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大日峠
  だいにちとうげ  (峠と旅 No.283)
  かつて井川の玄関口だった峠道
  (掲載 2017.10. 5  最終峠走行 2000. 5. 6)
   
   
   
大日峠 (撮影 2000. 5. 6)
左手奥は静岡県静岡市葵区(あおいく)口坂本(くちさかもと)
右手前は同区井川(いかわ)
道は県道27号(主要地方道)・井川湖御幸線
峠の標高は約1,155m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ジムニーが向いているのが口坂本への県道
手前は勘行峰林道へ
前方に分かれるのが大日峠展望台を経て富士見峠に至る道
その手前を右に下るのが口坂本から続いて井川へと至る峠道の本線
 
 
 
   

<井川への表玄関>
 前回、山伏峠(大笹峠)を掲載したが、その峠は井川に至る裏口の様な存在だ。遥々北側の山梨県側から県境を越えてやって来る。一方、今回の大日峠は静岡市街と井川の地を結んでいて、正しく表玄関となる。ただその役割は、現在は富士見峠が果たしている。もう30年以上も前のことだが、新静岡駅から出発する路線バスに乗り、井川まで旅をしたことがあった。路線バスは大日峠ではなく、富士見峠の方を越えていた。しかし、富士見峠に林道が開通する前までは、大日峠が井川へと通じる重要な峠道であった。

   

<所在>
 峠は静岡市葵区(あおいく)の口坂本(くちさかもと)と井川(いかわ)の境となる。静岡市が政令指定都市になる前は、大字口坂本と大字井川の境であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<旧峠>
 実は、かつて井川への表玄関・メインルートとして活躍した頃の大日峠は、現在の車道(県道27号)が通じる峠とはちょっと位置が異なる。 確かに現在の峠にも「大日峠」と書かれた看板が立っていて、その名で呼ぶことには間違いない。 しかし、今の峠は県道の前身となる林道大日線が通じてからその名を引き継いだだけである。 地形図には旧来の位置に大日峠と記載がある。現在の峠から稜線沿いを南西方向へ600m程行った位置だ。峠を越え点線表記の徒歩道が描かれていて、現在も車道が通じていない様子だ。峠道の一部は廃道となっているのかもしれない。

   

<水系>
 静岡市は広大で、太平洋岸の駿河湾(するがわん)に面していたかと思うと、ずっと北の赤石山脈(南アルプス)の奥懐まで入り込んでいる。その最奥の地が井川になる。 大井川(おおいがわ)の源流域だ。現在、大井川の上流部には井川湖が出来ていて、そのダム湖・井川湖に注ぐ小さな支流・梅沢(あるいはその近辺の川)の上部に峠は位置する。 峠の西方、井川側は大井川水系である。
 
 一方、峠の東側は、安倍峠に源を発し、静岡平野を流れて駿河湾に注ぐ安倍川(あべかわ)が流れる安倍川水系を成す。峠は安倍川右岸の一次支流・中河内川(なかごうちがわ、安倍中河内川とも)の源流部に位置する。
 
 よって峠は、広くは大井川水系と安倍川水系の分水界にあり、狭くは梅沢(またはその近辺の支流)と中河内川の分水界に位置する。

   

<峠名>
 「大日」という文字からは大日如来を思い浮かべる。仏様の呼称の一つとなる。文献(角川日本地名大辞典)では、大日峠の近くで「冷水が湧出したので大日堂を置き旅人の休息地とした」とあった。大日如来を祀ったのが大日堂である。ただ、この大日堂に因んで大日峠と命名したものか、大日堂が建てられる以前から大日峠と呼ばれたのかははっきりしない。
 
 尚、峠の井川側の直ぐの所に「大日」という地名が地形図に見られる。また、場所はどこか分からないが、口坂本に大日嶺と呼ばれる山?もあるらしい。どちらにしろ、古くからこの近辺では「大日」と付く地名などが多いようだ。

   
   
   
峠の口坂本側 
   

<井川湖御幸線>
 現在の大日峠に通じる道は県道27号(主要地方道)・井川湖御幸線である。ただ、県道部分は静岡市街から峠までで、峠から井川側の道の名は知らない。
 
 それでも、県道名は井川湖御幸線となっていて、「井川湖」に至ることとなっている。一方、「御幸」とは静岡市街の御幸町(みゆきちょう)を指すようで、静岡駅の真ん前だ。 国道1号・東海道から分かれて井川湖御幸線は始まる。現在、富士見峠に主座を奪われた大日峠ではあるが、道の名だけは静岡市の中心地と井川を結んでいる。かつて駿河国の国府が置かれ、駿府城がそびえていた地と、遠く山間部の井川とを繋ぐ峠道であった。

   

安倍川を玉機橋で渡る (撮影 2000. 5. 6)
大日峠を下って来たところ
前方左は県道29号、右は県道27号を静岡市街へ

<玉機橋>
 静岡市街を発った井川湖御幸線は、概ね安倍川左岸を遡り、その後右岸側の支流・中河内川(安倍中河内川)沿いに出る。そこの安倍川には玉機(たまはた)橋が架かる。
 
 安倍川左岸をそのまま安倍峠方面へと進むのは県道29号になる。富士見峠または大日峠から安倍峠を繋ぐルートは、自宅と井川の地を結ぶ楽しい道で、何度 か利用している。一方、玉機橋から下流側の静岡市街方面は、1、2度しか走ったことがない。大抵は玉機橋で峠方向に折り返しだった。

   

<路線バス(余談)>
 富士見峠の方を越えるバス路線は、玉機橋以降も暫く同じ中河内川沿いである。ある時、井川方面より大日峠を越えて玉機橋まで来ると、富士見峠を越えて来たと思う路線バスの背後に付いた。行先には「新静岡」とあった。
 
 この路線バスを使って井川を訪れたことなど、もうすっかり忘れていた。今回、富士見峠のページを読み返し、そんな旅もしたのかと、改めて思い起こした。 このホームページ「峠と旅」を作るのは、人に見てもらうだけが目的ではなく、自分自身の旅の記録を残すという意味合いも出て来ている。その為か、最近は峠に関係ない余談が多い。


バスの行先は「新静岡」 (撮影 2000. 5. 6)
   

<口坂本近辺>
 大日峠そのものはそんなに面白い峠ではなく、以前は安倍峠の付属品のような積りでいた。また、この峠を越えたのは旅を始めた初期の頃で、まだデジタルカメラの普及前だった。 それで撮った写真の数も少ない。大日峠の口坂本側では、僅かに沿道の景色を写した下の写真が残る程度だ。茶どころの静岡らしく、山の斜面に茶畑が広がる。

   
沿道に広がる茶畑の様子 (撮影 2000. 5. 6)
   

<口坂本>
 口坂本側で記憶に残るのは、中河内川も随分上流部となった所にある口坂本温泉である。大日峠から下って来ると、最初に現れる集落だ。山間部のちょっと侘しい温泉地である。ただ、大日峠の次は、険しい安倍峠が控えていたりする。口坂本はただただ通り過ぎるばかりで、ゆっくり立ち止まった記憶がない。
 
 口坂本の地名は、「当地が大日峠を越えて井川地域へ至る入り口にあたることによる」と文献にある。 一方、井川側には上坂本(かみさかもと)という地名がある。ただ、同じ坂本だが、直接の関係はないようだ。また、戦国期(中世)に「坂本」という地名が見えるそうだ。現在の大字口坂本付近に比定されるとのこと。この「坂本」が後に口坂本と変わって行ったのだろう。
 
 江戸期(近世)から明治に掛けては駿河国安倍郡(あべぐん)に口坂本村があった。 明治22年(1889年)に口坂本・井川・岩崎(いわさき)・上坂本・田代(たしろ)・小河内(こごうち)の6か村が合併して新しい井川村となり、旧村名は大字として継承される。 その後、昭和44年(1969年)に井川村が静岡市と合併したことで、静岡市の大字口坂本となる。
 
 ここで面白いのは、明治22年にできた井川村である。口坂本村以外の井川村・岩崎村・上坂本村・田代村・小河内村は全て大井川沿いに位置する。 口坂本村だけが大井川と安倍川の分水界を越えた安倍川水域にある。これは、口坂本が井川へと通じる入口であり、井川の地と深い結び付きがあったことを意味するのだろう。
 
 遠く江戸期などでは、大日峠を越えて井川と駿府城下との往来は頻繁であった。生活必需品を井川にもたらし、井川で採れた産物を城下へと運んだ。 口坂本はそうした人々の往来や物資の輸送で賑わったようだ。しかし、一日で歩き通せる距離ではなかった。その為、口坂本あたりで一泊したようである。ただ、口坂本温泉は昭和50年の試掘で発見された新しい温泉である。昔の旅人が温泉に入って旅の疲れを癒した訳ではなかった。

   

<口坂本側の旧道>
 静岡市街から口坂本までは、概ね安倍川・中河内川沿いで、この道筋は今も昔も大きく変わらないものと思う。現在の道程で36km前後だ。4kmを1里とすれば9里となる。 平坦地でも一日に10里を歩くことは滅多になかったそうで、駿府城下を朝に出発しても、やはり大日峠越えの前には一泊せざるを得なかっただろう。
 
 口坂本から先の県道27号は、川筋を外れて大きな屈曲を開始する。一方、地形図に残る徒歩道は、口坂本より尾根上を旧大日峠へと登る。それが旧道であろう。 その距離は約2km。県道が口坂本から峠まで約7.6kmを要するので、4倍もの差があることになる。この辺りの地形の険しさが、大日峠より先に富士見峠に林道が通じた由縁ではないだろうか。

   

<水呑茶屋跡>
 手持ちの登山地図(南アルプス南部 1990年版 日地出版)を見ると、旧峠の手前600m程の所で旧道と県道が接しているが、その付近に「水呑茶屋跡」と記されている。
 
<大日堂の位置>
 大日堂を建てたのが冷水が湧出した所なので、その茶屋跡と大日堂の位置は同じかとも想像した。文献には「大日峠まで1里半余の所」ともあったが、1里半を6kmと考えれば、口坂本より更に下流側となり、ちょっとつじつまが合わない。
 
 その大日堂は昭和34年の台風で倒壊したそうだ。その前年、一足早く富士見峠に井川林道が通じている。大日堂の消失は大日峠の運命を暗示するかのようである。

   
   
   
 
   
大日峠 (撮影 2000. 5. 6)
手前は口坂本方面
左は井川方面、直進は県民の森を経て林道勘行峰線に接続する
   

口坂本から登って来た時の案内看板 (撮影 2000. 5. 6)

<案内看板>
 口坂本側から峠に登って来ると、正面に大きな案内看板が立つ。峠は変則的な十字路になっていて、こうした看板がないと、行先を見失いそうになる。峠道の続きは、ここで90度左に曲がる。看板の行先には「井川ダム 11Km」とある。
 
 直進方向の道も立派な舗装路で、看板には「4Km リバウェル IKAWA、4Km 県民の森」とある。それぞれスキー場とキャンプ場の施設だ。

   

<看板の裏側>
 口坂本方面に看板を見ると、直進が「8Km 口坂本温泉」というのはいいが、井川方向に「井川ダム 11Km、静岡市街 47Km」とある。 当然ながら口坂本経由でも44Kmで静岡市街に行けるのに、どうしとことかと思う。 これは、大日峠を一旦井川側に下って県道60号に入り、再び登って富士見峠越えで静岡市街へ行きなさいということだ。大日峠も富士見峠も大して違わない道に思っていたが、さすがに富士見峠の方はバス路線である。大日峠にはないセンターラインが富士見峠にはある。

   
大日峠 (撮影 2000. 5. 6)
手前が井川方面、右に下るのが口坂本方面
右側に「大日峠」と看板がある 
   

<規制通行止>
 また、大日峠と口坂本間は雨量規制などによる通行止となる。1992年、井川側から訪れてみると、峠から口坂本側が通行止になっていた。この区間はやはり険しい。
 
<新大日峠>
 この車道の峠は、本来の大日峠ではない。しかし、「大日峠」と書かれた看板が立ち、規制通行止の看板でもこの地点を「大日峠」としている。 行政が認めているのだから、間違いはない。その為、あまり事情を知らない者が訪れると、旧峠の存在を知らず、単純にこここそが大日峠だと思ってしまう。私も最初はそうだった。歴史ある本来の大日峠に敬意を表し、こちらは「新大日峠」とでも呼んでおくと、だれでも旧峠の存在を察し易い。


規制通行止の看板 (撮影 2000. 5. 6)
   
大日峠 (撮影 1992. 8.15)
手前が口坂本方面
この時は通行止
   

<峠の様子>
 大日峠はそれ程興味を魅かれる峠ではなかったので、あまり写真が残っていな。1992年に訪れた時、一枚だけ撮った。それが最も古い。その後なくなった青色の丸い看板が立っていて、
 ・井川 16K
 ・富士見峠 2K
 ・県民の森 7K
 とあった。「井川」とは井川の中心地・井川本村のことで、井川ダムから更に5Km先にある。「富士見峠 2K」とは大日峠から南に延びる稜線沿いに進む道を取る。観光パンフレットなどではその沿道に大日峠展望台があるそうだが、この道はまだ走ったことがない。

   
以前の看板 (撮影 1992. 8.15)
左の丸い看板はその後なくなった
右の看板には「大日峠 井川少年自然の家」と案内がある
   

<峠の標高>
 文献では峠の標高を1,160mとしている。ただこれは元の大日峠のことになる。現在の地形図では1,160mの等高線を少し超えているようだが、概ね1,160mという数値は妥当だ。 一方、県道が通じた新しい大日峠は、1,160mの等高線を下回る。そこで約1,155mと考えた。微妙な差ではあるが、新しい峠の方が標高が低い。

   

勘行峰線起点 (撮影 1992. 8.15)

<勘行峰線(余談)>
 峠から県民の森キャンプ場方面へは、道も良く、入り込み易い。4km先のキャンプ場を過ぎると、その先は林道勘行峰線(かんぎょうみねせん)に変わる。 延長12.8kmで、最後は山伏峠(大笹峠)を越える林道井川雨畑線に接続する。峠から北に延びる稜線沿いを行き、途中では井川湖の展望が良い(下の写真)。比較的新しい林道で、1992年に大日峠方面から進むと、途中で道がなくなっていた。まだ開削途中だったようである。

   
勘行峰線途中より井川湖を望む (撮影 1992. 8.15)
正面奥が井川ダム
井川湖右岸に見える大きな集落は井川本村だと思う
   
開削途中の勘行峰線 (撮影 1992. 8.15)
   

<林道大日線>
 峠の口坂本側までは県道27号(主要地方道)・井川湖御幸線だが、井川側の道は県道表記になっていない。これまで看板などを注意して見たことがなかったので、道路名は不明だ。 ただ、車道開通当時は峠前後を林道大日線と呼んだようだ。峠の井川側はまだその名称が使われているのかもしれない。

   

<井川林道(余談)>
 林道大日線の開通年は分からないが、それより前に富士見峠に通じた井川林道は、昭和30年2月着工、同33年3月開通とのこと。当初は大日林道とも呼ばれた。富士見峠という名は新しそうだが、林道開通前にも富士見峠はあったようだ。
 
 それまでの井川は、大日峠を徒歩で越えなければならない険しい地であった。それが井川林道の開通で、車の往来が可能となった。富士見峠には林道開通を記念する高い塔が立つ。 当時の井川の人々の期待の大きさがうかがえる。かつての大日峠越えの苦労を想い、一時は「大日林道」などとも呼称したのだろう。当初は有料道路だったとのこと。
 
 文献では既に大日峠にも林道が開通している旨が記されている。文献の発行年(昭和57年)以前には林道大日線も完成していたようだ。また、林道開通より前には一部に索道も引かれていたとのこと。


富士見峠の井川林道開通の記念塔 (撮影 1992. 8.15)
   
   
   
井川側 
   

<井川7か村>
 大井川最上流に位置する人里は、古くは「井川郷」と呼ばれ「井河」の字も使われた。江戸期には井川7か村で構成される。大井川下流側から並べると、ほぼ次のようになる。
 ・上田村(うえだ):後に井川村、本村(ほんむら)のこと?
 ・薬沢村(やくざわ):後に井川村、地内に閑蔵(かんぞう)
   現在の薬沢上・薬沢下?
 ・中野村(なかの):後に井川村、現在の中野上・中野下開拓?
 ・岩崎村(いわさき):大井川左岸、右岸に枝郷の中山(中山地区)
   井川ダム完成で一部湖底
 ・上坂本村((かみさかもと): 大井川左岸、一部湖底
 ・田代村(たしろ):割田原(わんだばら)地区・大島地区?
 ・小河内村(こごうち):大井川左岸
 
 この内、上田・薬沢・中野が明治初年頃に合併し井川村となっている。更に明治22年(1889年)に井川村他、岩崎・上坂本・田代・小河内に口坂本を加えて新しい井川村となった。 現在、井川村の中心地は「井川本村」と呼ばれるが、そのような行政区域は見当たらない。多分、かつての上田村に相当するのではないだろうか。井川湖右岸に通じる県道60号より主に湖岸側に集落は広がる。
 
 岩崎は本来大井川左岸にあったようだが、大半が井川湖に沈んだ為、その後は右岸の中山を中心地としている。 その為か、地図によって「岩崎」と記される位置は左岸だったり右岸だったりする。左岸に残る上坂本には右岸沿いに通じる幹線路の県道60号から分岐する道路岩崎線と呼ばれる井川大橋の吊り橋を使ってアクセスする。集落としては小河内が最奥だが、田代の地は大井川の上流部全域と広い。

   

<大日古道分岐>
 口坂本側では元の大日峠に通じる旧道は見付け難いが、井川側には看板が立つ。峠より井川側に車道を1kmも下って来ると、細い未舗装路と鋭角に交差する。 その分岐に道標が立ち、峰の方向を指して「大日峠 0.9km」とある。タイヤの轍も見えるので、車での通行も可能なのかもしれないが、入り込んだことはない。

   
大日古道 (撮影 2000. 5. 6)
柱には「静清庵自然歩道 静岡市」とある
   

<古道の道筋>
 この道が古い大日峠に通じる大日古道となるようだ。現在の車道は井川ダムの堰堤に下っているが、元の峠道はもっと上流側の井川本村の対岸辺りへと通じていたようだ。
 
<道程(余談)>
 文献では大日峠に通じる道は延長約54kmとあった。峠から静岡市街まで古道では大雑把に40km、すると残りは14kmとなる。しかし、峠から井川本村まで10kmもないと思う。 この54kmは現在の車道のことだろうか。すると静岡市街側は約42km、峠から井川湖までが約11kmで、合計53kmとなり、文献とほぼ一致する。この場合、井川本村には5km足らない。

   

<県道60号に接続>
 峠より2km下ると、富士見峠を越えて来た県道60号(主要地方道)・南アルプス公園線に合流する。大日古道が井川本村を目指したのに対し、今の車道は井川ダムを目指す。 そもそも井川ダムは井川林道よりも早く、昭和32年に完成している。井川林道の開削は井川ダム建設の補償も兼ねていたそうだ。

   

<林道小河内川線>
 ダム湖へ下る中腹くらいに「少年自然の家」への分岐がある。道の名は林道小河内川線となる。 静岡市井川少年自然の家を過ぎ、最終的に湖の上流部の小河内橋の袂で林道井川雨畑線に接続する。井川湖の右岸には井川の幹線路となる立派な県道60号が通じるが、左岸側にはこの寂しい林道が通る。また、大日古道と交差する関係の道でもある。


少年自然の家の案内 (撮影 2000. 5. 6)
   
林道小河内川線の分岐 (撮影 2000. 5. 6)
ジムニーは峠方向を向く
   

<梅沢林道>
 小河内川線が古道とどのように関係していたか分からないが、林道途中から梅沢林道(林道梅沢線)という道が分岐していた。湖岸へと下って行く。その名からして、井川湖左岸の支流である梅沢に沿う道のようだ。

   

梅沢林道 (撮影 1992. 8.15)

梅沢林道 (撮影 1992. 8.15)
「渡船場」とある
   

<渡船場>
 梅沢林道の行先には渡船場とある。井川湖では住民の生活や観光・登山の便宜を図り、無料の渡船が運行されている。井川本村と湖岸の幾つかの地点を結ぶ。その一つが井川本村とその直ぐ対岸とを渡している。その航路は丁度かつての大日古道に近い。

   

梅沢線の林道看が立つ (撮影 1992. 8.15)

林道看板 (撮影 1992. 8.15)
   

梅沢林道通行止 (撮影 1992. 8.15)

<通行止>
 本村対岸の渡船場に出られれば、古道の手掛かりも見付けられたかもしれないが、梅沢林道は途中で通行止だった(左の写真)。
 
 支線の梅沢林道に限らず、林道小河内川線の本線も路肩決壊で通れなかった(下の写真)。そのまま小河内川線を進められれば、その先井川大橋や上坂本集落方面に出られた筈だが残念だった。

   

小河内川線の通行止 (撮影 1992. 8.15)

路肩決壊の補修中 (撮影 1992. 8.15)
   
   
   
井川ダムへ 
   

<井川湖の眺め>
 この先の話はもう大日峠ではなく、林道が通じてからの富士見峠の峠道と言えるが、かつて井川への唯一の経路だった大日峠である。井川についてもう少し話を進める。
 
 県道60号を下る途中、井川湖が眺められる。遥々と井川の地にやって来たなと痛感させられる。井川湖ができる前は、どのような谷間だったのかとも思う。

   
井川湖の眺め (撮影 1994. 4.23)
左手前が井川ダム
渇水期の様で、湖岸の地面が露出している
右岸沿いに広がる井川の中心地が見える
   
井川湖の眺め (撮影 1994.11. 5)
湖水は乳白色に濁っていた
   
前の写真の続き (撮影 1994.11. 5)
支流の大沢渡方向
どこか恐ろしげだ
   

<ダム堰堤>
 県道は井川ダムの堰堤を渡る。井川ダムの建設に伴い、元から井川林道はこのダム堰堤を渡るように計画されていたようだ。 最初、堰堤が県道のルートそのものというのが何となく解せなかった。センターラインがあるような幅の広い道ではない。そこを路線バスも通る。今後、拡幅しようとしても、もうどうしようもないのである。

   
井川ダムの堰堤 (撮影 2004. 8. 7)
峠方向に見る
左端に「井川堰堤」とある
   

<井川展示館>
 ダム堰堤付近の井川湖を眺めるなら、堰堤脇の崖上に立つ井川展示館がいい。堰堤近くから徒歩で登れるが、井川湖の石碑がある方をぐるっと回って車でも行ける。

   

井川湖 (撮影 2004. 8. 7)
井川展示館より眺める

井川ダム (撮影 2004. 8. 7)
   

<井川湖を眺める>
 井川湖の上流方向を眺めるには、堰堤角から右岸沿いの道に入り、管理棟の建物をくぐり、売店の前を通って小さな岬の先端方向に出る。そこに車の駐車場もある。最初は車で入って行ってもいいものかと心配になった。


井川ダムの下流 (撮影 2004. 8. 7)
   

ダムを眺める (撮影 2004. 8. 7)

ダムを眺める (撮影 2004. 8. 7)
   

「井川湖」の石碑 (撮影 2004. 8. 7)

<岬の突端>
 駐車場の一角には「井川湖」と彫られた石碑が立つ。その脇からは上流側から見るダムが望める(上の写真)。
 
 岬の突端には展望所の様な建物がポツリとある(下の写真)。建物の先の井川湖を望む所に一本の杉(?)の木が立つ。何となく侘しい情景だ。
 
 ある時は新静岡駅より路線バスを使い、ある時は大井川鉄道の井川線に乗って井川駅まで辿り着き、ポツポツ歩いて展望所より井川湖を眺めた。旅情を満喫する旅であった。

   

岬突端の展望所 (撮影 2004. 8. 7)
何となく侘しい雰囲気

展望所の先に立つ一本の木 (撮影 2004. 8. 7)
   
どういう訳か、こんな写真を撮っていた (撮影 1998. 5.23)
   

<渡船>
 展望所近くに渡船乗り場へと降りる階段がある。下の湖岸には丁度渡船が一艘係留されていた。屋根に「井川湖渡船 赤石丸」と書かれている。 この井川堰堤と井川本村などを結ぶ無料の渡船だ。一度乗りたいと思っていたが、向かった先からの交通手段がなく、利用する機会がなかった。

   

井川湖渡船乗り場 (撮影 2004. 8. 7)

渡船赤石丸 (撮影 2004. 8. 7)
   

<渡船の航路>
 渡船の時刻表を見ると、井川本村発に井川大橋経由が一便あるだけで、他は皆井川本村とこの井川堰堤を結んでいる。 井川大橋では湖左岸に発着するようで、岩崎・上坂本の集落用と思われる。尚、井川本村の直ぐ対岸とを結ぶ航路の時刻表が見当たらない。井川堰堤を経由しない、別航路だからだろうか。手持ちの登山地図では、「渡船 (5分、無料)」とあり、古くから登山客などにも利用されたようだ。

   
渡船の時刻表 (撮影 2004. 8. 7)
   

<展望所から眺める井川湖>
 井川湖は南北に細長く、しかも途中でくの字に屈曲しているので、ダム堰堤近くの展望所から見る井川湖畔には、何にもない。この上流右岸側に大きな井川の中心集落もあるのだが、ここからは影も形も見えない。

   
井川湖上流方向を望む (撮影 2004. 8. 7)
   
井川湖右岸より展望所のある岬を望む (撮影 2000. 5. 6)
どこから撮ったのか良く分からないが
県道60号沿いではなさそうだ
   

<バイク旅(余談)>
 1991年4月、井川に一泊する予定でバイクで訪れた。ところが当時使っていたツーリングマップは関東編にも中部編にもこの井川湖周辺の地図がごっそり抜け落ちていた。 それ以前、バスなどで訪れたことはあったが、ダム堰堤付近しか立ち寄っていない。予約した宿の位置など全く分からないが、井川は山間部の小さな村であろう。まあ行ってみればどうにかなるさという積りでやって来た。
 
 ダム堰堤付近から見る井川湖は、何もなく寂しいばかりの湖だ。一方、ダム近くには大井川鉄道井川線の井川駅もある。多分、その周辺に宿が見付かるものと思い込んでいた。

   
   
   
本村方面へ(余談) 
   

<井川駅>
 ダム堰堤を後に、井川湖右岸に通じる県道60号を進む。すると直ぐ左手に大井川鉄道井川線の終点・井川駅がある。 井川線は井川ダムの建設資材運搬用の軌道を基に、ダム完成(昭和32年)の後、昭和34年8月から地方鉄道の認可を受けて運行が開始された。 大井川上流部に孤立するように立地する井川にとって、川沿いに東海道本線の金谷(かなや)駅までを繋ぐ貴重な鉄路となった。しかし、途中の接阻峡(せっそきょう)は険しい渓谷である。2015年7月に千頭(せんず)駅より井川線に乗車したが、途中の接阻峡温泉駅までの折り返し運転であった。その先で土砂崩れがあったようで、暫く通行できない様子だった。

   

左手が井川駅前 (撮影 2004. 8. 7)
県道60号を井川本村方向に進む

井川線のミニ列車 (撮影 2004. 8. 7)
井川駅のちょっと先
   

<閑蔵線分岐>
 バイクで井川駅の前を過ぎるが、周辺には人家が集まる集落などは見当たらない。勿論宿などありそうにない。その内、左手に大井川右岸沿いに下る道が分岐した。正確な名称は分からないが、閑蔵線(かんぞうせん)と呼ぶらしい。
 
<閑蔵>
 閑蔵線の道を5km程下った所にある閑蔵集落は、井川の内である。文献では旧薬沢村(やくざわ)の一部だったそうだ。井川の中心地との行き来も頻繁だった。 一方、閑蔵より更に下流に位置する長島(現在の本川根町内)などとはほとんど交流がなかったそうだ。接阻峡の谷が人の往来を阻んだのだろうか。 こうした意味でも、大日峠は井川と外界とを繋ぐほとんど唯一の経路であった。ただ、大日峠から北に延びる稜線上に井川峠がある。岩崎と安倍川上流域を繋ぐ。古くからある梅ケ島温泉(うめがしまおんせん)への湯治などには井川峠が使われたそうだ。

   

左に閑蔵線分岐 (撮影 2004. 8. 7)

井川本村側から閑蔵線分岐を見る (撮影 2004. 8. 7)
狭い道だ
   

<バイク旅(続き)>
 閑蔵線の道を横目で睨み、更に先に進むがポツポツ人家が点在するばかりで、大きな集落など出てきそうにない。 これはどこかで見落としがあったかと不安になり、また井川駅近くまで引き返すが、やはり沿道には何も見付からない。閑蔵線分岐に戻り、まさかこの道を行くのかと迷ったが、見るからに寂しい道だ。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 5)
   

 今ならスマホか携帯電話で宿に電話をすればそれで済む話だが、当時は容易には連絡手段が得られない。道を尋ねようにも人通りがない。日は暮れかかり、不安は増すばかり。 バイクで旅をすること自体にまだ不慣れな時期である。こうなったら閑蔵線に入ってみようかと考えたが、やっとのことで思い留まった。ここは辛抱強く県道を進んだ方が無難である。
 
 結局、県道先に井川の大きな集落が見付かり、無事目的の宿に投宿することができた。確か、大西屋旅館だったと思う。集落とは鉄道の駅の近くにあるものという固定観念があり、また駅より更に山奥に村の中心などある筈ないと思い込んでいたのが悪かった。
 
 翌日、閑蔵線を下って本川根町方面へと抜けたが、接阻峡の切り立つ崖沿いに通じる険しい道だった。夕暮れ時に慌てながらこんな所を走らなくて良かったと思った。

   
   
   
井川本村周辺(更に余談) 
   

<本村の湖岸>
 バイク旅の時は、一晩宿で過ごしたら気分も落ち着いた。またあちこち走り回る元気も出て来た。昨日は周辺の景色を眺める余裕もなかったので、まずは本村近くで湖に一番突き出た岸辺に行き、井川湖をじっくり眺めることとした。

   
本村に隣接する湖岸 (撮影 1991. 4.21)
湖の下流方向を望む
この右手に井川の中心集落が広がる
(バイクはホンダのAX−1、合計7万6千kmを乗った)
   

 見渡してみると、本村前後の井川湖右岸や左岸一帯に何もない。荒涼とした景色が広がった。
 
 かつての大日峠の峠道は、この対岸の川辺に降り立ち、大井川を渡って井川本村へと通じていたものと思う。今は井川湖の出現で、湖岸の木々ははげて土が露出し、荒々しい景観を見せている。昔はどのような山里だったのかと思う。

   
湖の上流方向を望む (撮影 1991. 4.21)
荒々しい景観が広がる
(これらの写真は私のアルバムの中で井川を写した最も古い物)
   
本村近辺の北側を望む (撮影 1991. 4.21)
現在はこの正面辺りに「南アルプスえほんの郷」が出来ている
   

<奥大井(余談)>
 多分、千頭駅で手に入れたと思う「奥大井」と題した観光パンフレットを持っている。大きくA0サイズに奥大井のイラストマップが描かれている。 大井川鉄道本線の地名(じな)駅から上流側の広い範囲で、その一帯を奥大井と呼び慣わしているようだ。また奥大井県立自然公園が指定されている地域でもある。井川の地は奥大井のほぼ上流側半分を占める。そのマップは眺めているだけで楽しく、「奥大井」という言葉も旅ごころをくすぐられる。
 
<本村周辺>
 そのパンフレットには井川湖周辺の見どころも多く紹介されている。本村周辺では「南アルプスえほんの郷」などは広い駐車場が完備され、立ち寄り易い場所となっている。観光情報も得易い。
 
 本村は県道より一本湖岸沿いに通じる道(こちらが県道とする地図もある)に沿って広がる。その道を行けば素朴な集落の様子がうかがえる。ここは井川メンパでも知られる地だ。メンパとは簡単に言うと木製の弁当箱である。TVなどでも紹介されていた。

   

南アルプスえほんの郷 (撮影 2004. 8. 7)

井川本村周辺案内図 (撮影 2004. 8. 7)
えほんの郷に立つ
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
奥大井の案内看板(一部分) (撮影 2004. 8. 7)
えほんの郷に立つ
   

<井川大仏(余談)>
 集落からちょっと外れたところでは井川大仏がある。井川小・中学校に登る道の途中だ。地形図で松山段と書かれた丘陵地に立つ。 井川大仏の案内看板では井川名所として、南アルプス・接阻峡・井川ダムと畑薙ダム・井川湖自然歩道・井川大吊橋・勘行牧場・少年自然の家・県民の森・赤石温泉・口坂本温泉が列記されていた。

   

井川大仏 (撮影 2000. 5. 5)

井川大仏の案内看板 (撮影 2000. 5. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<西山平>
 小・中学校を過ぎて更に先に進むと、西山平を望む高所に出る。井川湖周辺では貴重な平坦地が広がり、田畑が耕作されている。

   
西山平を見下ろす (撮影 2000. 5. 5)
   

<大日峠の峰>
 上方に目を移せば、大井川と安倍川の分水界となる峰が高くそびえる。その山並みが井川と外界を隔てている。左手の勘行峰からなだらかに下る稜線上、鉄塔などが立つ付近が大日峠と思われる。

   
大日峠方向を望む (撮影 2000. 5. 5)
   
   
   
井川大橋付近(増々余談) 
   

<井川八景>
 井川湖の中央よりやや上流側に井川大橋の吊り橋が架かる。それを望む場所が「井川八景 紅葉見どころ」となっていた。しかし、今手元にあるパンフレットなどを調べてみても、「井川八景」なるものは見当たらない。後の七景はどこだったのだろうか。


井川八景 (撮影 2000. 5. 5)
奥に井川大橋が架かる
   
井川大橋を望む (撮影 2000. 5. 5)
井川湖を上流方向に見る
橋の奥の左岸の斜面に小さな上坂本の集落がある
   

県道より岩崎線に入る (撮影 2004. 8. 7)

<井川大橋>
 井川湖左岸に通じる林道小河内川線は時折通行止になったりする。その点でも井川大橋は左岸へと渡る大事な生活路である。 県道からちょっと下ると、「2.0t」と看板が立つ。その先に車でも渡れる吊り橋が待っている。昭和32年9月の竣功で、井川湖の完成に合わせて架けられたものだ。右岸沿いの井川の中心地と左岸にある岩崎・上坂本の集落を結ぶ道路岩崎線の一部となっているようだ。
 
 吊り橋と言ってもゆっくり走れば車でも揺れることはない。ただ、路面は板敷きである。橋の上に車を乗り出す瞬間はちょっとした勇気が要る。 板が車の重みで割れないかと心配だ。適宜補修されるようだが、時折朽ち掛けた板があったりして、これまたなかなか怖い。

   
井川大橋を上坂本のある左岸へと渡る (撮影 2004. 8. 7)
   

 ある時、左岸側より橋を写真に撮っていると、一台のバイクがやって来て橋を渡って行った。確か、おばさんが乗る原付バイクではなかったかと思う。如何にも生活路という感じだった。

   
井川大橋を県道の通る右岸方向に見る (撮影 2000. 5. 5)
バイクが渡って行った
   
   
   
井川大橋左岸(余談続く) 
   

<岩崎>
 左岸に残る岩崎集落は井川大橋より下流側に位置するようだが、ほんの僅かな人家しか見られない。井川大橋の袂から始まり、岩崎を通ってその先井川湖支流・穴沢沿いに道が延びる。林道穴沢線で、穴沢を少し登ると林道小河内川線に接続する。

   

林道穴沢線分岐 (撮影 1994. 4.24)
多分、左下が穴沢線
奥は小河内川線を小河内集落方面へ
手前は小河内川線を県道60号方面へ

分岐の看板 (撮影 1994. 4.24)
穴沢線は井川大橋・井川方面に通じる
   

<岩崎で野宿>
 オートバイで井川を訪れた翌年からは、ジムニーでの野宿旅で井川周辺を旅するようになった。井川では合計4回野宿している。その内の1回が岩崎だった。 多分、穴沢の川に架かる比較的大きな砂防ダム下流の河原である。右岸沿いに穴沢林道が通じるが、通る者などまず居ない。世の喧騒を離れた静かな場所だ。 河原にジムニーを乗り入れ、側らにテントを張って一人の夜を過ごす。


多分、穴沢の砂防ダム (撮影 1995.10. 7)
   

<余談>
 元々は、電車で秋葉原に足しげく通って電子部品を多量に買い込み、半田ゴテを握ってマイクロコンピュータなどを組み立てることが趣味であった。バイクや車の免許を持つ積りは全くなく、アウトドアなど思いもよらない。身体はあまり丈夫でなく、運動は苦手で、学校の運動会はよく欠席していた。
 
 それが30歳を過ぎて、何を思ったか野宿旅などを始めた。この30年間で外泊した回数は2年分以上に及ぶ。 その内、120回余りが野宿だった。良くも悪くも、私の人生で「旅」は大きなウエイトを占める結果となった。今思い返しても、河原などで野宿して、本当に楽しかったのかどうかと疑問に思わない訳でもない。

   
岩崎の野宿地 (撮影 1994.11. 5)
前方の砂防ダム近くの河原で、この翌年に野宿した
   

<上坂本>
 上坂本集落は井川大橋より上流側で、支流の所沢沿い近辺に人家が点在する。井川大橋を渡った道が集落内に通じ、湖岸の急斜面を登って行き止まる。一帯は茶畑となっていた。 井川湖が出来る前はもっと大きな集落だったのだろう。井川湖の出現で、左岸の斜面上部に位置していた人家だけが残ったのではないか。

   

上坂本集落の終点付近 (撮影 2000. 5. 5)
ジムニーは引き返すところ

斜面に茶畑が広がる (撮影 2000. 5. 5)
   

<小河内川線>
 林道小河内川線は途中の崖崩れで完走した覚えがない。小河内集落近くまで行くと、井川湖を望めるポイントがあった。対岸の田代の割田原(わんだばら)地区辺りが見えていたようだ(下の写真)。

   
林道小河内川線より井川湖を望む (撮影 1994.11. 5)
田代の割田原(わんだばら)地区辺りが見えている
   
   
   
田代(余談続く) 
   

<田代>
 井川大橋以降の県道60号を進むと、岩崎に属すと思われる中山を過ぎ、以降は大島、割田原(わんだばら)、田代と続く。これらは大字田代に属する地区と思われる。 田代地区は大字田代の中心地集落となるようだ。この付近はもう井川湖の上流部になり、湖だか川だか判然としない。

   
県道60号沿いより上流方向に田代地区を望む (撮影 2000. 5. 5)
川の護岸に「いかわこ」の4文字が並ぶ
   

<田代地区>
 田代地区は井川にある集落の中では最も観光地らしい雰囲気を持つ。温泉やオートキャンプ場、民宿などがある。てしゃまんくと呼ばれる巨人の里だそうだ。オートキャンプ場は使わず、いつも野宿だが、てしゃまんくの里にある公衆トイレだけは使わせてもらった。

   

てしゃまんくの里 (撮影 2004. 8. 7)
駐車場とその奥にトイレ

てしゃまんくの看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

<田代地区以降>
 田代地区より右岸上流側にはもう集落は見られない。左岸には小河内(こごうち)の集落があり、山伏峠(大笹峠)の峠道の静岡県側起点となっている。県道60号は尚も大井川を遡り、南アルプスの奥懐に分け入って行くが、余談もこのくらいにしておかないと、切りがない。

   
   
   

 大日峠にかこつけて、井川の旅の思い出話をしたようなものになってしまった。アルバムを何冊も引っ張り出し、どこを撮った写真か地図と見比べたりして、過去の旅の記憶をたどることとなった。旅に出掛けていない時でも、旅の気分が味わえて面白かったと思う、大日峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992. 8.15 ジムニーにて
・2000. 5. 6 ジムニーにて
(その他 年月日不詳)  
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 22 静岡県 昭和57年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・県別マップル道路地図 22 静岡県 2006年 2版20刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・登山地図 南アルプス南部 1990年版 日地出版
・その他、一般の道路地図など

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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