ホームページ★ 峠と旅
杖突峠
  つえつきとうげ  (峠と旅 No.281)
  道路脇に佇む道標にかすかに往時を偲ぶ峠道
  (掲載 2017. 8.19  最終峠走行 2002. 4. 6)
   
   
   
杖突峠 (撮影 2002. 4. 6)
手前は長野県茅野市(ちのし)宮川(みやがわ)
奥は同県伊那市高遠町藤澤(たかとおまち ふじさわ)
道は国道152号・杖突街道
峠の標高は約1,240m (文献では1,247m)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
この峠に関しては、車で通り掛かった時に写した上の写真しか見つからなかった
 
 
 
   

<掲載理由(余談)>
 杖突峠に関しては、ほとんど何も分かっていないという気がしてならない。現在の峠には立派な国道が通じていて、途中で立ち止まることがほとんどなかったようだ。 そもそも、この峠をいつ越えたかもはっきりしない。 多分、最初は1991年4月にホンダ製のバイクAX−1で、高遠町側から茅野市へと越えたようだが、写真などは全く撮らず、証拠がない。 やっと1993年11月になって、峠を茅野市側に少し下った所にあるそば屋(峠の茶屋)に立ち寄り、諏訪湖から八ヶ岳に至る眺めを写真に収めた(下の写真)。 その後も、何度か訪れていると思ったのだが、峠部分は2002年4月に車を走らせながら撮った上の写真1枚しか見付からない始末である。

   
峠の茶屋からの景色 (撮影 1993.11.28)
左手に諏訪湖
右手の八ヶ岳は霞んで見えなかった
   

 ただ、杖突峠は井出孫六氏編さんの日本百名峠の一つであり、無視できない存在だ。 また、最近になって茅野市側にある「旧杖突峠入口道標」を見付け、僅かだがその付近の旧道の様子を知ることとなった。今後、再び杖突峠を訪れる機会もなさそうなので、不完全ながらも今回掲載してしまおうと思った次第である。

   

<所在>
 峠道は概ね南北方向に通じ、北側は長野県茅野市(ちのし)の宮川(みやがわ、地名)となる。現在、峠を越える国道152号の入口は、宮川の安国寺(あんこくじ、地名)付近だが、旧道はもう少し西の宮川の高部(たかべ)付近に通じていたようだ。
 
 峠の南側は長野県伊那市(いなし)高遠町藤澤(たかとおまち ふじさわ)となり、旧上伊那郡(かみいなぐん)高遠町(たかとおまち)藤澤であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠は広く、諏訪湖より流れ下る天竜川水系に属す。峠の北側は諏訪湖に注ぐ宮川(みやがわ、河川名)の左岸に位置する。峠は宮川支流の上流部にあるが、その支流の名前は分からない。
 
 峠の南側には藤沢川(ふじさわがわ)が流れ下り、三峰川(みぶがわ)を経て天竜川に注ぐ。峠は宮川と三峰川(狭くは藤沢川)との分水界に位置する。

   

<立地>
 大きく見ると、杖突峠は赤石山脈(あかいしさんみゃく、南アルプスとも)の一部となるようだ。赤石山脈を構成する7山系の内、最も北の釜無(かまなし)山系に属す。 釜無山系とは杖突峠から南東へ金沢峠(かなざわとうげ)・入笠山(にゅうかさやま)・釜無山(かまなしやま)へと続く範囲だそうだ。

   

<中央構造線>
 杖突峠をその地形的な面から特徴付けるのは、やはり中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)の存在だろう。 千葉県の房総半島に始まり、諏訪湖付近から南に向かって杖突峠の真上を通過、赤石山脈の西側をほぼ真南に下り、その後西に転じて紀伊半島の紀ノ川、 四国の吉野川を経て九州は熊本県八代付近に達する大断層(線)だ。 赤石山脈沿いの南北方向の断層線上には、杖突峠に始まり、分杭峠地蔵峠兵越峠青崩峠といったそうそうたる峠が居並ぶ。 他にも女沢峠など、この断層線周辺に面白い峠が多い。
 
  そうした中、杖突峠は決して詰らない峠道ではないだろうが、ついついそれらの峠と比べてしまう。 すると、快適な国道が通じる杖突峠には何の険しさも、面白みも感じなくなってしまうのだ。1991年にバイクで訪れた折りは、その直前に兵越峠・分杭峠と続けて越えて来た。 これでは杖突峠など物の数には入らない。杖突峠関係の情報や写真の手持ちが少ないのは、こんなことも一因である。

   

<金沢峠など>
 断層線とは直角方向に地形を見ると、東の入笠山から続く峰上に、芝平峠(しびら)、金沢峠、杖突峠、南峠、真志野峠(まじの)、中峠、有賀峠といった峠が並ぶ。小粒の峠道が大半だが、その半数は険しい林道の峠となる。その中で、国道が通じるのは杖突峠だけであり、峠道としては圧倒的な快適さを誇る。
 
 その為、茅野市や西隣の諏訪市から、旧高遠町や箕輪町方面に抜けようと思う時、国道が通じる杖突峠ではなく、ついついその脇に通じる金沢林道の金沢峠などに足が向いてしまう。杖突峠は何度も越えたような気になっているが、意外と少ないのかもしれない。

   

<杖突街道>
 杖突峠が日本百名峠に選ばれた理由は、やはりその歴史的な深みであろう。中央構造線などといった地形的要因はあまり関係ないようだ。著書「日本百名峠」の杖突峠の項は女性作家が担当している。高遠に流刑された絵島(えしま)が話題になっていた。
 
 古くは古代東山道が通じていたと考えられ、江戸期には杖突街道(つえつきかいどう)がこの峠を越えた。街道の名は杖突峠を越えたことに由来するのだろう。甲州街道が通じる諏訪地方から分かれ、杖突峠を越え、高遠や伊那を結んだ街道だった。
 
 杖突街道はまた、藤沢街道(ふじさわかいどう)とか高遠道とも呼ばれたようだ。諏訪側から見て藤沢や高遠の地に至る道といった意味合いだろう。
 
 丁度今年(2017年)はNHKのBSプレミアムで山本勘助を主人公とした大河ドラマ「風林火山」の再放送をしている。 甲斐を本拠地とする武田晴信(後の信玄)が高遠や諏訪の地を攻め取ろうとするくだりでは、杖突峠の名が出ていたように思う。 軍用道路として用いられていた戦国時代、既に杖突峠の名はあったそうだ。

   

<峠名の由来>
 文献(角川日本地名大辞典)では、「北斜面は糸魚川静岡構造線に沿う断層崖を登るため急坂で、峠の名もこれによるという」とある。糸魚川静岡構造線とは長野県北部から諏訪湖付近を経由して山梨県南部にかけて延びる活断層帯である。杖突峠は中央構造線と糸魚川静岡構造線との両方に関わる。
 
 この峠の北側が険しく、南側が比較的穏やかという特徴は、杖突峠と横並びとなる金沢峠、南峠、中峠などとも共通する。「杖を突かなければ登れない程の急坂」という表現を杖突峠が代表してもらったようだ。

   
   
   
安国寺より国道152号へ 
   

<国道152号へ>
 現在の甲州街道である国道20号から、現在の杖突街道である国道152号が南に分かれて行く。 かつては中河原の交差点より分岐していた筈だが、最近の地図ではそうなっていない。 この茅野市街に近い付近は、国道20号やそのバイパス路、国道152号やその他の県道が複雑に絡まり、道の付け替えも激しく、未だによく理解できない。 ただただ「152」という番号を頼りに道を進む。

   

国道20号を諏訪方面に向けて走る (撮影 2002. 4. 6)
茅野市宮川の中河原付近
この先、左に国道152号が分岐する

国道152号分岐を示す看板 (撮影 2002. 4. 6)
行先は「高遠」
   

安国寺トンネル (撮影 2002. 4. 6)

<安国寺トンネル>
 特に、安国寺トンネルが開通してから国道152号は大きく変わった。安国寺から先に場違いのような新しい快適な道が延び、その先にトンネルが開通していた。 1997年3月発行のツーリングマップルまで、この安国寺トンネルは描かれていない。調べてみると、トンネル開通は1997年9月のことだそうだ。
 
 峠に登る途中の山腹の段階で、こうしたトンネルを通さなければならなかったということは、それだけ地形が険しいことを物語る一つとも言える。同時に、安国寺の集落をバイパスする為であったかもしれない。

   

<トンネルの先>
 安国寺トンネルの少し先からは昔からの国道152号に戻る。それでも、急斜面を蛇行しながら快適な2車線路が登って行く。視界を遮る物は少なく、一種、爽快なドライブを楽しめる道だ。


道の様子 (撮影 2002. 4. 6)
快適な2車線路
   

<花見(余談)>
 2002年4月に峠を越えて高遠を目指したのは、有名な高遠の桜が目的だった。勿論、一人でわざわざ混雑する花見などには出掛けない。 結婚する前の妻と一緒であった。国道152号の杖突峠区間は、道こそ快適だが、普段からそれ程交通量がある訳ではない。ほとんど単独で走っているような状態が常だ。 しかし、高遠桜の見頃だけは別だった。渋滞する程ではないにしろ、前も後も、ほぼ一定間隔で車が数珠繋ぎになって走っている。杖突峠でこんな光景を見たのは初めてだった。

   
   
   
峠の茶屋 
   

<峠の茶屋>
 現在の杖突峠は、峠の茶屋とそこから眺められる景色で知られているのではないだろうか。「峠の茶屋」と言っても、峠より道程で800m程手前にある。 道が宮川や上川(かみがわ、宮川と同じく諏訪湖に注ぐ川)が流れる谷に大きく張り出した位置にあり、そこからの眺めが絶景だ。 厳密には道の最高所が峠であるが、店の周辺には「杖突峠」の文字が多く見られ、ここが杖突峠だと認識している人も多いだろう。 峠の茶屋は確か2軒あり、休憩や食事に便利な場所でもある。

   
24年前の峠の茶屋 (撮影 1993.11.28)
あちこちに「杖突峠」の文字が見える
右手の店には「2F コーヒーラウンジ」と看板がある
   

<そば(余談)>
 1993年に訪れた時は、珍しく向かって右手の店に入ってそばを食べた。当時、外食はほとんどしていない時期だった。 はっきり記憶している訳ではないが、どうも店に入らないと景色が見られなかったのではないだろうか。 2つの店の間から僅かに谷が覗いたが、視界は大きく限られ、景色はほとんど見えない。 それで仕方なく、そばを食べるために店内に入り、店内の窓から景色を写真に撮ったような気がする。

   
以前の「峠の茶屋」の様子 (撮影 2002. 4. 6)
「絶景が旅路の疲れをいやします ようこそ諏訪へ 長野県」と大きな看板が立つ
車種などが、どこか古さを感じさせる
   

店の様子 (撮影 2002. 4. 6)
「そば処 いわなみ」とある

<無料展望台>
 それが、2002年に訪れた時は、店の入り口にかつて「2F コーヒーラウンジ」となっていたのが、「2F 無料展望台」に変わっていた。 2階にある喫茶店のベランダが無料展望台として開放されていて、誰でも景色が見られるようになっていたのだ。 以前、1階の店内より眺めた時より、少し高い位置から景色を堪能できた。

   
店の様子 (撮影 2002. 4. 6)
「2F 無料展望台」とある
   

<景色>
 峠の茶屋からの景色は現在の杖突峠を最も代表する風物だ。西の諏訪湖から東の八ヶ岳までが一望である。主に宮川と上川が流れる糸魚川静岡構造線上の断層盆地である諏訪盆地に、中央自動車道を始とする人工物がひしめく。夜景は見たことがないが、素晴らしいことだろう。

   
景色1/4 (撮影 2002. 4. 6)
ほぼ中央に諏訪湖を見る
   
景色2/4 (撮影 2002. 4. 6)
中央自動車道がくっきり線を成す
   
景色3/4 (撮影 2002. 4. 6)
茅野市方向を見る
   
景色4/4 (撮影 2002. 4. 6)
雪を頂く八ヶ岳を望む
   

 この峠の茶屋より望む景色は、遠い昔は得られなかったかもしれない。 現在の茅野市側の国道152号のルートは、車道開削により全く新しく通じた道筋で、当然ながら今の峠の茶屋も、古くからの物ではない。 かつてはもっと川筋に沿って峠道が通じていたようで、林に囲まれて容易には視界は広がらなかったのではないかと思う。 こうした景色一つで、峠のイメージは全く違って来る。昔と今では杖突峠に関する印象は大きく異なるのではないだろうか。

   
   
   
峠へ 
   

<峠の茶屋以降>
 峠の茶屋を後に、道は峠の鞍部へと入り込んで行く。視界はさすがに狭くなる。この途中のどこかで、右手より旧道が合流して来ていたようだ。これまで、そんなこととはつゆ知らず、素通りして来た。杖突峠に関しては知らないことが多過ぎる。

   

峠の茶店以降の道 (撮影 2002. 4. 6)

道の様子 (撮影 2002. 4. 6)
   

<市境>
 地形図に示される茅野市・伊那市の市境、かつての茅野市・高遠町の市町境は、道の最高所とは少しずれている気がする。 以前は「高遠町」と書かれた看板とその反対側に「茅野市」の看板が立っていたが、その場所はまだ茅野市側から登っている途中であった。 これは想像だが、杖突峠を改修する上で、切通しを掘り下げた。 その折、地形の険しい茅野市側をより深く削った為、道の最高所が高遠町側にずれ込んでしまったのではないだろうか。元の杖突峠は今の市境の位置にあったものと思う。

   
峠直前 (撮影 2002. 4. 6)
左手に「高遠町」と看板が立つ
この付近が旧市町境(現市境)
   

<峠>
 道の最高所を峠とするなら、現在の杖突峠は少し伊那市(旧高遠町)側に寄っている。僅か100mくらいだろうが、どことなく釈然としない。 峠は守屋山より東に続く峰上の比較的ゆったりした鞍部に位置する。それもあって道の最高所もやや曖昧な感じがする。

   
道の最高所 (撮影 2002. 4. 6)
右手奥に灯籠が立つ
左手の看板には「中央道晴ヶ峰カントリー倶楽部 80m先左折」とある
   

<峠の様子>
 峠のやや高遠町寄りで、東へ中央道晴ヶ峰カントリー倶楽部への分岐がある。その道を行くと、金沢峠に出られるようだが、まだ走ったことがない。 また、西の守屋山への登山口ともなるようで、駐車場らしき敷地も見られる。しかし、この場所にはどういう訳か停まったことがないようだ。何の写真も見付からないのである。 どこか魅力を感じなかったのだろうか。一般人には尚更、この峠より峠の茶屋の絶景の方が、よっぽど魅力的であろう。
 
<標高など>
 角川日本地名大辞典や「日本百名峠」では、峠の標高を1,247mとしている。これは現在の国道152号の標高であろうか。 当然ながら昔の峠はもう少し高かったであろう。また、市境なの標高なのか、道の最高所かと、悩んでしまう。
 現在の地形図では、1,240mを少し下回っている所に国道が通じているように読み取れる。そこで約1,240mとしておく。

   
   
   
茅野市側の旧道入口周辺 
   

(峠の高遠町側は一先ず置き、ここからは暫く茅野市側の旧道を探索する)
 
<峠入口バス停(余談)>
 ある時、杖突峠の旧道はどこにあるのだろうかと思った。 峠の高遠町側は、中央構造線に沿う藤沢川がほぼ一直線に流れ下り、現在の国道152号もその川に沿って高遠市街まで至っている。 古くからの杖突街道も概ね藤沢川沿いに通じ、僅かなズレはあったとしても、今の国道152号とほぼ同じ道筋であろう。 一方、峠の茅野市側は険しい断層崖を登る為、国道152号は山腹を大きく小さく屈曲を繰り返している。古い道筋とはほとんど一致しないことだろう。
 
 そこで何とはなしに、ツーリングマップルより詳細な県別マップル(長野県)をつらつら眺めていると、 茅野市宮川より西の諏訪市に入った所に「峠入口」というバス停があるのに気付いた。どこの峠か分からないが、そのバス停近くから杖突峠へと細い道も描かれている。 如何にも杖突峠旧道といった感じだ。丁度、妻に付き合って諏訪大社上社(かみしゃ)本宮(ほんみや)に参詣する機会があり、ついでに近くにあるその「峠入口」バス停を探してみることとした。

   
杖突峠旧道入口 (撮影 2013. 5.19)
右手に旧杖突峠入口道標が立つ
付近の道は改修工事によりきれいに整えられていた
   

<旧道入口>
 そのバス停は県道16号(主要地方道)・岡谷茅野線沿いにある。諏訪大社の前から1km程東に戻った所だ。 県道から分かれる旧道と思しき道は、狭い路地の様な道で、そんな分岐はそこら中にあり、区別はつかない。とにかくバス停頼りで探す。 一度通り過ぎ、引き返してやっと見付けた。するとバス停脇から始まる道の角に1基の道標が立っていた。

   

バス停付近の様子 (撮影 2013. 5.19)
県道16号を茅野市方向に見る

バス停付近の様子 (撮影 2013. 5.19)
県道16号を諏訪大社方向に見る
   

「峠入口」バス停 (撮影 2013. 5.19)
その手前を右に入る道が旧道らしい

<旧杖突峠入口道標>
 道標の脇には看板が立ち、「旧杖突峠入口道標」とある。これで「峠入口」という「峠」とは杖突峠であることが確実となった。また、道標脇から始まる道が、杖突峠への旧道となる。単にバス停を探す程度の積りだったが、意外な収穫であった。

   
旧杖突峠入口道標と看板 (撮影 2013. 5.19)
   

<看板>
 看板には下記の様にある。
 旧杖突峠入口道標
 「従是北 高島江 一里二十丁」
 「東 金沢宿 二里二丁」
 「南 御堂垣外宿 二里二十丁」
 と刻まれている

 
 より道標に忠実に示すと、次のようになる。
・北面:従是北 島江 一里二十丁 
・西面:神宮寺村
・南面:南 御堂垣外宿江 二里二十四丁
・東面:東 金澤宿江 二里二丁


旧杖突峠入口道標の看板 (撮影 2013. 5.19)
   

道標の東面と北面 (撮影 2013. 5.19)

<道標の北面>
 従是(これより)北は「島江(へ)」とあるが、今の諏訪市街に当たる高島(たかしま)のことであろう。江戸期に高島藩の高島城があった。 「一里二十丁」は、一里を3,927m、36丁を一里で換算(以後同様)すると、約6.1kmとなる。 道標の位置から高島城址やその近くの諏訪市役所までが丁度その距離だ。
 
<道標の西面>
 江戸期から明治7年まで諏訪郡に神宮寺(じんぐうじ)村があった。諏訪大社上社本宮が鎮座する地で、高島藩領と諏訪上社領とであった。明治7年からは中洲(なかす)村の一部となり、現在の諏訪市中洲の神宮寺に相当するものと思う。
 
<道標の南面>
 御堂垣外(みどうがいと)は現在の伊那市高遠町御堂垣外で、杖突街道の宿場であった。二里二十四丁は約10.5kmである。峠から御堂垣外まで国道152号で約6kmである。 この道程は今も昔も大きく変わらない筈なので、残りの4.5kmが道標から峠までの旧道の距離となる。旧道の道筋がはっきりしないので正確なことは分からないが、概ね妥当な数値と思える。
 
<道標の東面>
 金沢(かなざわ)宿とは江戸期の甲州街道(甲州道中)の宿場で、現在の茅野市宮川金沢に当たる。二里二丁は約8.1kmで、現在の道路を使ってもほぼ同じ距離だ。
 
 文献の杖突街道の項に「戦国期には諏訪神宮寺から急坂を峠へ登った」とあることからも、この道標が立つ所より旧道が始まっていたようだ。戦国期と言わず、江戸期から明治期くらいまで、現在の国道152号の道筋が通じる以前は、この旧道が使われていたのではないだろうか。

   

道標の北面と西面 (撮影 2013. 5.19)

道標の南面と東面 (撮影 2013. 5.19)
   

<以前の道標>
 最初にこの道標を写真に撮ったのは2013年(平成25年)だが、その数年前に峠入口バス停付近の県道は拡幅・改修工事が行われたようだ。 今は広くきれいな歩道が整備されているが、以前はもっと狭い車道で、道標は路肩に埋もれるようにして立っていたらしい。 道標の下から15cmくらいが白くなっていたが、そこまでアスファルトに埋もれていたようだ。 道路工事に伴い、道標は少し南に移設され、今はきれいな歩道の上に台座と共に鎮座している。道標に限らず、この拡幅工事により周辺の家屋なども大きく変貌したことだろう。

   
最近の道標 (撮影 2017. 7.20)
看板は少し傷み始めている
   

<最近の道標>
 今年(2017年)もちょっとしたついでに道標を見て来た。石柱の下の方にあった白い痕跡や台座の黒味は薄れ、一基の道標として周囲に溶け込んで来ている。 代わりに看板はやや朽ち始めていた。右脇の擁壁が延び、その前に花壇が置かれていた。「上社の杜 長沢」とある。「長沢」が地名とすれば、神宮寺の中の更に細かい地名だろうか。

   
右手に花壇 (撮影 2017. 7.20)
「上社の杜 長沢」とある
   

<金沢峠(余談)>
 杖突街道がこの道標の脇に通じていたことには、やや違和感がある。高島藩の高島城と高遠藩の高遠城を結ぶ道としては、ほぼ最短経路上にある。 諏訪大社に関係する者が利用するにも便利だろう。しかし、江戸から甲州街道を上り、金沢宿の先で甲州街道と別れ、道標の地点を経由して高遠に至るのはやや迂遠だ。 高遠藩の参勤交代などでこの杖突街道が使われたのだろうかと疑問に思う。
 
 一方、金沢宿からは直接宮川左岸の山を登り、金沢峠(松倉峠とも)を越えて松倉川沿いに御堂垣外に至る峠道がある。「日本百名峠」でも絵島が高遠に護送されたのは、この金沢峠だったと記す。杖突峠を越えるより半日は早かっただろうとしている。
 
 道標があるからにはここに杖突峠の旧道が通じていたことは間違いないだろうが、もっと東の金沢宿寄りに別の経路があってもおかしくないように思うのだ。

   

<旧道入口付近>
 県道のバス通りから分かれ、杖突峠の旧道に入ると落ち着いた雰囲気だ。2階建ての木造家屋にかつての街道の味わいが感じられる。ただ、数年後に訪れてみると、板塀が崩れ掛けていた。一方、沿道に新築される家も見られ、僅かな間でも変遷があるのであった。
 
 道は直ぐにも急坂だ。断層崖を蛇行もせずに直登して行く。車なら楽だが、毎日の生活でこの坂を歩いて登るのは大変そうだ。


県道側から旧道方向を見る (撮影 2013. 5.19)
   

旧道を県道方向に見る (撮影 2013. 5.19)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2017. 7.20)
   

大きな石碑があった (撮影 2017. 7.20)
杖突街道に関する物かもしれないが、よく見て来れなかった

 道標以外に旧街道の証になる物はないかと思ったら、コンクリート塀に埋もれるようにして大きな石碑があった。しかし、県道沿いにも、この旧道沿いにも、車を停めて置けるような適当な場所がない。車を走らせながら写真は撮ったが、何が刻まれているのかは分からなかった。
 
 杖突峠旧道といっても、既に多くの年月が流れている。今はその付近に無数に通じる狭い生活路の一つでしかなく、他の道とほとんど区別がつかない。

   
   
   
旧道を峠へ 
   

<西沢川左岸>
 旧道の沿道は100mも行けば人家はまばらとなる。その辺りから道は宮川の支流・西沢川の左岸沿いになる。間もなく右岸側から登って来た道が対岸にも通じるようになる。 金沢宿方面から来た時は、道標の立つ位置まで行かず、その手前の道を登った方が幾らかだが近い。途中、小さな橋が架かり、川のどちら側でも登れるようになる。


道の様子 (撮影 2013. 5.19)
   
西沢川を下流方向に見る (撮影 2013. 5.19)
   

<西沢川沿い>
 西沢川は水路の様に細い川だ。この川が概ね茅野市と諏訪市の境になっている。家並みも途切れ、振り返ると早くも麓の景色が広がりだす。

   
西沢川を挟んで両岸に道が通じる (撮影 2017. 7.20)
左岸より麓方向に見る
   

この時は西沢川右岸を登る (撮影 2013. 5.19)
左岸をマイクロバスなどが下って来た

 右岸を登っていたら、左岸沿いにマイクロバスなどが下って来た。後で分かったことだが、この先の杖突街道旧道近くに静香苑という斎場がある。そこからの帰りだったようだ。

   

<赤凪橋>
 県道から分かれて僅か250m程来ると、赤凪橋(あかなぎばし)が架かる。「竣工昭和50年5月」とある。実は、西沢川などという小さな川の名などは地図に乗っていない。この橋にあった銘板で橋や川の名を初めて知ったのだ。

   
赤凪橋 (撮影 2017. 7.20)
「あかなぎばし」、「西沢川」と銘板がある
旧道はここを渡り、右奥の墓地へと登って行ったようだ(後述)
   

<赤凪橋を右岸へ>
 杖突峠へはこの赤凪橋を右岸へと渡る。そのまま左岸沿いに遡る道は、峠とは逆の西方へ行ってしまう。
 
 赤凪橋などと立派な名前が付くのは、古くからここに杖突街道が通っていたからではないだろうか。勿論、現在の橋は昭和50年竣工の新しい物だが、古くから街道を往来する人馬の為に、橋が設けられていたものと思う。


「西沢川」とある (撮影 2017. 7.20)
   
赤凪橋を下流方向に見る (撮影 2017. 7.20)
「赤凪橋」、「竣工昭和50年5月」と銘板にある
   

<旧道>
 実は、後になって気付くのだが、赤凪橋を右岸に渡って直ぐ、車道から分かれて右岸上部にある墓地へと登る細い道が分かれる。地形図で見ると、それがこの後車道が登って行った先で合流している。どうもそれがかつての杖突街道に思える。

   
赤凪橋上流を見る (撮影 2013. 5.19)
左は杖突峠へと続く車道
右手に西沢川左岸沿いに遡る車道は林道扇平南峠線起点(後述)へ
前方を斜め左手に入る細い道は熊野堂墓地(後述)の裏手に通じるが、それが杖突峠の旧道ではないだろうか
   
右岸側より赤凪橋を見る (撮影 2017. 7.20)
手前を右岸沿い(左手)に登る細い道が旧道であろうか
   
   
   
林道扇平南峠線起点へ(寄道) 
   

この先から林道扇平南峠線が始まる (撮影 2017. 7.20)
左手に武居城址周辺史跡マップの看板が立つ

<林道扇平南峠線>
 ちなみに、赤凪橋から更に左岸沿いの道を150m程遡ると、その先から林道扇平南峠線が始まっていた。「扇平」とは西沢川上流部の地名となる様だ。この林道起点を指すのだろう。一方、終点となる「南峠」が気に掛かる。この「峠と旅」でも掲載したあの南峠のことだろうか。南峠を訪れた時(2001年11月)には、林道扇平南峠線などという道の分岐はなかったように思う。ただ、もう古いことなので、新しく林道が開通したのかもしれない。しかし、もうこのような林道を走る機会はないだろう。

   

<武居城址周辺史跡マップ>
 林道扇平南峠線はともかく、その林道起点に武居(たけい)城址周辺史跡マップという案内看板が立つ。この付近にこうした案内図は少なく、非常に参考になる。
 
 そのマップによると、峠入口の道標が立つ付近はやはり中州神宮寺の「長沢」と呼ばれるようだ。更に大社方向に向かって、南町・仲町・宮の脇と続く。 西沢川の名も見える。「上社の杜・歴史の散歩道」というウォーキングコースが設定されていて、この周辺のいろいろな史蹟を巡れるようだ。 麓に通る県道茅野・岡谷線を車で通り過ぎるだけでは、こうした多くの史蹟があることなど、思いもよらなかった。


武居城址周辺史跡マップ (撮影 2017. 7.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<馬頭観音/杖突峠の旧道>
 残念ながらこの史跡マップでは杖突街道に関しての記述は見付からない。「峠入口の道標」は記載されているが、旧道の道筋などは示されていなかった。 ただ、「あかなぎ橋」の直ぐ上流側の西沢川右岸に小さな支流があり、その右岸沿いに「馬頭観音」とある。
 
 街道脇に馬頭観音があるのは常であり、特に杖突街道は中馬(ちゅうま)交通(馬を使った輸送)が盛んであったそうだ。 かつての杖突街道は、その馬頭観音の脇を通り、西沢川支流の右岸沿いに峠を目指したのではないだろうか。

   
武居城址周辺史跡マップの一部 (撮影 2017. 7.20)
左上に「馬頭観音」と見える
   
   
   
赤凪橋以降 
   

熊野道墓地 (撮影 2017. 7.20)
赤凪橋方向に見る

<熊野堂墓地>
 赤凪橋以降、車道は東の下馬沢川沿いへと転じて行く。何の看板もないが、諏訪市から茅野市へと市境を越えていることになる。道の山側にはずらりと墓石が並ぶ。この墓地の奥の方に杖突街道が通っていたのだろうか。
 
 墓石が尽きた所に立札風の看板が立っていた。この後もこうした看板を随所で見掛けることとなる。それによると、この墓地は熊野堂(くまのどう)墓地と呼ばれる。諏訪大社との関係が深いことが記されている。

   

<夏直路>
 看板には「夏直路(なすぐじ)の登り口」などとある。詳しくは分からない。諏訪大社上社は背後にそびえる守屋山(もりやさん、1,651m)を御神体(神体山)とするそうだ。 この付近は諏訪大社関係の墓地へ通じる道や守屋山への登山道もあったかもしれず、杖突街道との区別がつきにくい。
 
 尚、「静香苑進入路開設工事」と看板にあり、県道16号からこの先にある静香苑(斎場)までの車道は、その工事により改修されたようだ。それによりマイクロバスも通れるのだろうが、それ程広い道ではない。
 
 林が途切れると、麓に広がる諏訪盆地の眺めが得られる。墓地はそうした高台にある。


熊野道墓地の看板 (撮影 2017. 7.20)
(画像をクリックすると看板の拡大画像が表示されます)
   
麓の景色が広がる (撮影 2013. 5.19)
(西沢川から下馬沢川へと移る途中)
   

<下馬沢川沿いへ>
 赤凪橋以降、静香苑進入路開設工事で改修された道を行くと、宮川の支流・下馬沢川沿いに通じる道にT字路で突き当たる。この区間は杖突峠旧道ではないであろう。


下馬沢川沿いの道に出る (撮影 2013. 5.19)
右が峠方向
   
   
   
下馬沢川沿いの道(寄道) 
   

下馬沢川沿いの道の県道からの分岐 (撮影 2013. 5.19)
静香苑等の看板が立つ

<下馬沢川沿いの道の入口>
 現在の車道の繋がり方からすると、旧杖突峠入口道標から西沢川沿いに登る道を来るより、最初から下馬沢川沿いの道を登って来た方が素直である。県道16号が屈曲する「高部」の交差点の少し東寄り、下馬橋の袂から下馬沢川右岸沿いに道が始まる。
 
 分岐には「静香苑 傘松」とか「天然記念物 傘松 2Km」といった案内看板が立つ。静香苑進入路開設工事ではこちらの道も改修されたのではないだろうか。 ただ、大社方面から来ると、大きな高部の交差点の直ぐ先で鋭角に右折しなければならない。マイクロバスなどの大きな車では、曲がる方向によっては使いにくい経路ではある。

   

 高部交差点の近くであり、下馬橋が架かり、静香苑の看板もあって、道標のある分岐より、こちらの分岐の方が発見し易いかもしれない。 特に、金沢宿方面から来た場合には、わざわざ道標のある地点まで行く必要がない。地形図などを見ると、最終的に杖突峠旧道は概ね下馬沢川沿いに峠を目指したようだ。 それもあって、最初からこの川沿いに道が通じていてもおかしくないと思う。
 
 この麓に近い辺りは、杖突峠へ向かう道筋は幾つかあったのではないかと思ったりする。高島城方面から来れば、道標脇から登ったであろう。金沢宿方面から来た場合は、また別の経路があったかもしれない。


峠方向より県道方向を見る (撮影 2013. 5.19)
かなり鋭角に県道と接する
   

細い道と交差 (撮影 2017. 7.20)

<下馬沢川沿いの道>
 こちらの道も直ぐに急登だ。県道より一本裏手に細い道が並行に通じ、そことの十字路を過ぎる。その道は、現在の真っ直ぐな県道の道筋が開削される前に、高部の集落内に通じていた旧道ではないかと思わせる。こんな点も杖突峠旧道はどこなのかと迷わされる。
 
<高部>
 この地は茅野市宮川高部(たかべ)となる。江戸期から高部村があり、明治7年に宮川村の一部、昭和30年からは茅野町である。更に、昭和33年に茅野町に市制施行され、現在の茅野市に至っている。

   

 文献にもこの高部に「諏訪と伊那を結ぶ杖突峠道(高遠道)が通過していた」とあり、それがどこか今一つはっきりしないが、杖突峠旧道が通じていたことには間違いない。
 
 道は、最初は下馬沢川右岸を、100m余りで左岸へ渡り、その後は暫くそのままだ。
 
 沿道にはポツリポツリと高部の人家が点在する。道は前方の峰に向かって直線的に伸び、勾配はきつい。


この先の橋で下馬沢川左岸へ (撮影 2013. 5.19)
   
道の様子 (撮影 2017. 7.20)
人家が点在する
   

<高部遺跡>
 下馬沢川沿から赤凪橋方面に分かれる分岐の角に、立札風の看板が立つ。ついつい杖突峠のことかと立止って看板を見てしまう。


直進が下馬沢川沿いの道 (撮影 2017. 7.20)
右は赤凪橋へ
分岐の角に高部遺跡の看板が立つ
   

高部遺跡の看板 (撮影 2017. 7.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

 しかし、残念ながら高部遺跡の看板で、杖突峠旧道に関わるような記述は見付からなかった。

   
分岐より麓方向を見る (撮影 2013. 5.19)
左手が高部遺跡
   
   
   
下馬沢川沿いの先へ 
   

造園会社の看板が立つ (撮影 2013. 5.19)

<下馬沢川沿いの先へ>
 赤凪橋方面からの車道を合わせた下馬沢川沿いの道を、更に上流方向へと進む。沿道には造園会社の看板が目に付いた。丁度、そこへ向かう軽トラックが側らを過ぎて行く。人家は極端に少なくなった。

   

<分岐>
 直ぐに斜め右手に分岐がある。その道は数100m行くと、結局元の下馬沢川沿いに戻って来るのだが、こうした迂回路の様な道がこの先にもう一つある。わざわざそんな道を走っても意味がなさそうだが、そうでもなかった(後述)。


右に分岐 (撮影 2013. 5.19)
   

造園会社の前を過ぎる (撮影 2013. 5.19)
この先、路面状況は悪い

<高部最終の人家>
 造園会社の前を過ぎる辺りからは沿道から人工物がなくなり、寂しい道となる。それでも2013年に訪れた時は、車道と下馬沢川とに挟まれた敷地に、人家と思われる大きな建物が一軒立っていた。杖突峠の茅野市側最終の人家だろうかと思ったりした。

   
左手に下馬沢川が流れ下る (撮影 2013. 5.19)
正面に人家らしき家屋が見える
   

 ところが、今年(2017年)に訪れてみると、何だか沿道が殺風景である。夏草が生い茂り、緑一色だ。道路脇に草地がある。そこで以前の写真と見比べてみると、あの家屋が立っていた場所であった。
 
 そこは県道から入って600mくらいの場所で、道は狭いがそんなに不便な所ではないように思う。静香苑進入路開設工事の一環か、路面は新しくなっていた。それでもこうした地に住み続けるのは難しいことなのだろうか。


人家が見えない (撮影 2017. 7.20)
一方、アスファルト路面は新しい
   
麓方向に見る (撮影 2013. 5.19)
この時はまだ右手奥に家屋が立っている
   

<塚屋古墳>
 水道施設の様なフェンスで囲われた建物を過ぎた直ぐ先、右手に塚家古墳の看板が立つ。いちいち立寄るが、やはり杖突峠には関係なさそうだ。

   

右手に塚屋古墳の看板 (撮影 2017. 7.20)

塚屋古墳の看板 (撮影 2017. 7.20)
   
塚屋古墳の看板 (撮影 2017. 7.20)
   

<旧道>
 最初の迂回路が右手より戻って来る。後でいろいろ地形図を見ていると、その車道の直ぐ手前辺りに、赤凪橋袂より分かれた旧道と思しき道が合流して来ている。 今は草で埋もれていて道があるのかどうかも分からないが、以前はチェーンが張られ、何となく道の痕跡であるようだった(下の写真)。


電信柱の先辺りに旧道があったのでは (撮影 2017. 7.20)
今は草で埋もれている
   
右手のチェーンが張られている場所があやしい (撮影 2013. 5.19)
この先で右手に迂回路が分かれる
   
迂回路分岐付近を麓方向に見る (撮影 2017. 7.20)
左が最初の迂回路の峠側入口、直進は県道16号へ
この道の角付近に朽ちた看板などが残るが、そこに旧道が通じていたのかも
   

迂回路の途中 (撮影 2017. 7.20)
麓方向に見る
この辺りを旧道が横切っていたのでは

<迂回路へ>
 帰りに迂回路に寄ってみた。熊出没注意やゴミ捨て禁止の看板が立つ程度で、何ら参考になる物はなかった。 地形図では迂回路の途中を徒歩道が横切っているのだが、それらしい痕跡も確認できない。ただ、西沢川の支流がその車道の直ぐ脇まで遡って来ている。 古い峠道は川沿いに通じることが多い。車道開削で、その川より路面はずっと高くなっていて、ガードレールも設置され、昔の道などは残る余地がなかったのだろう。

   
   
   
2つ目の迂回路 
   

<2つ目の迂回路>
 最初の迂回路を過ぎてからの下馬沢川沿いに通じる車道は、かつての杖突峠旧道に近い存在かもしれない。ここからほぼ下馬沢川左岸沿いにずっと登って行ったのではないだろうか。現在の車道としては、高部集落内よりかえって道幅が広くなったようで、走り易い。
 
 暫くすると2つ目の迂回路がまた右にある。現在の車道の経路からすると、ほとんど無意味な道だ。その無意味さが、もしかしたら旧道に関係するのかと思わされる。そこも帰りに寄ってみた。


次の迂回路 (撮影 2013. 5.19)
ここは峠側の分岐
   

峠側から迂回路に入る (撮影 2017. 7.20)
直ぐ左手に「小袋石と磯並社」の看板が立つ

<小袋石と磯並社>
 2つ目の迂回路は、峠側から入ると直ぐに「小袋石と磯並社」と看板が立つ。 巨石「小袋石」(おふくろいし)は、武居城址周辺史跡マップにもあったが、「諏訪七石」の一つだそうだ(詳しくは分からない)。 看板の説明文からは、やはりこの石や磯並社(いそなみしゃ)が杖突峠旧道と関係があったようには思えない。

   

小袋石と磯並社の看板 (撮影 2017. 7.20)

小袋石と磯並社の看板 (撮影 2013. 5.19)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 看板の右脇から山の中へと道が続く(下の写真)。小袋石や磯並社は現在の車道からもそれ程離れていない場所にあるようだ。旧道がその脇に通じていたか分からないが、街道を往来する人達には近い存在だったのかもしれない。

 
小袋石への道 (撮影 2013. 5.19)
看板の右脇から始まる
   
   
   
小袋石以降 
   

<道の様子>
 下馬沢川の谷は狭まり、道はいよいよ山中深くへと入って行く。路面状況は良いが勾配が一段ときつくなったようだ。道路脇には倉庫の様な建物や重機が置かれた場所が一箇所あっただけだ。
 
<傘松入口>
 その先で道がヘアピンカーブを描く。カーブをほぼ曲がり切った所から上流方向に寂しい道が分岐する。分岐入口には「傘松」(からかさまつ)の看板が立つ。


沿道に建物や重機 (撮影 2017. 7.20)
麓方向に見る
   

左手に傘松への入口 (撮影 2017. 7.20)

傘松への道 (撮影 2017. 7.20)
荒れている
   

<分岐の様子>
 本線の道は、峠方向とは異なる西に向かって行く。一方、「傘松」とある道は、尚も下馬沢川左岸沿いを遡る方向に延びて行く。こちらが杖突峠への峠道である。

   
分岐の様子 (撮影 2013. 5.19)
この時は全面通行止の看板が立っていた
   

分岐の様子 (撮影 2013. 5.19)
麓方向に見る

<通行止>
 2013年に訪れた時は、道の入口に通行止の看板が立っていた。その看板の内容を見ても、水道管の工事ということ以外、その道の名前や行先などについては分からなかった。

   

<傘松の看板など>
 分岐の周辺をいろいろ探したが、何も手掛かりになる物はなかった。山火事注意の旗や、入山禁止の看板が朽ちて転がっているだけだった。ただ、天然記念物「傘松」の看板だけは立派でしっかりしていた。
 
 しかし、肝心なこの先どのくらいの位置に傘松があるかが記されていない。近ければ歩いて行ってもいいが、あまり遠いとクマの心配もある。県道16号沿いの看板では2kmとあった。この地点までで約1.1kmである。残り900mということになるのだろうか。


通行止の看板 (撮影 2013. 5.19)
   

入山禁止の看板 (撮影 2013. 5.19)

傘松の案内看板 (撮影 2013. 5.19)
   

<旧道の先へ>
  今年(2017年)に訪れた時は、工事による通行止の看板はなかった。道の荒れ方からして、車で入り込むにはためらわれたが、試しに行ってみることとし た。すると、数10mも入ると黄色いチェーンで通行止である。こんなことなら、入口で通行止にしてくれればいいものを。転回場所もないので、バックで急坂を引き 返しである。チェーンの脇に立つ看板によると、「高部林野組合員以外の入山禁止」とある。不法投棄や山菜採り等を防止する為の様だ。

   
一般車はここで通行止 (撮影 2017. 7.20)
   

 車による旧道探索はここが限界となる。この先、どんな道が通じているのだろうか。杖突街道は馬の背に荷を積んで往来した道であり、ある程度質の高い道ではなかったか。それを改修し、一時期は峠まで車道が通じていたかもしれない。
 
 「日本百名峠」の杖突峠の項には、写真が一枚だけ掲載されていて、「諏訪側より峠路を登る」とだけキャプションがある。 本文中には何の記述もなかったが、現在の2車線路となる国道152号などとは全く異なる寂しい道が写真に写っていた。 山中を車がやっと一台通れるような細い道が一筋通じ、その側らには何かの石碑が立つ。 「日本百名峠」の初版は昭和57年(1982年)5月1日の発行で、写真の撮影はそれ以前となる。当時はまだ旧道が通れたのかもしれない。

   
   
   
斎場(寄道) 
   

<斎場へ(余談)>
 一応、本線車道の終点へ行ってみた。旧道への分岐から100mで行止りとなる。駐車場やロータリーが設けられ、その奥に静香苑(斎場)の建物が控える。 建物の背後には斎場を守るように大きな砂防ダムがそびえた。下馬沢川の支流の上流部である。杖突街道の旧道は、今はこうして斎場へのアクセス路として使われる。

   

道の終点 (撮影 2013. 5.19)

斎場前のロータリー (撮影 2013. 5.19)
   
   
   
峠の高遠町側 
   

<峠より高遠町へ>
 ここからは、峠に戻って高遠町側に下る。ただ、あまり詳しい話はない。
 
<藤澤>
 峠の南側は長野県伊那市高遠町藤澤(たかとおまち ふじさわ)で旧上伊那郡高遠町藤澤である。川の名前などでは「藤沢」と書くが、地名では旧字体で「藤澤」とすることが多いので、ここでもそれに従う。
 
<片倉>
 最初に人家などが見られるのは、藤澤の片倉(かたくら)となるようだ。 明治8年に江戸期からの片倉村やその下流に位置する御堂垣外(みどうがいと)村などが合併し、藤澤村が誕生している。 昭和33年には高遠町に合併され、高遠町の大字藤澤となる。地図には古屋敷という地名が峠を下って最初に見られるが、片倉の一部ではないだろうか。

   
高遠町側に下る (撮影 2002. 4. 6)
片倉の家屋が見え始めた頃
   

<松尾峠分岐(余談)>
 途中、林道日影入線が右手に分岐する。松尾峠を越えて箕輪町に通じる峠道だ。地形図では今でも一本線で描かれる険しそうな道になっているが、2013年に訪れた時は、改修された立派な2車線路が通じる峠になっていた。

   
松尾峠分岐付近 (撮影 2002. 4. 6)
   

松尾峠への分岐 (撮影 2013. 5.19)

松尾峠から下って来たところ (撮影 2013. 5.19)
下に国道152号が通る
藤沢川沿いは大規模な治水工事が行われているようだ
藤沢川は台風による洪水で田畑が流出した経験がある
   

片倉集落へ (撮影 2013. 5.19)

<沿道の様子>
 藤沢川は中央構造線に沿って直線的に南流する。勾配は緩く谷は比較的広い。人家も峠を下った早い段階から点在する。最初に出て来る大きな集落は、松尾峠の分岐を過ぎた先にある片倉と思う。

   

 現在の国道152号は真っ直ぐな谷の中を更に真っ直ぐ通じる。旧道は既にかき消されてしまった部分が多いだろうが、時折、国道を外れて細い道が谷の端に通じる。 そちらに人家が並んでいたりする。もしかしたら、その道が元の杖突街道かと思ったりするが、今の快適な国道を突っ走っている限りには確かめようがない。 脇道を丹念に探索すれば、街道の名残となる馬頭観音や道祖神などが佇んでいるのかもしれない。
 
 ただ、道は大きく変わったが、この谷の風景はかつて杖突峠を往来する旅人が眺めたものとそう違わないのではないだろうか。


国道を外れた道に人家が佇む (撮影 2013. 5.19)
   

沿道の様子 (撮影 2013. 5.19)

沿道の様子 (撮影 2013. 5.19)
   

<峠道の範囲>
 杖突街道は諏訪地方と高遠を結ぶ街道で、この場合は杖突峠を越える峠道に相当することになる。しかし、高遠の先、伊那まで通じる道を杖突街道と称したともある。 より正確には、甲州街道の茅野宿(金沢と上諏訪の間の間宿)から杖突峠を越え、高遠宿(高遠町)を経由、 富士川沿い(伊那谷)の三州街道の伊那部宿(伊那市)までを杖突街道とするものだ。 この場合、高遠から先は藤沢川の本流・三峰川(みぶがわ)沿いになり、この三峰川の上流部には分杭峠が存在する。 杖突峠の峠道はあくまで藤沢川が高遠の市街地で三峰川に注ぐまでと考える。杖突街道と杖突峠の峠道は必ずしも一致しない。 その点、藤沢街道とか高遠道という名は、杖突峠の峠道に近い呼称だ。
 
 峠道の範囲は別として、杖突峠を越えた道は、諏訪地方と伊那、更に木曽山脈を越えて木曽の地や遠く三河国とも繋がった。また、高遠から南に向かって分杭峠を越え、秋葉神社(静岡県)へと至る秋葉街道にも連絡している。いろいろな人々や物資が、杖突峠を越えたことだろう。

   
沿道の様子 (撮影 2013. 5.19)
高遠市街に近い
   

<高遠市街へ>
 現在の物資輸送は、もっぱら中央道が担っているのではないだろうか。 諏訪ICで降りて杖突峠を越えるより、距離は遠いが諏訪湖の先の伊那ICまで行って、三峰川沿いに高遠まで遡る方が容易だ。 杖突峠を大きな輸送トラックが頻繁に往来していたような記憶はない。ただ、高遠城址の桜の見頃だけは違う。杖突峠を越えて来た乗用車などが高遠市街に溢れる。 三峰川の河原に設けられた臨時駐車場に車を停め、やっとの思いで高遠城址公園や絵島の囲い屋敷などを見学したのだった。

   
高遠市街へと下る (撮影 2002. 4. 6)
左手の高台に高遠城址の桜が見える
奥には雪を頂いた木曽山脈を望む
   
   
   

 前回は島根半島の片隅にある小さな峠を取り上げた。出雲大社と日本海沿いの小さな集落とを繋ぐ峠だった。 出雲大社側は別として、海沿いの寒村は車で1分も走れば通り過ぎてしまう。全体像は手に取るように分かる。集落内に立つ全てのバス停も把握した程だ。 それに比べ、今回の茅野市や旧高遠町は地域も歴史も広く、扱いかねる。峠道も長い。僅かに茅野市側の旧杖突峠入口道標が立つ1km程の範囲だけ、何となく理解したような気になっている、杖突峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1991. 4.21 高遠町→茅野市 AX−1にて
・1993.11.28 高遠町→茅野市 パルサー(レンタカー)にて
・2002. 4. 6 茅野市→高遠町 ミラージュにて
・2013. 5.19 旧杖突峠入口道標に寄る パジェロミニにて
・2017. 7.20 旧杖突峠入口道標に寄る ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・関東 2輪車 ツーリングマップ 1989年1月発行 昭文社
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東   1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部   1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸  2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
峠と旅         峠リスト