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鳥居峠
  とりいとうげ  (峠と旅 No.082-2)
  4世代に渡り変遷を遂げた峠道
  (掲載 2022. 4.10  最終峠走行 2002. 9.28)
   
   
   
鳥居峠 (撮影 2002. 9.28)
手前は長野県塩尻市大字奈良井
奥は同県木曽郡木祖村大字薮原
道は江戸期の五街道の一つ・中山道
後に車道として改修され、一時は国道にもなったらしい
峠の標高は1,197m (文献などより)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
肝心な峠なのに、こんな酷い写真しか残っていなかった
当時まだデジカメがなく、あまり写真を多く撮れなかった
 
 

   
御嶽神社遥拝所の鳥居 (撮影 2002. 9.28)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠名の由来ともなった鳥居だが、この鳥居が立つ場所は本来の鳥居峠と言えるのか?
 

<勘違い>
 この鳥居峠については既に掲載(1999.10.2)してあるのだが、今見てみるといろいろ勘違いが多い。 当時まだインターネットが未発達で、参考となる資料が少なかった。特に地形図などの地図データが自由に閲覧出来なかったのが痛い。 縮尺1/14,000のツーリングマップでは何も分からない。それで、車道が通じる峠とは別に、鳥居が立つ所が本来の鳥居峠なんだろうと勘違いしていた。 群馬・長野県境にある鳥居峠(国道144号)などは、ちゃんと峠に鳥居が立っているのだ。
 
 しかし、改めて調べてみると、この鳥居峠では、鳥居が立つ場所は稜線上に位置していなかった。 かつてジムニーで越えた何もない寂しい切通しが、ほぼそのまま古くから続く稜線上の峠であった。 更に、そこより遊歩道を木祖村側に少し歩いて行くと、峠名の由来となる鳥居が立つ。そこもまた一つの鳥居峠と言えそうだ。
 
 2002年9月にその鳥居を見て来たので、いつか写真を掲載しようと思っていたら、20年の月日が過ぎてしまっていた。

   

<所在>
 峠はほぼ東西方向に通じ、東側は長野県塩尻市(しおじりし)大字奈良井(ならい)、旧木曽郡(きそぐん)楢川村(ならかわむら)大字奈良井。 西側は同県木曽郡木祖村(きそむら)大字薮原(やぶはら)。

   

<地理院地図(参考)>
国土地理院地理院地図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<4世代の峠道>
 鉄路を除くと、鳥居峠を越える道はほぼ4世代あると思われる。
 
第1世代
 和銅6年(713年)〜
 神坂峠を越える東山道の代わりに吉蘇(木曽)路を開発。
 峠の標高1,197m。
 江戸期の中山道として知られ、現在、遊歩道として整備されている。
第2世代
 明治23年(1890年)〜
 長野県の七道開削事業第6路線として馬車の通れる新道開通。
 峠部分は中山道を踏襲。
 改修が進んで自動車通行も可能になり、現在も通行可?(未確認)
 多分、初代の国道となるようだ。
第3世代
 昭和30年(1955年)〜
 鳥居隧道(全長1,111m)開通。
 隧道坑口の標高は1,040m前後。
 現在、坑口は閉鎖され、近付くのも困難。
第4世代
 昭和53年(1978年)〜現在。
 鳥居トンネル(全長1,738m)。新鳥居トンネルとも呼ばれる。
 トンネル坑口の標高は、奈良井側約974m、藪原側約994m。  現在、国道19号の幹線路として交通量が多い。
 
 古い写真ばかりだが、これら4世代の峠をここで見ていこうと思う。

   

<水系>
 その前に、一応この鳥居峠が中央分水界に立地することを確認したい。 峠の塩尻市側は奈良井川水域で、奈良井川は犀川、千曲川(信濃川上流部の呼称)、信濃川と続いて新潟市で日本海に注ぎ、信濃川水系に属す。 奈良井川は犀川最大の支流で、その源流は木曽山脈(中央アルプス)北端の茶臼山付近だ。
 
 一方、木祖村側は木曽川本流の水域である。 鳥居峠は木曽川源流の峠と言えるが、正確には木祖村の鉢盛山(2,446m)が水源で、 それに一番近い峠は鉢盛峠ということになる。 尚、境峠(さかいとうげ)にも「木曽川の源流」と刻まれた石碑が立っていた。
 
 こうして鳥居峠は太平洋側と日本海側を分かつ中央分水界上にあることが分かる。 ところで、江戸と京都という、どちらも太平洋側にある地を結ぶ中山道が、中央分水界を越えている点が面白い。 江戸からまず碓氷峠で日本海側、 次に和田峠で太平洋側、 更に塩尻峠(または善知鳥峠)で再び日本海側、そしてこの鳥居峠でやっと元の太平洋側に戻って来る。 峠の観点から見ても、中山道というのはなかなか遠大な街道だ。

   
   
   

第4世代/新鳥居トンネル

   

<国道19号>
 まずは一番最新の第4世代から逆に時代を遡る。現在の中山道は国道19号となる。松本・塩尻方面から南下して来ると、快適な道のまま奈良井宿に入る。 ただ、奈良井の中心地は奈良井川を挟んだ対岸にあり、現在のコースは第3世代の鳥居隧道の開通とほぼ同時期に集落をバイパスする形で通された道筋になる。
 
<奈良井>
 奈良井は「楢井」とも書いたそうだ。 旧楢川村は明治22年(1889年)に奈良井と贄川(にえかわ)の2か村が合併して成立したが、楢井の「楢」と贄川の「川」を合わせたのらしい。
 
 奈良井川の源流部が奈良井の地である。茶臼山から流れ下るその川はV字形の峡谷を成す。この峡谷部を地元では川入(かわいり)と呼ぶそうで、川に沿って小集落の山村が点在する。 権兵衛峠から下って来ると、萱ヶ平、羽淵、糠沢といった地名が見られるが、今では寂れた感じは否めない。
 
 特に地形的に面白いことには、その狭い谷の両側とも中央分水界なのだ。この奈良井川の部分だけ、信濃川水系が南へ細く入り込んでいる。

   
国道19号を南へ (撮影 2008. 8.13)
右手の看板には「奈良井宿」とある
ただ、奈良井宿は右手に流れる奈良井川の対岸(左岸)沿いに広がる
   

<鳥居トンネルへ>
 道はそのまま奈良井川の右岸に沿って遡り、ほとんど勾配がないまま鳥居トンネルへと向かう。高さ制限4.4mのバーが横たわる。

   
前方に鳥居トンネル (撮影 2008. 8.13)
   

<坑口の標高>
 道は坑口直前で奈良井川(奈良井橋)を左岸へと渡る。橋の手前に「標高 974m」と看板にある。尚、木祖村側には「標高 994m」との看板が立つ。 トンネル内は僅かながら登って行くようだ。

   
鳥居トンネルの塩尻市奈良井側坑口 (撮影 2008. 8.13)
   
鳥居トンネルの塩尻市側坑口 (撮影 2008. 8.13)
   

看板 (撮影 2008. 8.13)

<延長>
 「鳥居トンネル 延長1738m」とある。その下に何か書いてあったようだが、消されている。
 
<扁額>
 坑口上部に掛かる扁額にも同じく「鳥居トンネル」と刻まれる。しかし、このトンネル開通の前には鳥居隧道が存在した。 文献や地理院地図、ツーリングマップルなどの一般の道路地図では「新鳥居トンネル」と「新」が付くことが多く、本来その方が正しいように思う。 しかし、現地ではこうして「鳥居トンネル」と称している。その辺りの事情は不明だ。(以下、「新鳥居トンネル」と記す)

   

 この新鳥居トンネルは何度も通っている。昭和53(1978)年開通とやや古く、今となっては狭苦しい感じを受ける。 それでいて大幹線路として大型輸送トラック等の交通量は多く、ただただ足早に通り過ぎるばかりの峠になっている。 ちょっと手前には桜沢トンネルが開通し、国道19号は増々快適になって行くようだが、この鳥居峠部分の改修は難しいのだろう。
 
 (都合により、新鳥居トンネルの木祖村側の様子は割愛)


扁額 (撮影 2008. 8.13)
   
   
   

第3世代/鳥居隧道(旧楢川村側)

   

新鳥居トンネルの約1Km手前 (撮影 2008. 8.13)
右に分岐がることを示す看板が立つ

<県道493号分岐>
 新鳥居トンネルの塩尻市側坑口の約1Km手前、右手の奈良井川を渡る(奈良井新橋)方向に分岐がある(地理院地図)。 道路看板には県道493号とあり、その先が国道361号ともなっている。
 
 国道361号と言えば、あの権兵衛峠である。 今は権兵衛トンネルや姥神トンネルなどが開通し、木祖村側からの立派な国道361号が通じている。 しかし、それ以前は旧楢川村側からこの県道493号を行くのが、権兵衛峠を越える唯一の車道であった。 更には、ここで奈良井川左岸に渡るルートが、国道19号の前身だったようだ。

   
右に県道493号分岐 (撮影 2008. 8.13)
   

<県道493号・姥神奈良井線へ>
 新鳥居トンネル開通後は、トンネル坑口の数100m手前から県道493号へ接続するショートカット路ができ(地理院地図)、 この奈良井川左岸を遡る県道区間を走る車はほとんどない。 しかし、この道が権兵衛峠への正規のルートであったことを示す様に、奈良井川を左岸に渡って直ぐの所で、以前は「権兵衛峠周辺案内図」という看板が立っていたが、 今はもうない。(地理院地図

   

権兵衛峠周辺案内図 (撮影 1992.10. 7)
最初に見た時

権兵衛峠周辺案内図 (撮影 1995. 5. 5)
この時はまだあった
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<権兵衛峠周辺案内図(余談)>
 1992年10月にここを訪れた時は、トンネルではない鳥居峠を越える車道がないかとやって来た。 この案内看板を見ると、鳥居峠を越える「信濃路自然歩道」というのが描かれている。しかし、あまりに大雑把な地図なので、何の参考にもならない。 奈良井宿の奥の方へとジムニーを進めるが、車で越えられる道は見付けられなかった。中国地方を17日間旅をする初日のことだった。 結局、初めて鳥居峠を越えたのは7年後の1999年7月になった。

   
権兵衛峠周辺案内図の拡大 (撮影 1995. 5. 5)
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<鳥居隧道への分岐>
 奈良井川左岸沿いの県道493号は、元国道19号ともあって、センターラインのある広い舗装路が延びていた。しかし、今は通る車は皆無に等しく、閑散と寂れている。 そんな道を権兵衛峠の行き帰りにしばしば立ち寄るのが楽しみであった。それが功を奏し、鳥居隧道を見ることもできた。 県道を走って1Km、丁度新鳥居トンネル坑口の直ぐ上辺りに差し掛かると、右手に分岐がある(地理院地図)。 直進方向には「伊那」と矢印看板が出てるが、分岐する方の道には何の案内もない。しかも、分岐の直ぐ先にゲート箇所が設けられている。


右に鳥居隧道への分岐 (撮影 2001. 4.28)
この時ゲートは開いていた
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分岐の様子 (撮影 2001. 4.28)
   

<権兵衛峠(余談)>
 2001年4月に訪れた時は、権兵衛峠方向には大型車通行止と看板が出ていたが、何の問題もなく峠越えできた。 権兵衛トンネルや姥神トンネルは開削工事の真っ最中であった。

   
権兵衛峠の看板 (撮影 2001. 4.28)
   

<ゲート閉鎖>
 その後、2001年11月には伊那側から権兵衛峠を越えて来たが、鳥居隧道への道のゲートは閉ざされていた。今思うと残念なことをした。 それ以降、もう二度と鳥居隧道の道に入る機会を失った。

   
分岐の様子 (撮影 2001.11.10)
この時ゲートは完全に閉じられていた
   

<ゲートの先へ>
 当時の道路地図上にはもう旧国道19号の鳥居隧道の記載はなく、その存在など全く知らなかった。1995年5月にゲートの先へ進んだのは、全くの気まぐれだった。

   
鳥居隧道から戻って来たところ (撮影 1995. 5. 5)
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 まずは、ゲート脇にジムニーを置き、歩いて偵察。

   

旧國道からゲート方向を見る (撮影 1995. 5. 5)
ゲート脇にジムニーが停まる

ゲート方向を見る (撮影 1995. 5. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<栃窪隧道>
 ゲートから500m程行くと、栃窪隧道という延長60m位のトンネルが開いていた(地理院地図)。 車で問題なく抜けられる。奈良井川左岸の崖が川岸まで迫っているので、そこをほとんどコンクリートだけで固めたトンネルで通している。
 
 扁額には右から左に栃窪隧道(実際は「道隧窪栃」)と描かれている。新鳥居トンネル坑口近くの奈良井川沿いに僅かながら集落が見られるが、それが栃窪らしい。


栃窪隧道 (撮影 1995. 5. 5)
この先が鳥居隧道
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<鳥居隧道>
 徒歩でトンネルを抜けるのは薄気味悪いので、ゲート脇のジムニーに戻り、車で向かう。しかし、栃窪隧道を抜けて僅か300mで行止りになった。 そこに閉ざされた坑口が待っていた(地理院地図)。

   
鳥居隧道の奈良井側坑口 (撮影 1995. 5. 5)
前にジムニーを停めて記念写真
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<隧道の様子>
 そこまでの2車線路の道幅に比べ、トンネル坑口は異様に狭い。「高さ注意4.2M」とあるが、それより幅が足りない。これでは乗用車同士でもトンネル内の離合は難しかったのではないか。栃窪隧道の方が大きいようだ。
 
<扁額>
 栃窪隧道と同じく、扁額には右から左に「鳥居隧道」(実際は「道隧居鳥」)とある。
 
 扁額に「隧道」という文字が使われるのは昭和30年代くらいまである。昭和40年頃からは「トンネル」となっていることが多い。 新伯母峯トンネル(昭和40年竣工)はその一例だ。また、右から左に書くのは昭和30年台前半までで、後半になると左から右に隧道と刻まれる。 伊勢神隧道(昭和35年開通)がその例だ。そんなことを詳しくを調べると、面白いかもしれない。

   

坑口の様子 (撮影 1995. 5. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

扁額 (撮影 1995. 5. 5)
   

<トンネルの変遷>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、このトンネル開通は昭和30年(1955年)で、全長1,111mだったとのこと。 尚、権兵衛峠への県道493号開通は昭和60年(1985年)で、ずっと後になる。今は県道号から旧国道が分岐する様な形だが、元は県道の方が分岐していたことになる。
 
 それまで江戸期の中山道と同じ峠を越えていた道が、この鳥居隧道のお陰で劇的に改善された。今見れば狭いトンネルだが、当時としては画期的なことだったと思う。 しかも、それ程古い話しではない。ざっと67年前のことだ。私の年齢と大差ない。
 
 一方、新鳥居トンネル開通は昭和53年(1978年)とのこと。鳥居隧道開通から23年後。 文献によると、新鳥居トンネル開通後も暫く鳥居隧道は利用可能だったようだが、新トンネルができたら、もう旧トンネルを使うメリットはほとんどない。 多分、あっと言う間に道は寂れ、間もなく坑口も閉鎖される運命だったのだろう。僅か23年ちょっとの命であった。 現在は地理院地図上からも鳥居隧道は姿を消し、ゲート以降に車で入ることもできない様子だ。

   
   
   

第3世代/鳥居隧道(木祖村側)

   

<木祖村側へ>
 鳥居隧道の木祖村側坑口には、1999年7月と2002年9月の二度訪れている。旧楢川村(現塩尻市)側に坑口が残っていたので、反対側も見れるだろうと思った。 案の定、新鳥居トンネルより南の方へと延びる旧国道が残っていた(地理院地図)。 その旧道を800m程も行くと、右手に大きな石碑が建っている(地理院地図)。 坑口の手前150m位の地点だ。

   
木祖村側坑口から戻って来たところ (撮影 2002. 9.28)
左手前が鳥居隧道方向
キャミの脇に「開道記念碑」が立つ
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<開道記念碑>
 石碑の表には下記の様にある。
   國道十九号線
   開道記念碑
   建設大臣 増田甲子七
 
 調べて見ると、甲子七は「かねしち」と読むようだ。

   

開道記念碑 (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

開道記念碑の碑文 (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<碑文>
 石碑の裏には長い碑文が刻まれる。当時、延長1,111mの道路隧道は前例がなく、難工事であったようだ。4年8ヶ月の歳月の末、昭和30年10月に完成したとある。石碑は昭和41年10月建之で、トンネル開通後からかなりの時間が経っている。

   

<石碑の先へ>
 石碑の前を過ぎると、途端に道は荒れた。路上はほとんど廃材置き場と化す。それでも以前は隧道坑口近くまで車を進められた。最近は立入禁止となっているようだ。

   
隧道手前から石碑方向を見る (撮影 2002. 9.28)
   

<道の様子>
 沿道にはここがかつて国道であった名残を留める。街灯や何かの設備が立ち尽くしている。「木祖村」と書かれた看板が寂しい。

   
坑口の数10m手前 (撮影 2002. 9.28)
以前はここまで車を進められた
   

「木祖村」の看板 (撮影 2002. 9.28)

<坑口直前>
 坑口の数10m手前から、道は狭く薄暗い谷の中を行く。もう、車では進むことができない程に路面は草に覆われていた。「兵どもが夢の跡」である。

   
隧道直前の様子 (撮影 2002. 9.28)
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<坑口>
 鳥居隧道の木祖村側坑口は(地理院地図)、旧楢川村側とほとんど変わりはないようだ。 最初に訪れた時から既にコンクリートで塞がれていたが、アーチ状に積まれた石の坑口の様子は味わいがある。 笹子隧道などは登録有形文化財となっているが、こちらも遺構として保存されていたら面白かっただろう。

   
鳥居隧道の木祖村側坑口 (撮影 2002. 9.28)
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木祖村側坑口の扁額 (撮影 2002. 9.28)

<扁額>
 右から左へ鳥居隧道(実際は「道隧居鳥」)という扁額も変わりない。この扁額だけでも取り外してどこかに飾って置いたら興味深いことだったろう。今はもう、だれの目に触れることなく、森の中に埋もれて行く。

   
初めて訪れた時の鳥居隧道の木祖村側坑口 (撮影 1999. 7.26)
   
   
   

第2世代/鳥居峠を越えた車道(奈良井宿)

   

<奈良井宿へ>
 現在の国道19号は奈良井川右岸沿いを突っ走り、左岸に広がる奈良井宿とはほとんど無関係だ。 奈良井宿へはずっと手前で奈良井川を渡る(地理院地図)。 国道から分かれるその道は県道258号・奈良井停車場線というそうだが、国道沿いにあまり目立つ看板はない。しかし、ここを逃すと、もう車では簡単には奈良井の集落へは入って行けない。多分、ここは住民のほとんどが利用する道だろう。
 
 江戸期の中山道もほぼこの地点で奈良井川を左岸へと渡り、奈良井宿を通って鳥居峠へと続いていたそうだ。


右に奈良井宿への道が分岐 (撮影 2008. 8.13)
   

<以前の踏切>
 今の奈良井宿へと入る車道(県道258号)は、暫く中央本線(西線)に沿って遡り、250m程行って踏切を渡る(地理院地図)。 しかし、以前の鳥居峠を越えていた車道、すなわち初代の国道ともなる道は、奈良井川を渡ると直ぐに中央本線も越えていた。 丁度、下の写真でジムニーが停まる付近に踏切があったそうだ(地理院地図)。 鉄路を挟んだ反対側に一段高くなった土手が見られるが、そこが車道の名残である。そこを行くと、密集する奈良井集落の中心地を通らず、直接鳥居峠へと進めた。 ただ、地元の人の話では、その踏切は事故が多かったそうだ。
 
 現在は車道が改修され、集落へのアクセスは良くなった。その反面、鳥居峠へは必ず奈良井集落内を通らなければならなくなり、車では難儀することとなった。

   
ジムニーは木祖村側から鳥居峠を越えて来たところ (撮影 1999. 7.26)
中央本線と並走する
以前の鳥居峠への道は、この辺りに踏切があったそうだ
   

<奈良井駅前>
 踏切を越えると間もなく左手に奈良井駅が出て来る。そこまでは比較的閑散とした道だが、駅前を過ぎると沿道に人家も多くなり、一気に往時の宿場の雰囲気になる。 地元民ならともかく、外部の者が車ではなかなか入り難い雰囲気だ。2001年11月に奈良井を訪れた時は、鳥居峠への道を確認したくて、恐る恐る集落内に入り込んだ。

   
中央本線(中央西線)奈良井駅 (撮影 2001.11.10)
峠方向に見る
   

木曽の大橋 (撮影 2002. 9.28)

<木曽の大橋(余談)>
 最近は国道19号沿いに道の駅・奈良井ができ、奈良井宿の探訪が便利になった。その道の駅にはこれと言った施設はないが、とにかく車を安全にデポすることができる。 跨線橋で歩いて線路を越えると、その先に奈良井宿がある。近くに「木曽の大橋」も架かる。橋の上からは奈良井川の眺めと、その先に鳥居峠が通じる山並みを望む。

   
木曽の大橋より峠方向を望む (撮影 2002. 9.28)
左手の山際に国道19号が通じ、右手に奈良井宿が広がる
   

<奈良井宿>
 奈良井宿は奈良井川左岸沿いに細長く連なる。奈良井千軒ともいわれ、農地の乏しい山間高冷地のわりには多くの人が住む。集落内の道は狭く、車道には全く適さない。 鳥居峠を越える幹線路の車道が、ほとんど集落内を通った歴史がないのもうなずける。幹線路が通らなかったことが、往時の様子を留める一因になったとも言えるのではないか。
 
 奈良井駅前から峠方向の集落の端まで、約1.2Kmある。そこに鎮神社(しずめじんじゃ)が佇む(地理院地図)。その先までジムニーを進めるも、間もなく車道は行止りとなり、旧中山道は見付けられなかった。どこかに峠へと登る遊歩道が始まっていた筈なのだが(多分ここ)。

   

鎮神社付近 (撮影 2001.11.10)
右手が神社
峠方向を見る

鎮神社付近から奈良井駅方向を見る (撮影 2001.11.10)
細長い奈良井宿が延びる
   

 奈良井宿は鳥居峠越えを控えた重要な宿場だった。峠との関係が深い。今の奈良井宿には史蹟や資料館なども多く、いろいろ知識が得られる。

   

鎮神社前から峠方向を見る (撮影 2002. 9.28)
この時は歩いて訪れた

鎮神社前から集落方向を見る (撮影 2002. 9.28)
   
奈良井宿の様子 (撮影 2002. 9.28)
峠方向に見る
中山道を行く旅人はここを通って鳥居峠を越えて行った
   
   
   

第2世代/鳥居峠を越えた車道(奈良井宿以降)

   

奈良井宿内の道を駅方向に見る (撮影 2002. 9.28)
峠へは左手の道を登って行く
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<峠への入口>
 さて、肝心な奈良井峠への車道は、奈良井駅前から100m程集落内に入った所(地理院地図)から、鋭角に山側へと分岐して行く。 勿論、入口には何の案内看板も立っていない。今ならネットが発達し、道を調べるのは容易だが、以前はなかなか分からなかった。 結局、木祖村側から鳥居峠を越え、ここに降りて来て初めて分かった。
 
 分岐のカーブは急なので、うっかりすると軽自動車でも切り返しが必要になる。この辺りはまだ観光客が少ないが、それでも歩行者には注意が必要だ。集落内は車道というより、ほとんど遊歩道と思っていた方がいい。
 
 この先、峠部分を除き、江戸期の中山道と車道とは全く異なるルートで鳥居峠を越えて行く。

   
分岐の様子 (撮影 2002. 9.28)
車で峠を越えるには、この急坂を登る
   

 道は一路、峠とは真反対の方向へと急坂を登る。道幅は狭い。300m程進むと、また鋭角のカーブ(地理院地図)があり、そこを曲がるとやっと峠方向に向く。そのカーブをそのまま直進方向に下る未舗装路がある。それがかつての鳥居峠越えの車道の本線だった。今は通行不能だ。

   
鋭角のカーブ (撮影 2001.11.10)
左手奥が奈良井宿方向、右手奥が峠方向
ここを手前方向に旧道が延びるが行止り
   

<奈良井宿からの別ルート>
 峠方向に少し進むと、直ぐに左手に下る道が分岐する(地理院地図)。 看板には「奈良井宿」とある。奈良井宿からの別ルートだ。ここで示したルートより屈曲が多そうだ。 また、より集落の中心部に近付くことになる。その分岐のちょっと手前、山方向には浄水場の道が登っていて、この場所はほぼ十字路に近い。

   

左に分岐 (撮影 2002. 9.28)
右の道が峠方向

分岐に立つ看板 (撮影 2002. 9.28)
   

 初めて鳥居峠を越えて奈良井側に下って来た時、この付近で地元の方から話を伺った。しかし、今はどこの家の方だったかさっぱり思い出せない。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1999. 7.26)
初めて鳥居峠を越えて来た
   

<未舗装路>
 浄水場や別ルートの分岐を過ぎると、沿道に人家は見られなくなる。僅かながらも畑があるようで、作業小屋のような物は散見される。道はまた大きく屈曲しながら、峠への斜面を登って行く。
 
 10数分も車を走らせると、もう舗装路が切れ、土の路面となった。道はそれなりに険しいのだが、どこか寂れた林道という感じはなく、落ち着いた雰囲気さえする。 急峻な崖が少なく、道の勾配も比較的緩やかに設定されている為だろうか。何しろ、鳥居隧道が開通する昭和30年(1955年)までは現役の国道だったのだ。 この付近の土地から中央分水嶺を越えて名古屋方面へ出るには、とにかくこの鳥居峠を越えなければならない。地元の方が4トン車も越えていたと話していたことを思い出す。冬場の雪の季節は、特に大変だったことだろう。

   
未舗装路の様子 (撮影 2002. 9.28)
これが元の国道
   

 道は、鳥居峠から北に連なる中央分水嶺の峰から奈良井川に流れ下る短い支流を、幾つも跨ぎ越しながら山腹を小刻みにうねって行く。

   
奈良井側の眺め (撮影 2002. 9.28)
あまり展望は広がらない
   

<眺め>
 道は林に囲まれ、あまり眺望には恵まれない。奈良井川の谷が狭く、屈曲が多いのも理由だろう。奈良井宿が眺められる場所が一箇所あったようだが、はっきり覚えていない。この後に出て来る峰の茶屋跡・休憩所付近だったようだ。


奈良井宿の眺め (撮影 2002. 9.28)
   

<中山道合流>
 この明治期に開削された新道は、江戸期の中山道とは全く異なるルートで鳥居峠を越える。しかし、峠の手前100m位だけは、ほぼ同じルートを辿る。車道の進行左手より、石畳の遊歩道が鋭角に合流して来る(地理院地図)。それが中山道らしい。分岐にそれを示す案内看板も立つ。


右手に江戸期の中山道が下る (撮影 2002. 9.28)
奈良井宿方向に見る
手前が峠方向
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峰の茶屋跡>
 中山道が合流した直ぐ先、左手に大きな小屋が建っている(地理院地図)。ここは元は峰の茶屋があった場所だったそうで、今は休憩所が設けられている。往時の中山道を偲んで遊歩道を歩いて来た者が、ここで一服する姿が見られる。

   

休憩所 (撮影 2002. 9.28)
峠方向に見る

休憩所 (撮影 2002. 9.28)
奈良井宿方向に見る
   

<峠>
 峰の茶屋跡の目と鼻の先、狭く薄暗い切通しがある(地理院地図)。 実はそれが本物の鳥居峠だった。峠自体にはそれを示す物は何もない。鳥居がある所が峠だという先入観があり、これまで他に鳥居峠があるものと思っていた。 鳥居峠はあまりに有名だが、峠そのものにはあまり関心が向けられないのだろう。
 
 今はネットが発達し、地理院地図なども閲覧し放題だ。それを見れば、この寂しい切通しが鳥居峠で間違いないことが分かる。

   
鳥居峠(再掲) (撮影 2002. 9.28)
手前が塩尻市奈良井、奥が木祖村薮原
丁度、木祖村側から車が一台登って来た
   

<立地・標高>
 木曽山脈の北端に奈良井川の源流となる茶臼山(2653m)がそびえる。そこより、木曽山脈の主脈とは別に、北の木曽川源流の鉢盛山へと中央分水界を成す峰が延びる。 鳥居峠はその中間くらいにある。南の峠山(1416m)と北の1346mのピークとの鞍部に位置する。標高は文献その他で1,197mとしている。地理院地図もほぼ1,200mの等高線辺りで峠が越えている。

   
峠の木祖村側 (撮影 1999. 7.26)
前方奥が峠、手前には藪原側へと車道が下る
右には藪原宿への中山道が分かれる
   

<峠の木祖村藪原側>
 短い切通しを抜けると、開けた場所に出る(地理院地図)。ただ、あまり眺望はない。車道の本線以外に2つの道が分岐している。南の尾根方向に藪原宿へ通じる中山道が分かれる。この道は遊歩道になっていて、車の進入はできない。一方、北の尾根方向には林道が分岐する。
 
 詳しい地図がないと、ここがどのような場所なのか判断しにくい。特に藪原宿へ通じる遊歩道(元の中山道)は下ることなく、やや登り気味に始まっている。まるで、この先に鳥居が立つ鳥居峠があるかのようだ。それでこれまで勘違いしていた。

   

左奥が藪原宿への中山道 (撮影 2002. 9.28)
脇に車を停められるスペースがある
(ピンボケの写真ばかり撮ってしまった)

正面が藪原へ下る車道 (撮影 2002. 9.28)
右に尾根沿いの林道が分岐
   

<道標>
 確か、藪原宿への中山道と車道との角に、石の道標が立っている。「左 明治道路」、「右 旧国道」と刻まれる。

   

道標 (撮影 1999. 7.26)
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道標 (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

道標の文字 (撮影 2002. 9.28)

<明治道路>
 この場合、「明治道路」とは江戸期の中山道を指していることになる。文献に「明治23年、長野県の七道開削事業第6路線として、馬車の通れる新道が開通」とあり、裏返せば確かに明治初頭までは江戸期の中山道のコースがそのまま利用されていた訳だ。それで「明治道路」と呼んだものだろうか。最初、明治期に開削されたので「明治道路」と呼んだのかと思ったが、それでは辻褄が合わない。
 
<旧国道>
 一方、この道標は現在の車道で藪原側に下る道を指して「旧国道」と呼んでいる。明治23年(1890年)に「馬車の通れる新道」が開削されたが、それが徐々に改修され、いつしか自動車も越えるようになり、遂には国道となったものか。昭和30年(1955年)10月に鳥居隧道が開通したのは間違いないが、それより前に鳥居峠を越える車道は、国道に指定されていたことになる。
 
 また、「旧国道」と呼ぶからには、この道標が建てられた時期は、鳥居隧道が開通しそちらに国道が移った後ということになる。すなわち昭和30年以降であろう。 「明治道路」などという名称を使うことからも、昭和期に入ってからの建立と思える。
 
 ただ、やはり「明治道路」という呼び方は紛らわしい。「旧中山道」とでもしてあると、納得が行ったのだが。後で示すが、その明治道路には階段があり、現代感覚では「道路」とは言い難い。

   

<藪原へ下る>
 鳥居峠の西側は木曽郡(きそぐん)木祖村(きそむら)大字薮原(おおあざやぶはら)となる。江戸期から明治7年(1874年)までの藪原村。 木祖村は薮原などの数ヶ村が合併して誕生したようだが、「木曽」ではなく、「木祖」となっているのが面白い。 村の北端に木曽川源流となる鉢盛山がそびえる地だが、「木曽の祖」というような意味合いがあるとのこと。一方、木曽町という町もあるので、それと区別がつく。
 
 奈良井側と同様、沿道からの眺望にはあまり恵まれない。それでも藪原の麓方向が覗く箇所があったようだ。本来は御岳山が望めるようだが、2002年に訪れた時は稜線に雲が立ち込め、いい写真が撮れなかった。

   
木祖村側の眺め (撮影 2002. 9.28)
天候も悪くいい写真が撮れていない
この方向に御岳山が望める筈なのだが
   
木祖村側の眺め (撮影 1999. 7.26)
峠を少し下った所より
この右手の方向に御岳山が望めたものと思う
   

<丸山公園分岐>
 道は狭いながらも走り易い。その下りの途中、舗装路の分岐がある(地理院地図)。行先に「丸山公園」とあった。後で調べると、中山道の途中にあるその公園へと車で行けるようだ。
 
<中山道と交差>
 下り道も8割がた済んだ所で、ヘアピンカーブに中山道が交差する(地理院地図)。石畳で整備され、車両進入禁止の看板が立つ。

   

中山道を麓方向に見る (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

中山道を峠方向に見る (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

鳥居峠の看板 (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<鳥居峠の看板>
 峠方向に向く道の脇に「鳥居峠」と題された看板が立つ。説明文中に「楢川村」とあり、看板は塩尻市になる前の物と分かる。更に、峠は海抜1197mで、木曽川と信濃川上流の奈良井川との分水嶺上にあるとしている。ここまでは納得できる、
 
 しかしその後、「頂上は木祖村に属し」とある。そこでは御嶽山や駒ヶ岳の眺望がいいともいう。注意すべきは、「鳥居峠」と「頂上」は全く別物ということだ。 車道のルートとしては峠がそのまま最高所であったが、江戸期の中山道では、峠より高い「頂上」が木祖村側に存在する。こうしたことが、分水嶺上の峠とは別に、本当の「鳥居峠」と呼ばれる場所があるのではないかと勘違いした理由だ。(「頂上」については後述)

   

<中山道と合流>
 坂道もほとんど終わった所で、右手よりまた江戸期の中山道が合流して来る(地理院地図)。 藪原側から来ると、消防署(正確には木曽消防署北分署)(地理院地図)の脇から進んで300m程の所で、中山道が左手に分かれて行く(下の写真)。 この地点から藪原市街へは一緒の道だ。しかし、明治期に開削された新道はこの合流点よりもっと手前(地理院地図)で、後の鳥居隧道への道へとショートカットするように続いていたようだ。

   
左に中山道が分岐 (撮影 1999. 7.26)
ジムニーは峠方向を向く
これからいよいよ本格的な峠越え
   

 中山道のコースは昭和46年に信濃路自然歩になって以来、奈良井宿が重伝建に指定されるなと、歴史を偲ぶ観光地として人気である。各地点に案内看板も充実しているようで、以前より訪れやすくなったようだ。

   
   
   

第1世代/江戸期の中山道

   

<頂上へ>
 車道の峠道は車で2回走ったが、残念ながら昔の中山道のコースはほとんど歩いたことはない。ここでは峠から「頂上」までを記す。
 
 鳥居峠から頂上への入口には、クマに関する注意看板があったと思う。丁度訪れた時期は、日本各地でクマの被害が増え始めていた頃だった。 それもあって、なかなか車から離れることができなかった。2度目に訪れた時やっと意を決し、江戸期の中山道、道標が示す「明治道路」の方向へと歩き出した。
 
 車の進入は禁止だが、まあまあ林道程度の幅がある。峠から南の峠山に至る稜線の少し西側に通じる。峠山への作業道でもあるようだ。頂上にNHKの中継局があるらしい。 最初は上り調子だが、直ぐにほぼ水平移動となる。少し行くと西方面へと眺望がある。曇っていて分からなかったが、そろそろ遠くに御嶽山が望めるようだ。

   
峠から頂上へ向かう途中の眺望 (撮影 2002. 9.28)
ほぼ西を見る
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
僅かに藪原の麓が覗く (撮影 2002. 9.28)
   

 はっきりとは記憶にないが、途中で稜線沿いの峠山への作業道と別れ、西方向へと進む。寂しい道で、いよいよクマが怖くなる。


道の様子 (撮影 2002. 9.28)
   
子産の栃 (撮影 2002. 9.28)
   

子産の栃の看板 (撮影 2002. 9.28)

<子産の栃>
 途中、「子産の栃」という名所がある。周辺は栃の木が群生するようだ。

   

<頂上>
 鳥居峠から歩いて8分程度で頂上に着いた(地理院地図)。道程は500mくらいだった。それでも、とても長く感じた。
 
 頂上は道がそのまま広くなり、右手に御嶽神社への参道が分かれ、その向こうに鳥居が見える。石碑なども散見される。


正面に御嶽神社の鳥居 (撮影 2002. 9.28)
残念ながらピンボケ
   

頂上の様子 (撮影 2002. 9.28)
峠方向に見る
この左手が御嶽神社
連れはしきりに手を叩いていた
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<頂上の様子>
 ベンチや案内看板が立つ。木々に埋もれ、やや暗く寂しい所だ。道から北へ小さなコブのように尾根が張り出していて、その僅かな平坦地に鳥居や神社の社が立っていい。地理院地図で見ると、この地点は1,200mの等高線を僅かに越えている。確かに鳥居峠よりは高く、中山道の鳥居峠区間の最高点である。
 
 それはともかく、クマが心配である。常に音を立てておこうと、連れはしきりに手を打っていた。天気が悪く暗いのも原因だが、慌ててシャッターを切っていたのか、後で見るとブレてピンボケの写真ばかりであった。

   
頂上より峠方向の道を見る (撮影 2002. 9.28)
(これもピンボケ)
   

<頂上より藪原側>
 頂上を過ぎると、道は藪原宿へとしっかり下って行った。道幅も狭い。もう馬車などが通れるような道ではない。

   
頂上の先の道 (撮影 2002. 9.28)
細く下って行く
   

 更にちょっと先まで降りて行くと、階段で急降下して行く。峠の道標に「明治道路」とあったが、これでも「道路」と呼べるのだろうかと思う。
 
 下る斜面の林の間から藪原の麓が覗いた。奈良井側に比べ、急傾斜地を行くようだ。


藪原側に下る道 (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
林の間から藪原の麓を望む (撮影 2002. 9.28)
   

<鳥居>
 頂上の道沿いから離れ、狭い尾根上の参道を行く。数10m先で何段かの階段を登った上に立派な石の鳥居が立つ。これが鳥居峠の名の由来になった鳥居であろう。ただ、建之以来、いろいろな改修などが行われたかもしれない。
 
<2つの鳥居峠>
 繰り返すようだが、地形的な中央分水界上、あるいは行政区界上にある鳥居峠と、この鳥居が立つ道の頂上とは別物である。 地理院地図などでは分水界上に「鳥居峠」と記していて、その方が正しいと思う。たまたま分水嶺の藪原側が急傾斜地だったので、人為的に道を開削する折、少し迂回して通した。 それにより、本来の峠より高い地点ができてしまったまでだ。
 
 ちなみに、この鳥居峠は日本百名峠(井出孫六編)の一つとなっている。その本の中で峠の標高を1,197mとしながらも、鳥居が立つ箇所を鳥居峠と呼んでいた。
 
 峠の定義そのものも曖昧で、道の一番高い所を峠とする例もある。この峠道には、「2つの鳥居峠」があると言ってもいいかもしれない。

   
鳥居(再掲) (撮影 2002. 9.28)
   

頂上神社前の看板 (撮影 2002. 9.28)
ベンチの近くに立っていた
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<遙拜所>
 道沿いに置かれたベンチの近くに、「頂上神社前」と書かれた看板が立ち、鳥居奥にある神社の説明がなされている。それによると、正確には御嶽神社の「遙拜所」(遥拝所・ようはいじょ)と呼ぶようだ。北(塩尻方面)から木曽路を下って最初に御嶽山が望める地であったとのこと。
 
 鳥居や神社の周辺は、今は木々が生い茂り鬱蒼とした雰囲気だが、古くは展望台の様に見晴らしがよかったらしい。この展望に最適な地に遥拝所を建立する為、わざわざ中山道をここに通したように思われて仕方ない。

   
御嶽神社 (撮影 2002. 9.28)
正確には遙拜所
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<神社の裏手>
 拝殿から本殿へ続くと裏手に回ると、石碑・石仏・石塔がずらりと並ぶ。妻は書が趣味なので、石塔の文字などに関心が向くようだ。私は一応写真には撮るが、石碑などの価値はさっぱり分からない。

   

石仏など (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

石仏など (撮影 2002. 9.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠名>
 前掲の「鳥居峠」の看板に、いろいろある峠名に関した記述があった。
●県坂(あがたさか)
●薮原峠(やぶはらとうげ)
●奈良井峠(ならいとうげ)、ならい坂
 県坂とはここがかつて信濃・美濃の国境であったことからだが、今は峠のどちらも長野県である。鳥居は明応年間(1492年〜1501年)に木曽義元(1475 年〜1504年)によって建之された。家康が慶長7年(1602年)に中山道を制定する100年前である。江戸期に五街道の一つとして賑わった頃には、鳥 居峠の名は定着していたことだろう。
 
 
 以上で4世代に渡る鳥居峠の道を振り返ってみた。第3世代の鳥居隧道がもうその痕跡さえ目にできないのは残念だが、他の世代がまだまだ現役なのが嬉しい。もっと詳しく調べれば、細かい道の変遷がいろいろあるものと思う。

   
   
   

 この峠についてはどこが本当の峠なのか、ずっと気になっていた。今回一応の決着が付けられて良かった。それにしても、鳥居の写真を撮ってから20年も経っていたとは、感慨深い鳥居峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992.10. 7 新鳥居トンネル南下/ジムニーにて
・1993. 9.12 新鳥居トンネル北上/ジムニーにて
・1995. 5. 5 新鳥居トンネル北上、旧楢川村側の鳥居隧道坑口へ/ジムニーにて
・1997. 4.26 新鳥居トンネル南下/ジムニーにて
・1999. 7.26 木祖村→楢川村、鳥居峠越え/ジムニーにて
・2001. 4.28 新鳥居トンネル通過、楢川村側旧道分岐通過/ジムニーにて
・2001.11.10 楢川村側旧道分岐通過、奈良井宿に寄る/ジムニーにて
・2002. 9.28 旧楢川村→木祖村、鳥居峠越え/キャミにて
・2007. 8.14 旧楢川村通過/パジェロ・ミニにて
・2008. 8.13 新鳥居トンネル通過/パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年9月1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・日本の分水嶺 堀公俊著 2000年9月10日発行 山と渓谷社
・奈良井宿などの観光パンフレット各種  
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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