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持越峠
  もちこしとうげ  (峠と旅 No.287)
  行止りの府道同士を繋ぐ峠道
  (掲載 2018. 1. 6  最終峠走行 2005. 1. 1)
   
   
   
持越峠 (撮影 2005. 1. 1)
手前は京都府京都市北区真弓善福
奥は同区雲ケ畑出谷町
道は府道107号・雲ケ畑下杉坂線
峠の標高は394m (地形図より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠は深い切通し
空は晴れているが、峠は暗い日影の中
この峠は京都市にあり、標高もさほどではないが、積雪はご覧の通り
(13年前のまだ30歳そこそこの後の妻が佇む)
 
 
 
   

<2つの持越峠>
 国土地理院の地理院地図(電子国土web)で「持越峠」と検索すると、2つの峠が出て来る。しかも、現在はどちらも京都市にあり、紛らわしい。 一方は、京都府京都市右京区京北宇野町(旧京北町)と同府南丹市日吉町中世木(旧日吉町)との境にある。今回はもう一つの方の持越峠である。

   

<所在>
 こうして京都府の峠を取り上げるのは珍しい。これまで周辺県との府県境にある峠、例えば堀越峠天谷峠などが僅かにあったが、京都府のしかも京都市内にある峠はかつてない。もう一つの持越峠より更に京都市街寄りに位置する。
 
 峠は北区雲ケ畑出谷町(くもがはた でたにちょう)と同区真弓善福(まゆみ ぜんぷく)との境になる。

   

<雲ケ畑出谷町>
 京都市は政令指定都市である上に、歴史が深く、地名の興り・変遷も複雑でなかなか理解できない。 まず、峠の東側の雲ケ畑出谷町は江戸期からの出谷(でたに)村で、中畑村・中津川村(古くは中塚河とも)を合わせ雲ケ畑三か村(畑三村などとも)と呼ばれていたそうだ。 明治7年、その3村が合併して雲ケ畑村が成立する。
 
 尚、雲ケ畑とは賀茂川(下流では鴨川と呼び、正式には全て鴨川)の上流域の広域地名となるようだ。雲ケ畑三か村は上流側より、出谷・中畑・中津川の順で位置する。明治22年、市制・町村制施行により雲ケ畑村は単独の自治体となる。大字は編成せず。
 
 下って昭和24年、雲ケ畑村は京都市と合併、かつての雲ケ畑三か村は京都市上京区(かみぎようく)の雲ケ畑出谷町・雲ケ畑中畑町・雲ケ畑中津川町となる。更に昭和30年、上京区の一部が北区となり、現在に至っているようだ。

   

<真弓善福>
 一方、峠の西の「真弓」は清滝川の支流・真弓川上流の地名になる。江戸期の真弓村で小野郷(おのごう)十か村の一つとなる。
 
 小野郷は戦国期以前の荘園名・小野荘から来ているようで、江戸期の広域地名となる。 その十か村とは、清滝川上流域の東河内・西河内・上・下・中(計5か村)、清滝川支流・真弓川流域の真弓・杉坂(計2か村)、賀茂川上流域の出谷・中畑・中津川(雲ケ畑3か村)となる。ただ、雲ケ畑三か村を含まない場合もあるようだ。
 
 明治22年、小野村(明治7年に上村・下村が合併して成立)・大森村(詳細不明)・真弓村・杉坂村(後に杉阪)の4か村が合併して小野郷村が成立、真弓は大字真弓となる。
 
 昭和23年、小野郷村は京都市上京区の一部となり、この時、かつての真弓村は真弓善福(まゆみぜんぷく)と真弓八幡町(まゆみはちまんちょう)の2町に分かれた。 八幡町が清滝川の上流側、善福が下流側となるようだ。昭和30年に北区になったのは雲ケ畑出谷町と同様である。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 京都市街を南北に流れる鴨川(かもがわ)は、御所の近くで高野川が合流する地点より上流側を慣例的に「賀茂川」(加茂川とも)と称すが、河川法上では全て「鴨川」で、地形図ではそうなっている。 しかし、一般の道路地図では「賀茂川」(加茂川)とすることも多い。鴨川は京都市街の南で本流となる桂川に注ぐので、慣例的な「鴨川」の流長は短い。 桂川の水域は京都府全体のほぼ南半部を占める広さだが、それでも淀川の支流に過ぎず、淀川水系の広大さをうかがわせている。
 
<雲ケ畑川>
 鴨川(賀茂川)の源流は、北区の北端にそびえる桟敷ケ岳(さじきがたけ、896m)の北麓で、始め祖父谷川として流れ、雲ケ畑出谷町で雲ケ畑岩屋川(岩屋谷川とも)を合し、そこから下流側を正式な鴨川と呼ぶようだ。
 
 しかし、文献(角川日本地名大辞典)ではしきりに「雲ケ畑川」という川が登場する。 賀茂川の支流だとか、祖父谷川・中津川に並ぶ源流の一つだとか、あるいは賀茂川の上流部が雲ケ畑川でその支流に岩屋川・祖父谷川があるだとか、出谷・中畑・中津川の雲ケ畑3か村は雲ケ畑川流域に位置するとか、いろいろである。
 
 まあ大まかに言って、祖父谷川が雲ケ畑岩屋川を合わせた後、出谷・中畑・中津川といった雲ケ畑3か村内を流れる鴨川本流の区間を便宜的に雲ケ畑川とも呼ぶのではないだろうか。すると、峠は雲ケ畑出谷町に於ける雲ケ畑川右岸に位置することとなる。
 
<真弓川>  一方、峠の西には真弓川が南流している。丁度、持越峠を挟んだ場所で、雲ケ畑川(正確には鴨川)と真弓川が最も接近して流れ下る。 その後、真弓川は清滝川(きよたきがわ)に注ぎ、更に保津川(ほづかわ)に合流する。保津川とは桂川の保津峡部分をそう呼ぶようで、正式には桂川となるようだ。
 
 鴨川も清滝川も同じ桂川の支流となるが、清滝川の方が僅かに上流側に位置する。峠は、広くは鴨川と清滝川の分水界、狭くは鴨川と真弓川の分水界に位置する。

   

<峠名>
 付近に「持越」という地名はなく、持越峠の名は峠そのものを表現した名であるようだ。 Wikipediaによると、雲ケ畑で死人が出た場合、遺体を「持ち越え」て隣の真弓で葬儀をする習慣があったことによるそうだ。雲ケ畑に流れる賀茂川は、流れ下って鴨川として京都御所近くを流れる。 京の都に在(ましま)す帝(みかど)に対して恐れ多いということだろう。しかし、それならば鴨川からその支流の高野川全流域が同じことである。 ただ、雲ケ畑は都の中心地よりずっと離れた山間部にあり、かえって都に対しての思い入れがあったように思える。目の前の賀茂川を下れば、そのまま都にまで通じるのだと。

   
   
   
雲ケ畑へ 
   

<冬の京都(余談)>
 サラリーマン時代、休日は旅をする貴重な時間だった。何かと慌ただしい年末年始も、天候が悪かろうが、道が渋滞しようが、とにかく旅に出掛けるのであった。 2005年の正月元日も、旅の空の下に居た。前日は琵琶湖南端の瀬田の唐橋を渡る所で大渋滞が発生した。どうやら降雪が原因だったようだ。不慣れな土地で脇道に入って迷子になり、大変な目に遭った。それでもどうにか琵琶湖西岸の大津市にある国民宿舎で大晦日の夜を迎えたのだった。
 
 今日は比較的近くにあるということで、京都市北部の三千院を訪れた。神社仏閣には何の知識も関心もないが、同伴者(後の妻)の意向であった。 雪に埋もれた境内を歩き回ると、靴の中はずぶ濡れとなった。仕方がないのでコンビニか何かでもらったレジ袋を靴下の上に被り、その上で靴を履いた。 かなり無様な格好だが、寒さには代え難い。屋内に入って写経などもしたが、靴の脱ぎ履きがまた一苦労だった。

   
大原三千院の参道 (撮影 2005. 1. 1)
雪の為か観光客はまばらだ
   

<賀茂川沿いに>
 三千院は鴨川支流・高野川沿いに位置する。高野川沿いの国道を南下すれば、自然と京都市街に入ってしまう。正月の京都など車で行くものではないと思っている。 昨日経験した大渋滞が頭をよぎる。とにかく市街地を避け、今夜の宿泊地となる丹波篠山・兵庫県篠山市方面を目指したい。
 
 京都北郊にある山々から発する川は皆、京都市街が立地する京都盆地へと流れ下る。その川筋に通じる道も皆、京都の中心地へと続く。そこを西へ西へと渡り繋いでやっと賀茂川沿いの道に出た。 この川を下っては元も子もない。上流方向へと遡ることとした。

   
賀茂川左岸に通じる道を遡る (撮影 2005. 1. 1)
   

<丹波街道>
 かつて賀茂川沿いに雲ケ畑から丹波国へと至る古道が通じていたそうだ。「丹波街道」とか「雲ケ畑街道」とも呼ばれたらしい。 雲ケ畑から更に賀茂川源流・祖父谷川を遡り、桟敷ケ岳北方の石仏峠を越えて丹波国に入ったようだ。あるいは賀茂川支流・雲ケ畑岩屋川沿いを遡り、その上流部にある薬師峠を越えて行くルートもあったらしい。現在、石仏峠にも薬師峠にも車道は通じていない模様だ。

   

府道61号沿い (撮影 2005. 1. 1)
一時右岸も通るが、概ね左岸沿いに進む

<府道61号>
 現在の賀茂川沿いは、中流域から上に府道61号(主要地方道)・京都京北線が通じている。祖父谷川を源流近くまで遡るが、かつての山城・丹波の国境にある祖父谷峠前後で不通だ。すなわち車道としては行止りの道である。
 
 尚、祖父谷川(賀茂川)の源流は祖父谷峠で、丹波への古道が通じていた石仏峠は灰屋川水域に属す。何かの都合で古道は鴨川から灰屋川へと水域を越えていたようだ。

   

<道の様子>
 京都市街近くでは快適な2車線路だったが、賀茂川も遡るに従い狭い谷となり、道もいつしかセンターラインのない狭さになって行った。

   
狭い道となって行く (撮影 2005. 1. 1)
   

<沿道の様子>
 沿道の雪も目立って多くなった。幸に朝方は吹雪の様に降っていた雪は止み、日も差して来た。空は青空が覆うようになって行く。
 
 それにしても府道沿いに集落は少ない。滅多に人家を見ない。賀茂川の狭い谷が屈曲するばかりだ。
 


道の様子 (撮影 2005. 1. 1)
   

<雲ケ畑>
 やっと集落らしい人家の集まりが見られるのは、雲ケ畑中津川町からだ。続いて直ぐに雲ケ畑中畑町へと道は入って行く。この辺りの賀茂川を「雲ケ畑川」と呼ぶのかもしれない。

   
雲ケ畑中畑町内を通る (撮影 2005. 1. 1)
雲ケ畑学校前バス停の手前
路面の雪が目立って来た
   

雲ケ畑中学校 (撮影 2005. 1. 1)

<中畑町>
 雲ケ畑中畑町はかつての雲ケ畑三か村の中では賀茂川沿いの真ん中に位置する。それもあってか、三か村の中では一番大きな集落に見える。雲ケ畑中学校・小学校もあるようだ。 雲ケ畑小学校は明治6年(当時は中畑村)の開校とのこと。また雲ケ畑村の時代(明治7年以降)は字宮ノ本に村役場が置かれたそうだ。
 
 しかし、集落内と言っても賀茂川の谷はそれ程広くはない。左岸の傾斜地に肩を寄せるようにして人家が並ぶ。その中を府道が細々と通じる。

   
雲ケ畑中学校前付近 (撮影 2005. 1. 1)
   

<雲ケ畑に通じる道>
 明治13年、雲ケ畑村に通じる丹波街道(雲ケ畑街道)が改修され、荷車が通れる道となる。続いて明治28年には道路延長工事が行われた。それが現在の府道61号の前身となるようだ。昭和6年にはその道に京都市内からのバス路線が開通したそうだ。

   

<看板(余談)>
 地元のことを知るには地元立つ案内看板が一番である。何かないかと思ったが、「ここは美化推進強化区域です」という京都市まちの美化推進事業団による看板を見掛けただけだった。
 
 その区域は北区の上賀茂十三石山と旧雲ケ畑三か村の部分だった。ゴミ専用容器が何箇所かに置かれているとのこと。
 
<峠を望む>
 中畑町にある雲ケ畑自治会館の前辺りを進んでいると、左手前方の峰に鋭く切り込んだ鞍部が見られた(下の写真)。どうやらそれが持越峠であるようだった。比較的近そうに見えたのだが、この後がなかなか大変であった。


美化推進強化区域の看板 (撮影 2005. 1. 1)
   
峠を望む (撮影 2005. 1. 1)
正面の建物は雲ケ畑自治会館
   

峠の様子 (撮影 2005. 1. 1)

<峠の様子>
 持越峠は賀茂川と真弓川が最も近付いた位置にある。二つの川の間隔は直線距離で僅か600m程度にまで縮まっている。それらの谷を分かつ尾根は、屹立するかのように鋭く盛り上がっている。 その為、そこに通じる峠道は僅かの距離で峠まで駆け上がり、また駆け下りることになる。
 
 遠望する峠は深い切通しになっている。車道を通す為にある程度尾根を削り落としたとは思うが、これ程大規模な鞍部が人工的に造られたとは思えない。元々ここには深い鞍部が自然に形成されていたのではないだろうか。

   

<出谷町>
 雲ケ畑中畑町の集落に続いて雲ケ畑出谷町の人家が出て来る。雲ケ畑出谷町は賀茂川沿いに支流の雲ケ畑岩屋川が合流する付近まで、1Km以上に渡り人家が点在するようだ。更に地域としては、賀茂川源流の祖父谷峠までの広い範囲が雲ケ畑出谷町となることになる。

   

<府道107号分岐>
 ただ、雲ケ畑出谷町の集落はほとんど見ることはない。雲ケ畑出谷町の地に入ると直ぐに峠道が分岐して行くからだ。
 
 府道61号は尚も賀茂川沿いに遡るが、結局祖父谷峠は車では越えられない。雲ケ畑岩屋川上流の薬師峠も駄目である。持越峠以外、賀茂川水域から抜け出る手段がないのだ。その意味で、持越峠は賀茂川水域最終の峠となる。
 
 持越峠への分岐は、寂しい林の中にある。林道などではなく府道107号が分岐して行くのだが、これと言って目立つ道路標識はなかったと思う。 


分岐の様子 (撮影 2005. 1. 1)
   

<分岐の看板>
 ただ、分岐の角に「STOP 10t車 通行禁止!!」と大きく看板が出ていた。分岐した道は直ぐに賀茂川を渡るが、その橋の重量制限が主な要因ではないかと思う。 また、よくよく見ると「持越峠」の文字と「真弓」とか「杉坂」といった行先案内の看板も小さいながら立っていたようだ。

   

分岐に立つ看板 (撮影 2005. 1. 1)

「持越峠」の案内 (撮影 2005. 1. 1)
行先は「杉坂、真弓」とある
   

<雪道>
 賀茂川の谷から抜け出るには、もう持越峠以外にないと分かっている。その覚悟でやって来たのだが、目の前に架かる橋(持越橋)から先は完全な積雪路であった。

   
賀茂川を渡る (撮影 2005. 1. 1)
多分、持越橋だと思う
   

 ここまでの府道61号はある程度除雪され、アスファルト路面もしっかり見えていた。しかし、持越峠の峠道区間は、どうやらあまり除雪が行われていない様子だ。ただ、車一台分の轍がくっきり描かれていて、車が通れないことはないようである。
 
<キャミ(余談)>
 今回の車はトヨタのキャミである。センターデフが付いている本格的なフルタイム四駆だ。オプションのセンターデフロックも装備している。 最低地上高195mmは、その前に乗っていたジムニーが205mmだったのに比べてやや劣るが、まあまあである。勿論スタッドレスタイヤを履いて来ている。 軽自動車のジムニーがタイヤ巾175mmの細いタイヤを履いていたのに比べ、キャミは軽並みの小型なボディーに205mmといった巾広のタイヤである。設置面積が広く、グリップも良いのではないかと期待する。その上、何かの為にとタイヤチェーンも積んで来ている。目の前の雪道にややためらいながらも、持越峠へと突き進むのであった。

   
   
   
府道107号を峠へ 
   

<峠道の道程>
 これから向かう賀茂川沿いから峠の反対側の真弓川沿いまでの区間が、持越峠の本来の峠道と言える。道程は約2.4Kmで、ほぼ中間地点に峠がある。 雲ケ畑出谷町側、真弓善福側共に約1.2Kmとなる。距離は極めて短く、狭い峠道であることを考慮しても、車なら10分もあれば越えられる峠であろう。歩いても1時間余りではないだろうか。ただ、今回はなかなかの積雪だ。おっかなびっくりキャミを進める。

   

道の様子 (撮影 2005. 1. 1)
「つづら折り」と「急勾配」の道路標識が立つ

<道の様子>
 道は賀茂川右岸の崖を一旦は上流方向に登りだす。短距離で峠までの標高を登り切る為に、道は大きく蛇行する。登り急勾配を示す道路標識には「13%」と出て来た。10%を超える値は滅多にない。
 
 やがて道は賀茂川下流方向の南を向いて進む。峠前後の道は、概ね南側に谷を見て登るので、比較的明るい雰囲気だ。

   

<展望>
 天候は完全に回復し、空一面の青空となった。路面の雪も白く輝いている。半分程も登ると、東の方に向かって賀茂川が流れ下る様子が望めた。なかなか晴れ晴れした風景だ。

   
沿道から望む景色 (撮影 2005. 1. 1)
雲ケ畑出谷町側を見る
   

<雲ケ畑中畑町集落を望む>
 よく見ると、谷底に集落が望めている。雲ケ畑中畑町集落の中心部付近のようだ。大きな建物が確認できるが、雲ケ畑中学校であろう。


雲ケ畑中畑町の集落を望む (撮影 2005. 1. 1)
   

<道の様子>
 車の轍は一台分がずっと続いていた。雪がやや深く、キャミの最低地上高では車の底を少し擦りそうだ。そこで、わざとタイヤの幅程度に轍から外れ、タイヤが雪の上に乗るように走行してみた。
 
 その程度に轍をそれても問題ないが、大きく道を外すことはできない。積雪により、どこまでしっかりした路肩があるか皆目分からないのだ。仮に対向車がやって来たら、まず離合は不可能である。安易に路肩に寄せれば、雪もろとも滑って谷底に真っ逆さまだ。
 
 そんなことを考えていると、段々不安になって来た。しかし、勿論Uターンなどできる状態ではない。バックで引き返す訳にもいかず、ただただ前に進むしかない。正月早々、こんな雪道をやって来る変わり者が、私達以外に居ないことを願うばかりである。

   
道の様子 (撮影 2005. 1. 1)
峠の数100m手前辺り
道は険しいが、南に谷が開け、明るい雰囲気だ
   
   
   
 
   
持越峠 (撮影 2005. 1. 1)
手前が雲ケ畑出谷町、奥が真弓善福
左手に林道が分岐する
   

<峠の雲ケ畑出谷町側>
 峠の切通しの手前には十分な広さがある。ここなら安全に車の離合も回転も可能である。そこから左手に細い林道が分岐して行く。地図上では、峠から南に続く稜線にほぼ沿って進むが、途中で行止りのようだ。積雪時は一歩たりとも入り込む余地はない。

   
峠より雲ケ畑出谷町側を見る (撮影 2005. 1. 1)
小広くなっている
   

<峠の様子>
 賀茂川沿いから遠望したように、峠は深い切通しになっている。峠は東西に通じ、峠前後は南に開けて明るいが、切通しは寒々しい日影になっている。 切通しの南側に雪の壁ができていて、峠の部分の除雪は大変だったことをうかがわせる。

   
雲ケ畑出谷町側より峠を見る (撮影 2005. 1. 1)
   

 切通し部分は真弓善福に向かってやや右カーブしていて、一度では見通せない。切通しの距離は100m前後であろうか。
 
<標高など>
 峠の標高は地形図に394mとあり、最近のツーリングマップルにもそのようにある。
 
 ちょっと古い1989年7月発行のツーリングマップ(関西 2輪車 昭文社)には「ダートの峠」と記され、道は雲ケ畑から真弓までほとんど真っ直ぐな一本線で描かれていた。多分、旧道の道筋に近いだろう。当時はまだ府道昇格前だったようで、「持越林道」と呼ばれていたものと思う。2005年に訪れた時は、積雪ではっきりはしないが、全線舗装済みだったようだ。
 
 峠そのものは古くから通じていたと思われるが、現在の曲がりくねった車道が通じたのはそう古いことではないと思う。その道筋から察して、峠以外は旧道とは全くルートが異なるように思う。旧道は更に急坂で、そこを遺体を担いで越えたのかと思うと、その苦労が偲ばれる。

   
峠より真弓善福側を見る (撮影 2005. 1. 1)
   

 生憎雪が深く、思うように歩き回れない。看板とかあるいは地蔵でも祀られていないかと少しは探したが、目ぼしい物は何一つ見付からない。雪に埋もれてしまっていたのかもしれない。持越峠を越えたのはこの一回きりで、ただただ雪の印象しか残らなかった。

   
峠より真弓善福側を見る (撮影 2005. 1. 1)
   
   
   
峠より真弓善福へ下る 
   

<真弓善福側へ>
 切通しを真弓善福側へ抜けると、またパッと日差しが射し込んだ。谷に面した路肩が少し広くなっているようだが、迂闊には車を乗り入れることはできない。雪の下に何が隠れているか分かったものではない。ちょっとした側溝にはまっただけも、身動きできなくなることがある。

   
切通しを真弓善福側へ抜けた所 (撮影 2005. 1. 1)
左手に広い路肩があるようだが、迂闊には車を乗り入れられない
   

峠方向を振り返る (撮影 2005. 1. 1)
太陽がまぶしい

<善福谷川沿いへ>
 峠は真弓川左岸の上部にあるが、こちらも一気に高度を下げなければならないので、道は真弓川にほとんど並行するように北へと大きく迂回する。真弓川に善福谷川という支流があり、まずはその上流方向へと下る。

   

<道の様子>
 雪道は登るより下る方が難しい。特に急坂ではスピードの出過ぎに注意だ。ただ、もう峠を越したこともあり、気持ちにはゆとりが出て来た。
 
 道の状態は雲ケ畑出谷町側とほとんど変わりない。峠道は東西に通じていて、太陽の当たり具合がほぼ同じことにもよるのだろう。


道の様子 (撮影 2005. 1. 1)
   

道の様子 (撮影 2005. 1. 1)

 路面の雪は相変わらず深い。先人が残した轍が頼りである。天候が回復したのはいいが、気温が上がって雪崩でも起きなければいいと思う。道路はしっかりしているが、それを取り巻く地形は険しい。

   

<真弓川沿いに>
 道は善福谷川を巻き、やっと本流の真弓川沿いに出る。前方に除雪された道が現れた。久しぶりのアスファルト路面がうれしい。府道107号はここより真弓川沿いを下る方向に進む。
 
 逆に真弓川を遡ると真弓八幡町の集落があるようだ。その為に真弓川沿いの道はしっかり除雪されているらしい。しかし、この分岐より1.3Kmで道その物が車両行止りとなることが道路標識にあった。
 
 一方、持越峠方向には「雲ケ畑」と案内看板が立つ。持越橋を渡って以降、ゆっくりした雪道走行であったが、20分余りで峠越えは終わっている。

   
真弓川沿いに出た (撮影 2005. 1. 1)
   

<真弓善福>
 持越峠が降り立った真弓川沿いには真弓善福の集落がある。ただ、府道沿いにほとんど人家を見ない。旧真弓村の中心地はもっと上流側の真弓八幡町のようだ。

   
   
   
真弓川沿い 
   

<丹波街道支道>
 この真弓川に沿って立地する旧真弓村にも丹波へと至る主要な古道が通じていた。「丹波街道支道」とか「若狭街道」と呼ばれたそうだ。 丹波国を経由して日本海沿いの若狭国(福井県西部)にまで至る街道である。その道筋はほぼ次のようになるらしい。
 鷹峯(鷹峰)→京見峠→杉坂(杉阪)→真弓→縁坂峠→丹波
 
 京都市街北西の鷹峯から始まり、京見峠(きょうみとうげ、日本百名峠の一つ)を越えて杉坂川沿いに下り、杉坂村で真弓川に合っすると次は真弓川沿いを遡り、真弓村を通過、真弓川最上流部の縁坂峠を越えて行くといったものだ。

   

<周山街道>
 しかし、明治35年に現在の国道162号の前身となる周山(しゅうざん)街道が改修された。真弓川の本流・清滝川沿いに遡り、笠峠(笠トンネル)で丹波国に至る。 最初は牛車道程度であったようだが、この改修により京の都と京都北方の丹波との物資の輸送は、もっぱら周山街道が利用されるようになった。
 
 賀茂川を遡って石仏峠や薬師峠を越える丹波街道、真弓川を遡って縁坂峠を越える丹波街道支道は、かつては京都市街と丹波の地をほぼ直線的に結ぶ街道として人の往来があった。 しかし、周山街道の改修で次第に寂れて行ったようだ。険しい峠越えより、道程は長くとも平坦で通行し易い道が利用されるようになる。それが後の車社会にも繋がって行った。
 
 周山街道改修後も真弓では京見峠を越えて鷹峯へと通ったとのこと。しかし、現在の国道162号は中川トンネル開通などで大幅に改修が進んでいる。もう古い若狭街道となる京見峠(府道31号)は使われないのだろうか。
 
 こうして本街道から外れた雲ケ畑・真弓であり、今は行止りの府道が通じるばかりとなっている。


真弓川沿いの府道107号 (撮影 2005. 1. 1)
かつての丹波街道支道である
   

<峠を望む>
 真弓川沿いを少し下ると、左手に峠の鞍部が見えて来る。持越峠が通じる鞍部は規模が大きいので、東西どちら側からでも峠の位置を確認できる。峠の手前の急斜面には峠より分岐する林道の道筋が見える。
 
 持越峠を挟んで丹波街道と丹波街道支道が通じていたことになる。持越峠は両古道を繋ぐ峠道であった。今は雲ケ畑・真弓の小さな両集落をひっそり結んでいる。行止りの府道同士を繋いで周遊コースを成す道でもあるが、果たして利用価値はあるだろうか。

   
真弓川沿いより峠を望む (撮影 2005. 1. 1)
   

国道162号に出た所 (撮影 2005. 1. 1)

<国道162号へ>
 今回は京見峠には向かわない。正月元日で賑わう京都市街を避けるのが目的なのである。杉阪を経て国道162号・周山街道へと出た。

   

<昼食(余談)>
 持越峠を越えている最中に昼時になっていた。食料はいつも持参しているので、場所さえあれば食事が摂れるのだが、さすがに周りは雪だらけである。早くこの地を抜け出したいという一心であった。
 
 国道沿いになり、やっと高雄観光駐車場で車を停められた時は午後1時をとっくに過ぎていた。観光バスもやって来るという場所柄、どうかとも思ったが、背に腹は代えられない。 駐車場の片隅でカセットコンロで湯を沸かし、カップ麺の侘しい昼食とした。世の中が新年を祝っているというのに、そんなことは意に介さず、雪の険しい峠道を越え、観光駐車場の脇でカップ麺をすすり、マイペースな旅であった。今夜の宿の兵庫県篠山市は、まだまだ遠い。


高雄観光駐車場にて昼食 (撮影 2005. 1. 1)
カセットコンロでお湯を沸かしている最中
   
   
   

 前回、駄吉峠(仮称)を掲載し、20数年前に雪の峠道を走ったことを記した。 その連想で、確か京都でも深い雪道の峠を越えたな、と思い出したのが今回の持越峠掲載の切っ掛けである。この峠を越えたのはたった一回だけで、雪のイメージしかない。別の季節に越えれば、また違った趣があるのだろうと思う、持越峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2005. 1. 1 雲ケ畑出谷町→真弓善福 キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 26 京都府 1982年 7月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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