」と案内看板 が立つ。 分岐する道は、直ぐに須川川を左岸に渡り、左岸沿いを上流方向へと向かう。そちらに遊神の湯があるようだ。また、須川川沿いを更に遡れば霧峠がある。
 
 よく見ると、須川川を渡る道の手前にもう一本、右岸沿いを遡る細い道も分岐する。元の大道峠の峠道は、その方向にあった筈だ。ここに到って旧新治村側の難関の迂回は終了である。
   
<須川川右岸沿い>
 分岐を過ぎると、県道は須川川の右岸沿いとなる。もう峠道らしい坂道はない。沿道には商店なども見られるようになる。
 
 尚、道はこの先三国街道の須川宿へと至るが、大道峠は、古くは永井宿で市が立った越後米が運ばれたという。永井宿へは、このまま須川川沿いを行くより、一路北へと向かい、尾根一つを越えれば近道である。遊神の湯への分岐付近からそちらに続く道がありそうだ。

沿道の様子 (撮影 2014. 6.25)
   

沿道の様子 (撮影 2014. 6.25)
神社の前付近

沿道の様子 (撮影 2014. 6.25)
いわな釣り場と案内がある
   

道路看板 (撮影 2014. 6.25)
<沿道の様子>
 直ぐに賑やかな市街になるかと思ったが、意外と人家は少ない。丁度雨も降り始めて、まだまだ寂しい雰囲気だ。
 
<左岸へ>
 道は須川川を渡って左岸に出る。その後、須川川沿いからは離れて行く。道路看板が出て来る(左の写真)。「沼田 18km、猿ヶ京温泉 8km」とある。それは国道17号へ出てからのことである。
   
須川宿付近
   
<須川宿>
 現在の三国街道は国道17号で、須川宿近くでは赤谷川の左岸に通じているが、昔の三国街道は右岸を通り、須川宿も右岸にある。県道53号はその付近を通る。県道を少し外れると、宿場の雰囲気が再現された町並みがあり、資料館なども立つ(三国峠で少し触れている)。
 
 以前はそこに立寄ったので、今回は少し離れた泰寧寺(たいねいじ)に寄ってみた。境内に咲くアジサイでも知られているようだが、時期を外していた。妻はご朱印を貰って来た。

観光案内の看板 (撮影 2003. 8.11)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
 須川宿を過ぎれば、三国街道の脇往還であった本来の大道峠の峠道は終了である。しかし、現在の三国街道である国道17号までは、もう1km程の距離を残す。赤谷川の右岸の台地に位置する須川宿から、川沿いへと下る屈曲した県道が続く。
   
終点の国道17号へ
   
赤谷川を渡る (撮影 2014. 6.25)
左には湯宿温泉のバス停
   

国道17号の湯宿温泉の交差点 (撮影 2006.10.23)
<湯宿温泉>
 ちょっと古そうな橋で赤谷川を渡ると、国道17号の湯宿温泉の交差点である。ここで県道53号は終わり、現在の大道峠の峠道も尽きる。
 
 大道峠を越える道は、一時は「中之条湯宿線」と呼ばれたが、その湯宿温泉が国道17号の沿線にある。後に「中之条湯河原線」こ改名されるが、その「湯河原」とはどういうことか、疑問が残った。
   
橋の上から赤谷川を上流方向に見る (撮影 2006.10.23)
左岸に通じるのは国道17号
   
  
   
 中之条町側はほぼ旧道にならって現在の県道が通じ、囀石の大モミや冨沢家住宅など、県道を少しそれれば歴史を感じることができる峠道であった。ただ、大道(大洞)の由来となる岩が見付かっていないのは残念だ。
 
 また、みなかみ町側は難所を避けて新しい道筋に県道が開削されているが、その代わり、峠直下に1.5km程の旧道が手付かずに残されている可能性があ る。越後米を運んだという三国街道脇往還となる大道峠の峠道。その当時を偲ぶ痕跡が残っているのではないかとも気に掛かる、大道峠であった。
   
   
   
<走行日>
・2003. 8.11 中之条町 → 新治村(現みなかみ市) キャミにて (冨沢家住宅に寄る)
・2014. 6.25 中之条町 → みなかみ町(旧新治村) パジェロ・ミニにて (囀石のモミに寄る)
  
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 
10 群馬県 平成 3年 2月15日再発行
 (初版 昭和63年 7月 8日) 角川書店

・県別マップル道路地図 10 群馬県 2006年 2版15刷発行 昭文社
・「国指定重要文化財 富沢家住宅」のパンフレット 中之条町教育委員会
その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<ドラレコの動画>
中之条町側
みなかみ町側
囀石の大モミへ寄り道

<1997〜2014 Copyright 蓑上誠一>
   
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