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六地蔵越 (六地蔵峠)
  ろくじぞうごえ (峠と旅 No.247)
  六地蔵が佇む峠で讃岐山脈を越える峠道
  (掲載 2015.12.21  最終峠走行 2015. 5.29)
   
   
   
六地蔵越 (撮影 2015. 5.29)
手前は香川県三豊市(みとよし)山本町河内(こうち)
奥は徳島県三好市池田町白地(はくち)
道は主要地方道6号・込野(こみの)観音寺線
峠の標高は約550m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは元の六地蔵越の南方約400mに通じた車道の新しい峠
峠は暗い切通しになっていて、まるで林道のよう
しかし、これでも主要地方道である
   
   
<峠名>
 六地蔵越(え)とは、正確にはこの主要地方道6号の峠ではない。 ここより北方400m程の稜線上にある猿ヶ額(さるがひたい)と呼ばれる尾根(約610m)にあった。鞍部でも何でもない。 そこが阿波国(あわのくに、現徳島県)と讃岐国(さぬきのくに、現香川県)を結ぶ古くからの峠、六地蔵越の旧峠となる。 それに対して主要地方道6号の方は新峠としての存在だ。あえて区別して呼ぶなら「新六地蔵越」とでもすべきだろう。
 
 旧峠には車道は通じず、現在ではもう一般に使われることがない峠である。 また、旧峠にあった峠名の由来ともなる六地蔵(石碑)は昭和45年(1970年)に新峠の方へ移設されている。 新峠は2代目・六地蔵越を襲名したといっても良い状況である。
 
 地形図を見ると、しっかり旧峠の位置に「六地蔵越」とある。 しかし、1/12万や1/14万といった縮尺の荒いツーリングマップ(ル)では、旧峠や新峠や、あるいはそのどちらとも言えないような位置に六地蔵越と書かれていたりする。 この際、新峠も「六地蔵越」と呼んでしまっても良さそうだ。
 
<六地蔵峠>
 尚、峠にあった「六地蔵峠由来」と題した看板ではこの峠を「六地蔵峠」と呼んでいる。「越」ではなく「峠」を使っているが、この呼称も併用されるようだ。
   
<所在>
 峠の南側は徳島県三好市池田町白地(はくち)で、旧三好郡池田町の大字白地である。 北側は香川県三豊市(みとよし)山本町河内(こうち)で、旧三豊郡山本町の大字河内となる。 四国随一の大河・吉野川の北に並行して連なる讃岐山脈(讃岐山地とか阿讃山脈とも)を越える峠の一つだ。
 
<讃岐山脈>
 この山脈は東西約100kmに及び、徳島・香川の県境はほとんどがこの山脈の稜線に一致する。 文献(角川日本地名大辞典)では、古くから徳島・香川の交通路としてこの山脈を南北に越える峠道が開かれ、11の峠があるとか、 現在は12の車道が横断するとか記述されている。 「峠と旅」では東山峠竜王峠鵜峠(うのたお)を掲載済みだ。 今回の六地蔵越は讃岐山脈の西の外れに位置する。最も西には曼陀峠(まんだ)があり、その次となる。 讃岐山脈に通じる峠を全部リストアップしてみようかという誘惑にかられるが、余談になるのでとどまっておこう。
 
<特徴>
 讃岐山脈はそれ程高い山脈ではなく、1,000mを少し超える山が幾つか見られる程度だ。よってそこを越える峠道もそれ程険しいものにはならない。 つづら折れが連続する山岳道路という雰囲気はあまり期待できない。 半面、讃岐山脈の徳島県側の南斜面は、山稜の上の方まで人家が点在し、「天空の集落」といった景観が楽しめることが多い。 ただ、今回の六地蔵越に限っては峠前後に人家は皆無だった。主要地方道が通じると言えども、この峠は全く寂れた感じである。
 
 それでも、峠名の由来ともなる六地蔵が今も峠に佇んでいるのはうれしい。どのような峠の変遷があったか興味をそそられる。 また、香川県側に少し下った所には薬師峠という謎の峠も存在する。そこからの眺めが良い。 今回の掲載で、この六地蔵越に関して少しでも詳しいことが分かると面白いのだが。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
   
   
徳島県三好市側より峠へ
   
<鮎苦谷川>
 徳島県側から見ると、峠は吉野川の支流・鮎苦谷川(あいくるしだにがわ)の水域に所在する。 鮎苦谷川の源流は、讃岐山脈中で峠より更に西にある雲辺寺(うんぺんじ)山付近となる。峠はその鮎苦谷川の上中流域の一支流の上部に位置する。 それにしても「鮎苦谷」とは何とも変わった河川名だ。文献によると、下流に早瀬があり、鮎が遡るのに苦労するところからこの名があるとのこと。
 
<峠道の起点>
 鮎苦谷川の源流部で道が讃岐山脈を越えていれば、その峠がこの鮎苦谷川水域で最も格上の峠と言えるが、雲辺寺山付近にはどうやらそれらしい峠は見当たらない。 ただ、鮎苦谷川沿いに遡る道は途切れず讃岐山脈の稜線上に至り、更に稜線上を雲辺寺や曼陀峠へと延びている。 やや微妙であるが、六地蔵越が鮎苦谷川水域の中で、最も上位の峠としておく。すると、峠道の起点は鮎苦谷川の河口となる。
   

三好大橋を渡る (撮影 2015. 5.29)
鮎苦谷川河口に近く、ここが峠道の起点
<三好大橋>
 鮎苦谷川が注ぐ付近の吉野川には三好大橋が架かる。今は県道になっているが、元は国道32号だ。 吉野川沿いに徳島自動車道が通じて近くに井川池田ICができ、そのICから国道32号への連絡が良いようにと三好大橋の少し上流側に四国中央橋が架かり、 国道はそちらに移ったようだ。四国中央橋の方が立派だが、峠道の起点になるだろうからと、わざわざ三好大橋を渡る。
   
<国道32号に乗る>
 渡った先は、結局国道32号に接続する。峠を越えるのは主要地方道6号だが、当面はこの国道32号が鮎苦谷川沿いを遡っている。 国道の行先は「高松 琴平」と道路看板にある。
 
<国道32号(余談)>
 国道32号・阿波別街道は、吉野川流域の三好市街(阿波池田など)と猪ノ鼻峠(猪ノ鼻トンネル)で讃岐山脈を越えた先の香川県高松市街を結ぶメインルートである。 かつては、遠く高知市街と高松を結ぶ大幹線路であったが、高知自動車道が高松自動車道に接続した今では、有料でも自動車道を走った方が断然便利だ。 ただ、私が四国を旅し始めた頃は、高知自動車道は南国と大豊の間しか通じていなかった。

県道分岐の看板 (撮影 2015. 5.29)
   

右に県道12号分岐 (撮影 2015. 5.29)
<県道12号分岐(余談)>
 国道は大きく東に迂回し、県道12号を分けると、また西へと戻って来る。 鮎苦谷川の左岸を道は遡るが、国道からは川が一体どこにあるか分からない程大回りしている。
 
 県道12号は川北街道などと呼ばれ、吉野川の北岸沿いに鳴門まで通じる。
   

県道12号を分岐した後 (撮影 2015. 5.29)

国道の道路看板 (撮影 2015. 5.29)
   
<土讃線(余談)>
 国道は土讃線に沿うようになる。箸蔵(はしくら)駅と看板にある。 国道と同様にこの鉄路もやはり猪ノ鼻トンネルという讃岐山脈を越えるトンネルを抜けて高松へと至る。
 

箸蔵駅付近 (撮影 2015. 5.29)
   

箸蔵寺付近 (撮影 2015. 5.29)
<箸蔵寺>
 「箸蔵寺」と看板があるが、寺は国道沿いにはないようだ。箸蔵山ロープウェイが寺のある山腹まで登っている。 看板はロープウェイの登山口駅の案内であったようだ。
 
 そこを過ぎると沿道の人家が途絶え、国道は猪ノ鼻峠へと登る閑散とした道になる。登坂車線も出て来る。車ばかりが黙々と行き交う。
   
国道の様子 (撮影 2015. 5.29)
登坂車線がある区間
   
<鮎苦谷川の谷>
 気が付くと、道はもう鮎苦谷川が流れる谷のかなり上部を走っている。左手になかなか深い谷を臨む。 三好大橋以降、国道からは鮎苦谷川は全く望めなかった。考えてみると、国道が四国中央橋に付け変わったことにより、今の国道は鮎苦谷川を渡るように通じている。 その橋から鮎苦谷川を眺めておけばよかった。尚、国道が渡る橋の少し上流側に箸蔵橋が架かっていて、その橋脚には中央構造線の露頭が見られるとのこと。
 
<落集落>
 沿道に再び人家が見える時がある。池田町西山の落(おち)いう集落だと思う。谷を見下ろす傾斜地に形成された集落だ。 ちょっとした「天空の集落」の雰囲気がある。そこを過ぎると猪ノ鼻峠を越えるまで、もう国道沿いにはあまり大きな集落は見られない。
   
落集落付近 (撮影 2015. 5.29)
   
<坪尻駅(余談)>
 国道沿いに土讃線の坪尻駅(つぼじり)の看板が立つが、国道から駅へと通じる車道は見当たらない。 駅は鮎苦谷川の右岸にあり、急傾斜の谷を降りてそこまで車道が築けないのだろう。ただ、歩道はあるようだ。
 
 この付近の鮎苦谷川の谷は険しく、蛇行が激しい。その蛇行を軽減する為か、川には幾つかのトンネルが設けられているようだ。 坪尻駅は、トンネルで経路が変わった元の川床の上に立つとのこと。 鉄道マニアではないので詳しくは分からないが、何かのテレビ番組で秘境駅として登場していたと思う。

坪尻駅の看板 (撮影 2015. 5.29)
   
<主要地方道分岐>
 三好大橋から6km程で主要地方道6号の分岐点に至る。六地蔵越の三好市側の道は、大きく3区間に分けて考えることができる。 最初の国道32号の区間、主要地方道6号で鮎苦谷川本流沿いを遡る区間、本流を離れ山腹を峠へと登る区間である。ここからは第2区間である。
   

主要地方道6号の分岐の看板 (撮影 2015. 5.29)
行先は野呂内と雲辺寺

この先左に分岐 (撮影 2015. 5.29)
   
   
   
主要地方道6号へ
   
<主要地方道6号>
 主要地方道6号・込野観音寺線は池田町西山の込野(こみの)から六地蔵越を香川県側に越えて観音寺市街へと至る。 道路看板の行先には「野呂内、雲辺寺」とあった。野呂内(のろうち)は主要地方道沿線の池田町白地の「ノロウチ」である。 どういう訳か住所名ではカタカナ表記になっている。一方、雲辺寺へは主要地方道から分かれる県道268号を行く。
 
 どちらにしろ、道路看板に「観音寺」の文字はない。 そこが主要地方道の本来の行先だが、六地蔵越の峠前後が険しく一般向けでない為、大っぴらには観音寺を案内できない状況にあるようだ。
   
国道から分かれた主要地方道6号 (撮影 2015. 5.29)
立派な橋を渡っている
前方左上に猪ノ鼻峠に向かう国道が見られる
橋を渡った右手より旧道が合する
   
<木屋床(余談)>
 国道から分かれてから直ぐの橋より、鮎苦谷川対岸(右岸)の谷の上部を望むと、ポツリと集落があるのが分かる。 木屋床(こやとこ)の集落だろう。坪尻駅より急な山道を登ると、その集落に行き着く。 秘境駅最寄りの集落となるが、駅を利用する者はほとんど居ないらしい。
   
対岸の上部に木屋床集落などを望む (撮影 2015. 5.29)
   

通行規制の看板 (撮影 2015. 5.29)
<通行規制区間起点>
 橋を渡って右手から旧道を合した所で、「異常気象時 通行規制区間 起点」の看板が立っている。 香川県境までの10.8kmとある。橋を除いた徳島県側の主要地方道6号全線に相当する。電光掲示板には「落石の恐れあり 走行注意」とあった。
   
<野呂内街道>
 ガードレールの外側に、寂しくポツンと石碑が立っている。「込野観音寺線 建設記念 野呂内街道」とある。 この車道は陸上自衛隊による施工とのこと。新しく橋が架けられたりして改修された為、石碑はちょっと寂しい位置に追いやられてしまったようだ。 開削当時はもっと目立った存在だったのだろう。
 
 石碑にある「野呂内街道」について詳しいことは分からない。 鮎苦谷川の中上流域に野呂内の地名があり、また鮎苦谷川の上流を「野呂内谷」とも呼ぶので、その川沿いに通じる道を指すのであろう。 吉野川沿いから四国霊場八十八か所第66番札所雲辺寺へと導く街道とも言える。 
   

左手に野呂内街道の石碑 (撮影 2015. 5.29)

石碑 (撮影 2015. 5.29)
建立の日付は裏側にあったようで、見落としてしまった
   
<鮎苦谷川沿いへ下る>
 折角国道を登って稼いだ標高は、主要地方道6号でご破算になる。道は鮎苦谷川沿いへとまっしぐらに下っている。 上空にさっき分かれた国道を見上げる。この付近の谷は険しく、国道も県境の峠に至る前に大きな橋やトンネル(込野隧道)をくぐっている。

国道32号を望む (撮影 2015. 5.29)
   

砂防ダムを望む (撮影 2015. 5.29)
<砂防ダム>
 支流に架けられた砂防ダムも大規模だ。こうして谷間に多量のコンクリートが導入され、車道が維持されている。
   
<谷の様子>
 鮎苦谷川の岸辺に降り立つ前にと谷を望むと、こちらにも大規模な工事が正に行われている最中であった。沿道に込野の人家も見掛ける付近だ。 よくよく眺めると、何やら谷底にトンネルが掘られている。車道のトンネルなどではない。多分、川のトンネル、大規模導水路だろう。 これで鮎苦谷川本流の流れを変えるのかもしれない。川の流れによる浸食で、谷が崩壊するのを回避する為の措置だろうか。 それにしても工事個所付近の鮎苦谷川右岸沿いは込野集落の中心地だ。集落の人家はどうなったであろうか。
   

鮎苦谷の景観 1/2 (撮影 2015. 5.29)
中央にトンネルの坑口が見れる

鮎苦谷の景観 2/2 (撮影 2015. 5.29)
道路脇に人家も立つ
   
 道は鮎苦谷川支流の深く切れ込んだ谷を何度か横切る。

支流の谷を回り込む (撮影 2015. 5.29)
   

砂防指定地の看板 (撮影 2015. 5.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<松原谷(余談)>
 その一つが松原谷で、看板によると砂防指定地になっている。無闇に土砂の採取などができない。これもこの鮎苦谷の険しさを表している。 この先にも、こうした砂防指定地が幾つも出て来る。余談ながら、看板の地図には「県道野観音寺線」と誤記があった。
 
   
<鮎苦谷川左岸沿いへ>
 鮎苦谷川沿いの道になる前に、道はセンターラインもある真新しい様相となる。そして直ぐにT字路に出る。
   
鮎苦谷川沿いに (撮影 2015. 5.29)
この先T字路
   
<新設のT字路>
 T字路を左折は下流方向、右折は上流方向で主要地方道の続きとなる。 このT字路はつい最近できたもので、手持ちのツーリングマップル(関西 2015年8版1刷発行 昭文社)にもまだ記載がない。 例の川のトンネル工事の関係で、新しくできたようだ。以前の主要地方道6号は真っ直ぐ上流方向へと向かっていた。
   

T字路 (撮影 2015. 5.29)

T字路の看板 (撮影 2015. 5.29)
   

下流方向の道 (撮影 2015. 5.29)
<下流方向の道>
 下流方向に延びる新しい道は、T字路を過ぎた直ぐ先で右岸へと渡る。道路看板では止まっているが、別の看板には「市道 工事中につき まわり道」とあった。 どこかへ抜けられそうだ。本来は川のトンネル工事現場へと至る為の道と思われる。
   
 このT字路付近の様子は一変したことだろう。 元々は国道32号から分かれて下って来た細い主要地方道6号が、そのまま鮎苦谷川沿いに遡り始めていただけの場所である。
 
 それにしても変則的な峠道と言える。 吉野川沿いから分かれて鮎苦谷川沿いを遡るのに、一旦国道で左岸の山腹の上部を登り、次に主要地方道で一気に川筋まで下って来た。 それだけこのT字路より下流の鮎苦谷川の谷が険しいことを物語っている。 かつて鮎が遡上するにも苦しむという早瀬があることからこの川の名が起こり、それを回避する為にも川のトンネルが穿たれ、更に秘境駅の出現にも至った。 川筋に車道を通すなどということは、到底叶わぬことであったのだろう。

川の左岸を遡る主要地方道の続き (撮影 2015. 5.29)
付近の景観は一変したようだ
   
   
   
鮎苦谷川左岸沿い
   

込野地蔵 (撮影 2015. 5.29)
<込野地蔵>
 主要地方道6号はやっと本来の峠道らしく川に沿って遡り始めた。すると直ぐ左手に地蔵や石碑などが立つ。 その碑文によると、込野地区にあった込野地蔵を工事の為にここに移転したとのこと。 石碑の建立は平成22年(2010年)4月で、その頃から工事が開始されたようだ。やはりこの工事は込野の集落に大きな影響を与えたらしい。 地蔵だけでなく人家の移転もあったのだろう。
   
<猪鼻街道>
 碑文には込野地蔵は文化13年(1816年)の建立で、野呂内街道・猪鼻街道を通行する者の安全を祈願したとある。 猪鼻街道とは今の猪ノ鼻トンネルを越える国道32号に相当する道と思われる。かつては野呂内街道も猪鼻街道も込野集落内に通じていたことがうかがえる。
 
 国道32号は込野よりずっと上部で込野隧道を抜けて通じ、主要地方道6号も込野より少し上流側で鮎苦谷川に沿う。 現在の猪鼻街道も野呂内街道も、込野集落を経由していなかった。かつて込野から猪ノ鼻峠へとどのような道筋で猪鼻街道が通じていたのか。 松原谷の谷筋を登っていたのだろうか。また込野より下流側は、どのようにして吉野川沿いに出ていたのか。それらは全く謎である。 地形図をいろいろ眺めても、旧道の痕跡らしい道筋は確認できない。 ただ、込野より下流側は、鮎苦谷川右岸の高みにある木屋床集落辺りを経由していたのものかと想像した。
 
 尚、現在の主要地方道6号は野呂内街道であり、かつ六地蔵越の峠道である。 しかし、かつて「野呂内街道」と呼んだ場合、六地蔵越とは関係は深いものの、別の道であろう。

込野地蔵の石碑 (撮影 2015. 5.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

込野地蔵付近から下流側を望む (撮影 2015. 5.29)
直進は工事中で行止り
左に主要地方道6号で国道32号に接続
<猪鼻道路新設>
 また込野地蔵の碑文には、「猪鼻道路の新設」とある。その仮設道路工事が移転の理由とのこと。 川のトンネルを掘ることが主目的ではなく、もっと大きな構想があるのだろうか。
 
 猪鼻道路とは今の国道32号のことだと思うが、込野付近から下流側で大規模な道の付け替えが計画されているのかもしれない。 すると、井川池田ICから続く四国中央橋に思い当たった。もしかしたらその橋へと直線的につながるのでは・・・。 今の国道は箸蔵駅付近の市街を縫って大きく迂回している。そこをショートカットすればかなりの時間短縮に繋がる。
 
 猪ノ鼻峠を越える道は古くから阿波と讃岐を結ぶ重要な峠道で、明治期には四国新道が通じて遠く高知県との物資輸送が行われ、 昭和の猪ノ鼻隧道の完成で四国を縦断する大動脈となった。それが平成の世にまた大きな変貌を遂げるのかもしれない。
   
<鮎苦谷川左岸沿い>
 道は込野地蔵の前を過ぎると間もなくセンターラインが消え、元の古い主要地方道6号に戻った。新しいのは僅か100m程の区間だけであった。 その後は1.5車線幅が続く。鮎苦谷川の谷間もその険しさが少し和らいできたのか、川の左岸に沿う道も比較的穏やかで、やっと落ち着いた峠道になった。 車の通行もほとんどない。
 
<阿讃西部広域農道分岐>
 左岸沿いを1kmも走ると、左に鮎苦谷川を渡って道が分岐する。
   
小屋の手前を道が分かれる (撮影 2015. 5.29)
   

阿讃西部広域農道を望む (撮影 2015. 5.29)
 橋の先に道路看板が立ち、「阿讃西部広域農道 峯ノ久保 4Km」とある。 その農道は右岸の山腹を登って木屋床集落近くを通り、峯ノ久保(峰ノ久保)集落に至るようだ。更に下って四国中央橋の袂辺りで吉野川沿いに降り立つ。 その付近の道が複雑に入り組んでいて、鮎苦谷川沿いに道が通せない困難さを物語っている。
   
<道の様子>
 県道標識の地名は「池田町 込野」となっている。沿道に人家は皆無だ。谷は広く、木々がうっそうとして茂る。道からは鮎苦谷川の川面は望めない。

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
   

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
 徳島県三好市側の峠道としては、第2ステージといったところだ。この川沿いを遡る区間は6km程続く。国道の分岐からでは約8kmの道程となる。
   
<下野呂内>
 県道標識の地名が「池田町 下野呂内」に変わった。この鮎苦谷川沿いに「野呂内」と名の付く集落は3つ見られる。 下流側より下野呂内、野呂内下、上野呂内。鮎苦谷川の上流部は野呂内谷とも呼ばれ、その川沿いに古くは野呂内村が存在した。 白地村の枝村で、後に白地村の字地となったようだ。
 
<野呂(余談)>
 この野呂内とは何の関係もないが、夜叉神峠の項で野呂川(のろかわ)が登場した。 山梨県に流れる富士川の支流・早川(はやかわ)の上流部をそう呼ぶ。 由来は、昔カモシカのことをノロと呼び、ノロが多く住む川からノロ川となり、後に「野呂」の字を当てたとのこと。 果してこの野呂内谷にもカモシカが出るのだろうか。

県道標識 (撮影 2015. 5.29)
地名は「池田町 下野呂内」と出て来た
   
<西山>
 同じ「野呂内」と付く集落でも、下野呂内は大字西山、それ以外は大字白地に属すようだ。明治期、西山村と白地村の間で境界争いがあったそうだ。 そんなことも関係するのだろうか。間もなく人家が見えだした。西山の下野呂内集落と思われる。
   
前方に人家が見えだす (撮影 2015. 5.29)
下野呂内集落だろう
   
<下野呂内集落を通過>
 鮎苦谷川沿いに立地する集落としては、下野呂内は比較的大きな集落となる。左岸の細長い範囲に渡って人家が点在する。
   
下野呂内の集落に入る (撮影 2015. 5.29)
   
<小学校>
 集落内に入って少し行くと、フェンスの向こうに大きな建物が見えた。多分、下野呂内小学校と思う。味のある昔ながらの木造校舎だ。 しかし、既に廃校となったようだ。文献には、明治16年(1883年)に下野呂内分教場が設置されたとある。それが下野呂内小学校の始まりであろう。
   

下野呂内小学校 (撮影 2015. 5.29)

下野呂内小学校 (撮影 2015. 5.29)
   
 下野呂内は小学校もあった大きな集落で、川沿いの小平地に立地する様子も穏やかなものだ。しかし、ここに至る道筋を考えると、なかなか奥深い山中である。 池田町市街の土讃線阿波池田駅付近からだと、国道32号から主要地方道6号と走り繋いで14km程はかかる。 それでも現在はその大半が走り良い車道だが、昔はどうだったであろうか。 野呂内の集落内に通じる道路は大正6年に拡張され、それでやっと大八車の通行が可能になったとのこと。大八車は幅で1.2mくらいの人力の荷車だったと思う。 野呂内と外界との交通は容易ではなかったと想像する。
 
<枝道>
 主要地方道からは時々県境の峰の方角へと細い枝道が分岐する。あまり目立った案内看板もなく、大抵は下野呂内集落内の人家へと至る道だ。 しかし、中には讃岐山脈の稜線近くまで登る道もあったようだ。しかもその道の途中に「空堂」などという集落名が地図に見える。
 
 道は鮎苦谷川支流の下野呂内谷という川を渡る。ここにも砂防指定地の看板が立ち、その右岸より川沿いに遡る道が始まっている。 「小谷入口」と小さな道標が立つ。地形図を見ると、その道は県境の稜線にも届く勢いで、かなりの高所に建物の記号が描かれている。 「西谷」という集落名も見られる。空堂や西谷はそれこそ正に「天空の集落」なのであろう。 香川県側に車道が下ることはなく、よって峠道にはならないので峠趣味の私は訪れることはないが、これらの枝道を探訪すると、きっと険しく面白いことだろう。 猪ノ鼻峠へも道が延びているようで、讃岐山脈を堪能することができそうだ。
   

支流の下野呂内谷を渡る (撮影 2015. 5.29)
その右岸沿いに道が分岐する
この先右手に笠置姫之命の社
写真に撮ってはみたものの、詳しいことは何も分からなかった


笠置姫之命の社 (撮影 2015. 5.29)
   

県道標識は上野呂内 (撮影 2015. 5.29)
ここは多分は白地
<白地>
 下野呂内の集落を過ぎると、また暫く人家が途絶える。次に出て来た県道標識には「上野呂内」とあった。ここはもう白地には入ったものと思う。
 
 白地の中心地は、この野呂内谷の山中からはずっと離れた吉野川に架かる池田大橋付近である。国道32号と国道192号の分岐点となる白地という交差点がある。 その吉野川沿いとは禿の山を北に越えた山中の野呂内が、同じ白地であるのが不思議なくらいだ。直接結ぶ幹線路が見当たらない。
 
 道はどこまでが西山でどこからが白地なのだか、はっきりした境もないまま進んで行く。
   
道の様子 (撮影 2015. 5.29)
既に白地に入っている模様
   
<野呂内下>
 またちょっとした集落に差し掛かる。道路地図などには野呂内下とある集落であろう。 西山に下野呂内があるので、そこと区別する為に白地では野呂内下と呼んだものか。白地には上野呂内がある。
   
野呂内下の集落に差し掛かる (撮影 2015. 5.29)
   
 下野呂内に比べると集落の規模はやや小さいが、鮎苦谷川の対岸(右岸側)にも人家が見られた。
   

集落の様子 (撮影 2015. 5.29)
右岸にも人家

集落の様子 (撮影 2015. 5.29)
    
<道の様子>
 鮎苦谷川の谷は東西方向にほぼ直線的に通じ、その谷に沿う道も屈曲の少ない素直な道筋である。道幅はやや狭いものの、道自身の険しさは全くない。 それに厄介な対向車が皆無だ。沿道にはある程度の人家が集まった集落があり、それ以外にもポツポツと人家が散見され、耕作地も見られる。 その割には車の交通量がほとんどない。そこがまた寂しくもある。
 
 相変わらず枝道が分岐する。鮎苦谷川を右岸に渡る方向にも道が通じる。そちらには尾平という集落があるようだ。 尾平を経由し、吉野川沿岸へと続く道が地形図などに見られる。なかなか険しそうだ。

地図には尾平の集落が見られる (撮影 2015. 5.29)
ただ、この看板は本来立てるべき位置より、
ずっと上流側(1km弱)に立っていた
道も「野呂内三縄停車場線」とあるのは間違い
  

左カーブの所を右手に分岐 (撮影 2015. 5.29)
旧峠道か?
<支流の谷筋の道>
 人家もない暗い谷筋を県境の峰へと道が分かれて登っていた。 この後0.5km程で主要地方道は川沿いを離れ山腹をよじ登るが、その途中へと至る徒歩道が地形図に見える。車道が通じる前の古道であろう。 更に、元の六地蔵越を越える旧峠道の可能性も考えられる。 分岐近くに看板があったので、何か分かるかと期待したが、単なる「道路情報」で特に何も記されていなかった。 ただ、後で写真をいろいろ見ていたら、石の道標のような物が道路脇の擁壁に立て掛けてあったようだ。
 
<石灯籠>
 その分岐部分から下の川岸の方を眺めると、草むらの中に古い石灯籠のようなものが立っていた(下の写真)。
  
道路沿いの墓地の手前を川沿いへと下る道がある (撮影 2015. 5.29)
その先に古い石灯籠のような物が立つ
   
 前出の「尾平 地すべり防止区域」の看板は、実はこの直ぐ先に立っていて、その看板の脇から石灯籠へと細い道が下る。調べてみると、その石灯籠は道標らしい。 旧峠道に関係する遺物であろうか。
 
 現在の車道は川岸から少し登った高みに築かれている。元の鮎苦谷川沿いの道(野呂内街道?)は、石灯籠の立つ付近に通じていたのかもしれない。 そこから分かれる六地蔵越の峠道をその道標は指し示していたのであろうか。そうならば、谷筋を峰へと登る徒歩道は尚更旧峠道の可能性が高い。

草の中に立つ石灯籠 (撮影 2015. 5.29)
   

県道標識は依然として上野呂内 (撮影 2015. 5.29)
<字ノロウチ>
 白地内の住所としては今は「野呂内」の名が見られない。代わって「ノロウチ」とカタカナ表記の住所があるようだ。 理由は分からないが、やはり「野呂」の漢字は当て字だったのではないだろうか。 古くから「ノロ」と呼びならわされた何かがあり、漢字の「野呂」には特に意味はないのではないか。その「ノロ」がカモシカかどうかは定かでないが。
   
<県道分岐>
 鮎苦谷川沿いの単調な道に変化が訪れる。それもあまりに劇的だ。道路看板によると、川の左岸をそのまま真っ直ぐ遡るのは県道268号となっている。 一方、ここまで続いて来た主要地方道6の続きは、逆Y字で右に曲がって登って行く。そのカーブが軽自動車のパジェロ・ミニでも一度では曲がり切れない鋭さなのだ。 これから先の主要地方道6号が尋常でないことをうかがわせる。

県道268号分岐の看板 (撮影 2015. 5.29)
   
県道の分岐点 (撮影 2015. 5.29)
直進が県道268号
右に逆Y字に登る道が主要地方道6号
前方の大きな建物は野呂内小学校
   

大興寺の看板 (撮影 2015. 5.29)
 主要地方道方面へは「大興寺 18Km」と案内がある。大興寺は六地蔵越を旧山本町側に下った所にある。さすがに四国遍路の地であり、こうした札所の案内はしっかりしている。
 
<県道268号>
 県道268号は野呂内三縄停車場線と呼び、この分岐点より土讃線の三縄(みなわ)駅へと通じる。三縄駅は池田大橋より少し上流側だ。 大きく迂回するが、この野呂内の地から白地の中心地までを結ぶ道と言える。沿道には上野呂内の人家が点在するようだ。 訪れたことがないのでどのような道か分からないが、野呂内と外界とを結ぶ道としての利用価値は高いのだろうか。 国道32号経由とではどちらのルートが使われる機会が多いのだろうか。 県道268号は車道としては鮎苦谷川本流の最も上流に至り、その後分水界を越えて吉野川の支流・馬路川沿いに降り立つ。 これも一種の峠道であり、一度訪れたいものだ。
 県道268号方向の看板には「雲辺寺 7km」とある。県道の頂上部から道が分かれ、雲辺寺のある稜線へと通じている。
   
<野呂内小学校(余談)>
 分岐より県道268号方面を向くと、大きな建物が目に入る。鉄筋コンクリート造りの3階建で、鮎苦谷川沿いでは珍しく大きな建造物だ。 ここだけ見ると、何だかちょっとした街中に出て来たように錯覚する。その建物は野呂内小学校で、これを建てた時の住民の意気込みさえ感じる。 しかし、残念ながら今は休校中とのこと。周辺には人影を見ない。ひっそりと大きな建物だけが立っている。 下野呂内小学校も廃校になり、鮎苦谷川沿いの子供たちはどこへ行ってしまったのだろうか。
 
 この小学校の住所が白地字ノロウチで、やはり「野呂内」とは書かないようだ。

分岐より県道268号方向を見る (撮影 2015. 5.29)
右手の野呂内小学校
   
<分岐の様子>
 分岐前後の主要地方道6号はほぼ並行して通じ、まるで鉄道のスイッチバックである。
   
分岐より峠方向に見る (撮影 2015. 5.29)
左に登る道が峠へ、右は国道32号方面へ
どちらも主要地方道6号
   

やまだの谷 (撮影 2015. 5.29)
峠道とは何の関係もなかった
<やまだの谷(余談)>
 分岐付近の主要地方道寄りに砂防指定地の看板が立っていた。「やまだの谷」とある。この分岐からの峠道は鮎苦谷川本流から離れ、その支流沿いに峠を目指す。 その支流「がやまだの」谷かと思ったのだが、後でよくよく見ると、学校の裏手付近の谷のことであった。地図には「文」とまだ学校を表す記号が書かれていた。
   
   
   
峠への登り
   
<最終ステージ>
 県道268号を分けて以降、道はいよいよ第3区間・最終ステージとなる。峠まで約3km。ここが六地蔵越の道で最も険しい。これまではいわば序章でしかなかった。 かなり話の長い序章ではあったが・・・。
 
 道は暗い林の中へと入って行く。直ぐに「異常気象時 交通規制区間」の看板が立つ。「中間点」ともある。 特にこの先は人家も途絶えるので、荒天時には通りたくないものだ。

「異常気象時 交通規制」の看板 (撮影 2015. 5.29)
   

道路情報の看板 (撮影 2015. 5.29)
特に何もなし
<道の様子>
 道路情報の看板には特に何も書かれていなかった。一応通行は確保されている様子だ。しかし、この道を使う者は果して居るのだろうかと疑いたくなるような道である。 鮎苦谷川沿いには人家が点在し、少ないながらも地元民の通行があるだろう。しかし、六地蔵越で県境を越え、香川県まで用事がある者はそうは居ないだろう。 スーパーマーケットの買い物にわざわざ観音寺市街へは出掛けまい。また、香川県の広大な讃岐平野から遥々讃岐山脈を越え、野呂内の山中に何をしに来るというのか。 余程特別な事情がない限り、この道に入り込む車はないだろう。我々のような峠趣味人をのぞいては。
   
 道は支流の谷の崖にへばり付くように通じ、道幅は狭く路肩は谷へ切れ落ちている。ガードレールや橋の欄干も不十分だ。 路面は古びたアスファルト舗装で、これはもう林道としかいいようがない。主要地方道だと思って訪れた者は、裏切られた感じることだろう。

林道の様な道 (撮影 2015. 5.29)
   
<展望>
 道は名も知らぬ支流の谷の右岸を登る。 暗い林の中を700m程進むと、一瞬だけ視界が広がる。支流の谷を挟んで、その先に鮎苦谷川本流の谷が下流(東)方向に望める。
   
視界が一瞬開ける (撮影 2015. 5.29)
   

徳島県側唯一の展望 (撮影 2015. 5.29)
 六地蔵越の徳島県側は、国道32号区間を除くと、多くは鮎苦谷川の川沿いで、山腹を登り始めてからも木々が林立する林の中だ。 展望は皆無に近い。この一瞬開けた景色が、徳島県側唯一の展望となる。そこを過ぎると再び頭上を覆うばかりの樹木に囲まれる。
   
<支流の谷を詰める>
 道は支流の谷の上部を詰め、小さな橋を渡り、その左岸側を戻りながら登り始める。 鮎苦谷川沿いから分かれて直接この支流の谷筋を登って来た古道は、ここで一旦車道に接続していたのだろうが、はっきりとは分からない。 ただ、ドラレコ画像を確認すると、更に峰の方向へと道が続いているように見える。

支流の谷を詰める (撮影 2015. 5.29)
左手に道のような物も見られる
   
<左岸から更に東の谷へ>
 道は東へと大きく迂回を始めている。最初の支流から更に東隣の谷へと移って行く。この冗長区間は車道開削によるものだろう。 徐々に標高は上げるものの、なかなか峠までの距離は縮まらない。 暗い林の中をクネクネ曲がってばかりの道では方向感覚も狂い、どちらを向いているのか分からなくなってくる。
 
 道は狭いばかりでなく、途中に待避所となる路肩が極めて少ない。妻は頻りと対向車を気にする。 確かにこんな道で車に出会ったら、どうやって離合していいか分からない。しかし、良くしたもので、このような寂しい道には滅多に車はやって来ない。

暗い林の中 (撮影 2015. 5.29)
左岸側を登る途中
   
<分岐>
 鮎苦谷川沿いから2km程登ると、はっきりした道の分岐に出る。直進方向に寂れた道が分かれている。 左に曲がる方に県道標識が立ち、それが本線で、「大興寺」と案内看板も立つ。
 
 直進する道は更に東へと山腹を横断し、行く行くは野呂内下辺りの鮎苦谷川沿いに降り立つようだ。その途中、桧尾という集落名が見られる。
   
分岐 (撮影 2015. 5.29)
左が峠へ、直進は野呂内下方面へ
   

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
<分岐以降>
 道は最初の支流の谷の左岸に通じ、谷の源頭部を目指して登る。その先の稜線上に僅かな鞍部があり、そこに峠が通じる。概ね道の左手に谷を臨む。 繁茂した木々が谷を埋めている。それ程深くはなく、恐怖感はないが、道の狭さには相変わらず閉口する。
   
 待避所も皆無と言ってよい。峠直前の1km程の区間、軽自動車同士でもまず離合は不可能だ。
 
 後に地形図を眺めてみると、この付近が元の六地蔵越に最も近付いていることになる。 しかし、ドラレコ画像などを眺めてみても、旧峠へと登る山道が分かれていたような形跡はない。 現在の車道と旧道がどの程度一致していたか全く情報がないので、憶測ばかりだ。

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
狭い道が続く
   

峠直前 (撮影 2015. 5.29)
この先が峠の長い切通し
<峠直前>
 狭い道にやっと手頃な待避所が出て来たと思ったら、その先は峠の切通しに続いていた。峠直前になっても空は開けず、不意に峠に着いてしまった。
   
 待避所の側らに内やら看板が立っていると思ったら、何も書かれていない工事看板であった。いつでも工事ができる準備であろうか。
 
 峠の徳島県側は、この工事看板の場所からほぼ真っ直ぐ県境へと向かう。距離で70mくらいもあるだろうか。 これを全て峠の切通しと考えると、随分長い切通しである。徳島県側に車を停めるには、この工事看板の脇しかなく、峠の頂上までは長く歩かなければならない。

工事看板 (撮影 2015. 5.29)
   
   
   
   
六地蔵越 (撮影 2015. 5.29)
徳島県側から見る
右手に「異常気象時 通行規制区間 起点」の看板が立つ
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<峠の様子>
 徳島県側からだと、長い坂道を登り切った頂上に県境を示す看板が立つ。その先の香川県側の切通しは短い。
   
峠の県境部分 (撮影 2015. 5.29)
徳島県側から見る
   
 徳島県側に向かっては、「徳島県三好市」と県境看板が立つ。その奥には青色の看板で「異常気象時 通行規制区間 起点」とある。 国道32号からの分岐付近でも「起点」であり、「終点」の看板がない。
   
香川県側から見る峠 (撮影 2015. 5.29)
   
<二軒茶屋>
 徳島県の県境看板が立つ脇から、北の稜線方向に山道が始まっていて、小さな木の看板に「二軒茶屋」とあった。 北の稜線と言うと、元の六地蔵越があった方角である。 その古道の茶屋跡でもあるのかと期待したが、念の為地形図を眺めて見ると、遥か東の猪ノ鼻峠の先に「二軒茶屋」と記された場所がある。そのことらしい。 六地蔵越とは何ら関係なかった。
   

県境看板脇から右手に山道が始まる (撮影 2015. 5.29)
香川県方向に見る

二軒茶屋の道標 (撮影 2015. 5.29)
   
<峠の香川県側>
 徳島県の県境看板がある付近が道の最高所である。少し下って道が右に曲がり始める辺りに香川県の県境看板が立つ。「香川県三豊市」とある。 その脇を今度は南の稜線方向に山道が始まる。足元に「うんぺんじ」と道標が落ちている。しかし、まさかお遍路が歩くことはないと思う。 切通しの片隅に「六地蔵越 阿讃縦走コース」と書かれた小さな看板があった。今の六地蔵越は雲辺寺から二軒茶屋と続く讃岐山脈縦走路の通過点であった。
   

うんぺんじ (撮影 2015. 5.29)

香川県の県境看板 (撮影 2015. 5.29)
その脇から左手に雲辺寺への山道が始まる
左脇には「六地蔵越 阿讃縦走コース」と小さな看板がある
   

峠の香川県側 (撮影 2015. 5.29)
<香川県側の様子>
 香川県の県境看板を過ぎると、その箇所だけ僅かに空が開け、日が射し込んで明るい雰囲気だ。路面も良くなって道幅もある。 どうにか車一台が路肩に停められそうだ。
   
<六地蔵>
 この峠で最も関心があったのは、峠名の由来ともなった「六地蔵」である。 現在の主要地方道6号の峠は本来の六地蔵越ではないが、それでも何らかの手掛かりがないかと期待していた。 すると、道路脇にしっかりしたお堂があるではないか。

香川県側より峠方向を見る (撮影 2015. 5.29)
   

六地蔵が祀られているお堂 (撮影 2015. 5.29)
正式には堂宇と呼ぶらしい
<お堂の標柱>
 脇に標柱が立ち、そこに書かれている内容で、ことの真相が判明する。
 石造六地蔵菩薩
 六地蔵越えの旧道の路傍にあったが
 昭和四十五年この地に移転した
 建立 平成元年十二月

 とある。お堂に祀られる六地蔵は本物であった。昭和45年(1970年)に旧峠からこの峠に移されてきたものである。 その後、平成元年(1989年)に標柱などを新しく建てたらしい。
 
<堂宇>
 この小さなお堂は正式には「堂宇」(どうう)と呼ぶそうだ。安置された地蔵の背後に説明文が書かれた木板が掛かっている。 それによると、この堂宇は昭和53年(1978年)秋の建立とのこと。六地蔵の移設後、暫く経ってから新しく造った堂宇の中に祀られたようだ。
   

石造六地蔵菩薩の標柱 (撮影 2015. 5.29)
「建立 平成元年十二月」

石造六地蔵菩薩の標柱 (撮影 2015. 5.29)
「六地蔵越えの旧道の路傍にあったが
昭和四十五年この地に移転した」
   
<古い標柱>
 堂宇の中の片隅に、掃除道具などと一緒に古そうな木製の標柱が立て掛けてあった。表面の文字はかすれ、僅かに「今は荒廃している」などと読める。 多分、旧道のことなどが記されていたのだろう。平成元年建立の石の標柱は、多分この後継ではないだろうか。
 
<六地蔵と不動明王>
 六地蔵というからてっきり6体の地蔵が並んでいるものと思いきや、堂宇の中には石碑が2基佇むばかりだ。 文献や説明文によると、一つの石板に6体の地蔵を浮彫りにしているとのこと。確かに左側の石碑には小さな地蔵が6体彫られてあった。 その内4体には前垂れも施されていた。ただ、経年の摩滅によって顔の表情などははっきりしない。
 
 尚、右の石碑は不動明王碑とのこと。こちらも摩滅が激しく、石碑の表面に何が刻まれていたのかさっぱり分からなかった。 どちらの石碑も同程度の古さなので、不動明王も元は旧峠に祀られていたのであろう。

左が六地蔵、右は不動明王 (撮影 2015. 5.29)
左端のほうきなどに混じって古い標柱があった
   
<六地蔵の「六」(余談)>
 仏教でいう「六道」、天、人、修羅、餓鬼、畜生、地獄に関係するようだ。地蔵菩薩にはそれぞれに対応した6つの分身があり、それで六地蔵となるらしい。 数珠を持つのは「天道」などと、その地蔵の姿で区別できる可能性があるのだが、余程丹念に石碑を調べなければ、判別できそうにない状態だった。 尚、菩薩や明王は仏様の種類となる。
   

お堂の中の説明文 (撮影 2015. 5.29)
日付は昭和54年3月
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<旧道(余談)>
 六地蔵の他にもう一つの関心事は旧峠の存在だ。地形図には今も元の位置に「六地蔵越」と記載がある。 文献などでは峠の標高を607mとしている(632mとするものもあるが誤記か?)。説明文では猿ヶ額(さるがふたい)という尾根とある。 峠道は徳島県の旧池田町と香川県の旧山本町との間に通じていたが、峠の位置は旧山本町の東隣の旧財田町(さいたちょう、現三豊市)との境にほぼ一致する。 現在の地形図では標高610mを超える。
 
 旧峠から香川県側に下る道筋は、地形図に徒歩道(点線表記)があり、それが旧道ではないだろうか。途中で現在の主要地方道に合している。
  一方、徳島県側の道がさっぱり分からない。峠は鞍部でない為、峠直下に下る谷がない。 現在の主要地方道の車道と重なる部分もあると思うのだが、旧峠から車道へと下る経路が見当がつかないのだ。 車道の峠の標高は約550mで一方旧峠は約610mである。何故、わざわざ高い尾根を越える経路を採ったのだろうか。
   
<くりの道越(余談)>
 余談だが、文献に、六地蔵越(え)および「くりの道越(え)」の両方を「野呂内越(え)」といったとある。この「くりの道越」が不明である。 やはり讃岐山脈を越える峠の一つだったのだろうか。
   
<峠道の変遷>
 説明文には、根拠は不明だが、寛永(かんえい)10年(1633年)以前から開かれていた大道だったとある。 関ヶ原の役が1600年だから、江戸時代に入った頃にはもう立派に利用される峠道だった。 また、峠の六地蔵は江戸中期に建立されたとのことで、1700年代には阿波・讃岐の国境を越えて物資交流が盛んに行われたらしい。 阿波からは野呂内で焼かれた炭を人の肩に担いで峠を越え、讃岐側の平野に下った所で馬車に引き継いだそうだ。 また、讃岐からは米や海産物が野呂内の山中にもたらされた。 説明文では観音寺浦(観音寺町)とか詫間津(詫間町)といった地名が見られるが、そうした沿岸に揚がった魚介類が六地蔵峠を越えたのであろう。
 
 こうした物資交流はこの付近の讃岐山脈を越える曼陀峠や猪ノ鼻峠なども同じことである。どの峠が利用されるかは阿波側の事情に依ったであろう。 馬路川流域との交流なら曼陀峠、鮎苦谷川上中流域(野呂内地区)なら六地蔵越、鮎苦谷川中下流域から吉野川沿いの阿波池田方面なら猪ノ鼻峠といったところか。 ただ、猪ノ鼻峠や曼陀峠に比べると、六地蔵越の物資交流はやや規模が小さかったのではないかと想像する。
 
<借耕牛など>
 讃岐山脈を越える峠に共通して借耕牛(かりこうし)の風習があった。阿波側から牛を連れて讃岐の水田地帯へと出稼ぎに行くことをそのように呼んだとのこと。 山間部の阿波側に比べ、平野部の讃岐は田植期が遅れることを利用したものか。また、牛だけを賃貸しする場合もあったようだ。 この風習は昭和初期頃まで見られたという。六地蔵越も野呂内の村人たちなどが借耕牛に利用したらしい。
 ついでながら「讃岐男に阿波女」という諺があり、これは阿讃間の通婚を示したという説があるそうだ。 六地蔵越を越えて野呂内の花嫁が、異国の讃岐の地へと嫁いで行ったこともあったろう。

<峠道の衰退>
 東隣の猪ノ鼻峠は明治期には四国新道(国道32号の前身)に指定され、四国の大動脈へと変貌していく。 更に昭和34年から同37年にかけて国道改修工事が行われ、昭和39年には猪ノ鼻トンネルなどの開通と共に国道となっている。 また西隣では曼陀トンネルが昭和38年に通じた。こうなると、古いままの六地蔵越は衰退するしかなかったであろう。
 
<新峠開通>
 寂れた六地蔵越も昭和33年(1958年)には県道込野観音寺線として改良編入されている。 しかし、昭和45年(1970年)に改修工事が完成した暁には、峠は現在の位置に移されてしまったようだ。その年に六地蔵も新峠に移転されている。 結局、元の六地蔵越は肝心な六地蔵も取られ、荒廃の一途を辿るしかなかったようだ。
 
<現在>
 文献では、新峠の車道開通により再び物資交流が盛んになりつつあり、今後の観光開発も期待されるとあった。県道から主要地方道にも昇格した。 しかし、見て来た限りではそのような兆候は残念ながら伺えない。もしかしたら、旧峠の時代の方が交通量は多かったのではないかと想像した。
 猪ノ鼻峠や曼陀峠はトンネルで抜けているので、同じ車道といえども六地蔵越の方が長く険しい。 野呂内からは、讃岐山脈を越えて香川県に出るより、鮎苦谷川を下って阿波池田市街へと出た方が生活には便利であろう。 また、野呂内地区そのものの過疎もあるかもしれない。六地蔵越の寂れ方は仕方ないところか。
   
   
   
峠より香川県側に下る
   
<香川県側の道>
 徳島県側は、長い道程で鮎苦谷川を遡り、最後の標高差130m程の山腹をよじ登って峠に達していた。 一方香川県側は、峠より一気に讃岐平野が広がる山際へと下って行く。峠直下の標高差350m程はずっときつい坂道だ。 徳島県側に比べると、ダイナミックな峠道といえる。
 
<山本町河内>
 峠の香川県側は三豊市(みとよし)、旧山本町(やまもとちょう)である。大字では河内(こうち)と呼ぶ土地となる。 河内は旧山本町の1/3の面積を占め、讃岐山脈の山間部に位置する。 財田川(さいたがわ)の支流・河内川(こうちがわ)の沿岸を中心に発達し、長野、轟口などの集落が点在する。

香川県三豊市側に下る (撮影 2015. 5.29)
   

蜂ヶ谷川の谷沿い (撮影 2015. 5.29)
<蜂ヶ谷川の谷>
 道は河内川の更に支流・蜂ヶ谷川の谷の右岸を下る。その谷は広く、早くも道の左手に深い谷を見下ろすようになる。
   
 道は谷の高みに通じているので、沿道は開けている。更に、最初の内は峠よりほぼ真西へと向かうので、谷は南に面し、明るい雰囲気だ。 道もやや幅が広くなり、アスファルト路面の状態も良い。徳島県側とは対照的である。まだ何も望めないが、この先に待っている広い讃岐平野を予感させる。

谷の様子 (撮影 2015. 5.29)
   

このカーブが徒歩道との合流点 (撮影 2015. 5.29)
<徒歩道との合流>
 車で走っていた時は全く気付かなかったが、旧峠から下って来た徒歩道が合流している筈だった。 ドラレコ動画を調べてみると、多分左の写真のカーブである。峠から600m程の地点だ。 しかし、小さな砂防ダムのようなコンクリートが見えるだけで道らしき痕跡はない。この徒歩道が旧道ではないかと思ったが、どうであろうか。
 
<蟻の股川>
 ここまでの徒歩道は、主尾根に位置する旧峠から西へ延びる支尾根近くを下っている。 その支尾根の前半は旧山本町と旧財田町の境で、後半は河内川の支流・蟻の股川と蜂ヶ谷川の分水嶺だと思う。
   
<薬師峠の展望所>
 香川県側で気になるのは、峠より約1.2kmの地点に記載がある薬師峠である。峠といいながらも、道は峰を越えているようには見えない立地だ。 ただ、こうした名が残ることからすると、六地蔵越の旧道はこの薬師峠も越えていたのではないか。
   
 丁度その付近と思われる所に、右手の支尾根上に登る道があった。峠というからには立ち寄らない訳にはいかない。
   

薬師峠展望所付近 (撮影 2015. 5.29)
この右に道が登る

展望所へと登る道 (撮影 2015. 5.29)
   

薬師峠の展望所 (撮影 2015. 5.29)
<展望所の様子>
 支尾根のちょっとした隆起に東屋が設けられていた。地形図に標高471mとあるピークだ。そこから西方への展望が広がった。 まぎれもなく六地蔵越の峠道では一番の眺望だ。讃岐山脈を抜けた先に讃岐平野の一端が広がる。この眺めを昔の峠を越えて来た者も堪能したのであろうか。
   
展望所からの眺め (撮影 2015. 5.29)
峠道一番の眺望
   
<旧道の道筋>
 展望所からは支尾根上を峠方向に道が通じていそうであった。 もしかすると、旧道は峠からずっと支尾根上に通じ、この展望所のある地点まで下っていたのではないだろうか。ただ、地形図にはそのような道筋は描かれていない。 また、展望所が立つピークを西に巻くようにして道が続いている。その先をのぞくと、現在の車道に下っているようだった。 後になって、この展望所を巻く道が旧道ではないかったかと思い始めたのだった。
   

展望所より峠方向を見る (撮影 2015. 5.29)
パジェロ・ミニの後ろに道が通じていそうであった
手前右は車道へ
左は展望所の西側を巻く道へ

展望所を巻いて下る道 (撮影 2015. 5.29)
   
<薬師峠>
 この展望所は蟻の股川と蜂ヶ谷川との分水界にある。もし、旧道が蟻の股川側から蜂ヶ谷川側へと越えていたら、その場所は峠と呼ぶにふさわしい。 展望所の西側を巻く道は、そここそが薬師峠ではないだろうか。
   

展望所の西側に通じる道 (撮影 2015. 5.29)
もしかしたらここが薬師峠

展望所脇から車道へと下る道 (撮影 2015. 5.29)
下にガードレールが見える
   
<薬師如来の石碑>
 車道に戻り数10m下ると、展望所脇から下って来た道が合流して来る。その角に石碑が立っていた。 詳しくは調べなかったが、石碑の表面には多分薬師如来が彫り込まれているようだった。比較的古そうな石碑である。 きっと、六地蔵越の旧道が通じていた頃には建立されていたものだろう。この付近に旧道が通じていたことの証となるのではないだろうか。
 
 六地蔵越には地蔵菩薩と不動明王、薬師峠には薬師如来が祀られていたことになる。この峠道には如来、菩薩、明王と仏様の勢ぞろいだ。


薬師如来の碑 (撮影 2015. 5.29)
奥の脇から道が下って来ている
   
   
   
薬師峠以降
   

蜂ヶ谷川源頭部へ下る (撮影 2015. 5.29)
道は峠方向を向く
<蜂ヶ谷川源頭部へ>
 薬師峠を過ぎると道は180度転回して峠のある東へと下りだす。蜂ヶ谷川右岸の谷沿いを川の源頭部へと引き返すのだ。
 
 このように大きく蛇行する峠道はもう旧道とは全く無縁であろう。車道開削に伴って新しく付けられた道筋と思われる。 旧道は薬師峠からそのまま蜂ヶ谷川と蟻の股川との分水界となる尾根付近を蜂ヶ谷川下流へと下って行ったものと思う。
   
<峠の鞍部を望む>
 蜂ヶ谷川の上流方向へと下りだし、暫くすると峠が通じる稜線が望める。西の端っこではあるが、讃岐山脈の主稜である。 峠があると思われる鞍部らしい箇所も確認できた。
 
<蜂ヶ谷川左岸>
 道は峠直下に流れ下る蜂ヶ谷川の源頭部を回り込み、また180度転回して今度は左岸沿いを下流方向へと下りだす。 山肌の起伏に沿った細かな屈曲が繰り返えされる。少し下ると、谷間の景色が僅かに広がった(下の写真)。後はただただ長い道程を消化するばかりだ。 左岸沿いに続く区間は2.5km程だ。その間、やや退屈でもある。

峠方向を望む (撮影 2015. 5.29)
正面の鞍部に峠があるのだろう
   
蜂ヶ谷川の谷を望む (撮影 2015. 5.29)
   

道の様子 (撮影 2015. 5.29)
細かな屈曲を繰り返す


道の様子 (撮影 2015. 5.29)
なかなか立派だ
   

蜂ヶ谷川沿いへ下る (撮影 2015. 5.29)
黄色い●2つの看板
<蜂ヶ谷川沿いへ下る>
 左岸の谷を少し折り返し、川沿いへと下る。道は快適で新しそうなアスファルト路面もある。道幅も格段に広くなり、一部にセンターラインも見られた。 最近補修工事が行われたのではないだろうか。
 
<看板>
 黒地に黄色の丸が2つ描かれた標識が出て来た。何を表すのかさっぱり分からない。今後もこの標識を幾つか見掛けることとなった。
   
<蜂ヶ谷川右岸沿い>
 蜂ヶ谷川を横切ってその右岸沿いに出る(下の写真)。この辺りではまだそれ程川らしくなく、橋らしい物も架かっていない。 側らに砂防指定地の看板が立っていた。「蜂ヶ谷川」と河川名がある。ここより上流側に何段かの砂防ダムが築かれているようだ。
   

蜂ヶ谷川を横切る (撮影 2015. 5.29)
右手に砂防指定地の看板が立つ

砂防指定地の看板 (撮影 2015. 5.29)
   
<蜂ヶ谷川の河川名(余談)>
 地形図や一般の道路地図ではこの川の名はなかなか分からない。ある川の名が分かるwebで調べると「峰ヶ谷川」と出ていた。 ところが砂防指定地の看板をよくよく見ると「蜂ヶ谷川」であった。微妙に異なる。ここでは現地の看板を信用することとする。
   
<蜂ヶ谷川右岸沿い>
 右岸に戻って道はほぼ谷の斜面を下り切り、ここからは概ね川沿いだ。左手に蜂ヶ谷川を臨む。 川沿いになって勾配はやや緩やかになり道は安定してきたが、かえって道幅は狭くなった。そんな時に限って対向車に会う。 主要地方道6号に入って以降、ほとんどお目に掛からなかった対向車である。軽のワンボックスで屋根に梯子などを積んでいる。 何かの工事に向かうようだ。やはり一般車は来ない。
 
<旧道が降り立つ箇所>
 薬師峠からそのまま右岸沿いを下ったであろう旧道は、多分この辺りの道に降り立ったのではないかと想像する。 しかし、道らしい痕跡は見当たらなかった。

蜂ヶ谷川右岸沿い (撮影 2015. 5.29)
旧道もこの辺りに通じていたのではないだろうか
   

蜂ヶ谷川左岸へ (撮影 2015. 5.29)
看板に「ガマン谷」とある
<蜂ヶ谷川左岸へ>
 現在の車道の経路は複雑だ。折角川沿いに出ながらも、また左岸へと渡り返し、今度は河内川本流方向へと向かう。
 
<ガマン谷>
 左岸に渡る橋の上流側を見ると、小さなダムが見える。地図上では溜池があるようだ。そちらへ藪の道が分かれる。
 
 橋の袂には「土石流危険渓流 財田川水系 ガマン谷川」と看板があった。財田川水系はいいが、ガマン谷とはどうしたことか。 折角、蜂ヶ谷川だと思っていたのに。
   
<河内川本流へ>
 河内川の源流は六地蔵越より更に西に位置する。道は支流の蜂ヶ谷川から河内川本流へとトラバースし始めた。右手には緩斜面が広がりだし、景色が一変する。 脇道を下った先に水田も広がりだした。すがすがしい景観だ。 徳島県側の鮎苦谷川沿いを離れてからこのかた、人家は皆無で人気が全く感じられない峠道であったが、ここに来てやっと人里の雰囲気である。 遠くに人家の屋根も見えだした。
   
脇道を下った先に水田を望む (撮影 2015. 5.29)
   
<沿道に人家>
 ビニールハウスなどが出て来て、僅か1、2軒ではあるが遂に沿道にも人家が立つ。ちょっとした高台に位置し、河内川の広い谷の眺めが良さそうな立地だ。
   
沿道に人家 (撮影 2015. 5.29)
   
<河内川沿いへ>
 人家を過ぎると道がちょっと立派になり、河内川沿いへと下る。ヘアピンカーブで左岸に渡り、やっと河内川本流沿いとなった。 さすがに本流だけあって川幅も広い。
 
 文献によると、河内川源流は字轟口1905番地だそうだ。この付近の集落は轟口となるのであろうか。

河内川沿いへと下る (撮影 2015. 5.29)
   

河内川左岸沿いに出る (撮影 2015. 5.29)

河内川左岸沿いに出る (撮影 2015. 5.29)
   
<河内川左岸沿い>
 これからはもうずっと立派な道かと思いきや、また数100m程狭い区間が残っていた。そして黄色い丸2つの標識を2回程見掛ける。 一体何を意味するのだろうか。
 
<平坦地へ>
 河内川の岸辺が広がりだす。耕作地も出て来た。ネギが栽培されているようだった(下の写真)。

例の標識 (撮影 2015. 5.29)
   
平坦地へ (撮影 2015. 5.29)
周辺に耕作地も広がりだす
   

通行規制区間終点 (撮影 2015. 5.29)
<通行規制区間終点>
 峠から下ること約6.5km、一つの交差点に異常気象時の通行規制区間終点の看板が出て来た。 香川県側についても、峠を起点としてここまでが通行規制区間だった。結局、主要地方道6号の徳島県側起点からここに至る約17km全てが規制区間となる。
 
 この後、主要地方道6号は観音寺市街へとまだまだ続くが、これから先は讃岐平野に続く平坦地である。峠の旅もここまでとする。
 
 それに、この十字路を左に折れて雲辺寺ロープウェイ駅に行き、雲辺寺を参拝しなければならない。妻の趣味の御朱印をもらいに行くのだ。 妻には峠の旅に付き合ってもらう代わりに、私は寺社参りもこなさなければならないのだ。 一般人など全く訪れない寂しい峠道から、一転、最近は中国語なども氾濫する観光地へと車を向けるのだった。
   
   
   
 古くは阿波と讃岐を結ぶ交通の要路とも言われた六地蔵越であったが、讃岐平野の一角の河内に降り立ってみると、阿讃山地一つ越えた山中の野呂内のことなど、 もう何の関わり合いもないといった風に穏やかな平野が広がるばかりだ。 この付近の徳島・香川の県境越えの交通は、猪ノ鼻トンネルが一手に引き受けているのだろう。
 
 かつて、阿波の野呂内から約10kmの峠道を2俵の炭を肩に担いで河内へと運び、馬車に荷を引き継いだという。 また、借耕牛や婚姻などで人や牛の往来も少なくなかった。一方、讃岐からは阿波の山中では採れない米や魚が運ばれた。 こうして険しい峠を挟んでも人と人の濃密な関係が築かれていた。一時期寂れていた峠も昭和45年には車道が通じ、峠越えは格段に便利になった。 しかし、その道を使う人々はもう戻って来ない。阿波と讃岐を結ぶ峠道の距離は、依然として縮まったようには思われない、六地蔵越であった。
   
   
   
<走行日>
・2015. 5.29 徳島県 → 香川県 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 37 香川県 昭和60年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2015 Copyright 蓑上誠一>
   
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