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兵越峠
 
ひょうごしとうげ No.186
 
通行不能の青崩峠を迂回する車道の峠道
 
(初掲載 2011.11. 2  最終峠走行 2011. 5. 7)
 
  
 
兵越峠 (撮影 2011. 5. 7)
手前が静岡県浜松市天竜区-水窪町奥領家 (旧水窪町-奥領家、おくりょうけ)
奥が長野県飯田市-南信濃八重河内 (旧南信濃村-八重河内、やえごうち)
道は兵越林道(ヒョー越林道、町道白倉川線)
標高は1,168m(峠にある看板より)
舗装の変わり目が県境
 
 
 
 長野県茅野市を通る国道20号・甲州街道から分岐して、ひたすら南下する国道152号上には、杖突峠 (つえつき)、分杭峠(ぶんぐい)、地蔵峠(じぞう)、青崩峠(あおくずれ)と言った、そうそううたる峠が連なる。国道152号は中央構造線と呼ばれる大断層にほぼ沿っている為、それらの峠は険しいものとなっている。
 
 中央構造線とは、東は関東平野に始まり西の果ては九州にまで至る、日本列島の半分を横断する長大なものだ。「峠と旅」で掲載したことがある愛媛県の黒森峠(くろもり)にも通っている。
 
 崩れ易い地形から、そこを通す車道の開削は困難を極めた。杖突峠や分杭峠は無事に車道が通じているが、地蔵峠は峠道の半分は国道だが、残りの半分は国道が未開通で、その区間を林道が迂回している。青崩峠に至っては、峠の前後に車道が開削できず、今もって未開通の国道となっている。その車道が通じない青崩峠を、全く別の峠で迂回しているのが、この兵越峠の道である。
 
 峠名には、「ヒョー越峠」とか、単に「兵越」とか「ヒョー越」などとも書かれるが、「兵越峠」が比較的多く使われている気がする。尚、「越」は「ごえ」ではなく「ごし」と呼び慣わされているらしい。
 
 個人的には、「峠」と「越」が一緒になっているのは、何だか冗長的な気がする。さりとて「兵越」だと少し単純すぎて寂しい。カタカナを使った「ヒョー越」なんかが、ちょっと変わってて、いいんじゃないかと思ったりする。カタカナを使った峠名は、それ程不自然なことではなく、ブナオ峠、オロフレ峠、ヤレヤレ峠、ホハレ峠などなど、意外とある。
 
 峠の名前の最後に「越」が来る場合、「こえ」や「ごえ」と呼ぶことが多いが、この兵越峠の場合は、「越」の後に「峠」が続くので、「ごし」の方が語呂が良いのだと思う。ローマ字で書くと、goeとtougeでは、最後に「e」が来てしまい、音が重なることになる。但し、「ヒョー越」などと「峠」をつけない場合は、「ごえ」ではなく、「ごし」と呼びたくなってしまう。
 
 
長野県側から峠に向かう
 

南信濃和田近辺の町並み (撮影 2004. 8. 8)
和田城址から眺める
 分杭峠や地蔵峠と言う険しい峠を越え、国道152号を長野県飯田市-南信濃和田(旧南信濃村-和田)の本町付近まで来ると、非常に賑わった町並みに感じる。それまでの沿道にも幾つかの集落があったが、中央構造線によって形作られた狭長の谷間に位置する、やや寂しい町が多かった。ところがこの和田付近には、車道ギリギリに軒を並べる商店や家々が長く続き、古い街道の様相を呈する。
 
 現在の車で通り過ぎる道としては、非常に狭苦しく感じることだろう。その便宜を図る為か、近くを流れる遠山川(とおやま)の対岸に、町並みをバイパスする様に、広い道が築かれたようだ。そちらには道の駅もあるらしい。しかし、わたしはかつての秋葉街道(あきはかいどう)の名残を留める町並みを楽しみながら、のんびりと本線の国道を通り過ぎたい。
 
 ただ、妻が許さない。ハンドルを握る彼女は、頭にインプットされた次の目的地である兵越峠へ向け、ただひたすら車を走らせる。町並みの情緒など、彼女の眼中にはない。今は如何にこの狭い道を無事に通り抜けるかが、彼女の最大の任務と思っている。一つのことに集中すると、他のことは目に入らないのだ。
 
 ちょうどデジカメの電池が切れ、後部座席にある鞄に入れた予備のバッテリーに交換したいのだが、その余裕を与えてくれない。気が付くと、和田付近の町並みは通り過ぎ、一枚の写真も撮れなかった。仕方ないので、以前、和田城址を見学した折、市街を写した写真を掲載することとした(上の写真)。
 
 
国道418号との分岐
 
 町並みを過ぎると、右から遠山川の対岸から戻って来たバイパス路が合流する。その先、左に兵越峠への分岐がある筈だ。兵越峠の道と言っても、途中までは青崩峠の国道152号である。しっかりした道路標識が出ていて、それに従って左折する。
 
 国道152号の続きである左折した道は、右手に遠山川の支流・八重河内川(やえごうち)を間近に見る。一方、国道152号の先をそのまま直進し、八重河内川を渡って天龍方向に続くのは国道418号となっている。この分岐は国道418号が始まる地点であった。

峠を背に分岐を見る (撮影 2011. 5. 7)
左は国道418号を天龍へ
右が国道152号を飯田、上村へ
 

分岐に立つ道路看板 (撮影 2011. 5. 7)

分岐を見る (撮影 2011. 5. 7)
手前方向が峠
左手の川は八重河内川
前方の橋を渡るのは国道418号
向こうの遠山川右岸の山の上の方にも、人家が点在する
 
 入った道は、センターラインもある広い道で、まだ国道の威厳を保っている。右手の八重河内川には、砂利の河原があり、国道の分岐近くから川に車で降りられる道が付けられてあった。
 
 すると、その先に時間帯全面通行止の看板が出て来た(2011年のこと)。肝心な兵越峠が通行止になるようだ。しかし、日付を見ると2日後からのことで一安心であった。
 

分岐から入った国道を峠方向に向く (撮影 2011. 5. 7)
何やら左手に看板が立っていると思ったら、
大きく「全面通行止」とあった

分岐を背に峠方向を見る (撮影 2011. 5. 7)
右手に八重河内川の河原が広がる
ここに降りて昼食とした
 
 よくよく見ると、看板の文字にはいろいろな峠名の書き方が混じっていた。「兵越峠」を筆頭に、「ヒョー越峠」とか「ヒョー越」ともある。現地でもこれだけ統一性がないのだから、どう呼ぼうが、一向に構わない訳だ。
 

時間通行止の看板 (撮影 2011. 5. 7)
2011年時点のもの
(上の画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます)

時間通行止の看板 (撮影 2011. 5. 7)
2011年時点のもの
(上の画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます)
この看板には、「兵越峠」、「ヒョー越峠」、「ヒョー越」と
3種類の書き方が混在している
 
 看板の近くに車を止め、しげしげとその看板を眺めていると、近所に住むおばさんが出て来て、親切にも今日は通れますよと教えてくれた。例によって、人と話すのが苦手なくせに、どう言う訳か人から話し掛けられ易い妻が、そのおばさんのターゲットとなった。まあ、ちょっと人相が怖いわたしに話し掛けるより、のほほんとした妻の方が話し掛け易いことはある。
 
 話す内容はただ通れるかどうかだけの筈だろうが、おばさんと妻の立ち話が長引いている。わたしはそんな妻をほっといて、カメラの電池を交換したり、付近の写真を撮ったりするが、妻はなかなか戻って来ない。少しイライラしだした頃、やっと戻った妻が言うには、峠は通れるとの一言。それ以外、一体何を話していたのだ。
 
 峠に向け、直ぐにもまたドライブモードに入ろうとする妻を止どめ、丁度昼時なので峠越えを前に腹ごしらえしようと提案した。妻が会話に時間を取っている最中、わたしは側らの八重河内川の河原に目を付けていたのだ。丁度、車ごと河原に降りられる道があることも確認してあった。
 
 国道の分岐近くまで戻り、河原に下りる急坂に入るよう、車を運転する妻を促す。やや躊躇しながらも、砂利の急坂を下る。石の河原では、どのように車を進めていいか戸惑ってる。未舗装の林道はもうすっかり走り慣れているが、道ではないこうした河原では、どのように運転していいか分らないらしい。妻は何かと融通性に欠ける。
 
 前日泊った宿で用意してきたポットのお湯を、カセットコンロで沸かしなおし、カップ麺での昼食とする。河原にシートを広げて足を投げ出し、ついでに靴や靴下も脱いでリラックスする。側らの国道を通る車からの視線がやや気になるが、八重河内川の流れや付近の景色をゆっくり堪能できる。峠方向から降りて来る車や、峠方向に向かう車など、数台の車が行き交い、以外に交通量があるのに驚く。八重河内川が流れ込む遠山川の右岸を見ると、山の上の方にも人家が点在するのが眺められた。食事の内容は粗末でも、なかなか充実した一時が過ごせた。
 
 
古い国道の分岐
 
 ところで、八重河内川に架かる橋の袂より分岐する今の道は、どうにも馴染がない。こんなに立派な道だったろうか。青崩峠や兵越峠への道は、もっと狭くて寂しくて、こんな開けっ広げで開放的だった筈がないのだ。しかし、今年(2011年)に越えた以前は、11年以上前の2000年のことになる。特に何でもない分岐点のことなど、もうぜんぜん覚えていない。
 
 そこで、写真を頼ることになる。今しも分岐を一つ曲がったジムニーが、その場で停まる写真が一枚あった(下の写真)。道路の左手には石像が立ち並び、停められたジムニーの横には、「秘境 信州遠山郷」と題した観光案内の看板が立つ。また、道路の右手には、「皆で進めよう 国道一五二号 改良整備 南信濃村」と書かれた看板が立つ。分岐した道の方向を国道152号と言っている。また、この写真を撮った前後関係からも、これが青崩峠や兵越峠へと続く道の可能性が高い。
 

以前の兵越峠への分岐と思われる (撮影 2000. 5. 3)
ジムニーの左横には「秘境 信州遠山郷」の看板
道路右手の看板は国道改良整備の看板
 道路脇の看板 (撮影 2000. 5. 3)
 
 国土地理院の1:25,000地形図を調べてみると、現在の分岐より少し和田市街地側に、細い道が一本分かれている。近くに諏訪神社があるらしい。その角を入って数100m程で、現在の峠に通じる国道152号に合流している。
 
 今回撮った写真を見直してみると、通行止の看板が立っていたその奥に、左へと入る道が写っていた(右の写真)。これが昔の国道152号ではないかと思う。10年以上も経てば、峠道もいろいろと変わっていくものだ。
 
 そう言えば、最初に兵越峠を越えたのは1991年のことであった。もう20年にもなる。その頃と比べると、峠を静岡県側に下った所で、兵越峠の道は大きく変わっているのだった(後述)。

通行止の看板が出ていた (撮影 2011. 5. 7)
看板の奥に左に入る道がある
それは旧道か?
 
 
国道152号の続き
 
 食事を終え、峠道を進む。左から旧道と思しき道を合した後、道は川沿いに真南に進路を変え、その頃からセンターラインはなくなる。国道らしさはほんの一時だった。このことからも、センターラインがある区間は、最近になって改修された道だと思う。元々川沿いの堤防にあった道にでも、拡張工事を施し、新しい国道としたのではないだろうか。
 
 その後、道はあっと言う間に狭くなる。八重河内川の狭い谷に沿い、古(いにしえ)の秋葉街道が細々と通じている。この道を通って人々は遠州の秋葉神社に詣でた。また、遠州側からは信州に通じる道として信州街道とも呼ばれた。

国道152号を峠方向に見る (撮影 2011. 5. 7)
 

早くも狭い道となる (撮影 2011. 5. 7)
 谷が狭いので、ここに幾筋もの道が築かれることはなかったと思う。よって、現在の車道がほぼそのまま昔の秋葉街道に重なるのではないだろうか。沿道にはここに一軒、そこに一軒と、人家がポツリポツリとある。昔から代々そこに住む方も居るのだろうか。
 
 左に上る急坂が一本あった。そちらには梅平と言う集落名が地図にある。沿道には人家が集まった大きな集落は見られないが、少し山に入った所に人家がかたまっているようだ。
 
 「水窪」と書かれた小さな看板が、峠方向に矢印を向けていた。
 
 下記の様な言葉を並べた国道の改良を願う看板が出てくる。
 
 歴史の道が21世紀へ向け走り出す
 三遠南信自動車道
 仮称「兵越トンネル」早期完成 飯田市
 
 古い所有の道路地図に、その仮称:兵越トンネルが点線で描かれているのがあった。かえって最近の道路地図にはなくなっている。
 
 「お食事処 いろりの宿 島畑」という看板があった。確か、この先兵越峠への道を分け、青崩峠へ向かう道の途中にある。
 
 左に大きな道を分岐した後、橋を渡る。八重河内川の本流である。先ほどの分岐はその八重河内川沿いを東の梶谷集落方面へと延びている。八重河内川の上流は梶谷川と呼ぶようだ。橋上からは、八重河内川に沿って比較的大きな集落があるのが見える。
 
 その後道は、南の青崩峠より流れ下って来た支流の小嵐川に沿うようになる。川沿いと言っても、道と川の間には木々が林立し、川面などはほとんど望めない。非常に狭苦しく感じる。
 
 車道は徐々に谷の高みを走るようになる。いかにも山の斜面を切り開いて車道を開削したように思える。こうなると、昔の秋葉街道かどうかはあやしいものだ。古の街道は、もっと川に近い所に通じていたことだろう。
 
 この付近の沿道には人家もぱったり絶って、ひと気が感じられない。そんな中、2本ほど分岐する道がある。どちらも左手の山の中へと登って行き、その先には此田(このだ)と呼ぶ集落があるようだ。兵越峠の道もゆくゆくはそちらに登り、それらの道と合流するようになっている。

八重河内川を渡る (撮影 2011. 5. 7)
川沿いの斜面に比較的大きな集落が見える
 

左に分岐 (撮影 2011. 5. 7)
2tを越える車両は通行できません」とある

また左に分岐 (撮影 2011. 5. 7)
直進は「国道152号 浜松方面」とある
左は村道、復員狭いとある
 
 2つ目の分岐には、直進方向に「国道152号 浜松方面」と看板があった。確かに国道152号は、浜松の中心市街まで通じる国道だが、こんな山奥で、太平洋に面し浜名湖があるあの「浜松」と言われても、なかなかピンとこない。
 
 ところが、考えてみると、峠を越えた静岡県側は、昔は水窪町(みさくぼちょう)だったが、今は浜松市になっている。天竜区だそうだ。「浜松方面」とは、峠の直ぐ向こうのことでもあった。
 
 それにしても、昨今の市町村大合併はすさまじい。海沿いから山の中の長野県との境までが一つの浜松市ということか。確か、静岡市もご同様だ。この目の前の青崩峠さえ、国道152号は不通でまともに越えられず、兵越峠が代わりに越えていると言うのに、「国道152号 浜松方面」とはやっぱり合点がいかない。せめて「水窪方面」とでもしてもらいたい。
 
 
青崩峠への分岐
 

青崩峠への道 (撮影 2011. 5. 7)
この時はパジェロ・ミニで兵越峠を目指した
 それまでほとんど谷沿いを真っ直ぐ来た道は、左手の山腹を上るべく、左への狭いヘアピンカーブを曲がりだす。そのカーブの途中から、尚も小嵐川上流方向へと狭い道が分岐する。それが青崩峠への峠道の続きだ。兵越峠の道は、ここで秋葉街道の本線から分かれ、別ルートで峠越えを目指すこととなる。
 
 国道が不通の峠道とは、なかなか興味をそそられる。この「峠と旅」では、バイクや車で訪れた峠しか掲載していないが、青崩峠は唯一の例外だ。ここばかりは山道を歩いて登った峠である。
 
 今年(2011年)の5月に訪れた時は、災害復旧工事が行われていたようで、工事関係の看板が多く立っていた(左の写真)。青崩峠方向の2Km先で通行止とのこと。
 
 分岐に立つ青い看板には下記の様にある。
 
兵越峠      青崩峠
国盗綱引公園  秋葉街道遊歩道
 ←            →  ×
至 浜松市水窪町        島畑
ゆっくり走ろう遠山郷
 
 2000年に来た時は、「至 浜松市水窪町」のところが「至 水窪町」であった。

分岐に立つ看板 (撮影 2011. 5. 7)
 

青崩峠への道 (撮影 2000. 5. 3)
この時はジムニーで青崩峠の麓まで進んだ
小さな橋を渡った先に国道標識もある

青崩峠方向の国道標識 (撮影 2011. 5. 7)
地名は「飯田市 小嵐
2000年の時は「南信濃村 小嵐
 
   
直進行止りの看板
(撮影 2011. 5. 7)     (撮影 2000. 5. 3)
どちらも行き先が「飯田」になっている
 兵越峠方向から降りて来ると、そのまま直進する道が青崩峠方向になるので、間違えないようにする為か、青い看板で直進方向に「×」が描かれている。わたしはそんなことは初めから百も承知だ。
 
 20年前にバイクで兵越峠を下って来た時、ここでバイクを降り、あまり撮らない写真を撮っている(左下の写真)。兵越峠さえも写していないのにだ。それほど、この道は気になった。当時はまだ峠より道そのものに関心があった。
 
 結局、その時バイクでは入り込まなかったが、国道標識の下に「この先6Km 通行不能」と書かれてあった。この「通行不能」と言う文字が、後々わたしをいろいろな険しい峠道に誘(いざな)うこととなったのだ。
 

青崩峠への道 (撮影 1991. 4.21)
この時はホンダのバイクAX−1で兵越峠を越えて来た
国道標識の下に「この先6Km 通行不能」とある

通行不能の看板 (撮影 1991. 4.21)
 
 過去2回、この分岐では必ず立ち止まっているが、今回は峠道担当の妻の運転である。勿論狭いヘアピンカーブもあっという間に乗りこなす腕前だ。咄嗟に現れた分岐を狙って、こちらは必至にカメラのシャッターを7回ほど切る。最近、手振れ防止機能付きのデキカメに買い換えた。その機能が発揮される機会が多いこと。
 
 
本格的な登り
 
 青崩峠への道を分けた後、兵越峠の峠道は小嵐川沿いを離れ、本格的な登りを開始する。この先、小嵐川の東の斜面をジグザグに登って行くのだ。どんどん高度を上げ、木々の背を越えて対岸の山並が望めるようになる。
 
 しかし、沿道にはまだまだ人家がポツリポツリと点在する。地図上には「柿平」と言う集落名が見られる。
 
 少し北へ戻っていた道がまた南に反転する所で、此田からの道が合流していた。

一路北へ進む (撮影 2011. 5. 7)
視界が広がる
 

沿道の集落 (撮影 2011. 5. 7)
比較的大きな家屋(宿屋か)

沿道の集落 (撮影 2011. 5. 7)
広い畑がある
 
 大きくジグザクに上る道が、再び北を向く頃になると、さすがにもう人家は見られなくなった。登って来る途中にあった集落が左下に望めるようになる(下の写真)。
 

下の集落を望む (撮影 2011. 5. 7)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
見えるのは柿平の集落だと思う
 

左に林道此田線の分岐 (撮影 2011. 5. 7)
 未舗装の林道が北西方向へと一本分岐していた。林道標柱には「此田線」とあった。此田の集落まで引き返せる道だろうか。
 
 何度か大きなジグザグを繰り返し、高度を上げてきた道が、概ね南の峠方向を向いて突き進むようになる。終始、右手に小嵐川の谷を望む。
 
 
大野田神社
 
 正確な場所は分からないが、この近辺の車道から少し林の中を入った所に、神社があった筈だ。この兵越の峠道は、それ程いい眺めがある訳でなく、走っていてちょっと物足りないのだ。それで、路傍にあった神社の看板を目にし、気まぐれに立寄ったことがある。

大野田神社 (撮影 2000. 5. 4)
 

神社の脇のトイレ (撮影 2000. 5. 4)
何でこんなも物を写したのか、
今となってはなぞである

大野田神社の看板 (撮影 2000. 5. 4)
(上の画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます)
 
 
見晴らしの良い場所
 

対岸の峰を望む (撮影 2000. 5. 4)
木々がうるさい
 以前は、このまま兵越峠まで、あまり展望も利かず、これと言って印象のない峠道であった。時折、木々の間から小嵐川の対岸、天龍村との境をなす峰が少し望めるくらいである。
 
 ところが、今年(2011年)に訪れてみると、まるで覚えがない開けた場所に出た(右の写真)。周辺の樹木がきれいに伐採され、見晴らしが良い。その裸になった山の斜面を九十九折れの道が登って行く。谷を挟んだ対岸の山々も、すっきり見渡せる。
 
 道筋は以前と変わりなく、ただ周辺の木々がなくなっただけだと思うが、こうも峠道の印象が変わるものかと思った。景色はいいし、あらわになった九十九折れの道も、峠道らしい険しさを醸し出している。なかなか良い演出といった感じだ。峠を目の前にして、これで気分も高まる。

開けた場所に出る (撮影 2011. 5. 7)
九十九折れで左手の山を登って行く
 

九十九折れの途中 (撮影 2011. 5. 7)

九十九折れをほぼ登りきった所 (撮影 2011. 5. 7)
 
後方を振り返る (撮影 2011. 5. 7)
なかなか壮観な眺め
 
 
青崩峠方面を望む
 
 兵越峠に登りつつも、気になるのは青崩峠の存在だ。右手の小嵐川の谷を南に詰めた所に、青崩峠があることになっている。兵越峠より3、4Kmほど更に奥に位置するので、峠の鞍部が直接望めはしないようだ。ただ、対岸の山腹に青い岩肌が見られるようになる。青崩峠のいわれともなる、青みを帯びた岩石だ。険しさの象徴である。

青崩峠方向を望む (撮影 2000. 5. 4)
青い岩肌が見える
 
青崩峠方向を望む (撮影 2011. 5. 7)
残念ながら峠の鞍部は見えていない
 
 
峠間近
 
 道は一度南の最も青崩峠に近い位置まで行って、そこから2Kmほど北へ引き返して峠に着く予定だ。
 
 Uターンして間もなく、右に林道が一本分岐した。地図上では、山腹を青崩峠方向に少し行って、途中で止まっている。
 
 北に戻り始めてからは、道の右手にそびえるのは静岡県との県境を成す峰である。峰は峠がある鞍部に向かって徐々に低くなり、道はその鞍部を目指して徐々に登って行き、両者が出合った所が峠である。
 
 道が林の中に入り、ほとんど視界がなくなったと思うと、間もなく峠に到着だ。
 

この先でUターン (撮影 2011. 5. 7)
この付近が最も南を通過する地点

北へ戻り始める (撮影 2011. 5. 7)
前方で右に林道が一本分岐
右手の山は県境の峰
 
 
峠に到着
 
兵越峠 (撮影 2011. 5. 7)
手前が長野県、奥が静岡県
右手にこじんまりと県境看板が立つ
 

峠の手間にある広場 (撮影 2011. 5. 7)
この時は工事車両が停まっていた
ここを右に曲がって峠

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
バイクが置かれているが、これはわたしのではない
20年前には、こうしたバイクでわたしもここを訪れたのだが
 
 兵越峠は林の中にある。
 
 特に長野県側から登って来ると、見通しが利かない森の間で何度かカーブを曲がり、何が何だか分からない内に、左手にちょっと坂を上って、広場がある(上の写真)。そこを直角に右に曲がると、その先が100mくらいの直線路となる(右の写真)。何だかおかしいなと思っていると、その直線路の途中に控えめな県境看板が立ち、やっとここが峠だと認識する。
 
 峠のある直線路は、両側をコンクリート壁で挟まれ、道幅も狭いので、路肩に車が停められる余裕はない。そこで、バックで先ほどのカーブまで引き返し、4WDの車ならためらうことなく急坂をちょっと登って広場に車を停めることとなる。
 
 妻は見事にこの罠にはまった。と言っても、わたしもあれよあれよと言う間に、何の指示も出せず、広場の入口を通り過ぎていた。以前に訪れてから、もう11年ともなるので、兵越峠がどんな峠だったか、咄嗟には思い出せなかったのだ。
 
 尚、峠を静岡県側に越してしまうと、直ぐにカーブの急坂になり、尚更車を停める機会を失うことになる。

峠のある直線路 (撮影 2011. 5. 7)
長野間側から静岡県方向に見る
左手が広場
 
 
峠の様子
 
 兵越峠がちょっと分り難いのには他にも理由がある。峠の部分が明確な標高のピークになっていないのだ。広場があるカーブ付近から、徐々に下っているような気もする。峠の部分は一応切り通しの形態になっているが、やはりどことなく峠らしくない。
 
 兵越峠は長野と静岡の県境に位置し、今は全線舗装だが、以前のツーリングマップ(1988年5月発行)には「荒れた暗いダート」と形容された未舗装林道の峠であった。それなりの峠である筈が、わたしにとってはどこか少し格が下がる峠に思えていた。それはやはり峠が「美しくない」からであろう。
 
 また、本来この信州と遠州の国境にあるべき峠は、青崩峠なのである。その峠に車道が通じていないと言っても、長野、静岡の両県から国道152号が向かっているのは、青崩峠の方角である。兵越峠はどうも青崩峠の代替品、脇役というイメージが付いて回る。この「峠と旅」でも11年前に早々と青崩峠を掲載していた。この兵越峠も当然、頭の中にあったが、こうして掲載するのはずっと後になってしまった。
 

峠手前の長野県方向 (撮影 2011. 5. 7)
背後に車を停めた広場
左が峠方向

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
広場の上から見る
 

峠の長野県側を見る (撮影 2011. 5. 7)
道の向こうに車を停めた広場

峠とその先の静岡県側を望む (撮影 2011. 5. 7)
コンクリート壁の変わり目が県境
 

上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
 峠部分の直線路は、南北に伸びる県境の峰にほぼ直角に通じている。峠の県境近くに、南の尾根上に登る階段がある。そこに登って峠を見渡してみる(上の写真)。やはり峠らしい味わいがあまり感じられないように思う。
 
 
国盗りの国境
 
 そんな兵越峠であるが、この峠はテレビのニュースにも取り上げられるちょっと世に知られた峠でもあった。それもほとんど毎年と言っていいほどテレビに出てくる。一般に峠が世間で注目されることなど滅多になく、わたしの峠の趣味も極めてマイナーで世間に認知されることなど全くない中、この兵越峠は、わたしがあまり好きでないのをよそに、世の中ではクローズアップされる存在なのだ。
 
 それは、この峠で行われる「国盗り」のイベントの為だ。甲斐国の武将・武田信玄が、遠江(とおとうみ)の徳川家康の領地に兵を進めた折、この峠を信玄の別働隊が越えたことに因んだものだ。毎年ここで信州側(長野県)と遠州側(静岡県)に分かれて綱引きをする。そして勝った方が国境を相手側に少しずらすことができるのだ。勿論、正式な行政上の県境をずらすことはできないので、仮の国境を移動する。
 

静岡県側から見る県境 (撮影 2011. 5. 7)
県境看板には「長野県 飯田市 南信濃」とある

長野県側から見る県境 (撮影 2011. 5. 7)
県境看板には「静岡県 浜松市天竜区 水窪町」とある
 
 つい先日も、NHKのニュースを何気なく見ていると、この国盗りの催しが行われたそうで、今年は信州側が勝ったそうだ。国境は1mほど遠州側に移動するとのこと。
 
 その国境の正体とは、「国境」と書かれた一枚の木製の標識である。峠の南側に立つ県境看板の後ろに立っている。標識の下には、一本の角材が横に渡して固定され、中央に「境」とあり、その左右に一、二、三と数字が書かれている。「境」とある位置が丁度、県境看板の真後ろだ。わたしが訪れた時には、「境」の位置に標識が、県境看板の裏から覗くように、ちょっと斜めに刺さっていた。今頃は、向かって左の静岡県側の「一」の位置に、標識は移動していることだろう。
 
国盗りの国境 (撮影 2011. 5. 7)
横に渡した角材には、境、一、二、三と書かれている
 
 この国盗りの行事は、もう長いこと行われているようで、2000年に訪れた時も、ほぼ同じような標識があった。ただ、今とは道の反対の北側に立っていた(下の写真)。
 

国盗りの国境 (撮影 2000. 5. 4)
この時は道の北側にあった

国盗りの国境 (撮影 2000. 5. 4)
この時の国境は、静岡県側「三米」の位置にあった
 
 国境の標識に並んで「兵越峠」と書かれた看板が立つ。それによると標高は1,168mだ。尚、地名は「静岡県水窪町」とだけあり、長野県側の地名は記されていないのが気に掛かる。
 
 「国境」の標識と「兵越峠」の看板に挟まって、「告」と書かれた立札がある。
 告!!
この標識国盗り
綱引合戦に於て
定め国境である
行政の境に非ず
水窪町         
南信濃村  商工会青年部
 
 こちらには両県の地名が載っている。2000年の時にあったものと、少し文句が変更になっている(右下の写真)。
 

国境 (撮影 2000. 5. 4)
左端の看板には下記のようにある
兵越峠
標高 1,168米
静岡県水窪町

「告」の看板 (撮影 2000. 5. 4)

この標識は国盗り
綱引き合戦に於て
定められた国境である
従って行政の境ではない
水窪町         
南信濃村 商工会青年部
 
 
青崩峠への山道
 
 峠を散策する上で、県境の長野県側の少し手前にある階段が気になる。南に続く尾根上に登っている。その階段を上がって峠の様子を見渡したりする。振り返ると、鉄パイプが鳥居のように組まれ、上から「青崩峠へ 遊歩道入口」と看板が下がっている。ここからほぼ尾根伝いに、青崩峠まで山道があるようだ。少しその方へ進んでみたが、良く整備された道が続いていた。ただ、ここから青崩峠まで4Km近くある筈で、た易く歩ける遊歩道ではない。
 

南の尾根に登る階段 (撮影 2011. 5. 7)
その奥に青崩峠への尾根道がある

青崩峠への道 (撮影 2011. 5. 7)
遊歩道入口
 
 
国盗り公園
 
 青崩峠への道が気になるのはわたしくらいなもので、実は階段を登ると、そこに山を切り開いて大きな広場があるのに驚く。ここは国盗り公園と呼ばれるようだ。ここが国境を決める綱引きの開場である。観客席や掲示板用の櫓らしき物が並んでいる。広場の中央の地面には、縄の線が等間隔に3本引かれ、この場所で綱引きが行われることをうかがわせる。
 
 初めてこの場を見た時、あまり事情が分らず、異様な感じがした。後になって綱引きのことを知り、合点が行った。公園は以前に比べ、だんだん整備されてきたように思う。
 

国盗り公園 (撮影 2011. 5. 7)
階段を背に広場の東側を見る
掲示板の櫓らしき物が立つ

国盗り公園 (撮影 2011. 5. 7)
階段を背に広場の西側を見る
観客席らしき物が並ぶ
 

国盗り公園 (撮影 2011. 5. 7)
車道の入口がある南側から見る

以前の綱引き会場 (撮影 2000. 5. 4)
 
 実はこの公園、入口は長野県側から峠に登る途中に既にあった。今の入口には「国盗り公園」と書かれた看板も立っているのだが、長野県側から登って来ると、その看板はあまり目立たない。何か支線の林道が分岐しているのかなと思う程度の入口である。

公園の南の端 (撮影 2011. 5. 7)
車道からの入口がある
側らに「国盗り公園」の看板が立つ
 

国盗り公園入口より下の道 (撮影 2000. 5. 4)

上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
この時はまだ国盗り公園の看板はなかったようだ
 
 
峠の広場
 
ようこそ 信州長野県へ (撮影 2011. 5. 7)
広場に上がる入口の右横に立て掛けてある(下の写真)
 
 昭文社のツーリングマップルや県別マップルでは、兵越峠の所に「峠の茶屋」と書かれてあるのを見掛ける。しかし、過去にも現在にも、それらしき建物を見たことがない。それに茶屋が示されている位置は、僅かだが峠の静岡県側に入った所である。その付近に茶屋が置かれたようなスペースはなかったと思う。
 
 もし茶屋があったとしたら、峠の長野県側にある、今回も車を停めたあの広場だと思う。少なくとも現在の兵越峠では、あそこが茶屋を建てる絶好の場所である。車道より一段高くなり、落ち着いて休める休憩地だ。
 
 現在、その広場には、左手にトイレがあり、右手の峠を望む所に「兵越峠乃由来」と題した看板がある。広場を突っ切って正面には、山の中へと作業道が一本延びている。折しも材木を運搬するトラックがその道を出入りし、広場の一角には切り出した木材が数10本積まれていた。

ようこそ 信州長野県へ (撮影 2011. 5. 7)
 
 この峠道沿線には、あまり設備らしい設備はなく、こうして峠にトイレがあるのは有り難い。改めて写真で見ると、そのトイレはちょっとした城か城門をイメージする外観をしていた(下の写真)。石垣に白い漆喰の壁や板戸を模している。春には桜の木が枝を伸ばし、ピンクの花が彩を添えていた。
 

広場のトイレ (撮影 2011. 5. 7)

11年前の写真 (撮影 2000. 5. 4)
 
 
兵越峠の由来
 
 兵越峠の由来については、広場にある看板が詳しい。簡単に言えば、武田信玄の兵が、元亀3年(西暦1573年)10月10日(旧暦)、この峠を越えたと言われるのが、その由縁であるとのこと。多分、国盗りの綱引きは、毎年10月10日に行われるのではないか。
 
 尚、調べた文献には、他にヒョウ(日傭(ひよう)人夫、日雇い労働者のこと)が越えたとか、ヒヨドリが越えたなどと、諸説があるようだ。
 

兵越峠乃由来 (撮影 2011. 5. 7)
(上の画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます)
標高は1,165米とある

兵越峠乃由来 (撮影 2000. 5. 4)
11年前の看板の様子
特に変わりはなさそうだ
 
 どうも、「ヒョー」とか「ヒョウ」といった言葉が峠名として伝わっていて、それを武田信玄の「兵」だとしたり、「日傭」とか「ヒヨドリ」だと想定しているようだ。もし元亀3年より前から、そうした呼び名があったとしたら、「兵」ではないことになる。
 
 現在では、ほとんど「兵」だと言われていて、兵越とか兵越峠と書かれている。しかし、何か他の「ヒョー」だったら面白いことだろうにと、天邪鬼(あまのじゃく)に思ってしまう。そんな意味からも、この峠を「ヒョー越」と書いておくと、なぞが残って面白い。何か得体の知れない「ヒョー」が、かつてこの越えたのだと。
 
 
峠の標高
 
 峠の標高については、「兵越峠乃由来」の看板には1,165mとあり、国盗りの看板には1,168mとある。文献では1,180mとの数値も見られた。
 
 国土地理院の1:25,000地形図を読むと、峠は1,150mと1,160mの等高線の間にあり、少なくとも現在の車道の峠は1,150m台と言うことになる。道は正に峰の鞍部を越えており、最も低い位置だ。車道の開削で峰は削り取られ、元の峠より低いのは当然だが、10m近くも低くなったとは考え難い。もし、1,165mという数値以上が元の峠を指すなら、この鞍部ではなく、峰のもう少し高い位置に峠があったことになる。まあ、標高といった数値は、必ずしも正確なものが初めから分っていた訳ではなく、間違いもあるだろうし、あまり考え過ぎないことか。
 
 ただ、実際に武田信玄の兵が越えた峠の部分は、一体どの場所だろうかと思う。同じく武田信玄が越えたと思われる地蔵峠には、車道の開削を逃れ、何となく旧道らしい跡が見られた。こちらの兵越峠は、車道の陰に旧道は全く掻き消されてしまったのだろうか。
 
 
看板類
 
 兵越峠には看板が多い。公共的なもの以外にも、食事や宿、温泉などの案内看板が立つ。ほとんどは長野県側に関するものだ。
 
 中でも、「ようこそ 遠山郷へ」と題した看板は古そうで、現在国道418号となっている道が、まだ県道表記になっていたりする。今は広場に上がる手前に立っているが、11年前には別の看板が立っていた(下の写真)。
 
 尚、遠山郷については、赤石峠(あかいし)で触れている。参考まで。
 
 林に囲まれた峠なので、そこらに立つ看板を見るばかりで、眺めが楽しめる景色はほとんどない。ただ、トイレがある休憩広場から西の方角を見ると、木々の間から山の稜線が僅かに覗く。小嵐川の対岸の峰である。処々に岩肌が露出し、険しい様相だ。青崩峠の道が通る谷間である。それに比べるとこちらの兵越峠は、やはり落ち着いた雰囲気が漂う。木々に囲まれ、森に守られているかのようだ。

ようこそ 遠山郷へ  (撮影 2011. 5. 7)
(上の画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます)
 

信濃の国 みちしるべ (撮影 2000. 5. 4)
飯田市を中心にした広範囲な観光案内の看板
広場に上がる入口近くに立っていた
この看板はもう今はないようだが

ようこそ 遠山郷へ (撮影 2000. 5. 4)
これはどこに立っていたか不明
 
 
峠を静岡県側に下る
 

峠から静岡県側に下りだしたところ (撮影 2011. 5. 7)
この先で右に急カーブ
 県境が引かれている直線路の静岡県側には、左手に静岡県の看板があり、3段に静岡県、浜松市、天竜区と書かれている。浜松市になっているので、新しい看板だ。水窪町の名前がないのが寂しい。
 
 直線路の先は、左に少しカーブし(左の写真)、その先で右にほとんどヘアピンカーブする。その途中に幾つかの看板が並ぶ(下の写真)。「郷土の誇り 美しい山河と森林の恵み 水窪町」などと書かれた、水窪町関係の看板が見られる。
 
 その看板の中に「水窪町内案内図」と言うのがある。まだ草木トンネルが描かれてなく、古い物だ。峠から水窪町役場まで21.5Kmなどと書かれている。その中で峠から水窪町に下る道を、「町道白倉川線」としてある。
 

ヘアピンカーブの途中にある看板(一部) (撮影 2000. 5. 4)
左端が水窪町内案内図の看板

水窪町案内図 (撮影 2000. 5. 4)
町道白倉川線と書かれている
(上の画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます)
 
 文献によると、兵越峠に林道が開通したのは昭和47年(1972年、または昭和48年とも)のことで、「林道兵越線」が通じたとある。一方、一部に「白倉川林道」(または白倉林道とも)との記述も見掛けた。兵越峠から南の静岡県側に流れ下るのは水窪川の支流・草木川で白倉川などではない。誤植かとも思ったが、こうして看板に町道白倉川線と出ているので、そういう名でもあるようだ。
 
 尚、草木川の東、尾根一つ越えた所に本流の水窪川が流れる。少なくとも国土地理院の地形図では水窪川と記されている。その川を白倉川と書いている道路地図も多い。兵越峠から北東に延びる稜線上に白倉山(1,851m)なる山がある。そこは水窪川の源流域に当たる。
 
 それにしても水窪川、しいては白倉川沿いにも道が通っているが、そちらではなく、草木川沿いの道を白倉川林道と呼んだのはどうしてか、疑問が残るのであった。
 
 
草木川に沿う道
 
 峠下の急カーブを曲がると、その先に真一文字に下っている小さなV字形をした谷が現れる。水窪川の支流・草木川の谷だ。峠から走り出してまだ100mか200mの距離で、もう川沿いの道となったのだ。標高1,100m以上の高所を越える峠道が、峠直下で既に川沿いになると言うのは珍しいことと思う。長野県側が小嵐川を遥か下に望んでいたのとは対照的で、それ程こちら側の地形が穏やかなことを示しているのだと思う。
 
 草木川はほぼ真南に向かって一目散に流れ下り、それに沿う道も九十九折りのような屈曲はほとんどなく、素直に走り下って行く。向いている方向が南なので明るい雰囲気がし、谷の遥か先には山並が望める。
 

草木川に沿う道 (撮影 2000. 5. 4)
11年前の様子
左手に砂防ダムが見られる

草木川に沿う道 (撮影 2011. 5. 7)
 
 道は終始草木川の右岸を行く。ある程度下って来ると、谷は深まり遠望が利かなくなった。崖崩れがあったのだろうか、法面工事箇所を通過する。
 
 勾配はそれ程急ではないが、直線的に下っているので、車のスピードコントロールが難しい。「長い下り坂 エンジンブレーキ使用」の看板が、ドライバーに注意を促している。
 

法面工事箇所 (撮影 2011. 5. 7)

坂道の注意看板 (撮影 2011. 5. 7)
長い下り坂 エンジンブレーキ使用
 

左に林道針間野線の分岐 (撮影 2011. 5. 7)
 左に林道分岐があった。針間野線とある。草木川を渡って、南東方向の森の中に登って行く。地図を見る限りでは、東の水窪川上流部の谷を隔てる尾根の途中まで登って、行止りとなっている。未舗装だが利用されている様子が窺える道だ。木材などの運搬に使われているのだろう。
 
 地図ではこの分岐以前、道が草木川沿いの谷に入って直ぐ、草木川の上流(東)方向に分岐があった筈なのだが、どう言う訳か、それには全く気付かなかった。どちらにしろ、こうした分岐はどこにも抜けられないと思う。
 
 その後、道が2車線路となる少し手前にも、また一本狭いながら舗装の道が、やはり左手に分岐していた。その道の方向には遠木沢と言う地名が、針間野林道の先には針間野と書かれた地名が地図上に見られる。はたして今はその付近に人家などがあるのだろうか。
 
 道は相変らず大きな屈曲もなく、やや単調な感じがする1.5車線の舗装路が下って行く。沿道に目を引くような物はほとんどない。勿論、人家などもほとんど見掛けない。
 
 青崩峠に国道が通じてない現在、この細々とした道が、この付近で長野・静岡の両県を繋ぐ唯一の車道である。そのことを思うと、随分と心細い気がする。大きく地図を眺めると、この東には南北に連なる赤石山脈(南アルプス)の南端がまだ続き、車道などは寄せ付けない。長野県と静岡県を繋ぐ車道は、ここよりずっと西に流れる天竜川沿いの県道が、一番近い存在だ。
 

道の様子 (撮影 2011. 5. 7)
路肩に広場

道の様子 (撮影 2011. 5. 7)
木のトンネル
 
 
人里の雰囲気
 
 峠を下って来てから5Km程で、何となく人里の雰囲気がしてくる。道路脇に小屋などが建っている。右に堀切林道が分岐し、その角に人家かと思ったら、神社が建っていた。しかし、神社があるなら人里が近い訳だ。
 

道の様子 (撮影 2011. 5. 7)
沿道に小屋などが現れ、
そろそろ人里の雰囲気がしてくる

右に分岐 (撮影 2011. 5. 7)
林道掘切線とある
右上に人家かと思ったらが神社だった
 
 ところが人家などないまま、道が真新しい2車線路になった。道の両側はしっかりガードレールに囲われ、こうなると古くからある人家など沿道に出てきそうにない。
 
 この道の改修工事は、この先にある草木トンネルの開通と関係している。草木トンネルは比較的新しい物で、少なくとも1993年の時点では、まだ工事中であった。

2車線路となる (撮影 2011. 5. 7)
 

左手に山の駅 (撮影 2011. 5. 7)
 左手に「山の駅」なる看板が出てくる。草木川沿いが小さな公園に整備され、ベンチや動物のオブジェがこじんまり置かれている。川を橋で渡った先に移動式のトイレも1基、見られる。昼食は峠の反対側の八重河内川の河原で済ませて来たが、そうした休憩にはこちらの山の駅もなかなか良さそうだ。
 
 現在の2車線路ができる前は、道はもっと川に近い所を通っていたと思う。山の駅などは、その旧道の跡地を利用して造られたのではないかと想像する。わたしが旧道を通ったのは、過去に一度きりで、1991年4月21日、そこをバイクで通って峠に登って行った。旧道の様子など、もう何も覚えていないが。
 
 
旧道への分岐
 
 快適な車道は、そのまま進めば草木トンネルに入ってしまう。2車線路になって間もなく、分岐を示す看板が左手に立つ。それには、直進方向(トンネル方向)に「天竜 佐久間」、右に分岐する方向に「水窪ダム」とある。その水窪ダム方向こそが、以前からあった兵越峠の峠道である。
 
 旧道方向に分岐した道は、暫く本線の右に併走した後、下に降りて行き本線の下をくぐり、左手の草木川沿い方向に進んで行く。
 
 草木トンネルは、旧南信濃村の北縁にある地蔵峠を村側に降りて来た所にできた矢筈トンネルとセットとなり、三遠南信自動車道と言う壮大な自動車専用道の開発の一環となっている。確かに以前(2000年)に来た時は、分岐を過ぎた先の道には、自動車専用道を示す看板が立っていた。

右手に旧道への分岐 (撮影 2011. 5. 7)
 
 自動車専用道ともなると、走行にはいろいろ制限が付く。以前は「125cc以下の車両及び自転車 歩行者は通行できません」の看板が確かに立っていた。
 
 三遠南信自動車道の「三遠南信」とは、三河、遠江、南信濃の3国を現し、それらを繋ぐ自動車道構想があったようだが、少なくとも兵越峠部分を見ても、今はそれらしい道の開発は行われていない。
 

右に旧道が走る (撮影 2011. 5. 7)
旧道はこの先、下をくぐって左方向に出る
道路の左端には歩道を示すものか、グリーン色の路肩がある

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
左手に自動車専用道を示す看板が立つ
 
 現時点(2011年)では草木トンネルの道は自動車専用道ではなく、一般的な国道となっている。国道番号は152号かと思ったら、474号らしい。長大な自動車道構想は道半ばだが、矢筈トンネルや草木トンネルが無料で一般に開放されているのは、地元住民には便利だろうし、旅人にとっても通る道の選択肢が増え、良いことではないだろうか。
 
 右の旧道への道が下にもぐって見えなくなると、草木ランプ橋を渡り、その先で道路の左手に隣接して「非常駐車帯」なるスペースが現れる。草木川に張り出すように設けられたテラスのような場所だ。「非常」と付くからには、あまり勝手に立寄ってはいけないかもしれないが、そこはちょっとした展望場所である。自動車専用道ではなくなってからは、道路の左端にグリーン色で歩道を示す路側帯も設けられ、そのテラスまで歩いても行ける。
 

左手に非常駐車帯 (撮影 2011. 5. 7)

非常駐車帯付近から峠方向を望む (撮影 2000. 5. 4)
 

北島の集落 (撮影 2000. 5. 4)
北島は「きったしま」または「きったじま」と呼ぶようだ
下を走るのが昔の峠道
 その展望テラスからは、直ぐ下に集落が望める。北島の集落だ。兵越峠から降りて来て、最初に見る人家だと思う。それも車道をただ走っていただけでは見られない。車道から下を覗く必要がある。
 
 旧道方向に分岐した道が、草木トンネルの道の下を通った後、その集落内に続いているのが望める。それが昔の峠道であった町道白倉川線と言う訳だ。
 
 狭い草木川の谷の下流方向を眺めると、山肌に旧峠道が細々と下っているのが見える。草木トンネルができる以前は、皆、その道を通ったのだ。
 
 
草木トンネル
 
 非常駐車帯の直ぐ後には草木トンネルの坑口が待っている。トンネルの看板には「長さ 1311m」とあり、「草木トンネル」は「Kusagi Tunnel」と書かれてもいた。「草木」を「くさぎ」と読むのは、草木川も同じだろうか。
 
 トンネル手前に立つ道路標識には、「天竜60Km 佐久間30Km」とか、以前は「水窪10Km」ともあった。
 

草木トンネル (撮影 2011. 5. 7)
左端に歩道がある

以前の草木トンネル (撮影 2000. 5. 4)
歩道はない
 
 草木トンネルの出現は、兵越峠の道の一部がトンネル化されたと言う単純なものではなく、峠道のコースを大きく変えるものだった。草木トンネルを抜けた先は、もう草木川沿いではなく、西の尾根一つ越えた先にある翁川(おきな)の谷間である。翁川は同じく水窪川の支流だが、青崩峠方向から流れ下って来たものだ。よって、草木トンネル以降は、青崩峠のテリトリーとなる。
 
 翁川側の坑口を出た直ぐ下を、青崩峠への道が立体交差する(右の写真)。細い道だが、そちらが本来の国道152号である。

草木トンネルの翁川側坑口 (撮影 2000. 5. 4)
青崩峠の道が下を交差する
 
 
草木トンネル以降の新道
 

草木トンネル以降 (撮影 2011. 5. 7)
中央に橋脚
 草木トンネルを通る新しい道は、元々自動車専用道を目指して造られたので、在来の一般道とは繋がっていない。トンネルを抜けた以降も、新道は高みを通り、そこに交わる道はない。青崩峠への道が、下を流れる翁川の対岸(左岸)を行く筈だが、それもあまり見えない。
 
 上りと下りの車線が少し離れ、その間に何本かの橋脚だけが立っていた。この部分にインターチェンジでも計画されていたのだろうか。そのコンクリート橋脚は新道開通当時からあったが、いまだに使われる様子はない。
 

峠方向を望む (撮影 2000. 5. 4)
下を翁川が流れる
この写真でははっきり見えないが、
青崩峠への道が左岸の川沿いを通る

左の写真よりもう少し下流側 (撮影 1993.11.27)
新道建設途中の頃(道はまだ未舗装)
下を走るのは青崩峠への道
 
 兵越峠の道と青崩峠の道を繋ぐ新道は、全長でも3Km程だ。草木トンネルが1Km強の長さだ時から、新道の多くがトンネルの中である。国道474号とやらも、ここではそれだけの存在だ。
 
 下を流れる翁川を斜めに渡り、道は左岸の方に出る。するとその先で国道152号に接続する。
 

新道もそろそろ終り (撮影 2011. 5. 7)
道の前方に道路標識が出てきた
その向こうに池島の集落が見える

左とほぼ同じ場所 (撮影 1993.11.27)
新道建設途中の頃
右下に翁川の流れを見る
 
 
青崩峠分岐
 
 新道が地上に降り立つ所に道路看板が出ていて、直進が国葬152号で、天竜、佐久間に通ずることを示し、また、左に鋭角に分岐する道があることを示している。そちらの方向に青崩峠とある。
 
 分岐を峠方向に見ても、しっかり青崩峠を示す看板が立っている(下の写真)。車道が通じない峠なのに、こんなに大々的に宣伝していいのだろうかと思う。それより「通行止」とか「通行不能」の看板を大きき掲げておいた方がいいんじゃないだろうか。
 
 新道が始まっている所にはちょっとした集落がある。池島の集落だ。これより青崩峠方向にはもう人家はなかったと思う。
 
 2000年に来た時、この分岐点付近には三遠南信自動車道の看板がまだしっかり出ていた。北は飯田市街に始まり、南は浜松市の浜名湖方面にまで達する路線図が描かれていた。草木トンネルを含めた県境越えの区間は青崩峠道路と呼ばれている。県境を通過する部分は兵越峠の下なのだが、どういう訳か道の名前は青崩峠道路になっている。やはり、兵越峠は格下の扱いであった。

道路看板 (撮影 2011. 5. 7)
左に青崩峠への道が分岐する
 

分岐を峠方向に見る (撮影 2000. 5. 4)
左が草木トンネルへ、右が青崩峠へ
真ん中にバス停が立ち「池島」とある

青崩峠方向から分岐を見る (撮影 2000. 5. 4)
右上の道が新道
 
 青崩峠道路の詳しい路線部図があって、それによると、兵越峠の旧水窪町側の道を町道白倉川線と書き、旧南信濃村側の道を「村道ヒョー越線」と書いてあった。また、水窪川の上流は白倉川と書き、その川に沿う道を国有林道白倉山線としてあった。
 
 
水窪市街
 
 池島集落近くの分岐以降は、それこそもう青崩峠の道なので、ここでは割愛することとする。
 
 ところで、草木トンネルの手前で別れた以前の兵越峠の道はどこへ行ったかと言うと、水窪町の市街へ直接向かっていた。草木トンネル方面から翁川沿いを国道152号で下って来ると、水窪川沿いに開けた水窪町の市街が現れる。
 

国道152号上より水窪町市街を望む (撮影 2011. 5. 7)
下を流れるのは翁川
この少し先で水窪川に注ぐ

左とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 5. 4)
 
 市街にはJR飯田線も通り、山間部にしては大きく発展した町である。本来、飯田線は天竜川沿いを通っていたが、佐久間ダム建設に伴い飯田線の付け替えが行われ、この水窪に迂回したとのこと。水窪駅もでき、それ以後、住宅が増え発展していった。
 
 その市街を抜ける国道152号を進むと、左の翁川を渡って行く道が分岐する。道路看板にある行き先は水窪ダムとある。兵越峠から水窪町側に下って来た旧町道白倉川線は、ここに出て来るのだ。

左に水窪ダムへの分岐 (撮影 2011. 5. 7)
 

分岐にある道路看板 (撮影 2011. 5. 7)

分岐方向に見る (撮影 2011. 5. 7)
目の前の橋は翁川を渡る
向こうに水窪川を渡る飯田線の鉄橋が見える
道はその線路の下をくぐる
 

分岐を青崩峠方向に見る (撮影 2000. 5. 4)
この時、橋の欄干はコンクリートだが、今は鉄になっていると思う
 国道152号から水窪ダム方面に分岐する橋の袂には、以前には、山王峡温泉とか、白倉原生林・山王峡、スーパー林道・兵越峠の案内がされていた。今ではあまり宣伝していなそうだ。
 
 
 
水窪川沿いの旧道
 
 兵越峠の本来の峠道は、草木トンネル手前から別れ、草木川沿いから間もなく本流の水窪川沿いになり、その川沿いを市街まで通じている。沿道には山王峡温泉・しらかば荘などがあった筈だが、草木トンネル開通で道は寂しくなったことだろう。 
 
 残念ながらその旧道区間に関しては、あまり写真を持っていない。途中、東の水窪ダムや山王峡への分岐があるが、その部分を撮ったものが数枚ある程度だ(下の写真)。
 

右に水窪ダムへの分岐 (撮影 2000. 5. 4)
兵越峠方向に見る
左端の看板には直進方向に「山王峡温泉 兵越・南信濃村」
右折方向に「水窪ダム」とある

左の分岐に接近した写真 (撮影 2000. 5. 4)
直進方向に「しらかば荘」の看板
右に「水窪ダム、スーパー林道」の看板
 
 水窪ダムによってできた水窪湖は、峠道からは直接眺めることはできない。水窪ダムと書かれた分岐を入って少し奥まった所にある。載せる写真がないので、峠道に直接関係ないが、古い水窪湖の画像を掲載する(下の写真)。ダム湖畔を通り、その先山住峠(やまずみ)を過ぎて天竜スーパー林道へと道は続く。 
 
水窪湖 (撮影 1991. 4.21)
ダムの堰堤より眺める
バイクで走り回っていた頃の懐かしい写真
 
  
 
 兵越峠は1991年にバイクで初めて越えてから、ほぼ10年おきに都合3回越えている。青崩峠の方が格が上だとか、峠の姿があまりうつくしくないとか言っているが、青崩峠が通れない限り、兵越峠を越える以外、道はない。
 
 越えれば越えたで、それなりに愛着が湧いてくる。草木トンネルが開通したり、八重河内川沿いの入口の様子が少し変わったりと、峠道の変貌も気に掛かる。また10年後ぐらいに越えてみたいものだ。
 
 ただ、もうバイクに跨る気力も体力もなく、今後10年も経てば、それこそ妻の運転で連れていってもらう羽目になるかもしれない。峠道の変貌より何より、自分自身の変貌が気掛かりな兵越峠であった。
 
  
 
<走行日>
・1991. 4.21 水窪町→南信濃村(AX−1)
・1993.11.27 水窪町側の新道分岐へ(峠は越えていない、パルサー)
・2000. 5. 4 南信濃村→水窪町(ジムニー)
・2011. 5. 7 飯田市→浜松市(パジェロ・ミニ)
 
<参考資料>
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年4月2版7刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2010年2版21刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 22 静岡県 2006年2版20刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成3年9月1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 22 静岡県 昭和57年10月8日発行 角川書店
・国土地理院 2万5千分1地形図 伊那和田、水窪湖
・国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図
・その他(インターネットでの検索など)
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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