ホームページ★ 峠と旅
中山峠 (中山トンネル)
  なかやまとうげ  (峠と旅 No.310)
  金山の島・佐渡の歴史を刻む峠道
  (掲載 2020. 4. 4  最終峠走行 2019.10.3)
   
   
   
掘割新道の旧中山トンネル手前 (撮影 2019.10.29)
ここは新潟県佐渡市相川下戸村・佐渡市相川鹿伏
トンネルの反対側は同県同市沢根
道は旧新潟県道(主要地方道)31号・相川佐和田線
坑口付近の標高は約80m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは中山峠の2代目となる掘割新道の峠
この先に明治18年開通のトンネルがある筈なのだが、怖くて近付けなかった
この寂れた場所も、中山峠の歴史の一コマである
 
 

   

大佐渡山地の峠(余談)>
 佐渡島の大佐渡山地を横断する峠として、ドンデン線の峠石名越黒姫越と続けて掲載した。 すると、次は山居越(さんきょごえ)の番だが、ここはあまり面白くない。大佐渡山地の中では最も北に位置し、山地の標高もグッと下がって来ている。 現在は市道海部幹線4号線が内海府海岸の北小浦(きたこうら)と外海府海岸の真更川(まさらがわ)を結んでいて、峠(道の最高所)の標高は420m弱のようだ。 昭和の終りくらいまで悪路だったそうだが、現在は完全なアスファルト舗装になっている。峠はなだらかで、どこが峠だかはっきりしない程だ。石名越・黒姫越などと比べると険しさは微塵もない。そもそもここに掲載しようにも、山居越の写真を撮っておかなかった。
 
<中山峠>
 大佐渡山地を越える車道の峠としては、他に目ぼしい峠はない。山居越とは真反対の南の端に中山峠があるが、現在は立派な中山トンネルが通じている。 元の中山峠には行ったこともない。しかし、他の峠に比べるとその歴史は深く、佐渡の峠の中では最も歴史的価値があるのではないかと思う。全く中途半端な掲載になるが、中山峠に関してここで少し触れておきたいと思うのであった。

   

<所在>
 峠は大佐渡山地主稜をほぼ南北方向に越えている。南側は佐渡市沢根(さわね)、旧佐和田町(さわたまち)の沢根。北側は佐渡市相川下戸村(あいかわおりとむら)、旧相川町(あいかわまち)の相川下戸村。ただ、旧相川町は多くの細かい住所に分かれていて、佐渡市相川鹿伏(あいかわかぶせ)とも関わる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 中山峠は標高が140m(角川日本地名大辞典より)と低く、そこから流れ下る川も小さい。あまり水系にこだわってもしょうがないようだが、一応調べてみた。旧佐和田町側は質場川水系で、旧相川町側は海士町(あままち)川水系となるようだ。

   

<中山街道>
 中山峠の歴史は、寛永6年(1629年)に相川と沢根を結ぶ中山街道(現在は中山旧道などとも)が開通した時を始まりとするようだ。それ以前にもこの地に何らかの峠道が通じていたかもしれないが、少なくとも重要な公道(江戸幕府の官道)として世に登場して来たのはこの時からとなるらしい。

   

<青野峠の後継>
 中山峠以前の慶長年間(1596年〜)から寛永年間(1624年〜)にかけては、青野峠(あおのとうげ)が主役であった。大佐渡山地の稜線上、中山峠よりずっと北に位置し(地形図)、青野(旧佐和田町青野)と上相川(旧相川町上相川)とを結んでいた。かつての青野峠は青野側から相川金銀山への物資輸送路として使われたらしい。現在、この峠に車道は通じていない模様だ。
 
 寛永年間と言えば、関ケ原(1600年)の後、大坂夏の陣(1615年)も終わり、戦乱のない太平の世が始まっている。 日本の近世・江戸時代の初期で、佐渡ヶ島に於いても徳川幕府による経済改革が進められたのではないか。その一環とし、相川金銀山開発も促進され、青野峠に代わる新たな中山街道が開削されたのではないかと思う。
 
 青野峠は現在の観光名所「道遊の割戸」で象徴される相川金山へと上流側から至る。しかし、精錬所や佐渡奉行所は麓に建設された。金山との間で直接物流を行うには青野峠は便利であったろう。 しかし、佐渡奉行の往還、運上金銀の輸送などには中山街道の道筋の方が有利である。標高も青野峠が420mであったのに対し、中山峠は僅かに140mでしかない。こうした点から、新たに中山街道の開削が想起されたのではないだろうか。

   

<峠名>
 「中山」という峠名は多い。旧東海道の中山峠などは好例だと思う。 この場合の「中山」は、「谷の間にある尾根」という程の意味だったそうだ。地理的な状況を表している。
 
 一方、佐渡の中山峠には、旧佐和田町側に「中山」という地名が存在する。江戸期からの沢根村には、羽二生・野坂・須川・河内・中山・鶴子・質場・田上の8集落があったそうだ。 その一つの中山集落は真野湾沿いからは離れた山中にあり、その集落の側に中山街道が通じた。この中山という地名と中山街道・中山峠は無縁ではないと思う。ただ、「中山」そのものの由来は、「山の中にある」というような、やはり地理的要因があったかもしれない。
 
 ところで、司馬遼太郎の「街道をゆく 10 羽州街道・佐渡のみち」(朝日新聞社 1983年1月20日発行)を読んでいると、峠付近に中山という「」があったように書かれていた。 しかし、地形図などにはそのような名の山は見られないし、この付近は大佐渡山地ももう尽きようとしているので、山らしい山が少ない。もしかすると中山集落がある所は尾根上の広い台地にあり、その特徴からその場所を中山と呼び、集落名にもなったのかもしれないと想像した。

   

<相川街道>
 中山街道とは沢根から峠を越えて相川に至る峠道区間を指していると思う。一方、本州から佐渡ヶ島に渡った後、陸路を佐渡奉行所がある相川まで至る道を相川街道などとも呼んだようだ。中山街道は広い相川街道の一部とみていいのだろう。

   

<掘割新道>
 変化を嫌う保守的な政権であった徳川幕府の元、約260年の長きに渡って中山街道は営々とその役割を演じて来たことと思う。10年一日のごときではなかったか。やがて明治維新が到来する。 革命後にくすぶる反政府活動も、明治10年の西南戦争で西郷隆盛の死と共に収束の方向となる。西南戦争中には木戸孝允が病死、よく明治11年には大久保利通が暗殺される。 こうして維新の立役者が次々消え行く中、明治政府は日本の近代化を強権的に推し進める。佐渡ヶ島にもその近代化の波が押し寄せた。
 
 明治18年(1885年)、中山街道に代わる車道が開通する。「掘割新道」と呼ばれた。 それまでの中山街道の沢根側は、比較的早い段階で尾根へと登り、そこから峠へと向かっていた。中山集落はその尾根上の広々した台地に位置する。 それに代わる新道は、大きくコースを変えて川沿いの谷間を進み、最後に大佐渡山地の主脈をトンネルで抜けることとなった。「掘割」の名は、こうした谷間を行く道というような意味ではないかと想像する。
 
 近世の沢根村は中山街道の開通でその繁栄の基礎としたが、近代の沢根村は掘割新道が幹線道路となることで街道筋の賑わいを失って行った。こうした庶民の痛みを伴う改革は、変革期の政府ならではであろうか。

   

<中山トンネル>
 掘割新道は現在の新潟県道31号(主要地方道)・相川佐和田線のほぼ原型と言っていいようだ。ただ、現在の道路地図や地形図に描かれる中山トンネルは平成元年(1989年)竣工の新しい方である。 掘割新道当時の古いトンネルは見られない。しかし、ちょっと古い道路地図を調べてみると、ちゃんと2つのトンネルが並んで描かれていた。現在のトンネルの北側に通じていたようだ。 掘割新道開通後約100年、今はその新道も忘れ去られて行く。

   
   
   

相川側

   

<お断り>
 普通の観光旅行のついでにちょっと中山街道に立寄った程度なので、峠の様子などあまり詳しい内容が示せない。その点はご了承を。

   

<県道31号>
 以前の新潟県道31号・相川佐和田線は相川市街で新潟県道45号・佐渡一周線に接続していたが、最近は市街を山側にバイパスし、大佐渡スカイラインの観光佐渡金山方面と繋いでいる。 観光には非常に便利だ。その道を金山方面から来て、後もう少しで相川市街への道に出るという辺り、大型観光バスでも余裕の道が山を削って通る。その上空辺りにかつての中山街道が通じていたらしい。

   

金山方面より県道31号を来る (撮影 2019.10.29)
前方の丁字路で相川市街への道に接続する
この上空辺りに中山街道が通じていたらしい

左の場所を金山方向に見る (撮影 2019.10.29)
三菱自動車の脇を細い道が分かれるが、
それがほぼ中山街道の道筋
   

県道31号を沢根方面へ (撮影 2019.10.29)
右手に「相川へまたどうぞ」の看板が立つ

<沢根方面へ>
 沢根方面への県道に曲がると、「相川へまたどうぞ」の看板が見送ってくれる。
 
 
<相川側旧道分岐>
 T字路から100m程行けば、左手に分岐がある(下の写真)。入口に小さい看板だが、「キリシタン塚」と案内がある。この塚は中山峠にある。中山峠とか中山旧街道などの案内はないが、峠へはこの「キリシタン塚」を目標にすれば良さそうだ。また入口には、何か企業の看板が立ち、「大型ダンプ出入り口」ともある。

   

左に旧道分岐 (撮影 2019.10.29)
左手に「キリシタン塚」の案内看板が立つ

旧道入口 (撮影 2019.10.29)
企業の看板が立つ
   

県道を相川市街方向に見る (撮影 2019.10.29)
「美人多し ゆっくり走ろう 佐渡の道 金山のあいかわ」の看板

旧道分岐を相川市街方向に見る (撮影 2019.10.29)
右の旧道は左の駐車帯へと繋がっていた
   

入口反対の駐車帯 (撮影 2019.10.29)

<掘割新道>
 ここからは入る旧道は、まずは掘割新道の道筋となるようだ。現県道とは交差するような感じだが、旧道入口とは反対側にちょっとした駐車帯がある。掘割新道はそちらをぐるりと回って相川市街へと向かって行ったようだ。

   
相川市街方向に見る分岐の様子 (撮影 2019.10.29)
入口に「キリシタン塚」の矢印看板が立つ
県道31号はこの先で佐渡金山方向に曲がって行く
   
   
   

掘割新道へ

   

<道の様子>
 車の絶えない大幹線路となる県道31号から分かれた旧掘割新道は、ひっそりしている。暫くは山を深く切り崩した高い擁壁の間を抜ける。 現県道との接続の為、路面を元よりやや切り下げた可能性があり、現在のコンクリート路面は昔とは違うかもしれない。更に古い中山街道はこの上空に通じていたらしく、掘割新道開削により、ここでも中山街道が分断されたようだ。

   

掘割新道を峠方向に見る (撮影 2019.10.29)

左の箇所を現県道方向に見る (撮影 2019.10.29)
この辺りの上空に中山街道が通じていたようだ
   

<中山街道への分岐>
 掘割新道を100mも進むと、右手に細く急坂の舗装路が分かれて行く。そちらを例のキリシタン塚の看板が指している。現在、中山峠前後に残る中山街道への入口となる。並んで立つ標柱には次のようにある。
 
 市指定文化財 中山旧道
 史跡 平成十六年三月一日
 佐渡市教育委員会 生成二十四年八月 設置


右手に中山街道への分岐 (撮影 2019.10.29)
   
キリシタン塚の看板 (撮影 2019.10.29)
   

<古い旅行ガイドブック(余談)>
 私が初めて佐渡を旅行した時に使っていた古い旅行ガイドブック(昭和62年発行)には、中山峠の紹介文として「中山トンネルから相川側に500〜600メートル、道路左手にキリシタン塚入口の標柱が見える」と書かれていた。 現在の中山トンネル(平成元年竣工)から相川方向に進むと、ここに至るには一旦右に曲がることになる。左右が逆で、これは誤記かと思った。 しかし、旅行ガイドの言う「中山トンネル」とは、掘割新道の方の中山トンネルであったようだ。峠方向から掘割新道を下って来ると、確かにキリシタン塚は左手方向になる。

   

中山街道への分岐を県道方向に見る (撮影 2019.10.29)

中山街道へと上がる道 (撮影 2019.10.29)
   

中山旧道の看板 (撮影 2019.10.29)
看板中の中山旧道略図については、
次の中山供養塔の看板の物とほぼ同様なので、
そちらを参照のこと

<中山旧道の看板>
 坂道を登る途中に「中山旧道」と題した看板が立つ。そこに中山街道に関する簡単な説明がある。まず、「相川街道」の一区画として、相川札ノ辻(ふだのつじ)と相川小路(こうじ)(沢根)を結んだとある。
 
 開通は寛永5年(1628)頃とみられるとある。文献(角川日本地名大辞典)の寛永6年とはちょっと異なる。
 
明治18年(1885)の新道開通」の「新道」とは、掘割新道のことだろう。

   

看板の説明文 (撮影 2019.10.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

看板の紹介写真 (撮影 2019.10.29)
   

 看板では中山旧道沿いに残る史跡がいろいろ紹介されている。峠には「峠の茶屋跡」や「キリシタン塚」があるようだ。「中山一里塚」は沢根側の中山集落へと続く車道沿いにあり、容易に見ることができる(後述)。

   

<中山供養塔>
 中山旧道の看板の先を少し行くと、中山供養塔(新獄門城跡)がある。ただ、獄門場の様な大きな遺構が残る訳ではないようだ。ここから相川市街方向への中山街道は掘割新道などの開削で途切れているが、峠方向に旧道が残るようだ。
 
<中山旧道略図>
 中山旧道略図には「掘割新道」の文字が見える。現中山トンネルの区間を別ルートで越えていた道筋も記されていた。但し、「※トンネルは廃道」ともある。
 
 中山峠方面から相川側に流れ下る川は海士町川(あままちがわ)と呼ぶこともこの図で分かる。こうした小さな川については、なかなか名前が分からない。
 
<峠は断念>
 中山街道へと登る道に車両通行止などの看板はない。しかし、車が入ってよさそうな道には到底思われない。登った先の様子も皆目分からない。 せめてキリシタン塚までの距離や時間が分かれば、歩いてみようかどうかの判断も付くが、そうした情報もない。入口近くに車を停められるスペースもないので、あまり長居はできない。いろいろあって、結局峠へは行かないことにしたのだった。


中山供養塔の看板 (撮影 2019.10.29)
   

中山旧道略図 (撮影 2019.10.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

中山供養塔の説明文 (撮影 2019.10.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   

掘割新道の相川側

   

<道の様子>
 掘割新道を先へと車を進める。幅の広いコンクリート舗装路が続く。離合する車が一台あった。掘割新道自身はもう沢根側に通り抜け出来ないが、この先に企業の敷地や建物があり、その為に車道はしっかり保守されているようだ。新しい中山トンネルが開通して約30年になるが、この部分はだけ掘割新道が残っている。


道の様子 (撮影 2019.10.29)
   

左に分岐 (撮影 2019.10.29)

<分岐>
 現県道から分かれて掘割新道を進むこと約800m、左に道が分かれて登って行く。その先に企業の敷地があるようだ。

  
掘割新道の通行不能箇所 (撮影 2019.10.29)
  

<掘割新道通行不能>
 掘割新道は更に真っ直ぐ大佐渡山地の主脈へと突き進むが、分岐の先は大荒れだ。車は入れず、あとは歩いて行くしかない。 しかし、草木がうっそうと茂り、薄気味悪い。峠道を探訪はするが、身の危険を感じるような探検・冒険はしないことにしている。ここでもあっさり諦めて引き返すこととした。

   
掘割新道は廃道状態 (撮影 2019.10.29)
この先には何が待っていたのだろうか
   

<旧中山トンネル>
 大佐渡山地をトンネルで抜ける掘割新道について、明治18年の開設ということくらいしか分からない。手持ちの旅行ガイドブックでは中山トンネルと記していたが、正式な名もはっきりしない。 開通当時なら「トンネル」ではなく「隧道」となる筈だが、果して「中山隧道」と呼んだかどうか。掘割新道は中山峠の名に深く関わる中山集落を通過していないのである。全く別の名称を付けた可能性も残る。
 
 地図から推察してトンネル延長は370m前後ではなかったか。現在の中山トンネルは700m余りであり、大差という程ではない。 明治18年当時に佐渡という島でのトンネル開削は、なかなかの大工事ではなかったか。大佐渡山地を抜ける初めてのトンネルだったろうが、今でも中山峠以外に大佐渡山地をトンネルで越える峠はなさそうだ。


分岐から相川市街方向を見る (撮影 2019.10.29)
昭和の時代では、
この道を通って佐渡金山観光などに向かったのだろう
   

 明治期に造られた車道のトンネルで、現存する物としては明治30年開通の旧伊勢神隧道(伊勢神峠)や明治38年の天城山隧道(天城峠)を思い出す。 旧中山トンネルは更に古いが、現存する訳ではない。また、途中で改修されたりして、開通当時の物がそのまま100年以上に渡って使われ続けて来た訳ではないだろう。 少なくとも昭和の時代まで、このトンネルを通って相川金山や尖閣湾などへ観光客が訪れたのだ。果して今現在、どのような坑口があの草むらの向こうに眠っているのか、誰か見て来てくれないかと思う。

 
   
   
   

中山トンネル

   

中山トンネル相川側坑口 (撮影 2019.10.29)

<相川鹿伏>
 中山峠の旧相川町側の住所地はちょっと複雑だ。全部が相川下戸村(あいかわおりとむら)と言う訳ではないらしい。どうやら掘割新道を境に、その東側が相川下戸村、西側が相川鹿伏(あいかわかぶせ)となるようだ。
 
 旧掘割新道から現県道31号に戻り、中山トンネル方向を目指す。そこは相川鹿伏の地である。中山トンネルは佐渡市沢根と佐渡市相川鹿伏の境となる。

   

<中山トンネルの役割>
 これまで大佐渡山地を越える峠を幾つか掲載して来たが、それらに共通するのは、佐渡の中心地となる国中平野方面と、交通不便な外海府海岸に点在する集落とを繋ぐ生活路の側面があったことだ。 現在でも国中平野に面する両津港は、本州から佐渡に渡る時の表玄関であり、その地と外海府海岸方面を結ぶ道路は極めて重要である。 しかし、ドンデン線の峠を始めとし、現代の自動車物流に耐えるような峠道は存在しない。唯一、中山トンネルだけが物流や観光などにも供することができる。 この道と佐渡の周囲をぐるりと巡る県道45号・佐渡一周線とを組み合わせ、外海府海岸方面の陸路が確保されている。それにしても、中山トンネルはあまりに大佐渡山地の南の端にある。 ドンデン線の峠の西側起点となる入川(にゅうがわ)などへは、随分遠回りだと思わざるを得ない。ともあれ、中山トンネルは佐渡の中で最も使われる峠道であろう。


中山トンネル沢根側坑口 (撮影 2019.10.29)
  
沢根側からトンネルを眺める (撮影 2019.10.29)
何やら右手奥に道が延びるようだ
   

<掘割新道分岐>
 これは後で分かったことだが、沢根側の掘割新道はトンネル坑口向かって右手奥に分かれて行ったようだ。
 
 事前に詳しく調べておけばよかったのだが、峠探訪はいつも場当たり的である。悪路だったり通行止だったりで、どれだけ時間が掛かるかも検討がつかない。 それでいつも成り行き任せにしている。また、今回の佐渡旅行ではドンデン線の峠や石名越、黒姫越が主目的で、中山峠はほとんど眼中になかった。
 
 そんな訳で、掘割新道の沢根側の様子は全く分からず仕舞いとなった。
 
<トンネル標高>
 ちょっと不思議だが、新旧の中山トンネルでその坑口標高はほとんど差がない。80m前後である。それでいてトンネル延長が違うのが面白い。


右へ掘割新道の道が分かれる (撮影 2019.10.31)
  

<掘割新道の名>
 中山トンネルの沢根側は直ぐにも狭い谷底だ。質場川に沿う。その道筋は掘割新道と呼ばれた頃とあまり変わりない。一方、中山峠を越えていた中山街道は、中山集落が立地する尾根近くに通じていた。 道筋もその様相も全く異なる。中山街道に代わる新道が暗い川筋に通じたことにより、「掘割」という名が付けられたように思えてならない。

   
   
   

林道国仲北線(余談)

   

<林道国仲北線へ>
 中山トンネルを沢根側に抜けて数100m行くと、左手に林道国仲北線が分かれる。この林道は峠道には直接関係しないが、掘割新道(現県道31号)と中山街道とを繋ぐ道となる。

   

県道31号を沢根方向に見る (撮影 2019.10.31)
左に林道国仲北線が分かれる

林道国仲北線入口 (撮影 2019.10.31)
   

<林道入口の様子>
 まず目を引くのは鶴子銀山の看板である。相川の金銀山は有名で大規模に観光地化もされたが、鶴子銀山も沢根の繁栄に寄与した佐渡第一の銀山だったそうだ。林道国仲北線を進んだ先にある。他に林道看板が立つ。

   

鶴子銀山の案内看板 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

林道国仲北線の看板 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
    

林道国仲北線より県道方向を見る (撮影 2019.10.31)
右手に道らしき跡がある

<古い道>
 これも後で気付いたが、県道から入って直ぐ、峠方向に道が分かれる。もう使われている様子はなく、廃道同然だ。掘割新道の一部かと思ったりもしたが、そうではなさそうだ。新しく掘割新道が開削された時、新道側と元の中山街道を繋ぐ道があったのではないかと想像した。
 
 林道を少し進むと、また林道国仲北線の看板が立っていた(下の写真)。

   

また林道国仲北線の看板 (撮影 2019.10.31)

林道国仲北線の看板 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   

中山街道

   

小さな十字路に出る (撮影 2019.10.31)
手前が県道方向

<中山街道に接続>
 林道国仲北線を600mも行くと、小さな十字路に出る。林道に交差するのが、中山街道であった。左に行けば中山峠、右が中山集落方面である。林道国仲北線は更に直進して行く。

   
十字路から中山峠方向を見る (撮影 2019.10.31)
   

<峠方向の道>
 十字路から中山峠方向へは未舗装路が延びる。車の轍の跡が見え、狭いながらもどうにか一車線幅をキープした車道である。 但し、「一般車両 進入禁止」の標識が立っている。
 側らには中山旧道の標柱が立つ。相川側の掘割新道から中山街道への入口にあったものと同じだ。小さな木製の道標には「左 キリシタン塚へ、右 鶴子銀山へ 1.4KM」とある。

   

峠方向の道は進入禁止 (撮影 2019.10.31)
中山旧道の標柱などが立つ

分岐に立つ看板など (撮影 2019.10.31)
道標には「左 中山一里塚 650m」とある
   
林道国仲北線を鶴木銀山方向を見る (撮影 2019.10.31)
   

<佐和田町>
 この十字路には標柱や道標があるが、林道国仲北線の看板が一番分かり易い。
 
 看板の管理者「佐渡市」とあるところが剥がれ掛けている。元は「佐和田町」とあったようだ。今では佐渡全島が佐渡市になってしまい、中山峠の境も地図上では明確ではない。以前なら佐和田町(さわたまち)と相川町の町境であり、その境界線がしっかり描かれていた。
 
 佐和田町は昭和29年に沢根町の他、河原田町・二宮(にくう)村・八幡村の計4町村が合併して成立している。町名はかつて4町村が属していた雑太郡(さわたぐん)にちなむそうだ。「雑太」に「佐和田」の字を当てたのだろう。雑太郡は明治29年に佐渡郡の一部となっている。


林道看板 (撮影 2019.10.31)
   

十字路より中山集落方向を見る (撮影 2019.10.31)
この地は昔の沢根村

<沢根(余談)>
 佐和田町の一部となる前の沢根町は、明治34年に五十里(いかり)町と「沢根町村」が合併して成立している。この辺りからよく分からなくなってくる。 沢根町村は明治22年に「沢根町」と「沢根村」が合併してできたそうだ。増々混乱してくる。 どうやら、江戸の昔から沢根町と沢根村と、「沢根」が付く地名が2つあったようだ。現在、佐渡市沢根町と呼ぶ地が昔の沢根町で、佐渡市沢根が沢根村のことであろう。 中山峠のこちら側は昔は沢根村であった。その村に中山や鶴子といた8集落が点在する。

   

中山峠への道 (撮影 2019.10.31)
左上に祠

<中山峠への道>
 峠への道に向かって左手奥に祠がある。やや不自然に高い位置にある。そればかりが古く、道の方は改修されてかつての面影はないのではないか。 竹藪の中を行く暗く寂しい道で、一般車両は入れないし、さりとてあまり歩きたい道ではない。キリシタン塚と案内があっても、そこまでの距離は示されていない。往復どのくらい時間が掛かるか分からない。この十字路近辺に長く車を停められるスペースもない。
 
 しかし、峠を前にこのまま引き下がる訳にもいかず、林道国仲北線の路肩の隅に車を停め、峠方面へ歩いてみることとした。

    

祠 (撮影 2019.10.31)
中山街道の名残

祠の中 (撮影 2019.10.31)
   

<亀甲石>
 いつものことながら、この中山峠について事前調査はしていないが、ただ、この十字路から少し入った所に「亀甲石」なるものがあることを地形図などを見て知っていた。どんな物かさっぱり分からないが、中山街道に関わる何かの史蹟であろう。道の左手にあることになっている。峠方向に歩き出しながら、左の竹藪の中を注意して見ていた。
 
 どうやら奥の方に建物があるようだ。そこに亀甲石があるかとも思い、脇道に入ってみた。しかし、屋敷の敷地は既に荒れ果てていて近付けなかった。


中山峠への道 (撮影 2019.10.31)
歩くには寂しい道だ
   

<道の様子>
 轍のある道はまだまだ続いた。車一台が十分通れる幅を維持している。しかし、司馬遼太郎の「街道をゆく」では「廃道」と書かれていて、往時でも細い道であったようだ。 社や屋敷が現在の道筋から少し離れていることを見ても、その後に車が走れる程度に道が改修されたものと思う。多分、かつての中山街道の面影はあまり残ってないのだろう。
 
<引き返し>
 十字路から100m程歩いてみても亀甲石は見付からないし、道は寂しいしく峠はまだまだ先のようだしで、結局引き返すこととした。今回は掘割新道のトンネル坑口も、中山峠も見ず仕舞いで、全然峠に肉薄できていなかった。
 
 後で地図をよくよく調べてみると、峠前後に残る中山街道は延長1.8Km程で、沢根側の林道国仲北線との十字路から約0.8Km、相川側の掘割新道からの入口より約1Kmである。 沢根側からの方が近く、往復1.6Kmなら歩いて30分も掛からなかったろう。峠くらいは見ておけばよかったと、後悔ばかりが残った。

   
   
   

鶴子銀山(余談)

   

<鶴子銀山へ>
 旧沢根村には相川金銀山へと続く中山街道が通じ、それにより繁栄したが、地内にも鶴子銀山を有し、昭和初期まで採掘が続けられたそうだ。ついでなのでちょっと寄ってみた。考えてみると、峠とはほとんど関係なかった。

   

林道国仲北線を進む (撮影 2019.10.31)
左手に鶴子銀山入口が出て来る

鶴子銀山 (撮影 2019.10.31)
   

<鶴子銀山>
 林道国仲北線を先に進むと左手に鶴子銀山が出て来る。相川の金山は大規模に観光地化されて多くの観光客が訪れるが、この鶴子銀山を訪れる者は少ないようだ。ただ、敷地はきれいに整備され、散策がてらにのんびり見学するには良さそうだった。

   

鶴子銀山の標柱など (撮影 2019.10.31)

鶴子銀山の看板 (撮影 2019.10.31)
   

 案内図を見ると、鶴子銀山は奥に深く、主だった所を見るだけでも時間が掛かりそうだった。結局、ちょっと覗いただけで引き返すことにした。こんなことなら、やっぱり中山峠を見てくればよかった。
 
 案内図中、中山街道は「相川往還」と出ている。現在残る道筋が旧道であることは間違いないようだ。


鶴子銀山の看板の案内図 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   

中山街道沿い

   

<中山集落へ>
 林道国仲北線を戻って中山街道を中山集落方向へ進む。道はしっかりしたアスファルト舗装だ。明治18年(1885年)に掘割新道か開通して以来、幹線路としての役目を終えた道である。 今は地元民が時折使うばかりだろう。多分、この先の中山集落の者が相川方面に行く場合、林道国仲北線経由で県道31号に出る時に通るくらいではないか。
 
 間もなく「中山ご案内」と書かれた素朴な看板が立っている。集落に点在する家々が記されていた。苗字に並んで何か屋号のような片仮名が書かれている。

   

中山街道を中山集落方向へ進む (撮影 2019.10.31)
「中山ご案内」の看が出て来る

「中山ご案内」の看板 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<ゲイギ塚など>
 相川市街は大きく変貌し、そこに通じていた中山街道もその面影を残すことは少ないだろう。 一方、沢根の中山集落付近は、幹線路から大きく外れたことにより、沿道の史蹟も比較的往時の様子を留めているようだ。 ゲイギ塚とか法華塚などなど、看板も整備されていて簡潔な説明が書かれている。ただ、いちいち立止って読んでいると、なかなか先に進めない。

   

左手にゲイギ塚 (撮影 2019.10.31)

ゲイギ塚 (撮影 2019.10.31)
   
ゲイギ塚の看板 (撮影 2019.10.31)
   

<民家>
 沿道にはポツポツ民家も見られるようになる。道が通じる地形は尾根筋なので、比較的平地が多い。昔はもっと家が立ち並んでいたのではないかと思う。

   

右手に民家 (撮影 2019.10.31)

民家を峠方向に見る (撮影 2019.10.31)
   

<中山一里塚>
 この沿道での一番の見所は中山一里塚であろう。日本各地で一里塚跡を見掛けるが、大抵はもう塚が全くなくなっていて石碑だけが立っていたり、仮に塚が残っていも道の片側だけになっていることが多い。 その点、中山一里塚は左右一対で残っている。掘割新道により中山街道が旧道の身となったお陰である。道の大規模な拡幅工事が行われていたら、少なくとも片方の塚は取り壊されていた筈だ。 アスファルトの車道で対の一里塚を見たのは、これが初めてだと思う。

   
中山一里塚 (撮影 2019.10.31)
道の左右に塚がある
   

左の塚 (撮影 2019.10.31)
塚の下に六地蔵が祀られる

右の塚 (撮影 2019.10.31)
   

六地蔵や石碑 (撮影 2019.10.31)

<石室>
 珍しいことに、片方の塚に石室が築かれていて、中に六地蔵が安置されている。塚が崩れないように塚の上に松や榎などの木が植えられるということを読んだ覚えがあるが、この様な構造の塚もあったのか。
 
 中山一里塚の少し峠寄りに茶屋もあったようだが、今ではほとんどそれらしい跡は見られなかった。塚の周辺には五輪塔らしき古い石柱や、「天下太平」と刻まれた石碑などが並ぶ。歴史に詳しい方なら、なかなか興味深い物かもしれない。

   
中山一里塚の看板 (撮影 2019.10.31)
   
   
   

中山集落

   

<中山集落へ>
 中山一里塚の少し先で、右手に大きな道が分かれる。直進の方が「沢根」で、狭くて急な坂になっている。分岐する方に「中山」とある。そちらに進む。

   

右に分岐 (撮影 2019.10.31)

分岐は中山を指している (撮影 2019.10.31)
   

<中山集落>
 広い台地の上に中山集落は広がり、その中を2車線路の道がやや屈曲しながら進む。建物はゆったり点在し、田畑も多い。ほとんどが民家だが、中にはちょっと近代的な建物も見られた。 何かの企業でもあるのか近辺に多くの車が停められていた。峠の方から来ると、急に街中に入って来たように思える。かつては金山・銀山で繁栄した中山集落だったろうが、現在はどのような生業で暮らしているのだろうかと思う。

   

中山集落へ (撮影 2019.10.31)

中山集落内の道 (撮影 2019.10.31)
   
中山集落の様子 (撮影 2019.10.31)
峠方向に見る
   
中山集落の様子 (撮影 2019.10.31)
峠方向に見る
やや近代的な建物が立つ
   

<中山(余談)>
 司馬遼太郎の「街道をゆく」では、峠が越える山を「中山」と呼んだとあるが、その名を冠した中山集落は完全に沢根側にある。 また、集落内を車で走ってみても、ここがまだ峠道の途中とは思えないような広々とした平地が広がる。この地形の様子を「中山」と称したのではないかと思えてならない。
 
 
<集落以降>
 集落を過ぎると道は台地を離れ、一気に川沿いへと下って行く。


中山集落を過ぎて下り坂になる (撮影 2019.10.31)
   

川沿いに下って来た (撮影 2019.10.31)
左手前より峠からの道を合する

<峠道合流>
 下り切った先では田んぼが広がる。そこで五叉路に出るが、左手前から合流して来たのが、中山集落を経由せずに中山一里塚方面から直接下って来た道だ。そちらが峠道の本線に思われる。ただ、峠を往来する者によっては、中山集落を経由することもあっただろう。
 
<鬼坂>
 「中山旧街道略図」の看板ではこの付近の道を「鬼坂」と記している。荷を運ぶには苦労した坂道だったのだろう。

   
五叉路より峠方向を見る (撮影 2019.10.31)
正面が中山集落へ、右が直接峠方面へ
   

道の様子 (撮影 2019.10.31)
峠方向に見る

<田舎道>
 鬼坂の後は川筋に近い平坦路が続く。のどかな田舎道だ。周囲は水田ばかりで人家などはまだない。
 
 
<播磨川>
 峠は質場川水系にあると地形図で読めるのだが、中山集落から下って来ると、道は播磨川沿いになっていた。中山集落は質場川と播磨川の分水界上に位置するようだ。

   

<真野湾沿い>
 道は真野湾沿いの幹線路に丁字路で接続する。ただ、現在の県道45号・佐渡一周線は少し海側に新しく通じていて、峠道が接続したのは街中を通る旧道である。この真野湾に面して広がる集落は佐渡市沢根町となるようだ。
 
<分岐の様子>
 分岐には「中山一里塚、中山旧街道」とか「中山入口です」、「左鶴子銀山へ2.3KM」などと案内がある。


真野湾沿いに出る (撮影 2019.10.31)
直接は県道45号に出られない
   
分岐に立つ看板など (撮影 2019.10.31)
側らを流れる播磨川に架かる橋は播磨川橋
   

<峠道起点>
 ここが中山峠の道・中山街道の旧佐和田町側起点である。昔もそうだったのではないだろうか。

   
分岐の様子 (撮影 2019.10.31)
右が中山峠へ
「鶴子銀山・代官屋敷」、「かなくそ平」といった案内看板が立つ
   

<小木街道(余談)>
 小佐渡山地の南端に小木(おぎ)港があり、佐渡では本州に最も近い港の一つになる。江戸期は、近代以降に開発された両津港ではなく、小木港が佐渡の玄関口であった。 相川にある奉行所へ向かう佐渡奉行などの多くも、小木港に上陸し、そこから陸路相川を目指したそうだ。 司馬遼太郎の「街道をゆく」では、その道を「小木(おぎ)街道」と記している。 相川と小木を結んだので、「相川街道」とか「小木街道」と呼んだのだろう。佐渡に於ける唯一の官道であり、それによって一里塚も設けられた。
 
 今でも小木港を発った国道350号が小佐渡山地をちょっと越え、その後真野湾沿いに沢根方面へと進む。それが概ね小木街道である。 ただ、国道は途中から「国なかみち」で国中平野を突っ切り、両津港へと至る。小木街道は更に真野湾沿いに進み、沢根町から中山街道に入ったようだ。中山街道は小木街道の一部ということになるのだろう。
 
 この道を伝って無宿人たちが過酷な鉱山労働へと駆り出されて行ったこともあったろう。小木街道(中山街道)には相川金銀山に纏わる悲喜こもごもの歴史が刻まれている。

   
   
   

 中山峠は車で訪れるような峠ではなかった。快適な中山トンネルを抜けるだけではあっと言う間で、歴史など感じる暇はない。 復元された佐渡奉行所などの整った施設を観光するのもいいが、山中にひっそり残る峠道を歩けば、金山の島・佐渡をより実感できたかもしれないと思う、中山峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2005. 5. 1 相川町から山中トンネルにて佐和田町へ キャミにて
・2019.10.29 旧相川町側の掘割新道へ ハスラーにてて
・2019.10.31 旧佐和田町側の中山街道へ ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・ブルーガイドブックス 17 佐渡・越後路 昭和62年発行 実業之日本
・街道をゆく 10 羽州街道・佐渡のみち(司馬遼太郎 朝日新聞社 1983年1月20日発行)
・佐渡の観光パンフレット各種
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2020 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
峠と旅          峠リスト