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田口峠
たぐちとうげ  (峠と旅 No.199)
   
坂上田村麻呂も越えた歴史のある峠
    
(初掲載 2012. 7.29  最終峠走行 2005. 6.25)
   
  
  
田口峠 (撮影 2000. 6. 2)
峠にあるトンネルの名前は第一隧道
所在は長野県佐久市臼田町(旧臼田町)田口
見えている坑口は田口の広川原側(群馬県方向)
トンネルの反対側は田口の山の神側
道は主要地方道国道93号・下仁田臼田線(上州往還)
トンネルの標高は約1,110m(地形図より)
   
  
 長野県と埼玉県・群馬県の境を成す関東山地には、楽しい峠が連なっている。南から三国峠(みくに)、ぶどう峠、十石峠(じっこく)、余地峠(よじ)、そして今回の田口峠である。
 
 十石峠と余地峠の間に大上峠があるが、
こ の峠は十石・余地のそれぞれの峠道を途中で橋渡ししているような存在で、県境を越える単独の峠道という感じがしない。峠自身の魅力の点からしても、他の峠 と比べてやや格下の勘がする。また余地峠は、車道が峠の片側しか通じておらず、車やバイクでの峠越えは難しそうな峠である。
 
 どちらにしろ、これらの峠は関東山地の稜線上に位置し、峠の西に流れ下る水は千曲川に合し、行く行くは信濃川となって日本海に注ぐ。また峠の東に落ちた雨水は、荒川または利根川となって太平洋に注ぐ。すなわち中央分水界に位置する峠たちなのである。
 
 そこを越える峠道は、県道や主要地方道、はたまた国道さえもあるのだが、どれも険しく、林道に毛の生えたような有様だ。関東地方に接してこれだけの峠が ずらりと並ぶ地帯は、他にはなかなかない。田口峠より北は国道254号の内山峠(内山トンネル)などが出てくるが、車も滅多に通らない辺ぴな峠道とはいか ない。やはり三国峠から田口峠までが、最強の峠軍団と言えそうだ。
     
峠の所在
  
  田口峠は長野県の佐久市、ちょっと前の臼田町(うすだまち)にある。他の峠が全て長野県と埼玉県または群馬県との県境にあるのだが、この田口峠ばかりは長 野県と群馬県の境にはなっていない。しかし、峠が中央分水界にあることは間違いなく、よって県境が本来あるべき中央分水界より東にずれ込んでいるのだ。
 
 これについて文献(角川地名大辞典)では、ほぼ次のように記している。信州(現長野県)田野口藩主と幕府の代官が、当時の境界を定めるにあたり、夜明け とともに両方から競走、出会った所を境とすると約束した。信州側では鶏を早く鳴かせて出発、峠を越えた関東側に領地を広めることができたと、言い伝えられ ている。
 
 こうした領地争いの逸話は似たものが他にもあるそうなので、にわかには信じられない。領地争いではないが、鶏が出て来る逸話が残る峠として、
トリガタワを思い出す。 
 
 偶然ながら、前回掲載した中山越(な かやまごえ)も、分水界と県境が異なる峠であった。ただ、中山越の方は分水界の地点ではなく、県境の所に中山越という峠名が付けられている。分水界の部分 はなだらかな台地で、そこには堺田(さかいだ)という集落が存在した。一方、中山越と名付けられた地点は、関沢と呼ぶ小川が流れ、その川を陸奥(むつ)と 出羽(でわ)の国境と定めたのが、その後の宮城県と山形県の県境へと引き継がれている。
      
 境を決める場合、その土地に集落などがあれば、その集落がどちら側と結び付きが強いかが、大きく影響するのではないか。中山越の場合、堺田の集落は分水 界を挟んで築かれたが、分水界で国境を決めれば、堺田の集落は分断する。堺田は出羽側から興った集落である。よって、国境は便宜上、陸奥側に少し入った関 沢に定められた。
 
 田口峠の場合、峠を東の群馬県方向に下った所に、広川原(ひろがわら)と馬坂(まさか)と呼ぶ小さな集落がある。大字田口の地内である。広川原や馬坂か ら田口峠まで、やや険しい登りだが、峠を越えた後は高低差の少ない峠道で、その先雨川沿いを行けば、比較的容易に千曲川近辺に出られる。そこには佐久甲州 街道(現在の国道141号)が通り、後の世に小海線が開通する臼田町の中心街である。町が栄え、交通便利な地である。広川原から国道141号まで、現在の 車道の距離でも20Km弱である。一方、広川原から群馬県方向へ20Km以上行ってもまだ下仁田、更に10数Km進んで富岡である。広川原や馬坂から大き な町に出ようとした時、田口峠を越えた方が意外と容易だったのかもしれない。すなわち、信州側とのつながりが強かったのでは。ただ、県境を挟んだ馬坂の直ぐ 近くに間坂(まさか)や勧能(かんのう)という集落があり、そちらは群馬県の南牧村(なんもくむら)大字羽沢(はざわ)である。あまり、確かなことは言え ないのであった。
        
峠の名
  
 旧臼田町の大字田口にあるから田口峠。これまであまり疑問に思ったことはない。
 
 古くは田口村という村があって、それは明治9年から明治22年までのこと。下町(しもちょう、現在竜岡城跡がある付近)が村の中心地(役場は竜岡にあっ た)で、東の丸山(まるやま)、山の神(山ノ神)、広川原、馬坂は山村集落だったとのこと。すると往時の田口村とは、旧臼田町の東側の大半を占め ていたことになる。
 
 明治22年に田口村、三分村(みぶん)、下越村(しもごえ)と常和村(ときわ)の一部が合併し、新しい田口村となった。新田口村
には田口、三分、下越、常和の4大字が編成された。昭和31年には田口村と青沼村(あおぬま)が合併して田口青沼村(たぐちあおぬま)となり、青沼村の大字入沢(いりさわ)と平林(ひらばやし)が加わり、6大字となる。昭和32年には田口青沼村は臼田町の一部となり、6大字は継承された。
 
 現在の道路図を眺めてみても、旧臼田町の中に
田口、三分、下越、常和、入沢、平林の地名が見える。三分、下越、常和、入沢、平林は臼田市街に近い所にあるのに対し、田口は東へとその範囲を広げている。田口峠はその田口の東端に位置する。
        
 ところで、田口村の存在は明治9年からで、そのずっと前から峠はあった筈だ。それでは何と呼ばれたのだろうか。
 
 調べてみると、田口村は田野口村(たのくち)と上中込村(かみなかごみ)が合併してできたものだった。
「田野口」は「田ノ口」とも書いた。上中込の地名は、JR小海線・龍岡城駅近くの千曲 川に架かる住吉橋付近に見える。一方、田野口は現在では地名で残っていないようでその所在は分からないが、龍岡城を築城したのが田野口藩で、先の国境を 争ったというのも田野口藩だった。文献では田野口村も上中込村も漠然と雨川流域に位置していたとあるだけで、江戸期から明治9年まで存在したとのこと。
 
 
田口峠を一部の文献などでは、時折「田の口峠」と記してあるのを見たことがある。「田の口」はすなわち「田野口」だったのではないか。すると田口村ができる明治期以前、峠は「たのくちとうげ」と呼ばれていたのではないか。
 
 更に時代は遡って、鎌倉期から戦国期にかけ、この付近に田之口郷という郷名があったそうだ。「田口」とも書き「たのくち」と読んだ。「田野口」または 「田之口」の地名の由来は、「新開の神が郡内を当地から開発し始めたという伝承による」(県町村誌)とのこと。「田野口」の「口」は、「入口」とか「取っ 掛かり」のような意味があったのだろう。
 
 
田之口郷の存在などからして、峠は古くから「たのくちとうげ」と呼ばれていたのではないだろうか。本来は「田之口峠」とか「田野口峠」、「田の口峠」、「田ノ口峠」などと書くべき峠である。仮に「田口峠」と書かれていても、「たぐち」ではなく「たのくち」と呼びたい峠だ。
        
 現 在呼び習わされている田口峠の田口(たぐち)とは、何となく有り触れていて気安げな感じを受けていた。小学校の時に田口君と呼ぶ同級生がいたことを思い出す。ちょっ と小太りで、かわいらしい男の子だった。それが「田の口」となると、一挙に古めかしい感じがする。これまで「たぐち峠」と呼んでいたのを改めて「たのくち 峠」と呼べば、それだけで峠のイメージさえも違ってくるように思うのだった。
        
峠の歴史
  
 田口にはその山麓や平地に縄文・弥生時代の遺跡が多く、古代から諏訪と関東を結ぶ道筋に位置していたそうだ。諏訪からは大河原峠(おおがわら)または雨境峠(あまざかい)を越えて佐久地方に入り、更に田口峠を越えて西上州に進む。田口峠は古代交通路の通過地点であった。
 
 延暦年間(782〜806年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が奥州征討の帰途、「信濃国佐久郡ト諏訪郡トノ堺ニ至ルヲ ホトマリ(大トマリ?)ト号ス」所を通ったと「諏方大明神画詞」(すわだいみょうじんえことば)にあるそうな。
 
 歴史にはからっきし疎いので、源平合戦より更に前の
坂上田村麻呂が出てきては、もうお手上げである。 現在放映中のNHK大河ドラマ「平清盛」も、登場人物がさっぱり分からないで困っている。ただ、ちょうどレンタルDVDで同じくNHK大河ドラマの「炎(ほむら)立つ」を見ている最中だ。 その最初に坂上田村麻呂が登場している。 陸奥(むつ)のアテルイと呼ぶ指導者が率いる蝦夷(えみし)の軍と戦い、降参させてアテルイを京に連れ帰った。 ところが、約束をたがえてアテルイを処刑してしまう。後の陸奥を領土とする阿部氏は、そのことで朝廷を恨みに思っていた。そんな出だしであった。
 
 京を発してから信濃国を通り、上野国(こうずけ、群馬県)・下野国
(しもつけ、栃木県)を経由して陸奥(青森県、岩手県、宮城県)に至る、壮大な経路の一つに田口峠があったのか。そして、アテルイを連れた坂上田村麻呂が、まさにその田口峠を越えたらしいのだ。 
 
 歴史はぐっと下って江戸期には、信州から関東への移出、交易路となる上州往還としての田口峠があった。明治期から大正期には、陸運はまだ盛んで、佐久地 方と西上州との公益で田口峠はにぎわう。しかし、鉄路の発達や荷馬車の普及、乗合自動車の出現で、ついに人や商荷の流れは峠から遠ざかって行った。こうし て田口の地は、交易路としての役目から純農村へと変貌していくのだった。
 
 京と陸奥を結ぶ古代交通路という古い歴史を持ちながらも、時代変遷の中で道としての重要性が失われると、峠も単なる一地点として取り残されてしまう。峠が辿る運命の哀れさがここにもあった。現在、田口峠には主要地方道が通る。
1989年1月発行のツーリングマップ(関東 2輪車 昭文社)では、まだ県道表記になっていたが、その後間もなく主要地方道に昇格したようだ。しかし、群馬・長野両県をまたぐ主 要地方道といっても、峠のそれぞれの側で道としての役割は大きいかもしれないが、田口峠を越えて二つの土地をつなぐ峠道としての役割は、ほとんど感じられ ない。今の田口峠に佇めば、山深い中央分水嶺の頂上に一人孤立して立っているかのようだ。古(いにしえ)に坂上田村麻呂やアテルイが越えたことも、幻のよ うである。
        
臼田町側から峠を目指す
  
 長野県の旧臼田町を通る国道141号から分岐して、主要地方道93号は始まる。峠のある東に向けて車を走らせると、臼田橋で千曲川を渡り、更にそのままうかつに進むとJR小海線の臼田駅前に突っ込んでしまう。主要地方道93号は駅の直前を左に折れる。
 
 臼田町はやはり千曲川の左岸の国道141号が通る方が中心街で、臼田駅近辺は比較的静かだ。大きな建物はなく、駅舎もこじんまりしている。

国道141号より臼田駅に進む (撮影 1999. 7.24)
正面が臼田駅
主要地方道93号の続きは、この信号を左折
 

臼田駅 (撮影 2005. 6.25)
こじんまりしている
 駅に隣接して整備された広場があり、「ふるさとの塔」なるモニュメントも立つ。レンガ敷きのような立派な駐車場があり、オズオズと入ったが、無料のようだ。
 
 昼時を大きく過ぎてしまってたので、思い切ってカセットコンロを出し、お湯を沸かしてカップ麺の昼食とする。どこぞの景色がいい自然あふれる場所でのカップ麺なら許せるが、こんな繁華街の只中では、わびしい限りだ。
 

主要地方道93号を国道方向に見る (撮影 2005. 6.25)
左手前が臼田駅

駅前を北に進む93号 (撮影 2005. 6.25)
道の角に案内看板が縦に並ぶ
この右手が臼田駅
右端に「ふるさとの塔」が立つ
その塔を中心とする一画が駅前広場になっている
   
  昼食ついでに駅前近辺を散策する。駅前を左折する主要地方道方向を指して、観光案内の看板が立つ。以前は「龍岡城五稜郭」、「新海三社神社」、「上宮寺梵 鐘」、「町営(後に市営)保養センター 湖月荘」の4つだったが、最近はその下に「日本で一番 海から遠い地点」が追加された。
        

駅前広場 (撮影 2005. 6.25)
車の駐車は只

左の写真の中の看板 (撮影 2005. 6.25)
右:1Km 国不動141号
左:臼田駅
   
臼田駅の後
  
  臼田駅前を後に主要地方道の続きを走り出すと、道なりにJR小海線を渡り、暫しまばらな人家の間を進み、二車線路の立派な道へと導かれる。以前は狭く複 雑な道が、龍岡城跡の北側の直ぐ脇を通っていたのに、今では龍岡城跡の南側を大きく迂回している。その沿道に人家はなく、如何にもバイパス路的な雰囲気だ (下の写真)。
        
新しくなった主要地方道 (撮影 2005. 6.25)
   
  思うに、古くからの田口峠の峠道は、峠から流れ下る雨川(あめかわ)の右岸(北側)にあった龍岡城の更に北側を通り、今の龍岡城駅近くから住吉橋で千曲川 を渡り、佐久甲州街道に接続していたのではないだろうか。龍岡城跡より北側に通る道には、古い家並みが続き、如何にも街道筋といった雰囲気がある。
 
 現在の臼田駅近くを通る主要地方道のコースは、駅の開設に伴って設けられたのだろう。更に最近になって、雨川の左岸側をバイパスするように道が付け替えられた。車にとっては走り良いが、味気ないのは否めない。
       
龍岡城跡・五稜郭
  
 峠探訪の前に、時間があれば、旧道近辺を探索するのが良い。道は狭くて走り難いが、龍岡城跡に隣接して「五稜郭 であいの館」なるものが、最近できたようで、車が停められ、トイレもある。非常に便利だ。以前来た時には、龍岡城跡はこんなにきれいに整備されていなかったと思う。「佐久市歴史の里」とあるので、臼田町から佐久市になってからのことだろうか。
 
 龍岡城は日本に2つしかない五稜郭だそうだ。城を囲む濠(ほり)が五角形をしている。龍岡城に関しては下の写真(案内看板)を参照。

五稜郭 であいの館 (撮影 2005. 6.25)
前を通る道は以前の主要地方道?
   

 (撮影 2005. 6.25)
(画像をクリックすると拡大表示されます)

 (撮影 
2005. 6.25)
(画像をクリックすると拡大表示されます)
  

函館の五稜郭 (撮影 2005. 8.15)
五稜郭タワーより
  龍岡城は明治の廃藩置県で取り壊され、濠が残るばかりである。中は田口小学校になっていて、校舎と広い土の校庭が広がる。のどかな雰囲気である。ただ、五 角形の濠は、その周囲を散策してみても、その全貌が見えてこない。偶然ながら、龍岡城跡を見学したその年、もう一つの五稜郭・函館の五稜郭を見る機会が あった(左の写真)。こちらは五稜郭タワーの高みから眺められ、濠の幅も広く、規模が大きい。それになにしろ、戊辰戦争最終の地として、土方歳三が最期を 迎えた場所などで知られる。同じ五稜郭でも、龍岡城跡はやや知名度が低いか。それでも、有名な函館の五稜郭を見学したことより、龍岡城の五稜郭を知ってい ることの方が、ちょっと自慢である。
   

五稜郭の濠の一部 (撮影 2005. 6.25)
この堀が五角形の雪の結晶のような形をしている
案内看板には、ここより田口峠まで11.5Kmとある

左の写真の案内看板 (撮影 2005. 6.25)
   
  であいの館に右の案内看板があった。旧臼田町内の主な観光場所が載っている。新海三社神社(しんがいさんしゃじんじゃ)や上宮寺梵鐘(じょうぐじ ぼん しょう)は旧主要地方道沿いで、龍岡城跡にも近い。例の「日本で一番海から遠い地点」の場所も載っている。雨川ダムより更に上流で、群馬県南牧村との境界 の尾根近くだ。
であいの館の案内看板 (撮影 
2005. 6.25)
(画像をクリックすると一部が拡大表示されます)
 
主要地方道の旧道を進む
  

旧道を進む (撮影 2005. 6.25)
 ついでなので、主要地方道の旧道をそのまま進む。車が通るには狭い道が東へと延びている。この道は過去に三度ほど走っている。ただただ通過するだけなら、狭くて走り難いばかりだが、昔の街道に近い道となると、やはりどことなく味わいを感じる。
 
 「宮代」と書かれた地区を過ぎる。小さいながらも商店があり、これが以前の本線であることをうかがわせる。
 
 ちょっと本線をそれて
新海三社神社にも立ち寄った。しかし、何をどう見て良いかも分からず、そそくさと立ち去った。
 
 道は途中で右に曲がらされ、新道の横っ腹へと続いて行った(下の写真)。
 

宮代近辺 (撮影 2005. 6.25)
小さな商店がある
新海三社神社はこの近く

旧道もここで終わり (撮影 2005. 6.25)
この先行き止まり、右に曲がって新道へ
 
主要地方道を進む
  
 主要地方道の新道は、センターラインもある二車線路が臼田駅の方からずっと続いて来ていた(右の写真)。青い道路看板には、「下仁田38Km、田口峠8Km」と出ている。旧道が合した地点は雨川の右岸で、主要地方道はこのまま右岸に沿って遡る。
 
 暫し、道の左手(北側)に人家が続く。丸山と呼ばれる集落だと思う。しかし2Kmほども行くと、沿道からはパッタリ人家が途切れる。そして間もなく路面からはセンターラインがなくなり、道幅はそれまでの半分近くに狭まる(下の2枚の写真)。

主要地方道の新道 (撮影 2005. 6.25)
   

この先少しで道幅減少 (撮影 2000. 6. 3)
この時は田口峠法面工事で時間通行止
(大型車は全面通行止)
この時は峠まで行って引き返して来た

ここでセンターラインが消える (撮影 2005. 6.25)
     

工事看板が出ていた (撮影 2005. 6.25)
 道幅が減少する手前には、「ここより県境まで 落石注意」 とある。「県境まで」とあり、「峠まで」となっていないのが重要だ。どちらかと言えば、田口峠のこちら(臼田市街)側より、峠を越えて広川原方面に下る道 の方が険しいのだ。しかし、一般には峠が県境となっている場合が多く、峠と県境が異なる田口峠の事情を知らない者は、ここから「峠まで」が危険なのかと勘 違いしそうである。
 
 ここには工事看板が時折立っている。2000年に来た時は、田口峠法面工事とのことだったが、この時は峠まで行って引き返す積もりだった。2005年に 来た時は、南牧村大字羽沢地内の県道で時間通行止が行われているとこのと。通過するのに随分待たされるかと思ったが、結局工事は行われてなく、無事に通過 したのだった。
  
  道幅が狭まると同時に、道が通る谷間も狭くなる。右手の直ぐそばに雨川が流れているが、周囲の草木で川面の様子などはうかがえない。交通量は極めて少ない が、この先には保養センターの湖月荘があったり、僅かだが山小屋風の別荘が立っていたりするので、対向車には注意だ。時折ツーリングのバイクがやって来た りもする。

狭い道が続く (撮影 2005. 6.25)
右手に雨川が流れる
   
雨川ダム近辺
   
  雨川の中流域には小さなダムが架かっている。雨川ダムまたは雨川砂防ダムと呼んでいる。ダム湖には名前がないようで、案内看板にはただ「池」とのみ記され ていた。雨川本流を堰き止めてできた、細長い池である。両側をうっそうとした木々が迫り、その池の側を道が細々と通じている。
 
 昔の田口村には「山の神」という集落があった筈だが、最近の地図にはその記載はほとんど見られない。それもその筈。この雨川ダム湖の位置に山の神部落が あったと、ダムの案内看板に出ていた(下の写真)。ダムの位置は、長野県南佐久郡臼田町山の神。ダムの完成が昭和49年(1974年)で、ダム建設に先立 ち13戸が移転したそうだ。それ以前は山の神が田口峠の西側で最奥の集落だったことになる。

雨川ダム (撮影 2000. 6. 3)
 

雨川ダムの案内 (撮影 
2000. 6. 3)
(画像をクリックすると案内文が拡大表示されます)

雨川ダム周辺の地図 (撮影 
2000. 6. 3)
北が下であるのに注意
(画像をクリックすると地図が拡大表示されます)
 
 よく見ると、湖の対岸にも道が通じている。「雨川ダム狩猟禁止区域」と書かれた看板によると、それは林道雨川線だ(右上の写真)。湖より少し上流でこの主要地方道から分岐している。
       
雨川ダム湖 (撮影 2000. 6. 3)
臼田市街方向に見る
この湖の下に山の神集落が沈む

   
 雨川ダム湖はそれ程大きな物ではなく、車で走ればあっと言う間に過ぎてしまう。わざわざ車を停めて、眺めるほどでもない。しかし、この谷に13戸もの人家が生活を営んでいた頃の風景と、今湖畔から眺める景色は、やはり格段に違うのだろうと思うと、やや感慨深い。
        

右に分岐あり (撮影 2005. 6.25)
縦長の看板には「湖月荘」とある
 湖を過ぎて数100mも行くと、右手にしっかりした分岐が出て来る。これが林道雨川線の入口だ。雨川を渡って左岸を下流に戻る方向に道が延びている。その道をさして「湖月荘」と看板が出ている。
 
 2000年に田口峠を訪れた時は、峠近くのどこかで宿泊しようと思っていた。野宿か、場合によって適当な宿泊施設が見付かれば、それでも良かった。この 湖月荘の看板にはちょっと惹かれるものがあった。野宿には体力が要るし、気疲れもする。たまには安楽に夜を過ごしたい。しかし、分岐する道を見ても、寂し そうな林道が林の中に入って行くばかり。こんな寂しい所に保養センターなどあるのだろうかと思わせるくらいだ。予約なしでは宿泊できない可能性も高く、 あっさり諦めたのだった。
 
 分岐の側に観光案内の看板が立つ(右の写真)。峠方向を指して「狭岩峡」(せばいわきょう)、「最勝洞地下湖」(さいしょうどう ちかこ)、「田口峠」。また、雨川林道方向を指して「日本で海から1番遠い地点」とある。その地点まで車で行ける筈はないだろう。どのくらい歩けばよいか、書いてくれると良いのだが。
 
 狭岩峡と最勝洞地下湖は、田口峠を越えた広川原の方にある。田口峠自身も案内されているが、どこが観光のセールスポイントだろうか。峠のトンネルを広川原側に抜けた所から、ある程度の眺めがある。そこがポイントだろうか。

分岐に立つ看板 (撮影 2005. 6.25)
 
林の中の登り
   

登りが始まる (撮影 2005. 6.25)
 分岐を過ぎてから峠まで、あまり楽しくない。視界がほとんど広がらない林の中の狭い道が峠へと登って行く。
 
 うる覚えだが、右や左の林の中に、建物が時折見えたと思う。主に別荘として使っている家のようだった。常時住んでいるのか、あるいは夏場などの気候が良 い時期のみ使用しているのかもしれない。この付近はもう標高が1,000mを越えている。冬場は訪れたことがないが、それなりの積雪だろうに。建物の周囲 は高い木々に囲まれていて、ここなら浮世離れした暮らしができることだろう。
    
  田口峠の臼田市街側の道は、それ程の屈曲もなく、峠まで到達している。ヘアピンカーブが続く九十九折りなどは皆無である。しかし、カーブ番号がしっかり付 けられている。峠を東に下った群馬との県境近くを起点に、こちらに向かってカーブ番号は増えてくる。最後の番号が何番であるか確かめてはいないが、「第123号カーブ」という看板の写真だけは残っている(右の写真)。なかなか良い番号だ。山梨移住を計画している所の番地も、ちょうどそんな感じで、気に入っている。

カーブ番号 (撮影 2005. 6.25)
 

以前、車内泊した場所 (撮影 2005. 6.25)
臼田市街方向に見る
 カーブ番号が出始めて間もなく、道の左手に比較的広い空き地が現れる。まだジムニーに乗っていた頃、ここで野宿したのだった。近辺に別荘らしい人家もあり、大っぴらにテントを張る訳にもいかず、車内泊で諦めたのだった。
 
 辺ぴな峠を探訪することを趣味とする者は少ないだろうが、その峠の近くで一夜を過ごす者は、尚更まれであろう。街灯もない暗い道を車やバイクが通り、真夜中の峠道の顔が分かるのである。
(野宿の時の模様はこちら→野宿実例No.34
   
道の側にあるちょっとした広場 (撮影 2000. 6. 3)
峠方向に見る、ジムニーで車内泊した朝
    
峠に到着
    
田口峠の臼田市街側 (撮影 2000. 6. 2)
    
  田口峠はトンネルである。草木に埋もれそうにトンネルの坑口が小さな口を開けている。覗けば反対側の坑口が直ぐそこに見える。トンネル長さは70〜80m くらいだろうか。このトンネルの臼田市街側は、眺めもないし、車を停める十分なスペースもなく、あまり長く立ち止まることはない。
        
田口峠の臼田市街側 (撮影 2005. 6.25)
       
  トンネルを抜けると、反対側の坑口の形に切り取られた景色が、明るく見えてくる(下の写真)。道はトンネルを出ると直ぐ左へとカーブするので、トンネル出口正面に景色が広がるのだ。この田口峠では、思わずここで写真が撮りたくなる。
         

トンネル内より広川原方向を見る (撮影 2005. 6.25)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 2)
   
峠の看板
    

峠の看板 (撮影 2005. 6.25)
7年前

峠の看板 (撮影 2000. 6. 2)
12年前
   
  トンネルを出ると、その正面に峠の看板(標柱)が立つ。下界に広がる景色を背景に、「田口峠」と大書された看板が立つ。ここが田口峠だと、誇っているかのようだ。この峠の象徴的存在である。
 
 今回、過去の写真を見比べてみると、途中で看板が大きく変わっているのに気付いた(下の写真)。昔は何だかロケットのような格好をしていたが、つい最近は長方形で非常にあっさりしている。田口峠と書かれた脇には、「妙義荒船佐久高原国定公園」とある。
          

峠の看板 (撮影 2005. 6.25)
7年前

峠の看板 (撮影 2000. 6. 2)
12年前

峠の看板 (撮影 1995. 4.29)
17年前
    
  この田口峠を最初に訪れたのは1990年前後のことで、群馬県側から長野県へと越えたのだった。残念ながら写真は一枚も撮ってない。次は1995年に、やはり群馬県側から長野県側へと抜けた。その時、峠で辛うじて1枚の写真を撮った。それが下の写真である。田口峠の看板も、左右に足を張り出して、それこそロケットのようだ。
 
 田口峠へは、偶然ながらほぼ5年おきに都合4回、訪れていたことになる。考えてみれば、最後に田口峠を訪れてからもう7年以上が経つ。田口峠の様子も、また少し変わったかもしれない。

          
田口峠の広川原側 (撮影 1995. 4.29)
私が持っている田口峠を写した最も古い写真
    
峠のトンネルと旧峠
   
  これまで田口峠にある短いトンネルには、あまり感心がなかった。ふと考えてみると、トンネルの名前を知らない。各種の地図には、「田口峠」とばかり書かれ ていて、トンネルの名前はない。ならば「田口トンネル」かと思ったら、大間違いであった。写真を拡大してみると、トンネルの上部に掲げられた表札には、「第一隧道」とあるではないか。
 
 折角峠にある、それも大分水嶺に位置するトンネルの名前が「第一」では全く味気ない。ちょっとがっかりだ。その後、調べてみると、峠を広川原側に下る途 中に第二と第三があった。単なる番号で呼ばれる3つのトンネル。せめて峠のトンネルだけでも、「田口隧道」などにして欲しかった。第一隧道と書かれ た表札の上の方と下の方に、何やら小さく書いてある。写真からでは読み取れない。何が書かれているのか、どうにも気になるのであった。

広川原側の坑口 (撮影 2005. 6.25)
  

トンネルの上に掛かる表札 (撮影 2005. 6.25)

表札の拡大 (撮影 2005. 6.25)
第一隧道とある
   

トンネルの上方 (撮影 2005. 6.25)
崩れ易そうな地形である
 トンネルがある位置の標高については、国土地理院の1/25,000地形図に「1,104m」との記載が近くに見える。臼田市街側坑口の数10m手前の位置にてである。等高線から見て、トンネルの標高は高くとも1,110m前後と思われる。
 
 文献では田口峠の標高を「1,110m」と している。この場合の田口峠は、第一隧道のことではなく、旧峠のことかと思っていた。
トンネルの上 方を見上げると、もう直ぐ手の届くような所に、峰の頂上がある。しかし、仮にトンネルの真上が旧田口峠としても、トンネルを通る路面上からは、数10mは高いだろう。地形図の等高線から読む標 高も、1,130m〜1,140mである。やはり文献に記された標高「1,110m」は、第一隧道の標高らしい。
    
 さて、旧峠はどこにあるのだろうか。現在の1/25,000地形図には、臼田市街側のトンネル脇から旧峠へ続くらしい山道が点線で描かれている。また、トンネルの真上に峠を示すような記号も見える。トンネルは分水界として連なる峰の鞍部の真下に位置しており、その上が旧峠であってもおかしくない。
 
 ところが、ネット上などで調べてみると、旧峠の標高は1,175mなどと出てきている。トンネル上部より更に40mほども標高が高い。古い1/50,000地形図には、トンネルより北に200mくらい離れた峰に田口峠が記されていたようだ。
 
 広川原側から見上げるトンネル上部は、急峻で非常にもろそうな地形をしている。旧峠はこの険しい地形となる
鞍部は避け、大きく北を迂回したのだろう。臼田市街側のトンネル坑口近くまでは、旧道も来ていたと思われるが、そこから先、峰を越えるルートは、現在とは大きく異なった。坂上田村麻呂が越えた古の田の口峠は、現在の第一隧道の真上ではなかったようだ。
          
峠の広川原側の様子
    
 第一隧道を東に抜けた広川原側は、田口峠と大きく看板が出ているものの、昔からの田口峠ではないようだが、そこからの眺めはなかなかのものである。東に向かって大きく開けている。名前は調べていないが、ギザギザした山容の山が印象的である。
 
 そうした山々の景色も良いが、目を峠直下に落とすと、峠道が楽しそうな急カーブを描いているではないか(下の写真)。これこそ現代の峠道の象徴である。 田口峠の広川原側は、こうしたヘアピンカーブが何度か現れる。臼田市街側があまりにも大人しかった分、広川原側は大暴れである。ただし、そのカーブをス ピードを出して走り抜けようなどという気はさらさらない。こうした九十九折りは、如何にも現代の険しい峠道の特徴のようで、眺めていて楽しいのだ。また、 車で走る時は、ひとカーブ、ひとカーブ、丁寧に噛締めながら走る。あまりスピードを出すと、峠酔い(カーブの連続で車に酔うこと)を起こしてしまうのであ る。

峠からの景色 (撮影 2005. 6.25)
   

峠直下のヘアピンカーブ (撮影 2005. 6.25)

左の写真と同じ場所 (撮影 2000. 6. 2)
こんなカーブが広川原側の下りでは何度か現れる
  
 道はトンネルを抜けると、大きな矢印に従って左にカーブして下って行く(左下の写真)。そのカーブ番号は93である(右下の写真)。確かこの県道の番号が93で、偶然にも同じだ。でき過ぎか。
          

峠より広川原側に下る道 (撮影 2005. 6.25)

峠のカーブ番号は93 (撮影 2005. 6.25)
  
 峠 から広川原方面に下って最初の右カーブの脇に、小さな小屋が立っている。東屋といった方が適当か。ややみすぼらしい気もする。ある道路地図に、その場所を 指して「田峠園地」とあった。「田中」は「田口」の間違いだろう。2000年に来た時、小屋の反対側に古ぼけた看板が立て掛けてあって、それには確かに 「田口峠園地」と書いてあった。
 
 このカーブ付近にそんな園地があったかどうか、全く記憶がない。それとも、建設途中で断念されたのだろう。少なくとも2005年に来た時は、小屋はますます老朽化し、園地は既に過去の物になったかのようだった。
 
 峠に花壇などを設けたささやかな園地があるのを時折見掛ける。田口峠も第一隧道で車道が通じ、その期待から峠に大きな標柱を立て、ここに園地を造ったの かもしれない。しかし、その思惑とは異なり、園地は賑わうことがなかったのだろうか。峠の標柱は新しい物に立て替えられたが、園地は復活しないのだろ うか。
          

最初のヘアピンカーブ (撮影 2000. 6. 2)
脇に小屋が立つ
手前の木に立て掛けられた板に「田口峠園地」とある

カーブに立つ小屋 (撮影 2005. 6.25)
草に埋もれ、やや老朽化か
 
峠を広川原側に下る
    

広場 (撮影 2005. 6.25)
  峠を広川原側に下ると、狭いヘアピンカーブが連続する九十九折りだが、何度かカーブを曲がった先、左手に比較的大きな広場がある。殺風景な空き地だが、そ の一角には小さいながらもトイレらしい小屋が立つ。車を停めるには最適な場所で、実際、何かの目的の駐車場としているのかもしれない。ただ、そこから峠ま で車道を歩くにはちょっと遠く、峠の散策を目的でその場所に車を停める気にはなれない。
   
  道は峠付近より南に流れ下る馬坂川(まさかがわ)の源頭部を横切る。旧道があるとすれば、その沢沿いの可能性がある。現在の地形図には馬坂川沿いを直登して来る点線の道 が描かれている。ただし、車道に合してから先、峠への道筋は描かれていない。尚、馬坂川は南牧川(なんもくがわ)の支流で、その先下仁田で鏑川(かぶらがわ)に合し、更に烏川、利根川と流れ下って、銚子で太平洋に注ぐ。
 
 馬坂川の源頭部を東に抜けた先で、トンネルがある。峠に続く2番目のトンネル、「第二隧道」である。その手前に「第66号カーブ」の看板が、県道標識のポールに取り付けてある。県道標識に書かれている地名は「佐久市田口」である。

第二隧道 (撮影 2005. 6.25)
 

左手に林道が分岐 (撮影 2005. 6.25)
 第二隧道を過ぎた直ぐ先で、左に林道が分岐する。未舗装だ。「林道 星尾線」と小さな黄色い看板にある。その林道は、地図上では、県境を越えて群馬県星尾に入り、北上して星尾峠で旧佐久市に戻り、内山トンネル近くで国道254号に合する。ただ、星尾峠には車道は通じていない模様。ここも中央分水嶺の峠になるのだろう。気になる峠ではあるが、車で行けないのでは、なかなか訪れる機会もない。
 
 星尾林道分岐から、道は南へと大きく方向を変え、馬坂川左岸の山腹を、蛇行しながら急激に下って行く。地図で見ると、うんざりするくらいの九十九折りである。
 
 直ぐにまたトンネルが現れる(右の写真)。第三隧道である。第二も
第三も、ほんの短いトンネルだ。
 
 また一つ、右に分岐あり。「林道広川原線」とある(右下の写真)。地図では、どこにも抜けていないようだ。

第三隧道 (撮影 2005. 6.25)
 

九十九折りの様子 (撮影 2005. 6.25)

広川原林道の分岐 (撮影 2005. 6.25)
  
広川原付近
    
 沿道に「広川原」と看板が出てきた。主要地方道より少し低い、馬坂川の川岸に沿って人家が集まっている。この付近の山には、最勝洞などの地下湖が点在する。県道沿いに案内看板も立っている。こうしたちょっと辺ぴな地に、神秘的な地 底湖(本当は地下湖)があるとは、少なからず興味をそそられる。ツーリングマップ(ル)にも以前から掲載されていて、これは是非にでも訪れたいと思っていた。ところが、そ ばを通る県道は狭く、車を停めるスペースは皆無だ。広川原の人家が並ぶ道に入ってみても、更に狭い道で、車など停めたら大迷惑である。広川原の洞穴群は、 観光地化されたものではなく、気軽に立ち寄るという訳にはいかなそうだ。と言う訳で、地底湖はいまだ神秘のままである。
          

洞穴群の案内看板 (撮影 2005. 6.25)

広川原の集落 (撮影 2005. 6.25)
 

トンネルを抜ける (撮影 2005. 6.25)
 広川原集落を過ぎると、高い岩をくり抜いたトンネルを抜け、その先に「狭岩峡」(せばいわきょう)の看板が出て来る。この付近の馬坂川は、谷が狭く両側に崖がそそり立ち、川には岩を食んで清流が流れる。
 
 尚、現在立っている「狭岩峡」の看板は、峠に立つ「田口峠」の看板と造りが似通っている。同時期に建て替えられたのだろう。
 

狭岩峡の看板 (撮影 2005. 6.25)

険しい谷が続く (撮影 2005. 6.25)
   
  狭岩峡がある付近の地名は、「佐久市狭岩」である。しかし、集落はない。代わりに馬坂川の対岸に学校のような大きな建物が見える。その様子から既に廃校と なって久しいようだ。臼田小狭岩分校の跡だと思う。昭和47年に廃校となったそうだ。しかし、本校の臼田小学校は田口峠を越えた遥か西にある。そこで、群 馬県への越境による委託転入生が7人でたそうだ。峠と県境が異なる事情が、こうしたことにも影響している。

廃校 (撮影 2005. 6.25)
 
県境付近
    

第1号カーブ (撮影 2005. 6.25)
 狭岩分校跡を過ぎた直ぐ後に、最後のカーブ番号が出てくる。そしてその先に県境が現れる。馬坂川の右岸に沿ってひたすら下っているだけなので、こんな所に長野・群馬の県境があるのは、ちょっと唐突な感じがする。昔、ここにどうして国境が決まったか、改めて不思議に思う。
 
 県境には、「群馬県 南牧村」とあり、更に細かくは「羽沢」(はざわ)の地名が書かれている。しかし、よくよく見ると、道路の右端には「↑ 臼田町 馬坂」ともある。確かに、広川原の集落は過ぎたが、馬坂の集落はまだ出てこない。県境を越えたこの先に馬坂があるのか。(そんなまさか)
   

前方に県境 (撮影 2005. 6.25)
右手奥に小さく見える看板に
「↑ 臼田町 馬坂」とある


県境に立つ看板 (撮影 2005. 6.25)
 
馬坂集落付近
    
  広川原集落以降は、この山深い地の景観もさることながら、狭い渓谷沿いに立つ家々に目を見張るものがある。県境を過ぎ、東へと流れを変えた馬坂川の右岸に 沿い、尚も600mほど進むと、また一段と大きな集落が目に飛び込んできた。馬坂川を挟んだ対岸に、この山間地としては想像以上に大きな集落を形成してい る。前に流れる馬坂川と、背後に迫る急峻な山に挟まれた傾斜地に、ピッタリ寄り添って人家が密集している。しかも、一戸一戸が大きいのだ。3階建て、ある いは斜面を使って一部は4階建てなっている家もある。

馬坂の集落 (撮影 2005. 6.25)
 

馬坂の集落 (撮影 2005. 6.25)
 先ほどの県境から下流は、馬坂川が長野県と群馬県の境になっている。そこで、右岸を走る県道は群馬県だが、左岸に立つ馬坂の人家は長野県佐久市に属していた。
 
 これは想像だが、今の県道が通る道筋は、後の世に開削されたものではなかろうか。元々は、人家が立つ馬坂川の左岸に、田口峠の街道も通じていたのでは。 この地に車道を通す段になって、人家が密集する集落内は狭いので、対岸に新しく道を切り開いたのではないかと想像する。街道とそれに面する集落が、信濃と 上野の別々の国に分かれていては、都合が悪いだろうに。
   
 現在、県道から眺める馬坂の集落内に、車の影はほとんど見えない。そもそも車が走れそうな道は、極めて少ないのだ。代わりに人家の間を上へ下へと迷路のように歩道が通じる。馬坂の集落は一種独特の景観を催している。
 
 長野県の馬坂の集落に続いて、群馬県の「間坂」の地名が見られる。同じ読み方だが、字を違えて区別しているのか。ただ、間坂の方には、今では人が住む人家はないようである。
 
 路傍に「一字一石経」(いちじいっせききょう)の石碑がポツンと立っていた。この地は現在南牧村大字羽沢の「勧能」(かんのう)という地だが、古くは「観音村」と呼ぶ 村があったことが、碑文から分かる。享保年間(1719年)に村人が2,500個もの小石に経文を書き、台座の地下に納めたとのこと。勧能(観音)村は江 戸期、幕府領だった。信州側の野田口藩と、こちら側の幕府の代官が、国境を争った訳である。

一字一石経 (撮影 2005. 6.25)
 
勧能大橋付近
    
 主 要地方道93号・下仁田臼田線は、勧能大橋を渡ってT字路に突き当たる(下の写真)。右から来たのは県道108号・下仁田佐久線だ。この県道を遡った所に余地峠がある が、車では峠まで辿り着けない。主要地方道93号はこのT字路で左折する。ここまで南流して来た馬坂川は、余地峠方向から東流して来た熊倉川と合し、名前 を南牧川と変えつつ、更に東へと流れ下る。主要地方道93号は川の流れに従って、南牧川沿いとなる。
                     

この先に熊倉川を勧能大橋で渡る (撮影 2005. 6.25)

勧能大橋を渡っているところ (撮影 2005. 6.25)
 

勧能大橋より下流を見る (撮影 2005. 6.25)

県道108号方向を見る (撮影 2005. 6.25)
 

勧能大橋の袂 (撮影 2005. 6.25)
南牧バスの勧能待合所がある
  ここまで至る途中に、広川原や馬坂などの集落があったことはあったが、この勧能大橋を渡ると、やっと人里に辿り着いたという感じがする。橋の袂には勧能と いうバス停もあり、ここが南牧バスの終点のようだ。道幅も、勧能大橋から峠方向が非常に狭いが、南牧川沿いになると、心持ち広くなる。谷も広くなり、開け た感じがする。
 

勧能大橋の袂にある看板 (撮影 2005. 6.25)
工事看板が多い

勧能大橋の袂にある看板 (撮影 2005. 6.25)
南牧村観光案内図が立つ
 
勧能集落付近
   
  勧能大橋から下流、南牧川の左岸にまた大きな集落がある。勧能の集落だ。馬坂よりも大きいが、川と山に挟まれた傾斜地にある点は似ている。こちらは集落の 方にも車道が通じ、右岸の主要地方道から渡る橋が架かっている。集落内の建物の中には、「××製作所」などと看板を掲げた工場もあり、農林業以外の産業も あることをうかがわせる。
 
 
勧能集落がある丁度目の前で、主要地方道から右に分かれる道があった(下の写真)。何の気なしに看板の行き先を見ると、「鬼石」(おにし)とある。さて、この近くにそのような名前の集落があるのだろうか。もしかしたら鬼石町の鬼石か。

対岸に勧能の集落 (撮影 2005. 6.25)
  

右手に分岐 (撮影 2005. 6.25)
行き先は「鬼石」とある
 地図を調べてみると、やはりそれは御荷鉾林道(みかぼ)の入口だった。南の神流川(かんながわ)と北の南牧川・鏑川を分かつ御荷鉾山系の尾根沿いを、東は以前の鬼石町(現在は藤岡市)から、西はこの南牧村勧能まで、総延長約50Kmに及ぶスーパー林道である。
 
 現在は一部に通行止などがあって、全線を走りきることはできないようだが、1990年前後に鬼石からこの勧能まで走ったことがある。関東では有名な林道で、是非にでも走りたいと思ってやって来たのだった。
幸運なことに御荷鉾林道全線を走り抜けることができ、勧能から続いて田口峠を越えた。それが初めての田口峠であった。ただ、残念ながら、全線走った御荷鉾林道も、初めて越えた田口峠も、全く写真に撮っていない。カメラを持って行かなかったのだった。
       
 南牧川は、それまでの狭い渓谷を蛇行する川とは少し趣を変え、ややゆったりした流れとなる。それに沿う道も穏やかな様相だ。もう、急坂を下る峠道ではない。道幅も概ね広くなるが、まだ一部に狭い箇所も残る。人家は沿道にほぼ絶えることなく現れる。
                     

主要地方道の様子 (撮影 2005. 6.25)

主要地方道の様子 (撮影 2005. 6.25)
南牧川を右手に見る
  
線ヶ滝寄り道
   
 広川原の地下湖を見学できなかった代わりと言っては何だが、線ヶ滝と呼ぶ滝を見ることとした。勧能大橋から2Kmほど下った所で、主要地方道より北に分岐する県道201号・星尾羽沢線に寄り道する。
                     

県道201号の分岐 (撮影 2005. 6.25)
直進:南牧村自然公園・8.5K、またたびの湯
右折:線ヶ滝・4K

県道201号・星尾羽沢線入口 (撮影 2005. 6.25)
   
 県 道星尾羽沢線は南牧川の支流・星尾川沿いに北へと遡る。入口近くに学校のような大きな建物があったが、もう学校としては使われていない様子だった。道は狭 く、途中、沿道の木の伐採を行っていた。何の気なしにその脇を通り過ぎるが、帰りにひどい目にあった。人家は意外なほど奥まった所まで点在していた。
                     

沿道の木の伐採作業中 (撮影 2005. 6.25)

県道201号の様子 (撮影 2005. 6.25)
前方に高い山、立岩か?
 

線ヶ滝の案内看板 (撮影 2005. 6.25)
(画像をクリックすると拡大表示されます)

線ヶ滝の案内看板   (撮影 2005. 6.25)
(画像をクリックすると拡大表示されます)
 
 線ヶ 滝は、車道脇に車を停め、そこから直ぐに眺められる。便利がよい。滝壺まで下りる階段があるが、これはなかなかスリルがある。鉄製の螺旋階段と梯子で下り る。滝の周辺には神社があったり、「陥没の壁」と呼ぶ珍しい地形がある。ほとんど人は来ないので、のんびり休憩にもよい場所だった。
                

線ヶ滝 (撮影 2005. 6.25)

滝壺へ下る階段  (撮影 2005. 6.25)
下から見上げる
 

パンクの修理 (撮影 2005. 6.25)
  県道の帰りに、また伐採工事の脇を通り過ぎる。暫くすると、車の様子がおかしい。異音がするのだ。途中の路肩に車を停めて点検すると、左後輪に枝が見事に 刺さっていた。引っこ抜くと、瞬く間に空気が抜けていく。慌てて手で押さえたが、何の効果もない。伐採した枝が路面一面に散らばっていたが、あそこを通っ た折、運悪く尖った枝が刺さったのだ。
 
 パジェロミニのタイヤ交換はまだやったことがなかったので、ジャッキアップ一つもてこずる。妻は横で記念写真を撮る。枝が見事にタイヤに刺さっていた状 態を写真に撮れなかったのを悔やんでいる。交換後のタイヤのリアドアへの取り付け方が複雑で、面倒だからと荷台に積み込んだ。その後の旅では、ゴム臭が車 内に立ち込めたのだった。
 
 それ以後、暫くは枝恐怖症となった。路面に枝が落ちていると、びくびくしながら通った。路肩に車を停める時も、枯れ枝が落ちている草地などは極端に嫌った。しかし、1年も経てば、もう平気である。以前と同じく、どこにでも車を入り込ませるのであった。
             
主要地方道45号へ
   
  勧能大橋から7Kmほどで、前方に主要地方道45号・下仁田上野線の看板が出て来る。右に南牧川に架かる桧沢橋(ひさわばし)が見える。このまま直進は 45号に乗って下仁田へ、右折して橋を渡って行けば、45号の続きを塩之沢峠を越えて上野村へと至る。田口峠を越える主要地方道93号は、実質的に桧沢橋の袂で終点である(下仁田市街に僅かに93号の続きが見えるが)。
 
 最近、塩之沢峠の代わりとなる湯の沢トンネルが開通し、非常に便利になった。険しい塩之沢峠の道は、さびれていくのだろうか。

右に桧沢大橋 (撮影 2005. 6.25)
 
     
     
 田口峠は、峠の広川原側で、眺望をバックに立つ峠の標柱が印象的な峠である。最近になって、古くからの独特な形状の標柱が取り払われ、新しいあまり個性的でない看板に代わったのはやや残念だ。田口峠の標柱は、中央分水嶺の長い歴史を持つ峠に一人たたずみ、じっと世の中の移り変わりを見つめていた、仙人のように思える。そんな田口峠であった。
              
  
     
<走行日>
・1990年頃 群馬県→長野県 (ジムニーまたはAX-1にて)

・1995. 4.29 群馬県→長野県 (ジムニーにて)
(1999. 7.24 長野県側の竜岡城跡に寄る ジムニーにて)
・2000. 6. 2 長野県側から峠まで (峠下で野宿、ジムニーにて)
2000. 6. 3 野宿から長野県側へ戻る)
・2005. 6.25 長野県→群馬県 (パジェロミニにて)
 

<参考資料>

・角川日本地名大辞典 10 群馬県 平成3年 2月15日再発行(初版 昭和63年 7月 8日) 角川書店
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成3年 9月 1日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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