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鉢盛峠
  はちもりとうげ  (峠と旅 No.020-2)
  木曽川最源流を越える峠道
  (掲載 2022. 4.17  最終峠走行 2001. 4.28)
   
   
   
鉢盛峠 (撮影 1992. 9. 6)
チェーンの手前は長野県東筑摩郡朝日村大字古見
奥は同県木曽郡木祖村大字小木曽
道は林道鉢盛山線(朝日村側)と藪原林道(木祖村側)
峠の標高は1,860m (峠に立つ看板より)
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約30年前の峠の様子
この時、峠に掛かるチェーンの先、木祖村側は通行止だった
その後、朝日村側も通行不能になったりした
 
 

   

<鉢盛峠>
 一般の道路地図や地形図にも、この鉢盛峠の名が記されていることはまずない。ネット検索してもヒットの数は少なく、峠の写真が出て来るのは稀だ。 しかし、現地の看板にはしっかり「鉢盛峠」の文字が記されている。私も峠を訪れて初めてその名を知った。
 
 この峠については、「行止りの峠」(1997. 7. 5)で既に掲載している。 峠の木祖村側が全面通行止で、朝日村側からしか峠に行けず、それで「行止りの峠」の一つとして取上げた。後で分かったことだが、当時、木祖村側では味噌川ダム工事の真っ最中だったようだ。 ダムが完成したら通れるようになるかと期待していたら、結局ダムより上流側は営林署のゲートで通行止とされてしまった。 一方、朝日村側でも林道途中で大きな土砂崩れがあり、通行不能となったりした。 その内、麓のゲートも基本的には閉ざされ、安易には通れない峠道である。
 
 そこで、古い写真ばかりだが、この峠について再掲載しておこうと思う。

   

<所在>
 峠はほぼ南北方向に通じ、北側は長野県東筑摩郡(ひがしちくまぐん)朝日村(あさひむら)大字古見(おおあざこみ)、 南側は同県木曽郡(きそぐん)木祖村(きそむら)大字小木曽(おおあざおぎそ)となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
   
   

峠の木祖村側(通行止のゲートまで)

   

<木曽川源流>
 鉢盛峠の木祖村側での最大の特徴は、木曽川源流の地であるということだろう。木曽川の源流は木祖村北端にそびえる鉢盛山(はちもりやま、2,446m)で、鉢盛峠はその直ぐ東に位置する。 鉢盛山とその東の烏帽子岳(えぼしだけ、1,952m)とを結ぶ稜線上の最も低い鞍部(1,860m)に通じ、峠として源流に最も近い源頭部と言っていい。 尚、朝日村側は日本海に面する信濃川水系であり、よって鉢盛峠は中央分水界の峠になる。また、木曽川と揖斐川・長良川を合わせて木曽三川と呼ぶが、それらは全て木曽川水系になり、 その木曽川水系の頂上に鎮座するような峠だ。
 
<木曽川源流三大峠>
 木曽川の源流域をもう少し広く見ると、西の境峠から東の鳥居峠までに連なる中央分水嶺になる。鉢盛峠にこの2つの峠を加え、「木曽川源流三大峠」とでも名付けたいところだ(あくまで私見)。 この中で鉢盛峠が一番奥深い位置にある。鳥居峠は木曽川支流の塩沢(塩沢川)水域にあり、標高は1,197m。 境峠はやはり支流・笹川の源頭部で標高1,486m。一方、鉢盛峠は木曽川本流の源頭部で標高1,860mとなり、ダントツだ。木曽川源流の峠を一つ挙げるとすれば、やはり鉢盛峠になる。 しかし、知名度となると真逆だ。江戸期の中山道としての鳥居峠が飛び抜けて一番で、県道(主要地方道)が通じる境峠が二番だろう。鉢盛峠はその存在すらあまり知られていない。

   

<味噌川ダム>
 峠の木祖村側が通行できなかった理由はダム建設だった。木曽川本流を堰き止めた味噌川ダムにより、奥木曽湖(おくぎそこ)が誕生した。1996年(平成8年)の完成だそうだ。

   

味噌川ダムの看板 (撮影 1999. 7.26)

看板の拡大図 (撮影 1999. 7.26)
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看板の一部 (撮影 1999. 7.26)
   

<味噌川>
 木曽川の上流部は味噌川(みそがわ)とも呼ばれ、それがダムの名前にもなっているようだ。 現在でもダム辺りから上流部を「味噌川」と記す地図もある。地形図ではダム湖より上も暫く木曽川となっているが。


堰堤近くに立つふれあい館 (撮影 2002. 9.28)
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ダム下流を望む (撮影 1999. 7.26)
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ダム下流を望む (撮影 2002. 9.28)
   

<小木曽>
 木祖村北部の大部分が小木曽(おぎそ)の地域で、鉢盛峠や境峠を含んでいる。江戸期から明治7年(1874年)までの荻曽村で、明治7年に藪原村などと合併して木祖村となるが、 明治16年に分村して小木曽村が成立、その後明治22年(1889年)に再び木祖村の大字となっている。
 
 木祖村は鳥居峠(鳥居トンネル)や境峠、あるいは近くの権兵衛峠などの峠道を行く時などにしばしば訪れたが、通り過ぎるばかりであまり旅をしたことがない。 鉢盛峠の道がどうなっているか確かめる為、2度ほぼ奥木曽湖に立寄った程度だ。


発電所 (撮影 1999. 7.26)
   

ダム堰堤より小木曽の市街方向を見る (撮影 1999. 7.26)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2002. 9.28)
   

<奥木曽湖>
 奥木曽湖はちょっとした観光地になっていて、湖の周囲をぐるっと道が通じる。奥に行くと赤い奥木曽大橋が架かる。

   
奥木曽湖 (撮影 1999. 7.26)
   
奥木曽湖 (撮影 2002. 9.28)
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奥木曽湖 (撮影 2002. 9.28)
下流方向に見る
   
奥木曽大橋 (撮影 1999. 7.26)
   

<奥木曽大橋以降>
 奥木曽大橋の袂を過ぎ、木曽川(味噌川)の左岸沿いを上るのが鉢盛峠へ通じる道だ。鷹回りトンネル先に営林署ゲートがあることを示す禁漁区の看板が立っていた。

   

芦沢近くの看板 (撮影 1999. 7.26)
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看板の一部 (撮影 1999. 7.26)
   

<ゲート箇所>
 以前は奥木曽大橋の袂より更に先へと行けた筈だが、鷹回りトンネルを抜けていたかどうかは覚えがない。最近は奥木曽大橋の袂の直ぐ先にゲートがあるようだ。

   
以前のゲート箇所 (撮影 1999. 7.26)
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ゲートに立つ看板類 (撮影 1999. 7.26)
   

<水源かん養保安林の看板>
 以前のゲート箇所には水源かん養保安林の看板が立っていた。現在地はちょっと漠然としてはっきりしない。道の名に「藪原林道」とある。 上流部で尾頭沢林道が分岐するが、鉢盛峠へはそのまま本線を行く。残念ながらここには峠の記載がない。閉ざされたゲートを前に、ただただ遥か彼方に佇む峠を想うばかりだ。

   

水源かん養保安林の看板 (撮影 1999. 7.26)

看板の図 (撮影 1999. 7.26)
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<味噌川山とたかまわり(余談)>
 ダム湖岸のどこかに「味噌川山とたかまわり」と題した看板が立っていた。写真に撮ったのだが、ピンボケで全く読めない。「たかまわり」とはトンネル名にもなっている「鷹回り」であろう。 味噌川山とはどこのことだろうか。「味噌」の由来なども知りたいものだ。

   
   
   

朝日村へ

   

<県道292号>
 さて、ここからは鉢盛峠の北側、長野県朝日村へと話を進める。朝日村へは幾つかの主要ルートがあるが、県道292号を行けばそのまま村の中心を行き、鉢盛峠への峠道にも接続する。

   

県道292号を行く (撮影 2001. 4.28)

道路看板 (撮影 2001. 4.28)
   

<朝日村へ>
 「朝日村」と看板が出ていくる(地理院地図)。開けた地でその奥に鉢盛山を頂点とする山並みが連なる。

   
県道を朝日村へ (撮影 2001. 4.28)
   

<案内看板>
 「ようこそサラダの里へ」と題した案内看板も立つ。その筆頭に鉢盛山(2,446m)が出ている。

   
案内看板 (撮影 2001. 4.28)
   

<市街地>
 鎖川(くさりがわ)を左岸に渡ると村の市街地になる。間もなく右手に県道291号が分かれて行く(地理院地図)。 朝日村は松本市や塩尻市という大きな市に接する。鳥居峠の楢川村などは塩尻市の一部となったが、朝日村は従前通り、村のままで頑張っている。

   
市街地 (撮影 2001. 4.28)
商店の看板が並ぶ
   
県道291号分岐の道路看板 (撮影 2001. 4.28)
交差点名は「新田」
   

<鎖川>
 ただ、800mもするともう朝日村の市街地を抜け、左手の鎖川がよく見えるようになる(地理院地図)。 鎖川は奈良井川(ならいがわ)の支流で、その後犀川、千曲川(信濃川上流部の呼称)、信濃川と流れ下って行く。鉢盛峠は鎖川の源流の一つ、野俣沢の源頭部に位置する。 ちなみに、鳥居峠は奈良井川水域にあり、その意味で信濃川水系側では鉢盛峠より鳥居峠の方が格が上だ。
 
 朝日村の村域はその鎖川水域の中にほぼすっぽり納まる。鎖川沿いに村へのアクセス路が集中するが、鎖川を奥に入るともう村外との交通は全て峠越えとなる。それも数が限られる。 その中で鉢盛峠は最奥に通じる車道の峠道だった。ただ、今では木祖村側には抜けることはできない。

   
左手に鎖川を望む (撮影 2001. 4.28)
   

 改めて道路地図を見ると、県道292号は一旦鎖川右岸に戻り、また左岸に帰って来るが、道は左岸沿いにも真っ直ぐ走り易い2車線路で延びて行く。県道を意識することはない。
 
<烏帽子岳を望む>
 道は川に沿って最初西に向かい、その後やや南方に転じる。すると、鎖川が通じる谷の奥に、一際は鋭い山が見えて来る(地理院地図)。 烏帽子岳だ。「えぼしだけ」と呼ぶ山は多いが、こちらの烏帽子岳は朝日村と木祖村の境に位置し、中央分水嶺の一角を成す。

   
鎖川沿いを奥に進む (撮影 2001. 4.28)
奥に烏帽子岳を望む
   

 沿道に立つ街灯がちょっと洒落ている。鈴蘭の花を模したようだ。 日向坂峠鶯宿峠のある旧芦川村を思い出す。 旧芦川村は鈴蘭の群生で知られ、あそこにも似た街灯が立っていた。朝日村はどこを見ても絵になるような景色が広がる。

   
   
   

樫俣沢・中俣沢(寄道)

   

<樫俣沢・中俣沢へ>
 鎖川の上流部は大きく3つの支流に分かれる。東から樫俣沢・中俣沢・野俣沢になる。そうした川沿いに山の中へと深い林道が通じる。 朝日村には個人的に縁もゆかりもなく、また特に訪れたい観光地がある訳でもない。それなのに、この小さな村に引き付けられたのは、そうした林道や峠道が理由だった。

   

<県道終点>
 県道の終点が鎖川の終点でもあり、そこから林道が分かれて行く(地理院地図)。 2001年に訪れた時は、野俣沢に架かる橋の架け替え途中だった。また、周辺も大規模な工事中になっていた。
 
 野俣沢を渡るとその右岸沿いに野俣沢林間キャンプ場があり、その脇を川沿いに遡る道があるが、それは鉢盛峠には通じない。行止りのようだ。

   

この先仮設の橋で野㑨沢を渡る (撮影 2001. 4.28)
「野俣沢林間キャンプ場 駐車場」の看板が立つ
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左手に橋を建設中 (撮影 2001. 4.28)
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<林道通行止>
 更に進むと樫俣沢と中俣沢に分かれていて、それぞれに林道樫俣線、中俣線が延びる。しかし、訪れた時は工事による通行止だった。

   
直進が林道中俣線、左に川を渡るのが林道樫㑨線 (撮影 2001. 4.28)
この時は工事による通行止
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「樫俣沢 中俣沢概要図」の看板 (撮影 2001. 4.28)
通行止箇所に立っていた

看板の拡大図 (撮影 2001. 4.28)
楢川村は今は塩尻市
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<概要図>
 朝日村ではこうした沢の概要図が丁寧で、支流の名前や林道の様子が良く分かる。しかし、今はどの林道もほとんど走れないようだが。

   
   
   

鉢盛峠へ

   

<古見>
 朝日村の中央に流れる鎖川左岸から、樫俣・中俣・野俣からなる上流域までは、大字古見(こみ)の地となる。朝日村の約2/3もの広範囲を占める。当然ながら峠道も全て古見の内になる。
 
 江戸期からの古見村。明治7年に古見村と小野沢村・針尾村・西洗馬(にしせば)村が合併し山本村になるが、明治16年に再び分村。そして明治22年にまた合併し朝日村の大字となっている。 こうした経緯は小木曽と似ている。
 
<朝日村(余談)>
 朝日村の「朝日」とはそれまでこの地にない名で、文献では「朝日が一番先に出て豊かにさす村、旭日の輝くように発展する村、旭将軍木曽義仲御馬越え伝承にあやかってなど、村の進展を祈念して名付けたという(朝日村教育沿革誌)」としている。 私の遠い祖先は木曽義仲に従軍したと聞くので、ちょっとは関心がある。それにしても「朝日」と名乗る町村は多く、他と区別がつき難いようにも思うが。
 
<県道からの分岐>
 さて、肝心な鉢盛峠へは県道終点の1Km程手前から山側に分かれる道を行く(地理院地図)。 入口に鉢盛山の案内看板が立っているので、見逃すことはない。

   
県道を終点方向に見る (撮影 2001. 4.28)
右手に峠への道が分岐
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<エコーライン?>
 看板には鉢盛山の登山口まで12Km、車で40分とある。平均時速18Kmとなる。登山口は峠の1.5Km程手前にある。 2001年に訪れた時は、「エコーライン 現場出入口」と工事看板も立っていた。エコーラインというのは聞き慣れないが、この峠道のことだろう。

   
分岐に立つ看板 (撮影 2001. 4.28)
   

<もう一つの入口>
 多分、現在の県道区間は一部バイパス路になっているのだと思う。一本集落側に入った道から峠へと分岐する箇所がある(地理院地図)。

   

もう一つの入口 (撮影 2001. 4.28)
ジムニーは朝日村市街地方向を向く
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分岐に野俣沢概要図がある (撮影 2001. 4.28)
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<野俣沢概要図>
 以前はその分岐に「野俣沢概要図(鉢盛山登山道入口)」の案内看板が出ていた(今は県道からの分岐にあるようだ)。 2001年に訪れた時はもう文字がかすれていたが、1992年に訪れた時の写真がきれいに残っていた。看板の形態が違うが、地図は同一の物のようだ。 看板が示す現在地がやや曖昧で、実際どこに立っていたかははっきりしない。「前ヤセヲ現場入口」ともあった。
 
<看板の内容>
 峠に続く道は「林道鉢盛山線」となる。本流の野俣沢に注ぐ数々の支流の名前が記されている。鉢盛山への登山道が峠の少し手前より分かれているのが分かる。

   

野俣沢概要図 (撮影 2001. 4.28)
コンクリート壁に直接貼ってある
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野俣沢概要図 (撮影 1992. 9. 6)
しっかりした立て看板であった
何やら工事看板もある
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<峠名>
 この看板で何より嬉しいのは「鉢盛峠」の名が記されている点だ。一般の道路地図では載ってこない峠である。 あまり広く知られていないが、少なくとも地元では使われる名なのだと思う。
 
 「鉢盛」の名は当然ながら鉢盛山から来ているのだろう。山の名が先にあり、その直ぐ脇を越えた峠なので、鉢盛峠と名付けたものと思う。 鉢盛山は松本盆地南部の地域にとって水源の山となり、それなりに知られている。古くは森が多いことから「八森山」と書いたとのこと。場合によっては八森峠になっていたかもしれない。


概要図の拡大 (撮影 1992. 9. 6)
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<林道鉢盛山線を行く>
 道は少し本流の鎖川沿いを行き、間もなく野俣沢沿いになる。方向は西だ。先程まで前方に烏帽子岳が望めた景色とはまた違って来る。概ね鉢盛山がある方を向く。。

   
野俣沢上流方向を望む (撮影 2001. 4.28)
多分、本線の道から少し外れた所から見ている
鉢盛山は白い雪の峰の一番左端と思う
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ゲート箇所 (撮影 2001. 4.28)
峠方向に見る
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<ゲート箇所>
 道が西を向いて500mも行くと、早くもゲート箇所が出て来る(地理院地図)。 そこまでは立派なアスファルト舗装だが、その先の路面は荒れてくる。
 
 初めて(1992年9月)訪れた時は、このゲート箇所の記憶が全くない。仮にゲートがあったとしても問題なく通れたものと思う。 当時、峠手前の鉢盛山への登山道入口付近に、登山者の物らしい数台の車が停められていたのを見ている。この林道が常用的に使われていた証拠だ。 しかし、最近は他の2つの林道と同じように、このゲートも平時は閉まっているらしい。

   

<林道起点>
 ゲート脇に林道看板が立っているので、このゲートを起点として、ここから先が「林道鉢盛山線」になるものと思う。 他の2つの林道がそれぞれ川の名を取って樫俣線、中俣線としていたが、こちらは「野俣線」ではなく、朝日村最高峰の鉢盛山の名を取っている。 他の2つの林道は村内で行止りだが、こちらは基本的には木祖村へと通じるべき道である点も異なる。

   

林道看板 (撮影 2001. 4.28)

ゲートの様子 (撮影 2001. 4.28)
   

 2回目(2001年1月)に訪れた時は、このゲートに恐れをなし、あっさりここで引き返したと思っていた。ところが今回調べて見ると、ゲートの先の写真が残っているではないか。 ちょっと失礼して、半分開いたゲートを抜けていたらしい。しかし、結局途中で通行不能になり、引き返して来た。

   

野俣沢に架かる砂防ダム (撮影 2001. 4.28)
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<野俣沢沿い>
 道はこの先ずっと野俣沢左岸側を行く。ゲートの先で野俣沢が望めるようになる。既に谷は深みを増していた。 途中に砂防ダムが架かる(地理院地図)。対岸にはまだ道が通じているのが見えた。野俣沢林間キャンプ場脇から続く道らしい。

   

<景色>
 野俣沢の谷間の展望がいよいよ開ける。なかなか壮観な眺めだ。谷の先、一番奥に鉢盛山頂上付近が見通せる。道は締まった土の路面が続く。 峠の旅をしていて、こういうロケーションを味わえるのが醍醐味の一つだ。

   
野俣沢の谷の眺め (撮影 2001. 4.28)
正面左手の一番奥のピークが鉢盛山頂上付近と思う
峠はそこより左手に延びるの稜線上にあるが、少し隠れているようだ
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前の写真より少し峠寄り (撮影 2001. 4.28)
眺めている付近の谷底が一番広い
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<道の様子>
 道は川面よりずっと高い位置に通じる。それ程急な斜面ではないので、危険な感じはしない。道幅も十分あるので、ラフ路と言っても非常に走り易い。 ただ、ジムニーなどで走り慣れている者にとってはの話だが。

   

道の様子 (撮影 2001. 4.28)
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道の様子 (撮影 2001. 4.28)
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多分、境沢付近 (撮影 2001. 4.28)
下に通って来た道が見える
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<道の様子>
 道筋は当面谷に沿って比較的真っ直ぐ進む。大きなトラバースはない。ただ、境沢ではその支流に大きく迂回する。それ以後、道は南西方向に向く。正面が峠に当たる。

   
通行不能箇所から戻って来たところ (撮影 2001. 4.28)
ジムニーは麓方向を向く
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野俣沢の谷の様子 (撮影 2001. 4.28)
麓方向に見る
左岸沿いの高みに林道が通じる
   

<小九一沢付近>
 道は徐々に谷を詰めて行く。左手の谷底が浅くなってきた所で「小九一沢」と書かれた小さな橋を渡る(地理院地図)。側らには道標も立つ。

   
小九一沢を渡る (撮影 2001. 4.28)
   

 ここで野俣沢概要図が大いに役立つ。小九一沢を過ぎるということは、もう野俣沢本流の谷沿いを約8割ほど来ていることになる。 ただ、この先、峠直下の急勾配を登る九十九折りが待っているので、道程はまだまだ多くを残す。
 
<谷の底へ>
 小九一沢を過ぎると、もうほとんど谷の底である。通行止看板が出ていた。工事中のため、峠より先の木祖村には行けませんとのこと。しかし、この時はその前に通行不能になった。


小九一沢の道標 (撮影 2001. 4.28)
   

小九一沢の直ぐ先 (撮影 2001. 4.28)

通行止の看板 (撮影 2001. 4.28)
   

<ヤセヲ沢>
 「ヤセヲ沢」と道標が立っている。ただ、野俣沢概要図には前ヤセヲ沢と入ヤセヲ沢はあるが、単なるヤセヲ沢が見当たらない。これらは右岸の支流だが、ヤセヲ沢はこの左岸側の支流だろうか。

   
ヤセヲ沢付近 (撮影 2001. 4.28)
ジムニーは麓方向に向く
   
ヤセヲ沢の道標 (撮影 2001. 4.28)
   
野俣沢概要図の一部 (撮影 1992. 9. 6)
ヤセヲ沢が見当たらない
地図は下がほぼ北
   

<谷を詰める>
 林道は遂に谷を詰める。地形図では「1482」の標高が記されている地点だ(地理院地図)。 付近には機材らしい物が置かれていたり、作業小屋の様な建物も見られる。 1992年に訪れた時、「前ヤセヲ沢現場入口」の看板を見掛けたが、この付近がその現場なのだろう。
 
<九十九折り>
 野俣沢の谷はここより真っ直ぐ峠に向けて急斜面を駆け上がって行く。車道は通せない。そこで鉢盛山林道は左岸の崖を九十九折りで登り、大きく北に迂回して行く。 いよいよ峠道らしい峠道の始まりだ。この林道のクライマックスと言っていい。道は途端に険しさを増す。

   
九十九折りを登り始めた所 (撮影 2001. 4.28)
谷方向を望む
右手奥が峠方向になる
正面奥の比較的大きな谷には幾段かの砂防ダムが見られる
オンダシ沢か前ヤセヲ沢だと思う
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<眺め>
 谷底を離れて行くので、視界が広がりだす。ここまで来た道筋や、右岸の様子も見渡せるようになる。

   

九十九折りの途中より麓方向を望む (撮影 2001. 4.28)
下に走る道は九十九折り区間直前の道
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

九十九折りの途中 (撮影 2001. 4.28)
ジムニーは峠方向に向く
この先通行不能で、ここで引き返した
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<通行不能>
 九十九折りが始まって間もなく、道の方向が鉢盛山方向に向き、そこで一段と険しい谷を回り込もうとする。 すると、その右岸側が大きく崩れていた。この谷がヤセヲ沢の上流部だろうか(地理院地図)。

   
この先険しい谷を回り込む (撮影 2001. 4.28)
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 路面には残雪が僅かに見られ、谷の奥からは水が激しく流れ落ち、なかなか荒々しい景色だ。崖の一部にコンクリートが打たれているが、その他は如何にも崩れ易そうだ。
 
 路面は崩れた土砂で完全に埋まり、判断の余地はない。引き返すしかない。しかし、九十九折り途中の道で、車を反転するだけの十分な道幅がない。 軽のジムニーだからこそ、どうにか引き返すことができた。

   
崖崩れ箇所 (撮影 2001. 4.28)
完全に通行不能
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 これが朝日村を訪れた最後となり、その後の詳しい消息は分からない。

   
   
   

峠へ

   

<30年前>
 これ以降は1992年9月、初めて峠を訪れた時のこと。ただ、今となっては古い話しで、残念ながらほとんど記憶がない。 当時、ジムニーを乗り回し、険しい林道を好んで走っていたこともあって、この鉢盛山林道に特別な印象がある訳でもなかった。今地図を眺めると、如何にも峠道らしい豪快な九十九折りが確認できるが、それさえ特に覚えがない。
 
 九十九折り区間を過ぎ、また野俣沢の延長上に戻って来る。その谷間を通し、朝日村の市街地辺りまで見通せるようになる(次の写真)。ここまで来れば峠は近い。 途中、鉢盛山への登山道が始まっていた筈だ。野俣沢概要図によると、野俣沢最上流の大滝沢という谷の側だったようだ。林道沿いに駐車場があり、鉢盛山などへの登山客が利用していた。 ただ、文献(角川日本地名大辞典)の鉢盛山の項では、「登山者は稀である」としている。鉢盛山林道が通行止になっては、登山客は尚更少なくなることだろう。

   
野俣沢の谷沿いに麓方向を望む (撮影 1992. 9. 6)
   
前の写真の拡大 (撮影 1992. 9. 6)
朝日村市街地が望める
   

<峠直前>
 峠は比較的なだらかな鞍部に位置する。暗い林の中に入ることなどなく、終始開けた雰囲気だ。峠直前まで朝日村市街地方向の眺めがある。

   
峠直前から朝日村側を眺める (撮影 1992. 9. 6)
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<峠>
 峠そのものも、とても開けている。標高が高く、中央分水嶺の高い稜線上にある。気候が厳しく、あまり高い木が育たないのかもしれない。訪れた時は木祖村側がややガスっていた。

   
鉢盛峠 (撮影 1992. 9. 6)
朝日村側から見る
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<峠の様子>
 道は稜線を鋭角に横切って行く。峠の部分だけ道幅が広がり、ちょっとした広場のようだ。その道幅一杯に長いゲートが設けられ、側らに木祖村の藪原営林署による看板がポツンと立つ。 どういう訳かチェーンを跨いで木祖村側に入らず、よって木祖村側の写真を撮らなかった。あまりに潔く引き返したらしい。

   
ゲート越しに木祖村側を見る (撮影 1992. 9. 6)
   

<ゲート>
 ゲートそのものはあまり厳重ではない。背は低く、中央部はチェーンが張られているだけだ。ただ、いろいろ看板が多い。木祖村側の通行を禁止する物だ。 ゲートの鉄骨の一部に、「ここを無理して通っても 下のゲートは通れません!!」とある。 「ツーリング・サイクリング厳禁」の看板も掛かる。
 
 その中に、通行止は「H7年迄」ともあった。平成7年(1995年)を指す。 味噌川ダムの完成が平成8年頃なので、当初はダムの完成と共に木祖村側の林道を開放する予定だったのかもしれない。 しかし、ダム完成後も木祖村側の営林署のゲートは遂に開かれなかったものと思う。

   

通行止の看板 (撮影 1992. 9. 6)
「H7年迄」と書かれている

「ここを・・・」の文字 (撮影 1992. 9. 6)
   
ゲートに掛かる看板など (撮影 1992. 9. 6)
   

峠の看板 (撮影 1992. 9. 6)
朝日村側
藪原営林署によるもの

<峠の看板>
 峠の看板は木祖村側の藪原営林署によるものだ。朝日村側から見ると「みんなの郷土 豊かな緑 小木曽国有林」などとある。 一方、木祖村側から見ると、あっさり「鉢盛峠 標高1860m」となっていて、こちらが看板の表だろう。書道師範位を持つ妻は、この字体はなかなかいいと言っている。
 
<標高>
 この鉢盛峠については他にほとんど情報がなく、標高についてもこの看板を頼って「1860m」とした。地形図上でもほぼその付近で間違いない。 鉢盛山(2,446m)と烏帽子岳(1,952m)を結ぶ稜線上の一番低い鞍部にある。それでも1,900m近い高い標高は、なかなかなかのものと言える。
 
 高い標高の峠については、「標高三大峠」に記した。国道3位の金精峠トンネルで1,850m前後になり、鉢盛峠はそこよりも僅かだが高い。 私の知る限り笠ヶ岳峠(仮称)の1,900m超えに次ぐ。 見方によるが、一般車が越えられる峠の中では5本の指に入っていたのかもしれない。今回これは意外な発見であった。ただ、木祖村側が通行止となる過去のことである。

   

峠の看板 (撮影 1992. 9. 6)
木祖村側
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

看板の文字 (撮影 1992. 9. 6)
   

<古い峠(余談)>
 今の鉢盛峠は林道の峠だが、果して古くからここに峠道が通じていたのだろうかという疑問がある。林道開通の時期は不明だが、多分昭和50年くらい以降だと思う。 比較的新しいだろう。林道が通じて初めて「鉢盛峠」という峠が生まれたかもしれないが、名前はともかく、それ以前に何らかの峠道が通っていた可能性はある。
 
 ここは古くは美濃と信濃の国境となる。山は険しく峰は高い。しかし、松本盆地と木曽方面を比較的短距離で結ぶ。また、鉢盛山は雨乞の山として知られる。 更に江戸期には味噌川(木曽川上流部)の水を新田開発の為、鎖川水域に引水する計画があったそうだ。 その下調べなどに鉢盛山に登ったり、稜線を越えて木曽側との間で人の行き来があった可能性が高い。 多分、古くから鉢盛山と烏帽子岳の間に何らかの峠道があったものと思う。木曽義仲の御馬越え伝承などもあることだし。

   
   
   

 日本の中で長野県の朝日村という小さな村を、よく知っているという者は多くないだろう。 私もちょっと聞いただけでは分からないが、鉢盛峠が通じる村だと知れば、地図上で直ぐにその所在を示すことができる。 最初は林道や峠道に魅かれて訪れた地であった。今は林道は通れないかもしれなが、またその村を旅してみたいと思う、鉢盛峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992. 9. 6 朝日村側から峠まで往復/ジムニーにて
・1999. 7.26 味噌川ダム・奥木曽湖訪問、木祖村側ゲートで引き返し/ジムニーにて
・2001. 4.28 朝日村の土砂崩れ通行不能で引き返し/ジムニーにて
・2002. 9.28 味噌川ダム訪問/キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年9月1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社 
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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