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美女峠
  びじょとうげ  (峠と旅 No.317)
  中央分水嶺を越える小さな峠道
  (掲載 2022. 8.21  最終峠走行 2001. 5. 1)
   
   
   
美女峠 (撮影 2001. 5. 1)
手前は高山市大島町
奥は同市久々野町辻(旧久々野町辻)
道は旧国道361号・木曽街道
峠の標高は約865m (地形図の等高線より読む)
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もう21年以上前の峠の様子
今は国道361号に飛騨ふる里トンネルが開通し、美女峠は旧道となった
 
 

   

<掲載理由>
 前回、木曽福島と飛騨高山とを結ぶ長峰峠を掲載し、 美女峠はその峠道の一部として記した。 美女峠は訪れた回数が少なく、撮った写真も僅かなことから、単独のページとはしなかった。 ところがその後、長峰峠付近の旅の記録を整理していると、2001年5月に美女峠を越えていて、写真も新たに20数枚見付かった。それで改めて美女峠を単独のページとしてここに掲載することとした。 ただ、今からもう20年以上前のことである。最近の美女峠とは全く様子が違うかもしれない。それでも、昔の峠道の姿をここに留めておくのも、少しは価値があるかと思う。

   

<所在>
 峠道はほぼ南北方向に通じ、南は高山市久々野町(くぐのちょう)辻(つじ)、旧久々野町辻である。北側は高山市大島町になる。現在は峠の前後とも高山市だが、以前は高山市と久々野町との市町境であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。

   
(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 東西方向に僅か10数Kmの峠道だが、中央分水嶺を越えている。東の乗鞍岳から西の宮峠に至る中央分水界上に美女峠は位置する。

   

<水系>
 南は木曽川の支流・飛騨川水域にある。はっきりした川筋は見られないが、峠からは飛騨川の支流が流れ下っているものと思う。
 
 北側は大八賀川(だいはちががわが)の水域で、その支流の「下り谷」の更に支流が峠より流れ下る。大八賀川は宮川(みやがわ)に注ぎ、その後神通川(じんづうがわ)となって富山湾に注ぐ。
 
 峠は木曽川水系と神通川水系の境になる。

   
   
   

旧朝日村側より峠へ

   

<美女橋>
 峠道の南側起点は飛騨川に架かる美女橋(地理院地図)になる。長峰峠方面から遥々国道361号をやって来ると、「甲」(かぶと)という交差点の先が美女橋になる。橋の手前が高山市朝日町(旧朝日村)甲、渡った先が同町見座(みざ)になる。峠の所在で峠の南側は久々野町と記したが、この先少し峠道を登ると久々野町に入る。


甲の交差点 (撮影 2001. 5. 1)
前方が美女橋、手前が長峰峠方向
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以前の道路看板 (撮影 2001. 5. 1)
最近は国道361号はここで左折する

<国道361号の換線>
 以前の甲の交差点に立つ道路看板では、直進が「美女峠 361」となり、控えめながら美女峠に国道361号が通じていることを示していた。 ところが近年、国道は大きく換線された。美女峠の西1.6Km程に「飛騨ふる里トンネル」が開通し、国道361号はそちらに移ってしまったのだ。 よって、今では甲の交差点で国道は左折するようである。以前は県道87号が伸び、美女峠が冬期閉鎖だったり道の狭さを敬遠する車は、その県道で宮峠方面へと迂回して高山市街へと入って行った。

   

<見座>
 道は飛騨川右岸の緩傾斜地をゆったり登る。高山市朝日町(旧朝日村)の見座(みざ)という地だ。江戸期からの見座村、明治8年に朝日村の大字となっている。 美女峠への道は暫く見座内を登る。当面、道幅は十分あり、視界も広がる。険しさは微塵も感じない。

   
美女橋を渡った先 (撮影 2001. 5. 1)
緩傾斜地に道が通じる
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<林の中へ>
 しかし、程なくして道は山間部に入る。周囲を林に囲まれ、視界はなくなる。道幅も狭い。


そろそろ山間部へ (撮影 2001. 5. 1)
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林の中 (撮影 2001. 5. 1)
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<九十九折>
 林の中でちょっとした九十九折を登る。しかし、それ程険しいものではない。坦々と道は進む。
 
 
<眺め>
 九十九折の途中、麓の景色が広がる箇所があった(下の写真)。飛騨川沿いに田畑が広がるのどかな風景が眺められた。しかし、その後の木々の成長で、こうしたビューポイントは失われて行ったものと思う。

   
飛騨川の谷を望む (撮影 2001. 5. 1)
九十九折の途中より
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<美女高原農場>
 九十九折を過ぎ、道はほぼ峠方向に向く。すると左手に美女高原農場への入口が出て来る(地理院地図)。住所としては久々野町辻(つじ)にその農場は広がるようだ。辻は飛騨川右岸の山間部に位置する。


美女高原農場の入口前 (撮影 2001. 5. 1)
この右手に農場が広がる
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<美女高原>
 間もなく美女高原という大きな看板が出て来る。右に分岐がある丁字路の角だ(地理院地図)。地形図に標高で837.2mの記載がある地点になる。美女橋の袂で約720mなので、120m程登って来たことになる。看板には、「簡易宿泊、宴会、食事、喫茶、ボート、遊釣り」といろいろ謳っている。

   
美女高原 (撮影 2001. 5. 1)
左手前が麓、左奥が峠方向、右手方向に農道のような立派な道が延びる
右手奥に美女ヶ池がある
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美女高原の様子 (撮影 2001. 5. 1)
正面奥にロッジの建物、右手に美女ヶ池が広がる
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<美女ヶ池>
 美女高原の中心は美女ヶ池になる。その周辺にロッジやトイレ、キャンプ場などの施設が設けられている。池の看板には、「八百比丘尼伝説の池 美女ヶ池」と出ている。
 
 細々とした美女峠の峠道にあって美女高原は大きな施設で、車でも立ち寄り易い。地元住民の憩いの場といった雰囲気がある。


美女ヶ池 (撮影 2001. 5. 1)
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「美女峠の由来」の看板 (撮影 2001. 5. 1)
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<峠名の由来>
 ロッジの建物の前に「美女峠の由来」と題した看板が立っていた。文面の一部を以下に転記する。
 
 美女峠の由来
 昔、この峠には八百歳を超えてもなお若々しい比丘尼(びくに)が住んでいた。辻の池の主(大美蛇の変身)とも言われ眼もさめんばかりの美女であったところから美女峠と呼ばれるようになったと伝えられる。
 またこの付近は近年まで大野郡、益田郡の郡境になっていたため一名郡上界とも言われ、峠の半には「うば坂」と呼ばれるところがあるが比丘尼が何処でもうけて来たのか玉のように美しい子供を連れて来た。
その乳母に見座の某女が頼まれて雨の日も風の日も毎日通って居たので今だにその名が残されている。
 

   

<峠名>
 前述の由来はよくありそうなロマンティックな言伝えである。八百歳というのが面白い。「嘘八百」を連想させる。言伝えは言伝えで、このまま心に留めて置きたい。「辻の池」とあるのは現在の美女ヶ池のことだろうか。ただ、この池の現住所は朝日町見座で、久々野町辻ではない。また、現在は美女ヶ池で通っているが、「見座沼」という呼び名もあるようだ。
 
<郡上界>
 現実的な峠名として「郡上界」と記されている。文献(角川日本地名大辞典)にも、「「後風土記」は郡上界(ぐじようげ)といい、古代に大野郡から益田郡を分立した際の境界とする」とある。「ぐじようげ」と「びじょとうげ」という発音が似ているのが気になる。「郡上界」をもじって「美女峠」とし、気の利いた言伝えを添えたのではないかと思ったりする。

   

<木曽街道>
 「美女峠の由来」の看板の後半には次の様にある。
 
  木曽街道の由来
 この街道は木曽街道と呼ばれ古くは元明天皇の御代、神亀二年頃に開かれ飛騨の高山から美女峠を越えて朝日村に入り高根村を経て木曽の福島に至る重要な官道であり当時の観察使をはじめ信州、飛騨の交流の要であった。
 昭和五十年に国道三六一号線に昇格された。
  朝日村教育委員会
  朝日村観光協会

 
 木曽福島と飛騨高山を結ぶ道とは、前回掲載の長峰峠を主峠とする現在の国道361号に相当する。 そのかつての街道名についてはいろいろあり、必ずしも「木曽街道」に限られたことではないようだ。文献ではもっぱら「飛騨往還」としていた。 一部に「飛騨街道」とも呼んでいるが、この場合、飛騨に通じる街道一般を指す広義な意味だと思う。他には江戸街道・信州街道などの呼び名もある。現在の国道361号に関係した一般の看板・道標や道路地図ではほとんどが「木曽街道」としている。

   

<中部北陸自然歩道の看板>
 美女高原内ではなく、その前の丁字路の角に「中部北陸自然歩道」の看板が立っている。こちらにも美女峠の由来について書かれているが、前述の内容とほとんど同じである。
 
 また、「美女峠の里めぐりみち」と題してコース案内がされている。「朝日村を経由して 鈴蘭高原・野麦峠 長野県木曽福島方面」と矢印がある。
 
 コース案内の地図は上下逆さまで、下が北だ。里めぐりは御前(ごぜん)橋(地理院地図)のバス停で終わるとしている。地図を見ていて何だか変だと思ったら、美女橋がない。代わりにその隣の大橋(地理院地図)は書かれている。これは勝手な想像だが、美女橋が架かる前は朝日橋(地理院地図)を渡って現在の中部北陸自然歩道を美女峠へと向かったのが元の国道361号だったのではないだろうか。美女橋の竣工は平成8年(1996年)10月とのこと。とにかく、これらの看板は既に現状にそぐわないので、今頃は無くなっていることだろう。


中部北陸自然歩道の看板 (撮影 2001. 5. 1)
丁字路の側らに立つ
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中部北陸自然歩道の看板 (撮影 2001. 5. 1)
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中部北陸自然歩道の看板 (撮影 2001. 5. 1)
美女橋がない
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久々野町へ (撮影 2001. 5. 1)
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<旧町村境>
 美女高原を後に峠に向かう。ロッジの横を過ぎた直ぐ先で、以前は「久々野町」と出ていた(地理院地図)。「500mの間」ともあった。今は全て高山市となっているが、それまでは朝日村見座と久々野町辻との町村境になっていた。長峰峠の岐阜県側は高根村・朝日村・久々野町と続いて高山市に入っていたが、その内久々野町はこの僅か500mだけであった。
 
 今の国道361号は飛騨ふる里トンネルを抜けていて、久々野町を通る範囲は多くなった。尚、トンネルの高山市街側は高山市江名子町である。

   
旧町村境の様子 (撮影 2001. 5. 1)
   

<ゲート箇所>
 旧町村境から僅か100m先にはゲート箇所が設けてある(地理院地図)。冬期間通行止や道路情報の看板が立つ。「国道361号線 落石・崩土 通行注意」などとある。
 
 特に美女峠前後は冬期閉鎖なのが最大の弱点だった。「毎年12月25日から 翌年4月10日まで」となっていた。木曽福島から遥々国道361号をやって来て、高山市街を目前にここで足止めとなるのだ。こういう事情を知らないと、ちょっとびっくりである。


ゲート箇所 (撮影 2001. 5. 1)
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冬期間通行止の看板 (撮影 2001. 5. 1)

道路情報 (撮影 2001. 5. 1)
   

<江戸街道分岐>
 ゲート箇所からまた100m程行くと、左手に分岐がある(地理院地図)。入口に「旧江戸街道入口」と標柱が立っている。現在の美女峠は江戸末期に開設された道となる。それ以前はここより美女峠の少し西側で中央分水嶺を越え(地理院地図)、その後北に延びる尾根沿いを進み(地理院地図)、今の高山市塩屋町と高山市山口町との境を通って旧美女峠(地理院地図)に至り、山口町へと下って高山市街に入っていたそうだ。

   

「旧江戸街道入口」の標柱 (撮影 2001. 5. 1)

旧江戸街道方向を見る (撮影 2001. 5. 1)
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<旧美女峠>
 今の美女峠付近の標高は約865mで、旧美女峠では約940mとそれより高い。 旧美女峠は中央分水嶺ではないが、峠道の中で比較的高所にあり、山口町へと下る最終ポイントなので「峠」と呼ばれたものと思う。
 
<江戸街道>
 文献では江戸街道を信州街道とか木曽街道ともいうと記している。山口は宿場町として栄えたそうだ。ただ、前述の「美女峠の由来」の看板で出て来た「木曽街道」との使い分けが分からない。 神亀(じんき)などと西暦720年代の昔となれば、少なくとも美女峠前後に於いて、江戸街道=木曽街道である。
 
<案内看板>
 江戸街道分岐の近くだったと思うが、古めかしい案内看板が立っていた(下の写真)。既に色褪せ、落書きも多くて内容はほとんど読めなかった。看板の上下に「春は桜 秋は紅葉に美女峠」とか「清酒 山東(東山?)」、「斐太?」という様な文字が読める。なかなか味わい深い。

   

案内看板 (撮影 2001. 5. 1)
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案内看板 (撮影 2001. 5. 1)
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案内看板の拡大 (撮影 2001. 5. 1)
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 案内看板をよくよく見ると、中央にどうにか「美女峠」の文字が見られる。山間部に通じた道沿いなので旧美女峠だろうか。車道の方は太い線で描かれていて、大島、塩屋と続いている。

   
   
   

   

<峠>
 麓の美女橋から約3.4Kmで美女峠に至る。

   
美女峠 (撮影 2001. 5. 1)
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<峠の様子>
 峠部分は狭い切通しになっている。以前は市町境の看板が立っていた。高山市と久々野町の境であった。

   
美女峠の切通し (撮影 2001. 5. 1)
この時は峠の向こうは高山市
   

峠より久々野町辻方向を見る (撮影 2001. 5. 1)
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<峠の久々野町側>
 狭い道がそのまま峠に至る。久々野町側は峠の南側になるので明るい雰囲気はあるが、麓への眺望などはない。また、広い路肩などないので、車を停めるのは厄介だ。東に向かって林道が分岐していたようだが、容易には入り込めそうにない道だった。

   

<峠の高山市大島町側>
 大島町側から見てもこじんまりした峠だ。ここは中央分水嶺なのだが、そんな大それた雰囲気は全くない。大島町側でも林道が東へと分岐していた。その入り口にどうにか車が停められた。

   
高山市大島町側から見る美女峠(再掲) (撮影 2001. 5. 1)
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峠の看板 (撮影 2001. 5. 1)
峠の南側は旧久々野町 (500mの間)
「R361 美女高原まであと 0.5Km」

<峠の標高>
 文献では峠の標高を900mとしているが、これは旧峠の事だろうか。現峠は等高線で860mと870mの間に道が通じていて、約865mとした。美女橋との高低差約150mであった。
 
 一方、地形図に旧美女峠とある部分は等高線で940mと950mの間で、約945mとする。
 
 すると、文献の900mとは何処かということになる。ただ、美女峠の旧道はアップダウンの繰り返しとなる稜線上に通じていたので、何処を峠とするか難しい。標高もはっきり決め難いとも言える。
 
<市町境>
 また文献では、「高山市山口町と大野郡久々野町辻の境にある峠」としているが、これも腑に落ちない。旧美女峠は同じ高山市の山口町と塩屋町との境である。そもそも山口町は旧久々野町と接していない。一方、現美女峠は旧久々野町辻と高山市大島町との境にある。どうも新旧の峠が混ぜこぜになっているようだ。

   
大島町側から見る峠 (撮影 2002. 9.30)
この時が美女峠を越えた最後
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<峠の感想>
 初めて美女峠を越えたのは1995年で、次は2001年、その翌年にも越え、それが最後となった。まるで林道か寂れた県道の様な峠で、これでも国道だろうかと思うばかりだった。 それでも最後に越えた時は車の往来が多く、長く車を停めてのんびり写真を撮る暇がなかった。やっと一枚撮って(上の写真)、久々野町側へと急いで下って行った。

   
   
   

峠の大島町側

   

<大嶋通り>
 新しい美女峠の北側の道は、旧道とは全く異なるコースを辿る。高山市大島町に流れる大八賀川(だいはちががわ)沿いへと一気に谷を下って行く。この道の元は江戸末期に開設された「大嶋通り」とのこと。当時の大嶋村(現高山市大島町)を通っていたことによる名のようだ。
 
 飛騨川流域の住民にとって、尾根筋に通る旧道に代わりに、より良い峠道が望まれた。それにより高山市街への便が良くなる。しかし、当初は大嶋村の反対があったそうだ。 道の開削には土地の供出が必要だし、大嶋村にしてみれば高山市街側に自分たちの村がある。峠道の改良はあまり恩恵がなかったのかもしれない。 しかし、飛騨川流域の阿多野郷(あだのごう)37か村が一札を入れることで大嶋通りは完成した。それが明治以降に車道へと改良が進み、遂には昭和50年に国道361号へ昇格して行くこととなった。
 
<下り谷沿い>
 峠からは大八賀川の支流・下り谷の更に支流が流れ下る。峠から1.5Km程も下ると、その下り谷左岸沿いになる。峠の久々野町側に比べれば、峠道らしい峠道だ。ただ、あまり視界は広がらない。

   
下り谷左岸沿い(地理院地図) (撮影 2002. 9.30)
峠方向に見る
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<大八賀川沿いへ>
 峠から2Km弱下ると(地理院地図)、谷の底に大八賀川の本流を望むようになる(下の写真)。左岸の高みに道の続きも見える。なかなか壮観な眺めだ。

   
眼下に大八賀川本流を望む (撮影 2001. 5. 1)
手前が峠方向
ここで大八賀川は大きく湾曲している
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大八賀川沿いの様子 (撮影 2001. 5. 1)
川沿いに道が通じ、水田が耕作されている
   

<高山市塩屋町へ>
 道は大八賀川左岸沿いに下る。沿道には木々が多く、あまり眺望はない。いつしか高山市大島町から高山市塩屋町へと入る。どこが境界だった分からない。それにしても大島町の集落はどこにあるのだろうかと思う。
 
<ゲート箇所>
 峠から5Km弱でゲート箇所を通過する(地理院地図)。そろそろ人里の雰囲気だ。美女峠の旅はそんなに長いものではない。

   

ゲート箇所 (撮影 2001. 5. 1)
峠方向に見る
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ゲート箇所の様子 (撮影 2001. 5. 1)
   

<塩屋町内>
 沿道に人家が見られるようになる。高山市塩屋町の中心地も近い。塩屋町では南北方向に走る国道361号と、ほぼ東西方向に通じる県道462号・岩井高山停車場線が主な幹線路だ。この県道を行くと、大八賀川の支流・生井川沿いに遡り、駄吉峠(仮称)へと至る。
 
<峠道の終着>
 最近の道路地図では美女峠を越える道が国道表記ではなくなったので、元のルートを見付け難くなった。県道462号と交差した(地理院地図)少し先から、道は大八賀川の左岸沿いになり、ほぼそのまま国道158号に接続する(地理院地図)。そこを左に行けば高山市街、右に行けば安房峠越えとなる。

   
塩屋町内 (撮影 2002. 9.30)
峠方向に見る
この先で人家が途切れる
   

<冬期間通行止>
 塩屋町内を峠方向に進んで来ると、途中で冬期間通行止の看板が立っている(地理院地図)。

   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994. 3.22)
この時は冬期間通行止の最中だった
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

冬期間通行止の看板 (撮影 1994. 3.22)
   

前の写真より少し手前の位置 (撮影 1994. 3.22)
この時は国道361号の案内看板が立っていた

<余談>
 1994年3月に初めて美女峠を越えようとやって来た。前日、古川町(現飛騨市古川町)に投宿、当日は高山市街を抜け、わざわざ美女峠を越えるため、塩屋町へとジムニーを走らせて来た。 すると冬期間通行止の看板が立っているではないか。4月10日まで通行止とある。今日中には東京の自宅まで帰らなければならない。
 
 急遽、高山市街方向に戻り、宮峠を越え、美女橋の袂で国道361号に入った。この時はその先の国道上でも工事があり、迂回路が示されていたりした。 それでもどうにか長峰峠を越え、木曽福島から塩尻に出て、高速に乗って帰って行った。まだ30歳代半ばで、元気なものだった。

   
国道361号の案内看板 (撮影 1994. 3.22)
   

 今なら飛騨ふる里トンネルが開通していて、美女峠が通行止になっていても何の苦労もない。その反面、今後は美女峠の存在に気を留める者が少なくなることだろう。また、国道ではなくなったことで保守なども行き届かず、峠道が寂れてしまうのではないかと心配だ。

   
   
   

 思いもかけず美女峠を越えた時の写真が多く見付かり、嬉しい限りだ。美女峠は本の小さな峠道なので、素通りばかりでろくに写真も撮らなかったと思い込んでいた。 それが美女高原に立寄ったり、旧江戸街道の分岐を眺めたりと、いろいろしていたことが分かった。もう20年も前の旅の一コマで、懐かしさに一杯となる、美女峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1994. 3.22 高山市塩屋町内の美女峠手前で通行止、引き返し/ジムニーにて)
・1995. 5. 5 高山市→旧久々野町/ジムニーにて
・2001. 5. 1 旧久々野町→高山市/ジムニーにて
・2002. 9.30 高山市→旧久々野町/キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月発行 昭文社
・日本の分水嶺 堀公俊著 2000年9月10日発行 山と渓谷社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2022 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
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