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野麦峠
 
のむぎとうげ
 
日本で唯一と呼ばれる「峠資料館」がある峠
 
(初掲載 2011. 4. 14  最終峠走行 2008. 8.13)
 
  
 
 野麦峠 (撮影 2008. 8.13) 
奥が長野県松本市(旧奈川村)
手前が岐阜県高山市高根町(旧高根村)
峠の標高は1,672.2m(峠に建つ一等水準点の碑より)
道は県道39号・奈川野麦高根線、通称野麦街道(飛騨街道とも)
 
 
冬期通行止の期間が長い峠
 
 調べてみると、野麦峠には都合4回、車で登っている。思ったより回数が多いので、これは意外であった。この峠道は冬期通行止の期間が長く、よってなかなか越える機会が少ない峠なのだが、しかしそれで4回が多いと言うのではない。
 
 野麦峠は言わずと知れた「女工哀史」でとてもとても有名である。わたしもテレビ放映された映画「あゝ野麦峠」を見たことがある。峠が舞台として出てくる物語をいくつか知っているが、例えは泉鏡花の「高野聖」(こうやひじり)は、天生峠(あもうとうげ)を舞台としていて、私が好きな小説の一つだ。しかし、ちょっと古いタイプの小説「高野聖」より、最近の人にはこちらの「あゝ野麦峠」の方が、断然有名だと思う。
 
 それで、この野麦峠は観光地化されてしまっていることだろうと、登る前から諦めていたのだ。辺ぴな峠は好きだが、観光客が沢山訪れる峠は苦手である。近場にあって簡単に登れる峠ならともかく、わざわざ遠くまで出掛けて行って、観光地化された野麦峠を4回も訪れている。これが自分には意外に思えたのだ。
 
 野麦峠は女工哀史「あゝ野麦峠」以外に、ある理由でわたしには極めて記憶に深い峠である。それは峠に「峠資料館」があることだ。峠の敷地の一角に「野麦峠の館」という名前の有料施設があり、その中では野麦峠のこと以外に、日本全国47都道府県の主要な峠について、写真展示があったり、そのいわれや歴史、風景などを閲覧できる検索システムが備え付けられているのだ。あるパンフレットには「日本唯一の峠資料館」と出ていた。確かに峠を扱ったこの様な施設は他に聞いたことがない。日本広しと言えども、お金を出してまでわたしが是非入りたいと思う資料館は他にはないのだ。多くの人が「女工哀史」で野麦峠に注目する中、わたしは峠資料館で野麦峠を注目するのであった。
 
 しかし、この峠資料館の存在を知ったのは、何と3回目に野麦峠を訪れた時のことだった。別に峠資料館に足繁く4回も通った訳ではないのだ。しかも、4回目に来た時は、やっぱりお金が勿体なく、あれこれ悩んだ末、資料館には入らず仕舞いだった。それなのに、どう言う訳か野麦峠にはこれまで4回も縁がある。
 
 
一度目の野麦峠
 
 野麦峠は飛騨山脈(通称北アルプス)を越える峠だ。飛騨山脈の最南端に位置する乗鞍岳(3,026m)から南東に張り出した尾根上で、鎌ヶ峰(2,121m)との間に形成された鞍部を1,672mで越えている。東の長野県松本市と西の岐阜県高山市を結ぶ野麦街道(または飛騨街道とも呼ぶ)の丁度中間地点に位置し、街道中の難所である。最近の市町村合併により、峠は正しく松本市と高山市の境となったが、以前は長野県奈川村(ながわむら)と岐阜県高根村(たかねむら)の境であった。峠直下の旧奈川村側には川浦という集落があり、旧高根村側には野麦という集落がある。峠名はこの集落名からきているようだ。野麦峠は、局所的には奈川村川浦と高根村野麦とを結ぶ峠だが、大きくは信州(信濃)松本と飛騨高山を結ぶ約90kmに及ぶ街道の峠となる。女工哀史より古い時代からの深い歴史が刻まれている。
 

長峰峠方面から来て高峰大橋を渡る (撮影 2007. 8.14)
渡った先で右に峠道が分岐する
 野麦峠が北アルプスを越えていることを考えると、改めてこれは凄い峠だと思う。同じく北アルプスを車道で越える峠としては、野麦峠より更に北にある安房峠(あぼうとうげ)が別格的な存在として思い浮かぶ。標高が高く、非常に険しい峠だ。最近になって安房トンネルが開通し、それこそ冬期の通行さえも可能となったが、かつて峠は冬場の深い雪に埋もれ、長い期間冬期通行止となった。
 
 都心から中央高速道路を走って来て、諏訪を過ぎた辺りから直接飛騨高山方面へ抜けようとすると、雪の北アルプスが立ちはだかり、これはなかなか大変だ。安房も野麦も容易には越えさせてくれない。結局、長野県木曽福島の方から国道361号(木曽街道)を行き、野麦峠の南に位置する長峰峠を越えて岐阜県の旧高根村に入ることとなる。大変な迂回路である。
 
 長峰峠を高山の方へと下って来ると、青色をした橋梁の高嶺大橋(高峰大橋)で飛騨川を渡る。とても大きな橋で、いつ来ても見間違うことはない。この橋を渡った所から右方向、川の右岸沿いに分岐している道が野麦峠へと通じている道だ。
 

峠への県道に入って少し行った所 (撮影 1997. 4.27)
もう4月下旬というのに、この日も冬期通行止の看板が出ていた
ここには転回にちょうど良い路肩がある
 まだ野麦峠を一度も越えたことがない頃、この橋を渡ると必ずと言っていい程、野麦峠の道に入ってみた。野麦峠は前述の事情から、それ程訪れたい峠ではなくとも、峠であるからには一度は越えてみたいと思うのが人情だ。国道から分岐するこの道は、主要地方道39号・奈川野麦高根線と言う。一応、主要地方道なのだから、案外通れるのではないかと期待もする。どういう訳か、県道入口には通行止の看板がない。これはと思って少し入って行く。すると右側の路肩が少し広くなった場所があり、そこにさりげなく道路情報の看板が立っている。いわく、
 
道路情報
奈川野麦高根線
冬期通行止
 
 どの部分が通れないかとは書いてないが、多分峠の前後だろう。この先、野麦と言う集落もあるので、冬期と言えどもそこまでは通行可能な筈だ。奈川野麦高根線の全線が通れない訳ではなく、よってここには大々的な通行止の看板もゲートもないのだろうが、この僅かな道路情報の看板だけを信じ、飛騨山脈の峠越えを諦めてあえなく引き返すのかと思うと、何となく釈然としないものがあった。しかし、このまま進んでも仕方がないと、車を転回するには好都合なその広い路肩を使って、国道へと引き返すのであった。
 
 また駄目か、今度も駄目かと、この道路情報の看板を恨めしく思ったが、やっと1993年9月、冬期通行止でない時期に訪れることができた。看板に冬期通行止と出ていないのを確認し、高根村側を峠へと登る。
 
 登り始めると、やや気に掛かることがあった。道が狭そうだ。ただ狭いだけなら、そんな峠道はいくらも経験済みだが、野麦峠は観光地だから観光客の車が多いことだろう。狭い道で対向車と離合するのは気疲れする。何だか急き立てられるように峠まで一気に登ってしまった。
 
 運良く途中で出くわす車は少なかったが、峠に着くとそこには大きな駐車場に車が何台も停まっているではないか。それを見て、一瞬かすかな嫌悪感が湧く。わざわざ駐車できるスペースを探すのも面倒で、車を止めることなく、思わずそのまま峠を素通りしてしまった。
 
 峠を奈川村側に少し下って来て、さすがに一枚の写真も撮ってないのは残念に思い、峠を振り返ってシャッターを切った。 それが右の写真。これだけ見ても何が何だかよく分からない。 後になって撮った他の写真と見比べ、中央に写るのは峠に建つ赤い屋根の茶屋であることが判明した。多分「みねの茶屋」と呼ばれる。 「みね」は「あゝ野麦峠」の主人公「政井みね」から来ている。

奈川村に少し下りた所から峠方向を望む (撮影 1993. 9.12)
樹林の間に見えるのは茶屋「みねの茶屋」
 
 
二度目の野麦峠
 
 こうして野麦峠の初体験は、一枚の写真以外にほとんど何の記憶も残さずに終わった。すると、暫く経ってから後悔の念が湧いてきた。やっぱり少しくらいは峠を見てくれば良かった。しかし、観光客が多いのは嫌だなと思っていると、数年後に絶好の機会がやって来た。
 

二度目の野麦峠 (撮影 1999. 7.26)
赤い屋根は「みねの茶屋」
前掲の写真とほぼ同じ場所より撮影したようだ
 1999年7月26日、奈川村側の峠道の途中から分岐する難路の月夜沢林道(奈川林道)で、月夜沢峠(つきよざわとうげ)を越えようと目論んでいた。その日の前日は林道分岐近くの河原で野宿し、早朝の6時前にはテントを撤収、既に出立の準備を整えていた。これから挑む未知の月夜沢峠を前に気持ちが高ぶる。
 
 そこでふと考えた。ここから野麦峠は目と鼻の先である。以前は多数の観光客に惑わされたが、この早朝ならまだ人の出はないだろう。峠までの往復となるが、それは止むを得まい。月夜沢峠へと勇む足を押し止め、一路野麦峠へとジムニーを走らせたのだった。
 
 驚いたことに、まだ早朝の6時を少し過ぎたばかりだと言うのに、野麦峠には既に2、3台の車が停められていた。本格的なカメラを構え、風景を撮影している男性も見掛けられる。どうも一般的な観光客ではなさそうで、カメラマニアなどだろうが、全く熱心なことだ。ただ、こちらも峠を見るだけの目的で、観光客が居ないこんな朝早くからやって来たのだから、人のことをとやかく言えた義理ではないのだが。
 
 閑散とした広い峠を歩き回り、十分写真も撮って満足し、月夜沢林道へと引き返した。帰りの道中、道路の直ぐ脇で数頭の牛が草を食んでいた。来る時には全く見掛けていなかったので、不意を突かれてびっくりした。ガードレールが柵代わりとなり、路上には出て来ないのだろうが、林の中の暗い道で、牛のような大きな動物に出くわすと、ちょっと恐ろしい。
 
 この二度目の時も、「峠資料館」のある「野麦峠の館」には訪れなかった。早朝なので、まだ開館していなかった筈だが、それ以前に「峠資料館」の存在そのものに、まだ気付いていないのだ。峠では、標識や石碑や風景などには目やカメラを向けるが、一般的な観光施設はほとんど眼中にない。観光お助け小屋やら茶店やら、ぼんやり目には写していても、全く関心が向かないのだ。特に「有料」の臭いがする物からは、目をそらしてしまう。それで「峠資料館」も知らずに帰って来てしまった。

峠からの帰り道 (撮影 1999. 7.26)
道路脇に牛が居てびっくり
 
 
三度目の野麦峠と峠資料館
 
 三度目は今の妻と一緒だった。飛騨高山からの帰りで、正しく野麦街道を松本へと向かう旅の途中での峠越えだった。例の高根村の高嶺大橋の袂より峠道へと入ると、直ぐに工事による通行止の看板が出てきた。冬期の通行止だけでは飽き足らず、何かと通行を阻む峠道である。看板には時間通行止とあり、その刻限まで後15分しか残っていない。これはと慌てて走り出したのだった。
 
 工事箇所は無事に通り過ぎることができ、峠に着いた。今回は旅の連れが居ることもあって、一般の観光客に混じって峠を観光することとあいなった。ぶらぶらと特に入る気もないまま「野麦峠の館」の付近を散策していると、「峠資料館」の文字が目に付いた。
 
 この世に「峠資料館」なるものが存在するとは思ってもいなかったので、なかなか事態が飲み込めない。一体どんな資料が展示してあるというのだろうか。とにかく入らない訳にはいかない。

高峰大橋の袂付近 (撮影 2002. 9.30)
工事による通行止の看板が左に立っていた
(右手に橋が見えるが、あれは?)
 

「野麦峠の館」入口 (撮影 2002. 9.30)
この中に峠資料館がある
 手元に「野麦峠の館」の入館券とパンフレットが残っている。入館券には「大人500円」とある。パンフレットによると、平成3年(1991年)7月のオープンだそうだ。一度目の野麦峠の時には、既にオープンしていたことになる。三度目では妻が一緒だったので、一般の観光客に混じって観光することにあいなり、それでやっと「峠資料館」を知った。これもある意味で妻のお陰なのだろうか。
 
 「野麦峠の館」は、基本的には野麦峠にまつわる民俗資料や女工哀史関係資料の展示だが、その中の1フロアーが全国都道府県の主要な峠に関する展示となっている。野麦峠と全国の峠資料とがどういうつながりか、やや疑問も残るところだが、この「峠資料館」が貴重な存在であることは間違いない。
 
 既に時が経って、詳しい展示内容は覚えていないが、峠の写真展示を見たりデータ端末を使った検索ができた。難読の峠や短い名前の峠などなど、いろいろ調べられ、いくら時間があっても足りない。まだ越えたことがない峠も多く出てきて、「これはあちこち旅をしなければ」と、切に思わされたのだった。
 
 端末を相手に、峠に関する問題を答えるゲームがあった。それには全問正解し、面目躍如といったところである。
 
 機会があったらまた入ってみようと思った「峠資料館」だったが、四度目に峠を訪れた時は、迷った挙句に入らなかった。500円が惜しかったのもあるが、何しろ能登半島の七尾湾に浮かぶ能登島が旅の目的地だったので、こんな所で道草を食っている暇はなかったのであった。

峠資料館の様子 (撮影 2002. 9.30)
峠の写真が並んでいる
 
 野麦峠を訪れたのは、結局次の4回だった。
@ 1993年9月12日 旧高根村から旧奈川村へ峠越え(写真1枚のみ)
A 1999年7月26日 旧奈川村を峠まで往復
B 2002年9月30日 旧高根村から旧奈川村へ峠越え
C 2008年8月13日 旧奈川村から旧高根村へ峠越え(デジカメ使用)
 
 以下では、Cの時の写真を中心に@〜Bの写真を交えつつ、旧奈川村寄合渡(よりあいど)から旧高根村高嶺大橋の袂までの峠道を辿る。
 
 
旧奈川村寄合渡の分岐
 

寄合渡の分岐 (撮影 2008. 8.13)
左折は県道39号を野麦峠へ
右折は県道26号を松本、上高地方面へ
 木祖村と奈川村を結ぶ県道(主要地方道)26号・奈川木祖線を、村境の境峠から奈川村側に降りて来るとT字路に当たる。この付近は野麦街道の宿場、寄合渡宿である。寄合渡は「よりあいど」と読むらしい。境峠方面から流れて来る境川が野麦峠からの奈川に合流する地点でもある。川の周辺は比較的開けた谷間となっていて、明るい感じがする。県道沿いには人家や商店も並び、一帯はちょっとした集落を成している。以前は奈川村の中心だったそうだが、今は黒川渡(くろかわど、村役場がある)に移ったそうだ。
 
 T字路を右折するのが県道26号の続きで、その先、奈川渡ダム(梓湖)で安房峠からの国道158号に接続し、最終的に松本へと通じる。T字路を左に行けば、そこから県道(主要地方道)39号・奈川野麦高根線が始まり、野麦峠を越えて行く。
 
 国道158号の方から来ると、分岐を曲がらずそのまま行けば野麦峠へと通じることになる。県道番号は変わるが、道の形態は野麦峠へと本線が続いているかのようだ。こんなところも、野麦峠の道が松本と高山を結ぶ古くからの街道であったことを窺わせるのではないかと思う。今では冬期通行止のある野麦峠に代わって、境峠を越えて木祖村、日義村、木曽福島町と通って冬でも高山へと行ける。よって県道も自ずと木祖村方向が本線となってしまった。県道番号からは、野麦街道がここで寸断されたかのようだ。
 
 県道39号に入り峠方向に向くと、いろいろな標識や看板が出てくる。雨量規制(川浦〜野麦峠間)、道路情報(川浦〜岐阜県 通行注意)、野麦峠12km、野麦峠オートキャンプ場5km、などなど。

分岐付近から県道39号を峠方向に見る (撮影 2008. 8.13)
 

道路標識 (撮影 2008. 8.13)
高根 35km、野麦峠 12km
 その先で大きな道路標識が現れる。「高根 35km、野麦峠 12km」とある。この場合の「高根」とは高根村の村役場がある所(上ヶ洞)だろうか。高嶺大橋より更に高山方向にある。峠から高嶺大橋の袂までは、高根側にある看板によると19kmである。寄合渡からは合計で31kmという計算だ。
 
 その後には、「高山 69km、野麦峠 12km」という道路標識もあった。高山の名が出るとは、さすがに野麦街道である。
 
 道は奈川の流れに沿い、西へとゆったり登って行く。概ねセンターラインがない1.5車線幅の道だ。狭くはないが、さりとて広くもない谷間の中を走って行く。
 

奈川に沿う道 (撮影 2008. 8.13)

集落が現れる (撮影 2008. 8.13)
神谷集落付近
 
 時折、沿道に人家が現れる。道路地図を見ると「神谷」とか「保平」といった集落名が記されている。

途中の集落 (撮影 2008. 8.13)
保平集落付近
 

川浦の集落付近 (撮影 2008. 8.13)
 その内、やや人家が集中した、この沿道としては大きな集落が現れる。川浦と呼ばれる集落と思われる。野麦峠の奈川村最後の集落となる。
 
 川浦集落を過ぎて1kmほど行くと、「野麦峠オートキャンプ場」の看板が出てきた。看板の手前を右に道が分岐している。キャンプ場は県道から少し離れているらしく、その様子は窺えなかった。
 
 キャンプ場の看板の直ぐ後ろにゲート箇所があった。冬期はここが閉鎖されるのだろう。
 
 
ゲート箇所の先、旧道分岐
 
 ゲート箇所を過ぎると、この辺りから道の両側に木々が迫ってきて、視界がぐっと悪くなる。それまでは、まだまだ開けて明るい感じがした道だったが、そばを流れている筈の奈川も、よく見えなくなった。
 
 この峠道には、一本だけ別の地へ通じる道が存在する。例の月夜沢峠で開田村に抜ける月夜沢林道だ。県道の左手に注意していると、未舗装林道が細々分岐しているのが見付かる筈だ。しかし、よほど注意していないと駄目な様だ。わたし自身、月夜沢峠を越えようと思って来た時以外、この分岐に気付いたことがないのであった。

ゲート箇所後の道 (撮影 2008. 8.13)
 

旧野麦街道の入口 (撮影 2008. 8.13)
車道が左にカーブする所から右へと分岐する
 道は奈川の源頭部を前に、左へと急カーブで曲がって川筋から離れて行く。その前方へは旧野麦街道が分岐する。旧野麦街道は奈川の上流部の沢に沿って、野麦峠へと最短距離で直登しているのだ。一方、後に開削された現在の車道は、急峻な沢沿いを避け、ここより南の方の山肌へと大きく迂回しながら野麦峠を目指している。
 
 こうした事情で偶然にも旧道が残されるケースを時折見掛ける。そして後になって旧跡が注目され、県史跡などに指定されたりする。旧街道入口に立つ長野県史跡の看板によると、この地点(ワサビ沢)から峠までの1.3kmは、旧道の原型が比較的よく残っているそうだ。いわば偶然の産物なのだろうが、往時を偲ぶ姿が保存されたのは嬉しい。と言っても、自分ではまだこの道を歩いたことはない。
 
 「旧野麦街道」の看板をじっくり読んでみると、こちらの信州側の野麦街道には幾つかのルートがあったそうだ。そして代表的な次の2ルートが示されている。
 @薮原、寄合渡、野麦峠を経るルート
 A入山、黒川渡、野麦峠を経るルート
 
 ここで@の藪原とは木祖村のことで、よって現在の境峠を越えて来たことになる。寄合渡(よりあいど)から野麦峠とは現在の県道39号と一致する。
 
 一方Aの入山とは梓湖付近のことで、現在の国道158号から分かれて来たことになる。そして寄合渡に至る前に奈川沿いを離れ、黒川渡(くろかわど)から黒川沿いで野麦峠を目指したものか。黒川沿いとはあの上高地乗鞍林道の起点付近の道筋に重なる。
 
 @が本道で、Aも利用されていたとのこと。特に女工哀史で有名な飛騨の女工さん達が往来したのは、Aの入山ルートとのこと。
 
 これまでてっきり入山、寄合渡、野麦峠のコースが野麦街道だと思っていたら、どうもそうではないらしい。女工さん達は寄合渡を通過していないことになる。県史跡の看板が指し示す旧野麦街道は、寄合渡を通る@のルートの旧跡ではないか。いつかその道を往時の飛騨の女工さん達のことを思いつつ歩いてみようかと思ったりしたが、にわかに怪しくなってきたのだった。ただ、あまり正確なことは言えない。

「旧野麦街道」の看板 (撮影 2008. 8.13)
画像をクリックすると拡大画像が見れます
(拡大画像は旧道の峠側に立つもの)
 
 
旧道分岐以降
 

林の中を抜け、視界が広がりだす (撮影 2008. 8.13)
上空に送電線が通る
 車道は川沿いを離れ山肌を登りだすが、暫くは林の中だ。道に隣接して赤田沢牧場があることになっている。ただ、牧草地らしいものは沿道からは見えない。二回目に峠を訪れた帰り、牛に出くわしたのがこの付近だ。
 
 旧道分岐から1、2kmで林から抜け出て視界が広がりだす。森林の中の旧道を歩くのもいいだろうが、明るく視界が広がる峠道はやはり捨てがたい。気分が晴れ晴れする。一般的なドライブにも好適だ。
 
 道は概ね左手に山、右手に谷を見て大きく右回りで進む。時折鉄塔やそれに架かる送電線が見える。その送電線をくぐった先で一際きついヘアピンカーブがある。そのカーブに隣接して展望所が設けられている。峠まで登ってしまうと、この付近の谷間は山陰になって見渡すことはできない。この展望所は長野県側の絶好地である。
 
 展望所には僅かながらもベンチが設えてあり、車も何台か停められるスペースがある。こんな良い展望所なのに、あまり車が停まっているのを見たことがない。峠にはそれこそいろいろ見るものがあるが、ここでも一休みしたいものだ。ここから峠まで後2、3kmだ。

印象的なヘアピンカーブ (撮影 2008. 8.13)
右方向が峠、手前が展望所
 
 展望所からヘアピン方向を見る (撮影 2008. 8.13)
 

展望所からの眺め (撮影 2008. 8.13)
ここまで登って来た谷が見渡せる

展望所からの眺め (撮影 2008. 8.13)
(左の写真の続き)
 
 
峠に到着
 

峠に到着 (撮影 2008. 8.13)
前方の右手の林の中に、赤い屋根の茶屋があるのだが、
今はほとんど見えない
 峠へは、長野・岐阜県境の稜線に対し鋭角に登って行くので、峠に近付くと、かえって峠の所在があまりよく分からない。いよいよ空が近くなったなと思ったら、県境を示す看板が前方に見えてくる。そこが峠だ。
 
 以前は峠手前で右手の方に、赤い屋根の「みねの茶屋」見えていて、それが峠の目印になっていた。しかし、2008年8月の時点では、木々に隠れてほとんど見えなくなっていた。
 
野麦峠の県境 (撮影 2008. 8.13)
高山市(旧高根村)方向に見る
頭上の看板には「岐阜県・高山市」とある
この左手にお助け小屋などがある
 
 ここでは車道が県境を通り過ぎる地点を現在の野麦峠と考える。奈川村が松本市に、高根村が高山市に編入された為だろうか、現在の県境付近には県境を示す看板が道路上に高く掲げられている。峠を高山市方向に見ると、上の写真の通り、「岐阜県 高山市」とはっきり出ている。
 
 以前、この様な県境を示す看板はなかったと思う。下の2枚の写真はこの付近を1999年と2002年に撮影したものだが、県境の上空はさっぱりしたものだ。元から長野県と岐阜県の県境には変わりはないが、新たに大都市の松本市と高山市との境になったことで、この県境を示す看板が現れたような気がする。村境の時代では遠慮していたように思えてならない。
 

県境付近を高山方向に見る (撮影 1999. 7.26)
かつての愛車ジムニーが佇む
中央に数本立つ木の下に信飛国境の木柱がある
左のお助け小屋へ入る道沿いに立つ大きな木柱には
「野麦峠」と書かれている

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2002. 9.30)
 
 岐阜県高山市側の県境を示す看板は目だって立っているが、一方、長野県松本市を示す看板はどこかと思ったら、それも一応あった。県境から松本方面を見ると、道路の左側のガードレールの脇に、ちょこんと「松本市」と書かれた看板がある。高山市の看板に比べると、随分低い位置である。当然これも奈川村の時代にはない代物だ。

県境付近から松本方向を見る (撮影 2008. 8.13)
「松本」と書かれた看板が前方の道路の左側にある
 
 
峠を示すもの
 

信飛国境の木柱 (撮影 2002. 9.30)
左脇に一等水準点の碑
背後に六角形の休憩所が建つ
 道路沿いに高山市と松本市の看板があり、その付近が県境だと分かるが、もっと正確にはどこが境かと言うと、道路を高山方向に見て、岐阜県高山市の看板の少し手前、左側にそれ程高くもない木柱がぽつんと立つ。それを見ると、「信飛国境」と書かれている。勿論、「信」は信州(信濃、長野県)、「飛」は飛騨(岐阜県)を表す。ここが正しく境であり、峠と考えておくことにしたい。ところで「信飛」はどのように発音するのだろうか。「しんひ」とか「しんぴ」だろうか。どちらにしろあまり良い響きではない。
 
 「信飛国境」の木柱の直ぐ奥には、一等水準点の標石があり、その脇には石碑が置かれている。その碑文によると、この地点は標高1,672.29mで、日本で一番高い所にある水準点だそうだ。明治36年に設置され、製糸工女さん達もこの標石を見ながら故郷飛騨への道を急いだことでしょうとのこと。碑文の最後には岐阜県高根村とある。
 
 この峠で「野麦峠」の文字はあちこちに見られるが、何と言っても一番なのが、右の写真の木柱に書かれた「野麦峠」の文字である。「信飛国境」の木柱の手前を左のお助け小屋の方へ入る道の入口、右側に立つ。なかなか大きな物だ。写真では分かり難いが、下の方には「岐阜県高根村」と書かれている。この木柱が立っている場所的には、長野県側なのだが・・・。
 
 この野麦峠は女工哀史で広く世間に知られるようになった。その主人公は飛騨の女性達である。その意味で、岐阜県側がいろいろ力を尽くしているのだろうか。
 
 野麦峠は観光地化されたこともあり、この背の高い「野麦峠」の木柱でもあまり目立つ存在ではない。 ましてや「信飛国境」の木柱に至っては、ほとんど見向きもされないのではないだろうか。 政井みね兄妹の石像や「あゝ野麦峠」と刻まれた石碑、県道から少し脇に入れば、お助け小屋やら野麦峠の館やら。 普段、寂れた峠ばかりを訪れている者にとっては、あまりにいろいろな物にあふれている。県道周辺は広々としていて、どこをどう見て回れば良いのか迷ってしまう程だ。
 
 上を見上げれば、峠の空は開けて青空が清々しい。ここも冬期には白一色の厳しい世界に変わるのだろう。この峠を飛騨の少女達は、どのような思いで越えたのだろうか。ふと見ると、私の妻があちこちの石碑などの間を、大股で闊歩しながらせわしく見て回っている。何を考えているやら。

野麦峠と書かれた木柱 (撮影 2008. 8.13)
ちなみに、木柱の後ろを今しも野麦峠の碑石目掛けて、
大股で歩いているのが私の妻
 
 
峠付近の旧道
 
 現在の峠はあまりにも広くて、どこが旧道だかよく分からない。松本側にあった旧野麦街道の峠への出口は、みねの茶屋に入る所の右脇にある。いつかそこを覗き込んでいると、子供2人を連れた家族連れが登ってやって来た。小学生くらいの子供でも登れるようだ。
 
 旧道の脇には、下にあった物とほぼ同様の長野県史跡の看板がある。しかし、1999年に撮影した物と比べると、書かれている内容は少し異なった。周囲に立つ標識なども変わっている(下の写真)。
 
 古い看板には、「飛騨の高山から野麦峠を越えて、寄合渡、境峠を通り木曽の藪原に出たもの」が最初で、「江戸時代中期に黒川渡から入山峠を経て、梓川沿いに松本に至る道が開かれ、これも野麦街道と呼ばれた」そうだ。飛騨の女工さん達が松本へと越えたのが、後者の峠道だ。
 

松本側の旧道出口 (撮影 1999. 7.26)

左の写真と同じ場所 (撮影 2008. 8.13)
 

峠周辺の案内図 (撮影 2002. 9.30)
右側に縦に一本県道が描かれている
駐車場や峠の館を挟んで左側に旧野麦街道の道がある
 松本側から登って来た旧道の先は、県道などが整備されて、往時の痕跡はない。峠周辺の案内図などには、水車小屋の裏手当たりから、また旧野麦街道が高山方面へと描かれている。そこは今はハイキングコースとして整備されている。松本側の旧道出口と水車小屋の裏手を仮に直線で結ぶと、現在の県道の県境からは僅かにそれている。また県道とは直行する形となる。
 
 昔、女工さん達が松本側から登って来た時、そこではどのような姿の野麦峠が迎えたのであろうか。松本側の旧道出口を背に、現在の峠を眺めても何の味わいもない。峠を趣味とする者としては、峠の古い姿こそ、少しでもいいから知りたいと思う。
 
 
峠から眺める景色
 
 峠から松本側の景色を眺めるには、峠の端の方に来なければならない。松本側に下ろうとする道路の端に立って、ガードレール越しに眺めることになる。下の方に奈川の川筋が望める。牧草地のような箇所もある。遠くには木曽の御嶽山(おんたけさん)があるのだろうが、それが望めるかどうかはよく分からない。
 

峠から松本側(南)を望む (撮影 2002. 9.30)

左の写真の中央部の望遠 (撮影 2002. 9.30)
麓に牧場らしき箇所が望める
 
 峠の県道上からは、北に乗鞍岳が望める。もう8月というのに、頂上付近に白い物が見える。残雪なのだろうか。女工哀史の関連で野麦峠を訪れる者以外では、この乗鞍岳を写真に収めようと峠にやって来る者が多いのではないだろうか。
 

峠から北方を望む (撮影 2008. 8.13)
乗鞍岳が霞んでいる
残雪らしき物が見える

この日、乗鞍岳はくっきり見えた (撮影 1999. 7.26)
 
 県道から少し脇に入ると広場があり、その周辺にいろいろな施設がある。中でもお助け小屋が有名だが、現在のお助け小屋は何をする所だろうか。何となく近寄りがたい気がするのはわたしだけだろうか。
 
 こうした施設のことや峠の歴史、峠名の由来など、野麦峠に関しては記すべきことが沢山ある様に思う。しかし、これではなかなか高山側に降りられないので、このへんにする。

お助け小屋を背に高山方向を見る (撮影 2008. 8.13)
左手に水車小屋やトイレ
前方中央の一段下がった所に「野麦峠の館」がある
その屋上にあがれるようになっていて、
展望所のようでもある
 
 
峠から高山側に下る
 
 峠から高山側は暫くなだらかに下る。オレンジ色の「大型車通行不能」の看板を右に見て過ぎる。その先で通行規制が出ていて、峠から野麦の集落の区間7.4kmで、気象による通行規制があるとのこと。左手の樹林の間から池が僅かに覗く。鏡池と呼ばれるようだ。いつの時代からあるのだろうか。

峠から高山方向に下る (撮影 2008. 8.13)
前方の左に通行規制の看板
 

ゲート箇所 (撮影 2008. 8.13)
峠を高山側に下りだして直ぐにある
 直ぐにゲート箇所を通過する。その脇にも「大型車通行不能」の看板が立つ。そう言えば、松本側には大型車通行不能の看板はなかったような気がする。しかし、高山側も松本側も、道幅やカーブの具合などについては、大して違いはない様に思うのだが。
 
 ゲート箇所を過ぎると、道の勾配も急になり、山岳道路の様相を呈してくる。山肌の法面工事の痕も生々しく、豪快な峠道となる。飛騨川の本流の深い谷を概ね左手に見て、一気に高度を下げる。道の景観だけは松本側に比べて険しい感じを受ける。支流の谷の上流部に入り込み、谷を渡り、そしてまた本流沿いに引き返すということを何度か繰り返す。これから下ろうとする道が谷の対岸に見え、如何にも険しそうに思える。険しい峠道によくあるパターンである。ただ、終始狭い谷間の中なので、遠望は利かない。
 

高山側の道の様相 (撮影 2008. 8.13)

高山側の道の様相 (撮影 2008. 8.13)
支流の谷の上流部へと下る
 

高山側の道の様相 (撮影 2008. 8.13)
法面工事の様子が険しさを感じさせる

高山側の道の様相 (撮影 2008. 8.13)
左手に本流の谷間が覗く
 

途中にあるゲート (撮影 2008. 8.13)
ゲートの左脇より旧道が峠方向に始まっている
 山岳道路風の険しさを抜け、野麦の集落まであと1km程の地点でゲート箇所がある。冬期はここが閉鎖されるのだろう。そのゲートの脇には、旧野麦街道の看板が立っていた。高山側の旧道がここから峠へと続いている。史跡などにはなっていないようだ。
 
 
野麦の集落
 
 旧高根村の最初の人家が現れる。ここが峠名にもなった野麦の集落である。旧奈川村の川浦集落よりも大きそうに見える。沿道に人家が暫く続く。人影もちらほら見受けられ、のどかな雰囲気だ。

野麦の集落に入る (撮影 2008. 8.13)
高山側最初の人家
 

野麦の館周辺 (撮影 2008. 8.13)
 
 集落内を少し行くと、右手に野麦の風公園があり、その直ぐ下に「野麦の館」がある。峠にあったのは「野麦峠の館」で、こちらには「峠」は付かない。「野麦の館」は食事などを提供するお休み処である。
 
 「野麦の館」の左隣に並んで木造二階建ての校舎のような建物がある。野麦の館の看板には「野麦学舎」とも書かれていて、廃校を利用した何かの施設だろうか。
 
 また通行規制の看板が出てきた。野麦と次の阿多野の区間7.2kmについてである。これで峠から合計14.6kmとなる。
 
 
野麦の集落以降
 
 道は、センターラインもある立派な二車線路だったり、狭くて古そうな道だったりする。それを繰り返しながら下って行く。しかし、概ね走り易い。松本側の赤田沢牧場付近の方が、狭くて走り難かったような気がする。
 

立派な二車線路 (撮影 2008. 8.13)

舗装がはがれ、荒れている箇所 (撮影 2008. 8.13)
 

野麦から阿多野郷の途中 (撮影 2008. 8.13)
寺坂峠?
 一つ疑問がある。古いツーリングマップ(昭文社 中部 1988年5月発行)には、今の阿多野郷(阿多野)という集落を通る道とは違うコースが県道となっていた。峠から阿多野郷へは直接道が通じていない。県道は終始、飛騨川(または益田川)の本流沿いを下っていた。
 
 ところが現在の県道は、野麦の少し下から本流を離れ、尾根を一つ越えて、北に位置する支流の阿多野郷川に出、その川に沿って下る。阿多野郷の集落はその阿多野郷川沿いにある。
 
 確かに野麦集落を過ぎた後、ちょっとした峠の切り通しの様な箇所を過ぎる。すると、それまで左手にあった谷間が、今度は右手に来る。国土地理院の地図で調べると、そこには「寺坂峠」の文字が出ていた。古いツーリングマップには、道は描かれていないのに、「寺坂峠」と文字だけが書かれていて、不思議なことになっている。逆に、後のツーリングマップルには峠越えの道が描かれているが、「寺坂峠」の文字は見えない。
 
 野麦峠の道は、これまであまり関心を持つことなく、ただただ通り過ぎてきたふしがある。もしかしたら、最初に峠を越えた1993年9月の時は、飛騨川沿いの古い県道を走っていたかもしれない。女工さん達が通った時代の旧野麦街道どころか、つい最近の旧道もよく分かっていないのだった。
 
 阿多野郷川沿いになると、道は二車線路で快適となる。如何にも後になって改修された感じである。橋場と言う集落があることになっている。「ダナの滝 渓流の里」といった看板が右手に出てきた。

阿多野郷付近 (撮影 2008. 8.13)
 
 
国道へ
 

飛騨川沿いのトンネル (撮影 2008. 8.13)
 快適に車を走らせていると、いつの間にやら飛騨川の本流に合流し、道の左手に飛騨川の谷間が覗く。この付近は、ここより下流にある高根第一ダムによってできた高根乗鞍湖の一部になっている。その為、谷は切り立って深く、川は水を満々と湛え、殺伐とした感じを受ける。途中で通ってきた集落などの温か味が全くない。女工哀史の時代の峠道とは、かけ離れた景観に変貌してしまったことだろう。
 
 間もなく小さなトンネルを抜ける。名前を調べたところ、阿多野トンネルと呼ばれるようだ。トンネルの幅は狭く、その前後も昔ながらの狭い1.5車線幅の道が、崖にへばりつく様に続く。山側には絶えず法面をコンクリートなどで工事した痕がある。
 
 その内、左手前方に青色の欄干の高嶺大橋が見えてくる。道路脇には道路情報が出される箇所が現れる。
 
 ところで、高嶺大橋は過去に架け替えられている。現在の位置よりもっと飛騨川を上流へ遡った所にあったようだ。右の写真の道路情報が出されている箇所の脇には、橋が架かっていたらしいコンクリートブロックが残っている。そこから対岸を望めば、飛騨川の左岸の上流へも道が伸びて来ていて、その道が途切れた所にも、橋が架かっていたらしいコンクリートブロックの残骸が望める。すなわち、この道路情報が立つ地点は、以前の国道と県道が交わる地点だったと思われる。

左手に道路情報の看板が立つ (撮影 2008. 8.13)
看板は峠方向を向いている(写真では裏が見えている)
その奥に見えるのは高嶺大橋
以前、ここは県道が国道に交わる地点だったか?
 

国道361号を示す道路標識 (撮影 2008. 8.13)
この先300m
 古い高嶺大橋の痕跡を過ぎると、300m先にT字路があることを示す道路標識が掲げられている。その標識によると、T字路を左は木曽、右は高山市街、朝日とある。道はセンターラインのない1.5車線幅のままだ。現在の高嶺大橋が使われる前は、この区間は国道361号の一部であったことになる。高嶺大橋が架け替えられ、現在のこの付近の国道361号は、ほとんど二車線幅の快適な道に改修されている。
 
 その後、もう一度道路標識が出て来る。これらの道路標識の裏は野麦峠の案内看板になっている。県道を峠方向にやって来ると、お助け小屋や「あゝ野麦峠」の石碑の絵と共に、「野麦峠まで19km」と書かれた看板を目にすることになる。
 
 最後の道路標識から国道合流までの申し訳程度に短い距離、センターラインのある幅の広い道となっている。
 
 昔の高嶺大橋は、今は両側の護岸にコンクリートブロックを残すのみで、橋その物は跡形もない。ただ、2002年9月に高根村側から峠に向かった時の写真(右の写真)に、青色の橋らしい物が写っている。この時は、この橋の袂で何やら重機が動いていた。もしかしたら古い橋を撤去している最中だったかもしれない。
 
 
 
 突き当たった国道を左に行けば、長峰峠を越えて開田、更に新地蔵トンネル(その旧道は地蔵峠)を越えて木曽福島だ。右に行けば、まだまだ距離はあるが、飛騨高山市街へと通じる。
 

野麦峠の案内看板手前から峠方向へ向く (撮影 2002. 9.30)
看板には「野麦峠まで19km」とある
この看板の裏は、道路標識になっている
国道からここまでは二車線路である
 

国道に出る (撮影 2008. 8.13)
左に高嶺大橋が架かる

高嶺大橋の袂に道路標識が立つ (撮影 2002. 9.30)
橋の手前を左に県道39号が分岐する
行き先は「野麦峠」となっている
橋を渡る直進方向には、木曽福島、開田とある
 
  
 
 峠に立つ「あゝ野麦峠」の石碑の脇に、山本茂美による小説の一節が碑文として刻まれている。その冒頭の一部を下記に転記する。
 
 「日本アルプスの中に野麦峠とよぶ古い峠道がある。かつて飛騨と信濃を結ぶ重要な交通路であったが、今ではその土地の人さえ知る人も少ないほど忘れ去られた道になっている。
 
 現在の野麦峠は、地元民どころか、これ程世間に知られた峠は他にあまりないだろうと思える峠になった。峠にスキー場などがある場合を除き、これ程いろいろな物にあふれる峠は他に類を見ないだろう。数々の石碑類やお助け小屋、水車小屋、茶屋、トイレ、広い駐車場。それに何しろ峠資料館なるものもあるくらいだ。それでいて、現在も飛騨山脈を越える峠であることには変わりなく、長い冬期閉鎖を強いられる険しい峠道である。上記の一文を読むと、かつての野麦峠を想像させられる。映画は既に見たことがあるが、これは一度、活字の小説をじっくり読んでみようか。そんな風に思わせる野麦峠であった。
 
  
 
<参考資料>
 昭文社 中部 ツーリングマップ 1988年5月発行
 昭文社 ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行
 昭文社 ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 岐阜県 2001年1月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 長野県 2004年4月発行
 角川 地名大辞典 長野県
 角川 地名大辞典 岐阜県
 
<制作 2011. 4.14><Copyright 蓑上誠一>
  
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