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二ツ屋峠
  ふたつやとうげ  (峠と旅 No.268)
  今はもう通れない県境越えの峠道
  (掲載 2016.12. 1  最終峠走行 1994. 9.26)
   
   
   
二ツ屋峠 (撮影 1994. 9.26)
手前は岐阜県飛騨市河合町二ツ屋(旧河合村大字二ツ屋)
奥は富山県南砺市利賀村水無(旧利賀村大字水無)
道は県道34号(主要地方道)・利賀河合線
峠の標高は約1,255m (地形図より読む)
峠の岐阜県側は東に面している
まだ朝早い内に富山県側から峠に着いたので、丁度正面に朝日を浴びた
   

<通行止>
 前回、楢峠を掲載したので、今回の二ツ屋峠はそのついでである。 この峠は22年前に一度だけ越えたことがある。現在(2016年10月時点)、峠の前後が通行止になっていて、再び開通するのはいつになるか分からない状況だ。 もう訪れることができないなら、ちょっとだけでも掲載しておこうと思った。峠を写した写真は上の一枚だけで、今となっては貴重に思える。

   

<所在>
 峠は富山県と岐阜県の県境をほぼ東西方向に道が通じている。 西が富山県南砺市(なんとし)利賀村水無(とがむらみずなし)で、旧東礪波郡(ひがしとなみぐん) 利賀村(とがむら)の大字水無だ。 東は岐阜県飛騨市(ひだし)河合町二ツ屋(かわいちょうふたつや)で旧吉城郡(よしきぐん)河合村(かわいむら)の大字二ツ屋となる。
 
 この富山・岐阜県境の付近一帯は、以前は飛騨山地、最近は飛騨高地と呼ばれる山域だ。 日本海側で最初に高い峰が隆起する場所となり、冬場は日本海から吹き付ける冷たい北風がこの峰に当たって大量の雪を降らせる。いわゆる豪雪地帯と言っていいのだろう。 県境やその近くに白木峰(しらきみね)、小白木峰(こしらきみね)、金剛堂山(こんごうどうざん)、水無山(みずなしやま)などいった山々がそびえ、 昭和49年に白木水無県立自然公園に指定されている。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<利賀川沿い>
 富山県側からは庄川(しょうがわ)の支流・利賀川(とががわ)沿いをひたすら遡る。旧利賀村の中心地を過ぎると、道は県道34号(主要地方道)・利賀河合線となる。その名からして利賀村と河合村を結ぶ道であることが明らかだ。しかし、もうどちらの村もない。
 
<大勘場>
 利賀川も最上流部に至る頃、大勘場(だいかんば)という小さな集落を過ぎる。付近一帯は旧利賀村の大字大勘場で、利賀川沿いに5集落が点在する。集落名では「奥大勘場」とも呼ばれるようだ。多分、人が住む集落としては富山県側最奥であろう。
 
 利賀川は河岸段丘の発達が貧弱で、深い峡谷状を成すという。その為、人家は河床よりずっと高い位置に点在するそうだ。 この大勘場(奥大勘場)集落も利賀川右岸のやや高い山腹の緩斜面に広がり、川に沿って通じる県道脇に人家は少ない。 道沿いに立つ赤い屋根の倉庫らしい建物が見えて来ると、道幅がグッと狭くなり、大勘場集落を過ぎたことを知らせる(下の写真)。 1995年5月初旬に訪れたことがあるが、全面通行止の看板が立ち、赤い屋根の建物の先にバリケードが設けられていた。 理由は「路肩決壊」と出ていたが、どちらにしろ、この時期は冬期閉鎖で通行止となるようだ。この付近の富山・岐阜県境に通じる道は、1年の内、その半分が冬期通行止となる。それ程、雪深い地である。

   
大勘場集落の先 (撮影 1995. 5. 2)
この時は赤い屋根の建物の先で通行止
   

<利賀川(水無)ダム>
 大勘場より更に南へと利賀川を遡ると、大きな県営利賀川ダムが待ち受ける。昭和50年3月の築造で、ツーリングマップルには「利賀川ダム」とあったのだが、「水無ダム」とも呼ばれるようだ。ダム湖は水無湖という。

   
ダム湖左岸より水無湖を望む (撮影 1994. 9.25)
正面にダムの管理棟
左手がダム堰堤、右奥が支流の水無谷
   

<牛首峠>
 実は、大勘場と利賀川ダムとの間は通ったことがない。利賀川ダムの更に利賀川本流上流部で岐阜県白川村との間に牛首峠が通じる。水無湖へはこの牛首峠や今回の二ツ屋峠、東俣峠(後述)などの峠道を好んで使ってしまい、ついに利賀川沿いは走り通したことがなかった。しかし、これらの峠道はどれも険しく、一般的には利賀川沿いの県道が水無ダムへのほぼ唯一のアクセス路である。

   

白木水無県立自然公園の看板 (撮影 1996. 8.14)
ダムの管理棟近くに立つ
地図は右がほぼ北 (ややピンボケ)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<ダム湖周辺>
 右岸のダム堰堤近くにダム管理棟があり、案内看板(左の写真)などが立っていた。その看板ではダムは「利賀川ダム」と記されている。 左岸の少し上流に水無湖キャンプ場があって、1994年9月に訪れた時は、開設していたと思うが、今はどうだろうか。 この地が穏やかな様相を示すのは、夏場前後の僅かな期間だけである。冬場は交通が途絶し、ダム管理棟も無人となるようだ。

   

<水無谷沿い>
 二ツ屋峠方面からは、利賀川支流・水無谷(みずなしだに)が西方に流れ、利賀川ダムに注ぐ。 牛首峠の方がより利賀川本流の上流部に位置するので、地形的には二ツ屋峠は水無谷沿い以降がその領域と言えそうだ。しかし、牛首峠には険しい林道が細々と通るだけである。 一方、二ツ屋峠には利賀川沿いから続く県道34号が延びる。実質的には二ツ屋峠の方が本線の峠道となる。

   

白木水無県立自然公園の看板 (撮影 1996. 8.14)
水無山への林道入口に立つ
地図は左がほぼ北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)


<水無山> 
 利賀川ダム以降、水無谷右岸沿いには細々とした道が続く。それでも峠への登り坂手前までは舗装路で、釣り人などもこの奥地まで入り込んで来ていた(1996年8月時点)。
 
 途中、水無谷を左岸へと渡り、水無山(1,506m)方面へと登る林道が分かれる。橋を渡った所に白木水無県立自然公園の看板が立つ(左の写真)。周辺の道の様子が詳しく載っている。こちらではダムは「県営水無ダム」と記されている。県道は以前の「庄川河合線」と出ている。
 
 県道から分かれるその林道は、「水無平」と呼ばれる水芭蕉群生地へと通じるようだ。ただ、看板の地図では水無山の位置が間違っていて、水芭蕉群生地の直ぐ東側が水無山山頂である。

   

<のたのお峠・羽根峠>
 林道は最初カラ谷という支流沿いに始まるが、直ぐに下流側の定倉谷方面へと移って行く。現在、そのカラ谷沿いに遡る道は見られない。 しかし、古くはここを伝い、越中(富山県)と飛騨(岐阜県)との国境を越えて峠道が通じていたそうだ。「のたのお峠」である。「野田尾峠」とか「野田の尾峠」などとも書くようだ。峠の飛騨側は羽根村(はねむら)に下っていたことから、「羽根峠」とも呼ばれたらしい。(ここでは野田尾峠と記す)
 
<羽根村>
 羽根村とは現在の岐阜県飛騨市河合町羽根(かわいちょうはね)で、直前は河合村の大字羽根であった。 江戸期からある村で、明治8年に河合村の大字名となり、はじめ河合村羽根組と称し、明治22年からは同村の大字となっている。 宮川(みやがわ、神通川水系)の支流・小鳥川(おどりがわ)の左岸に位置する。楢峠の岐阜県側起点となる角川(つのがわ)より3Km程上流にある。 野田尾峠を越えていた道は楢峠の道(現国道471号)とはほぼ並行する位置関係にある。
 
<羽根口の口留番所>
 河合村は飛騨と接する要地にあり、村内には2つの口留番所が置かれたと文献(角川日本地名大辞典)にある。二ツ家口と羽根口である。 二ツ屋の方は楢峠を越える二ツ屋街道が通じていたので、口留番所があったことはうなずけたが、なぜ羽根にもあったのか、最初の内は分からなかった。 後に、この野田尾峠の存在を知り、やっと納得できた。羽根口では毎年11月に雪が降ると番所を閉ざし、翌年雪解けと共に再開したそうだ。
 
<野田尾峠の峠道>
 野田尾峠は、部分的には越中水無村と飛騨羽根村を結んでいたが、広くは日本海沿いの富山平野(砺波平野)と内陸の飛騨国との交易の道でもある。 その為、大勘場にも口留番所が設けらていたそうだ。文化・文政年間(1804年〜1830年)にはこの峠道を越えて能登の塩が飛騨へと運ばれたという。 しかし、「険しい急坂の難路で、現在では歩行も困難である」と文献は記す。
 
<野田尾峠の位置>
 現在、羽根集落より小鳥川の支流・羽根谷沿いに峰の途中まで道が登るが、県境を挟んで富山県側のカラ谷とを結ぶ道は地図に描かれていない。 よって、いにしえの野田尾峠の位置は正確には分からない。文献では、峠は標高1,330mの鞍部にあるとしている。確かに、羽根谷の上流部にはその標高に近い1,328m、1,381m、1,374mといったピークが見られる。
 
<野田尾峠の後継>
 最初は水無から国境を越え、直接飛騨羽根に下っていた野田尾峠であったが、 文献では「現在の峠道はカラ谷の北の山葵(わさび)谷をさかのぽり、のたのお峠を越え、楢峠・二ツ屋を経て角川に至る。 やっと自動車が通れるぐらいの道で、沿道にはミズバショウが咲く。」と出ている。 山葵谷はカラ谷より更に上流側にある水無谷の支流だが、その谷を遡ると、楢峠を越えずにその先の二ツ屋に下ってしまう。車道も通じていない。 この山葵谷の件を除くと、文献が示すルートは今回の二ツ屋峠そのものである。二ツ屋峠が「新野田(の)尾峠」などとも呼ばれるゆえんとなるようだ。
 
 現在の二ツ屋峠を越える車道は山葵谷より更に水無谷を上流まで遡り、山腹を蛇行しながらよじ登って山葵谷右岸の尾根上に至る。これは車道開削時にできた新しいルートであろう。当初は水無谷沿いからずっと山葵谷右岸の尾根沿いを登って行ったのかもしれない。
 
<二ツ屋峠、原山峠>
 考えてみると、ツーリングマップ(ル)に二ツ屋峠の名の記載はない。他の道路地図や地形図でもこの二ツ屋峠の名を見た覚えがない。 時には、二ツ屋峠の位置に「楢峠」と誤記している道路地図も見掛ける。楢峠は県境でも何でもない所にあるので、県境上の二ツ屋峠の位置の方についつい目が行ってしまうのだろう。
 
 今はもう、どこで峠名を知ったのか分からないが、自分でツーリングマップに「二ツ屋峠」とメモ書きしてある。越中側からは飛騨二ツ屋に越えるので、この名があるものと思う。 ただ、二ツ屋集落があったのは、更に楢峠を南に越えた先だ。二ツ屋峠が下る楢峠の北側の地は「原」などと呼ばれ、楢峠からは原山本谷(原山谷とも)の川が流れ下る。 その為か、「原山峠」という名称もあるようだ。文献では野田尾峠の別称として羽根峠と並んでこの原山峠が示されていたが、元の野田尾峠を原山峠と呼ぶのは位置的におかしいと思う。 やはり新野田尾峠などと同じく、今回の二ツ屋峠の別称と考えるべきだろう。
 
 旧野田尾峠を越えていたカラ谷・羽根谷沿いを遡る道以外に、この越中・飛騨の国境へと登る道が幾筋か見られる。野田尾峠以外にもいろいろな峠道の歴史があるのかもしれない。 その中でも二ツ屋街道が通じる楢峠がメインとなったようだ。それで、野田尾峠も楢峠の道に接続する形に替えられていったのではないかと想像する。

   

<水無集落>
 水無湖付近から上流の利賀川水域は全て大字水無の地だ。岐阜県との間で長い県境を接している。ただ、人家があったのは利賀川ダムから水無谷を3Km程遡った辺りに集中していたようだ。今でも水無集落の氏神である水無八幡宮が地図に記されている付近だ。
 
 江戸期からの水無村があり、多い時は5軒前後の家があったようだが、明治初年には戸数2・人口12となっている。 何となく二ツ屋という名の興りを連想させられる(二ツ屋という地名はこの越中や飛騨などに多い)。 水無谷は深い渓谷と絶壁が連なるまさに秘境で、冬季は積雪の為に交通が途絶、集落は孤立する状況であった。明治22年からは利賀村の大字名となり、大正2年までは大字水無村と称した。 昭和5年の戸数3・人口28、昭和9年7戸。昭和10年に大勘場から水無までの林道が開通。林業が盛んになる昭和30年頃にはその車道を利用して木材搬出が行われ、水無集落の人口も13世帯・72人と増える。夏季に限り大勘場と水無の間を村営バスが往復したこともあるようだ。
 
 しかし、その後はやはり生活の不便さから離村者を出すようになり、昭和40年代末には冬季の常住者が居なくなった。 夏季に農林業従事者が移住していた時期もあったようだが、今はその気配もない廃村である。水無谷右岸に通じる県道34号を走っていても、そこに集落があったなどとはなかなか気付かない。

   

<東俣峠分岐>
 水無集落跡より更に1.5Km程水無谷を奥に分け入ると、逆Y字に分岐がある(下の写真)。東俣峠を越えて利賀村上百瀬(かみももせ)に通じる道だ。

   
東俣峠分岐 (撮影 1996. 8.14)
ジムニーで東俣峠から下って来たところ
左が県道34号を利賀川ダム方面へ、右は林道上百瀬水無線を東俣峠へ、手前は二ツ屋峠方面
分岐の角には白木水無県立自然公園の道標が立つ
   

<東俣峠(余談)>
 井田川(いだがわ、神通川水系)の支流・山田川の上流部を百瀬川(ももせがわ)と呼ぶ。 百瀬川の上部は更に東俣谷(ひがしまただに)と西俣谷(にしまただに)に分かれている。百瀬川から東俣谷に沿って林道上百瀬水無線が通じ、東俣峠を越えて水無へと入って行く。峠は旧利賀村の大字百瀬川と大字水無の境であり、神通川水系と庄川水系の分水界となる。
 
 峠は十字路になっていて、南からは西俣谷方面から延びて来た林道が合流し、更に北へは金剛堂山へと続く尾根上の道が分かれて行く。十字路の角に白木水無県立自然公園の道標が立つ。 「河合村15Km」とあるのは、二ツ屋峠から楢峠を越えて角川で国道360号に接続するまでのルートを指すようだ。峠から水無谷の川沿いに下るまでの道が特に厳しい。水無谷右岸の急傾斜を急坂・急カーブで一気に下る。

   
東俣峠 (撮影 1996. 8.14)
手前は上百瀬、奥は水無
ここにも白木水無県立自然公園の道標が立ち、「河合村15Km」とある
   

<野宿(余談)>
 1994年9月に牛首峠を越えて水無湖へと下って来た時は、そろそろ日も傾く頃合いで、この利賀村の奥地で野宿することになると思っていた。初めて訪れる地で、様子が分からない。 水無湖キャンプ場を横目に、ダム堰堤も過ぎ、更に水無谷沿いを遡る。なかなかいい野宿地が見付からない。それでもどうにか道路脇の河原に車を停めてテントを張れる場所を確保した。東俣峠分岐の近くだったと思う。
 
 テントを張り終れば一安心だ。日も既に西の峰に落ち、夕暮れの中でのんびり焚火をしていると、薄暗がりの中からひょっこり一人の釣り人が現れた。 今夜はここでキャンプするのかと驚いている様子。すると、何を思ったか、自分が釣った魚3匹を食べろと渡してくれた。多分イワナだろう。 しかし、釣りの趣味はないので、どう魚をさばいていいかも分からない。戸惑っていると、わざわざ内臓を取り出し、近くの木の枝を刺して、後は焚火で焼けばいいまでに準備してくれた。 焚火は明かり取りの為に枯れ枝をちょっと燃やしているだけなので、魚を焼く程の火力がない。もっと火を強くしなければ、燻製になってしまうと言い残し、その男性は元来た闇へと消えて行った。
 
 慌てて枯れ枝を探すが、もう暗いのでなかなか見付からない。何か調味料が必要だろうと思うが、野宿ではいつも即席かレトルトの食品しか持って来ない。 料理など一切しないので塩など持ち合わせている訳がないのだ。それでも何かないかと探すと、コンビニ弁当に入っていた小さな醤油パックが1つ残っていた。 結局、生焼けのイワナに醤油をかけて、夕食のおかずとすることとなった。それがなかなか旨い。焚火で串焼きの魚を食べるなんて、これぞ正しくアウトドアだと思った。 生焼けと焚火の灰に対する抵抗力が私の虚弱な胃腸にあるのかとやや心配したが、その夜は何事もなく過ぎた。

   
野宿の朝 (撮影 1994. 9.26)
冷え込んだので僅かばかりの焚火をする
   

 野宿の朝は冷え込んだ。まだ9月下旬だが、ここの標高は1,000mを優に超えている。温度計を見ると7℃だ。私の貧弱な身体と粗末な野宿道具では、気温5℃がリミットである。 それを下回ると、テントの中でシュラフに潜っていても身体がぶるぶる震え、寝られたものではないのだ。寒さを我慢してテントを抜け出し、焚火で暖を取る。こうして水無谷の一夜が明けた。
 
 その後、二ツ屋峠から更に楢峠を越えると、河合村は一面の雲海に覆われていた。その素晴らしい眺めが見られたのも、寂しい無住地帯の中で野宿し、朝は早々と峠に立ったからである。
 
 楢峠のページに書いたことだが、楢峠で手持ちの写真フィルムが切れ、折角の雲海の景色も撮れなくなった。 ところが、峠を下っている途中で一人の男性に会い、ただでポジフィルムを頂き、慣れないポジフィルムの使い方まで教えてもらった。 何だか人から物をもらい、助けてもらってばかりの旅であった。
 
 野宿旅の最中は野宿で汚れてもいいようにとみすぼらしい身なりでいる。何日も風呂に入らないので、頭髪はボサボサだ。キャンプ場も使わずそこらの河原にテントを張る。 今考えてみると、他人から哀れに見られていたのかもしれない。本人は、そんなこととはつゆ知らず、ただひたすら旅を続けるばかりだった。

   

<峠への登り>
 水無谷は金剛堂山(1,638m)の南方、岐阜県境に近いブナの原生林に源を発する。源流部は金剛堂川とも呼ぶようだ。 南流して来た水無谷本流は、東から金剛寺谷の流れを合わせ、水無湖へとほぼ直線的な渓谷を形成して行く。二ツ屋峠への県道34号は、金剛寺谷が流れ込む辺りから川沿いを離れ、山葵谷との境の尾根へとよじ登り始める。多分、その登坂中から未舗装路となったと思う(1994年9月現在)。
 
 尾根を回り込む辺りまで登ると、水無谷が広く眺められる(下の写真)。対岸には険しい断崖を蛇行して通じる道筋が望める。最初、それは東俣峠へと至る林道かと思っていたが、西俣谷からも林道が延びているようで、どちらか判然としない。

   
峠へ登りの途中より水無谷を眺める (撮影 1994. 9.26)
対岸に険しい林道の道筋が望める
   

<峠>
 道は尾根を回り込み、山葵谷右岸の上部から峠に至る。峠部分はほぼ東西方向に道が向く。県道標識や白木水無県立自然公園の道標が立つ。 近くの楢峠に比べると、さすがに県境の峠である。看板が多い。また、峠は神通川水系と庄川水系の分水界となる。この点は東俣峠も同様だ。楢峠の方が峠としては有名だが、楢峠の道は全て神通川水系の中にある。
 
 峠の標高は地形図の等高線で読むと、1,250m〜1,260の間で、約1,255mとなる。 峠名と同じようにどこかで知って、ツーリングマップには「1,242m」とメモ書きしてあるのだが、今回これは間違いであることを知った。地形図には峠手前の尾根上の標高に「1,242m」と出ている。何でこうなったのか、今ではさっぱり分からない。

   
峠(再掲) (撮影 1994. 9.26)
   

<峠の岐阜県側>
 峠から岐阜県側は舗装路であった。神通川水系・井田川(いだがわ)の最上流部は岐阜県側に入って原山(はらやま)本谷(原山谷とも)と呼ばれる。 その支流沿いに2Km程も下ると、原山本谷沿いに通じる国道471号(472号との重複区間)に接続する。ここから先はもう楢峠の道だ。

 
二ツ屋峠を下り国道471号に出た所 (撮影 1994. 9.26)
左は八尾町方面、右は楢峠方向
手前が二ツ屋峠方向
   

<通行止>
 2016年10月に楢峠を下って来てみると、県道34号は通行止となっていた(下の写真)。道は荒れ、いつ通行止が解除されるか分からない状況だった。

   
県道34号通行止 (撮影 2016.10.10)
   

 2001年に楢峠の岐阜県側起点の河合村角川を訪れてみると、以下の様な内容の看板が立っていた(下の写真)。
 (主)利賀河合線 利賀村水無地区(利賀川ダム〜県境)
 災害(道路決壊)のため
 全面通行止
 期間 平成12年6月15日〜当分の間

   
楢峠の角川起点に立つ看板 (撮影 2001. 5. 1)
   

 もしかしたら、その時からの通行止が続いているのかもしれない。「利賀川ダム〜県境」と言えば、水無谷沿い全てである。 また、今回(2016年10月)、国道471側号からも入り込めないと分かった。二ツ屋峠はもう容易には訪れることができない峠となってしまった。 この県道34号の通行止で、二ツ屋峠や楢峠周辺に広がる無住地帯は、尚更その色を濃くしたように思える。

   
   
   

 江戸期から続いた水無村には、峠を越えて越中と飛騨との間を往来する旅人も通行したことだろう。 昭和初期に林道が通じ、昭和中期には一時期的にでも人口が増えた水無集落であったが、昭和の終りには無住地帯に飲み込まれていった。今はその跡地にも近付けなくなり、また一つ道の歴史が消えて行くように思われる、二ツ屋峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1994. 9.25 牛首峠を越えて水無で野宿 ジムニーにて)
・1994. 9.26 富山県 → 岐阜県 ジムニーにて
(1995. 5. 2 富山県側の大勘場で引き返し ジムニーにて)
(1996. 8.14 東俣峠から水無を経て牛首峠へ ジムニーにて)
(2016.10.10 楢峠を越える 県道34号通行止 ハスラーにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 16 富山県 昭和54年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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