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保福寺峠
ほふくじとうげ  (峠と旅 No.197)
   
深い歴史を背負う東山道の峠道
   
(初掲載 2012. 6. 9  最終峠走行 2004. 8.10)
   

  
  
保福寺峠 (撮影 2004. 8.10)
手前は長野県上田市(旧丸子町西内)
左手奥は同県松本市(旧四賀村)保福寺町
道は県道181号・下奈良本豊科線
峠の標高は1,345m(峠にある看板より)
この先、道は左にカーブしながら峠を過ぎる
それまでの狭い道とは打って変って広々とした峠が現れる
 
峠の所在
   
  保福寺峠は信州(長野県)の北東部に位置し、東北信と中南信に二分する筑摩山地(ちくまさんち)を越えている。「筑摩山地」とはあまり聞きなれない名であるのだ が、松本、長野、上田、佐久の各盆地に挟まれた、標高1,000〜1,500mの山地及び丘陵地をそう呼ぶそうだ。明確な定義はないらしいが、おおよそ北 は鬼無里から南は美ヶ原までの範囲らしい。南に位置する八ヶ岳連峰と続いて、長野県を大きく東西に二分する山々である。
 
 保福寺峠は松本市街と上田市街を直線で結んだ場合のほぼ中間点に位置する。峠の西側は、現在は松本市になっているが、以前の東筑摩郡四賀村(しがむら) である。東側は、こちらも現在は上田市になっているが、以前の小県郡(ちいさがたぐん)丸子町(まるこまち)である。ただ、峠の東側の道は、旧丸子町から 北隣の青木村(同じく小県郡)へと抜けて行く。どちらにしろ、保福寺峠は東筑摩郡と小県郡の郡境に位置していた。
  

青木村周辺観光案内図 (撮影 1998.11.14)
田沢温泉にあったもの
(上の画像をクリックすると峠付近の拡大画像が表示されます)
 所在地の参考まで、青木村の田沢温泉に宿泊した折り、写真に収めた青木村周辺観光案内図を掲載する(左の写真)。保福寺峠の南には国道254号の三才山(みさやま)トンネルが、北には国道143号の青木峠(明通トンネル)が通じ、それらに挟まれた保福寺峠を越える道は、県道と言えども寂れた道である。
 
 尚、この近辺の峠としては、三才山峠三才山トンネルの旧道))や修那羅峠(しょなら)を既に掲載してある。
    
峠名のこと
 
 保福寺峠がある旧四賀村の南東端の地区は保福寺町(ほふくじまち)と呼ぶ。四賀村に合併する前の錦部村字保福寺である。更に古くは保福寺(町)村と呼ぶ村もあったそうだ。その地に保福寺なる寺院がある。鎌倉期の創建と伝えられる。その寺の名が峠名にもなっているらしい。
 
 保福寺町内には保福寺峠付近に源を発す保福寺川が東から西へと流れ下り、会田川から犀川(千曲川・信濃川水系)へと注いでいる。峠の北には保福寺山と呼ばれる山が あるらしい。戦国期には保福寺城なる城が建てられ、江戸期には保福寺宿なる宿場が設けられた。保福寺峠を旧四賀村側に6、7Kmも下って来ると、右手の保 福寺川を渡った先に山門が見える。そこをくぐって石段を登った先に、曹洞宗の保福寺の本堂が鎮座する。それが「保福寺」を冠する全ての物の元という訳か。

保福寺への入り口 (撮影 1999. 7.25)
山門が見える
 
東山道のこと
  
 現 在の保福寺峠は、とても寂しい道である。「険しい」というより「寂しい」という言葉の方がふさわしい。峠の南、僅か3Km程に国道254号の立派な三才山 トンネルが貫通していれば、わざわざこんな狭い山道を走る車はない。しかし、保福寺峠には古い歴史がある。古代東山道(とうさんどう)という由緒正しき 顔を持つ峠なのだ。
 
 東山道とは、律令制下での地方行政区画・五畿七道の一つを指すそうだ。現在の中部、関東、東北の山地を中心とする地帯である。
五畿七道の一つではないが、今でも「北海道」と呼ぶよ うに、「道」(どう)とは地域を表したものらしい。転じて、都(奈良や京都)からその国を結ぶ道筋もまた東山道と呼んだ。保福寺峠は東国の防人(さ きもり)たちが京に上る時、越えた峠なのであった。
   
 道としての東山道は、近江・美濃から神坂峠(みさか)を越えて信濃に入り、伊那谷を北上、松本からこの保福寺峠を越えて上田、更に碓氷峠(うすい)を越えて上野国(こうずけのくに、群馬県)へと続いて行ったらしい。但し、東山道は一筋に限らず、時代によって幾つかのルートがあったようだ。初期の頃は、保福寺峠ルートの代わりに、諏訪盆地から蓼科山麓の雨境峠(あまざかい)を越えて佐久平へと出ていたとのこと
 
 京に住む雅な人々にとって、東山道の地は東の果て、未開の地に思えたのであろう。命(めい)を受けその地に赴く者は、決死の覚悟だったに違いない。保福寺峠はそうした人々の歴史を刻んだ峠であった。
    
 しかし、正直に言って古(いにしえ)の東山道では、現代人にはどうにもピンとこない。歴史学者ならいざ知らず、一般人に東山道など馴染みがある訳ないのだ。これが徳川家康以降の東海道や中山道、甲州街道なら、今でも国道の幹線路などとして残り、身近なものと思える。
 
 東山道が歴史の表舞台から退いて行くのは、平安末期頃だそうだ。京都と東国を結ぶ道の主流は、山の中の難路であった東山道を避け、太平洋岸を行く東海道 に移っていく。更に鎌倉に幕府が打ち立てられると、京都と鎌倉との間の交通が重要となり、東山道は脇道の存在へと落ちていった。そもそも、区画割として の東山道が、歴史の上で意味を持たなくなっていく。そしていつしか人々の記憶から東山道は薄れて行ったのだろう。
   
松本市側からの峠道
  
 保福寺峠に向かうには、松本市街からだと国道143号を北 上、途中安曇野市(旧豊科町)を経由し、旧四賀村に入って刈谷原町(かりやはらまち)で分岐する県道181号・下奈良本豊科線に入る。現在ではこのように 北に大きく迂回するのが普通だろうが、昔の東山道は松本からもっと直接的に保福寺峠へと向かっていたようだ。旧四賀村の七嵐(ななあらし)と松本市の間にある峠(稲倉 峠/しなぐらとうげまたは七嵐峠)を越えていたらしい。県別マップルなどの詳細な道路地図を見ると、稲倉峠には車道が通じている。
  
 国道143号から分かれ た県道181号は、保福寺川に沿って真西へと遡る。何の変哲もない県道が続いている。数Kmで左手(北側)に保福寺の山門を見て過ぎ、その少し先で道が左 に急カーブする(右の写真)。直進方向にも細い車道が川沿いに伸びているが、そちらは行き止りのようだ。古道が残ってるとすれば、その行き止りの道の先で あろう。ここより県道は保福寺川の本流を離れて行く。
 
 保福寺川の源流は、右(南)の月沢、真ん中(東)の商人沢、左(北)の久手地沢の3つの細い流れに分かれている。保福寺峠はその中の商人沢の上流部に位置する。県道は一路、北の
久手地沢の上部を迂回した上で、再び商人沢沿いへと戻って来ることになる。

旧四賀村側の道 (撮影 1999. 7.25)
峠方向を見る
直進は行き止り、本線は左へカーブ
正面に「大型車両通行止」の看板が立つ
   

林道蝶ヶ原線の分岐 (撮影 2004. 8.10)
車は林道を出て来たところ
右手奥が保福寺町へ下る
 1.5車線幅の比較的整備された舗装路が続く。暗く閉ざされた感じはないが、かと言ってあまり遠望か利く訳でもない。古の東山道の道筋とは少し離れてしまっているので、あまり感慨もない。
 
 峠直前になって右手に暗い林道が一本分岐している。入って直ぐに未舗装だ。保福寺峠から南の三才山峠へと続く稜線に沿って伸びる
蝶ヶ原林道だ。三才山峠を横切って武石峠(たけし)へと抜けられる。
 
 林道蝶ヶ原線については、右の写真が参考になる。古い水源かん養保安林の看板に記載された地図である。三才山トンネルが通じる国道254号線から分岐する「美ヶ原公園西内線」の入り口に立っていた物だ。その地図に保福寺峠の道の一部も載っている。道の名前が県道ではなく「保福寺林道」となっているのが注目される。

水源かん養保安林の看板 (撮影 2004. 8.10)
三才山トンネルがある国道254号で撮影
地図は上が「北」であるのに注意

(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

県道を峠方向に見る (撮影 2004. 8.10)
 蝶ヶ原林道分岐から数100mで直ぐにも峠だ。峠が近いなら、東山道の古道と重なる部分も多いと思うが、今の県道からはその痕跡を窺い知ることはできない。
  
   
  
保福寺峠 (撮影 1999. 7.25)
稜線上を北から南に見る(
馬頭観音らしき石碑のある所より)
左手(東)が上田市(旧丸子町)、右手(西)が松本市(旧四賀村)
広々とした峠だ
左端にある大きな看板は「保福寺峠スカイライン沿線案内図
中央やや左に立つ長方形の石碑は「林道保福寺線開通記念
       
 保福寺峠は開けた峠だ。峠が過ぎる稜線はなだらかで、空が広い。峠の標高は峠にある看板に1,345mとあり、別に調べた文献にも同じ数値が書かれてあった。
 
 峠の直ぐ北には、上田市、青木村、松本市の境となる1,449mの山がある。文献に「保福寺山南麓に」 保福寺峠があるとあったので、その山が保福寺山であろうか。一方、峠の南には、近くに1,392mのピークがあり、その先、三才山(1,605m)まで稜 線が僅かなアップダウンを繰り返しながら高度を上げている。保福寺峠が位置する鞍部は比較的なだらかで、車道が開削された今でも、それ程稜線を切り崩して いないのではないかと思う。古の東山道はほぼ同じ標高でこの地点を越えていたことだろう。ただ、峠は広く、歩いて越えた昔の峠の痕跡など、探しようもな い。
  
保福寺峠 (撮影 2004. 8.10)
上の写真とほぼ同じ場所

(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

標高が書かれた看板 (撮影 2004. 8.10)
上田地域トレッキングコース 青木村
少し登った奥に馬頭観音らしき石碑がある

トレッキングコースの看板 (撮影 2004. 8.10)
左の写真の拡大
保福寺峠 ⇔ 十観山
保福寺峠
1,345m

 
 この看板は1999年に来た時にはまだなかったようだ
  
   
保福寺峠スカイライン沿線案内図の看板
 

案内図の看板 (撮影 1999. 7.25)
(上の画像をクリックすると峠付近の拡大画像が表示されます)
 上田市側から峠に登って来ると、その正面でまず目に入ってくるのは「保福寺峠スカイライン沿線案内図」の看板だ。なかなか大きな物だが、やや年代を感じさせる。四賀村、青木村、丸子町、上田市の4市町村の観光協会によるものだ。
 
 この案内図をよく見ると、何か変である。保福寺峠の東、旧丸子町や青木村側の道を見ると、現在の県道とは異なるルートが示されている。大明神岳(1,232m)の北麓を回って「大明神」に行き着き、そこから南の鹿教湯方向と北の「豆石峠」へと分かれている。
   
 まず、豆石峠とは、旧丸子町西内(にしうち)にある鹿教湯(かけゆ)温泉から、途中旧上田市を通り、青木村の中心地までを結ぶ県道(主要地方道)12号・丸子信州新線上にあり、上田市と青木村の境となる峠だ。その峠の写真を調べてみると、道路脇に「保福寺スカイライン」と書かれた、古そうな看板が写っていた(左下の写真)。
  

豆石峠 (撮影 1999. 7.25)
上田市方向に見る
右手に「保福寺峠スカイライン」の看板

豆石峠 (撮影 2006.10.21)
左と同じ場所
この時、スカイラインの看板はなくなっていた?
   

豆石峠の道路看板 (撮影 1999. 7.25)
野倉(のぐら)を経由して別所温泉に続く道は県道179号・鹿教湯別所上田線
手前は沓掛を経由して青木村市街へ

スカイラインの看板 (撮影 1999. 7.25)
 
 以前、この「保福寺スカイライン」の看板を見て、不思議に思ったことがある。走っているのは県道12号で、保福寺峠の道とは直接関係ない。なのに「保福寺スカイライン」。峠に立つデカデカとした看板には、肝心なスカイラインがどの道なのかが示されていないのだった。
 
 余談だが、豆石峠がある県道12号を、日が暮れてから鹿教湯温泉方面から田沢温泉へと走ったことがある。仮にも主要地方道というのに、豆石付近は街灯が 皆無で真っ暗だ。狭い上に屈曲が多い。ヘッドライトは真っ直ぐ前を照らしているので、曲がる先は漆喰の闇である。どんなカーブなのか事前に全く分からないか ら、
ゆっくりゆっくりカーブを曲がる。こういう道は勿論、今の妻が担当した。後日、思い出すたびに、怖かったと言っている。

豆石峠 (撮影 1999. 7.25)
青木村方向に見る
ジムニーは野倉方面からやって来た
  

豆石峠の分岐に立つ案内看板 (撮影
1999. 7.25)
↑ 田沢温泉 7Km
沓掛温泉 4Km
17Km 上田市街 →
'Km 別所温泉

   
保福寺林道のこと
 
 峠の看板にある「大明神」がどこだか分からないが、豆石峠より県道12号を少し丸子町方面に来ると、大明神岳の北麓を回って県道181号に接続する未舗装路が分岐する。その林道を走って保福寺峠を訪れたことがある。その時の写真を調べてみると、道路脇に立つ林道看板に、辛うじて「保福寺林道」の文字が読み取れる(下の写真)。
  

県道12号から入った保福寺林道 (撮影 1999. 7.25)
 



林道看板 (撮影 1999. 7.25)
左の写真の「山火事注意」の旗の手前に立つ
表題が辛うじて「保福寺林道」と読める
  

峠にある林道開通祈念 (撮影 2004. 8.10)
 現在の保福寺峠を越える県道の前身は、峠に立つ「林道保福寺線開通祈念」の碑などからも分かるように、保福寺林道である。その経路は、青木村の奈良本へと下る県道とは途中で別れ、大明神岳の北麓をかすめ、最短で県道12号に通じる。保福寺林道と県道12号の接続点が「大明神」なのかもしれない。
 
 それにしても、1999年に走った
保福寺林道はジムニーがぴったりな荒れた未舗装路だった。それも保福寺峠スカイラインと呼ぶのだろうか。「スカイライン」の文字からは稜線上の眺めが良い道を想像するが、そんな道ではなかったのだが・・・。
 
 開通記念碑の裏の碑文には、昭和36年に関係四町村により多目的山村振興林道として着工したとあり、最後に
昭和39年4月28日の日付が刻まれている。文献には昭和41年に車道が開通したとあったが、碑文の方が正しいのだろう。
 
 開通記念碑はなかなか大きく立派な物で、保福寺峠に初めて車道を通した時の期待の大きさがうかがえる。それで未舗装林道と言えども「保福寺峠スカイライン」との呼称を付けたのではないだろうか。
    
 
峠の様子
   
 峠を通る車道の北側に、案内看板や開通記念碑が立つ広場があるが、南側にも何やら大きな石碑が立つ。多分、万葉歌碑かなにかだったようだ。車道沿いには県道標識がポツンと立つ(下の写真)。
 
 その県道標識の近くから一本の山道が始まる。南の稜線方向へと登って行くようだ。その道の入口には、「
ウォルターウェストン 日本アルプス絶賛の地 入口」と書かれた木柱が立つ。

峠の松本市側 (撮影 2004. 8.10)
キャミの後ろに県道標識が立つ
  

峠より松本市側を見る (撮影 2004. 8.10)
県道標識が立つ
県 道
181
長 野
(-)下奈良本豊科線
四賀村 保福寺峠

県道標識 (撮影 2004. 8.10)
左の写真の拡大
  
松本市側から峠を見る (撮影 2004. 8.10)
ウォルターウェストン 日本アルプス絶賛の地 入口」の所
    

日本アルプス絶賛の地 入り口 (撮影 2004. 8.10)
 
 ウォルター・ウェストンは日本アルプスを世界に紹介したイギリス人宣教師だそうだ。明治期に北アルプスの登山ルートを作った人物である。明治24年7月 末、鉄路で上田までやって来たウェストンは、日本アルプスの初登山を目指し、人力車でこの保福寺峠を越えたそうだ。その折、北アルプスを眺めて絶賛した地 が峠の近くにあるらしい。ただ車道に面した入口からその場所まで、どのくらいの距離があるか分からない。延々と歩かされてはかなわないので、まだその絶賛 の地を踏んだことはない。


標柱 (撮影 2004. 8.10)
平成13年9月の設置
 
 
峠の歴史
  
 青木村教育委員会による「歴史の道 東山道」の標柱が、「スカイライン」の看板の右横にポツンと立っている。「昭和五十九年十月」の日付が記されていた。確かに1999年(平成11年)に訪れた時、撮った写真には、既にこの標柱が写っている。峠以外にも同じような標柱が峠の上田市・青木村側の道の途中にある。例えば峠にある「保福寺峠頂上」の次は「峰の茶屋跡」である。但し、標柱が立つばかりで、その周辺に昔を偲ぶ痕跡を確認できる訳ではない。東山道はあまりにも遠い歴史の彼方である。
      

標柱 (撮影 2004. 8.10)
歴史の道 東山道
保福寺峠頂上

標柱 (撮影 2004. 8.10)
峰の茶屋に至る
  
 た だ、保福寺峠の道は明治末期まで利用されていた。江戸期には松本藩が武州江戸へ至る道として重要視し、保福寺町の保福寺宿の東端に口留番所を設け、それは 明治2年まで続いている。松本藩の参勤交代は保福寺峠を越え、その先、中山道を利用するコースを取っていたようだ。同じ信州でも高遠藩は、笹子峠を越える 甲州街道で参勤交代を行っていたらしい。
 
 都から東国へと至る東山道としての役割に代わり、松本から上田、更には江戸へと続く道として保福寺峠は使われ、江戸道とか保福寺道(保福寺街道)、松本街道などと呼ばれるようになった。峠を挟んだ保福寺町
と入奈良本(現青木村奈良本)の両集落は、峠を越える人馬で明治末期まで繁栄したそうである。ウェストンが明治24年に人力車で峠を越えたとのことだが、車道が通じる前からそれなりに道幅がある峠道だったのだろう。
 
 しかし、明治35年(1902年)に篠ノ井線が全線開通するなど、鉄路の発達により保福寺峠は寂れていった。またそれに続いて自動車が普及し始めては、車道を通さぬ保福寺峠が利用される機会は少なかったことだろう。
 
 やっと昭和39年(1964年)になって保福寺林道が峠を越え、周辺の市町村がスカイラインと銘打って大きな案内看板も立てられた。いつしか全線舗装の 県道も通じ、普通の乗用車でも問題なく通れる峠道である。ただ、広い峠でのんびり散策していても、通り掛かる車はほとんどない。8月の行楽シーズン真っ盛りという のに、世の中の賑わいなど嘘のように静かな峠だ。ただただ真夏の太陽が降り注ぐばかりである。

      
 スカイラインの看板の左脇に立つトレッキングコースの案内看板から、北の稜線方向へと山道が始まっている。案内には「十観山」とある。その山道を少し登った所にやや古そうな石碑が立つ(右の写真)。非常に複雑な文字だが、多分「馬頭観音」と刻まれているようだ。裏にも何か書かれているのだが判読できない。この峠にあっては、最も古い物ではないだろうか。江戸時代には馬による物資の流通も盛んだったことだろうから、数100年程も前の物か。こうした石碑に詳しければ、もう少し正確に時代が推定できるのに。
 
 ただ、この石碑が置かれている場所が気に掛かる。現在の車道から離れた数m高い位置だ。しかも北側の山に登った林の陰である。車道開削の折り、邪魔になら ないようにとこの場所に移設したのだろうか。もしかしたら、この石碑がある辺りが、昔の保福寺峠なのではないか。石碑の場所から眺める現在の保福寺峠は広 々としている。ここに昔の峠の面影を見付けるのは難しいことだろう。

馬頭観音? (撮影 1999. 7.25)
  
<余談>
 2004年の夏は、
三才山峠に 続いてこの保福寺峠を訪れた。旅に出る時は汚れたり破けてしまってもいいようにと、古い服を着、古い靴を履いて出掛けて来る。野宿旅なので、それなら野宿 する時に 気兼ねなく地面に座ったり、泥の地面を歩き回ったりできる。保福寺峠で周辺を歩き回っていると、履いて出てきた靴の底が剥がれてしまった。それまでも接着 剤やガムテープで補修しながら使い続けてきたのだが、今度はバックリ大きく口が開いている。これは本格的な修理が必要だ。キャミにもたれ掛かりながら片足 で立ち、布製のガムテープで念入りに補修す る。元々この靴は底が薄い安物で、その上、野宿などで酷使してきたこともあり、もうとっくに寿命である。ただ、キャミの前に乗っていたマニュアル車のジム ニーでは、アクセルやクラッチの操作がし易く、なかなか重宝していた。険しい未舗装路を走るには、微妙なクラッチ操作・アクセルワークが必要で、その点、 靴底の薄い物の方が都合よい。多くの野宿旅を共にしてきている靴である。愛着というほどではないが、捨てがたい気もある。
 
 そんなことを思いつつ、ガムテー プをぺたぺた貼っていると、それまで一台の車も通り掛からなかった峠に、小型の乗用車がやって来て停まり、若い男性が一人降り立った。こんな寂しい峠に何 の用だろうと、自分のことを棚に上げながら、ちらちら横目で様子を伺う。その男性は少し周辺を見て回ると、そそくさとまた車に乗って走り去って行った。ガ ムテープで靴を直している風体の悪い男が峠に佇んでいては、早めに退散した方が無難と思ったのだろうか。その男性の一人旅を邪魔してしまったようだ。もし かしたら、峠好きだったかもしれないのに。
 
 修理した靴は、ほとんどガムテープでできているかのような外観となった。それを履いてキャミに乗り、青木村へと下って行った。その後、残り3日の旅を どうにか乗り切り、無事に自宅には戻ったが、もうその靴を履いて旅に出掛ける訳にはいかない。かと言ってそんな汚れたボロ靴、記念に取って置くこともでき ず、あっさりゴミ箱行きとした。ジムニーに続いて最近はキャミも廃車とし、私の一人旅の相棒は次々に去って行く。あのボロ靴も、記念写真の一枚くらい撮っ て置けばよかったかと思うのだった。

         
上田市・青木村側の道
    

峠から上田市方向を見る (撮影 2004. 8.10)
 峠から上田市(旧丸子町西内)側に下ると、道は直ぐに暗い林の中だ。
 
 間もなく左手に「歴史の道 東山道」の標柱が立っている(下の写真)。「峰の茶屋跡」とある。標柱の辺りを見回しても、草が生い茂った林があるばかりで、これと言って痕跡らしき物は確認できない。「県道に沿って古道」ともあるので、道路の脇を眺めてみたが、痛んだアスファルトの路肩が続いているばかりだ。旺盛に茂った夏草を掻き分けて犬のように探し回れば、何か見付かるのかもしれないが、そんな気にもなれず、そのまま茶屋跡を後にした。
 

峰の茶屋跡 (撮影 2004. 8.10)
道の左脇に標柱が立つ

峰の茶屋跡 (撮影 2004. 8.10)
峠方向に見る
   
 尚、峠ではなく、なぜこんな途中に茶屋があったのかと、後から疑問に思った。茶屋では当然ながら水を必要とする。頂上の峠では沢水や湧水が得難かったのだろうか。それで峠を少し下った所に茶屋を設けたのかと思った。
        
 保福寺峠の東側の道は、上田市と青木村の境付近を下る。峠から1Kmも行かない内に上田市から青木村に入った。この付近は視界が広がる。保福寺山と思われる山から東に伸びた尾根が、上田市と青木村の境になっている。「保福寺峠スカイライン」と呼んだのは、道がこの尾根近くを行くことからだろうか。少なくとも松本市(旧四賀村)側は商人沢の谷沿いで、スカイラインとはいかない。
 
 また、先ほど通り過ぎた茶屋は「峰の茶屋」と言ったが、「峰」とはこの尾根のことかとも思った。しかし、それはやや考え過ぎだろう。あの茶屋は峠の直ぐ下に位置し、この場合の「峰」は「峠」と同義だろう。

上田市と青木村との境付近 (撮影 2004. 8.10)
峠方向に見る
 

水源かん養保安林の看板 (撮影 2004. 8.10)
上田市と青木村との境付近に立つ

(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
 上田市と青木村の境付近に水源かん養保安林の看板が立っていた(左の写真)。保安林には何ら関心はないのだが、そこに描かれている地図がなかなか興味深い。それでよく写真に撮ることとしている。今回の地図を見ると、まずこの先で「181作業道」が分岐している。県別マップルなどを見ると、元来た旧四賀村へと続いている。行止りの道では詰まらないが、通り抜けられるなら行ってみたいと思う。
 
 その先、現在の保福寺林道を右に分けた後で「県道入〜豊科線」と書かれている。「」は「奈良本」を省略してあるようだ。県道から分岐し、入奈良本林道というのがある。入奈良本牧場へと行く道らしい。
    
 
 青木村に入って少し行く と、左に暗い未舗装林道が分岐していた。ここが例の181作業道か。しかし、簡単ながらも柵が設けられ、車の進入を阻んでいる。これでは四賀村に抜けられ る道であっても、断念するしかない。道の入口には、入奈良本地区内の山菜等の採取を禁ずる旨、警告文が出ていた。峠の青木村側の広くは奈良本と呼ばれるが、その 内、峠に近い所に入奈良本、県道終点付近に下奈良本といった地区があるようだ。

作業道の入口 (撮影 2004. 8.10)
  
 道は開けた尾根上を行くというよりは、意外と大きなジグザグ を繰り返す。文献には丸子町側に旧道の名残を僅かに残すとあったが、これではどこが旧道だかさっぱり分からない。旧道がこんなに屈曲する訳がないと思う。 ただ、馬も越えた峠とのことで、ある程度の九十九折りはあった峠道だったのかもしれない。
         
保福寺林道の分岐以降
  
 峠より数Km下った所で右に保福寺林道が分岐する。注意していないと見落としてしまいそうな道である。保福寺峠に最初に車道が通じたのは、この保福寺林道だった。その時、今の奈良本に下る県道となる道は車道としてはつながっていなかったということか。
 
 文献では、別所・鹿教湯、両温泉からの新道を合流して峠に車道を開通したとある。峠に立っているスカイラインの看板で「大明神」と呼ばれる所が、
別所及び鹿教湯の各温泉からの道が合している地点に相当する。そもそもスカイラインの看板には、奈良本に下る県道に当たる道が描かれていないのだ。そのことからも、現在も保福寺林道として残る道が、最初に保福寺峠を越えた道で、その時、今の奈良本を通る道は、車道としては峠に通じていなかったものと想像する。

保福寺林道から県道に出た所 (撮影 1999. 7.25)
左奥が峠、右手前が奈良本へ
正面に小さな看板が立ち、次のようにある
入奈良本 →
 マレット場
     
  国土地理院の国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムで古い航空写真が閲覧できる。1969年(昭和45年)撮影の画像では、大明神岳北麓を通る保福寺林 道や入奈良本牧場への入奈良本林道は、明確に確認できるが、それより麓に下る道筋がはっきりしない。段々畑のような物が無数に見え、そこをあぜ道のような 道が縫っているが、車道らしき大きな道は見えない。
 
 尚、1948年(昭和24年)撮影の航空写真では、峠さえもはっきりしない。車道開通が昭和39年なので、やはりその前には、林に囲まれた狭い峠だったのだろう。
            

道の様子 (撮影 2004. 8.10)
 保福寺林道から分かれた県道は、尾根筋を離れて北へと進路を取り、沓掛川(くつかけ)の支流・宮淵川の上流域へと向かう。保福寺峠より北に伸びる稜線の東斜面を横断するように進む。車道からははっきりと確認できないが、近くに入奈良本牧場の採草地が広がっている筈だ。
 
 夏場の山道だと虫が多い。ゆっくり車を進めていると、大きなバッタがワイパーにしがみ付いてきた。ちょうど運転席の目の前で、とても目障りである。それに虫は苦手だ。車内に入って来ないことを祈りつつ、車を運転する。
  
 また、「歴史の道 東山道」の標柱が、路傍にポツンと立っていた(右の写真)。今度は「清水茶屋跡」とある。前の峰の茶屋跡との間にも、他の標柱が立っていたかもしれないが、それ程気にしていなかったので、見落としている可能性がある。こちらの清水茶屋跡も、その周辺を見渡しても、これといって茶屋の痕跡が見られる訳ではなさそうだ。
 
 保福寺峠に初めて車道を通じさせたのは保福寺林道で、その道筋は途中から今の県道と異なるが、県道沿いにこうした茶屋跡があることから、県道の方が昔の 東山道の道筋に近いことが分かる。県道181号から12号を経て、上田に続く国道143号に出るのには、理にかなったコースである。一方、大明神岳の北麓 の際を通る保福寺林道は、その先別所温泉を経由して上田に到達するようなコースどりに見受けられる。
 
 尚、東山道の遺跡として峰の茶屋や清水茶屋があったようにとられるが、東山道と呼ばれた
そんな古い時代のものだろうか。下って江戸道とか松本街道と呼ばれた時期の遺跡ではないかと想像する。

清水茶屋跡 (撮影 2004. 8.10)
 
人里へ
 
 清水茶屋跡を過ぎると間もなく右手の麓に人家が集中しているのが望める(下の写真)。それまで茶屋跡などはあっても、人家は皆無の道だったので、やっと人里に降りて来たという気持ちになる。険しい山間の道ももう少しで終わる。
         

集落を望む (撮影 2004. 8.10)

険しい山道ももう少し (撮影 2004. 8.10)
右下に電柱が立ち並ぶ道が見える
 
水田を見下ろす (撮影 2004. 8.10)
 
 林が途切れ、右手に水田が広がる。道に沿って電柱が立ち並び、人里の雰囲気の中、細い県道は続く。
          
水田脇を通る県道 (撮影 2004. 8.10)
  
峠方向を仰ぎ見る (撮影 2004. 8.10)
ここまで下って来た道のガードレールが見える
    
 青木村側の最初の集落は市乃沢と思われる。ただ、今の県道沿いには人家が集中していない。途中に分岐があり、それを西の山側に上ると、集落があるようだ(右の写真)。この付近から、幹線となるこの県道以外にも脇の道が幾筋か通るようになる。

分岐 (撮影 2004. 8.10)
峠方向に見る
左が保福寺峠へ、右は入奈良本市乃沢
  

恋渡神社の横 (撮影 2004. 8.10)
このキャミももう廃車となっている

恋渡神社の標柱 (撮影 2004. 8.10)
恋渡神社とある
  


恋渡神社の鳥居 (撮影 2004. 8.10)
 集落付近からは道はセンターラインのある立派な県道に変わる。間もなく左手の一段高くなった所に鳥居が見える。青木村教育委員会による標柱に「恋渡神社」 (こいどじんじゃ)とある。若い女性に好まれそうな名前だ。しかし、元々は越戸(こえど)などの字が使われていたそうな。松本に越える保福寺峠への登り口 といった意味があったとか。神社の本殿は石段を登ったずっと奥にあるようで、下からはうかがい知ることはできない。しかし、鳥居の周辺にはのどかで静かな 雰囲気が漂い、峠越えの疲れを癒すにはピッタリな場所である。
 
県道12号に出る
  
 神社から1.5Km程で、道は県道(主要地方道)12号に出る。そこまでの道は走り易いが、如何にも新しく開削されたといった感じの道で、あまり味わいはない。開けた田んぼの中を直線的に進み、殺風景なT字路で県道12号に突き当たる。その分岐に立つ看板には、県道181号方向に一応「保福寺峠14Km」と書かれている。
 
 
出た県道12号を右に行け ば、沓掛温泉を経て豆石峠を越え、鹿教湯温泉へと至る。左は青木村市街で国道143号に接続する。そちらが東山道の道筋となる。この付近の県道12号は、 もう立派な二車線路であるが、だまされてはいけない。豆石峠前後は主要地方道とはあるまじき道なのだ。

県道12号に突き当たる (撮影 2004. 8.10)
 

分岐の様子 (撮影 2004. 8.10)
右方向が峠

分岐に立つ看板 (撮影 2004. 8.10)
  
  
   
 県道12号に限らず、豆石峠から分かれて野倉を経由し、別所温泉に通じる道なども、なかなか険しい。一応県道179号とはなっているが、途中で分かり難い分岐もあり、かなり手ごわい。
 
 この付近は林道に限らず、県道や主要地方道に至るまで、細い道ばかりである。そんな中にあって保福寺峠は広々とし、石碑や案内看板、標柱が立ち並び、堂 々としている。古い航空写真(国土地理院の国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムより)で見ても、峠の部分がはっきり分かる。好きで細く険しい道ばかり を走っている者にとっても、ホッと一息できる、オアシス的な存在だと思う保福寺峠であった。
   
  
 
<走行日>
・1999. 7.25 青木村→旧四賀村 (ジムニーにて)  
 野宿実例集 No.15(峠を越えた時のこと)
・2004. 8.10 三才山峠から旧四賀村→青木村 (キャミにて)
 

参考資料>

・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成3年 9月 1日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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