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分杭峠
 
ぶんぐいとうげ No.193
 
峠名の由来となった大きな石柱が立つ峠
 
(初掲載 2012. 3.13  最終峠走行 2011. 5. 6)
 
  
 
分杭峠 (撮影 2000. 5. 3)
手前は長野県下伊那郡大鹿村鹿塩(かしお)北川
奥は同県伊那市長谷(はせ、旧長谷村)市野瀬(いちのせ)粟沢
道は国道152号(旧256号)・秋葉街道
峠の標高は1,424(峠に立つ看板より)
ジムニーの真後ろに標高を記した峠の看板が立つ
まだ世間であまり注目されていない頃の分杭峠
最近は変貌を遂げている
(このページは「パワースポット」とは関係ありません)
 
 
峠名のことなど
 
 長野県茅野市中河原で国道20号・甲州街道から分かれ、日本最大の断層・中央構造線に沿って南下する国道152号上には、杖突峠、分杭峠、地蔵峠青崩峠兵越峠)といった粒選りの峠が揃っている(青崩峠には車が通れる道がなく、代わりに兵越峠に車道が通じている)。その中でも分杭、地蔵、青崩(兵越)はなかなか険しい三大峠である。今回やっとその一つの分杭峠を掲載する運びとなり、めでたく三つの峠が揃うこととなったのだった。
 
 峠名の「分杭」は、一般的には「ぶんい」と呼ばれているようだ。しかし、峠に立つ看板には「Bunkuitoge」とローマ字書きされている(右の写真)。「ぶんい」か「ぶんい」かで迷うこととなるが、まあ、大したことではない。「ぶんぐい」の方が音の響きが良い気がするので、ここでもそう呼ばせてもらう。
 
 尚、どこかで「ぶっくい」と読んでいる例があったように記憶する。もうその出処などさっぱり覚えていないが、一時期は「ぶっくい」、「ぶっくい」とこの峠を呼んでいた。なかなか良い音の響きがあるではないか。しかし気が付くと、ほとんどの場合で「ぶんぐい」と呼んでいて、どこを見ても「ぶっくい」の陰も形もない。今ではその根拠も分らなくなっているので、最近では仕方なく「ぶんぐい」に改めたのだった。

峠に立つ看板 (撮影 2011. 5. 6)
 

「従是北 高遠領」の石碑 (撮影 2011. 5. 6)
右隣に小さな石像が佇み、その前にはお賽銭
 分杭峠の名前の由来は、峠の切り通しに立てた「従是北 高遠領」(これよりきた たかとおりょう)と刻まれた石柱によるとされる。江戸期、この峠の北側は高遠藩の領地、南は幕府の天領で、高遠藩はその境界を示す分杭を峠に立てた。それが元でこの峠を分杭峠と呼んだと言う。但し、この名が使われだしたのは時代が明治になってからとのこと。
 
 現在の峠にも「従是北 高遠領」と書かれた大きく立派な石柱が立つが、残念ながらこれは複製なんだそうだ。元々あった石柱は昭和49年に盗まれ、現在の物は昭和51年に新たに建て替えたとのこと。峠であの石柱を眺め、秋葉街道と呼ばれた頃の峠の深い歴史に思いを馳せたいところだが、レプリカでは全くもって残念だ。個人であんな物を所持して眺めてみても、何の価値があるのだろうか。あるべき所にあってこそ、歴史的価値があるだろうに。
 
 尚、分杭峠は別名、鹿塩峠とか市野瀬峠などとも呼ばれたそうだ。鹿塩(かしお)は峠の南側の大鹿村の地名、市野瀬(いちのせ)
は北側の旧長谷村の地名である。鹿塩峠は長谷村側からの呼称、市野瀬峠は大鹿村側からとなるのだろう。また、「粟沢峠」などと言うのもあるようだ。粟沢は長谷村側の地名であり、同時に川の名前でもある。
 
 峠の標高は、峠にある看板(前出)に1,424mとある。しかし、よくよく見ると、標高を示す数値には過去に書き換えられた形跡がある。国土地理院の1:25,000地形図を見ると、車道の峠の標高は1,420mもなさそうだが、当然ながら昔の峠はもっと高い位置にあったのだろう。文献などでは1.427mなどといった数値も見える。現在の看板が示す1,424mとは、今の車道の峠だろうか、それとも古(いにしえ)の分杭峠のことだろうか。現在、深い切り通しで車道が通じる分杭峠を眺めてみると、昔の峠は今よりも10m近く高かったのではないかと想像するのだが。
 
 尚、国道152号上の他の峠は、杖突峠1,247m、地蔵峠1,314m、兵越峠1,168m(車道でない青崩峠は1,082m)であり、この分杭峠が一番高いことになる。
 
 
高遠から峠を目指す
 
 この峠道の北側の起点はやはり高遠町であろう。現在は伊那市の一部となっているが、高遠の名は古く、高遠城の城下町であり、街道の宿場町であった。東に赤石山脈(南アルプス)を望む中央構造線上の町村の中では、最も発達している。その町中を三峰川(みぶがわ、天竜川水系)が西流し、北の杖突峠方面から流れ下って来た藤沢川が合流する。
 
 三峰川は赤石山脈の仙丈岳の西麓付近に源を発し、旧長谷村地内を南に大きく迂回して高遠町市街へと達している。その途中にある支流・粟沢川の上流域に分杭峠は位置する。
 
 高遠で有名なのは、勿論高遠城址公園の桜である。見頃の時期は高遠市街は大混雑し、不用意にマイカーで乗り込むと、大変な目に遭う。

高遠の町並み (撮影 2002. 4. 6)
高遠城址公園より望む
 

高遠ダム (撮影 2002. 4. 6)
分杭峠への国道152号はこの湖の左岸を行く
 高遠城址公園以外の見所として、公園の南方にある「絵島囲み屋敷」がある。その近くから三峰川本流に築かれた高遠ダムの湖が眺められる。情緒のある町並みには似つかわしくない無骨な構造物に見える。分杭峠へと続く国道152号は、賑やかな高遠市街を後に、高遠湖の左岸を南へと進んで行く。
 
 
美和湖
 
 高遠湖を過ぎると、その上流で国道は三峰川の右岸に渡り、間もなく高遠湖よりずっと大きな美和湖(みわこ)が右手に現れる。美和ダムの堰堤付近は大きな公園となっていて、無料駐車場もあり、のんびりと憩える場所となっている。
 
 ダムや湖の名前となっている「美和」は、この近辺の地名にはもう見られない。高遠町や長谷村が伊那市になる前、美和ダムの左岸は高遠町勝間、右岸は長谷村非持(ひじ)であった。更にそれより以前、長谷村内の3か村、非持、溝口、黒河内(くろごうち)が合併した美和と呼ばれる一つの村があったそうだ。三峰川の支流・山室川と黒川に挟まれる地域である。美和村は明治22年から昭和34年まで存在していたらしい。美和湖の完成はその昭和34年11月だそうだ(美和ダムには昭和33年3月竣工とあるが)。美和村の名は美和湖や美和ダムへと引き継がれている訳である。

美和湖 (撮影 2011. 5. 6)
湖の先には遠く分杭峠のある峰を望む
 

美和湖周辺の案内図 (撮影 2011. 5. 6)
美和湖周辺公園に立つ
(上の画像をクリックすると拡大画像が出てきます)

分杭峠近辺の航空写真 (撮影 2011. 5. 6)
美和ダム管理支所内「みわっこ」館内にて
(上の画像をクリックすると拡大画像が出てきます)
 

道の駅「南アルプスむら長谷」 (撮影 2011. 5. 6)
 ダムを過ぎると左より県道211号が合流する非持の交差点を通り、その先左手に道の駅「南アルプスむら長谷」がある。比較的最近になってできた。美和湖沿岸を走る国道は比較的閑散としていて、沿道に空き地なども多く、車を停める所に不便することはあまりない。この道の駅の出現は、それ程ありがたいと思ったことはない。また美和湖を眺めるなら、美和ダムの公園の方が良く、トイレもそちらにある。
 
 湖の中央部分に赤い欄干の橋が架かっている。神田橋と呼ぶ。その袂付近は長谷村役場もあった旧長谷村の中心地で、今は伊那市役所の支所が置かれている。その近辺で国道より湖岸へと入る道があり、「中央構造線公園」と案内に出ている。その先には僅かな駐車場が付属する小さな公園がある。そして園内の湖岸で溝口露頭が見られる。
 
 国道152号線沿いでは、こうした露頭が所々で見られる。露頭とは断層の様子が地表に現れている場所で、生きた地質学の教科書である。しかし、専門知識がないと、ただ「ふ〜ん」と眺めるだけで、面白くも何ともない。
 
 旧長谷村の中心地・溝口を過ぎると、国道沿いは更に寂しくなる。国道より一本東側にバス道路が通るが、そちらに人家が集中しているようだ。熱田神社などもそちらの沿道にある。昔の秋葉街道もその道かとも思ったが、美和湖が出来てしまった今では、昔の様子は想像できない。
 
 町中を避けるように湖岸を通した現在の国道は、快適な二車線路で、右手に湖を眺める。1996年の夏の午後、見知らぬ男性と二人、この寂しい湖畔に佇んだことがある。男同士で並んで腰を降ろし、ぼんやり湖面を眺めていた。この先の戸台口から分かれる黒河内林道途中で事故に遭ったのだった(車のトラブル/路肩に注意)。

美和湖を右に見る (撮影 2011. 5. 6)
寂しい雰囲気となる
 
 すれ違いざま、未舗装林道の路肩が崩れ、対向車が小黒川の谷に落ちて行った。幸い相手の男性に怪我はなく、落ちた車を引き上げる算段をした。私の車に彼を同乗させ、長谷村市街まで引き返し、電話でレッカー車を依頼する。そのレッカー車が来るまで、彼と二人で美和湖を眺めていたのだった。
 
 両人とも心中は惨憺たる状態だが、別にすることもなく、近くの自販機でコーヒーなど買って飲み、ひたすらレッカー車の到着を待つのだった。顔は湖の方を向いてはいても、湖の景色は目に入ってはいなかった。あの狭い林道に大きなレッカー車が入るのだろうか。落ちた車を引き上げるには、道を封鎖することになるが、そんなことできるのだろうか。いろいろ不安がよぎる。
 
 その後、やって来たレッカー車を先導して、事故現場に戻った。急カーブや対向車がある時には、車を降りて誘導する。結果的にどうにか車を引き上げることはできたが、大変な一日であった。
 
 
戸台口
 

戸台口の分岐を示す看板 (撮影 2011. 5. 6)
 美和湖の尻尾の方に、また一つ堰堤があり、対岸に高い橋脚の道が築かれているのが見渡せる。その堰堤近くにこの先にある戸台口(とだいぐち)の分岐を示す看板が立っている(左の写真)。
 
 戸台口を三峰川の支流・黒川沿いに東へ折れる方向には、「南アルプス国立公園、入笠山(にゅうかさやま)23Km、戸台7Km、3Km南アルプス林道、南アルプス林道バスのりば、保養センター仙流荘(せんりゅうそう)2.5Km」などとある。
 
 戸台は、赤石山脈を北沢峠で越える南アルプス林道の長野県側起点である。この林道は一般車通行止で、一般人はバスを利用することとなる。山梨県側の広河原からバスで北沢峠に行ったことがあるが、今度は是非こちらから登ってみたいと思っている。戸台までの途中にある仙流荘はリーズナブルな価格の宿で、一度泊ったことがある。登山客の利用が多いようで、宿の前からも北沢峠行きのバスに乗れたと思う。
 
 戸台から先は入笠山方面に続く黒河内林道であり、事故さえ遭わなければ、楽しい道だ。
 
 前方に赤い欄干の橋が見えれば、その前が戸台口で、左に戸台への道が分岐する。ここには戸台口のバス停があり、「分杭峠 9Km」などと看板が並ぶ。
 
 現在の国道上に架かる赤い橋の左隣に、古ぼけたコンクリート製の橋の支柱だけが残る。こちらが昔の国道だと思う。現在の町中を走るバス路線が丁度この橋の前へと通じて来ている。以前はそちらが本線で、そのコンクリート製の橋を渡り、分杭峠へと通じていたのだろう。
 
 国道が三峰川を渡ると、その直ぐ先で右に入る細い道がある。支流の女沢沿いを行く女沢林道に通じる。その道は女沢峠と呼ばれる峠を越えていることになっているが、2度挑戦して、2度とも峠に行き着くことができなかった。

戸台口の分岐 (撮影 2011. 5. 6)
左折は戸台へ、直進は分杭峠へ
 

三峰川の左岸を行く (撮影 2011. 5. 6)
 戸台口で三峰川の左岸に渡った国道は、それ以後ずっと左岸を遡る。左手に石の河原を広げた三峰川を間近に見て車を進める。ここは正しく中央構造線の谷間に位置するが、谷底はまだ広く開放的で、険しさは感じない。
 
 その内、快適な二車線路の国道の先に、大きな集落が見えてくる(下の写真)。分杭峠の旧長谷村側では最も奥に位置する大きな集落、市野瀬だ。
 
国道沿線の景色 (撮影 2011. 5. 6)
前方にそろそろ市野瀬の集落が見えてきた
 
 
市野瀬集落
 
 ただ、現在の国道は市野瀬集落の中を避け、三峰川沿いにバイパスしている。国道の右手の一段下がった所に市野瀬の人家が集中しているのが見える。
 
 古い秋葉街道はこの市野瀬宿を通っていた筈である。集落内に入り込んだことはないが、古い街道筋の面影を残しているかもしれない。今度機会があったら立寄ってみようと思う。

右手に市野瀬の集落 (撮影 2011. 5. 6)
 

この先左に浦への分岐 (撮影 2011. 5. 6)
分岐方向に浦、杉島、宇津木とある
 国道が市野瀬の集落をバイパスした先で十字路があり、そこを右は市野瀬集落内に戻る。左は三峰川の支流・粟沢川を渡り、尚も三峰川の本流沿いに遡る。一方、直進の国道は粟沢川の左岸沿いに分杭峠を目指すことになる。
 
 三峰川は赤石山脈の西面を流れ下り、伊那山地を貫いて天竜川に注ぐ本流であり、いつまでも三峰川を遡っていては、赤石山脈に車道が通じていない限り、いつかは行止りとなる。しかし、三峰川の上流域がどんな所かちょっとのぞいてみたい気がする。何でも平家の里・浦(うら)があるそうな。また、その集落からは前浦林道という道が直接分杭峠に通じていることになっている。これなら無駄もない。
 
 
浦へ寄り道
 
 浦方向の道は、県道212号で杉島市野瀬線と呼ぶ。ここより三峰川の上流には、杉島と浦などの大字が見られる。粟沢川を渡る橋は近年架け替えられたようで、二車線路の立派な橋になっている。橋の袂に「粟沢掘抜橋」と書かれた石碑が建つ。橋の先も立派な県道で、そのまま行くと三峰川の右岸に渡るが、浦へは途中で県道を外れ、左岸に戻る。標識が完備されているので、それに従えば問題ない。

市野瀬の分岐 (撮影 2011. 5. 6)
浦方向を背にして見る
前を横切るのが国道で左が峠方向
直進すると市野瀬の集落へと入る
 

浦集落の入口 (撮影 2011. 5. 6)
右に分杭峠へ続く道が分岐する
 道は川沿いを離れ、山へと登って行く。狭い舗装路が続く。1.5Kmほどしてやっと人家が現れる(左の写真)。浦集落の入り口だ。そこを右に道が分岐する。直進すると集落内に入るらしい。浦村は文献によると「平家の嫡流小松三位中将惟(維?)盛卿隠遁の地」だそうだ。多分「へいけのちゃくりゅう こまつさんいちゅうじょうこれもりきょう いんとんのち」と読むのだろうが、あまり自信がない。
 
 その浦村をじっくり訪れたいとも思ったが、道は狭く、車を停める場所にも苦労しそうだ。分岐で迷っていると、後続車が来た。慌てて分杭峠方向の右へ曲がると、その軽トラも一緒について来るではないか。追い立てられるように前進し、途中の路肩に停まってやり過ごしたのだった。
 
 結局、分杭峠へ続く筈の前浦林道は、土砂崩落の為通行止とあり、数100mも行かない内に、あえなく退散となった。平家の里・浦集落も、気持ちが萎え、寄らずじまいになってしまった。

林道前浦線は通行止 (撮影 2011. 5. 6)
面白そうな林道が続いているのだが、残念
 
 
市野瀬集落から先
 

市野瀬集落から先の国道 (撮影 2011. 5. 6)
いろいろな看板が立っている
 市野瀬集落内を秋葉街道の古道が通じていたのだろうが、集落を抜けてそのまま直進すると、三峰川の上流、浦集落方向になってしまう。集落を抜けた後、分杭峠を目指す秋葉街道は右折していたのだろうか。現在の国道はセンターラインもある立派な二車線路が一筋に延びていて、漫然と走っていると、市野瀬集落や浦への分岐などは、見過ごしてしまう存在である。
 
 代わりに、市野瀬集落を過ぎた先で、道路脇にいろいろ目に付く看板が立っている。「この先分杭峠 大型車両 通り抜けできません」とか、「国道152号分杭峠 積雪のため チェーンが必要です」などとある。2011年の5月には、大鹿村側の北川地籍で土砂崩落による時間通行止が行われていて、冷やりとしたが、無事に工事の時間帯を外すことができた。
 
 いろいろある看板の中で、過去に見たことがない物が近年仲間入りしてきている。ゼロ磁場とかパワースポットとかである。分杭峠はこれで一挙に有名になった感がある。そのあおりで、分杭峠は一般車駐車禁止で、峠を訪れるならシャトルバスを使いなさいと言うことになっている。峠の趣味もやり難い世の中になってしまったものだ。
 
 国道は粟沢川沿いになると、直ぐにセンターラインもない狭い道となる。沿道に人家はほとんど見られない。左の崖下を流れる粟沢川沿いに僅かに人家が見られた。粟沢の集落だと思う。

シャトルバスの看板 (撮影 2011. 5. 6)
 

センターラインが消えた道 (撮影 2011. 5. 6)

細い道が続く (撮影 2011. 5. 6)
 
 
シャトルバス発着所
 

シャトルバス発着場の手間 (撮影 2011. 5. 6)
 狭くなった道が、一時期だが二車線路に戻る。すると峠行きのシャトルバス発着所が左手に現れる。偶然だが、2002年に発着所付近を写した写真が残っていた(下の写真)。その頃はまだ何もなかった。側に立つ国道標識には、「長谷村 粟沢」とある。この付近から先の道には、人家も存在しない。
 
 どうやら数年前(2009年頃)にテレビなどでパワースポットとして分杭峠が紹介されたらしい。それでシャトルバスも運行されるような賑わいとなった。今は「分杭峠付近には駐車場がありません」と注意看板が立っている。以前の分杭峠は、車の停める場所に苦労するような峠ではなかった。どんな事態になっているのかと、そら恐ろしいことである。
 
 

シャトルバス発着場 (撮影 2011. 5. 6)
国道標識は「伊那市 粟沢」とある

左とほぼ同じ場所 (撮影 2002. 4. 7)
この時、国道標識はまだ「長谷村 粟沢」である
 

また狭い道 (撮影 2011. 5. 6)
 シャトルバス発着所を過ぎると、また直ぐに狭い道に戻る。峠好きなら苦になるような道ではないが、ここに多くの車が訪れたら、それは厄介なことになる。幸い、訪れたのがゴールデンウィーク直後の平日で、交通量は以前と変わりなかった。すなわち、一台の車もやって来ない。
 
 
粟沢川を詰める
 
 ここまでの分杭峠を目指す峠道は、ほぼ南に向かって真一文字に来ている。中央構造線の面目躍如といったところだ。古い秋葉街道はそのまま粟沢川の上流域を分杭峠に向かって直登していたと思われる。しかし、後から開削された車道は、峠直下の急登を避け、西の山腹を迂回して築かれた。
 
 国道を峠に向けて南へと走って来ると、右手に登る道のガードレールが目に入って来る(右の写真)。周囲は粟沢川の谷間が狭まり、如何にもどん詰まりと言った感じである。正面にある筈の分杭峠が越えている峰も、木々が邪魔をしてあまりよく見えない。

前方に右手の山を登る道が見える (撮影 2011. 5. 6)
 

粟沢川を詰めた地点 (撮影 2011. 5. 6)
直進方向は立ち入り禁止
峠への道はここより右カーブで山腹を登って行く
 すると、これまであまり屈曲がなかった道が、急な右のヘアピンカーブで方向を180度転換し、先ほど見えていたガードレールの道を登りだす。ヘアピンカーブの途中からは、粟沢川の上流方向へ、治山ダム用の作業道のような未舗装路が延びている(左の写真)。その荒れた道が、本来の秋葉街道と重なる道ではないだろうか。但し、立ち入り禁止となっている。ちょっとのぞくと、粟沢川に設けられた大きな治山ダムが行く手を阻んでいる。
 
 粟沢川沿いを離れた国道は、西の駒ヶ根市との境を成す伊那山地の峰へと登りだす。そこには中沢峠がある。現在の分杭峠への道は、その中沢峠をかすめて分杭峠に至っている。
 
 粟沢川を離れてからは、ある意味中沢峠の峠道と言える。本来の分杭峠の道は、粟沢川沿いをそのまま峠に至っていたのだから。ただ、中沢峠が古くからあった峠かどうかは分らない。現在の中沢峠への登りは、大きく蛇行する道で、如何にも車道として開削された感じである。
 
 
中沢峠へ
 
 一旦北へと方向を転換した道が、また南へとヘアピンカーブで戻って行く。そのカーブ途中に分岐がある。地図上では市野瀬集落から続いて来ている道だが、入口にはバーが渡され、進入禁止となっている。
 
 分杭峠は標高だけは高いが、旧長谷村側からだと、あまり登ったという印象を受けない。唯一、粟沢川沿いから中沢峠までの区間は、しっかり登っている。ヘアピンカーブとちょっとした九十九折りと、如何にも峠道という感じだ。

上に折り返しの道 (撮影 2011. 5. 6)
この先右に、市野瀬方向への分岐があるが通行止
 

中沢峠までの道の様子 (撮影 2002. 4. 7)
シャトルバスなど来ないように
 道幅も、それなりに狭い。そして誰も来ない峠道なら、寂しく旅情を感じる場面である。しかし、今では落ち着いて車を走らせることはできなくなった。こんな所でシャトルバスと出くわしたら、目も当てられない。
 
 
 西の駒ヶ根市との境となる峰の頂上近くになると、東の粟沢川の谷が広く見えてくる。すると前方に青い大きな道路標識が現れる(下の写真)。右手(西)へ分岐があることを示している。分岐する道は県道(主要地方道)49号・駒ヶ根長谷線。看板には分岐方向に「駒ヶ根IC 駒ヶ根市街」とある。その道の先が中沢峠である。実際の分岐点は看板がある所より数10m先となる。
 

道路看板が現れる (撮影 2002. 4. 7)
10年前と今ではあまり変わりはなさそうだ

左とほぼ同じ場所 (撮影 2011. 5. 6)
 

道路看板 (撮影 2011. 5. 6)
国道152号の行先は大鹿村
県道49号の行先は駒ヶ根市

道路看板を少し過ぎた地点 (撮影 2011. 5. 6)
この直ぐ先に分岐がある(立て看板がある所)
 
 
中沢峠に到着
 
中沢峠 (撮影 2011. 5. 6)
手前が駒ヶ根市中沢
奥が伊那市長谷(旧長谷村)市野瀬
標高は1,317m(国土地理院の1:25,000地形図より)
道は県道(主要地方道)49号・駒ヶ根長谷線
この直ぐ先が国道152号との合流点
 
 分杭峠を目指す国道152号は、ほとんど峰の頂上をかすめるので、分岐を曲がると直ぐそこが中沢峠である。何だか分杭峠のおまけのような存在だが、中沢峠としっかり名前も付いてるし、国土地理院の1:25,000地形図には、峠名だけでなく標高(1,317m)まで記されている。一方、分杭峠の方には標高の記述がない。
 
 この中沢峠も独立した一つのページにしたいところだが、分杭峠との切り分けが難しいので、簡単ながら一応ここで掲載しておこうと思う。

分岐を分杭峠側より見る (撮影 2000. 5. 3)
こちらにも同じような道路看板が立つ
国道152号の行先は高遠、長谷
 

道路看板が立つ所 (撮影 2011. 5. 6)
分岐を背に長谷方向に見る

分岐より道路看板の方向を見る (撮影 2011. 5. 6)
この左手が中沢峠
 
 
中沢峠の様子
 
 国道の分岐から中沢峠を見ると、僅かに道が登っているようだが、やっぱりあまり峠らしく見えない。ただ、分岐周辺の国道標識や県道標識には、「伊那市 中沢峠」とか「駒ヶ根市 中沢峠」と書かれていて、ここが中沢峠であることは明白である。
 

国道側から峠を見る (撮影 2002. 4. 7)
左端に木の看板が見える

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 3)
ジムニーが停まる場所は
今は仮設のガードレールで入れない
崖崩れの危険があるようだ
 

分岐に立つ木の看板 (撮影 2002. 4. 7)
 分岐には木の看板が立ち(左の写真)、次のようにある。
 
 こゝは中沢峠 (現在はほとんどかすれて読めない)
 駒ヶ根市へ
 
 大鹿村へ
 分杭峠まで13km
 
 「分杭峠まで13km」とあるのは、「1.3km」の誤りと思われる。コンマが消えてしまっているようだ。2002年4月の時は「大鹿村へ」の板が落ちてしまっていたが、2011年5月の時点では修復されていた。
 
 この看板には「こゝは中沢峠」と峠の名前が書かれてあったようだが、残念ながら今では文字がかすれてほとんど読めない。
 

峠より駒ヶ根市方向を見る (撮影 2002. 4. 7)

 左とほぼ同じ場所(撮影 2011. 5. 6)
上伊那森林組合の車が停まる
今の中沢峠は車の停め場所にちょっと困る
 

県道標識 (撮影 2011. 5. 6)
「中沢峠」の文字がある
 中沢峠に関しては、文献などを調べてもほとんど情報がない。分杭峠などの歴史のある峠ではないのかもしれない。峠名の由来については、駒ヶ根市側に「中沢」(なかざわ)の地名があるので、そこからきたものと推測するばかりだ。
 
 古くは中世、天竜川の東、三峰川より南の地域に中沢郷(なかざわごう)が存在し、「中沢」の地名はそれに由来するらしい。北の三峰川と南の小渋川の両渓谷に挟まれた谷間(沢)の地であることから、「中沢」と呼ばれたとも。
 
 明治8年から22年にかけては中沢村と呼ばれる村があったそうだ。現在は駒ヶ根市の一部である。中沢峠付近に源を発し、伊那山地の西面を下る新宮川(しぐがわ)が、駒ヶ根市中沢を深い開析谷を作って西に流れ、天竜川に注いでいる。開析谷とは地形名称の一つで、軟弱な粘性土、砂質土が不均一に堆積した谷だそうだ。最近、自宅を建てようと土地を探していて、地形の知識を少しかじったのだった。
 
 県道49号を駒ヶ根市の方から登ってく来ると、中沢峠はそれなりに峠らしく見える。峠直前に道路看板が立ち、この先で国道152号に突き当たることを示している。
 
 1993年の11月下旬に、ジムニーを修理に出している間、借りていたレンタカーでこの地を訪れた。大鹿村側から分杭峠を目指したが、途中で雪の為、引き返さざるを得なかった。ノーマルタイヤの二輪駆動では、この時期、分杭峠を越えるのは無理なようだった。
 
 一旦伊那盆地へ出て、天竜川沿いを遡り、こんどは県道49号で中沢峠を試みる。すると無事に峠に至り、国道152号上へと戻れたのだった。
 
 中沢峠でぶらぶらしていると、意外と県道49号の利用が多いことに気付く。分杭峠経由で大鹿村と行き来するより、駒ヶ根市と旧長谷村間で行き来する車の方が多いように見受けられるのだ。赤石山脈と伊那山地に挟まれた、同じ山間の地である長谷村と大鹿村同士より、開けた伊那盆地との間での通行が多いということだろうか。
 
 ただし、「多い」と言っても、中沢峠を越える車を1台か2台見掛け、その間に分杭峠を越える車は1台も見なかったという程度のことだ。元々この山の中の寂しい交差点に、交通量なんて言えるほどの車の往来はないのであった。

駒ヶ根市側から峠方向を見る (撮影 1993.11.28)
道路看板は、左は茅野・高遠、右は大鹿
この時はレンタカーのパルサーで来た
アスファルトの路面がまだ新しい
 

峠から国道の分岐を見る (撮影 2011. 5. 6)
国道沿いにいろいろな看板が立つ

左とほぼ同じ場所 (撮影 2002. 4. 7)
国道沿いにミラージュを停めた
この頃は国道沿いに、ほとんど何の看板もない
 
 駒ヶ根市側から登って来て中沢峠を越えると、目の前を横切る国道152号のその先に、深い谷を挟んで高い峰が横たわる。ただ、それ程絶景という訳ではない。同じ伊那山地を越える峠として赤石峠(あかいし)があるが、あちらは赤石隧道を抜けた先の景色がすばらしい。赤石山脈・通称南アルプスを望むのだ。一方、こちらの中沢峠は、東の三峰川本流の谷とを隔てる峰が邪魔をし、南アルプスの主脈ははほとんど見られない。
 
 最近は、中沢峠を越えて来ると、沢山の看板が迎えてくれる(下の写真)。簡単に言うと、分杭峠で車を停めるな、シャトルバスを利用しろ、ということである。実際にシャトルバスが走っているところをまだ見たことがないが、この交差点をマイクロバスや多くのマイカーが行き交うとなると、これまでとは全く異なる景色が展開されることとなる。
 
国道沿いの看板 (撮影 2011. 5. 6)
 

粟沢川を見下ろす (撮影 2002. 4. 7)
大きな砂防ダムを迂回して、未舗装路が上流へ続いている
 中沢峠近くの国道脇から中央構造線の谷底を見下ろすと、粟沢川に築かれた砂防ダムが見える(左の写真)。国道の最初のヘアピンカーブより分岐する作業道が、そのダムを迂回し、右岸に沿って川を遡って行く。古(いにしえ)の秋葉街道はその付近に通じていた筈である。砂防ダムができた今では、古い道筋は消えてしまっているだろうが、谷筋に細々と通じているその未舗装路が、まるで秋葉古道のように思われた。
 
 
県道分岐から先
 

県道分岐から分杭峠方向を見る (撮影 2011. 5. 6)
 県道分岐から分杭峠まで、看板にもあったように、約1.3Kmの道程である。この間、左手には中央構造線の深い崖を見下ろし、右手には伊那山地の峰を仰ぎ、地形的にはなかなか険しい区間である。その代わり、開けて気分が良い道となっている。ただ、道幅は相変らず狭く、待避所もあまりないので、小型車同士でも車の離合は苦労する。
 
 道路脇にミネラル水の宣伝看板が立っていたが、確か浦集落から前浦林道を少し進んだ所で、水の販売所があった。知らずにその前を通過したら、近くの人家から人が出てきた。あんな奥地までミネラル水を買いに立寄る人がいるのだろうか。
 

県道分岐から分杭峠方向を見る (撮影 2011. 5. 6)
国道標識は「伊那市 中沢峠

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 3)
国道標識にはまだ「長谷村 中沢峠」とある
 
 分杭峠を最初に越えたのは1991年の4月であったが、当初はあまり写真を撮っていなかったので、残念ながら古い分杭峠を写したものがない。辛うじて1993年11月に中沢峠の分岐近くを写したものが残るだけである(下の写真)。ここ数年に看板が増えただけで、道の様子はあまり変わりがないようだ。すなわち、今もって狭い。
 
分岐近辺 (撮影 1993.11.28)
分杭峠方向に見る
この後、この道をパルサーで峠にアタックするが・・・
 
 1991年4月のレンタカー・パルサーで、大鹿村が登れなかったが、中沢峠からも一応、分杭峠にアタックしてみようと思った。暫く進んで行くとアスファルト路面の雪は増え、時々駆動輪が空転し始める。いつものスタッドレスを履いたジムニーなら何でもない積雪だが、2WDのオートマ・トランスミッションでは、どうにもコントロールのしようがない。ガードレールにぶつけて借り物の車を破損したら困るし、万が一、粟沢川の谷に落ちでもしたら、春が来るまで誰にも気付かれないままだろう。すると、路肩にバイクが一台、転倒して放置されていた。世の中には無謀な人間が居るものである(人のことは言えないが)。これは二の舞にならない内にと、どうにか車を回転できる場所を見付け、恐る恐る引き返し、長谷村へと下って行ったのだった。
 

分岐近辺 (撮影 2000. 5. 3)

分岐近辺 (撮影 2002. 4. 7)
この時は生憎ガスっていた
 
 
分杭峠へ
 

峠までの道の様子 (撮影 2011. 5. 6)

谷間を望む (撮影 2011. 5. 6)
眼前の尾根の向こうに僅かに見える(左端)のが
赤石山脈と思われる
 

やや、対向車が来た (撮影 2011. 5. 6)

峠はもうそこ (撮影 2011. 5. 6)
右手の伊那山地側には擁壁が続く
 
 
峠に到着
 
分杭峠の切り通し (撮影 2011. 5. 6)
手前が伊那市(旧長谷村)、奥が大鹿村
道路に並ぶ赤白2色のコーンは、駐車禁止を示す物か
 

峠の切り通し手前 (撮影 2011. 5. 6)
左手に一段下がってシャトルバスの発着所ができていた
一般車は入れない
路上には「分杭峠周辺 駐車禁止」の看板

峠の切り通し直前 (撮影 2011. 5. 6)
この先右に曲がると切り通し
コーンとバーは車道と歩道を区切っているのか
 
 分杭峠は、やはり様変わりしたと言ってよさそうだ。峠の伊那市側に、国道より一段下がって広場ができていた。シャトルバスの発着場になっているようだ。トイレや天幕の休憩所、飲食販売店などが建っている。その広場に一般車両は乗り入れられないようだ。
 
 しかも、峠の道路上には赤と白のツートンカラーのコーンが並べられ、駐車禁止の看板が立つ。もう分杭峠は車で立ち寄れない場所となってしまった。
 

切り通し直前 (撮影 2000. 5. 3)
国道標識は「長谷村 分杭峠」とある
右の切り通し手前に観光ガイドの看板が立つ

以前からある観光ガイドの看板 (撮影 2011. 5. 6)
(上の画像をクリックすると拡大画像が出てきます)
 
 峠の切り通し手前に、「南アルプス 観光ガイドマップ」の看板が立つ。少なくとも2000年に訪れた時には既に立っていた。現在は、高遠町が伊那市高遠町、長谷村が伊那市長谷に変わっているだけで、あとはほとんど昔と変わりない。
 
 
伊那市方向を見る
 

峠より伊那市方向を見る (撮影 2011. 5. 6)
 2000年に訪れた時は、路面のアスファルトがまだ新しかった(下の写真)。また、大規模な法面の工事もできたばかりに見えた。
 
 分杭峠を越える道は、昭和50年に国道に昇格したそうだ。最初は256号であった。1990年頃までの道路地図には確かに256号と書いてある。1993年に来た時、手持ちの地図と現地の道路標識で、国道番号が合わず、戸惑った覚えがある。
 
 分杭峠は中央構造線に沿ったもろい地盤の為、整備が難航し、国道になっても一部に未舗装を残す峠道であった。長谷村側の舗装化が一番遅れたようで、文献には「長谷側 数Km未舗装」の記述がある。その文献の発行が平成3年(1991年)9月1日で、丁度私が初めて分杭峠を越えた時期である。しかし、未舗装だった記憶は全くない。文献の発行日よりも少し前に舗装化は完了していたのだろう。
 
 分杭峠の「長谷側 数Km」とは、中沢峠の前を過ぎ、粟沢川の川筋に降り立つ距離である。この間の山腹を迂回する険しい道が未舗装だったことと考える。
 
 尚、分杭峠の道ではないが、中沢峠から駒ヶ根市側の県道が1、2Kmの区間でまだ未舗装だったのを目撃したことがある。古いツーリングマップにボールペンで「ダート」と書き込みがしてあった。しかし、それがいつのことだか覚えがない。分杭峠や中沢峠は複数回訪れていて、記憶や記録にないものもある。初めて訪れたのが1991年であることは間違いないので、その時かその少し後まで、中沢峠の道にはダートがあったものと思う。1993年11月の時点では、新品のアスファルトになっていた。
 

峠より伊那市方向を見る (撮影 2002. 4. 7)
峠は霧の中

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 3)
擁壁や路面はまだ新しい
 
 
峠からの眺め
 
峠から長谷側の眺め (撮影 2011. 5. 6)
手前に大きな広場が築かれている
 
峠から長谷側の眺め (撮影 2000. 5. 3)
まだ、シャトルバスの発着所がない頃
 

峠から長谷側の眺め (撮影 2011. 5. 6)
中央に湖が見える
 分杭峠からは長谷側の眺めが良いことになっている。峠の切り通しを背に、道路脇のガードレール越に旧長谷村側を眺めると、北に向かって真っ直ぐ延びた中央構造線の谷が広がる。
 
 文献には「三峰川の深いV字谷を通して美和のダム湖を望む」とある。峠直下は粟沢川であり、遠く三峰川本流の美和湖まで見えただろうか。分杭峠からの眺めは何度か堪能しているが、湖が見えたような覚えがない。今回、写真をよくよく調べてみると、確かに湖らしいものが写っている。いつもは広角ばかりの写真の中に、一枚だけ偶然に望遠で撮った物があった。それには確かに湖が写っていた(左の写真)。
 
 分杭峠を訪れる楽しみは、このV字谷の遠望だが、いつも見えるとは限らない。2002年に訪れた時は、麓では青空さえ見えていたのに、峠に着くと一転してガスである(右の写真)。残念この上もない。
 
 ところで、パワースポット目当てに訪れる方達は、ここで何をするのだろうか。私は景色を眺めたり、看板を見たり、石碑を調べたり、いろいろ忙しい。切り通しの姿は美しいかとか、古道の痕跡はないかとか、深く考えにふけることもある。写真も撮りまくる。峠ほど面白い所はないと思うのだが、普通の人ではそうはいかない。峠に居ると時間を忘れるが、同行した妻は手持ち無沙汰に付近をぶらぶら歩いているだけである。一般人が峠に長く居るには、それなりの精神力が必要であろう。

峠から長谷側の眺め (撮影 2002. 4. 7)
この時はガスっていた
 
 
「従是北 高遠領」の石柱
 
 分杭峠でやっぱり目立つのは、峠名の由来ともなった、「従是北 高遠領」の石柱である。峠の切り通しの長谷側、すなわち旧高遠領側で、峠に向かって左手に立つ。なかなか大きな物で、人の背丈ほどある。しかし、複製なのが返すがえす残念だ。
 
 現在の車道の峠は、峰の鞍部を更に切り崩し、古い峠より深い切り通しになっていると想像する。分杭峠のシンボルである石柱も、元はもう少し高い位置に立っていたのではないだろうか。
 
 石柱に並んでその右に、「分杭峠」と書かれた木製の看板が立つ。「標高 1,424米」ともある。これも私が記憶する限り、以前からあった。
 
 よく見ると、石柱の足元に小さな石像が佇んでいた。その前にはお賽銭が置かれている。これは以前の写真には見られない。最近、この分杭峠が注目されて人が多く訪れるようになり、地蔵を拝み、お賽銭を置く人も現れたのだろう。

「従是北 高遠領」の石碑 (撮影 2011. 5. 6)
 

「従是北 高遠領」の石碑 (撮影 2002. 4. 7)
峠は霧の中

「従是北 高遠領」の石碑 (撮影 2000. 5. 3)
右脇の小さな地蔵はない
 
 
林道前浦線
 

前浦林道入口 (撮影 2011. 5. 6)
 石柱の前を東へ、広い未舗装林道が分岐している。これが伊那市長谷浦の前浦集落へ続く、林道前浦線の峠側入口である。以前は特段通行止などされていなかったようだ。一度走ってみたいと思いつつ、現在に至ってしまった。
 
 浦集落側からは土砂崩れによる通行止の看板が立っていただけだったが、峠側の林道入口には、しっかりしたゲートが設けられているではないか。何の理由も書かれず、単に全面通行止と大きな看板が立つ。通年通行止ということか。そもそも、分杭峠周辺の国道沿いは全て駐車禁止で、車道からは一歩も道をそれることができない。今後前浦林道を走るのは、もう無理なのかもしれない。
 

前浦林道入口 (撮影 2000. 5. 3)

前浦林道入口 (撮影 2002. 4. 7)
斜面にまだ雪が残る
 
 
峠の大鹿村側
 
 峠の切り通しから先には、「大鹿村」の看板と、青色の道路看板が「南信濃 62Km 上村 52Km 松川I.C 36Km」とある。随分と遠方の所を示している。大鹿村の鹿塩や落合、大河原ぐらいの距離も示しておいた方が実用的である。南信濃(旧南信濃村、現飯田市)や上村(かみむら)は、分杭峠を下り更に地蔵峠を越えた先だ。分杭峠から地蔵峠を連続で越えるのは、余程の趣味人だけだろうに。尚、松川I.Cとは、大鹿村落合より国道を離れ、小渋川沿いの県道で伊那盆地へと抜けるルートを意味するようだ。
 
 分杭峠の大鹿村側は、峠の直ぐ下に小渋川(こしぶがわ)の支流・鹿塩川(かしおがわ)が流れていて、長谷側に比べて穏やかな地形である。その為あまり遠望がない。鹿塩川の狭い谷が峠からクネクネ曲がりながら南へ下って行く。

峠の切り通しより大鹿村側を見る (撮影 2011. 5. 6)
 

峠の切り通しを抜け大鹿村側を見る (撮影 2000. 5. 3)

大鹿村側の景色 (撮影 2000. 5. 3)
鹿塩川沿いに下る道が見下ろせる
 
 
大鹿村側の秋葉古道
 
 旧長谷村側の峠直下の秋葉古道は、今はシャトルバスの発着場となっている広場辺りから川筋へと下っていたのだろう。ただ、案内看板などは見掛けていない。
 
 一方、大鹿村側には秋葉古道の案内看板が立つ。峠の切り押しを大鹿村側に抜けた左手に古道入口がある。現在の車道は鹿塩川の西の上流側へ迂回して下っているが、古い秋葉街道はそのまま真下の川筋へと降りて行くようだ。

  秋葉古道の看板は、以前はなかったように思う。看板には「秋葉古道 歩き隊」とあり、地元の有志によって立てられた物か。今回、この看板の存在で、大鹿村側の古道について考えるきっかけになった。

 

大鹿村側から峠を見る (撮影 2011. 5. 6)
右のガードレールが切れた先が古道入口

大鹿村側に立つの看板 (撮影 2011. 5. 6)
左の古道の看板と右の観光案内の看板の間が古道入口
古道はここより東の斜面を鹿塩川へと下って行く
 

歴史の路 大鹿村 秋葉古道」の看板 (撮影 2011. 5. 6)
秋葉古道 歩き隊」により立てられた物
古道歩きは自己責任とのこと

大鹿村の観光案内の看板 (撮影 2011. 5. 6)
 
 
大鹿村側に下る
 

大鹿村側に下る (撮影 2011. 5. 6)
左の国道標識には「大鹿村 北川」とある
前方の崖沿いを登る道は、この先で分岐する林道の続き
 切り通しを大鹿村側に抜けた峠道は、伊那山地の東面を流れ下って来る鹿塩川(かしおがわ)の上流方向に向け、ほぼ稜線沿いを西に下る。直ぐに鹿塩川沿いに降り立ち、ヘアピンカーブで川を渡る。
 
 その橋の手前を尚も上流方向に林道が分岐する。地図で見ると、駒ヶ根市との境付近を南に走り、行く行くは中川村に抜けている。伊那山地の奥深い所を通る林道で、如何にも楽しそうだ。しかし、入口には例の赤白コーンが置かれ、その先にもゲートが設けられ、入ることはできない。峠が駐車禁止なので、その林道入口手前の僅かなスペースに車を停めようとも思ったが、そこから峠まで歩いて登るには、ややしんどい距離がある。
 

鹿塩川へ下る (撮影 2011. 5. 6)
この先、鹿塩川をヘアピンカーブで渡る
そのカーブの手前で林道が分岐

鹿塩川を渡る手前から峠方向を見る (撮影 2011. 5. 6)
 

鹿塩川上流方向に分岐する林道 (撮影 2011. 5. 6)
例のコーンとその先のゲートで通行止
この手前に僅かに車が停められる余裕があるが

ヘアピンを曲がり、再度鹿塩川を左岸に渡る (撮影 2011. 5. 6)
左上に見えるガードレールは、峠に至る道筋
 
 西に迂回した道が戻り始めると、再度鹿塩川を渡る。行く行くは小渋川に注ぎ、更に天竜川の流れともなる鹿塩川は、ここではまだ小さな小川の存在だ。この後、峠道は暫く鹿塩川の左岸にぴったり沿って下る。
 
 伊那山地から東に向かって流れてきた鹿塩川は、直ぐに南へと方向を転じる。真後ろに分杭峠がある位置関係となる。すると左の山腹より山道が車道に下って来る。峠から直接この川沿いに向かって降りて来た秋葉街道の古道らしい。その山道の入口には古道の案内看板らしき物も立つ。車道がなだらかな傾斜を求めて、鹿塩川の上流方向に迂回していた一方、古道は峠より最短距離で川沿いへと下って来たのだった。その間の車道の距離は約400m、一方古道は200m足らずである。

左から古道が降りて来た (撮影 2002. 4. 7)
左のガードレール脇に古道の看板らしき物が立つ
 
 
粟沢川沿いを行く
 

鹿塩川沿いの道の様子 (撮影 2011. 5. 6)
 峠道を把握するには、河川に着目すると良い。地形図を眺め、等高線をじっくり追えば正確なことが分るが、それだと時間も掛かるし全体を把握し難い。一方、河川なら一般の道路地図にも記載があるし、大きく地形を捕らえ易い。
 
 分杭峠は、赤石山脈に源を発し伊那山地を貫いて西の天竜川に流れ下る三峰川と小渋川との両水域に挟まれた地にあり、それぞれの支流、粟沢川と鹿塩川の上流域に位置する。分杭峠を大鹿村側に下った峠道は、一たび鹿塩川沿いに降り立つと、後はひたすら川に沿って南下する。秋葉古道もこの川筋に通じていたことは間違いない。現在の車道と昔の道とでは、ほぼその道筋が重なる。今、車窓から眺める鹿塩川の谷間の景色と、古の旅人達が歩きながら時折見上げたであろう景色とは、近いものがある筈だ。
 
 ただ、道が重なるが故に、狭いとは言えアスファルトが敷かれガードレールが設けられた車道は、古道その物を掻き消してしまっている。峠直下で川沿いに降りるまでの古道などが、僅かに昔の旅人の足跡を残すばかりだ。
 
 よくよく路肩を見ると、川沿いを走る車道をそれ、古道が残る箇所が他にも少しあるようだ。「秋葉古道 歩き隊」による看板が時折路傍に見られる。

鹿塩川沿いの道の様子 (撮影 2011. 5. 6)
 
 
矢立て木
 

右手に矢立て木の看板 (撮影 2011. 5. 6)
 鹿塩川沿いの道は長く単調である。狭い谷間の底近くを遠望もないまま、ただただ車を走らせることとなる。運転に飽きたなら、そんな時ちょっとした立ち寄り場所がある。大鹿村指定の天然記念物、「矢立て木」である。道路の右手、川側に矢印看板が立ち、その側らを川岸方向に下って行く歩道が設けられている。その前に僅かながら駐車スペースもある。あまり車の退避場所も少ない国道沿いにあって、一休みできる場所でもある。
 
 案内看板によると、矢立て木とは、戦国末期から江戸初期にかけ、武田・徳川両氏に仕えていた遠山地方の豪族・遠山氏が、参勤の途上、この樹に矢を射立て、武運を祈り且つ吉凶を卜した(ぼくした、うらなったの意)そうだ。
 

矢立て木の案内看板 (撮影 2000. 5. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が出てきます)

矢立て木 (撮影 2000. 5. 3)
 
 遠山郷の地は地蔵峠を南に越えた遠山川沿いにあった。遠山氏が分杭峠を越えたのは、甲斐の武田氏が滅ぶ前は武田氏に出仕する為、徳川の領地となってからは徳川に仕える為であろう。2つの巨大勢力、武田・徳川の前に遠山氏の武士達は、吉凶をうらなわずには居れなかったのであろうか。
 
 歴史にいろいろ思いを馳せれば、それなりに興味深い矢立て木ではあるが、実際にそのサワラの木を眺めても、あまり面白いものではない。一度見れば、二度目にその前を通り掛っても、わざわざ車を停めようという気にはなかなかなれないのであった。
 

矢立て木以降の道の様子 (撮影 2011. 5. 6)

矢立て木以降の道の様子 (撮影 2000. 5. 3)
左とほぼ同じ場所
前方に砂防ダムが見える
 
 矢立て木のある付近になると、道は川面よりずっと高い位置を通るようになり、右手の谷間には砂防ダムなどが設けられているのが見える。秋葉古道はその谷の深い位置に通じていたのだろうか。谷の幅も広くなり、南の方向の視界も開けてくる。
 
 
北川露頭
 

右手に北川露頭の駐車場 (撮影 2011. 5. 6)
 国道152号沿いで時折お目に掛かる中央構造線の露頭が、分杭峠を大鹿村側に3、4Km下った所にもまた一つある。北川露頭だ。道路脇に大きな駐車場が設けられ、その駐車場脇から鹿塩川の河原へと降りられる。
 
 ここも一度は訪れてみたものの、二度三度と訪れようとは思わない。分杭峠から眺める中央構造線によって形作られたV字谷の景色はすばらしいと思うが、川岸の崖で露頭を目の前にしても、どうしたら良いか分からない。1億年以上の活動史があると言う大断層のあらわな姿が、こうして地表に現れているのだろうが、地質学者でもなければ別に感動はないのであった。ただ、駐車場は広いし、沿線案内図も立っているので、休憩場所には良い。
 

北川露頭 (撮影 2000. 5. 3)

北川露頭の看板 (撮影 2000. 5. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が出てきます)
 
 北川露頭を後に、国道は相変らず狭い舗装路が続く。コンクリートの欄干が今にも崩れそうな古い橋を渡ったりするが、アスファルト舗装は比較的新しい。道は一度右岸に渡るが、間もなく左岸に戻る。この辺りの国道標識にはまだ「大鹿村 北川」の地名が記されている。ぽつぽつお堂のような建物が沿道に見られるが、まだ人の住む民家はなさそうだ。
 

古そうな橋 (撮影 2011. 5. 6)
北川露頭以降

北川露頭以降の道の様子 (撮影 2011. 5. 6)
 
 
秋葉古道
 
 国道標識の地名が「大鹿村 女高(おなたか)」となった頃、交互交通で赤信号による一旦停止となった。鹿塩川の支流・手開沢と思われる川を渡る橋の手前である。
 
 信号が青になるのを待っている最中、ふと見ると、鹿塩川とは反対の左手に、工事看板の横を通って秋葉古道が通じていた。例の看板がそれを示す。てっきり古道は川沿いのもっと下を通っていのだろうと思ったが、一概にそうとは言えないようだ。
 

交互交通で一旦停止 (撮影 2011. 5. 6)

停止位置の手前左に古道の看板 (撮影 2011. 5. 6)
 
 青信号で前に進むと、その先の谷は崖が急で険しい様相を示す。法面の復旧工事が行われている最中で、崖崩れの跡もまだ生々しい。以前はこれより上流側に北川の集落があった訳である。交通も不便な地であったことだろう。
 

前方に工事箇所 (撮影 2011. 5. 6)
ここが時間通行止となる箇所だろうか

工事箇所を過ぎた先 (撮影 2011. 5. 6)
国道標識はまだ女高
 
 
女高、儀内路の集落
 
 峠から下ること6、7Km程にして、やっと人家が見られるようになってきた。女高集落の中心地と思う。東の女高沢方向に人家が点在する。今では大鹿村側最奥の集落なのだろう。
 
 女高の次は直ぐに儀内路(ぎないじ)の集落となり、国道沿いにも人家が増えてくる。
 

人家が見られるようになった (撮影 2011. 5. 6)
女高集落と思われる

儀内路集落付近 (撮影 2011. 5. 6)
 
 
中峰黒川林道の分岐
 
 儀内路集落では、東の三峰川との境となる峰の方向へ分岐がある。林道中峰黒川線だ。行き先には北川・黒川牧場とある。この林道は冬期間、長い全面通行止になるが、気候の良い時期に走ると、それはそれは楽しい道だ。黒川沢の荒々しい谷を見下ろし、黒川牧場の雄大な高原の中を行き、高度を上げると西に遠く伊那山地を越えた向こうに木曽山脈を望む。
 
 林道は黒川沢上流部から南の塩川上流部へと移動し、最終的に大鹿村鹿塩付近で国道へと戻って来れる。途中では塩川上流方向に赤石山脈の景色も望める。そこには日本三大峠の一つとも言われた三伏峠(さんぷくとうげ)が南アルプスを越えている筈だ。五月初旬にはまだ雪を頂いた高い峰を望む。

左に分岐あり (撮影 2011. 5. 6)
ここが中峰黒川林道の起点
 

国道上より林道方向を見る (撮影 2011. 5. 6)

林道看板 (撮影 2000. 5. 3)
 

黒川牧場近辺の景色 (撮影 2000. 5. 3)

多分、塩川上流方向を見る (撮影 2000. 5. 3)
奥に見えているのは赤石山脈の三伏峠付近だろうか
雪を頂いている
 
 また、塩川の下流域では周辺の斜面に人家が点在していて、その様子が高みから手に取るように眺められる(下の写真)。遠山郷の下栗(しもぐり)集落を彷彿とさせる。
 
 このように中峰黒川林道は面白いが、未舗装区間が多く、人里離れた地を行くのでそれなりの覚悟がいる。
 
塩川沿いの景色を見渡す (撮影 2000. 5. 3)
 
 
儀内路以降
 
 国道152号に戻って、儀内路付近は人家が現れると共に、大きな支流の流れ込み周辺の平地を利用し、田畑が耕作されていて、人の暮らしを感じさせる雰囲気となる。儀内路集落を過ぎてまた少し寂しくなると、川底を広げた鹿塩川が道の直ぐ右手に寄り添う(右の写真)。
 
 大塩、小塩と集落を過ぎて道幅が徐々に広がり、ついにセンターラインのある二車線路と変わった(下の写真)。これから先はもう立派な国道である。谷の両側には崖がそそり立ち、中央構造線らしいもろく崩れた山肌をあらわにする箇所もある。左手に中峰・入沢井と書かれた道が分岐する(柳島付近)。中峰黒川林道に通じているらしい。
 
 次の大栗の集落は鹿塩川の右岸にある。ちょっと前の道路地図では、国道は大栗集落の前で橋を渡って右岸を行き、大栗集落を抜けた先でまた左岸に戻っていた。現在の国道は、左岸のままに快適な二車線路を通している(右下の写真)。

鹿塩川沿いを行く (撮影 2011. 5. 6)
直ぐ右手に鹿塩川の流れを見る
 

小塩付近でセンターラインが出てきた (撮影 2011. 5. 6)
道路路看板には次のようにある
南信濃 52Km
上村 41Km
松川IC 25Km

大栗付近 (撮影 2011. 5. 6)
現在の国道の対岸となる鹿塩川右岸に集落がある
以前の国道は前方の橋を渡っていたと思う
 
 
旧鹿塩村の中心地付近
 
 左手に学校の体育館らしい大きな建物が見えてくると塩原付近だ。また中峰・入沢井への分岐を示す看板が出てくる。儀内路から中峰黒川林道をやって来ると、ここに出られる(他にも経路はあるが)。
 
 大鹿村は大きく村の北側の鹿塩地区と、南の大河原(おおかわら)地区に分かれる。元々それぞれ鹿塩村、大河原村と呼ぶ独立した村だったそうだ。それが明治22年4月に合併し、それぞれの頭文字を取って大鹿村と名付けられた。旧鹿塩村には分杭峠があり、旧大河原村には地蔵峠があった訳だ。

塩原付近 (撮影 2011. 5. 6)
沿道の集落の規模が大きくなる
 

旧鹿塩村市街 (撮影 2011. 5. 6)
 分杭峠の峠道は、旧鹿塩村の中心地に近付いてきた。沿道の人家はもう絶えることはない。前方にガソリンスタンドの看板が見えてくると、そこは旧鹿塩村市街である(塩河という集落名が地図に見られる)。鹿塩川の支流・塩川が合流する地に開かれた集落だ。国道沿いには僅かながらも商店が立ち、それまでの沿道にはなかった人の活気が感じられる。
 
 大鹿村と言えば歌舞伎で知られ、最近はそれに関係した映画も作られたそうな。その後、主演男優の方が亡くなられたことでもニュースとなった。道沿いには「歌舞伎の里」などと書かれた看板が見られる。
 
 集落内の国道から左に、塩川沿いを鹿塩温泉へと通じる道が分岐する。大鹿村の観光ガイドには欠かせない存在の鹿塩温泉だが、その道の入口は驚くほど狭い。「鹿塩温泉、塩の里」などと書かれた看板が立ち、その道に間違いはなさそうだが、うっかりすると見過ごしてしまいそうである。国道があまりにも立派なので、相対的に狭く見えるようだ。
 
 その塩川沿いの道にはまだ入り込んだことがない。道の終点からは静岡県との県境を成す赤石山脈への登山道が始まっている。三伏峠へと登っているらしい。車では越えられない峠だが、一度は車で行ける所までその道を行って、三伏峠に迫ってみたいものだ。

左に鹿塩温泉への分岐 (撮影 2011. 5. 6)
見過ごしてしまいそうだ
 
 
大鹿村落合へ
 
 鹿塩の中心地を抜けた途端、国道は右に急カーブし鹿塩川を渡る。これからは左手に鹿塩川を見つつ、道は一路、現在の大鹿村の中心地、落合へと進む。人家はまばらで、鹿塩の中心地を抜けてきた分、尚更殺風景な印象を受ける。
 
鹿塩の中心地から落合へ (撮影 2011. 5. 6)
左手に鹿塩川を望む
 

道路看板が出てきた (撮影 2011. 5. 6)
 落合は鹿塩川が本流の小渋川に合流する地点で、国道はそこで折れ、小渋川の上流方向へ進む。暫くするとその分岐を示す道路看板が出てくる。左折は国道152号の続きで、行先は上村(かみむら)とある。一方、直進は県道(主要地方道)22号で松川行き。
 
 現在の国道の分岐の前に、左折して直ぐに鹿塩川を渡る道がある(左下の写真)。道の入口には何の標識もないが、以前はこちらが国道の続きだったようである。現在のルートは国道が大幅に改修された後のものだ。
 
 
 前方に角ばった坑口のトンネルが見えてくると、それは大鹿トンネルである(右下の写真)。そちらへは県道22号が延びている。トンネルの左脇の渓谷で、分杭峠からずっと一緒だった鹿塩川が小渋川に合流し、その流れを終えている。
 

左折して鹿塩川を渡る道が分岐 (撮影 2011. 5. 6)
以前はこちらが国道のルート

前方に大鹿トンネル (撮影 2011. 5. 6)
その手前を左折するのが国道の続き
 
 国道は大鹿トンネルの少し手前を左折し、小渋川に注ぐ直前の鹿塩川を渡り、その先小渋川の右岸を上流方向、地蔵峠へと向けて新たな峠の旅を開始する。分杭峠の道は、ここ落合で終点となる。
 

大鹿トンネルを背に分岐を見る (撮影 2002. 4. 7)
直進が分杭峠へ(茅野)、左折が地蔵峠へ(上村)

左とほぼ同じ場所 (撮影 1993.11.28)
レンタカーのパルサーが路肩に停まる
この後、分杭峠を目指すが、雪であえなく退散
この普通のセダン車で、他にも冬の峠道をいろいろトライするが、
引き返しばかりの憂き目にあった
 
 落合は村役場もある現在の大鹿村の中心地だが、鹿塩村や大河原村があった頃の中心地となる鹿塩や大河原の方が、今でも沿道に人気や賑やかさを感じる場所となっている。秋葉街道の鹿塩宿、大河原宿があった地でもある。この落合の分岐は、北の分杭峠、南の地蔵峠のそれぞれの起点、あるいは連携地点と言えるが、周囲は寂しい雰囲気である。国道が改修されて立派になり、それでかえって殺伐とした印象を受ける。しかし、それもまた一興。中央構造線上の険しい峠たちにふさわしい起点だと思える。
 
  
 
 国道152号にある中央構造線上の峠として、これで地蔵、青崩(兵越)、分杭の三大峠が掲載できた。残るは杖突峠ただ一つだが、さっさと掲載してしまえばいいものを、まだその気になれないでいる。この分杭峠も、ゼロ磁場だとかパワースポットとかで騒がれていたので、掲載するタイミングを逸していた。
 
 しかし、ひとたび峠について書き始めると、あーだ、こーだと書くことが止まらない。載せる写真もだんだん枚数が増えてきて、ページの長さも増加の一途だ。費やす時間もバカにならない。妻からはホームページ作りは1円にもならないとチクリ。しかし、それでも峠は楽しい。峠の記録を後世に残すのだとばかり、使命感に燃えパソコンに向かう分杭峠であった。
 
  
 
<走行日>
・1991. 4.21 大鹿村→長谷村(AX-1にて)
・1993.11.28 中沢峠のみ 駒ヶ根市→長谷村(レンタカーのパルサーにて)
・1996. 8.17 中沢峠のみ 駒ヶ根市→長谷村(ジムニーにて)
・2000. 5. 3 長谷村→大鹿村(ジムニーにて)
・2002. 4. 7 長谷村→大鹿村(ミラージュにて)
・2011. 5. 6 長谷村→大鹿村(パジェロミニにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成3年 9月 1日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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