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美馬峠 (隧道)
  みまとうげ (ずいどう)  (峠と旅 No.265)
  徳島県西端に位置する最奥の小さな峠道
  (掲載 2016.10. 6  最終峠走行 2015. 5.29)
   
   
   
美馬峠隧道 (撮影 2015. 5.29)
見えているのは徳島県三好市山城町粟山側の坑口
トンネルの反対側は同市山城町上名
道は林道浦の谷(平)線
隧道の標高は約735m (地理院地図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
粟山側坑口はかなり傷んでいて、周辺には木々が覆いかぶさり、かなり寂れた感じがする
一方、上名側は至って普通のトンネルの様相だ
 
 
 
   

<旧山城町(余談)>
 今は三好市の一部になっているが、山城町(やましろちょう)と聞いてその町が分かる人は、地元や周辺の住民以外には少ないことだろう。 しかし、大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)と聞けば、多くの者が知っているのではないだろうか。日本の代表的な峡谷であり、四国屈指の観光名所となる。 四国最大の河川・吉野川が東西に連なる四国山地を南北方向に割ったように横断する部分に位置する。 峡谷の東側(吉野川右岸)が徳島県旧西祖谷山村(にしいややまそん)で、西側(左岸)が旧山城町となる。現在、どちらも広い三好市に含まれる。 旧山城町側に四国を南北に結ぶ大動脈・国道32号が通じ、大歩危観光のメインとなる船下りの発着場も旧山城町側にある。 旧山城町とは大歩危・小歩危を有する有名な観光地なのであった。
 
 その旧山城町は徳島県の最も西に位置する。何しろ、愛媛県と高知県の両方の県境に接し、四国山地の只中にある。 大歩危・小歩危の観光地がなければ、そう誰もが好んで立寄る土地ではないだろう。今回の美馬峠はその旧山城町の中でも最も西に通じる。 美馬峠の先は、更に高知県との境の峠(名無し)を越えて林道が続くので、美馬峠はその前哨戦といったところだ。 ただ、県境を越えて往来する車は極めて少なく、美馬峠も一体誰が通るのだろうかと思えてしまう。

   

<所在>
 峠の東側は三好市山城町上名(やましろちょうかみみょう)、元の三好郡山城町の大字上名(かみみょう)だ。ここでは簡単に上名と記す。西側は同市山城町粟山(やましろちょうあわやま)で、同じく単に粟山(あわやま)と記す。峠はこれらの大字境になる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地理院地図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠の東側には藤川谷川(ふじかわだにがわ)が流れ下り、東流して大歩危の上流側で吉野川に注ぐ。 西には白川谷川(しらかわだにがわ)の支流が下って間もなく本流に注ぎ、北東に流れて小歩危の下流で吉野川に注ぐ。よって峠は藤川谷川と白川谷川の分水界に位置し、峠道全ては吉野川水系に入る。
 
 藤川谷川も白川谷川もやや冗長的な名だが、これが正式な河川名となるようだ。単に藤川谷、白川谷と呼ぶこともあるらしい。 古いツーリングマップでは更に簡略化されて「藤川」、「白川」と出ていた。この付近の地では「川」よりも「谷」を使うことが多いようで、それだけ険しい地形と言えようか。

   

<峠名>
 峠にはトンネルが通じていて、その扁額に「美馬峠隧道」とある。隧道上部の峰の鞍部が美馬峠と呼ばれる峠だったのだろう。
 
<「美馬」の名>
 同じ徳島県には美馬郡があり、かつては美馬町もあった。そこの美馬温泉に泊まったことがある。今は広く美馬市が誕生している。 この「美馬」は古代からの郡名だそうだ。しかし、美馬郡の郡域は三好市の東に位置し、三好市西端の美馬峠と何か関係あるようには思われない。 「美馬」は一般的に「良馬の産地」を示すとも言われるが、それもどうだろうか。 この小さな美馬峠については文献(角川日本地名大辞典など)の記述も全く見付からず、残念ながら何の情報もない。

   
   
   
上名より峠へ 
   

右手に道の駅・大歩危 (撮影 2015. 5.29)

<道の駅・大歩危>
 吉野川左岸に通じる国道32号を大歩危方面へと進む。最近、大歩危の少し手前に道の駅・大歩危ができた。道の駅は気軽に立ち寄れるのがいい。 しかも、川沿いのテラスから吉野川の峡谷が眺められるらしい。ただ、国道沿いの駐車スペースはあまり広くない。峡谷が険しいので、敷地に余裕がないのだろう。 一方、建物は比較的大きく、「ラピス大歩危」とか「妖怪屋敷」などと看板がある。
 
 三好市の観光パンフレットによると、ここは物産館や妖怪屋敷、石の博物館などが併設される複合施設で、大歩危・小歩危や祖谷地方の新しい観光拠点となっている。 また、山城は児啼爺(こなきじじい)のふるさとだそうで、妖怪などの多くの伝説が残ることから、この「妖怪屋敷」が設けられたようだ。大歩危・小歩危に加えて、「妖怪」が新しい観光資源となった。

   

<藤川橋>
 藤川谷川が吉野川に注ぐ所に赤いアーチの藤川橋が架かっている。この藤川谷川合流点から下流約2kmが大歩危としての景勝地と言われる。その藤川橋の袂から美馬峠へと通じる県道272号・上名西宇(にしう)線が始まっていることになっている。


藤川橋 (撮影 2015. 5.29)
橋の手前左に藤川谷川右岸沿いの道が分岐
こちらの道の方が広かった
   

<大歩危(余談)>
 美馬峠は1993年5月4日に一度訪れたことがある。高知県側から県境を越え、続いて美馬峠を越えた。その後、藤川橋に至り、歩道より大歩危の峡谷を眺めたのだった(下の写真)。

 
藤川橋より大歩危を望む (撮影 1993. 5. 4)
奥に見える建物は船下りの乗り場
今は少し様子が違う
   

<二十歳代の旅(余談)>
 大歩危は更にその10年ほど前の二十歳代に、高知の桂浜などと共に四国を一人旅した時に訪れている。 その時期はまだ車の免許を持とうなどとは全く思っていなかった頃で、大きな旅行鞄を抱えてひたすら鉄路と路線バスで移動した。 土讃本線の大歩危駅に降り立ち、大歩危を観光した後、次は祖谷渓(いやけい)有料道路(現在無料、県道45号)沿いにある平家屋敷民俗資料館を観光することにした。 しかし、平家屋敷に寄った後、もうこの日は路線バスの便がない。大歩危駅で調べてみると、代わりにコミュニティーバスがあるとのこと。一般者も使えるようだ。
 
 平家屋敷の見学後、コミュニティーバスが来るまでまだ随分時間がある。仕方なく、屋敷の縁側に座り、のんびり吉野川の谷の山並みを眺めて待った。 そろそろバスが来る頃になって屋敷下の道路沿いのバス停に立っていると、坂道を登って一台のマイクロバスがやって来た。 ところが、そのまま目の前を通り過ぎて行ってしまったのだ。
 
 これには慌てた。この後は祖谷トンネルを越えた先の祖谷川沿いに向かう予定だったが、こんな何もない路傍に置き去りにされては、全く身動きが取れない。 まさか重い鞄を持って祖谷トンネルを歩いて越える訳にもいかない。スマホも携帯電話もない時代に、容易には連絡が取れない。
 
 咄嗟に通り過ぎて行ったマイクロバスを追って走り出すと、数10m向こうでやっとバスは停車した。そしてどうにかそのバスに乗ることができたのだった。 このバス停から乗る客は滅多に居ないようで、ドライバーはついうっかり見過ごしてしまったようだった。その後は、無事にかずら橋などの観光を済ませた。
 
 30歳代で免許を取ってからは、バイクや車で四国を何度か訪れている。1998年には今の妻と一緒に再び大歩危を観光する機会を得た。 車やバイクは何と言っても移動の自由があるのがいい。鉄道やバスの時刻に拘束されずに済む。待ち時間の無駄もない。 それに旅行の荷物を手で持って歩くことから解放されることが、歳を取ってからは何よりに思えるのだった。

   

船乗り場の建物より大歩危を望む (撮影 1998.12.29)

船より国道32号を見る (撮影 1998.12.29)
切り立つ峡谷にへばり付くように道が造られている
   

<県道272号>
 さて、国道から分岐する県道272号を探すのだが、国道沿いにはその県道分岐を示す道路看板が一切ない。 四国きっての観光名所・大歩危峡を目の前にして、今回は右手の吉野川には目もくれず、左手の山側ばかりを気にする。 手持ちのツーリングマップルでは藤川谷川左岸沿いに目的の県道が通じる筈なので、藤川橋を渡った所で左折する。その道には「野鹿池山」(のかのいけやま)と看板があった。

   

左に藤川谷川左岸沿いの道が分岐 (撮影 2015. 5.29)
藤川橋を渡っている途中

野鹿池山の看板 (撮影 2015. 5.29)
   

<野鹿池山>
 野鹿池山(1,294.4m)は四国山地の中にあり、三好市と高知県大豊町(おおとよちょう)との県境にそびえる。藤川谷川の水源域にあるが、本流は美馬峠の方が近い。頂上近くに野鹿池と呼ばれる湿地帯があり、シャクナゲの群生で知られるそうだ。

   

「妖怪の里」の看板 (撮影 2015. 5.29)

<妖怪の里>
 分岐の角に、昔ながらの赤いポストに並んで、「妖怪の里」と県道方向を指差す看板が立つ。最初、それが何のことだか分からなかったが、道を進めるに従い判明した。

   

<ホテル大歩危峡>
 藤川谷川左岸沿いにはホテル大歩危峡・まんなかという温泉宿の大きな建物が立ち、その脇に狭い道が通じる。本流の吉野川に負けず劣らず、藤川谷も険しい。それで道も狭いのだろう。
 
<大歩危橋と新藤川橋>
 国道の分岐から200m弱進むと、右岸沿いの道が橋で渡って来る(下の写真)。しかも橋は2本隣り合って架かっている。手前の古い方が大歩危橋、2車線路の新しい方が新藤川橋だ。


ホテル大歩危峡の脇を通る (撮影 2015. 5.29)
   

大歩危橋 (撮影 2015. 5.29)

新藤川橋 (撮影 2015. 5.29)
国道分岐からここまで2車線路が通じる
   

<どちらが県道?>
 新藤川橋の誕生で、国道分岐からこの地点まで、藤川谷川右岸には2車線路が通じたようだ。しかも、左岸を来るより距離がグンと短い。
 
 元々、県道272号は絶えず藤川谷川の左岸に通っていた。しかし、新藤川橋の出現で事情は変わったようだ。地理院地図では新藤川橋を渡る右岸の方を県道表記としている。 ただ、地図によってはまだ左岸を県道としたり、どちらとも県道になっているものもある。それはともかく、広くて短い右岸側の道の入口に何らかの看板が欲しかった。 後で写真を確認すると、そちら分岐の角に「妖怪の里」の案内看板が立っていたようだ。看板を写真に撮って置きたかった。

   

<三好新道(余談)>
 古い大歩危橋は藤川谷川を100m程遡った所に架かるが、今の国道32号の前身となる車道は、この位置まで迂回していたそうだ。 吉野川の峡谷は険しく、古く藩政期には毎年墜落死する者が多数あったと伝わる。 後の明治22年(1889年)に三好新道という車道が開削されるが、吉野川沿いを真っ直ぐに通せなかったらしく、その道が大歩危橋辺りまで遠回りしていたらしい。 それが今では新藤川橋を事もなげに車が往来している。
 
 現在の大歩危橋は新藤川橋ができた後に新しく架け替えられたもので、旧道そのものではないが、かつての吉野川沿いに通じた三好新道の名残とも言える。 国道から大歩危橋までの右岸沿いに人家などの建物はなく、左岸がしっかり通じていれば、右岸の道筋は不要と言えなくもない。 しかし、新藤川橋に伴う改修で、県道272号としては唯一、センターラインがある2車線路区間の誕生に繋がった。僅か100m余りではあるが。

   

<新藤川橋付近>
 左岸を遡って来た道の方が、新藤川橋を渡って来た2車線路に合流する格好になっている。これからしても、やはり右岸が新しい県道であろう。少なくとも、美馬峠方面から下って来れば、自然と新藤川橋を渡ってしまう。
 
 どういう訳か、橋の付近は車が沢山駐車されていた。釣り客だろうか。あるいはホテルの関係者か。
 
 新藤川橋の先(峠方向)は直ぐに道幅が狭くなる。そして2度とセンターラインにはお目に掛かれない。


新藤川橋の先 (撮影 2015. 5.29)
この先直ぐに道幅減少
   
   
   
新藤川橋以降 
   

<妖怪のモニュメント>
 新藤川橋から300mくらい行くと、妖怪のモニュメントが立っていた。「ヤマジチの在所」とあり、右に分岐する道を指している。分岐には「山爺の里入口」ともあった。

   

沿道に妖怪のモニュメントが立つ (撮影 2015. 5.29)
右に水無集落への道が分岐する

「ヤマジチの在所」 (撮影 2015. 5.29)
   

<妖怪の里>
 看板にあった「妖怪の里」というのは、一つの場所を指すのではなく、こうして県道272号沿いに点在しているモニュメントなどを指すようだ。 右岸側入口にも「のびあがり」という妖怪が立っていたようである。山爺(ヤマジチ)は2体目か。県道272号は「妖怪ロード」とも名付けられているらしい。
 
<水無>
 「ヤマジチの在所」と指差される道は藤川谷川左岸の山腹を蛇行して登り、その先に大字西宇(にしう、にしゅう)の字水無という集落があるようだ。 美馬峠の東側は大半が上名(かみみょう)の地であるが、藤川谷川下流の1.3kmくらいの間、左岸は西宇となる。その水無集落が山爺の在所なのだろう。

   

<沿道の様子>
 その後も次々といろいろな妖怪モニュメントが目を楽しませてくれる。いつもながらの寂しい峠道とはちょっと趣向が違う。
 
 藤川谷は依然深く、川面は車道よりずっと下にある。沿道に平坦地は少ないがポツポツ人家は点在する。途中、山城茶業組合・製茶工場と看板がある建物の脇を通る。山城は妖怪以外にもお茶で知られるのだろうか。


「千万両」の猫など (撮影 2015. 5.29)
   

山城茶業組合 (撮影 2015. 5.29)

製茶工場 (撮影 2015. 5.29)
   

 妖怪モニュメントはいろいろな種類の物がいろいろな場所にある。藤川谷川の川の中にある大きな岩の上にも見掛けた。 「妖怪の里コース」という散策路が右岸へと延びているようだった。 またモニュメントとは別に、左岸から藤川谷川に流れ込む支流の谷の名が、「空谷」とか「拝床谷」と看板に書かれているのが面白い。こうした細い支流は地形図などではまず名前が載らない。

   

川中の岩にある妖怪モニュメント (撮影 2015. 5.29)

右の看板には「拝床谷」とある (撮影 2015. 5.29)
   

山腹に人家が見える (撮影 2015. 5.29)

<山腹の人家>
 県道沿いに並ぶ人家は本当に少ない。藤川谷は細く切り立っている。家屋を造るスペースは見当たらない。すると、前方の山腹に人家が見られた。 地形図を眺めると、川沿いよりも左岸や右岸の山腹により多くの人家が点在していた。前方に見えた人家は、左岸上部にある津屋集落の一部のようだった。

   

<児啼爺>
 これまでの妖怪モニュメントとは違って立派な像や碑が立つのが児啼爺(コナキヂヂ、コナキジジイ)である。2001年11月、「藤川谷の会」による建立で、京極夏彦書による碑文が刻まれている。三名村字平に児啼爺の言い伝えがあるとのこと。

   

児啼爺の像や碑 (撮影 2015. 5.29)

児啼爺の碑 (撮影 2015. 5.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<上名>
 碑文にある三名村(さんみょうそん)は明治22年(1889年)〜昭和31(1956年)の村名で、下名・上名・西宇の3か村が合併して成立している。
 
 それ以前の江戸期からは上名村があり、明治22年から三名村の大字、昭和31年からは山城町の大字となる。上名は「かんみょう」とも呼ばれるようだ。 碑文にもそうあるので、地元ではもっぱらそう呼ばれているのかもしれない。 「上名」の由来は文献(角川日本地名大辞典)によると「かつて土佐(高知県)との交流が多く、土佐側から見て下の集落(下名)より奥地にあったため名付けられたという(三名村史)」とのこと。 ただ、現在の大字下名の地域は、吉野川に沿って上名より上流側に位置する。高知県側から見て、下名より上名の方が奥地という位置関係とは思われない。 尚、高知県側の大豊町には立川下名(たじかわしもみょう)という大字があるが、この「下名」の奥ということかと思ったりする。
 
 現在、この上名の地と高知県との行き来は少ないが、かつては交流があったことがうかがえる。文献でも阿波・土佐の国境にあたるところから国境警備の要地とされてきたとしている。
 
 上名には内野尾、津屋、平、平上、羽瀬、尾又の集落があるとのこと。これらの集落は地形図に記載があり、平(たいら)集落はこの児啼爺の像が立つ位置よりもう少し上流側の左岸山腹に見られる。文献では明治8年(1875年)に分教場が置かれたとある。

   

妖怪の休み場 (撮影 2015. 5.29)

<妖怪の里>
 この旧山城町を「妖怪の里」としたのは、この児啼爺が発端ではないだろうか。 最近亡くなられた水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」で、児啼爺は「一反木綿」や「砂かけ婆」などと並ぶ準レギュラー的な存在にあり、広く世間に知られる妖怪のひとりだ。 この知名度を生かし、大歩危・小歩危などに次ぐ観光資源としたように思える。 三好市の観光ガイドには、児啼爺の像の近くに紅葉の名所・「藤の里」公園があり、毎年11月にそこで妖怪まつりが開かれるとのこと。児啼爺より上流側数100mの路肩がその公園らしかった。
 
<妖怪の休み場>
 児啼爺のはす向かい辺りに、「妖怪の休み場」というのがあり、以下のような説明が書かれている。 あの超然としていた水木さんも、今はこうして世の中を眺めているのかもしれない。
 
妖怪の休み場
 妖怪は出てきては、このような休み場でくつろぎ、人間社会の醜い出来事を覗き見していると言う!!

   

いろいろな妖怪 (撮影 2015. 5.29)

いろいろな妖怪 (撮影 2015. 5.29)
トラックが停められている所が「藤の里」公園らしい
   

<津屋集落>
 人家のない狭い谷を抜けると、少し開けた場所に出た。この付近の藤川谷川左岸は津屋と呼ばれるようだ。沿道や斜面の上の方にもポツポツと人家が見える。山腹へと登る道も分岐する。県道沿いにある集落としても比較的人家が多く密集している。


津屋集落を望む (撮影 2015. 5.29)
   
津屋集落内 (撮影 2015. 5.29)
この先左に上名影への分岐
   

対岸に「藤の里工房」の建物 (撮影 2015. 5.29)

<上名影>
 津屋集落内で左の藤川谷川を渡る分岐がある。道路看板には「上名影」(かみみょうかげ)と書かれている。 右岸の中腹にその集落はあるようだが、県道からはその人家は見えない。橋を渡った先に「藤の里工房」と看板がある建物が見えるだけだ。 更に上名影の先には尾又集落があるようだ。余談だが下名にも下名影という集落名がある。

   

津屋集落内 (撮影 2015. 5.29)

津屋集落付近 (撮影 2015. 5.29)
   

<津屋トンネル>
 津屋集落を過ぎると津屋トンネルが待っている。但し、ここは峠と呼べるような場所ではない。 藤川谷川が鋭いヘアピンカーブを描く所を県道がトンネルでショートカットしているのだ。 坑口左手の川沿い方向に狭い道が分岐し、「曲製茶工場入口」と看板が立つ。多分、その製茶工場への道はトンネル開通前の旧道の名残だろう。
 
 トンネルの扁額は「津屋トンネル」で「隧道」ではなく、それ程古い物ではないことになる。 経験上、昭和40年(1965年)頃以降の竣工は「トンネル」となっていることが多い。 ただ、この津屋トンネルは改修されている様子で、もっと古くから「隧道」が通じていたようだ。また、トンネルの左側の石碑は、製茶か何かの碑かと思っていたが、どうやらそれは藤川街道の顕彰碑だったらしい。残念ながら見逃してしまった。


津屋トンネル (撮影 2015. 5.29)
   
   
   
津屋トンネル以降 
   

<県道標識>
 国道32号からの分岐以降、この道が県道272号であることを示す物は皆無であったように思う。それが津屋トンネルを過ぎた先、やっと県道標識が一本立っていた。「上名西宇線 山城町津屋」とある。津屋トンネルを過ぎたら平集落かと思ったが、まだ津屋集落であった。

   

県道標識 (撮影 2015. 5.29)
この県道沿いではほとんど唯一の物

県道標識 (撮影 2015. 5.29)
   

<平集落>
 津屋トンネル以降約600mの区間、細く狭い谷が続き人家は皆無に等しい。寂しい県道が続く。それが竹林を過ぎた直後、この道沿いでは最も大きい集落に至る。多分、ここが平の集落と思う。国道32号から約3.5km入り込んだ地だ。

   

この先が平集落 (撮影 2015. 5.29)

平集落に入る (撮影 2015. 5.29)
   

<集落の様子>
 しかし、沿道に平坦地が広がる訳ではない。逆に「土石流危険渓流」などと看板が立つ。

   

平集落内 (撮影 2015. 5.29)

土石流危険渓流の看板 (撮影 2015. 5.29)
木栗谷とある
   

 道の山側には高い擁壁が続き、その上の方に人家が立つようだ。小学校があることを示す黄色い標識が立ち、急坂を上って行く。

   

集落の様子 (撮影 2015. 5.29)
石積みの擁壁が多い

集落の様子 (撮影 2015. 5.29)
学校を示す黄色い標識が立つ
   

 上名小学校とか上名保育所といった文字も見られる。人家やそうした施設へと登る階段や坂道が多くある。ただ、現在の地形図に学校は示されていない。既に廃校だろうか。保育所の反対側には、右岸の羽瀬集落への道が分岐する。

   

右手に「上名小学校」とある (撮影 2015. 5.29)

右手に「上名保育所」とある (撮影 2015. 5.29)
左手には羽瀬への分岐がある
   

<藤川谷の様子>
 絶えず県道の左手に流れている筈の藤川谷川は、谷が切れ込んで深い為、ほとんど川面を眺めるようなことはない。平の人家が少し途切れた先で、僅かに谷の景色が広がった。川は遥か下の方に流れていた。

   
県道から眺める藤川谷の様子 (撮影 2015. 5.29)
   

<再び平の人家>
 最初の平集落の密集地から少し離れて、また人家が並びだす。同じ平集落と思う。山腹の上部へ続く車道が登って行く。そちらにも人家があるようだ。

   
人家の様子 (撮影 2015. 5.29)
   

<県道終点>
 県道272号・上名西宇線はかつてはこの平が終点だった。地形図では今でも右手に分岐がある地点までが県道表記になっている(左下の写真付近)。 そこから美馬峠を越え、更に高知県との県境を越える所までが林道浦の谷平線であった。 以前、県境を越えた高知県側に平成3年11月付けの林道看板が立っていて、延長8,675mと出ていた。そこからすると、確かに地形図が示すところが県道終点、林道の起点と思われる。しかし、林道看板などは何もない。

   

平集落の様子 (撮影 2015. 5.29)
右手に分岐

平集落の様子 (撮影 2015. 5.29)
この付近が依然の県道終点
   

川沿いにも人家が見られる (撮影 2015. 5.29)

<林道浦の谷(平)線>
 最近の道路地図では県道は更に数km先まで延びている。また、林道も「浦の谷線」となって「平」が取れてしまった。元の浦の谷平林道は高知県側の浦の谷からこの平までだったが、県道が延び、その分林道が短くなって、林道起点が平ではなくなったのだろう。
 
 平集落の人家の間を抜けると、道は心持ち狭くなったように感じる。林道の名残かとも思った。かつては平までバス路線が来ていたようで、その関係もあろう。ただ、今回は一般的なバス停は見られず、スクールバスのバス停を見掛けただけだった。

   

<上平トンネル>
 延長された県道は湯屋トンネルに次いで上平トンネルをくぐる。こちらも湯屋トンネル同様、藤川谷川の屈曲をバイパスするものだ。 昔は川沿いに細々と藤川街道が通じていたのだろう。今は藪と化している。
 
 この上流左岸には「平上」という集落名が見られる。ところがトンネルの扁額をいくら見ても、「上平トンネル」である。これは紛らわしい。平集落の上手、上流側にあるのて「上平」なのか、あるいは「平上」の誤植かと思ったりする。


上平トンネル (撮影 2015. 5.29)
   
   
   
上平トンネル以降 
   

沿道の様子 (撮影 2015. 5.29)

<沿道の様子>
 上平トンネルを過ぎると、いよいよ寂しい雰囲気だ。人家どころか納屋の様な建物もほとんど見られなくなる。藤川谷は相変わらず狭く、林が多くて視界もない。

   

<平上への分岐>
 沿道に人家が一軒もないまま、右手に分岐が出て来た。地図上では平上へと登り、その先平集落へと続くようだ。


上平への分岐 (撮影 2015. 5.29)
   

分岐の看板 (撮影 2015. 5.29)

<分岐の看板>
 分岐にはふるさと創生事業による看板がポツンと立つ。かなり傷んでいて、読めない文字もある。 県道を手前方向には「大歩危」、右の分岐には「平」、県道を峠方向には「栗山、立川」とある。 ただ、一部の文字が欠けている。この後、同じような看板が時々出て来るが、それから推測すると、県道を峠方向は「野鹿ノ池 粟山 立川」とあったようだ。
 
 「立川」は県境を越えた高知県大豊町にある地名で、立川下名(たじかわしもみょう)と立川上名(たじかわかみみょう)がある。三好市と境を接するのは立川下名で、野鹿池山もその大字との境にある。

   

<林道沢谷線分岐>
 平上への分岐から間もなく、今度は左手に分岐がある。これまで幾つもの細い道が分かれていたが、ここには入口にしっかり黄色い林道看板が立ち、「林道 沢谷線」と道の名が示されている。

   

左に沢谷林道が分岐 (撮影 2015. 5.29)

浄谷橋が架かる (撮影 2015. 5.29)
   

<浄谷橋>
  分岐は直ぐに藤川谷川を渡る。ここでは川が身近な存在だ。橋は新旧2本架かり、下流側の新しい方には「浄谷橋」の銘と平成8年(1996年)5月竣工と書 かれている。字体が難しく、最初「浄石橋」かと思っていたが、書道を習っている妻に聞くと、あっさり「浄谷橋」だと分かった。

   

浄谷橋 (撮影 2015. 5.29)

平成8年5月竣工とある (撮影 2015. 5.29)
   

<分岐の様子>
 分岐には「野鹿池(シャクナゲ)」の看板が立ち、「へび石さん 金蛇大明神」と書かれた赤い旗がひらめく。 野鹿池山はこの分岐のほぼ真南に位置し、この沢谷林道がその山に向かって登って行くようだ。 地形図(地理院地図)では、道は山の手前で途切れているが、三好市の観光パンフレットでは、野鹿池にまで至り、また他の林道(多分粟山下名林道)と接続し、美馬峠の先で浦の谷林道に抜けられることになっている。

   

浄谷橋の上流側に古い橋が残る (撮影 2015. 5.29)

林道看板 (撮影 2015. 5.29)
後には「山火事 用心!」と看板が立つ
   

<野鹿池山の登山コース(余談)>
 野鹿池を訪れたり、野鹿池山の登山をするなら、この沢谷林道を行くのが最短のようである。文献では「国道32号の大歩危(おおぼけ)から藤川谷の平集落に入り、林道を進んで大谷橋を渡り、路傍の小さい鳥居から約3時間で山頂に達する」と登山コースを説明している。「林道」とは浦の谷平林道であろう。「大谷橋」とは、浄谷橋に並ぶ古い方の橋か、あるいは別に架かっていたかもしれない。また文献では「麓にはアメゴを養殖する野鹿池山荘もある」と記す。地形図では沢谷林道を少し進んだ先に建物が記されているが、どうだろうか。

   

<建物>
 久しぶりに沿道に建物が現れる。人家ではなく作業小屋などの類だ。しかし、本線の県道から右手の山側に細い道が時々分岐する。その先に人家があるようである。


右に人家への道が分岐 (撮影 2015. 5.29)
こうした分岐が幾つかある
   

沿道の建物 (撮影 2015. 5.29)

沿道の建物 (撮影 2015. 5.29)
   
ちょっと広々とした場所 (撮影 2015. 5.29)
   

 ちょっと開けた場所に出た。山側を望むと上の方に一軒の人家が見える。こうした人家がこの近辺に何軒か点在するようだ。国道32号からは藤川谷沿いに6km以上の道程を入り込んで来た地である。背後には高知県との県境を成す峰がそびえる。


人家を望む (撮影 2015. 5.29)
   

左に林道大池線分岐 (撮影 2015. 5.29)

<林道大池線分岐>
 沢谷線に続き、林道大池線が分岐する。地図上では、やはり野鹿池山方向に向かって伸びるが、山腹途中で道は途切れている。
 
<アメゴ養魚場(余談)>
 林道看板に並び、「大歩危アメゴ養魚場」と案内看板が立つ。こちらが文献に出ていた野鹿池山荘のことだったようだ。 どうも、野鹿池山への元の登山道は、こちらの道を使ったらしいい。また、林道大池線が藤川谷川を渡る橋が大谷橋だったかもしれない。 今の三好市のパンフレットでは、この大池線の記載はなく、沢谷林道が野鹿池山への登山道として描かれている。

   

<県道沿い最後の人家?>
 久しぶりに県道脇に大きな人家が見られる。住民が常駐して居るかどうかは分からないが、家屋は手入れが続けられている様子だ。 県道沿いとしては、ほぼここが最後の人家となる。ただ、大池林道方面にはより西の位置に野鹿池山荘などがあるようだ。この近辺一帯も平上集落の一部になるのだろう。

 
県道沿い最終の人家? (撮影 2015. 5.29)
   

 ここはもう、国道32号に出るより、高知県との県境の方が近い位置にある。高知県側にある集落との交流が盛んな時代なら、それなりにメリットがある立地だろう。 しかし、両県間の交通がほとんど見られない現在では、もっぱら徳島県最西端を競うような地である。今回訪れた時も高知県側の道が通り抜け出来ず、車での交通は途絶していた状況だった。

   
   
   
人家以降 
   

<県道終点付近>
 最終の人家の前を過ぎた先も、藤川谷川左岸沿いに代わり映えのしない狭い道が続く。谷も川も細く、視界が広がらない。 しかし、路面はきれいなアスファルトが敷かれている。そろそろ延長された県道272号の終点となる付近だ。 先程、人家が見られたが、この付近の住民を考慮し、ここまで県道を延長したのではないだろうか。ただ、県道標識など全くないし、県道に続く林道浦の谷線起点の看板なども見掛けない。道としては何の境目もなく続いて行く。

   

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
左手直ぐに藤川谷川が流れる

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
視界は広がらない
   

<林道小川平線分岐>
 珍しく左岸の山側へと延びる林道が分岐する。林道看板に「林道小川平線」とある。この時は全面通行止の立て看板が立ち、「これより先3.5KM 道路崩壊の為」と書かれていた。
 
 地図上では、平上や平、津屋集落の上部と連絡しつつ、白川谷川との分水界を越えて、粟山地区にまで通じている林道のようだ。峠越えとなる。 この分水界上には根津木越といった峠名が見られる。尚、児啼爺が居たと伝わるアザミ峠もこの辺りの峠らしい。下流側にある水無などとともに、雲海の展望地とのこと。


右に林道小川平線分岐 (撮影 2015. 5.29)
   

全面通行止の看板 (撮影 2015. 5.29)

林道看板 (撮影 2015. 5.29)
   

案内看板 (撮影 2015. 5.29)

<看板類>
 林道名が「小川平」となっているので、「小川」と「平」を結ぶ道かとも思ったが、「小川」の地名が付近に見付からない。
 
 林道看板の右横の大きな看板は、この付近の共有樹木に関するもので、その所在地は「三好郡山城町上名字櫓山(檜山?)」となっている。 今の地図上では、上名にある集落は平など数える程だが、かつて上名村には281もの字地があったそうだ。前を通る道は「林道浦の谷平線」と記してあり、県道延長前の古い看板か。
 
 ふるさと創生事業の道案内の看板(左の写真)は、文字はもうほとんど朽ちている。美馬峠方向に「野鹿ノ池、粟山、立川」とだけどうにか読めるが、小川平林道方向の行先などは全く欠けている。

   

<家屋>
 小川平林道を分岐した直ぐ先、左手に倉庫、右手の石垣の上に母屋らしい家屋が残っている。ただ、人の住む気配は全くない。もう手入れもあまり行われることがないようで、母屋へと登る道も雑草が伸びている。

   

家屋 (撮影 2015. 5.29)

右手に家屋に登る道 (撮影 2015. 5.29)
   

<藤川谷川上流部>
 地形図などではこの付近で藤川谷川を示す川の表記が途切れている。ただ、沿道の様子は特に変わりない。 道の左手の下にある筈の藤川谷川は、草木が多くて相変わらず川面は見えず、水が流れているのかどうだか、さっぱり分からない。ただただ、細い谷筋の左岸を峠方向に遡っているというだけだ。


沿道の様子 (撮影 2015. 5.29)
   

林業専用道 城山線 起点 (撮影 2015. 5.29)

<林業専用道 城山線>
 地図にない道の分岐が出て来た。左手のもう沢の様に細い藤川谷川(の支流?)を渡って南西方向に延びている。看板によると、城山線という林業専用道とのこと。 この分岐が起点となる。山城町にある城山線で、やや混乱する。高知県との県境辺りに、城山という山があるのかもしれない。

   

<林業専用道>
 詳しいことは分からないが、看板によると、この林業専用道とは「林道とは規格構造が異なる」とある。一般に林道と言っても色々あり、中には非常に険しい道がある。それよりも規格が下となると、かなり覚悟がいる道になるのだろう。
 
 ちょっと見は、コンクリート舗装がしてあり、バリケードも半分開いていて、入り込めない道ではない。しかし、分岐の近くには事務所の様な小屋も立っていて、林業関係の車両が出入りしている様子だ。


林業専用道の看板 (撮影 2015. 5.29)
   

<峠への登り>
 吉野川沿いの国道32号から峠まで約10km、その最後の1km余りでやっと峠道らしい坂道となる。城山線の分岐直後、道は反転して白川谷川との分水界となる尾根を登りだすのだ。峠までの標高差は100m強。

   
道の様子 (撮影 2015. 5.29)
   

道の様子 (撮影 2015. 5.29)

<登り道の様子>
 ただ、勾配は緩やかでカーブもそれ程急ではなく、全般的に穏やかな峠道になっている。道幅も川沿いだった時より幾分広い箇所も見られる。何のストレスもなく車は登って行く。

   
   
   
 
   

<峠に至る>
 標高はあまり高くなく高低差も小さい峠道とあって、残念ながら途中の眺望は全くない。その内、前方にトンネル坑口が見えて来る。 何となくあっさりし過ぎていて、峠に登り着いたという実感がない。徳島・高知の県境の峠を直ぐ背後に控えた前哨戦とも言える峠なので、その点は仕方ないところか。

   

上名側坑口が見えて来た (撮影 2015. 5.29)

路肩に砂利が積まれている (撮影 2015. 5.29)
   

<上名側>
 美馬峠隧道の上名側は、何の変哲もないトンネルの峠にしか見えない。坑口上部、数10mに白川谷川・藤川谷川の分水界となる尾根が通じるのが望める。 その鞍部をかつて美馬峠が越えていたのだろう。しかし、その旧峠へと登る山道はもうどこにも残っていない様子だ。トンネルの峠となって久しいと思われる。

   
上名側坑口 (撮影 2015. 5.29)
   

<上名側坑口>
 すっきりしたトンネルだ。坑口全体の佇まいも、上部に掲げられた扁額も、それ程の古さは感じられない。 ただ、扁額は石を彫った物ではなく、文字が浮いた造りで、金属製かと思われた。やや剥がれている。また、坑口周辺を捜したが、銘板などが一切ない。補修の折りなどになくなったのだろうか。

   

上名側坑口 (撮影 2015. 5.29)

トンネルの扁額 (撮影 2015. 5.29)
すっきりした字体
   

<トンネルの様子>
 見た目はそれ程古くないが、これはやはり補修によるものらしい。トンネル内部の天井などには、はっきり補修の跡が見られた。

   

トンネル内部の天井の様子 (撮影 2015. 5.29)
補修の跡が見られる

トンネル内より上名側を見る (撮影 2015. 5.29)
   

<上名側坑口周辺>
 上名側は坑口の少し手前にちょっとした広場がある。景色は望めないが、空が開けていて明るく、車を停めて休憩するには丁度よい。その一角に砂利が積まれていたが、トンネル補修用だろうか。去年(2015年)、雑誌のEPTAさんに出させてもらった時は、このトンネル前で撮った夫婦の写真を載せて頂いた。こんな寂し所で記念写真を撮る夫婦も珍しいことだろう。

 
上名側坑口周辺の様子 (撮影 2015. 5.29)
坑口を背に麓方向に見る
   
   
   
峠の粟山側へ 
   

<峠の粟山側へ>
 トンネルはそれ程長くなく(100m弱?)、真っ直ぐで先が見えている。照明などはないが暗い感じはしない。

   

トンネル内より上名方向を見る (撮影 2015. 5.29)

トンネル内より粟山側を見る (撮影 2015. 5.29)
   

<峠の粟山側>
 美馬峠は小さな峠だが、そこに通じる短いトンネルを挟んで、その両側の雰囲気は随分異なる。 粟山側はトンネルを出てからの切通しが深く、頭上に木々が覆いかぶさり、昼でも暗い感じだ。 その上、道の両側に続く擁壁が、一部で崩れていたり、コンクリート表面が苔むしていたりと、全く寂れた雰囲気である。やや薄気味悪いとも言える。こうした様相の峠は、嫌いではない。上名側が平凡な分、粟山側に峠としての特徴が見い出せる。

   
粟山側坑口周辺の様子 (撮影 2015. 5.29)
やや、薄気味悪い
   

<坑口の様子>
 更に坑口の景色がこれまたいい。補修は継続的に行われているのだろうが、坑口周囲の崖は崩れ易そうで、今にも峠の峰の中へと埋もれてしまいそうだ。

   
粟山側坑口 (撮影 2015. 5.29)
   

<扁額>
 上名側はやや安っぽい扁額が掛かっていたが、粟山側はしっかり石に文字が彫られている。多分、こちらが元の扁額ではないだろうか。現在、上名側にあるのは、何らかの理由で代用に掛けた物か。

   

粟山側坑口の様子 (撮影 2015. 5.29)

扁額 (撮影 2015. 5.29)
   

坑口左端にある銘板 (撮影 2015. 5.29)
一部は埋まっている

<銘板>
 粟山側には嬉しいことに銘板が残っている。「昭和四十五年三月竣工」とあるようだ。文字の彫り方が扁額と似ているので、扁額も昭和45年(1970年)竣工当時の物だろうか。
 
 しかし、経験上、扁額に「隧道」と書かれるのは昭和30年代くらいまでで、昭和40年代以降は「トンネル」とされることが多い。「津屋トンネル」がそうだ。「美馬峠隧道」とある扁額は、古くからあった物か、あるいは古い物を真似て「隧道」としたのだろうか。
 
<美馬峠隧道の経緯>
 どちらにしろ、昭和45年の竣工とは、元からあったトンネルの改築工事のことだったと思われる。 美馬峠の先、徳島・高知の県境を越え、両県を繋ぐ藤川街道が古くから通じていた。その利便性の為、比較的早い時期よりこの峠の下には何らかの形でトンネルが開通していたものと思う。
 
 昭和45年の銘板も、その一部が既に新しい擁壁によって埋まり掛けている。また、銘板周辺には古そうなコンクリートが露出している。美馬峠隧道は補修・改築の歴史を深く刻んだトンネルであり、今後もそれは続くことだろう。

   

<標高>
 文献などでの記述が見付からないので、地形図(地理院地図)の等高線から標高を読むしかない。トンネル坑口の標高は730m〜740mで、約735mと考える。トンネル上部にある鞍部の標高は760m余りで、これが古い美馬峠(旧峠)の標高と考える。

   

<旧峠>
 粟山側からも旧峠へと登るはっきりした山道は見られない。こうしたことからも、美馬峠にトンネルが開通してから、長い月日が経っているのではないかと想像する。 僅かに、車道の北側の斜面が比較的緩やかで、灌木を掻き分けながらなら峠までどうにか登れそうだった。 トンネルより水平距離で20m〜30m北側が、最も尾根が細っている部分となり、その辺りに旧峠を越える峠道が通じていたように思う。
 
 地形図上では、平上集落の上部に位置する根津木越付近から続いて、白川谷川・藤川谷川の分水界の尾根上に徒歩道が描かれている。その山道が旧峠を横切り、県境の峰まで達しているようだ。その道を行けば、今の美馬峠の様子が分かるのだろう。


停めた車の右手辺りから峠に登れそう (撮影 2015. 5.29)
   
   
   
粟山側に下る 
   

<粟山>
 美馬峠の西側は今は三好市山城町粟山で、少し前まで三好郡山城町の大字粟山であった。 白川谷川の中流域から上流域に掛けての広い範囲で、徳島と愛媛、徳島と高知との県境に接する。これら3県のほぼ境に三傍示山(さんぼうじやま)がそびえ、徳島県にとっては最も西に位置する。

   

道の左手に旧道らしき跡 (撮影 2015. 5.29)

<粟山側に下る>
 これまでと変わらない舗装路が粟山側に下る。勾配は緩く、地形的には上名側より穏やかな感じがする。
 
 旧道の跡らしい道筋が道の左手(南側)見える。現在の車道は直線的に切り開かれえているが、元の道はもう少し蛇行していたようだ。

   

<沿道の様子>
 美馬峠の道は、粟山側に下っても人家などは全く出て来ない。ここは粟山の中でも白川谷川最上流域であり、人が住む地からは数kmも離れている。遥々峠を越えて来ても寂しいばかりだ。


粟山側の道 (撮影 2015. 5.29)
   

<峠道の終点>
 美馬峠の粟山側の峠道は短い。美馬峠隧道から400m余りで大きな分岐に至る。 そこは白川谷川の支流沿いで、分岐を左に、その川を遡る方向に林道浦の谷(平)線の続きが県境を目指す。 道としては同じ林道なのだが、ここからは徳島・高知の県境の峰に向かってまた道は登り始めてしまう。そこで峠道としては別扱いにしたい。しかも、相手は県境越えの峠である。美馬峠はあくまでのその前哨戦の峠でしかない。

   

分岐の様子 (撮影 2015. 5.29)
林道浦の谷線を県境方向に見る

分岐の様子 (撮影 2015. 5.29)
右に林道ひびの谷線が分岐する
   

林道浦の谷(平)線を県境方向に見る (撮影 2015. 5.29)
僅かに「野鹿池(シャクナゲ)」と看板が立つ

林道ひびの谷線方向を見る (撮影 2015. 5.29)
何の看板もない
   

分岐の看板 (撮影 2015. 5.29)
古い看板は立川と粟山しか読めない

<分岐の様子>
 この分岐は至って寂しい。大きな分かれ道なのだが、看板が極端に少ない。人里離れた山の奥地なので、心細い限りだ。 美馬峠へと登る道の傍らに古ぼけた看板があり、浦の谷線の県境方向に「立川」、川沿いを下る方向に「粟山」とだけ読める。 また、「国道32号線」と矢印看板が美馬峠方向を示していた。県境方面から下って来た場合、この看板を頼りに美馬峠隧道経由で国道32号に出ることを勧めている。
 
<林道ひびの谷線>
 この分岐より分かれて白川谷川の支流沿いを下る道は、その道沿いで見付けた看板によると、林道ひびの谷線と呼ぶようだ。 その名からして、この支流は「ひびの谷」と呼ぶものと思う。支流沿いから白川谷川本流沿いになって林道粟山線に接続、更に県道271号・粟山殿野線を経由して白川口で国道32号に至る。
 
 よって、ひびの谷林道経由でも国道32号に出られるのだが、看板ではわざわざ峠越えとなる美馬峠方向を指していた。道程としては3km程短いのと、道が良いことが理由だろう。

   

<県境の峠>
 浦の谷線が越える県境の峠には名前がないので、ここでは仮に「浦の谷線の峠」と呼んでおく。 その峠の立場からすると、白川谷川水域のまま国道32号に至るひびの谷線経由の道の方が、本来の峠道のルートと言えそうだ。 しかし、古くから美馬峠を経て藤川谷川沿いに通じるルートが採用されて来たらしい。 阿波国と土佐国の間を歩いて旅していた時代、少しばかりの坂の上り下りより、とにかく距離が短い方が有利であったのだろう。それが車社会となった現在にも引き継がれている。


分岐を下流方向に見る (撮影 2015. 5.29)
左はひびの谷林道、右は美馬峠へ
   
   
   

 今回の旅は、本当は県境越えの「浦の谷線の峠」の方が目的であった。美馬峠の方は実のところ、ついででしかない。トンネルの扁額を見て、初めて峠名を知った程だ。 ところが、県境を越えた高知県側が通行止で、結局徳島県側ばかりうろうろする旅となってしまったのだ。「浦の谷線の峠」の峠道についてはあまり情報が得られなかったが、次回に少しは掲載しようと思う。その意味でもやはり前哨戦でしかない、美馬峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1993. 5. 4 粟山 → 上名 ジムニーにて
(1998.12.29 大歩危観光 ミラージュにて)
・2015. 5.29 上名 → 粟山 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 38 愛媛県 昭和56年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・三好市や徳島県の観光パンフレット
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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