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丹生峠・杉本隧道
  にゅうとうげ・すぎもとずいどう  (峠と旅 No.302)
  今もひっそり残る寂しい隧道の峠道
  (掲載 2018. 9.21  最終峠走行 2004. 9.26)
   
   
   
杉本隧道 (撮影 1995. 5. 3)
隧道のこちらは滋賀県長浜市木之本町杉本
反対側は同市余呉町上丹生
道は県道284号・杉本余呉線(丹生街道)
標高は杉本側坑口:約250m、上丹生側坑口:約270m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
丹生峠などと言ってもちょっと分からないかもしれない
ここは知る人ぞ知る、杉本隧道の峠である
今は坑口の様子が少し変わってしまった
 
 
 
   

<杉本隧道>
 こんな寂しい隧道の峠をこれまで4回越えている。僅か2.5Km程の小さな峠道である。別に好き好んで越える訳ではなく、八草峠を訪れる時にどうしてもこの道がルートの中に入って来てしまうのだ。
 
<敦賀(余談)>
 琵琶湖の北部付近で宿を取ろうとすると、福井県の敦賀市街がやはり大都市とあって選べるホテルが多い。これまで7回程宿泊している。 関東方面から岐阜県まで来て、八草峠で滋賀県に入り、その先最短で敦賀市に向かおうとすると、この峠越えになるのだ。 反対に、敦賀市に泊まった翌日、東京の自宅まで帰ろうとすると時にこの峠を越えてから八草峠に向かったこともある。最近ではそんな元気がないので、直ぐに高速道路に乗ってしまうのだが、若い頃は小まめに峠道を走っていた。
 
 前回、八草峠(回想)を掲載し、この杉本隧道のことを思い出した。小さな峠だが、ついでに掲載してしまおうと思うのであった。

   

<所在>
 峠の東側は滋賀県長浜市木之本町(きのもとちょう)杉本(すぎもと)、旧伊香郡(いかぐん)木之本町大字杉本だ。
 
 西側は同市余呉町(よごちょう)上丹生(かみにゅう)、旧余呉町大字上丹生になる。
 
<丹生>
 尚、文献(角川日本地名大辞典)では丹生峠、上丹生、下丹生、丹生郷、丹生村、丹生川などと出て来る「丹生」について、もっぱら「にう」と書いている。 しかし、実際に発音すればほとんど「にゅう」に近いものと思う。最近の地形図やその他の参考資料でも、「にゅう」としていることが多い。それで、ここでも丹生峠は「にゅうとうげ」とした。細かなことだが、あいうえお順に峠を並べる時に関係するのだ。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 木之本町側には琵琶湖に注ぐ姉川(あねがわ)(淀川水系)の支流・高時川(たかときがわ)の支流・杉野川(すぎのがわ)がほぼ南流する。
 
 余呉町側には杉野川の本流の高時川がやはり南流する。尚、高時川の上流部は丹生川(にゅうかわ)とも呼び、丹生川と杉野川が合流した以降を高時川とする場合もある。
 
 峠を挟んだ高時川と杉野川は直線距離で2Km足らずしか離れていない。短い峠越えとなる筈だ。

   

<立地>
 岐阜県との県境を成す伊吹山地主脈から南西方向へ、横山岳(1132m)・墓谷山(はかたにやま、738m)・田良原山(たらはらやま、503m)と連なる尾根が延び、高時川本流(丹生川)と杉野川の分水界となっている。丹生峠は墓谷山と田良原山との間の鞍部にある。

   

<峠名>
 この小さな峠の名など、ツーリングマップ(ル)などの一般の道路地図や地形図にさえも出て来ない。文献(角川日本地名大辞典)の杉本隧道の項でやっと丹生峠の名を見付けた。
 
 丹生峠と呼ぶ場合、勿論旧余呉町側の「丹生」という地名から来ているものと思う。 現在は長浜市余呉町上丹生だが、古く中世には丹生郷があり、江戸期には上丹生村、下丹生村が存在し、明治22年から昭和29年までは上丹生村など10か村が合併して成立した丹生村があった。丹生川(高時川)水域一帯を「丹生」とう地名で呼んだものと思う。
 
 「丹生峠」があれば旧木之本町側の地名・杉本を使った「杉本峠」もあっていいかもしれないが、文献にそのような名称は見られない。 杉本側からして、より開けた余呉市街や更に木之本市街に通じる丹生の地へと至るので、杉本側にとってより価値が高い峠となり、それで丹生峠と呼ぶことが多いのかもしれない。
 
<トンネル名>
 峠名どころか、トンネル名も
地形図や道路地図になかなか載って来ない。 グーグルマップで「丹生トンネル」と出て来たのには、ちょっと違和感があった。しかし、考えてみれば丹生峠に通じたトンネルだから丹生トンネルでおかしくはない。 文献でも別称として、丹生隧道・丹杉隧道とあった。丹杉(たんすぎ)とは丹生と杉本のそれぞれから1字を取っているらしい。しかし、現場に通じるトンネルの扁額や銘板には「杉本隧道」とある。やはりこの名が一番だろう。

   
   
   
杉本より峠へ 
   

<杉本の分岐>
 峠の東側は広く旧木之本町の大字杉本だが、杉本の集落は杉野川右岸にこじんまりとまとまっている。その集落より峠への道が分かれて行く。国道303号から分岐し、まずは峠から流れ下ってきた川の右岸沿いに進み、その先直ぐ左岸に渡る。
 
<県道の分岐>
 国道上には行先を「余呉」とする道路看板が立っているのだが、この川沿いの道ではなく、この分岐より200m余り杉野川上流側から始まる道を指している。 実はそれが本来の県道284号で、暫く集落内を通り、左岸に渡った直後の峠道に合流して来る。多分、かつての国道303号であろう。 一度、八草峠から下って来てその県道に入ったはいいが、一本手前の川沿いの道を登ってしまった。未舗装になっておかしいと分かり、引き返して来たのだった。峠道としては終始杉野川支流沿いに登るのが本来だろう。

   
杉本の分岐 (撮影 1991.10.13)
左の川沿いの道が峠へ、右の本線は国道303号を八草峠へ
   

分岐に立つ看板 (撮影 1991.10.13)

<余呉方面の看板>
 以前は、本来の峠道の分岐に看板が立っていた。「ここは杉本です」、「杉野まで1Km」、「←余呉方面」などとお手製の味わいのある看板が示していた。
 
<木之本市街へのルート>
 杉本から杉野川上流側には杉野・金居原(かねいはら)の集落があり、下流側には音羽(おとわ)がある。明治22年から昭和29年まで、これら杉野川流域(杉野谷)の村々が合併したできた杉野村が存在した。
 
 この杉野谷から北国街道(現国道365号)の宿場町でもあった木之本市街や国鉄北陸本線木ノ本駅に出るには、尚も杉野川沿いに下り、高時川と合流する川合(かわい)に出て、その先古橋(ふるはし)・田部(たべ)と経由するか、川合から溢取峠(あつとりとうげ、170m)越えで直接木之本市街に至った。檔鳥坂(あっとりざか)隧道を抜ける初期の国道303号がほぼそのルートであろう。

   

<丹生街道>
 それらのルートとは別に、杉野谷から丹生峠を越えると、上丹生の橋本という小さな集落に出る。更に下丹生を経て余呉川沿いの余呉市街へと至ることができる。かつての丹生街道とは、単に丹生峠を越えるだけでなく、その先余呉市街方面へと通じる道として利用価値があったようだ。
 
<旧国鉄北陸本線>
 また、明治17年には旧国鉄北陸本線が余呉市内に通じ、中之郷(なかのごう)駅が誕生する。杉野谷の住人にとって前記のルートで木ノ本駅に出るより、丹生街道を使って中之郷駅に出る方が3Km近かったそうだ。自動車交通が発達する以前、徒歩での距離は大きく影響したのだろう。
 
<中之郷駅の廃止>
 ところで、現在のJR北陸本線に中之郷という駅はない。昭和32年に路線変えがあり、その後柳ケ瀬線として存続するも昭和39年に廃線、中之郷駅も廃止となった。中之郷駅がどこにあったか正確には分からないが、現在の余呉町中之郷であろう。

   

<杉本隧道へ>
 八草トンネルも開通し見違えるように立派になった国道303号を尻目に、寂しい舗装路を登る。数軒の人家の前を過ぎれば、もう杉本集落の外である。峠方向から流れ下る細い川が側らに寄り添うばかりだ。道は乗用車一台分の幅しかなく、しかも、すれ違う待避所も不十分である。狭く暗い谷間に視界も広がらない。

   

杉本からの登り道 (撮影 2004. 9.26)
集落を過ぎた先

山間部に入った (撮影 2004. 9.26)
視界は広がらない
   

<木之本町側坑口>
 杉本集落から1Km余り、標高差は100mに満たず、杉本隧道の木之本町坑口に至る。トンネル手前は僅かに広くなっている。トンネル内では全く離合できないので、対向車があればここで待つことになる。

   
木之本町側坑口前 (撮影 2004. 9.26)
   

<峠の木之本町側>
 こんな小さな峠に気の利いた案内看板などない。ただ、杉本集落方向に見て、「木之本町」の看板が立っていた。しかし、現在は長浜市木之本町である。峠のどちら側も長浜市で、もう看板は取り外されただろうか。

   

坑口前より杉本方向を見る (撮影 1995. 5. 3)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

左の写真とほぼ同じ場所道 (撮影 2004. 9.26)
   

木之本町の看板が立つ (撮影 2004. 9.26)

木之本町の看板 (撮影 2004. 9.26)
   

<坑口の様子>
 とにかく坑口の小ささに驚いてしまう。高さ2.5m、横幅2.0mの道路標識を乗せた鉄骨の枠が組まれ、トンネル坑口を保護している。軽自動車でも全幅約1.5m。ドアミラーを含めれば、1.7mは越えるだろう。この鉄骨の枠をくぐり、延長300m以上のトンネルを無事に抜けるのには神経を使う。

   
杉本隧道の木之本町側坑口 (撮影 2004. 9.26)
   
杉本隧道の木之本町側坑口 (撮影 2004. 9.26)
   

<扁額>
 木之本町側坑口上部には扁額が掛かる。右から左に「杉本隧道」とある。
 
 これは全く経験により個人的な考えなのだが、大雑把に見て昭和20年代以前までは右から左に「何々隧道」、昭和30年代頃は左から右に「何々隧道」、昭和40年頃以降は左から右に「何々トンネル」となっていることが多いように思う。 ちなみに天城峠の扁額は右から左に「天城山隧道」で、明治38年開通と古い。杉本隧道はそこまで古くはないが、昭和26年の竣工である(後述)。

   
扁額とその周辺 (撮影 2004. 9.26)
コンクリートかモルタルが吹き付けられている
   

以前の扁額 (撮影 1995. 5. 3)

レンガの破損状況 (撮影 1995. 5. 3)
   

<以前の坑口>
 1995年に来た時と2004年に来た時で、何となくトンネルの印象が違った。以前はもっと渋い味わいのある坑口だったように思う。例えばあの重要文化財ともなった天城山隧道とまでは行かなくとも、歴史を感じさせる佇まいだったように思う。
 
 今回写真を見比べてみると、確かに違う。以前は、坑口表面はレンガ積みの様だったが、今はコンクリートかモルタルを吹き付けたらしく、何だかピンボケである。以前からレンガが剥がれ掛けていて補修の必要があった。その為の措置だろうが、やや残念である。

   
木之本町側から見た隧道内の様子 (撮影 1995. 5. 3)
   

<標高>
 木之本町側坑口の標高は、地形図で読むと約250mである。反対側の余呉町側は約270mだ。しかし、実際には20mもの高低差はなさそうである。 また、トンネル内で道の最高所があるようで、木之本町側からトンネルを覗くと、反対側の坑口の下側が欠けて見える。ただ、地形図でその標高を読むことはできない。

   
   
   
峠の余呉町側 
   

<隧道を余呉町側へ>
 トンネル内にはぼんやり照明が灯っている。しかし、十分な明るさではなく、自分の車のヘッドライトが頼りだ。
 
 トンネル内で浸水があるのか、路面に水が溜まっている時がある。あまり快適なトンネルではないことだけは確かだ。やや薄気味悪い。
 
 
<旧峠>
 このトンネルの上には丹生峠があったことになる。しかし、トンネルの真上は344.5mのピークになっていて、鞍部ではない。文献では墓谷山と田良原山の鞍部で、標高300mとしている。トンネルの真北約300mに標高約320mの鞍部がある。この付近の尾根上でこれより低い箇所はなく、多分ここが丹生峠であろう。現在の地形図には徒歩道も描かれていない。トンネル開通により旧峠道は完全に廃道となったのだろう。


杉本隧道を上丹生側に進む (撮影 2004. 9.26)
先導車有り
   

杉本隧道を余呉町側に出る (撮影 2004. 9.26)
路面に水が溜まっていた

<峠の余呉町側>
 杉本隧道を余呉町側に抜けると、トンネル坑口前は木之本町側よりずっと広くなっていて、空もやや開けている。以前は少し先に「余呉町」と書かれた看板がポツンと立っていた。今はどうなっているだろうか。

   
トンネル坑口から余呉町方向を見る (撮影 2004. 9.26)
   

余呉町の看板が立つ (撮影 2004. 9.26)
上丹生方向を見る

余呉町の看板 (撮影 2004. 9.26)
   

<銘板>
 余呉町側でも車幅制限の鉄骨は同じだが、どうも扁額はなかったようだ。代わりに余呉町側には坑口の左に銘板があり、次のように記されている。
 
  記 録
 杉本隧道
 延長 三一〇米 高 四米 幅 三.五米

 工費 金壹千貳百五萬圓也 (1,205万円)
 起工 昭和二十三年九月十日
 竣功 昭和二十六年三月三十日

 
 銘板に「記録」とあるのはちょっと珍しい。大抵はトンネル名などが最初に来る。
 竣工が昭和20年代である。明治期からの天城山隧道などに見られる、右から左に「何々隧道」という最も古い扁額のパターンとなる。

   

余呉町側坑口 (撮影 2004. 9.26)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

銘板 (撮影 2004. 9.26)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

左奥の林の中に記念碑が立つ (撮影 2004. 9.26)

<隧道記念碑>
 文献によると、杉本隧道は「大正6年着工、8年完工」とある。銘板の記述とは全く異なる。これはどうしたことか。
 
 余呉町側から坑口方向を見て、その左の林の中に何やら大きな標柱のような物が立っている。周辺は草木が生い茂り、なかなか近寄り難い状況だ。どうにか近付いて行って写真に撮った。 「隧道 記念碑 大正七年六月竣工」とある。文献の年(大正8年、1919年)とは少し異なるが、どうやら最初の杉本隧道は、大正期にできたようだ。

   

 昭和26年(1951年)に竣工したトンネルとは、それを元に改修したものだろう。工費が当時の金額で約1,200万円だが、それでも新しくトンネルを掘削するには不足に思える。 一方、工期が3年近いと長いのもやや解せない。トンネルの使用を維持しつつ、徐々に改修した為か。
 
 とにかく、大正期のトンネル開通でそれまでの丹生峠は使用されなくなったものと思う。丹生街道とも呼ばれた峠道はもう跡形もないことだろう。

   

林の中に立つ記念碑 (撮影 2004. 9.26)
 
 

<隧道の利用>
 八草峠のページで触れたが、杉野川上流の大字金居原の土倉谷(つちくらだに)で明治40年(1907年)に銅鉱脈が発見され、明治43年(1910年)頃から採掘が開始された。県下でも最大規模の銅鉱山である。
 
 その鉱石運搬路として丹生峠下に隧道を建設することが計画されたのだ。旧国鉄北陸本線の中之郷駅へと運ぶ為でもあろう。 鉱山側が労力・資材費を負担し、大正期(1918年〜1919年)に完成したのが初期の杉本隧道だった。隧道記念碑はその時に立てられたものと思う。全長300m、幅3.6mの杉本隧道は、徒歩や荷車に頼った交通時代には幹線交通路として大いに活躍したのだった。


隧道記念碑 (撮影 2004. 9.26)
   

<隧道名>
 大正期の杉本側は杉野村大字杉本、上丹生側は丹生川村大字上丹生であった。 杉野川最上流の鉱山がある金居原から見ると、丹生村へ越える隧道ではあるが、途中の杉本から分かれて行く峠道という意味もあり、「杉本隧道」と呼んだのではないだろうか。 ただ、文献では丹生隧道・丹杉隧道の別称もあったとのことで、初期のトンネルには正式な名称がなかったかもしれない。記念碑にも単に「隧道」とあるだけである。
 
<峠道の衰退>
 早くも衰退の話で恐縮だが、昭和5年(1930年)には溢取(あっとり)トンネル(後の国道303号の檔鳥坂隧道の前身?)が建設され、川合から木之本市街への車道が通じる。 本格的な自動車交通時代の到来に、狭い杉本隧道は取り残されて行く。昭和26年(1951年)に杉本隧道もリニューアルされたが、トンネル規模は初期の物とあまり変わらなかったようだ。
 
 一方、昭和32年(1957年)に北陸本線の路線変えがあり、昭和39年(1964年)には後継の路線も廃線となって中之郷駅はなくなってしまう。 ついで昭和40年(1965年)には隧道開通の起因となった土倉鉱山が閉山、鉱石運搬も途絶えてしまう。これらの要因により、杉本隧道は主要道としての価値を失って行った。
 
<国道303号の改良>
 その反面、国道303号の方は八草トンネル開通を始めとし、川合トンネル、新檔鳥坂トンネル、木之本大橋などが完成、主要路としての改良が加速していった。 杉本隧道の旗色は増々悪い。2000年前後に崩れそうな坑口をコンクリでべたべた固めて補修するのが精一杯であったか。こうしてみると、命の灯が今にも消えそうに思われる杉本隧道であった。

   

<上丹生へ>
 峠の余呉町側も麓の上丹生橋本集落に出るまで1Km余りと短い。少し下ると直ぐにも高時川沿いの平坦地が広がる。
 
<余呉市街へ>
 高時川を渡ると大きなT字路に突き当たる。左が県道284号の続きで、4Kmで余呉市街だ。鉱石運搬など杉本隧道の利用者の多くはこちらに進んだものと思う。
 右は県道285号で、高時川を遡って25Kmで余呉町中河内だ。一度走ったことがあるが、長くて寂しい道だった。


余呉町側へ下る道 (撮影 2004. 9.26)
   

高時川沿いの道に出た所 (撮影 1997. 4.27)

道路看板 (撮影 1997. 4.27)
左が余呉市街へ、右が中河内へ
   

 現在、この峠道をどれだけの人が使うだろうか。杉野谷の地元民の利用はあるのだろうか。ちょっと変わったトンネルなので、たまには探訪好きな者がやって来るかもしれない。

   

<敦賀市へ(余談)>
 福井県の敦賀市に出るには、余呉市街から国道365号を遡り、県境の柳ケ瀬トンネルを抜けるのが最短コースとなる。勿論、北陸自動車道など使わない場合である。 考えてみると、杉本隧道・柳ケ瀬トンネルと続けて通ることも何度かあった。柳ケ瀬トンネルもこれまた狭いトンネルである。

   
   
   

 杉本隧道は何度か越えているが、八草峠などに比べると本の些細な峠道なので、ほとんど写真を撮っていない。 それでも1995年5月に訪れた時に、坑口を撮った写真が比較的鮮明に残っている(ページトップの写真)。最近購入した精細なフィルムスキャナが役立った。 以前の杉本隧道の様子を留めるなかなかいい写真だと気に入っている、丹生峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1991.10.13 余呉町→木之本町 (その後八草峠へ) ジムニーにて
・1995. 5. 3 余呉町→木之本町 (その後八草峠へ) ジムニー にて
・1997. 4.27 木之本町→余呉町 (八草峠から) ジムニーにて
・2004. 9.26 木之本町→余呉町 (八草トンネルから) キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 25 滋賀県 昭和54年 4月 8日発行 角川書店
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2019 Copyright 蓑上誠一>
   
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