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長峰峠
  ながみねとうげ  (峠と旅 No.316)
  飛騨山脈南端を越える長く寂しい峠道
  (掲載 2022. 8.16  最終峠走行 2007. 8.14)
   
   
   
長峰峠 (撮影 2007. 8.14)
手前は長野県木曽郡木曽町開田高原西野(旧旧木曽郡開田村西野)
奥は岐阜県高山市高根町小日和田(旧大野郡高根村小日和田)
道は国道361号・飛騨往還(「飛騨街道西野通り」などとも)
峠の標高は約1,355m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠その物はちょっと寂しそうだが、
峠の長野県側が開けていて、そこに木曽馬が飼われている茶店があった
 
 

余談

   

<「ようこそ木曽へ」の看板>
 長峰峠はとても快適な国道が通じる峠道で、このホームページ「峠と旅」で取上げるような事はないと思っていた。それでも今回、この峠を掲載することとしたのは単純な理由からだ。 前に境峠を取り上げたが、境峠には「ようこそ木曽へ」と書かれた格子戸と言うか門扉と言うか、そんな風のちょっと目を引くモニュメントの看板が立っている。 この長峰峠もほぼ同じ物が立っているので、単にその繋がりである。

   

<長峰峠の看板>
 長峰峠は長野・岐阜の県境にあるが、峠より少し長野県側に入ると路肩が広くなっていて、以前はそこに峠の茶屋があった(今は営業していないようだが)。 その茶屋を過ぎた先に例の看板が立っていた。

   
長峰峠の様子 (撮影 2007. 8.14)
峠より長野県側を見る
右手に峠の茶屋、正面奥に「ようこそ木曽へ」の看板が立つ
(車のリアガラス越しに写真を撮ったので、電熱線が写り込んでいる)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 長峰峠は普通に一般車がよく通る峠道なので、その看板を目にする者は多いことだろう。ただ、特に関心を引くという代物でもないので、記憶にもぼんやり残る程度だ。 私も峠の写真をいろいろ撮る中、偶然その看板が写真に写り込んでいたというに過ぎない。
 
 
 
<境峠の看板>
 境峠の場合も立派な主要地方道が通じ、通る車は多い。 ただ、長峰峠のように峠の茶屋などはなく、車は素通りするばかりで、あまり看板には注意が払われないかもしれない(下の写真)。


長峰峠に立つ看板 (撮影 2007. 8.14)
   

境峠 (撮影 2001. 4.28)
木祖村方向に見る

境峠に立つ看板 (撮影 2008. 8.13)
   

<権兵衛峠の看板>
 権兵衛峠では、権兵衛トンネルが開通する前の峠道沿いにこの看板はなかったと思う。 ところが、トンネル開通後の権兵衛峠道路沿いにこの看板が新しく立った。権兵衛トンネルと番所トンネルの中間点である。長峰峠や境峠では私が越えた1990年前後にはもう看板はあった。 それ以前に既に立ってたのだろう。一方、権兵衛峠では2006年のトンネル併用開始頃に立てられたものと思う。翌2007年8月にはその看板を目にしている。

   

権兵衛峠道路 (撮影 2013. 5.20)
権兵衛トンネルと番所トンネルの間
奈良井宿方向に見る

権兵衛峠道路に立つ看板 (撮影 2013. 5.20)
   

国道19号沿いの看板 (撮影 2002. 9.28)
鳥居峠方向に見る

<国道19号沿いの看板>
 「ようこそ木曽へ」の看板は外界から木曽の地への入口に立つ。必ずしもそこは峠とは限らない。最も人目に付くのははやり国道19号・旧中山道であろう。松本方面より国道19号を南下して来ると、左に牛首峠への道を分けた先の右手に立っていた。更にその先、奈良井川の支流・桜沢を境橋で渡った右手に「是より南 木曽路」の石碑が立っている。
 
 ところが最近の地図を見ると、かつて「ようこそ木曽へ」の看板や「是より南 木曽路」の石碑のあった区間は、新しく桜沢トンネルができた為に旧道となっているようだ。それでも「ようこそ木曽へ」の看板だけは、新道側に新規に設けられたようである。

   
「是より南 木曽路」の石碑が立つ園地 (撮影 2002. 9.28)
国道19号を松本方向に見る
国道沿いの奥に「ようこそ木曽へ」の看板が立つ
   

<余談>
 いつの事だったか国道19号を松本方向へとジムニーを走らせていると、「ようこそ木曽へ」の看板近くだったと思うが、誘導員によって道路脇へと停めさせられた。 比較的ゆっくり走っていたので、スピード違反などではない。これまで何度か職質に遭っているので、これはと思っていると、木曽安全交通協会による安全指導であった。 何かのパンフレットと共に「これより木曽路」と書かれた飾りを渡された。木製で高さ6cm程だ(下の写真)。 他には何のお咎めもないので、ホッとする思いだった。これも一つの旅の思い出である。

   

飾り (撮影 2022. 8. 6)

飾り (撮影 2022. 8. 6)
   

<木曽>
 詳しくは分からないが、文献(角川地名大辞典)によると、「木曽」とは「木曽川の源流域および奈良井川流域に位置」し、「ほぼ現在の木曽郡に該当」するそうだ。外界よりその木曽の地に入る峠道のコースは、前に挙げた長峰峠・境峠・権兵衛峠の他に、鉢盛峠大平峠清内路峠・馬籠峠・真弓峠・白巣峠鞍掛峠などがあるのではないかと思う。私の経験ではこれらの峠に「ようこそ木曽へ」の看板はなかったようだ。

   
   
   

   

<所在>
 余談もこのくらいにして、本題に・・・。峠は長野・岐阜の県境に位置する。 長野県側は木曽郡(きそぐん)木曽町(きそまち)開田高原(かいだこうげん)西野(にしの)、旧木曽郡開田村(かいだむら)西野になる。 開田村は明治7年(1874年)に西野・末川(すえかわ)の両村が合併して誕生している。当時、この地では水田開発が盛んで、そこで新村名を「開田」としたそうだ。 明治14年に一度開田村は解散、明治22年に再び西野・末川は開田村の大字となっている。現在、開田村は木曽町の一部となり、旧村域は「開田高原」と呼ぶらしい。 「木曽町」も地名としての「開田高原」も、どうも聞き慣れなくて困る。旧木曽福島町も新しい木曽町に飲み込まれたようで、地名に「木曽福島」が見られないのは寂しい限りだ。
 
 峠の岐阜県側は高山市(たかやまし)高根町(たかねまち)小日和田(こひわだ)で、旧大野郡(おおのぐん)高根村(たかねむら)小日和田である。 明治8年(1875年)に小日和田村他、計12か村が合併して高根村が成立している。長峰峠は高山市街に至る峠道だが、かつては高根村・朝日村・久々野町を通過して高山市に入っていた。 今は峠を一歩岐阜県側に入ると、そこはもう高山市である。

   

<地形図(参考)>
  国土地理院地形図 にリンクします。


   
(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 お決まりなので、一応水系を確認。峠の長野県側は西又川の小さな支流が流れ下り、西又川→西野川→王滝川→木曽川と流れ下る。 岐阜県側は幕岩川水域で、幕岩川→日和田川→飛騨川→木曽川と注ぐ。峠は全て木曽川水系の木曽川流域となる。 割合近くにある野麦峠や境峠は木曽川水系と信濃川水系の境、すなわち中央分水界上にあるが、長峰峠は全部太平洋側である。

   

<立地>
 長峰峠は北の野麦峠から南の御嶽山(おんたけさん)へと続く県境の中間点くらいに位置する。 ところで飛騨山脈(北アルプス)の範囲は主に北の日本海岸の親不知付近から安房峠までの山脈を指すようだが、更に南の乗鞍岳・御嶽山も含めることもあるそうだ。 そうすると、長峰峠も飛騨山脈を越える峠の一つということになる。
 
 尚、文献の野麦峠の項で、「北アルプスを越える4つの峠道の中で標高が最も低」いとしていて、少なくとも野麦峠は飛騨山脈の内としている。 その一方、標高1,672mの野麦峠に対し長峰峠(旧峠)は標高1,503mと野麦峠より低く、その意味では長峰峠は飛騨山脈を越える峠ではないことになる。どうにもはっきりしない。 少なくとも安房峠の険しさに比べに、野麦峠はやや穏やかで、長峰峠に到っては飛騨山脈を終えているという様な実感は全く湧いてこない。

   

<北アルプスを越える4つの峠道(余談)>
 余談だが、文献では野麦峠以外に「北アルプスを越える4つの峠道」を示してくれていない。 そこで地形図を眺めてみたところ、野麦峠・安房峠・中尾峠(なかおとうげ、地理院地図)、針ノ木峠(はりのきとうげ、地理院地図)の4峠ではないかと推測したが、どうだろうか。この内、車道が通じたのは野麦峠と安房峠である。

   

<旧峠>
 現在、国道361号が通じる長峰峠は車道開通によってできた新しい長峰峠であって、元の峠はもっと北にあったそうだ。 現在の地図ではその所在は分からないが、前述の通り旧峠の標高は1,503mであったとのこと。 現峠の北1Km余りの県境上に1,502.9mのピーク(地理院地図)が見られるが、その辺りに旧峠が通じていたのではないだろうか。長野県側では西又川沿いを遡る徒歩道が見られ(地理院地図)、岐阜県側でも途中まで車道が来ている(地理院地図)。如何にも旧峠道が通じていたような雰囲気である。
 
<車道開通>
 車道開通により現在の峠が誕生した時期は、昭和40年(1965年)前後のようだ。 文献の西野(近代)の項で、「同(昭和)36年岐阜県境長峰峠への道路が改修され、自動車通行が可能となった」とあり、また長峰峠の項では「昭和41年国道361号の走る新長峰峠(1,380m)が旧峠の南に開通」とある。仮に時期の早い方を取れば、それでも昭和36年(1961年)開通ということになり、私の方が先輩だ。
 
 ちなみに、安房峠の車道開通が昭和13年(1938年)で、長峰峠より早い。また、野麦峠は昭和44年と長峰とほぼ同時期だ。しかし、安房も野麦も冬期閉鎖の峠道であった。 一方、長峰峠は冬期も車の通行ができたのは大きな違いだ。今は安房トンネルが開通し、冬期の通行不能は野麦峠だけとなった。

   
   
   

長野県側の峠道

   

<飛騨往還>
 長峰峠の長野県側起点は木曽福島だ。文献(角川日本地名大辞典)の長峰峠の項でも、「古くから木曽福島と飛騨高山とを最短距離で結ぶ飛騨往還が通っていた」とある。 車道開通後の現在の国道361号も、木曽福島市街から高山市街へと通じている。ただ、国道361号の長野県側起点は更に権兵衛峠を越えた伊那市になる。 国道の前身は県道高山福島線で、正しく飛騨往還そのものだ。昭和49年11月に国道へと昇格している。

   

木曽福島会館前の駐車場に立つ看板 (撮影 2007. 8.14)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<木曽福島>
 江戸期の木曽福島は中山道の関所があり、代官屋敷などを構えた大きな宿場町だった。現在は関所跡などの観光資源が豊富で、一日では到底市街を回り切れない。

   
木曽福島関所近くを流れる木曽川 (撮影 2007. 8.14)
関所橋より下流方向に見る
この左手に関所跡がある
   

<国道361号へ>
 長峰峠へと至る国道361号は国道19号・旧中山道より分岐して始まる。

   

国道19号沿い (撮影 2007. 8.14)
松本方向に見る

国道361号分岐の看板 (撮影 2007. 8.14)
「開田高原」は書き直された跡がある
以前は「開田村」だったのではないか
   

<木曽大橋>
 現在は関所跡や役場がある中心地よりずっと東で国道19号を分かれ、木曽川を木曽大橋(地理院地図)を渡って国道361号が伸びる。とても素直な道だ。しかし、この橋が架かる(1994年)以前は、役場より西の行人橋(地理院地図)で木曽川を渡り、右岸の市街地内を抜けて木曽川支流・黒川沿いに出ていた。経路が複雑で道は狭く混雑し、とても厄介な道だった。今は何のストレスもなく行き来ができる。
 
 尚、同じ中山道の奈良井宿に観光用の「木曽の大橋」があり、こちらの木曽大橋と混同しそうで紛らわしい。

   

木曽大橋を渡る (撮影 2007. 8.14)
峠方向に見る

道路看板 (撮影 2007. 8.14)
高山市街まで82Km
   

<黒川沿い>
 木曽福島市街を少し外れればもう大きな集落はなく、閑散とした沿道が続く。
 
 道は一路黒川に沿って遡る。長峰峠の水域は黒川より木曽川下流の支流・王滝川であった。よって長峰峠の道は登って下る単純な峠道ではない。 この先、黒川水域から地蔵峠で末川水域に入り、更に九蔵峠で末川の本流・西野川(大滝川の支流)沿いになり、その支流の西又川を遡って行く。

   
上志水バス停付近(地理院地図) (撮影 2007. 8.14)
(峠方向に見る)
   

<付属する3つの峠>
 一方、岐阜県側でも高山市街直前に美女峠を越える。よって長峰峠の峠道は、メインとなる長峰峠の他に地蔵・九蔵・美女の3つの峠が付属することになる。 こうして地形的には複雑となる峠道が興ったのは、中山道の大きな宿場となる木曽福島と飛騨国の中心地となる飛騨高山を最短で結ぶ飛騨往還が成立したことによるものと思う。

   

<飛騨街道>
 前述の「飛騨往還」とは江戸期の呼称で、文献では長峰峠や地蔵峠の項で見られる。一方、「飛騨街道」という呼び方もある。 地蔵峠には「旧飛騨街道」などと看板や標柱にある。
 
 広義の飛騨街道とは飛騨の国に通じる街道全般を指し、その道筋は幾つも存在する。野麦峠も飛騨街道の一つと言える。 他の街道と区別する為、「飛騨街道奈川道」などと呼んだりもする。 長峰峠の場合は「飛騨街道西野通り」などとも記されるようだ。ここでは飛騨街道を意識しつつも、飛騨往還と呼んでおく。
 
 更に「飛騨の街道」という呼び方もあるようだが、「飛騨街道」との区別が分からない。

   

<信州街道・江戸街道・木曽街道>
 時代は古く律令制時代、飛騨国府(高山市の近く)より信濃国府(松本市)への官道を「信州街道・江戸街道・木曽街道」などと呼んだようだ。飛騨高山と信州松本を結ぶ場合、安房峠や野麦峠の方が距離が短く、長峰峠とは関係ないように思う。ただ、昭文社の道路地図では長峰峠前後の国道361号を「木曽街道」と記している。
 
 まあ、木曽の中心地とも言える木曽福島へと通じるので、飛騨街道の逆の見方として木曽街道と言えるのかもしれない。野麦峠やかつての安房峠は冬期閉鎖の道で、飛騨と木曽を結ぶのはこの長峰峠が本線であった。

   
   
   

九蔵峠

   

<九蔵峠>
 地蔵峠は地蔵峠のページに譲り、次に越える九蔵峠(地理院地図)を見てみる。 ただ、九蔵峠は地蔵峠の様なしっかりした峠道ではない。国道361号を走っていると、何となく登って何となく下って行く。峠だという印象をほとんど持たない。 西野川支流の末川方面から西野川本流沿いへと越えていて、地形的にも大きな峰を越える訳ではない。それでも九蔵峠区間は国道の路面からセンターラインが消え、道幅の狭い峠道となっている。

   
九蔵峠 (撮影 2007. 8.14)
左手の国道標識に「木曽町開田高原 九蔵峠」とある
   

九蔵峠 (撮影 1994. 3.22)
この時はまだ「開田村 九蔵峠」
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<御嶽山の眺め>
 ただ、峠では思わず車を停めたくなる。峠は眼前に大きく御嶽山を望む好展望地になっている。地蔵峠も同じ御嶽山の眺望で知られるが、新地蔵トンネル開通で旧峠を通る車はほとんどなくなった。その点、九蔵峠は今でも国道361号の通りすがりに御嶽山を堪能できる。
 
 私が訪れていた頃は単なる路肩に車を停めて十分眺められたが、草木が伸びて段々眺めが悪くなった。そこで最近はしっかりした展望所として整備されているようだ。御嶽山の姿は昔と変わりはない。やはり冬の時期の方が見通しが良く、御嶽山の眺めもいい。

   
冬場の御嶽山の眺め (撮影 1994. 3.22)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<九蔵峠について>
 九蔵峠は木曽町開田高原(旧開田村)西野の中にある。峠の標高は1,220mくらい。なかなか高いが、そもそも周辺は標高1,100mを超える開田高原である。 車で走っている分にはわざわざ名前が付けられる程の峠道かとも思うが、かつて飛騨往還を歩いて旅をしていた人たちにとって、これもしっかりした一つの峠越えだったのだろう。 それに峠から望む御嶽山は格別の眺めだったに違いない。

   
御嶽山の眺め (撮影 1997. 4.27)
   
御嶽山の眺め (撮影 1997. 4.27)
   

 「九蔵」という名前について由来など分からなかったが、ここより一つ木曽福島側にある地蔵峠とは「蔵」の文字が共通で、何らかの関係があるのかと思ったりする。

   

<西野川沿いへ>
 地蔵峠を下ると、王滝川(おうたきがわ)の支流・西野川(にしのがわ)沿いになる。その源流は長峰峠と野麦峠との間にある鎌ヶ峰(2121m、地理院地図)になる。。

   
九蔵峠を越えて来たところ(地理院地図) (撮影 2007. 8.14)
前方に集落が見えてきた
道はほぼ西野川源流方向を向く
   

<県道20号分岐>
 道はちょっと西野川上流方向に進み、右岸に渡って支流の西又川へと戻って来る。西又川合流部の越という所で県道(主要地方道)20号・開田三岳福島線が分かれて行く(地理院地図)。

   

県道20号分岐の看板 (撮影 2007. 8.14)

県道20号分岐 (撮影 2007. 8.14)
長峰峠方向に見る
   

西野川沿いの県道20号(地理院地図) (撮影 2001. 4.30
比較的快適な道が通じる(まだ新しそう)
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<県道20号のルート>
 木曽福島から長峰峠に至る国道361号のルートは、途中地蔵峠・九蔵峠と2つの峠越えがある。 一方、この県道20号のルートは、木曽川支流の王滝川、更にその支流の西野川沿いにと遡って来るので、その間に全く峠越えがない。しかも、比較的快適な道が続く。 近年改修が進んだのか、センターラインのある区間も多い。長峰峠越えをする時、場合によってはこのルートを選択するのもいい。

   

<猿橋渓谷(余談)>
 県道20号沿いには他に色々と立寄りスポットがあるだろうが、一度猿橋渓谷(地理院地図)というのを訪れたことがある。県道を少し外れた西野川に架かる猿橋の前後がちょっとした渓谷になっている。(現在は通行止めとなっている様子)


西野川に架かる猿橋 (撮影 2001. 4.30)
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猿橋渓谷 (撮影 2001. 4.30
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

猿橋渓谷 (撮影 2001. 4.30)
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<西又川沿い>
 道は西又川沿いに遡る。人家はまばらだ。

   
西又川沿いの道(地理院地図) (撮影 2007. 8.14)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.30)
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<峠直前>
 地蔵峠前後を除けば、長峰峠の長野県側直前は少しは峠道らしい様相を呈す。ちょっとした九十九折があり、遠望もちらりとある。最近の国道361号は新地蔵トンネルを抜けてしまうので、この峠直前だけが唯一峠道らしい。

   
峠直前の遠望 (撮影 2001. 4.30)
       
 
 

峠の様子

   

<長峰峠のこと>
 今回調べて見ると、長峰峠は都合5回越えていた。長峰峠はそれ程関心がある峠ではないので、そのほとんどが素通りだった。峠には茶屋があり、あまり長い間車を停めるのを遠慮したのもある。
 
 茶屋でコーヒーでも一杯飲み、店の主人と少し会話でもすれば、峠について地元の情報が得られたかもしれない。しかし、当時は野宿旅などしていて、一日中お金(現金)を使わない日もある。 缶コーヒーなら一杯100円もしないところ、わざわざ何百円ものコーヒーを飲む気にはなれなかった。倹約がしみついていたのだ。 また、乗っている車は泥だらけで、身なりもみすぼらしいというのもあった。僅かな小銭を惜しむより、旅先ではどんどんお金を使った方が有益だと思うようになったのは、やっと最近のことだ。

   
長野県側の峠 (撮影 2007. 8.14)
   

<峠の写真>
 そういう訳で、長峰峠ではじっくり写真を撮ったことがない。ここにアップできる峠の写真もほとんどないことだろうと諦めていたのだが、2001年4月に訪れていたのが分かり、その時に意外としっかり写真を撮ってあった。今自分で見ても懐かしい思いがする。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.30)
路肩にジムニーを遠慮がちに停めて写真を撮った
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<峠の茶屋>
 峠の長野県側には大きな茶屋が一軒あった。宣伝ののぼり旗がはためき、中々賑やかだった。「長峰峠茶屋、ひきたてコーヒー、日野百草丸、岩魚いろり焼」などと謳っていた。 建屋も何棟かあり、かつては宿を営んでいたような時期もあったのではないかと思わせた。

   
峠の様子 (撮影 2001. 4.30)
左手に茶店、正面が峠の切通し
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<峠の切通し>
 茶屋の直ぐ先が狭くなり、峠の切通しとなっている。切通しを過ぎると岐阜県側は直ぐに下りだし、路肩に車を停める余裕もない。

   
峠の切通し (撮影 2007. 8.14)
   
峠の看板類 (撮影 2007. 8.14)
   

<冬期通行可>
 長峰峠は雨量規制などはあるが、基本的に冬期も通行可能だ。初めて越えたのは1994年の3月で、峠にはまだ雪が多く見られた。高山市方面から来て、本当は野麦峠を越えたかったのだが、あちらは冬期通行止だ。仕方なく、そのまま長峰峠、九蔵峠、新地蔵トンネルと進んだ。

   
峠の切通し (撮影 1994. 3.22)
初めて長峰峠を越えた時
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峠の看板 (撮影 1994. 3.22)
この時の岐阜県側はまだ「高根村」
   

現在の県境看板 (撮影 2007. 8.14)

<県境看板>
 切通しの前後には県境看板が立つ。岐阜県側は今は「高山市」だが、以前は「高根村」と出ていた。一方、長野県側は、今は「木曽町」、かつては「開田村」であった。

   

<標高>
 峠の標高について、文献では「新長峰峠(1,380m)」と記している。しかし、現在の地形図の等高線では、1,350と1,360mの間に国道が通じている。過去に道の改修が行われたとしても、20m以上低くなることはないだろう。
 
 峠は南の御嶽山(3067m)と北の鎌ヶ峰(2121m)とのほぼ中間地点にあり、その間を結ぶ稜線の最も低い鞍部に位置する。 旧峠が鎌ヶ峰寄りの標高1,503mというやや高い地点を越えていたのがちょっと不可解に思えるが、そこが歩いて越えられる最適なルートだったのだろう。


切通しより長野県側を見る (撮影 2001. 4.30)
左手奥の県境看板には「開田村」と出ている
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峠の様子 (撮影 2001. 4.30)
茶店が賑やかだ
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<木曽馬>
 開田高原は日本在来種・木曽馬の生産地で知られる。長峰峠の茶屋では、その木曽馬が見られた。茶店の敷地の側らに小さな馬小屋があり、そこに一頭の木曽馬が飼われていた。 その写真はないものと思っていたが、どうにか2枚見付かった(下の写真)。もう、茶店は営業していない模様で、木曽馬も見られなくなったのは残念だ。

   

木曽馬 (撮影 2001. 4.30
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

木曽馬 (撮影 2001. 4.30)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<案内看板>
 峠には色々な案内看板もあったが、多くはなくなってしまった。次の2枚の写真は、長野県(信濃)側と岐阜県(飛騨)側の案内看板だが、これらももうないようだ。 市町村名が変わったり、道が換線されたりし、実情に合わなくなった為だろう。こうした古い看板を眺めるのは好きだ。 この2枚の写真だけは、手間暇掛けて高精細なフィルムスキャナーでデータ可してみた。細かく見れば何か発見があるだろう。

   

茶屋脇に立つ案内看板 (撮影 2001. 4.30
「信濃の國 みちしるべ」 
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峠の切通しに立つ案内看板 (撮影 2001. 4.30)
「飛騨中央高原観光案内図」
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岐阜県側の峠道

   

<岐阜県側に下る>
 峠の岐阜県側は高低差がなく、更に峠道らしくない。直ぐに幕岩川沿いに降り立つ。

   

岐阜県側の道の様子 (撮影 2007. 8.14)

岐阜県側の道の様子 (撮影 2007. 8.14)
   

分岐より県道463号方向を見る (撮影 2001. 4.30
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<県道463号分岐>
 峠から1Km程も下ると、県道463号・朝日高根線が幕岩川上流方向へと分岐する。道路看板の行先には、「小坂(おさか)51Km、濁河(にごりご)15Km」とある。 分岐周辺にはいろいろな案内看板も立つ。この県道を行くと、御嶽山北麓地帯へと踏み込むことができる。柳蘭峠とか濁河峠などなど、峠も豊富だ。 ただ、冬期は通行止が多く、通れない時期が長い。

   

県道463号分岐 (撮影 1997. 4.27)

分岐より県道463号方向を見る (撮影 1994. 3.22)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠道の印象>
 長峰峠の岐阜県側は、どこか荒涼とした雰囲気の印象がある。国道沿いに人家をあまり見ないような気がする。それと、幾つもあるダム湖がそうした印象を与えるようだ。特に冬場のダム湖は凍てついた湖面を見せつけ、尚更険しさを感じさせる。
 
<高根乗鞍湖>
 まずは高根第一ダムによってできた高根乗鞍湖が現れる。幕岩川の本流・日和田川と更にその本流・飛騨川(ひだがわ)の合流点付近が細長い高根乗鞍湖となっている。特に冬期は長峰峠以外に通れる道はないので、必ずこの湖の横を通過することとなる。

   
高根乗鞍湖(地理院地図) (撮影 1994. 3.22)
峠方向に見る
なかなか荒涼とした景色
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<野麦峠分岐>
 そのまま高根乗鞍湖右岸沿いを進むと、長い近城(ちかしろ)トンネルを抜け、続いて飛騨川を高嶺(たかね)大橋で渡る。渡った先で飛騨川右岸沿いに上流方向へと野麦峠の道が分岐する。県道39号・奈川野麦高根線、通称野麦街道である。

   

高嶺大橋を渡る (撮影 2007. 8.14)

野麦峠分岐の看板 (撮影 2007. 8.14)
   
高嶺大橋を長峰峠方向に見る (撮影 2002. 9.30)
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<道路改修>
 この付近の道は私が通い始めてから大きく変わった。まず近城トンネルができた。竣工は平成11年(1999年)5月。それ以前はもっと湖岸沿いを小さな2つのトンネルで抜けていた。
 
 続いて高嶺大橋が付け替えられた。現在の新しい高嶺大橋の竣工は平成14年(2002年)6月)で、それより前は飛騨川を少し遡った地点に古い高嶺大橋が架けられていた。地図によっては橋の名を「高根大橋」とか「高峰大橋」と記しているが、「高嶺」(たかね)が正しいようだ。

   

<旧高嶺大橋(余談)>
 調べて見ると、2002年9月に旧高根村側から野麦峠を越えていた。新しい高嶺大橋の竣工直後である。アルバムを調べてみると、野麦峠に向かう途中で空色の鉄骨の橋が写っていた。「野麦峠まで 19Km」と書かれた看板の少し先である。
 
 これまであまり気に留めていなかったのだが、どうやらそれが旧高嶺大橋のようだ。橋の袂には重機が据え付けられ、橋の一部は既に解体が進んでいた。今はほとんどその痕跡を残していない。 近城トンネルにしろ高嶺大橋にしろ、ぼんやりしている内に世の中は変わって行った。調べて見ると、他にも国道361号のルートはいろいろ変わっているようだ。


県道39号を野麦峠方向に見る (撮影 2002. 9.30)
右手奥に旧高嶺大橋が写っている
橋の袂に重機が居て、解体工事中だったようだ
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右手に旧高嶺大橋 (撮影 2002. 9.30)
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野麦峠方向より国道を見る (撮影 2008. 8.13)
奈川側から野麦峠を越えて来たところ
これから高山市へと向かう
   

<野麦峠>
 長峰峠の道は途中に県道20号や県道463号など面白い道の分岐が何本かあり、木曽福島から飛騨高山まで通しで走ることは滅多にない。特にこの野麦峠への道は魅力的だ。 峠は観光地化され、俗世間的な雰囲気なのだが、峠道そのものは長峰峠を越えるよりずっと楽しい。ついつい野麦峠へと曲がってしまう。 ただ、冬期閉鎖が長いので、通行止の看板で引き返して来ることも多い。

   
国道沿いに並ぶ看板 (撮影 2008. 8.13)
   
野麦峠分岐以降の国道361号 (撮影 2008. 8.13)
   

道路情報看板 (撮影 2008. 8.13)

<通行規制>
 野麦峠の分岐以降、旧高根村の中心地・上ヶ洞(かみがほら)までの区間は雨量規制がある。看板では「上ヶ洞〜阿多野郷区間 延長3.1Km」と出ている。この付近は全て上ヶ洞で、現在の地名として阿多野郷(あだのごう)というのは見当たらないが、江戸期から阿多野郷という村があり、明治期に他村と合併し高根村の一部になっている。もしかしたら阿多野郷は高根乗鞍湖に沈んだのだろうか。
 
 尚、側らを流れる飛騨川という名は、本来は美濃国に入ってからの名称で、この飛騨国では益田川(ましたがわ)、更に上流部では阿多野川(あだのがわ)と呼ばれたそうだ。
  
 長峰峠以降、ここまで下って来る途中には小日和田、留之原、日和田といった地名が見られるが、沿道に人家を見ることはほとんどない。 こうした集落は国道から少し離れた所にあるようで、国道を走っている限りにはその様子は全く分からない。ただ、この一帯は標高が1,200mを超えた高地で、背後には飛騨山脈から続く県境の峰がそびえ、飛騨川下流方向には高根乗鞍湖沿いの険しい国道が一本通じるだけだ。冬場などは厳しい環境の地に思える。

   

<ダム群>
 この後も道はほぼ飛騨川沿いに下るが、そこには幾つものダムが連続する。上流側より高根第一ダム、高根第二ダム、朝日ダム、久々野ダムなどである。 高根第一ダムの堰堤脇に「飛騨川上流ダム群案内図」という看板が立っていた。


ダム群の案内図 (撮影 2008. 8.13)
高根第一ダムにあった看板
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ダム群の案内図の部分拡大 (撮影 2008. 8.13)
地図は下が北
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<高根トンネル>
 現在は高根トンネル(旧仮称:上ヶ洞トンネル)というのができ、高根乗鞍湖の途中よりダム堰堤を大きく迂回し、上ヶ洞集落へと通じているようだ。 これにより小日和田などの上流部に位置する集落は、安全に通行できるようになったのだろう。もう雨量規制もないのかもしれない。

   
高根トンネル手前から高根第一ダムへの道に入った所(地理院地図) (撮影 2008. 8.13)
峠方向に見る
今頃は旧道になっている
   

<高根第一ダムへ>
 高根トンネルの上流側坑口手前より分かれ、今となっては旧道となる高根第一ダムへの道が続く。上ヶ洞4号トンネルから3号、2号と続き、堰堤の直ぐ脇へと国道が通じていた。トンネルも道も狭く、長峰峠の峠道で最も険しい区間である。

   

上ヶ洞1号トンネル (撮影 2008. 8.13)
ダム堰堤側の坑口
上ヶ洞集落方向に見る
この手前がダム堰堤

上ヶ洞2号トンネル (撮影 2008. 8.13)
   

<ダム堰堤付近>
 ダム堰堤近くには駐車場にトイレ、展望所を兼ねた園地等が整備され、休憩するにはもって来いだ。カセットコンロでお湯を沸かし、カップ麺の昼食を摂ったこともある。

   

高根第一ダムの堰堤近く (撮影 2008. 8.13)

高根乗鞍湖の記念碑 (撮影 2008. 8.13)
   
高根第一ダム (撮影 2007. 8.14)
この時は素通りした
   

冬の高根第一ダム (撮影 1994. 3.22)
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 高根第一ダムは国道脇にあり、必ずと言っていい程立寄る休憩スポットであった。現在は高根トンネルでバイパスされ、意識して立寄らないと訪れることはない。 どうやらトイレやダム群の案内看板などはなくなった模様だ。このまま寂れてしまうのは惜しい。
 
 
 
 ダム堰堤脇からは上ヶ洞1号トンネルを抜けて上ヶ洞集落方面へと続く。上ヶ洞は旧高根村の中心地で、現在は高山市の高根支所があるようだ。

   

<高根第二ダム以降>
 上ヶ洞、高根第二ダムと過ぎると地形が安定して、やや落ち着いた道となる。

   
高根第二ダム (撮影 2007. 8.14)
   

道の駅・飛騨たかね工房 (撮影 2007. 8.14)

<道の駅>
 間もなく左手に道の駅・飛騨たかね工房が出て来る。ここもしばしば利用させてもらった。長い長峰峠を越えて来て、ホッと一息入れられる場所だ。高根第一ダムの堰堤園地もいいが、道の駅なら人里の雰囲気があり、安心感が違う。
 
 
<朝日貯水池>
 道の駅辺りから朝日ダムによってできた朝日貯水池沿いに道は進む。

   

<権現トンネル>
 現在、朝日貯水池の上流部にて国道は中洞大橋(地理院地図)で左岸に渡り、更に権現トンネルで旧朝日村の飛騨川支流・秋神川沿いに出る。

   
権現トンネルの西側坑口付近 (撮影 1994. 3.22)
この時はまだ国道が開通していなかった
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 1994年3月に訪れた時は、既に権現トンネルまでは開通していたが、その先の秋神貯水池沿いの道が工事中であった。その後間もなく開通し、国道は大きく換線され、快適になった。

   
秋神貯水池をダム方向に見る(地理院地図) (撮影 1994. 3.22)
権現トンネル出口近くより
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<朝日ダム>
 秋神ダム脇を通る前の国道は、素直に飛騨川本流に架かる朝日ダム脇を通過していた。現在の権現トンネル経由のコースとは大きく異なるので、もう朝日ダムに立ち寄る者も少ないことだろう。 旧コ-ス途中には旧朝日村の寺附という集落が見られるが、静かになったのか、寂しくなったのか、どっちだろうか。


朝日ダム (撮影 1994. 3.22)
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朝日貯水池 (撮影 1994. 3.22)
上流方向に見る
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 秋神川沿いの新コースが再び飛騨川沿いに戻る頃には、沿道に人家が絶えなくなる。
 
 旧朝日村の甲(かぶと)には国道361号に関した道路情報が電光掲示板で出ていた。「野麦峠 通行止」などと出ている。ただ、ある時は道路情報ではなく、「全国和牛能力共進会 9/26〜30」と掲示されていた。


朝日町甲(かぶと)付近(地理院地図) (撮影 2002. 9.30)
長峰峠方向を見る
国道標識にはまだ「朝日村甲」とある
前方に電光掲示板
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美女峠

   

<美女峠>
 木曽福島から飛騨高山まで、長峰峠の道は約80Kmと一般道としてはなかなかの長丁場だ。それも高山市街までもう少しとなった所で、大きな難関が残っていた。美女峠である。 飛騨川は言わずと知れた木曽川水系、一方、高山市街を流れる宮川(みやがわ)は神通川(じんづうがわ)水系だ。すなわち、日本列島を太平洋側と日本海側に分かつ中央分水嶺がそびえているのだ。 そこを越えるのが美女峠となる。美女峠については余り詳しい情報を持たないので、長峰峠の一環としてここに掲載しようと思う。

   

高山市塩屋町(地理院地図) (撮影 1994. 3.22)
旧国道361号を美女峠方向に見る
国道361号の道路情報看板が立つ

<美女峠のルート>
 現在は美女峠の西に「飛騨ふるさとトンネル」が開通し、国道361号は大きく換線された。その為、最近の道路地図では元の美女峠を越える国道361号のルートを見付けるのが難しい。
 
 高山市街側からは国道158号東に来て、宮川の支流・大八賀川(だいはちががわ)の右岸沿いに遡る。塩屋町で駄吉峠(仮称)方面へと登る県道462号・岩井高山停車場線と交差する辺りからは左岸沿いに遡り、そのまま美女峠(地理院地図)に至る。
 
 峠の南側はほとんど一本道で、最後に飛騨川を美女橋(地理院地図)で渡れば、今の国道361号に接続する。

   
国道361号の道路情報看板 (撮影 1994. 3.22)
この時はまだ朝日ダム経由のコースしか通れなかった
   

<冬期通行止>
 美女峠は冬期通行止の峠道だった。県境の長峰峠が通れるのに、こんな所に国道361号の弱点があった。冬期通行止を記す看板では、「毎年12月25日から 翌年4月10日まで」と出ていた。ここが越えられないとなると、とても厄介なことになる。ずっと西に通じる国道41号の宮峠(地理院地図)まで迂回し、そこで中央分水嶺を越え、美女橋まで戻って来ることになる。ただ、最近は宮峠も改善され、宮峠トンネルが開通しているようだが。

   

前の写真の少し峠寄り (撮影 1994. 3.22)
美女峠冬期通行止の看板が立つ
この時は通行止の期間だったので、宮峠へよ向かう
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冬期通行止の看板 (撮影 1994. 3.22)
   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2002. 9.30)
これより美女峠に向かう

<高山市側から美女峠へ>
 美女峠を越えたことはあまりなく、2回程度である。どちらも北の高山市街方面から、南の美女橋へと越えた。 冬期閉鎖が長いことと、狭い峠道の割に交通量が多いので、あまり好んで走りたい峠道ではなかった為だ。
 
 道は山間部に差し掛かると途端に狭くなる。見通しのきかないクネクネ道が続く。

   
美女峠への登り (撮影 2002. 9.30)
狭い登り坂が続く
   

<美女峠>
 道は暗い林に囲まれたまま、狭い切通しに至る。美女峠は寂しい。北側で通行止の林道が分岐し、そこに車一台がやっと停められる程度のスペースしかない。 南側はほとんど路肩がなく、車を停めるどころか、人が車を避けて歩くのも大変なくらいだ。それでいて、まあまあの交通量がある。 時には大型の輸送トラックも通過する。のんびり写真を撮る暇はない。

   
美女峠 (撮影 2002. 9.30)
高山市大島町側から見る
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<美女峠の所在>
 峠は高山市大島町と高山市久々野町辻(旧久々野町辻)との境にある。現在は峠の前後とも高山市だが、以前は高山市と久々野町との市町境であった。かつての国道361号はこの美女峠の僅かな区間だけ久々野町を通過していた。尚、文献では「高山市山口町と大野郡久々野町辻の境にある峠」としているが、少なくとも現在の地図では峠の高山市街側は山口町ではなく大島町である。

   

<美女峠の標高>
 文献では峠の標高を900mとしているが、旧国道の美女峠は約865mである。

   

<旧美女峠>
 地理院地図に気になる記載がある。山口町と塩屋町との境界上に「旧美女峠」(地理院地図)という文字が見られる。標高は約940m。尾根伝いに現在の美女峠近くに至る道が続いている。この旧美女峠は中央分水界上にはないが、現美女峠より標高が高いので、「峠」と呼ばれたものと思う。
 
<尾根道>
 江戸期まではこの旧美女峠を通る尾根道が江戸街道・信州街道・木曽街道などと呼ばれた街道で、山口は宿場町として栄えたそうだ。
 
<大嶋通り>
 一方、後の国道361号となる大八賀川沿いの道は「大嶋通り」と呼ばれる。当時の大嶋村(現高山市大島町)を通ることからの命名のようだ。 飛騨川上流域の住民にとって旧美女峠は難路であり、高山市街とを結ぶ道の改修が望まれた。しかし、当初は大嶋村の反対があり、江戸末期になってやっと今の美女峠を越えて大嶋通りは開設されたそうだ。 現代の車社会からすれば何とも心もとない峠道ではあるが、当時としては貴重な生活路であり、後の世の自動車道へとつながった。 今は飛騨ふるさとトンネルや宮峠トンネルの出現で、美女峠の役割は終わろうとしている。約150年の活躍であった。
(この美女峠については改めて単独のページを掲載→(美女峠

   

<飛騨高山>
 美女峠を越え、国道158号に乗り継げば間もなく飛騨高山の市街である。木曽福島より遥か80Kmの道程。こちらも観光の大都市だ。 宿が多いので旅の途中の宿泊拠点としても都合がよく、6〜7回は泊まっている。その中で印象深かったのは市街南西の外れの小高い丘の上に立つ国民宿舎・飛騨だった。 部屋から市街を一望に見渡せた。

   
旧国民宿舎・飛騨からの高山市街の眺め (撮影 2002. 9.29)
   

 実は、投宿した日は日曜日で、翌日の出社の為に東京の自宅まで帰らなければならなかった。でも、もう少し旅を続けたくて、急遽その宿を予約。翌朝、会社に電話して有給休暇を取った。 問題なのは同伴者だった現在の妻だ。ほぼ同じ職場の同僚だったのだ。こちらも時間差で有給休暇をもらった。なかなかきわどいやり繰りだった。 残念ながらこの宿はもうないようだ。

   
   
   

 「ようこそ木曽へ」の看板繋がりで取り上げた長峰峠であったが、意外と面白かった。特に峠で飼われていた木曽馬の写真が残っていたのを見付けたのはよかった。同時に、時の流れを痛感する、長峰峠であった。

   
   
   

<走行日>
 (1993. 9.12 柳蘭峠→高根村→野麦峠/ジムニーにて)
・1994. 3.22 岐阜→長野/ジムニーにて
・1995. 5. 5 美女峠、岐阜→長野、西野川沿いへ/ジムニーにて
・1997. 4.27 長野→岐阜/ジムニー にて
 (1999. 7.26 月夜沢峠→地蔵峠→木曽福島/ジムニー にて)
・2001. 4.30 西野川沿い、長野→岐阜、柳蘭峠/ジムニー にて
 (2002. 9.30 飛騨高山→美女峠→高根村→野麦峠/キャミにて)
・2007. 8.14 長野→岐阜/パジェロ・ミニにて
 (2008. 8.13 野麦峠→高根村→高根第一ダム/パジェロ・ミニ)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年9月1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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