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伏野峠
  ぶすのとうげ  (峠と旅 No.290)
  車道開通で甦った峠道
  (掲載 2018. 5. 7  最終峠走行 2017. 9.11)
   
   
   
伏野峠 (撮影 2017. 9.11)
手前は長野県飯山市大字照岡
奥は新潟県上越市安塚区真荻平
道は国道403号
峠の標高は約1,015m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
長らく県境の峠部分で未開通だった国道がやっとこうして通じた
ただ、ここは昔からの伏野峠ではないようだ
 
 
 
   

<伏野峠>
 関田山脈を越える峠として、以前に関田峠を取り上げ、前回はその東方に位置する牧峠を掲載した。 更にその東には宇津ノ俣峠(うつのまた)があるが、ここには車道が通じていない。車道の峠としてそれらに続くのが今回の伏野峠となる。
 
 ただ、伏野峠やその東に隣接する須川峠(すがわ)も、2000年前後くらいまでに発行された道路地図では、まだ峠部分に車道が描かれていなかった。 新潟・長野の両県より国道403号が山腹途中まで延びるも、関田山脈の稜線前後が未開通だった。 道の進み具合からして、当初は須川峠の方を越えるものと思っていたが、結局は伏野峠に車道が開削されたようだ。伏野峠と須川峠は位置的にも近い関係だし、峠道が重なる区間もある。そこで、このページでは須川峠についても少し触れたい。

   

<所在>
<真荻平>
 峠道は概ね南北に通じ、峠の北側は新潟県上越市安塚区(やすづかく)真荻平(もおぎたいら、もうぎたいら)となる。 元の東頸城郡(ひがしくびきぐん)安塚町(やすづかまち)の大字真荻平であった。地図によっては峠の直前は安塚区須川となっているのもあるようだが、文献(角川日本地名大辞典)では伏野峠は真荻平に属していることになっている。
 
<伏野>
 真荻平は保倉川(ほくらがわ)支流小黒川(こぐろがわ)の上流域に広がる大字であるが、集落としては下流側の真荻平集落と上流側の伏野(ぶすの)集落があるようだ。 古くは真荻平村と「ぶすの村」の2つに分かれていたが、江戸期には伏野は真荻平村の一部として扱われたとのこと。
 
<藤沢>
 一方、峠の南は長野県飯山市大字照岡(てるおか)となる。照岡は広く、牧峠に始まり、宇津ノ俣峠・伏野峠・須川峠・野々海峠(ののみ)までが照岡の範ちゅうだ。 その照岡の中で、現在の伏野峠を越える国道403号は千曲川沿いの藤沢という集落に下っている。ただ、元の峠道が照岡のどの地を起点としていたか、あまり明確ではない。
 
<西大滝村>
 藤沢集落は江戸期までの藤沢村で、慶長年間(1596〜1615年)に千曲川下流側にある大滝村(おおたきむら)と合併し、大滝村の一部となっている。 また、元禄年間(1688〜1704年)までには、千曲川右岸の高井郡側を東大滝村、左岸側を西大滝村と改称し、藤沢は西大滝村の一部となったようだ。西大滝村は東組・西組から成り、東組は西大滝、西組は藤沢(元の藤沢村)に当たる。
 
<西大滝村のその後>
 明治9年に西大滝村は照岡村の一部となり、明治22年には照岡村と一山(いちやま)村が合併して岡山村(おかやまむら)が誕生する。 その折、照岡と一山の2大字を編成した。元の藤沢村や大滝村(西大滝)は大字より小さな単位になったものと思う。 岡山村も昭和31年には飯山市に合併し、照岡・一山の2大字は飯山市に受け継がれている。現在の地図では、藤沢も西大滝も千曲川左岸に位置する一集落となる。
 
<長野県側起点>
 文献(角川日本地名大辞典)では伏野峠の詳細は不明だが、須川峠については飯山市西大滝に通じる峠としている。この「西大滝」は藤沢を含んだ旧西大滝村ではなく、一集落としての西大滝であろう。
 
 須川峠の峠道が西大滝を起点とするなら、その西に位置する伏野峠は、西大滝のやはり西にある藤沢を起点としていたとしてもおかしくない。 伏野峠は、広くは新潟・長野の県境を越える峠であるが、狭くは新潟県側の伏野と長野県側の藤沢という2つの小さな集落同士を結ぶ峠であったのだろう。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


地図がポイントするのは旧峠の場所
(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<旧峠>
 国土地理院(電子国土web)の地理院地図で「伏野峠」と検索すると、車道(国道403号)が通じる部分より約300m西の稜線上をポイントする。 何かの間違いかとも思ったが、車道が通じる前の古い道路地図などをしげしげ見ると、確かに現在車道が通じた箇所と元の伏野峠の位置は僅かながら異なっているようだ。 国道403号は須川峠ではなく伏野峠の方を越えたと思っていたが、正確には伏野峠でもなく、全く新たな稜線の部分を越えたようだ。
 
 しかし、車道が通じた後の道路地図では、車道の峠を伏野峠と記載しているものが多い。 また、最近注目されている「信越トレイル」のパンフレットや現地に立つ案内看板・道標でも、 車道の峠をほぼ「伏野峠」として扱っている。正確には新伏野峠とでも呼ぶべき存在だが、本ページでも単に「伏野峠」と書いてしまうことにする。ただ、旧峠についても僅かながら配慮したい。
 
<旧峠の存在(余談)>
 それにしても、牧峠でも訪れたずっと後になって旧峠があることを知った。もっぱら車で旅をすることが主目的なので、車道が通じていない峠は基本的に訪れることはない。 しかし、牧峠とか伏野峠を越えたと思っていたら、実は本当の峠は別にあると分かると、ちょっとがっかりさせられる。しかも、車道の峠から稜線沿いを数100mも歩けば旧峠を見て来られたかもしれないのだ。
 
 それなら、峠を訪れる前にしっかり調べておけばいいと思うが、それもちょっとためらわれる。峠が越えられるかどうかは、旅の都合や当日の道路状況次第である。 いつ越えられるかどうか分からない峠について、あれこれ調べる気にはなれない。今回の伏野峠も、初めて越えようと思ってから実際に越えられるまで17年経っている。 結局、峠を越えた後になって、いろいろなことに気付かされ、後悔が残ることとなる。多くの峠を越えて来た積りだが、こうした事情で再び訪れたいと思う峠は後を絶たない。峠の旅は尽きないのであった。

   

<水系>
<小黒川/新潟県側>
 新潟県側では伏野峠も須川峠も小黒川(こぐろがわ)の源流部に位置する。小黒川は保倉川(ほくらがわ)の支流で、保倉川は河口直前の関川(せきがわ)に注ぐ(関川水系)。関川本流の源が妙高・戸隠山塊であるのに対し、保倉川・小黒川の水源はずっと東の関田山脈となる。
 
<須川峠の水域>
 峠に関わる水域を調べることは、峠道の道筋や2つ以上ある峠の関係を理解するのに役立つ。 伏野峠は小黒川の源流部にあり、峠道は小黒川沿いの伏野集落を通過している点、素直な峠と言える。一方、須川峠の道は小黒川支流・須川川流域の須川集落を通過しながら、峠自身は小黒川本流の上流部にある。
 
 一般に複数の水域を跨ぐのは峠道としては不利と思える。本来の峠の前に小さな峠越えが加わってしまい、道が険しい。古い峠道程複数の水域を嫌う傾向が強い。 それでも須川峠が須川川から小黒川へと水域を越えたのは、それなりに地形的な理由があったのだろう。しかも、文献では「伏野峠」の項はなく、「須川峠」の項では信越の物資交流が盛んだったとか、峠に茶屋が設けられたなどとある。かつては伏野峠より須川峠の方が利用頻度が高かったのかもしれない。
 
<寒川/長野県側>
 長野県側では伏野峠は千曲川左岸の支流・寒川の源流部に位置する。
 
 尚、須川峠は寒川水域と千曲川下流側の野々海(ののみ)川との分水界に近く、地形図からははっきり読み取れない。 どちらかと言うと、野々海川の支流・西沢の上流部にあるように見える。野々海川を千曲川沿いに下るとそこに西大滝集落があるので、峠道は野々海川沿いに通じていたのではないかと想像する。
 
<国道403号の道筋> 
 現在伏野峠に通じる国道403号は、概ね寒川沿いに藤沢へと下るので、かつての峠道の道筋と同じでないにしろ、大筋で一致するのではないだろうか。 一方、新潟県側では、須川川沿いに峠を目指している。ならば須川峠の道かとも思ったが、そうでもない。文献によると須川峠へは菱ケ岳(ひしがたけ)の東側に道が通じてたようなのだが、現在の国道403号は菱ヶ岳の西側を登っている。伏野峠の道でもなく、須川峠の道でもない、独自のルートを採ったようなのだ。しかも、峠の位置も伏野峠からやや外れていた。車道開通により新生の伏野峠が誕生したと言える。

   

<峠名>
 伏野峠近辺の関田山脈を越える峠は、宇津ノ俣峠や須川峠など、新潟県側最初にある集落名をそのまま峠名としていることが多い。伏野峠も同様である。
 
 「伏野」とは漢字で書くと何でもないが、なかなか正確には読めないだろう。「ぶすの」と読むのだが、そう発音してみるとまたちょっと変わった感じがする。
 
 伏野の地名の由来について、文献には次のようにある。
 「明応5年信濃国諏訪郡杏田の里から4人の豪族が真荻平に移住し村を開いたことにちなみ武士野長者といったのがブスノになったとする説、また、地滑りなどの跡地の斜面を焼畑として切り開いたことによるとする説がある
 
 「伏」の元は「武士」だったとする説はなかなかかっこいい。ただ、関川流域は全国でも有数な地滑り地帯として知られる。古い地滑り跡地を利用して棚田が発達した。牧峠の「牧」もそうした地形の特徴を表している。「伏野」の方も、地形に関わった地名のような気がする。

   
   
   
新潟県側より峠へ 
   

<安塚区和田>
 旅の都合上、今回は新潟県側から峠を目指した。国道405号が国道403号に接続する安塚区和田の交差点より峠の旅を開始する。道路看板に示された国道403号の峠方向の行先は、「菱ケ岳 須川」であった。

   

国道405号を和田の交差点方向に見る (撮影 2017. 9.11)

分岐の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

<旅の写真(余談)>
 和田の交差点は過去にも2回程写真に撮っている(下の写真はその一例)。旅先ではこうした観光地でも何でもない場所をよく写していた。 そもそも観光地などほとんど寄らず、寂しい峠道などばかり走っていたので、見栄えのする格好な被写体はあまりない。自分自身を写した記念写真など、尚更撮る積りはない。
 
 撮るのはもっぱら道である。自分が旅で通った道筋を記録するのが主な目的であった。その為、どこで道を曲がったかは重要で、自然、分岐で写真を撮ることが多かった。 他には道路看板や国道・県道標識である。峠も重要な通過点であった。案外、こうして峠を写真に写したことが、峠に関心を持ち始めた切っ掛けだったかもしれない。

   
路肩にジムニーを停め、和田の交差点を撮る (撮影 2001. 7.29)
この時は国道403号の須川より先が通行止だった
   

和田の交差点 (撮影 2017. 9.11)

<交差点の様子(余談)>
 以下の様な案内が見られる。
 雪ダルマ高原 8Km
 (キューピット・バレイ)
 雪ダルマ資料館 2Km
 グリーンパーク 10Km
 やすづか学園 4Km
 
 雪の湯は本日休館です

  

   
和田の交差点の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<飯山浦川原線>
 1990年代頃までの道路地図では、現在の国道403号は主要地方道・飯山浦川原線となっていた。新潟県側では県道878、長野県側では県道71号であった。 新潟県の旧浦河原(うらがわら)村(現上越市浦川原区)虫川から長野県飯山市の千曲川沿いの藤沢を結ぶ道だった。当時、千曲川左岸沿いに通じていた国道117号に接続していた。
 
 虫川は小黒川が本流の保倉川に注ぐ地である。また藤沢では寒川が千曲川に流れ込んでいる。水域の点で飯山浦川原線は伏野峠を越える峠道そのものだ。勿論、県境部分は未開通だったが。


国道403号を峠へ (撮影 2017. 9.11)
   

<道の駅>
 国道403号沿いでは一つ目的があった。「道の駅」があるのでそこで昼食にしようと思っていた。この先には険しい峠越えが待ち受けているだけで、レストランなど期待できない。「道の駅」は峠を前にした最後の休憩地となる。
 
 「道の駅」を探していると、「雪だるま物産館」という看板ばかり目に付く。「道の駅」を見過ごしたかと途中で引き返したりした。 正式には「道の駅・雪のふるさとやすづか」と呼ぶようで、「雪だるま物産館」とは同じ敷地内にあった。どちらかと言うと「道の駅」は物産館に間借りしているような存在だった。
 
<昼食(余談)>
 しかも運悪く休館日である。物産館の建物にそば屋が入っているのだが営業していない。昼食の当てが外れてしまった。 しかし、こうした場合を想定し、旅先では大抵、常温保存ができる菓子パンを買って携帯している。飲み物はペットボトルや缶のジュース類を自宅より豊富に持って来ている。これでどうにか当座がしのげるのだ。
 
 夫婦二人して車の中でパンをかじっていると、休館日の「道の駅」に次から次へと車がやって来た。最初は我々の車だけだったのが、周りに10台近い車が駐車した。 その様子からして観光客ではない。事業用の車が多い。どうやら仕事の合間に昼飯の弁当を食べたり昼時の休憩にと集まって来たらしい。 これがこの「道の駅」の日常の風景なのだろう。観光地などによくある「道の駅」とはまた一風変わった雰囲気である。それはいいが、我々の侘しい食事風景が人目に付いてしまう。さっさとパンを食べ終える。

   

雪だるま物産館 (撮影 2017. 9.11)
「道の駅・雪のふるさとやすづか」でもある
残念ながらこの日は休館日

雪だるま物産館 (撮影 2017. 9.11)
(国道403号を安塚方向に見る)
大きな雪だるまのオブジェが目印
「雪むろ そば屋・小さな空」と看板がある
「道の駅」と書かれた看板はあまり見当たらない
   

「雪のふるさと安塚」の案内看板 (撮影 2017. 9.11)
地図は左が「北」
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<安塚>
 仕事の休憩所のような「道の駅」だが、一応、安塚の観光案内の看板が立つ。現在の上越市安塚区、旧安塚町(やすづかまち)は小黒川(こぐろがわ)流域に細長く広がる。川沿いを南北方向に国道403号が縦断し、中央部を東西方向に国道405号が横断する。
 
 昭和30年、安塚村・小黒村・菱里村(ひしざとむら)が合併して安塚町が成立した。伏野は菱里村の一部であった。
 
 安塚は南部に関田山脈がそびえ、雪深い地である。スキー場をはじめ「ゆきだるま温泉」など「雪」をテーマにした観光を推進しているようだ。

   

<上船倉の棚田(余談)>
 「道の駅」に立ち寄ったのは、安塚区関係の観光パンフレットでも手に入らないかと思ったのも理由の一つだった。 峠そのものについての案内はないにしろ、思いがけず峠道に関係した事柄を知ることにもなる。しかし、休館で物産館の中には入れず、何の情報も得られなかった。 ただ、物産館の外壁に「上船倉の棚田」の案内看板を見付けたくらいだ。日本の棚田百選に選ばれているそうだ。


「上船倉の棚田」の看板 (撮影 2017. 9.11)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<須川大こぶし(余談)>
 棚田の案内図の「上船倉の棚田」の近くに「須川の大コブシ」とある。東隣の大島区(旧大島村)との境である。以前、ジムニーでその大こぶしを見に行ったことがあった。 安塚町をさまよっていると、「天然記念物 須川大こぶし 昭和五十七年八月三十日指定」と書かれた一本の小さな標柱を見付けた。 「大こぶし」とやらがどんな物かも知らず、僅かな案内看板を頼りに酷い道を登って行った。 やっとのこと、大島村との境となる峠の様な場所に出たが、どれがその天然記念物なのかよく分からない。付近にある大きな木を何枚か写真に収めて引き返して来た。 歌謡曲(北国の春?)で「こぶし咲く」と歌われるが、私が見たのは本当に「大こぶし」だったのだろうか。

   

須川大こぶしを見に行く途中 (撮影 2001. 7.29)
道は荒れ放題
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

大島村との境付近 (撮影 2001. 7.29)
ジムニーの背後の大木は大こぶし?
   
これはこぶしの木だろうか? (撮影 2001. 7.29)
   

<雪むろ(余談)>
 物産館の背後に別の大きな建屋があった。「雪むろ」と書かれた案内看板によると、それは雪を利用した貯蔵施設だった。 「雪見窓」と言うのがあったが、施設のドアが開いており、実際に中に入って見学できた。ピットの様な地下部分に僅かながら雪が残っているのを見ることができた。

   

雪むろの案内看板 (撮影 2017. 9.11)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

貯蔵施設の中 (撮影 2017. 9.11)
僅かに雪が残る
   

 険しい峠越えを前にトイレも済ませ、まだ昼食休憩中の人達を後に再び国道403号を南に向かう。

   
   
   
「道の駅」以降 
   

<国道405号分岐>
 「道の駅」の直後、国道405号が東の津南(つなん)方向に分かれて行く。

   
左に国道405号分岐 (撮影 2017. 9.11)
   

国道405号分岐の看板 (撮影 2017. 9.11)
その下に案内看板

 国道403号の行先は、道路看板には「キューピットバレイ 須川」とある。県境を越えて長野県までも通じているが、峠前後は正式に国道になっているかどうか微妙だ。 道も険しく、冬期は長い通行止となる。それもあって、国道403号の行き先は新潟県側に留まっているような気がする。案内看板には沿線にある温泉やキャンプ場・スキー場までの距離が示されている。
 
 またよく見ると、案内看板の脇にブルーシートを被った道路標識が立っていた。どうやら通行止の標識らしくい。冬期通行止の時に直ぐに出せるようにしてあるのではないだろうか。
 
 
<道の様子>
 国道405号を分けてしまうと、この先に主要な分岐はもうない。幹線路となる国道403号と小黒川流域に点在する集落とを結ぶ生活路が時折分岐するばかりだ。円平坊(えんたいらぼう)、高沢、二本木といった集落を通過する。
 
 かつて須川峠や伏野峠を越え、信濃・越後間の交易があった。近年になってやっと伏野峠に車道が通じたが、もうそうした物流に使われることはない。冬場にスキー客などが訪れるかもしれないが、あとはのどかな国道である。立派な2車線路もどこか閑散とした雰囲気だ。

   
右に円平坊(えんたいらぼう)への分岐 (撮影 2017. 9.11)
円平坊入口バス停前 
   
「神楽の里 高沢」と看板がある (撮影 2017. 9.11)
   
のどかな道の様子 (撮影 2017. 9.11)
高沢付近
   
ゆきだるま温泉の案内看板が立つ (撮影 2017. 9.11)

ゆきだるま温泉まで4km (撮影 2017. 9.11)
   

<看板>
 何か参考になる看板はないかと沿道を見詰めるが、これと言って注目されるものはなかった。温泉やスキー場の看板も控えめである。

   

二本木付近 (撮影 2017. 9.11)

「カジカ蛙の里」の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

<県道301号分岐>
 峠道にとって重要な分岐が出て来る。右に県道301号が分かれて行く。ここは安塚区信濃坂(しなのざか)。小黒川に支流の須川川が注ぐ地である。 国道はここより支流沿いに須川を目指し、当面は須川峠の道筋を辿る。一方、県道は本流沿いに真荻平や伏野を目指す。この道筋が元の伏野峠の峠道だと思うのだが。
 
<須川峠と伏野峠>
 すると、ここまでの道筋は須川峠と伏野峠とで共通ということになる。峠の位置も1km程度しか離れていない。長野県側に下った西大滝と藤沢も1km余りの距離だ。 わざわざ信濃坂から二手に分かれて峠を越える価値がほとんどないように思える。 小黒川沿いに伏野を経由する伏野峠はやや西に迂回する形になるので、須川を経由する須川峠より少し遠回りのようだ。 広く信越間の物資輸送などを考えると、もっぱら須川峠が利用されたのではないだろうか。伏野峠を利用するのは、峠至近の伏野集落から信州に向かう場合などに限られる気がする。 ただ、古くから通じる峠道の正確な道筋が分からないので、はっきりしたことは言えないが。

   

県道301号分岐の看板が立つ (撮影 2017. 9.11)

県道301号分岐の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

<以前の県道分岐>
 県道分岐を古い写真と見比べると、今とは少し様子が異なっていた。 現在は国道から直角に右に曲がって小黒川を左岸へと渡るが、以前はそれより手前で、国道をほぼそのまま直進すると県道となり、小黒川を渡る菱里橋が架かっていた。一方、国道の続きは左にカーブしていたようだ。今では古い菱里橋はもうないようである。

   
以前の県道301号はここを右に進んで小黒川を渡っていた (撮影 2017. 9.11)
今は左手に少し進み、前方に見える橋を渡る
周囲に商店なども見られない
   
以前の信濃坂 (撮影 2001. 7.29)
国道403号を安塚方面に見る
以前はこの先左に県道301号が分かれていた
周囲は賑やかな様子である
   

<信濃坂>
 県道の分岐が変わったが、市街の様子も変わったようだ。文献ではこの分岐付近に商店街が形成されているとある。確かに以前は商店やガソリンスタンドなどが見受けられた(上の写真)。僅か17年前の写真だが、すっかり変わってしまった。
 
 古くは信濃坂村。明治22年に真荻平村(もおぎたいらむら)と合併して新しい真荻平村となり、それ以後は大字信濃坂。 明治34年に真荻平村と須川村・船倉村・豊坂村が合併して菱里(ひしざと、ひしさと)村が成立。昭和30年には安塚村・小黒村・菱里村が合併して安塚町となって行く。
 
 「信濃坂」という地名の由来は分からないが、「信濃に通じる坂道」とでも捉えられそうだ。須川峠と伏野峠への登り口に当たる。 古くは越後国と信濃国との間で人や物資の交流が盛んであった。信濃坂は信濃へ峠越えを控えた大きな集落であり、交通の要衝であったのだろう。 国境・県境を越えての物流は昭和初期頃まで続いたそうだが、その後は急激に衰えて行く。「信濃坂」という名は古い時代の名残のようにも響く。

   

<現在の分岐>
 かつての商店街部分を抜けた人家ばかりがポツリポツリたある所で県道301号は分かれて行く。

   

右に県道301号分岐 (撮影 2017. 9.11)

分岐より県道301号方向を見る (撮影 2017. 9.11)
直ぐに小黒川を渡る
   

菱里橋より小黒川を上流方向に見る (撮影 2017. 9.11)
この源頭部に伏野峠が通じる

<菱里橋>
 現在、県道301号の小黒川に架かる橋も菱里橋と呼ぶようだ。かつて真荻平村など4か村が合併してできた菱里村があったが、その「菱里」という地名の名残となるのであろうか。安塚区南部に菱ケ岳がそびえるが、その麓にある里というような意味だろうか。

   
   
   
須川 
   

<須川へ>
 今回は伏野峠に敬意を表し伏野集落経由で峠を目指すが、その前に須川集落について少し触れたい。
 
 2001年7月に「須川大こぶし」に立ち寄りながら町道須川中船線(現上越市道)で須川に着いた。国道403号を峠方向に見ると、「全面通行止」の看板が立っていた。 その前年、長野県側から国道403号を登ったのだが積雪で引き返している。2年続けて峠越えを断念したのだった。

   
須川集落 (撮影 2001. 7.29)
国道403号を峠方向に見る
この時は通行止の看板が立っていた
   

通行止の看板 (撮影 2001. 7.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<通行止看板>
 看板によるとキューピットバレイの先で工事による通行止の様だった。期間は8月12日までとある。訪れたのは7月29日で、僅かに早かった。サラリーマンの休日を利用しての旅では、なかなか思うようには行かない。
 
 
<須川>
 江戸期からの須川村。明治22年に市制町村制施行による須川村となる。大字は編成せず。文献によると地名の由来は、「鳥の巣のように数本の谷川が集まっている地形による」そうだ。菱ケ岳北麓に位置し、現在はキューピットバレイなどのスキー場を有す。
 
 須川峠の名はこの「須川」から来ているのは明白だろう。須川峠の新潟県側最終の集落となる。伏野峠の伏野集落に比べ、やや大きな集落に見える。これも須川峠の方がよく利用された証だろうか。文献でも須川は「往時から須川峠越えによる駄送が盛んであった」と記している。
 
 明治34年に菱里村の大字須川、昭和30年には安塚町の大字須川となって行く。

   
旧町道須川中船線の須川側出口 (撮影 2001. 7.29)
手前は国道403号
右手に地すべり防止事業の看板
   

<地すべり防止事業の看板(余談)>
 町道須川中船線の出口に「頸城の地すべり防止事業」という看板が立っていた。旅先ではこうした看板を真っ先に写す。現在地を記録に残すのに役立つからだ。
 
 看板の地図では、現在国道403号となっている道はまだ県道飯山浦河原線と出ている。それに伏野地区を通る道が合流して来ている。県道の先には伏野峠が見られる。 須川峠がないが、菱ケ岳の裏の隠れているのだろう。稜線の左手(東)には野々海峠がある。小黒川の本流となる保倉川(ほくらがわ)は野々海峠を源頭部とする。よって水域による峠の序列は野々海峠・伏野峠・須川峠の順となる。


地すべり防止事業の看板 (撮影 2001. 7.29)
地図は概ね下が「北」
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
看板の地図の一部 (撮影 2001. 7.29)
中央を縦に通るのが県道飯山浦河原線
その先に伏野峠が見える
須川峠は菱ケ岳の裏に隠れているようだ
   
   
   
県道301号へ 
   

<柳島信濃坂線>
 話を戻し、信濃坂より県道301号に入る。この道は柳島信濃坂線と呼ぶ。柳島(やなぎしま)は上越市牧区にあり、旧牧村の中心地で牧峠や宇津ノ俣峠の新潟県側起点となる。 県道301号は柳島から飯田川(保倉川の支流)を遡って宇津俣(うつのまた)に到り、その後牧区と安塚区の区界(旧町村境)を越え、小黒川沿いの伏野へと下って来る。 ところが、飯田川と小黒川との分水界(区界)の峰で県道は未開通だ。代わりに薬師峠近くに林道が通じていて、伏野と牧区棚広新田が繋がっている。

   

県道301号を伏野方向に進む (撮影 2017. 9.11)
県道標識が立つ

県道標識 (撮影 2017. 9.11)
   

<真荻平>
 道は小黒川左岸を行く。最初の内は国道403号と比べても遜色ない快適な2車線路だ。沿道にポツリポツリと見える建物は真荻平(もおぎたいら)の集落である。立派な道の割には人家は少ない。この集落には県道以外にも道が通じていて、そちらに人家が多いようだ。
 
 古くは単独で真荻平村となっていたようだが、江戸期には伏野を含めて真荻平村と呼ばれた。文献では「信州との交易も盛んであった」としている。勿論、国境となる伏野峠を越えての交易であろう。

   

2車線路の県道 (撮影 2017. 9.11)

道の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<道幅減少>
 立派な県道も1km走るともう力尽きた。急激な幅員減少である。加えて屈曲や勾配も増す。しかし、こうした道は嫌いではない。 長年、険しい峠道ばかり走って来ているので、ほとんど苦にはならない。逆に、これからいよいよ峠道だと思うと、俄然「やる気スイッチ」が入るのだ。緊張も高まるが、期待も大きく膨らむ。


この先、道幅減少 (撮影 2017. 9.11)
   
狭い道になった (撮影 2017. 9.11)
俄然、「やる気スイッチ」が入る
   

真荻平中央バス停前 (撮影 2017. 9.11)

<道の様子>
 それまでの快適だがどこかよそよそしい2車線路とは異なり、沿道の家屋が非常に身近な存在となる。「真荻平中央」と書かれたバス停前を通過する。 脇の大きな建物は「真荻平地区 集落開発センター」と看板にあり、「緊急避難場所」にも指定されていた。並びの三角屋根の小屋はゴミの集積所らしい。 バス停に「中央」とあることから、この辺りが真荻平集落の中央部分だろうか。この県道沿線の約1.5kmに渡り人家が点在する。

   
集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
正面は消防団の倉庫
   

<集落の様子>
 道はクネクネと家屋の間を縫って登って行く。2階建てか、あるいは屋根裏部屋のあるような大きな木造の人家が木々の間に建っている。昔ながらの山里の様子を今に留めている集落だ。

   

集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
左手に分岐
小黒川右岸に渡り、その先国道403号に繋がっているようだ

集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
沿道には倉庫の様な建物が多い
   

周辺の様子 (撮影 2017. 9.11)
棚田が小黒川に向かって下っている

<周辺の様子>
 真荻平は既に小黒川の上流域と言っていいが、地形はまだまだ穏やかだ。集落内の幹線路となる県道脇だけでなく、小黒川左岸の緩傾斜地に広く人家が点在する。棚田も多く、比較的豊かな土地に見える。ただ、冬場の積雪は多いのかもしれない。
 
<集落を過ぎる>
 沿道から家屋がパッタリ途切れ、真荻平集落を過ぎたのを知る。左岸の斜面の傾斜もややきつくなり、この付近では集落や棚田が形成され難かったのだろう。暫し、寂しい道が続く。

   
道の様子 (撮影 2017. 9.11)
真荻平集落を過ぎた先
暫し人家は見られない
   
   
   
伏野へ 
   

<伏野>
 伏野(ぶすの)は小黒川最奥の集落である。そして伏野峠の最前に位置する。県道沿いに再び建屋が見え出すと伏野の集落は近い。

   
そろそろ伏野集落に入って行く (撮影 2017. 9.11)
   

<「ぶすの」の看板>
 伏野集落は花壇と看板で迎えてくれる。看板には平仮名で「ぶすの」とある。花畑の背後に描かれた三角形の山は菱ケ岳であろう。ホッとする看板だ。何だか旅人を温かく迎えてくれそうな集落に思えて来る。

   
集落の前に立つ「ぶすの」の看板 (撮影 2017. 9.11)
   
「ぶすの」の看板 (撮影 2017. 9.11)
描かれている山は菱ケ岳だろう
   

<集落の様子>
 集落の少し手前から再び小黒川左岸に眺めのいい緩傾斜地が広がり、そこに多くの棚田が耕作されていた。伏野の人家が集まる集落は、その棚田の区域に続くやや木々が茂った森の中となる。道は集落内を細かな蛇行を繰り返しながら登り始める。
 
 木造の人家はやはり2階建ての大きな物が目立つ。雪深い地であることと関係するのかもしれない。古くからこうした造りなのだろう。集落の中央を県道が一本通じ、そこから周辺の人家へと細い道が時折分かれて行く。人家は広範囲に点在するようだ。


伏野の人家が見えだした (撮影 2017. 9.11)
   

集落内の様子 (撮影 2017. 9.11)
家の前に電動カ―が停まっていた

集落内の様子 (撮影 2017. 9.11)
大きな家屋が多い
   

<峠の旅(余談)>
 幹線路となる県道301号は、伏野の集落を過ぎた先で未開通となる。何本かの細々とした林道が続くものの、実質的には伏野集落が終点の地といった状態だ。 地元民やその縁戚を除けば、訪れる者は滅多にないことだろう。伏野峠の名の元となる集落を訪れたいなどと思わない限り、この地に足を運ぶことはなく、この集落を目にすることもなかった。峠の旅の面白さはこうした所にもあるようだ。

   
クマ出没の看板 (撮影 2017. 9.11)
集落の中心部
   

<学校跡>
 点在する人家の間を300m程進むと、ほぼ集落の中心部である。鉄筋コンクリート3階建ての大きな建物が目に付いた。傾斜地にある集落内には珍しく、広い平坦地が隣接する。 一見して学校の校舎とその校庭だと分かる。
 
 しかし、文献では「旧伏野小学校校舎は伏野地区社会教育会館となる」とある。文献の発行年(1989年)までには既に廃校となっていたようだ。 ちょっと前の道路地図では「公民館」と出ていた。現在の看板には「伏野地区 生涯学習センター」となっていたようだ。やはり緊急避難場所に指定されている。


学校跡地にある生涯学習センター (撮影 2017. 9.11)
   
集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<集落の様子>
 その後も人家の点在は続く。かつては何らかの家屋が建っていたのではないかと思われる空き地も見られたが、概ね家屋敷は残されている様子だった。
 
 ただ、人影に乏しい。古くは信濃国との物資の交易や人の往来も少なくなかったであろう。信濃側に下った千曲川右岸には野沢温泉があり、越後の農民が湯治にと峠を越えた湯峠道でもあった。そうした人々の営みはもうここには見られない。伏野集落はただひっそりと静まり返るばかりである。

   
集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<分岐>
 集落もほぼ尽きた所でY字の小さな分岐がある。クマが出没したという看板が立つくらいで、ほとんど何の案内もない寂しい分岐だ。ここを右に登るのが県道の続きである。牧区(旧牧村)との境の薬師峠方面へと進んで行く。

   

Y字の分岐 (撮影 2017. 9.11)
右が県道の続き、峠へはここを左に

上の県道側より分岐を見る (撮影 2017. 9.11)
左が伏野集落へ、右が峠へ
   

<林道菱ケ岳一号線>
 一方、左に分かれるのは「林道 菱ケ岳一号線」と側らに立つ林道標柱にある。ここが「起点」で、「巾員 三.〇m 延長 四八〇〇m」とのこと。標柱の一面には「植林で 生かそう林道 わが郷土」と書かれていた。この近辺の林道標柱には大抵この文句が記されている。

   

林道標柱 (撮影 2017. 9.11)

林道標柱 (撮影 2017. 9.11)
   

 伏野の集落を訪れたのはいいが、その先、伏野峠方向に車道が延びているかどうか分からなかった。しかし、どうやらこの林道が小黒川沿いを遡り、国道403号にまで接続しているようだった。延長4.8kmは、この起点から国道に合するまでの距離らしい。

   
   
   
林道菱ケ岳一号線へ 
   

<旧峠道>
 伏野集落から伏野峠まで、元の峠道がどのように通じていたかはなかなか正確には分からない。現在の地形図には伏野峠のみ記されていて、その前後の道筋がほとんど示されていない。 ただ、伏野峠は小黒川本流のやや左岸寄りにあり、同じく左岸側に位置する伏野集落からそのまま左岸伝いに峠まで続いていたものと思う。林道菱ケ岳一号線も当面は左岸をキープしている。

   

林道脇にある人家 (撮影 2017. 9.11)
ほぼ新潟県側最終の人家となる

<林道菱ケ岳一号線へ>
 林道区間に入ってからもまだ人家は見られた。こうした点は、古くからあった道ではないかと期待される。間もなく伏野峠の新潟県側最終の人家を過ぎる。峠を越えて再び人家が現れて来るまで、約23Kmの道程を要すこととなる。

   

<内牧橋>
 人家の途絶えた林道は、小黒川の一つの支流上部を迂回する。そこに架かる橋は「内牧橋」である。橋の前後はちょっと大回りな道筋で、こうした点は車道開削によってできた新しい道の様に思える。ただ、大筋では伏野峠の旧道と大差ないのではないだろうか。


支流を渡る (撮影 2017. 9.11)
   

左に分岐あり (撮影 2017. 9.11)
旧道か?

<分岐>
 その後、また別の支流へと車道は迂回する。今度は本流から1km近くも離れることとなる。これはもう旧峠道とは全く異なる道筋だ。
 
 支流への迂回の手前で、本流沿いに進む細い道が分岐していた(左の写真)。それが旧道だろうか。この近辺はまだ耕作地が沿道に広がり、農作業用の作業道も多く通じる。 旧道はそうした作業道の一つとして残っているのかもしれない。ただ、一般の車で走れるような道かどうか分からない。

   

<沿線の様子>
 支流と本流で挟まれる三角地帯は比較的平坦な地形を成し、そこに田んぼや畑が切り開かれている。時折広々とした景色が広がる。集落ではほとんど車を見なかったが、この沿線では何か作業を行っているらしく、軽トラなど6台近くを目撃した。

   

沿線の様子 (撮影 2017. 9.11)

沿線の様子 (撮影 2017. 9.11)
田畑が広がる
   

<支流から本流へ>
 道は支流上部を巻き、一転して東へと向かう。支流と本流との分水界となる尾根を越え始める。ただ、非常になだらかな丘陵状の地形で見通しはいい。その内ほぼ正面に菱ケ岳の三角の山容が確認できるようになる。

   

支流の上流部を過ぎる (撮影 2017. 9.11)

支流から本流へ (撮影 2017. 9.11)
菱ケ岳が見えて来る
   

<旧道と交差>
 林道はこの先小黒川の右岸へと移動してしまう。左岸沿いに通じる旧道とはどこかで交差する計算だ。ドラレコ画像をいろいろ確認し、それらしい道の交差を見付けてみた。

   
旧道との交差? (撮影 2017. 9.11)
   

左からはっきりした道が合して来ている (撮影 2017. 9.11)
ただ、右(峠方方向)へはほとんど道らしい道がない

<旧道>
 地形図にもこの支流と本流との間の台地状の地を登って来ている道が描かれている。ただ、林道に合した後、峠方向への道が描かれていない。麓の方は農作業用などの用途で道が存続してきたが、山の方はもう廃道になっているのだろう。
 
 古い道路地図など2、3の地図を確認してみると、やはり旧道は現在の林道と交差した後、小黒川左岸を川筋より少し離れて峠に到っていたようだ。

   
また直ぐに別の道が左から合して来ていた (撮影 2017. 9.11)
   

<小黒川本流左岸>
 道は小黒川の支流から本流左岸沿いへと丘陵地を越えて行く。見通しが良くなり、丁度正面に菱ケ岳が大きく見えて来る。伏野峠の新潟県側ではこの菱ケ岳が格好のランドマークとなり、現在地の把握に役立っている。
 
 伏野峠の旧道も、小黒川の川筋ではなく、この丘陵地帯を峠へと登っていたようだ。左手に菱ケ岳を仰ぎつつ、峠を目指したのだろう。


菱ケ岳が近くになった (撮影 2017. 9.11)
   

小黒川上流部を過ぎる (撮影 2017. 9.11)
はっきりした川は確認できない

<小黒川上流部>
 道は小黒川の上流部を右岸へと横切って行く。地図には貯水池の様なものも描かれているが、沿道からは草木で隠れて何も確認できなかった。 この付近は小黒川もかなり上流部に位置し、貯水池の上流側ではもうはっきりした川筋が見えない。橋など架かることなく、いつの間にやら小黒川を過ぎていた。

   

<林道菱ケ岳不動滝線>
 道は小黒川右岸側をやや麓方向に進む。林道菱ケ岳一号線も終りに近付いた頃、麓方向より道が一本合流して来る。 ちょっと見る限りは、狭いながらもしっかりアスファルト舗装されていて、車でも問題なく走れそうな道だ。 分岐の角に古い林道標柱が立っていて、「林道菱ケ岳不動滝線終点 昭和48年度竣工 管理者安塚町」とあったようだ。 「不動滝」とは小黒川のもっと上流部に架かる滝の名である。この地点より林道菱ケ岳一号線方向に少し戻り、更に小黒川に沿って1.7km程遡るとその滝がある。ただ、小黒川沿いに車道は通じていないが。

   

左から道が合流 (撮影 2017. 9.11)
角に林道標柱が立つ

合流する道を麓方向に見る (撮影 2017. 9.11)
   

 地図を見ると、不動滝線は伏野集落を起点とし、概ね小黒川右岸側に沿ってこの地点まで到っている。初めは伏野峠の旧道の可能性もあるかと思ったのだが、そうではなさそうだ。 旧道はあくまで左岸側に通じていたのだろう。また、須川峠への道筋とも異なる。文献によると、須川峠の旧道は菱ケ岳の東側に通じていたとのことであった。
 
 この付近の小黒川は深い谷を形成することなく、一帯は丘陵地的な開けた地形だ。川筋以外に道は通し易い。車など通れない狭い道だが、地形図にも載らない道がいろいろ通じている。

   

<国道403号に合流>
 林道菱ケ岳一号線は延長4.8kmで国道403号に接続して終わる。国道と言っても既に須川集落を過ぎ、スキー場脇なども通過した後なので、こちらの林道と大差ない狭い舗装路だ。道の両脇に白線が描かれているのが、僅かながらの違いであろうか。

   
国道403号に合流 (撮影 2017. 9.11)
左手が須川集落方向、右手が峠方向
   

林道菱ケ岳一号線方向を見る (撮影 2017. 9.11)

<林道終点の林道標柱>
 国道からの分岐にも林道標柱が立っていたが、半分朽ちていた。辛うじて「一号線 終点」と読める。「昭和五十一年度 竣工」ともあり、すると林道菱ケ岳不動滝線の方が先に開通したことになる。

   

林道標柱 (撮影 2017. 9.11)
「一号線終点」とある

林道標柱 (撮影 2017. 9.11)
「昭和五十一年度 竣工」とある
   

<国道の様子>
 国道沿いには国道標識など見られないので、地図で確認してこれが国道なのだろうなと認識するしかない。 ただ、国道405号の分岐でも見られたブルーシートを被った道路標識が、峠方向に立っていた。やはり冬期間に通行止とする為だろう。逆に言えば、この標識が立つ区間は冬期でも来られることになる。
 
<登山道>
 道路標識の手前の足元には「登山道 直進」と看板がある。何の山だか書かなくともこの付近では菱ケ岳と決まっているようだ。
 
 地形図ではこの林道分岐地点に標高「599m」と出ている。菱ケ岳山頂は1,129mである。また、伏野峠は約1,015mで、ここより400m余り登ることとなる。


国道を須川集落方向に見る (撮影 2017. 9.11)
林道と大差ない
   

国道を峠方向に見る (撮影 2017. 9.11)
ブルーシートを被った道路標識が立つ
まるで案山子の様だ
手前には「登山道 直進 ↑」の看板

国道沿いの看板など (撮影 2017. 9.11)
   
   
   
国道403号を峠へ 
   

<須川川上流部>
 国道403号は概ね須川川沿いを遡って来ている。須川川は菱ケ岳北西麓を源とし、国道もこの先その斜面を登って行く。地形はまだ比較的穏やかで、道のほぼ正面に菱ケ岳全貌を望むようになる。

   
正面に菱ケ岳を望む (撮影 2017. 9.11)
   

左に分岐あり (撮影 2017. 9.11)

<東への林道分岐>
 国道を1Kmも走ると、左(東方)に舗装路が分岐する。以前、須川で見た「地すべり防止事業」の看板では「広域基幹林道菱ケ岳線」とあった道だ。林道標柱が立っているのだが、肝心な名前の部分が剥がれていて分からない。
 林道菱???号線 起点
 幅員 四・〇米
 延長 三五五〇米

 
 林道菱ケ岳一号線があったから、こちらは多分「林道菱ケ岳二号線」であろう。地図を見ると、菱ケ岳北麓に広がるスキー場を横切り、その後麓の須川集落方面へと下って行く。須川峠の旧道に近い部分を通るのではないだろうか。

   
分岐に倒れる林道標柱 (撮影 2017. 9.11)
   

<菱ケ岳西麓へ>
 林道を分けた後、国道は大きく蛇行を始め、なだらかな菱ケ岳北麓から急傾斜の西麓へと登って行く。須川川水域からまた本流の小黒川水域へと移ることとなる。道の蛇行具合はそれなりに峠道らしさを感じさせてくれる。

   
菱ケ岳西麓を南へ向かう (撮影 2017. 9.11)
   

<道の様子>
 道は狭いながらもよく整備されたアスファルト舗装が続き、走り易い。左手に菱ケ岳山頂へと斜面が登り、右手には小黒川へと谷が下る。菱ケ岳は近付き過ぎたのでかえって望めないが、代わって正面に新潟・長野の県境となる関田山脈がそびえるようになる。

   
道の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<景色>
 右手後方へと小黒川の谷間が下る。そちらにやや遠望が広がった。

   
沿道からの景色 (撮影 2017. 9.11)
   

<火炎石(余談)>
 地図の道路沿いに「火炎石」とある。道の左手(東側)に記されていた。どれがその岩かと左手に注意していたが、見付からなかった。後で調べると、「火炎石」そのものは道路の右手にあったようだ。ドラレコ画像を調べたが、それらしい岩は道路からは見られないようだった。

   

<登山道入口>
 菱ケ岳山頂の南西方向まで登った所で、右の谷側に広場があった。その奥に看板が立ち、「不動滝 歩いて15分 足元に注意して下さい」とあった。また、広場の直ぐ先の左手には菱ケ岳山頂への登山道が始まっていた。先程の広場は登山者の為の駐車場となるようだった。
 
<以前の道の終点>
 主要地方道・飯山浦川原線の時代から更に国道に昇格した当初、まだ峠に車道が通じる以前は、車道の新潟県側終点はこの登山道入口付近であった。 多分、菱ケ岳登山の便宜の為、まずはここまで車道を開削したのだろう。かつて信越国境を越えた交易の為に開かれた峠道だったが、現在の車道は観光開発が主目的だったのかもしれない。


道の右手に広場 (撮影 2017. 9.11)
この奥から不動滝へと道が下る
ここは登山の為の駐車場らしい
   

左手に登山口 (撮影 2017. 9.11)
かつてはこの付近で車道が終わっていたようだ

登山道の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

この付近で小黒川を過ぎる (撮影 2017. 9.11)

<小黒川源流部>
 不動滝は小黒川の最上流部にある。正確にはどれが小黒川本流かは分からないのだが、少なくとも文献の小黒川の項では「不動滝に源を発し」とある。
 
 その小黒川は菱ケ岳山頂と関田山脈の主稜とを繋ぐ尾根上の鞍部を源頭部とし、最初西流、不動滝を過ぎてからは概ね北流する。南を目指す道は源頭部から下る小黒川を横切る形となる。ただし、僅かに谷の様相を示すだけで、まだ川らしさは微塵もない。

   

<登山道と交差>
 小黒川左岸に移ると、そこでまた別の登山道と交差する。山側に看板が立っていた。地形図にもその道は示されている。菱ケ岳への道ではなく、須川峠より更に西の稜線上へと登っている。


登山道と交差 (撮影 2017. 9.11)
   

S字カーブの途中 (撮影 2017. 9.11)
正面の峰の頂上が須川峠付近

<S字カーブ>
 道は須川峠をほぼ正面に見て進む。いよいよ関田山脈の稜線が迫って来ると、その急斜面をS字カーブを描いて登る。
 
 
<広い路肩>
 急坂を登り切った道は稜線に並行して西に進むようになる。直ぐに広い路肩が出て来る(下の写真)。丁度この上の稜線部分が須川峠となるようだ。しかし、峠へと登るような道は全く見当たらず、急斜面がそそり立つばかりである。

   

<車道の道筋>
 文献の菱ケ岳の項に「現在須川からこの山の西の中腹、高度約900mのところを通り、須川峠を経て長野県に至る林道が建設中である」と出ている。 確かに峠部分が未開通の頃の国道403号は、須川峠方向へとまっしぐらに進んでいた。 長野県側でも早くから須川峠直下に林道が通じ、この状況からして関田山脈を越える車道は須川峠に通じるものとばかり思っていた。 しかし、実際に車道が越えたのは、須川峠ではなく伏野峠の方であった。まあ、正確には元の伏野峠その物ではないにしろ、極めて近い場所ではある。
 
 地形図を見ると、須川峠の新潟県直下は等高線が密になっていて、非常な急傾斜地であることが分かる。ここに車道を通すことは極めて困難であったのだろう。 当初は菱ケ岳への登山道路の様な位置付けで開削された車道のように思えるが、いざその先の県境越えへと道を延ばす段になって、大きくコースを曲げざるを得なかったようだ。


広い路肩がある (撮影 2017. 9.11)
この左手上部がほぼ須川峠
   

<須川峠の旧道>
 かつて歩いて越えていた頃の須川峠も、この新潟県側の急傾斜は避けたようである。 地形図に描かれる須川峠の道は、須川峠からほぼ稜線に沿って東に進み、その後、菱ケ岳山頂へと続く尾根筋に移り、丁度小黒川の源頭部となる鞍部を過ぎて、菱ケ岳東麓へと下っている。文献にも須川峠の道は菱ケ岳の東に通じていたとある。
 
<須川峠>
 文献に見る須川峠は、信越の物資交流の道で、また越後農民の信州野沢温泉にゆく湯峠道でもあったとある。近世は峠の上に茶屋が設けられるほど交通量が多かったとのこと。「現在新潟・長野両県からそれぞれ峠の近くまで主要地方道飯山浦川原線を建設中で、近く連絡する予定」ともあるが、前述のように車道は須川峠には通らなかった。
 
 文献では須川峠の標高は1,080mと出ている。ツーリングマップルなどでは1,070mなどともある。現在の地形図では1,070mと1,080mの間に道が通じている。 約1,075mということになろうか。一方、伏野峠(の近く)に通じた車道の標高は約1,015mである。同じ関田山脈の稜線でも、なるべく低い所を選んで車道を通したと言えようか。

   

<駐車場>
 須川峠直下を過ぎた直ぐ先、車道より一段低い場所に駐車場が設けられている。この険しい地形に於いては広い敷地と言える。 菱ケ岳登山用とかとも思ったが登山道入口からはやや離れている。「信越トレイル」の便宜もあるのかもしれない。このコースは全長80Kmもあるそうで、大抵は一部分を歩くことになるだろう。この伏野峠など車道が通じた峠は歩き始める起点として便利である。

   
右手に下った所に駐車場 (撮影 2017. 9.11)
   

<稜線沿い>
 道は、左手に関田山脈の峰を仰ぎながら、その稜線とほぼ並行して緩やかに登って行く。右手には小黒川源流の谷が下る。右手後方を振り返ると、再び菱ケ岳の山頂が顔を出している。ランドマークとしての最後の役割を果しているかのようだ。

   
菱ケ岳を望む (撮影 2017. 9.11)
   

道の様子 (撮影 2017. 9.11)

<峠直前>
 道は須川峠から伏野峠までの距離に匹敵する700m余りを進む。峠へのラストランとなる。この区間は最後に車道が開通したこともあり、まだ新しそうな様子だ。ガードレール(ワイヤー製)などもしっかり完備である。
 
 峠直前は、なだらかにカーブしながら稜線に通じる切通しへと入って行く。新潟県側の視界が背後に消え去って行く。

   

道の様子 (撮影 2017. 9.11)
ちょっと路肩が広い箇所を過ぎる

切通しの中に入って行く (撮影 2017. 9.11)
   
   
   
 
   
新潟県側から峠の切通しに入る (撮影 2017. 9.11)
県境はこの辺りらしい
   

<峠に到着>
 2000年6月に長野県側から峠を目指したが雪で引き返しとなった。それ以来、17年経ってやっと訪れることができた伏野峠である。 ただ、当初は須川峠を越える積りで車を走らせていたのだが、結果的に車道が通じていたのは伏野峠であった。更に正確には本来の伏野峠でもなさそうなのだが、名無しの峠では締まらない。ここでは「伏野峠」だと言い切ってしまうのであった。

   
伏野峠 (撮影 2017. 9.11)
手前が新潟県、奥は長野県
   

<峠の様子>
 新潟県側からはしっかり登るが、峠部分では道の起伏はほとんどなく、穏やかな様子だ。峠がある稜線は部分的に南北方向に通じ、道は概ね東西方向に越える。峠より南に延びる稜線上に1094.4mのピークがあり、峠はその北の肩の部分に位置する。
 
 峠から更に西方へと稜線が続くが、あまり隆起がなく、峠が通じる部分は深い鞍部とはなっていない。その為、比較的空が広く、明るい雰囲気の峠である。 半面、あまり峠らしい様相がない。

   
伏野峠 (撮影 2017. 9.11)
長野県方向に見る
   

<峠の新潟県側>
 それでも峠の新潟県側は切通し状になっていて、一応峠道らしく見える。狭く視界がない切通しを抜けると、その先で小黒川の谷間がパッと広がり、菱ケ岳も視界に入って来るという仕掛けだ。伏野峠は長野県側から新潟県側に越えた方が面白そうである。


峠の新潟県方向を見る (撮影 2017. 9.11)
切通しとなっている
   
峠の新潟県側 (撮影 2017. 9.11)
この先で切通しを抜ける
   

<登山道など>
 峠では稜線方向に登山道が通じている。現在は信越トレイルのコースともなる。

   
峠を新潟県方向に見る (撮影 2017. 9.11)
ここを登山道が横切っている
   

<須川峠方向への道>
 東方へと延びる登山道には「須川峠 1km」と書かれた信越トレイルの道標が立つ。現在地は「伏野峠」となっている。
 
 この伏野峠は信越トレイルの6つあるセクションの区切りの一つとなっている。ここより西の関田峠〜伏野峠間がセクション5、東の伏野峠〜天水山(あまみずやま)間が最終のセクション6になるとのこと。


須川峠方向への登山道 (撮影 2017. 9.11)
   

信越トレイルの看板など (撮影 2017. 9.11)

<信越トレイルの看板>
 一方、西への登山道入口には「宇津ノ俣峠 4.5Km」の道標が立つ。また、その並びに信越トレイルの看板が立っている。この看板はこのコースの主要な部分に設けられているようだ。
 
 不思議なのは看板が埋まっていることである。ここは豪雪地帯として知られる関田山脈だ。 冬期の積雪の影響で、こういう事態になったのかとも想像したが、あまりに見事に埋まっている。車道のかさ上げでもしない限り、直ぐ道の脇に立つ看板がこれ程埋まるのも変である。 尚、看板の横にク−ラーボックスが置かれているが、この中には水分補給用の水が入っているようだ。信越トレイルを歩く方への配慮らしい。

   

信越トレイルの看板 (撮影 2017. 9.11)
どういう訳か埋まっている
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
(拡大画像は牧峠に立っていた看板)

宇津ノ俣峠方向への登山道 (撮影 2017. 9.11)
   

<旧峠>
 古くからある伏野峠は、この車道の峠より稜線上を宇津ノ俣峠(西)方向に300m程歩いた所にあるようだ。 地形図で見る限り、あまりはっきりした鞍部ではなく、本当にそこに峠があったのか分かり難い地点だ。 ただ、小黒川の上流部は、菱ケ岳南麓を源流とする不動滝がある川と、その西側に関田山脈の主稜を源流とするもう一つの川に分かれる。 地図によっては、西側の方を小黒川本流としているものもある。旧伏野峠は概ねその川の源頭部に位置する。標高は約1,015m。現在の伏野峠とほぼ同じである。
 
<伏野峠について>
 文献などでは伏野峠(旧峠の方)についての記述がほとんど見当たらない。須川峠と同様、信越国境を越えての物資や人の交流、信州野沢温泉への湯峠道としての役割はあったと思われるが、果してどの程度であったろうか。須川峠には茶店も設けられたようで、須川峠がメイン、伏野峠はサブ的な峠道ではなかったかと想像する。
 
 ただ、信越トレイルのパンフレットに次のような記述が見られる。「古くから菱ケ岳を信仰の対象とした山岳修験、戦国時代の軍用道路として利用された歴史のある伏野峠」。
 
 信仰の山・菱ケ岳は明治4年まで女人禁制だったそうだ。また、上越は戦国の名将・上杉謙信の地である。関田峠は謙信が信濃川中島出兵の際利用した軍用道路であったとのこと。 伏野峠も謙信と関わりがあるのかもしれない。ただ、信越間の交易は近世(江戸期)が最も盛んだったようだが、伏野峠にはその当時の音沙汰があまりない。

   
信越トレイルの道標 (撮影 2017. 9.11)
現在地はやはり「伏野峠」となっているが・・・
   

<峠の長野県側>
 今から思うと、確かにこの峠は古くからある伏野峠とは違うようだった。峠から長野県側に延びる車道が、若干の起伏があるものの、概ね登り坂なのだ。どうにも峠らしく見えない。
 
<峠が道の最高所でない(余談)>
 この様に峠が道の最高所となっていないケースは、車道開削でできた新しい峠に多い。時には峠の場所は元の峠とほぼ同じで、車道は登って行き、その側らで細々と旧道が下っているという場合もある。峠の片側の地形が険しく、車道が元の道筋に通せなかった為だ。権兵衛峠などはそれに近い例であろう。しかし、この伏野峠では、車道以外に長野県側に下る道筋はどこにも見られない。こうした様子からして、やはり昔からある峠とは異なるようだ。


峠より長野県方向を見る (撮影 2017. 9.11)
道は緩やかに登っている
   

 ただ、須川峠の新潟県側の様に、元々、峠から谷間へと直ぐに下ることなく、少し稜線上を進んでから改めて下りだすというケースもあり、断定はできない。 それでもやはり、車道の伏野峠以外に元の伏野峠がある可能性に気付くべきだった。信越トレイルの道標などで、現在地が「伏野峠」となっているのをそのまま鵜呑みにしてしまった。17年越しにやっと峠に辿り着けたという喜びの方が大きかったようだ。
 
<峠の定義(余談)>
 ところで、峠の定義として「道が登って次に下る最高所」といったような記述方法があるが、この新しい伏野峠はそれには当てはまらない。ならば峠ではないのかと言われると、やはりここは峠であろう。
 
 その理由の一つは、この地点が明確な分水界にあることだ。新潟県側は関川水系、長野県側は信濃川水系である。 峠より長野県側に向かって道は登って行くが、その側らで山の斜面は下って行く。この地点に降った雨は、一方は小黒川(関川水系)に流れ下り、一方は寒川(信濃川水系)に注ぐ。 峠道全体を見れば関田山脈の稜線を越えることが最大の目的であり、その稜線は分水界と一致する。峠や峠道を見る場合、いつも水域を気にするのはこうした理由がある。
 
 また、県境・地町村境などの行政区域の境は、分水界に引かれる場合が多い。実際にも伏野峠は新潟・長野の県境である。こうした大きな転換点は峠としての重要な要素になると思う。
 
 ただ、峠を明確に定義することは難しく、面白いことでもない。関田山脈に通じた新しいこの車道も、曖昧のまま「伏野峠」と呼んでしまって構わないだろう。できれば「新伏野峠」とし、元の伏野峠にも敬意を払いたい。

   

<県境(余談)>
 実は、道が長野県側に向かって登っている為、分水界や県境の位置がはっきりとは分からない。県境看板などはここでは全く見られない。稜線沿いの登山道が分岐する箇所が、信越トレイルの看板なども立ち、現在最も峠らしく見える地点となっている。
 
 しかし、地形図などを見ると、県境はそこより少し(数10m)新潟県寄りに通じるようだ。 道の新潟県側で切通しが最も深くなっている辺りの上空に、分水界・県境が通るのではないだろうか。 こうした車道開削で峰の頂上が切り崩された峠は、それらの位置が分かり難い。これも峠の定義を難しくしている要因だろう

   

<ゲート箇所>
 信越トレイルの看板の並びに車が横付けできる程度のスペースが続き、それが途切れた先にゲート箇所の様な所がある。 道の両側に赤白のポールが立ち、傍らにチェーンを巻いた低い支柱が設けられている。通行止にする場合、そのチェーンを道に渡すのだろう。新潟県側は北斜面に位置するので雪解けが遅い。 冬期などはこのゲート箇所より新潟県側が通行止になるのかとも思ったが、それにしては位置がおかしい。どう見ても長野県側を通行止にするゲートである。

   
ゲート箇所の様な場所 (撮影 2017. 9.11)
峠より長野県方向を見る
   
   
   
峠より長野県側へ 
   

道は登る (撮影 2017. 9.11)

<峠より長野県側へ>
 道は1094.4mのピークを反時計回りに巻くようにして進む。左手がそのピーク、右手には千曲川の支流・寒川源流の谷が下る。割と急な斜面を横に伝いながら、ゆっくり登って行く。

   

<道の最高所>
 伏野峠の標高は約1,015mだったが、道の最高所は峠より長野県側に400m〜500m進んだ所にある。ただ、道の起伏は緩やかなのであまりはっきりここだとは特定できない。標高は約1,035mで、峠より20m程高い。
 
 峠が道が登って下る最高所というなら、その何でもない道の途中が峠となろうが、場所もはっきりしないし、何の目印もない。峠としてこれでは寂しい。やはり最高所ということ以外に何らかの転換点という要素が欲しい。


まだ登る (撮影 2017. 9.11)
   
この辺りが道の最高所か? (撮影 2017. 9.11)
   

尾根の鞍部 (撮影 2017. 9.11)

<林道に接続>
 道の最高所も何となく過ぎ、峠から800m程行くと、1094.4mのピークから南に延びる尾根上の鞍部に到る。周辺は安定した地形だ。
 
 鞍部を南にちょっと登った所にT字路が待っている。伏野峠に車道が通じる以前から、須川峠の長野県側直下を横断する林道が通じていた。 伏野峠を越えた道は、その林道から分岐したものだった。

   
この先T字路 (撮影 2017. 9.11)
左は野々海池への林道、右が国道403号の続き
   

<林道の様子>
 現在はこのT字路から麓側が、正式にどうかは分からないが、国道403号である。しかし、以前は一本の林道で、須川峠直下を通過し、野々海峠直下の野々海池まで通じていたようだ。 この林道区間は走ったことがなく、本当に繋がっているかどうか分からないが、野々海池側の林道分岐は見たことがある。
 
 このT字路からちょっと覗いて見る限り、未舗装の荒れた林道だ。ジムニーに乗っていた頃なら、臆することなく行ける所まで行くのだが、今は恐怖心が先に立つ。過去の怖い体験があれこれ脳裏に浮かび、それだけでとても精神力が耐えきれないのであった。

   
野々海池方面へ延びる林道 (撮影 2017. 9.11)
険しそう!!!
   

<T字路以降>
 道は概ね尾根筋に通るので、T字路以降また少し登る。この様にアップダウンが多いのはやはり車道ならではであろう。
 
 この尾根は、野々海川水域との境か、あるいは寒川の東側にある支流との境になる。下るに従い、はっきり寒川本流と支流との境となる。
 
 伏野峠は寒川本流の最源流に位置する。どちらかというと、車道の伏野峠の方がより寒川の奥部、源頭部に位置すると言える。道は終始本流左岸上部に通じる。


またちょっと登る (撮影 2017. 9.11)
   

今後一本調子で下る (撮影 2017. 9.11)

<道の様子>
 道はやっと一本調子で下るようになる。それでも依然尾根筋に近い為、周辺は開けた雰囲気だ。道の細かな屈曲は多いが、周辺の地形は全般的落ち着いている。 勾配は緩やかで路面状態も良く、のんびり走れる道だ。ただ、木々が多く、視界はない。峠の新潟県側直下のような見晴らしのいい峠道らしさに欠ける。

   
道の様子 (撮影 2017. 9.11)
あまり視界はない
   

<須川峠の道を合する>
 地形図に気になる徒歩道が描かれている。須川峠から長野県側に下り、一部野々海池への林道を経由し、国道403号の途中に接続して来ている。 林道分岐から800m程下った右急カーブの地点だ。はっきりした道の痕跡などは全く気が付かなかったが、ドラレコ画像を見ると、何となく道が合して来ていてもおかしくないような気もする(下の写真)。

   

この左辺りに道があったのか? (撮影 2017. 9.11)

 これが須川峠の峠道かと思ったのだが、文献では「安塚町須川と長野県飯山市西大滝とを結ぶ峠」としている。この国道403号は寒川沿いに下って飯山市藤沢に降り立ってしまう。西大滝は東の野々海川沿いに下った麓にある集落だ。須川峠の位置からしても、野々海川沿いに峠道が通じていた方が自然のように思える。
 
 ただ、峠道は一本とは限らないだろう。また、ここより東にある野々海峠と深坂峠は、長野県側で道が合流し、信濃白鳥(栄村大字豊栄)に下っていたそうだ。伏野峠と須川峠の道が一緒になるコースも有りではないだろうか。

   

<旧道>
 一方、肝心な伏野峠の旧道はどこに通じていたのだろうかと思う。地形図には何も描かれていない。 手持ちの県別地図(大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社)にやっとどうにか旧道らしき道筋が描かれていた。 その他の地図も参考にすると、伏野峠の旧道は峠よりほぼ真っ直ぐ南下し、前述の須川峠からの道を合した後の200m〜300mくらいの地点に降り立っていたようだ。
 
 再びドラレコ画像で確認するも、道らしき物が接続している様子は全くない。車道の峠側は木々が生い茂っている。 須川峠の道を合してから300mくらいで道はまた左急カーブする。カーブミラーが立っている付近の山側がやや開けていて、道が下って来ていた可能性が少しはあるかと思った程度だ。 伏野峠の旧道はもう廃道と化してしまったようである。


この付近に旧道が合していたのか? (撮影 2017. 9.11)
   
須川峠の道を合してから300mくらい下った地点 (撮影 2017. 9.11)
道が左カーブする所の峠方向(右手)がやや開けている
この付近に旧道が下って来ていたようなのだが
   

18年前はこのカーブ辺りで引き返した (撮影 2017. 9.11)

<18年前の旅>
 初めて伏野峠を目指したのは2000年6月のことだ。ただ、当時は須川峠だと思っていたが・・・。長野県側から国道403号に入るも、早速通行止の看板が出ている。 新潟県側で地滑りがあったようだ。通り抜けできないが、当時はとにかく行ける所まで行くという意気込みがあった。
 
 国道403号は登るに従い林道の様に荒れて来た。この調子では峠にも届かないかと思っていると、案の定、あるカーブに差し掛かると路面は雪渓の様に雪で覆われていた。 この先、道は更に山深い地に入って行く。ここを無理に進んで、引き返しが困難になっても事だ。ここらあたりが潮時だろうと、引き返すこととした。狭い道での車の転回には苦労させられた。

   
以前、雪で引き返しとなった地点 (撮影 2000. 6. 4)
それにしても、時間はまだ朝の6時前である
この前日は関田峠下で野宿している
   

 それにしても、もう6月に入ったというのにこうしてまだ積雪の為に峠道は通行不能である。地滑りによる通行止以前の話だ。しかも、こちらは陽射しの当たる南斜面に面した長野県側である。豪雪の関田山脈の峠、恐るべし。

   

<寒川左岸>
 道は寒川本流の左岸をキープしている。やや高みに通じ、この東側で流れ下る支流との分水界となる尾根上に近い。道は大きく小さく蛇行を繰り返すが、空は広く開けて全般的に明るい雰囲気だ。

   
道の様子 (撮影 2017. 9.11)
比較的明るい雰囲気
   

<旧道が下る?>
 地形図に国道から分かれてほぼ尾根上を下って行く徒歩道が描かれている。国道はこの後寒川右岸へと転じて行くが、その徒歩道は最短で藤沢集落へと向かって行くかのようだ。 それが伏野峠の旧道の可能性が高い。旧道は峠近くでこそ川筋に通じていたが、その後はほとんど尾根伝いのようである。ここより下流では本流より支流沿いに近い所に通じていたようだ。
 
 念の為、ドラレコを確認するがやはりその様な道などは分かれていそうにない。偶然だが、ほぼ同じ場所を以前来た時に写真を撮っていた(下の写真)。路面のアスファルトがまだ新しそうである。


この付近で旧道分岐? (撮影 2017. 9.11)
   
前の写真とほぼ同じ位置を峠方向に見る (撮影 2000. 6. 4)
この少し先の右手から旧道が下っていたのではないか?
   

<寒川右岸へ>
 伏野峠の長野県側の道は、峠から下って藤沢で千曲川沿いの道に出るまで、およそ12Kmある。その1/3に当たる約4Kmは寒川左岸、後の2/3の約8Kmは右岸に通じる。
 
 それまで比較的高所を進んでいた道が、一転川筋へと向かってグッと下り出す。そしてこの峠道では珍しいことだが、しっかり橋が架かっている。寒川本流を渡る橋だ。本流の橋と言っても小さなものだが。
 
 伏野峠の特に長野県側の道は、峠道としては珍しく、川筋とほとんど縁がない。ここで寒川と交差するも、その先はまた右岸の上部へと進んで行ってしまう。

   

この先で寒川を渡る (撮影 2017. 9.11)

寒川に架かる橋 (撮影 2017. 9.11)
   

<以前の道の様子(余談)>
 最初に伏野峠を訪れようとした時は、雪の為に早々と引き返したような気がしていた。しかし、今回改めて写真を調べてみると、寒川左岸部分の途中まで進んでいたようだ。 寒川を渡る直前と思われる写真も残っている(下の写真)。道は舗装されているものの、路面には土砂が流れ込んでいて、かなり荒れた状態だ。山の斜面に残雪も見られる。 冬場は長期間に渡り深い雪に閉ざされる地である。しかもこの地点は谷底だ。道の傷みも激しいのだろう。それにしても、こんな道を更に1〜2Km先までジムニーを進めて行った。 結局峠まで残り2Km余りという地点まで到達していたようだ。全く残念なことをした。

   
この先で寒川を左岸へと渡る (撮影 2000. 6. 4)
(峠方向に見る)
   
   
   
寒川右岸 
   

<寒川右岸>
 道は関田山脈の主稜から寒川右岸に流れ下る大小の支流を横切るように進む。尾根を巻いたかと思うと谷に下り、また尾根筋に出るということを何度も繰り返す。 ただ、関田山脈の南斜面をほぼ横断するような道筋なので、道の周辺は開けた雰囲気だ。そろそろ麓に流れる千曲川方面の景色も広がりだす。

   

尾根を巻く (撮影 2017. 9.11)

谷に下る (撮影 2017. 9.11)
   

道の様子 (撮影 2017. 9.11)
かなり開けて来た

<道の様子>
 伏野峠の長野県側は、初めこそ深い山の中を狭く屈曲する道で下り、それなりの険しさは感じられた。しかし、寒川右岸に入った中盤あたりからは視界が広がりだし、道幅も心持ち広くなったようだ。勾配も緩やかで、カーブもゆったりし、のんびり走ろうという気持ちになる。
 
 雪で引き返しとなった時、そんな場所で記念写真を撮った(下の写真)。現在と比べると、沿道の草木が少なく視界はずっと広かったようだ。路面のアスファルトや白線、ガードレースなどもまだまだ新しく、伏野峠の車道開通からあまり経っていなかったのかもしれない。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
雪の為に引き返して来たところ
   

<ゲート箇所>
 峠から下ること約6Km、長野県側のほぼ中間地点にゲート箇所がある。峠に設けられていたのと同様の簡易的なものだ。 ゲート箇所の前後で地形などに特に変わりはなく、峠などの必然性がある地点には思われない。道を走っていると、ひょっこり出て来たという感じで、思わず素通りしそうになった。


この先にゲート箇所 (撮影 2017. 9.11)
   
ゲート箇所 (撮影 2017. 9.11)
(麓方向に見る)
   

ゲート箇所を峠方向に見る (撮影 2017. 9.11)

<ゲート箇所の看板>
 ゲート箇所には峠方向に見て「伏野峠」と書かれたシンプルな看板が立つ。以前にはなかったと思う。 初めてこの地を訪れてからも、国道403号は須川峠に通じているものとばかり思っていたのだ。最近、信越トレイルのコースが設定され、伏野峠へと向かう車が多くなったのではないか。 多分、その為に設置された看板だろう。峠道としては新潟県側に抜けることが最大の目的だが、行先は「伏野峠」である。 その先の「須川」などの地名は出て来ない。また、こうした看板からも、国道403号が越える峠は「伏野峠」と呼んでしまっていいようだ。
 
 
<国道標識>
 ゲート箇所の前後で一つ大きな変化がある。ゲートより麓側が2車線路になるのだ。薄くなってしまっているが、センターラインも確認できる。直ぐに国道標識が出て来る。そちらは何だか新しそうだった。

   
国道標識 (撮影 2017. 9.11)
(峠方向に見る)
この直ぐ先がゲート箇所
消えかかっているがセンターラインが見える
   

<国道終点>
 主要地方道・飯山浦河原線を引き継いだ国道403号であったが、その後も暫くは県境前後で不通の状態が続いた。 その時期の道路地図を眺めてみると、現在ゲート箇所や国道標識がある付近で赤色の国道表記は途切れている。そこが国道の終点で、そこより峠側は白色の林道か、場合によっては道さえ描かれていなかった。
 
 伏野峠開通後、正式に国道に編入されたかどうか分からないが、少なくとも峠の長野県側でゲート箇所より上に国道標識は存在しないようだ。

   
   
   
ゲート箇所以降 
   

<鍋倉高原>
 ゲート箇所を過ぎて少し行くと、それまで関田山脈の山腹を横断気味に通じていた道が、千曲川沿いの藤沢集落方面へと南下し始める。地形は極めて安定してきた。
 
 関田峠から須川峠くらいまでの関田山脈に通じる峠の特徴の一つは、長野県側の麓に広大な鍋倉高原を控えていることだ。 沿道に草木が多く周辺の様子は確認できないが、それでも空の広さがこの地が高原状であることを物語っている。以前の道路地図ではこの付近一帯は「照岡牧場」となっていた。ここは飯山市の大字照岡である。


道の様子 (撮影 2017. 9.11)
この後、南へと下り始める
   
道の様子 (撮影 2017. 9.11)
広々とした鍋倉高原の中を進む
   

<道の様子>
 高原を進む道は直線的だ。センターラインもはっきりして来て、やっと国道らしくなった。沿道にも徐々に人工物が見られるようになる。間もなく電信柱が立ち始めた。


道の様子 (撮影 2017. 9.11)
火の見櫓の様な鉄塔が立つ
   

道の様子 (撮影 2017. 9.11)

<以前の様子>
 初めて訪れた時もこの付近は既にしっかり2車線路になっていた(下の写真)。まだ新しそうな道だった。峠の開通と同時にこうして一部で改修工事も行われたのであろう。
 
 写真の位置で寒川本流方向へと進む道の分岐がある。通行止と知りつつ走って来ると、そこにも「車両通行止」と看板が立ち、道路の中央に簡易的なバリケードが置かれていた。それをも物ともせずに先に進んだが、結局引き返して来ることになった。

   
前の写真とほぼ同じ場所を峠方向に見る (撮影 2000. 6. 4)
「車両通行止」の看板が立つも、更に先へと進むのだった
   

<狭路>
 このままずっと2車線路かと思っていると、まだまだ狭い区間が残っていた。屈曲も酷く、国道とは程遠い道だ。いろいろ事情があって、改修が進まないのであろう。


この先また道が狭い (撮影 2017. 9.11)
   

道の様子 (撮影 2017. 9.11)
建物の残骸が見られた

道の様子 (撮影 2017. 9.11)
狭く屈曲する
   

<溜池>
 今回、この地を再訪するに当り、楽しみにしていたことがある。この鍋倉高原を行く途中に大きな溜池が2つ並んでいて、道はその間を進むのだ。 車の離合もままならない狭い道の両側に溜池が広がる。ちょっと他にはない変わったロケーションだ。車を運転していると、直ぐ横が水面なので、何だか水上を走っているかのようである。また、対向車が来たらどうやって離合するのかと心配もさせられ、面白いような怖いような道だ。それをまた体験してみたいと思っていた。

   
2つの溜池の間を進む道 (撮影 2017. 9.11)
現在は2車線路
   

 ところが池の近くになると、道はまた2車線路に戻ってしまった。しかも道路脇に草が多くて水辺がはっきり望めない。快適で安全だが、何の面白みもない単なる車道なってしまっていた。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
このロケーションは行きと帰りの2回楽しんだ
   
西側の溜池の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

 道の東側の池を望むと、その池越しに関田山脈が望める。その稜線のどこかに伏野峠や須川峠が通じるのだろうが、峠の部分はそれ程明確な鞍部になっていない。いろいろ写真を撮ってみたものの、峠の所在ははっきりとは分からなかった。

   
東側の溜池の様子 (撮影 2017. 9.11)
池の背後が伏野峠方面
   

<再び狭路>
 改修された2車線路は池の間の区間だけであった。池の南の端に着くと、その先は昔ながらの狭い道に戻って行った。多分、池に挟まれた狭い道は転落などの危険があるので、その部分だけ改良されたのだろう。
 
 溜池は何という名前か分からないが、看板には厳重に「魚釣り禁止」と出ている。管轄地には「藤沢区」とある。藤沢集落の人家はここより4Km程も下った千曲川沿岸に集まるが、この付近一帯の耕作地は藤沢集落に属すようだ。

   

この先狭い道 (撮影 2017. 9.11)
屈曲注意の道路標識がある
右手には「魚釣り禁止」の看板

魚釣り禁止の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

道の様子 (撮影 2017. 9.11)

<棚田>
 狭く屈曲した道を下る。勾配がやや増したようだ。しかし、何となく穏やかな雰囲気である。間もなく周辺に棚田が広がりだした。鍋倉高原の清々しい景色が望めるようになる。

   
沿道には棚田が広がる (撮影 2017. 9.11)
看板には「蛍のたんぼ」とある
   
沿道の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<みゆき野ラインに接続>
 これでも国道だろうかと思いながら走っていると、こちらより数段立派な道が右手より合して来ている。牧峠で触れた「みゆき野ライン」である。鍋倉高原の只中を豪快に横断する快適2車線路だ。この国道403号からの分岐点が東の起点となる。

   
右手よりみゆき野ラインが接続 (撮影 2017. 9.11)
   

<分岐の様子>
 みゆき野ラインは比較的最近になって開削された道だが、2000年6月に訪れた時は既に現在ある経路全線が開通していた。 ただ、当時使っていた道路地図にこの道はなく、関田峠に通じる県道95号から入り込み、何が何だか分からないままこの分岐まで走って来た。 すると、道が急に行き止まっている。代わりにみすぼらしい道が前方に横たわっているではないか。何とそれが国道403号であった。ちょっと異様な雰囲気の分岐である。


みゆき野ラインを西に見る (撮影 2017. 9.11)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
この後、ジムニーで伏野峠を目指すも、雪で引き返し
   

国道403号を峠方向に見る (撮影 2017. 9.11)
左手がみゆき野ライン

 この周辺には農作業用の多くの作業道が通じる。伏野峠に通じた現在の国道403号も、かつてはそうした作業道と大差ない存在だったことと思う。のどかな田舎道で、乗用車より軽トラックやトラクターなどの往来の方が多かったのではないだろうか。
 
 そこへある日、みゆき野ラインという立派な道が突如出現した。この地には何とも場違いな感じである。しかも、立派な道の方が細い道に当たって行き止まっている。そんなことが、この分岐をちょっと異様に感じさせているようだ。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
通行止の看板が立つ
   

<以前の通行止>
 初めてここを訪れた時、国道の峠方向に通行止の看板が立っていた。県境を越えた新潟県側で地滑りがあったようだ。 残念に思った反面、少なくとも峠には既に道が通じていることがはっきりした。通行止の期間は「平成10年(1998年)5月11日8時30分から当分の間」とあった。 毎年6月頃まで冬期通行止となることを考えると、少なくとも1997年以前には伏野峠は開通していたようだ。
 
 また、ここを訪れたのは2000年6月なので、通行止は2年以上続いたことになる。また、翌2001年6月から8月に掛けては、須川で工事による通行止があった。それとも関係するのではないだろうか。やっと県境を越えた道だが、多難な運命が待っていたようだ。
 
 尚、通行止の看板には国道番号「403」の前に「日」に似た文字が書かれている。一方、地図中では「R403号線」と出ている。この「日」とは一体何であろうか。謎である。

   
通行止の看板 (撮影 2000. 6. 4)
現在地は「みゆき野ライン入口」
みゆき野ラインの行先は「戸狩」
国道は「野沢温泉村」と「安塚町」を繋ぐ
   

<分岐の看板>
 現在、みゆき野ラインとの分岐には、国道の峠方向に一応の案内看板が立っている。
 国道403号幅員狭小
 4t車以上通行止
 ←伏野峠

 
 これらもやはり信越トレイル向けだろうか。みゆき野ラインは関田山脈に幾つか通じる峠道間を移動するのには非常に便利な道だ。信越トレイルを歩く者にも利用価値が高そうである。


みゆき野ライン側から分岐を見る (撮影 2017. 9.11)
   
分岐に立つ看板 (撮影 2017. 9.11)
   
   
   
みゆき野ライン分岐以降 
   

藤沢に下る道 (撮影 2017. 9.11)
軽トラックとすれ違い

<藤沢集落へ>
 峠道としては、みゆき野ライン分岐が終点ではない。千曲川沿いに下るまで後3.5Km程の道程を残す。麓には長野県側の峠道起点となる藤沢集落が待っている。
 
 一旦は広々とした鍋倉高原に降り立った伏野峠の道だったが、再び急坂が待っている。鍋倉高原の南端は千曲川沿いへと一気に200m近く切れ落ちているのだ。そこにつづら折りの道が通じる。

   
つづら折りの道 (撮影 2017. 9.11)
   

<道の様子>
 鍋倉高原上では比較的集落は少なく、藤沢集落の場合も人家のほとんど全てが交通便利な千曲川沿いに立地する。そして人家と耕作地を繋ぐのがこのつづら折りとなる。 案の定、それまで一台の車ともすれ違わなかったが、ここに来て軽トラックと離合することとなった。道は狭く、お互いに譲り合わないと離合は難しい。

   

再び軽トラックと離合 (撮影 2017. 9.11)

寒川沿いへの長い下り坂 (撮影 2017. 9.11)
   

寒川沿いに降り立つ (撮影 2017. 9.11)

<寒川沿いへ>
 この峠道は寒川水域に通じるが、上流部で一度だけ寒川本流を渡った切り、ほとんど川とは縁がなかった。それがやっと寒川沿いに出ることとなる。鍋倉高原の奥深くに浸食するように流れる寒川の暗い谷間へと、道は長い坂を下って行く。
 
<旧道>
 現在の車道の峠道は、寒川右岸のずっと西を大きく迂回するコースを採っている。一方、元の伏野峠の旧道はより寒川に近い所に通じていた筈だ。 そして、車道が降り立った寒川沿いに、旧道も接続していた可能性が高い。地形図でも寒川の上流方向に道が描かれている。現状でも僅かにそのような道の痕跡が見られた。

   
寒川右岸沿いに出た所 (撮影 2017. 9.11)
この左手の上流方向に旧道が続いていたと思われる
   

<寒川右岸沿い>
 旧道と車道の峠道とは、ほとんど共通項を持たないようだが、最後に寒川右岸沿いになった後は、新旧の道筋がほとんど一致するのではないかと思う。ただ、現在の車道は高い擁壁に守られていて、昔の峠道の面影はなさそうだ。
 
 寒川の谷は狭く暗い。沿道にはまだ人家など全く現れて来ない。ただ、しっかりした川沿いになり、道は安定した。


寒川右岸沿いに下る (撮影 2017. 9.11)
   

支流を渡る (撮影 2017. 9.11)

<支流を渡る>
 寒川沿いを1Km弱下ると支流の川を渡る。この支流の名前は分からないが、国道403号は寒川本流とこの支流との分水界辺りを下って来ていた。

   

<宇津ノ俣峠(余談)>
 また、この支流の源流は本流と同じく関田山脈の主稜にあり、そのほぼ源頭部に宇津ノ俣峠がある。ただ、宇津ノ俣峠の道は、そのまま寒川水域に下るのではなく、西隣の桑名川(くわながわ)水域に降り立っていたようだ。
 
 このように関田山脈を越える峠道は、あまり川筋に沿うことがなく、比較的自由に水域間を跨いで通じていることが多い。これも峠下に鍋倉高原という広い高原地帯が横たわっていることが理由ではないだろうか。


橋の袂より上流方向を見る (撮影 2017. 9.11)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
   

支流沿いに延びる林道 (撮影 2017. 9.11)

<支流沿いの林道(余談)>
 地形図などには描かれていなかったが、支流沿いに遡る林道が分岐していた。未舗装路に車の轍がくっきり残っていた。

   

<2車線路へ>
 支流を渡ると道はやっと平坦地を進むようになる。直ぐにセンターラインのある2車線路となった。その向こうに城を連想するような白壁の大きな建物が見えて来る。以前にはこのような建造物は見たことがない。高い煙突の様な物が立ち、どうやらゴミ処理場ではないかと思った。


2車線路となる (撮影 2017. 9.11)
   

左手に城の様な建物が見えて来た (撮影 2017. 9.11)

ゴミ処理場の様であった (撮影 2017. 9.11)
   

<藤沢の集落へ>
 遂に藤沢集落が現れて来た。新潟県側の伏野集落以来の人家である。新潟県側が約11Km、長野県側が約12Kmで、合計23Kmの峠道であった。
 
 かつて、元の伏野峠を徒歩で越えていた時代は、現在の半分とはいかないまでも、2/3程度・約15Kmくらいの道程ではなかったろうか。 昔は平地なら一日に10里・約40Kmを旅したようだ。伏野・藤沢間は峠道であることを考慮しても、一日で十分歩き通せたのではないだろうか。

   
藤沢の集落へ (撮影 2017. 9.11)
   
前の写真の位置から峠方向を見る (撮影 2000. 6. 4)
この時はまだゴミ処理場は見えない
   

<藤沢集落の様子>
 国道403号は藤沢集落に入る手前で右に折れ、集落の北側の端に2車線路として通じる。元の峠道はそのまま直進し、人家が立ち並ぶ集落内に通じていたようだ。 大多数の人家は東西500m、南北300mくらいの範囲に集中し、千曲川左岸にこじんまりとした集落を形成している。かつてはこの地も信越間の交易などで賑わっのたであろうか。

   
藤沢集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<飯山線(余談)>
 道は集落の北側らか西側へとかすめた後、JR飯山線の単線を渡る。桑名川駅と西大滝駅との中間ぐらいだ。 この千曲川沿いに通じる鉄路は、当初は飯山鉄道として大正期に開通が始まる。大正12年7月に長野駅から桑名川駅まで、同年12月には藤沢集落の前を通って西大滝駅まで到達した。 十日町駅(新潟県十日町市)まで全通したのは昭和4年9月のことだそうだ。

   

飯山線の踏切を渡る (撮影 2017. 9.11)

飯山線を飯山方向に見る (撮影 2017. 9.11)
単線が延びる
   

<千曲川沿いに出る>
 飯田線を越えた直ぐ先で千曲川左岸沿いに通じる道に接続する。T字路を左は県道408号、右が国道403号の続きとなる。ここが伏野峠の峠道の終点と言える。伏野峠から流れ下って来た寒川も、ここより500m程下流で本流の千曲川に注いで終わっている。

   
千曲川左岸沿いの道に出る (撮影 2017. 9.11)
左は県道408号、右は国道403号の続き
   

<分岐の様子>
 T字路の角には大きな木がそびえ、分岐を示すいい目印となっている。傍らに石碑が立ち、奥に続いて小さいながらも園地が整えられていて、ちょっと雰囲気がいい場所だ。
 
 石碑は峠道にでも関係した物かと期待したが、「明如上人」(みょうにょしょうにん)と刻まれていて、あまり関係なさそうである。


大木と石碑が立つ (撮影 2017. 9.11)
   
T字路より峠方向を見る (撮影 2017. 9.11)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
なかなか雰囲気がいい
右手の木製の看板に「ふじさわ 水とみどりと雪の郷」とあった
   

<分岐の看板>
 目立った大きな看板はないが、千曲川沿いの沿道に「ふじさわ 水とみどりと雪の郷」と書かれた木製の看板が、この小さな集落を案内していた。
 
 また、峠方向を差して、「野々海川水源 地域整備工事現場」と看板が立つ(下の写真)。寒川沿いに登り、伏野峠手前から野々海池方向へ分かれる林道を使うのだろうか。ただ、栄村平滝から直接野々海池へと林道が通じていて、そちらの方が道は良さそうだが。更に「エコパーク寒川」とあるのは、あの城の様なゴミ処理場のことらしい。

   
峠方向の案内看板 (撮影 2017. 9.11)
   

<千曲川通船>
 関田山脈に通じる峠道にほぼ共通するのは、越後・信濃の国境を越えて物資交流が行われたことだ。それには「千曲川通船」が大きく関わっているらしい。 峠を信濃側に下って来ると千曲川沿いの小さな集落に辿り着くが、物流はそこで留まることなく、千曲川の水運(船運、舟運)を利用して信濃国のより広い範囲と交易が行われたようだ。
 
<西大滝>
 藤沢より1Kmあまり下流側にある西大滝(にしおおたき)は千曲川通船の下流側の終点であった。 現在、西大滝ダムが架かる付近の下流側は狭隘な渓谷で急流となり、水運には向かなかったらしい。西大滝は通船の河岸として流通史上の要地として賑わい、ここから現在の長野市内や上田市辺りまで水運は行われたようだ。
 
 藤沢とは対岸に当たる七ケ巻(なながまき、現野沢温泉村)も千曲川通船の発着場があり、交通の要地であったとのこと。 西大滝や七ケ巻に比べると、藤沢が通船に大きく関わったという資料が見当たらない。伏野峠を越えて藤沢に至るより、須川峠で直接西大滝に下った方が、通船との連絡が良かったのではないだろうか。 その意味でも、伏野峠より須川峠の方が、信越交易は盛んだったのではないかと思える。
 
<通船の終焉>
 千曲川通船は江戸期から明治期くらいまで活用されたようだ。しかし、西大滝ダム建設に合わせて昭和4年飯山鉄道(現JR飯山線)が全通すると、千曲川通船は廃止された。 物流は鉄路へと移り、関田山脈を越える多くの峠で、物資交流は衰えて行ったようだ。ただ、野沢温泉への湯峠道としては第2次大戦後も暫く続いたとのこと。

   
西大滝方面から藤沢の分岐を見る (撮影 2000. 6. 4)
以前はこの道が幹線路となる国道117号だった
   

<国道117号(余談)>
 藤沢から西大滝へと続く道は、現在は県道408号となっている。通る車も少なく、集落の前をのどかに通じる。しかし、元はこちらが国道117号であった。 この千曲川に沿って通じる幹線道路は改修が増々進み、今は対岸(右岸側)により快適な道となって通じる。かつて千曲川沿いの物流は水運が主役であった。それが飯山線の鉄路に取って代わられ、更には国道117号が大きな役割を担う時代になって来ている。

   
   
   

 関田山脈を車道で越える峠の内、関田峠・牧峠・野々海峠・深坂峠は比較的早くに訪れることができていた。 なかなか越えられずにずっと気になっていた伏野峠だったが、それも最初のトライから17年越しにやっと越えることができ、うれしい限りだ。ただ、須川峠を越える積りが結局は伏野峠であったいう誤算付きではある。 これで関田山脈も一応卒業かと思う、伏野峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2000. 6. 4 長野側より峠を目指すが雪で引き返し ジムニーにて
・2001. 7.29 新潟側国道403号は須川の先で通行止 ジムニーにて
・2017. 9.11 新潟県→長野県 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
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