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山伏峠
  やまぶしとうげ  (峠と旅 No.241)
  新旧2つのトンネルが通じた、旧沢内街道の峠道
  (掲載 2015. 9.19  最終峠走行 2012.11. 5)
 
   
   
山伏峠/山伏隧道 (撮影 2012.11. 5)
見えている坑口は岩手県和賀郡西和賀町(にしわがまち)沢内貝沢(さわうちかいざわ)側
(旧和賀郡沢内村貝沢)
隧道の反対側は同県岩手郡雫石町(しずくいしちょう)南畑(みなみはた)
道は主要地方道1号・盛岡横手線
山伏隧道の標高は約480m (地形図の等高線より)
ご覧の通り、山伏隧道(旧山伏トンネル)の坑口は既に塞がれている
但し、西和賀町側からならトンネル坑口までの旧道は維持されていて、
山伏隧道は「雪っこトンネル」とい施設になっている

   
   
   
<山伏峠>
 このところ四国の峠の掲載が続いたので、ここで少し目先を変え、東北の峠を取り上げようと思う。 最初は岩手県の峰越峠(県道234号、雫石町・花巻市) にしようかと地図を眺めていると、直ぐ近くに山伏峠があった。 「山伏」という名の峠は多く、身近では山梨県の道志村と山中湖村の境にある 山伏峠を想い出す。すると、この二つの峠に共通点があることに気が付いた。 どちらも新旧二つのトンネルが通じ、旧トンネルの方は既に坑口が塞がれているのだ。同じ名前を持つ峠が、同じような境遇にある。 これはちょっと面白いなと思ったのが、今回の山伏峠を掲載する唯一の動機となった。
   
<所在>
 峰越峠に比べると、山伏峠は新しいトンネルが通じ、道も立派な主要地方道で、険しい峠道でも何でもない。 大きな山脈を越える訳でもないので、地図上で所在を示すのが難しい。自分でも時々見失うことがある。 大体、盛岡市より少し南で、岩手・秋田の県境を成す奥羽山脈にほぼ並行して南北方向に通じる峠道だ。
 
<西和賀町と和賀川>
 峠の南側は和賀郡・西和賀町(にしわがまち)となる。旧沢内村である。北上川の支流・和賀川(わがかわ)の上流部に位置する。 峠もほぼ和賀川の源流部に近い。
 
<雫石町と雫石川>
 峠の北側は雫石町(しずくいしちょう)となる。こちらには北上川の支流・雫石川が流れる。北に位置する分、和賀川よりも北上川上流に注ぐ支流となる。 ただ、峠は更に雫石川支流の南川(南畑川とも)の上流部に位置する。和賀川も雫石川も、その源流は奥羽山脈の山稜である。
   
<沢内盆地と雫石盆地>
 西和賀町の峠部分はほぼ全部が旧沢内村であった。その村域を概ね「沢内盆地」と呼ぶようだ。 西は奥羽山脈の主稜、北は主稜から派生する尾根、東は和賀川と北上川本流やその支流を隔てる山稜に囲まれた、和賀川上流部の水域である。
 
 一方、雫石町側にも「雫石盆地」との呼び名がある。雫石川の中流部に御所湖(ごしょこ)があるが、概ねその湖より上流の水域全体を指すものと思う。 西は奥羽山脈、東は北上川本流とを隔てる山稜、そして南側の山稜に山伏峠がある。山伏峠は沢内盆地と雫石盆地との水域を分かつ峠である。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができます)
   
<峠名>
 地理院地図で「山伏峠」と検索すると、9峠程ヒットする。これでヒットしない山伏峠は他に幾つもある。 今回の山伏峠も「山伏峠」ではヒットせず、地形図には「新山伏トンネル」で掲載されている。
 
 一般に、「山伏」とは地形がフセ(伏せ)た山容をしていることから名付けられたとされるようだ。また、修験者の「山伏」を指す場合もあるだろう。 日本に数ある山伏峠の多くは、この「山容」か「修験者」に関係して名付けられたのではないだろうか。
 
 今回の山伏峠には、「山容」の他にまた別の説があるとのこと。 「岩手郡誌」によると、当峠は山伏(修験者)の修験道であり、 この峠道で山伏が蚊虻(ぶんぼう、カとアブ)に螫殺(しゃくさつ?)されたという伝説のよるらしい。 虫に螫(さ)されて死んだかどうかは別として、大きく見れば「修験者」説の一つとなろう。
 
<峠名の由来(余談)>
 個人的には、「山容」説の方が信憑性が高そうに思っている。 山伏という集団が存在する以前より、地元民の生活路や山仕事・狩猟の実用道として峠道が存在したことだろう。 道に関して近隣の者同士で情報交換するにも、見た目での様子を説明した方が分かり易い。 「どこそこへ越える峠は、お椀を伏せたような山を目指して登ればいい」などと言い交したのではないだろうか。 ただ、山伏が修験道として初めて切り開いたような峠道もあったかもしれない。 また、「昔、峠を越えようとした山伏が虻に刺されて死んだとさ」などと伝わる峠の由来の方が、後世の者が聞いていて面白い。
 
<「峠」の由来(余談)>
 尚、「峠」の由来は「手向(たむ)け」であるというのをよく目にする。 一方、峠が越える稜線の鞍部を「たお」とか「たわ」と呼び、これが転訛して「とうげ」になったとも言われる。 「たわ」は現在でも使われ、仮称:ヤマビコ峠は登山地図では「大ダワ」と記されている。 また字は違うが大多和峠(おおだわ)という名の峠もある。 面白い由来を持つトリガタワ(鳥ヶ乢)と呼ぶ峠もあった。
 
 人が歩いて高い峰を越えようとすれば、なるべく低い所を越えようとし、当然ながらそこは稜線がたわんだ部分であったろう。 そうした地形を表している内に、峠の部分を示す言葉になって行ったのではないだろうか。峠越えは苦難を伴い、命の危険もあった。 何とか無事に稜線上のタワに取り付き、そこを越えようと懸命である。 峠で知人や故郷との別れを惜しむ「手向け」といったやや感傷的な話ではなく、もっと実用的で切実なものが、「峠」の起源ではなかったかと思いたい。
   
<沢内街道>
 山伏峠を越える道は、現在は主要地方道1号・盛岡横手線となっているが、古くは「沢内街道」と呼ばれたようだ。 沢内の石高は三千石で、この田は盛岡藩の隠田と呼ばれたとのこと。 盛岡城下から山伏峠を越えて沢内の地に至るのがその沢内街道であり、主に盛岡藩にとって重要な街道であったようだ。 また、盛岡から沢内を経由し、秋田領へと通じる道としての利用もあったらしい。 現在の国道107号の巣郷峠を越えて秋田県へと入るルートであったろうか。
 
 山伏峠の沢内街道は盛岡側(雫石町側)は南畑川に沿って屈曲が多く、難路であったらしい。 そうした険しい山稜を越えた奥地にあったことから、「隠田」ともよばれたのだろう。 今の主要地方道を走っている限りには、そんな険しさは微塵も感じない。
   
<長橋峠(余談)>
 尚、沢内街道の峠に関してはやや事情が複雑だ。 寛文9年(1669年)、あるいは寛文11年(1671年)以前は山伏峠ではなく「長橋峠」を越えていたというのである。 現在の道路地図にこの「長橋峠」は見付からない。 ただ、和賀川の支流に長橋川という川があり、その上流部に現在は貝沢トンネル(竣工 1992年12月)が開通している。山伏峠の北2km程の稜線上である。 古い道路地図ではトンネル前後にまだ車道が通じていなかった。この峠道は、雫石町の鶯宿(おうしゅく)温泉と旧沢内村の貝沢(大木原)とを結んでいる。 どうやら貝沢トンネルの前身が長橋峠ではなかったろうか。
   
   
   
西和賀町から峠へ
   
<和賀川沿い>
 冬場、北上川沿いの東北自動車道から分かれ、和賀川沿いの秋田自動車道に入れば、途端に雪深くなる。 北上西ICで高速を降り、国道107号を秋田方面へと進むと、雪に煙る錦秋湖(きんしゅうこ)を望む。 早朝に青空も見える東京を出発し、午後3時にはもうどんよりと曇った雪国を旅することとなる。
 
 国道は錦秋湖を過ぎると左折して川尻橋で和賀川を渡り、支流の鬼ヶ瀬川を遡って巣郷峠で奥羽山脈を越え、秋田県の横手市へと下って行く。 (右の写真は川尻橋を渡った先の秋田方面側から見る)

川尻橋 (撮影 2009. 1. 4)
国道107号上を秋田方面から見る
橋を渡って左折が主要地方道1号
右折が国道の続き(北上方面へ)
   

主要地方道1号側より川尻橋を見る (撮影 2009. 1. 4)
直進は北上方面
右折は秋田県の横手方面
<主要地方道1号>
 一方、川尻橋を渡らず、そのまま和賀川沿いを直進するのが山伏峠を越える主要地方道1号・盛岡横手線で、 空色をした鉄骨の川尻橋の袂がこの主要地方道の西和賀町側起点となる。(左の写真は峠を背にして主要地方道上より見る)
 
 現在、「沢内街道」と呼ばれるのは主要地方道の部分で、秋田へ通じる国道の方は「平和街道」と呼ばれるようだ。 県境は秋田県側の平鹿郡と岩手県側の和賀郡との郡境でもあり、それぞれの頭文字を取って「平和」街道と名付けられたとのこと。
   
 和賀川という川の流れから見ると、山伏峠から下り、錦秋湖を過ぎて北上市街に至るまでが、一つの道筋と言える。 川尻橋を渡る国道の方が、そこより分岐する枝道の様でもある。 ただ、相手は国道で県境を越えることもあり、山伏峠の峠道は、主要地方道と同じく、川尻橋の袂が起点ということになろう。
   
主要地方道1号を峠方向に進む (撮影 2009. 1. 4)
左手に和賀川を望む
奥に赤い湯本大橋が架かる
   
   
   
湯本温泉(寄道)
   
 国道が分かれて行った後の主要地方道は、和賀川左岸沿いを暫し進む。すると左手に赤い湯本大橋が見えて来る。 主要地方道はその橋を渡るが、その手前を右に分岐する道がある(下の写真)。入口には「歓迎 湯本温泉」と看板が立つ。
   
湯本温泉への分岐 (撮影 2003.12.27)
左が主要地方道の続きで、湯本大橋を渡る
右折が湯本温泉街へ
   
 今回の山伏峠(正確には新山伏トンネル)を越えたのは過去に一回だけだが、その付近には何度か旅をしている。
 
 湯本温泉は宿泊したことはないが、トイレ休憩がてらに立ち寄ったことがある。 湯本温泉は他の「湯本」と区別する為か、「岩手湯本温泉」とも呼ばれるようだ。主要地方道とは反対側の和賀川左岸に温泉街が広がる。 川に面した一角に無料の駐車場があり、足湯やトイレが併設されている。そこからは和賀川が眺められ、ちょっとした渓谷美を見せている。

温泉街の一角にある駐車場 (撮影 2012.11. 5)
手前の小屋は足湯
   
湯本温泉より和賀川を望む (撮影 2012.11. 5)
   
   
   
薬師温泉(寄道)
   

左手に薬師温泉への入口 (撮影 2009. 1. 4)
<薬師温泉>
 主要地方道を進んで湯本大橋を渡ると直ぐに小さな十字路があり、そこを左に和賀川を戻る方向に入ると、その道の先に薬師温泉がある。 以前は一軒宿が営業していて、一度宿泊したことがあった。湯本温泉より値段が安かったのが理由である。確か、一泊二食付で7,500円。
 
 2009年に近くを通った折り、懐かしくて立ち寄ってみた。すると温泉への入口は除雪が行われず、通行止の状態だった。 温泉入口より少し「ほっとゆだ駅」方向に進むと、左手上に宿の一部が見えたが、もう営業していない様子だった。
   

温泉入口 (撮影 2009. 1. 4)
看板は左に「湯田 薬師温泉」
直進は「ほっとゆだ駅」
右側に「湯田中」

温泉入口 (撮影 2009. 1. 4)
雪で通行止
右手に「湯田 薬師温泉」の看板
   

ほっとゆだ駅方向から見る温泉入口 (撮影 2009. 1. 4)

道沿いより温泉宿を望む (撮影 2009. 1. 4)
   
   
   
かつての薬師温泉(余談)
   
<薬師温泉宿泊>
 薬師温泉に泊まったのは2003年の暮れのことだった。温泉入口から少し登った高台に宿の敷地が広がっていた。 幾つもの棟がつながった大きな施設であった。
   
雪の薬師温泉 (撮影 2003.12.28)
右手奥が正面玄関
   
明かりが灯る正面玄関 (撮影 2003.12.27)
今はもうこの灯は消えている
   

玄関の中の様子 (撮影 2003.12.27)
 その旅は、わざわざ冬場の雪深い東北に出掛け、雪見の露天風呂でも楽しもうという予定であった。初日に訪れた薬師温泉は、目論見通り雪に埋もれ、ちょっとした湯治場のような雰囲気であった。 湯本温泉などのホテルや旅館が立ち並ぶ賑やかな温泉街とは全く趣を異にする、山の中の一軒宿である。 唯一明かりが灯った玄関先だけが、温かみのある色彩を放っていた。
 
 客は我々以外にも十数名は居る様子だった。他に誰も居ないという事態だけは避けられた。 ただ、客数に比べ夕食の広間は広々とし、閑散としたものだった。
   
 残念なのは、冬場は露天風呂閉鎖とのこと。宿の周りには雪がふんだんにあるのだが、外の様子が何も見えない屋内の風呂に入るしかなかった。
 
 宿は全般的に旧式だが、元から近代的な設備の浴槽や立派な部屋などは望まない。それでもちょっと閉口したことがあった。 布団は宿泊客自身がひくことになっていたと思うが、押入れから取り出した敷布団に、おねしょらしい跡があるのだ。 洗い立てのシーツを被せるからいいものの、ちょっ気持ち悪いので他の敷布団を引き出した。 しかし、それにもおねしょの跡。結局全ての敷布団は同じ状態だった。 その時の宿泊客は殆んどが老人だったが、湯治場の寝具などは皆こうしたものだろうかと思った。

雪が降った朝 (撮影 2003.12.28)
   

雪に埋もれたキャミ (撮影 2003.12.28)
 宿泊した夜は深々と雪が降った。朝に窓から望む景色は白一色だ。屋根の軒先には大きなうツララが沢山垂れ下がっている。玄関前に停めた車は雪を被り、宿泊客は皆、出発前には除雪に一汗かくこととなった。こうして雪国の風物を満喫するのだった。
   
<朝食>
 どういう訳か、宿に泊まった時は出された食事を写真に撮る習慣ができていた。 別段、食事の内容に関心があるのではなく、ただどんな食事を摂ったかを旅の記録の一つとして残す、という程度の積りである。 普段から粗食・小食が一番だと思っているので、食事が豪華だったかどうかなどということも全く関係ない。
 
 それにしても、薬師温泉の朝食は質素だった。妻は若干不満げであった。私は、普段の朝食はパンだが、こうした純和風の食事も好きである。 十分おいしく食べられたのだが、それでもどこか雪国の旅の侘しさも感じるのだった。

朝食の膳 (撮影 2003.12.28)
これに温かい味噌汁が付いたと思う
   
 宿の設備や食事の良否は、基本的にはあまり関心がない。設備の古さや食事の質素さなどもそれぞれの宿の味わいだと思う。 かえって豪華な食事の為に宿代が高くなるのは御免だ。しかし、一般には宿の質は重視される。リピーターの有無にも関わる。 薬師温泉は、古くからの湯治客などの利用はあっても、新しい顧客は増え難い状況だったように思えた。 宿泊した5年後に、何となく気になって薬師温泉を訪れたのも、当時からそんな予感があったからかと思う。
   
和賀川右岸に通じる道 (撮影 2009. 1. 4)
後方が薬師温泉方面
薬師温泉の様子を見て来た帰り
   
和賀川左岸の様子 (撮影 2009. 1. 4)
奥の山沿いに和賀川が流れる
   
   
   
湯本大橋以降
   
<和賀川右岸沿いに>
 寄道・余談ばかりで、なかなか先に進まない。
 湯本大橋を渡った先は、和賀川右岸に広がる田んぼの中の直線路となる。雪の季節には広い雪原の中を行くようだ。 主要地方道の道幅は十分で、路面に少しくらい積雪があっても走り難いことはない。
   
湯本大橋を渡った先 (撮影 2009. 1. 4)
除雪は完ぺき
   
 ただ、主要地方道1号は全線に渡って快適だが、西和賀町の川尻橋の袂で国道107号から分かれ、雫石町で国道46号に接続するまで、 約55kmという長丁場だ。積雪時にはそれなりの時間を要す。
   
前の写真とほぼ同じ場所(少し峠寄り) (撮影 2003.12.27)
路面にやや積雪有り
   
 道が直線的なのは新しい道であることを示唆する場合が多い。案の定、道路地図によってはこの区間を「湯本バイパス」と記している。 対岸には湯本温泉があり、人家も圧倒的にそちらの方が多い。山伏峠の旧道は、この付近では湯本温泉のある左岸に通じていた可能性も考えられる。
   
前の写真より更に少し進んだ所 (撮影 2012.11. 5)
11月初旬で、平地にはまだ雪が見られない
   
   
   
萱峠分岐
   
<左草川>
 直線路を過ぎた先で道は和賀川の支流・左草川(さそうがわ)を渡る。橋の手前に青看板が出ていて、左草川左岸沿いに分岐する道があることを示している。 その道の方向に「国道107号、横手」とある。「秋田道」の記載も見られる。
 
<萱峠>
 この道は川尻橋より上流側の国道107号へと戻れるが、途中より萱峠を越える道へにも通じる。 山伏峠の道を走りつつも、ついつい脇の峠が気になってくる。

分岐の看板 (撮影 2012.11. 5)
この先で左草川を渡る
   

分岐の青看板 (撮影 2012.11. 5)
 左草川は岩手・秋田の県境となる奥羽山脈を水源とする。萱峠はその左草川の支流の上流部に位置し、奥羽山脈を越える車道の峠の一つである。 萱峠線という林道が通じている筈なのだ。県境でない快適な主要地方道の山伏峠より、萱峠の存在の方が気に掛かる。
 
 ただ、この付近の県境は容易には越えられない。2012年に訪れた時は、萱峠林道を少し進むと、砂利道になった途端、通行止の看板が出て来た。 バリケードなどはなかったが、かなり荒れた路面である。通り抜け困難と判断し、退散した。
   

分岐に立つ案内看板 (撮影 2012.11. 5)
左草川の上流部に長峰公園などがあるようだ

左に分岐 (撮影 2012.11. 5)
萱峠へはこの道に入る
   
<笹峠>
 後で最近の地図を見て気付いたのだが、主要地方道12号というのがこの1号より西へと分岐している。 秋田県側からも県境の手前まで12号が延びて来ている。県境前後は車道が未開通のようだが、代わりに山道が通じていて頂上に「笹峠」とある。 将来、奥羽山脈を越える車道の峠となり得るのだろうか。
   

主要地方道12号を分けた後 (撮影 2009. 1. 4)
新町地区公民館付近

直線的な道が続く (撮影 2009. 1. 4)
   
   
   
真昼温泉分岐
   

左に真昼温泉への道が分岐 (撮影 2012.11. 5)
看板には「下の沢入口 真昼温泉」とある
<真昼岳林道>
 この付近の奥羽山脈を越える車道としては、何と言っても真昼岳(まひるだけ)林道である。 以前のツーリングマップルには「ダート27km 東北有数の峰越林道」とか、 「峠から望む眺望抜群! 北に和賀岳を望む 名無しの中央分水嶺の峠」などと紹介されていた。
   
<真昼温泉>
 真昼岳林道への入口は真昼温泉である。主要地方道上に案内看板が出ている。温泉は県道から分かれて1.5kmにある。 それを目指して行けばよい。付近の地名は沢内の前郷(まえごう)とある。
 
 驚くべきは、主要地方道上の道路看板に、行先を「千畑町」としている(右下の写真)。 千畑(せんはた)とは県境を越えた秋田県側の旧千畑町(現仙北郡美郷町)のことだ。しかし、そう簡単に越えられる峠道ではない。

真昼温泉への分岐を川尻橋方向に見る (撮影 2012.11. 5)
   

案内看板 (撮影 2012.11. 5)
地名は前郷

道路看板 (撮影 2012.11. 5)
川尻橋方向に見る
   
<当分の間通行止>
 2012年に訪れた時は、真昼温泉方向に道を曲がると同時に「7km先、兎平登山道入り口より 当分の間通行止めです。」と看板が出ていた。
   

真昼温泉への道に曲がった所 (撮影 2012.11. 5)
通行止めの看板があった

通行止めの看板 (撮影 2012.11. 5)
   
 この道に入ったのは1995年8月が最初であった。その時は峠付近に地滑りがあったそうで、林道は通行止となっていた。 1999年8月には秋田県側の千畑温泉に泊まった折り、ちょっと林道入口をのぞいてみたが、やはり通れそうになかった。
 
 2012年に訪れた時は、とにかく少し進んでみようと、真昼温泉の少し先まで行ってみたが、 「この先 通りぬけ出来ません ご協力ください」の看板を見て、やはり引き返しとなった。
   
通行止の看板 (撮影 2012.11. 5)
ここで引き返し
   
<真昼岳、真昼山地>
 真昼岳林道の名は奥羽山脈の一主峰・真昼岳(まひるだけ、1060m)からきているようだ。峠は真昼岳より北に延びる主稜上に位置する。 真昼岳を含む奥羽山脈の一部は真昼山地とも呼ばれるようだ。
 
<真昼>
 「真昼」は「真蒜」、「馬蛭」とも書くそうだ。「蒜」はノビルなどの植物、「蛭」は血を吸うことで知られる虫だ。 そう言えば、最近テレビでこの蛭が話題になっていた。日本にいる吸血の蛭は一種類で、ヤマビルとか呼ばれるようだ。 近年、そのヤマビルの生息域が広がっているとのこと。人への被害も増加傾向にあるようだ。
 
<蛭(余談)>
 この蛭にはひどい目に遭った。最初は岐阜県の岩手峠(いわで)を探索している時だった。 ただでさえ虫が苦手なのに、あの気持ち悪い蛭には閉口する。 天生峠(あもう)を舞台とする泉鏡花の小説「高野聖」に、 旅の僧が峠道で大量の蛭に襲われるくだりがある。峠を旅する者にとって、この恐怖は今も有り得ることなのだ。 車に乗りっぱなしなら別だが、ちょっと外に出て草むらを歩く時は要注意だ。何匹もの蛭が靴やズボンの裾に取り付いて来る。 噛みつかれるとなかなか剥がれず、無理に払いのけると、あごの部分が皮膚に噛み込まれたまま残る。 テレビでは塩を掛けたりや塩水をスプレーすると離れるとのこと。これからの峠の旅には塩水スプレーを常備しようかと思っている。
   
<松坂峠(余談)>
 地形図や一般の道路地図には記載がないが、この真昼山地には松坂峠(まつさか)という古い峠道が通じていたようだ。 真昼岳から南に延びる稜線上で、真昼岳から1.5km程の位置だ。 旧沢内村側の兎平(うさぎだい、850m)と秋田県の旧千畑町に流れ下る善知鳥(うとう)川上流部を結ぶ道で、善知鳥街道と呼ばれたそうだ。 現在、松坂峠を越える山道が残っているかどうか。
 
 この松坂峠は、真昼岳林道の峠とは真昼岳を挟んで丁度相対する位置関係となる。兎平を経由し千畑市街とを結ぶことも共通する。 真昼岳林道の峠には名前がないのが残念だが、ある意味、「新松坂峠」とも呼べるのではないだろうか。
   
 真昼岳林道に関しては、20年来、この名無しの峠を越えてみたいと思っていた。しかし、遂に真昼岳林道は通してくれなかった。 もう時間切れのように思える。萱峠、笹峠共々、この奥羽山脈を越える峠たちを、この目で見る機会はなさそうである。
   
   
   
真昼温泉以降
   

スノーシェルター (撮影 2012.11. 5)
川尻橋(国道107号)方向に見る
建設中だったようだ
<スノーシェルターなど>
 沢内盆地はどこまで行っても平坦地が続く。沢内三千石と呼ばれただけはある。 道や人家の姿は変わっても、奥羽山脈の奥懐に広がる東北の穀倉地帯としての雰囲気は、昔も今もそれ程変わりがないのではないかと思わされる。
 
 平坦地の割にはスノーシェルターが建設されていた。湯田トンネルがバイパスする前の旧道にも見掛けた。雪崩の危険がある 崖沿いなどに設けられているスノーシェルターとは性格がやや異なるようだ。付近の道沿いには防風林が立ち並ぶ光景をよく目にした。 このスノーシェルターも吹雪を避ける為かもしれない。
   
和賀川支流・松川を渡る (撮影 2009. 1. 4)
川尻橋(国道107号)方向に見る
どこまでも平坦地が続く
   
<和賀川左岸へ>
 主要地方道1号は和賀川右岸沿いを走りながら、その支流を何本も渡って行く。そんな支流とほとんど区別がつかないまま、実は途中で本流を渡ってしまう。 そこから先は、支流の横川の右岸沿いになる。まだ峠の手前12〜13kmもある地点だ。
 
<和賀川源流>
 主要地方道沿いから外れた和賀川は、西の奥羽山脈の方に遡り、赤沢ダム湖を経て、稜線上にそびえる和賀岳(1439m)の東斜面へと至る。 和賀川本流は県境の稜線が源流となる。代わって支流の横川がこれから峠直下まで、ほぼ主要地方道に寄り添うこととなる。

和賀川を渡る付近 (撮影 2012.11. 5)
川尻橋(国道107号)方向に見る
前方に和賀橋が架かる
   

横川右岸沿いに (撮影 2009. 1. 4)
<横川左岸沿いに>
 道は和賀川左岸から横川右岸沿いへと移って行くが、川筋から少し離れていることもあって、道の周囲の様子はほとんど変わりがない。 まだまだ沢内盆地の平野が続く。
   
   
   
小倉山トンネル分岐
   
<小倉山トンネル分岐>
 笹峠を越える予定の主要地方道12号は花巻大曲線と呼ぶ。 笹峠はまだ越えられないので秋田の大曲には至らないが、近年、小倉山トンネルが開通し、北上川沿いの花巻まで通じるようになった。 横川沿いになってから2km程進むと、右手にその主要地方道12号が分岐することを示す青看板が出て来る。行先には確かに「花巻」とある。
 
 この道は、和賀川と北の豊沢川(北上川の支流)の境を成す山稜を越え、豊沢湖上流部で豊沢川沿いに降り立ち、豊沢川沿いに花巻市街へと下る。 豊沢川沿いへと越える山稜には、以前は車道が通じていなかった。それが2002年に峠の部分を小倉山トンネルが開通し、車が通れるようになったものだ。 峠名はないが、差し詰め「小倉山峠」と呼びたいところだ。

主要地方道12号通行止の看板 (撮影 2009. 1. 4)
この先右に12号が分岐
   

分岐近くにある交通安全の塔 (撮影 2012.11. 5)
<分岐付近の様子>
 これまで萱峠や笹峠、真昼岳林道などへの分岐があったが、この12号の分岐は花巻まで抜けられる主要地方道とあって、看板などが多い。 近くに古タイヤを積み重ねた「交通安全塔」が雪の季節でも目に入る。
 
 付近は川舟(沢内川舟)と呼ばれる地区で、分岐方向に「川舟 湯の沢入口」と案内看板が立つ。 「湯の沢」と呼ぶ集落があるようだ。豊沢川沿いにある新鉛温泉の看板もあるが、「20km」とある。かなり遠い。
   
<12号通行止(余談)>
 2009年の1月に訪れた時は、わざわざこの12号の峠を越えようとして来たのだった。 1995年に豊沢川の方からアクセスした時はまだ未開通だったので、一度越えてみたいと思っていた。
 
 しかし、小倉山トンネルが開通したと言えども、さすがに冬期は通行止であった。 道路情報の看板には、積雪の為「12月1日〜5月11日」の期間、通行止と出ていた。半年近い長い冬期通行止である。
 
 この時は、そのままこの分岐で国道107号方面へと引き返したのだった。 花巻温泉に宿泊する予定だったので、山伏峠(トンネル)を越えると、とんでもない所に出てしまうのだ。

分岐より12号方向を見る (撮影 2009. 1. 4)
この時は通行止
   

12号分岐より1号を川尻橋方向に見る (撮影 2009. 1. 4)
<峠の旅(余談)>
 峠の旅はこういう通行止に遭った時に非常に難儀する。適当な迂回路がないことが多く、予定した旅の工程が全く違ってきてしまうのだ。 予約した宿に辿り着けるかどうか、いつも不安である。その点、野宿旅は気ままであった。峠の旅と野宿は最適な組み合わせだったようである。
 
 体調的に野宿が難しくなった最近の旅では、泊まる旅館やホテルはなるべくギリギリまで予約しない方針にしている。 しかし、今度は予約が取れるかどうかが毎日の不安の種となった。その為、ついつい早めに近場を予約することとなる。 結果、1日に移動できる距離が随分と短くなった。野宿道具をジムニーに積み、やたらと走り回ってばかりいた頃に比べ、半分ぐらいの距離である。 峠の旅の形も、随分と変わってしまった。
   
<小倉山トンネル(余談)>
 主要地方道12号の小倉山トンネルを越えたのは、やっと2012年になってのことであった。開通より10年を過ぎている。 峰越峠(雫石町・花巻市)に続いて越えた。 もう全線立派な道になっているかと思いきや、小倉山トンネルをはじめ、幾つかある新規のトンネルは立派だが、まだかつての古い道も随分残っていた。 まだまだ改修途上という感じであった。

12号分岐より1号を峠方向に見る (撮影 2012.11. 5)
   
   
   
長橋峠分岐以降
   
<貝沢トンネル分岐以降>
 旅の都合により、主要地方道12号分岐から貝沢トンネル分岐までの約10km区間は走ったことがない。 2012年に訪れた時、雫石町側より長橋峠の後継である貝沢トンネルを抜け、主要地方道1号に出てからは新山伏トンネルでまた雫石町側に戻り、 峰越峠・小倉山トンネルと越えて、また主要地方道1号戻って来たのだった。
 
 以下は貝沢トンネルの道が主要地方道に合した個所から峠方向に向けて走り出したところである。 西和賀町側の新山伏トンネル坑口より1km程手前の地点となる。
   
峠に向けて主要地方道1号を走る (撮影 2012.11. 5)
   

チェーン着脱場の案内看板 (撮影 2012.11. 5)
<峠直前>
 ここまで来ると、さすがに谷は狭まり、道の左右より山が迫って来ている。しかし、険しさなどと言った雰囲気からは無縁である。 谷底は浅く広く、沿道には僅かながらもまだ水田が見られる。道も相変わらず真っ直ぐだ。 車道開削により無理やり直線化したというより、元から真っ直ぐに道が通じていてもおかしくない地形である。
 
<看板>
 温泉が2湯紹介されていた(左下の写真)。繋(つなぎ)温泉と鶯宿(おうしゅく)温泉だ。 繋は雫石町を経由し盛岡市に入った御所湖の湖畔にある温泉地、鶯宿は雫石町の貝沢トンネルへと向かう道の途中にある温泉地だ。 西和賀町側にも岩手湯本温泉などがあり、主要地方道1号はこれらの温泉地を繋ぐ峠道でもあった。
   

温泉の案内 (撮影 2012.11. 5)

チェーン着脱場の看板 (撮影 2012.11. 5)
   
<チェーン着脱場>
 200m先の右側、550m先の左側にチェーン着脱場があることを看板が示していた。この550m先の方は、既にトンネル坑口の直前である。 よって、実質的に西和賀町側ではチェーンは必要ないということか。 それ程道に屈曲はなく、勾配も極めて緩やかだった。チェーンは雫石町側だけで装着すれば事足りるのかもしれない。

まず右にチェーン釈脱場 (撮影 2012.11. 5)
   
   
   
西和賀町側の旧道へ
   
<旧道分岐>
 新山伏トンネルの西和賀町側坑口より300m程手前、もう坑口の一部が見える辺りで左に細い道が分岐する(下の写真)。 案内看板など何も立っていないが、峠に少しでも関心がある者が見れば、直ぐに旧道であろうと直感する。
   
左に旧道分岐 (撮影 2012.11. 5)
もう前方に新山伏トンネルが見えている
   

道路看板 (撮影 2012.11. 5)
新山伏トンネル方向に見る
<分岐付近の様子>
 分岐近くには道路看板が立ち、新山伏トンネル方向に「盛岡 38Km 雫石 24m」とある。 この「雫石」が町役場付近の雫石市街を指すなら、主要地方道1号が国道46号に接続する地点と2kmと隔たっていない。 山伏峠の雫石側の道程は約22kmと分かる。
 
<およね街道(余談)>
 よく見ると、分岐近くに「腕より心で運転 およね街道」と看板があった。新山伏トンネル開通前からも立っていたのかもしれない。 それで、この旧道分岐近くに今も看板があるように思えた。
   

旧道分岐より主要地方道を川尻橋方向に見る (撮影 2012.11. 5)
奥に「およね街道」の看板が立つ

「およね街道」の看板 (撮影 2012.11. 5)
旧道分岐の近くに立つ
   

分岐より新山伏トンネル方向を見る (撮影 2012.11. 5)
<お米地蔵(余談)>
 この「およね街道」については、西和賀町のホームページに詳しい。ある凶作の年、村の娘・お米(およね)が年貢米の身代わりになった。 それに因んだ名前のようだ。今も浄円寺境内(大字太田)にお米を偲んだ「お米地蔵」が祀られているとのこと。
   
   
   
旧道へ寄道
   
<旧道へ>
 新山伏トンネルと旧道とはそれ程隔たりがない。西和賀町側に残る旧道区間も僅かに1km余りの距離である。一旦は旧道入口を通り過ぎたのだが、それでも一度くらいは旧道を訪れておこうかと、引き返して来たのだった。

旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
   

旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
<旧道の様子>
 旧道と言えども、道の屈曲は意外と少なく、勾配も緩やかだった。道幅は狭く見えるが、雑草や枯葉がなければ、意外と広いのかもしれない。 路面は古いなりにも完全舗装だ。沿道は林に囲まれ全く視界はないが、それでも谷は相変わらず浅く、狭苦しい感じはしない。 全般的に荒れた道というより、かつての主要地方道だけあって「寂れた」という形容がふさわしい道だ。
   
旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
左手に岩石取場
   
<ちょっと広場>
 旧道に入って300m程、一箇所だけちょっと広い場所を通過する。左手の崖の地肌が露出している。 側らに「岩石採取標識」と題した看板が立ち、そこが「岩石取場」であることを示していた。それ程大規模な採石場ではない。
 
<峠への古道>
 この旧山伏トンネルに通じる旧道から、更に山稜を越える元の山伏峠へと古道は通じていた筈である。道は右手に浅いながらも谷を望む。 古道はその谷底の川筋を遡っていたのだろうか。

岩石取場 (撮影 2012.11. 5)
右手に「岩石採取標識」の看板
   

旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
右手に谷を望む

旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
若干紅葉が残る
山伏峠への古道はこの右手の峰へと登って行った筈だ
   
<峠の位置>
 新山伏トンネルと旧山伏トンネルは、直線距離で5、600m離れている。山伏峠はほぼその中間点くらいの稜線上に位置していたようだ。 峠への古道があるとしたら、旧山伏トンネルに向かうこの旧道途中で、右手の峰へと登って行く筈だ。 しかし、車道から眺める限り、そのような道は容易には確認できない。
 
 谷に降り、対岸の草木を掻き分ければ、あるいは古道の痕跡が見付かるのかもしれない。しかし、私の峠の旅は旧トンネルを訪れるだけで精一杯である。 盛岡藩(南部氏)の藩士たちやお米などの村人が越えたであろうかつての山伏峠は、現在の地形図では徒歩道としても描かれていない。 この山伏峠とはどんな峠であろうかと、ただただ想像するばかりだ。

旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
少しトンネルが見えて来た
   

トンネル直前 (撮影 2012.11. 5)
<トンネル直前>
 旧道沿いの谷をそのまま突き詰めた所に旧トンネルが待っている。トンネル上方の稜線は緩やかながら鞍部になっている。 それもあって、トンネルの少し手前からは稜線の上部が望める。
   
   
   
旧山伏トンネル
   
旧山伏トンネル (撮影 2012.11. 5)
   
<山伏隧道>
 新トンネルができた為、旧道のトンネルを「旧山伏トンネル」と呼んだりするが、当然ながら扁額には単に「山伏隧道」とある。
 
 新トンネル開通前の古い道路地図には「山伏トンネル」となっていた。 最近の地形図には新山伏トンネルの記載はあるが、古いトンネルはもう描かれていない。 道路地図によっては新トンネルを単に山伏トンネルとし、旧トンネルの存在を完全に無視しているものも見掛けた。 山伏隧道は「旧山伏トンネル」という名称さえ残すことなく、新トンネル開通後あっという間に地図上から消えたようだ。
 
<扁額>
 右から左に「山伏隧道」とあり、左端に「雪澤」とある。 雪澤とはトンネル開通当時の岩手県知事・雪沢氏(任期:昭和12年〜15年)のことであり、扁額の文字はこの県知事によるものだろう。

トンネル坑口上部 (撮影 2012.11. 5)
   
扁額 (撮影 2012.11. 5)
   

雪っこトンネル (撮影 2012.11. 5)
<雪っこトンネル>
 山伏隧道は既にトンネルとしての機能は持たないが、坑口の様子は旧道とは思えないくらいきれいである。 それはこのトンネルを「雪っこトンネル」という名称で、貯蔵施設として活用した為のようだ。 山伏隧道への旧道は西和賀町側のみ通行可能だが、この施設利用を目的に道が維持されているものと思う。 「雪っこトンネル」がなければ、旧道を車で走ることはできなかったかもしれない。
 
 施設は1998年頃から計画され、設置年度は平成12年(2000年)となっている。 新トンネルの竣工は1997年10月なので、ほぼその直後から山伏隧道は本来のトンネルとしての機能を失っているようだ。その為に地図上から直ぐに姿を消したのだろう。
   
 ただ、貯蔵施設としての新たな道も、剥がれ掛けた説明文などを見ると、どれだけ活用されているのかとやや不安に思う節がないでもない。かつての山伏隧道がいつまでも人の目に触れることができるように、旧道が保存されていくと良いのだが。
   

施設の説明文 (撮影 2012.11. 5)
剥がれ掛けていてよく読めない

施設概要の看板 (撮影 2012.11. 5)
   
   
   
坑口周辺
   
<谷の上流部>
 山伏峠は横川の源流部に位置するが、横川の上流部は大きく南側の水無川と北側の谷地川に分かれるようだ。 山伏峠はそのどちらの川でもなく、その2つの支流の間の源流部に位置する。川に名もない。 しかし、坑口に向かって左側にその川の源流部の水が山稜より流れ下って来ている。 道はその流れを坑口手前で横切っているようで、アスファルト路面の下には導水管が埋設されているようだ。 山伏峠を越えて来た旅人は、ここより少し下流でこの沢水を飲んだのかもしれない。
   

坑口の左手 (撮影 2012.11. 5)
谷の最上部になる

沢水が流れ下る (撮影 2012.11. 5)
   
<坑口前>
 坑口の手前は少し広くなっている。雫石町側から隧道を抜けて来た者には、まず最初にこの景色が目に入る。 雫石側は難路であったそうで、ここまで辿り着き、ほっとしたことだろう。路肩に車を停め、一息付く者も居たかもしれない。
 
<沢内村の看板>
 広場の端に、やや草に埋もれながらも、旧沢内村の看板がまだしっかり立っている。「四季の彩豊かな沢内村」とある。 西和賀町となった今、この看板だけはいつまでも「沢内村」のままであろう。

坑口を背に旧道を見る (撮影 2012.11. 5)
路肩が広くなっている
   

旧道を旧沢内市街方向に見る (撮影 2012.11. 5)

旧沢内村の看板 (撮影 2012.11. 5)
ほのぼのとした感じが良い
   

広場の先の道 (撮影 2012.11. 5)
<標高>
  峠の標高は、文献(角川日本地名大辞典)によると543mである。地形図に見ると稜線上に540m少しの鞍部があり、正にここが山伏峠であろう。 新旧のトンネルの中間地点だ。
 
 一方、山伏隧道坑口の標高は約480mで、峠とは約60mの差がある。 また、新山伏トンネルは、西和賀町と雫石町でやや高低差があるが、概して450m前後である。
   
   
   
新トンネルへ
   

旧道から戻る (撮影 2012.11. 5)
この先で主要地方道に出る

主要地方道を新トンネルへと進む (撮影 2012.11. 5)
   
<605mのピーク>
  新山伏トンネルは、稜線の鞍部などお構いなしに、雫石町側に流れ下る下ノ黒沢(河川名)方向へと真っ直ぐ通じている。 トンネル直前から眺めると、その上部は丁度稜線上にあるちょっとしたピークを成している。地形図に605mとある凸部だ。 山伏峠はこのピークの北側(向かって左側)200m程の鞍部にあったものと思う。
   
新トンネル直前 (撮影 2012.11. 5)
正面にこんもり盛り上がった山を望む
その左側の鞍部が山伏峠
この先の道の左側にチェーン着脱場がある
   
<山伏の由来>
 文献によると、「奥々風土記」に「六、七月の頃は山虻(あぶ)多く、群出て山なみ雲霧のかかれるが如し。 故レ人馬甚(はなはだし)く苦悩て其頃ほひ(その頃合い?)には虻のために往来も絶ぬる事しはしはあり」とあるようだ。 この虻に山伏が刺されたことが峠名の由来とも伝わった。
 
 しかし、新山伏トンネルの上にあるピークを望むと、それこそお椀を伏せたような山容だ。 山伏峠を越える者はこの小さな山を目印として峠道を行き来したことだろう。 それを考えると、山伏峠の由来はやはり山容の「伏せ」の方ではなかったかと思える。
   
   
   
新山伏トンネル
   
新山伏トンネルの西和賀町側坑口 (撮影 2012.11. 5)
   
<山伏トンネル>
  旧道のトンネルと区別する為、これまで新道のトンネルを「新山伏トンネル」と呼んできたが、扁額には単純に「山伏トンネル」とあった。 旧道の山伏隧道とは、最初から「新旧」で区別する積りはなかったようである。 余談ながら、山梨県の山伏峠では、旧トンネルの扁額には単に「山伏」とあり、新トンネルでは「山伏トンネル」であった。 無闇に「新」とは付けないようだ。
 
<坑口の様子>
 坑口は分厚い半円形をし、がっちりした感じはあるが、やはり古い山伏隧道と比べると味わいがない。
 
 坑口手前に「山伏トンネル内 押ボタン式通報装置 故障中」と看板が立っていた。

扁額 (撮影 2012.11. 5)
県知事名などはない
   

銘板 (撮影 2012.11. 5)
<銘板>
 山伏隧道には銘板がなかったが、こちらにはしっかり銘板が掛かっている。竣工日(開通日?)は1997年10月とある。
 
<開通記念の碑>
 坑口手前には「開通記念」と題した立派な石碑がポツンと立つ(下の写真)。 「昭和十三年竣功 山伏線 懸道/隧道 碑 昭和三十一年 建之」と書かれている。 竣工年からしても、目の前にある新トンネルではなく、山伏隧道の開通記念碑であった。 元は山伏隧道の坑口近くにあったものを、ここに移設したのであろう。 石碑の建之年が昭和31年(1956年)と、隧道開通とは少しずれているのは何故だろうか。県道昇格の年だろうか。建之者には「石井」と名がある。
   

開通記念の石碑が立つ (撮影 2012.11. 5)

開通記念の碑 (撮影 2012.11. 5)
   
 石碑の裏には「隧道由来」として、隧道竣工までの簡単な経緯が記されていた。大正6年頃から計画があったようだ。 竣工年の昭和13年(1938年)から新トンネル開通の1997年までが、ほぼ山伏隧道が利用された期間であろう。約59年の歳月となる。
   
<坑口周辺>
 坑口の手前にはチェーン着脱場の広い路肩がある。開通記念碑などを見学するにも都合が良い。 雫石町側に比べ西和賀町側は地形が穏やかで、こうしたスペースを設ける余裕があったのだろう。
 
 それにしても、新山伏トンネル開通で、西和賀町側の峠道はますます快適になった。殆んど峠に登るという感覚がない。

坑口を背に西和賀町方向を見る (撮影 2012.11. 5)
右手に石碑が立つ
   
坑口手前のチェーン着脱場 (撮影 2012.11. 5)
何もなく、殺風景
   
   
   
雫石町側へ
   
<下ノ黒沢>
 延長1,282mの山伏トンネルを雫石町側に抜けると、そのまま橋を渡る。多分、下(ノ)黒沢橋という名であろう。 山伏峠直下より雫石町側に流れ下る川が下ノ黒沢だ。この川は下って南畑川に注ぎ、南畑川は下流で鶯宿川を合わせ、雫石川本流の御所湖に注ぐ。 ただ、南畑川ではなく南川と記すものもある。あるいは、南畑川と鶯宿川が合わさって以降を南川とする地図もある。
   
雫石町側の坑口直後 (撮影 2012.11. 5)
下ノ黒沢を渡る
   
<道の様子>
 西和賀町側が溪谷などとは無縁の地形だったのに対し、雫石町側はトンネル直後から早くも谷に臨む。ただ、この方が峠道らしい。
 
 橋を渡った先の袂にやっと僅かな駐車スペースがある。付近には電気設備や電光掲示板が立っていたので、その保守用かもしれない。 西和賀町側には広いチェーン着脱場や開通記念碑などがあったが、こちら側にはほとんど何もない。道路看板さえもなかったようだ。 道だけが快適で、車はどんどん下って行ってしまう。

左手に僅かなスペース (撮影 2012.11. 5)
右上は電光掲示板
   

左に旧道分岐 (撮影 2012.11. 5)
<旧道分岐>
 坑口を出て600m程行くと、左手に分岐がある。雫石町側の山伏隧道坑口へと続く旧道の入口だ。 勿論、何の案内看板も立っていない。如何にも旧道と思える寂しい道が分かれている。
   
<雫石町側の旧道>
 雫石町側に残る旧道は、西和賀町側より長いが、それでも2km程度だ。下ノ黒沢の左岸を屈曲しながら登る。 往時の山伏峠の険しさは、その区間に残っていたのではないかと思う。 虻が山並みに雲霧のようにかかっていたと伝わるのも、雫石町側のこの峠直下ではなかったか。
 
 しかし、今は通行止となっている。バリケードが設けられ、道を半分塞いでいる。 看板に「工事中につき ご協力ください」ともあるが、もうこの旧道区間が通れるようになることはないのではないかと思う。 バリケードの先を眺めると、道の両端には草が生い茂り、荒れた状態である。車で入るのは断念した。

主要地方道より旧道入口を見る (撮影 2012.11. 5)
   

旧道分岐の様子 (撮影 2012.11. 5)
主要地方道を雫石市街方向に見る

主要地方道を峠方向に見る (撮影 2012.11. 5)
   

通行止のバリケードが立つ (撮影 2012.11. 5)

旧道側から見る (撮影 2012.11. 5)
左手に旧道の跡が少し残る
   
バリケード奥の旧道の様子 (撮影 2012.11. 5)
この先で道が一段と狭くなり、荒れた状態だ
   
   
   
旧道分岐以降
   
<旧道分岐以降>
 山伏隧道からの旧道を合してから、道は下ノ黒沢の左岸にぴったり沿う。 新山伏トンネル開通に伴い、道の改修も大幅に進んだのであろう、険しさなど全く感じない快適な2車線路が続く。 谷も比較的直線的で、屈曲がない道だ。ただ、谷はそれなりに深いV字を成し、車道からは川面などは望めない。
   

道の様子 (撮影 2012.11. 5)

道の様子 (撮影 2012.11. 5)
   
<四十八渡>
 かつての山伏峠の道の険しさは、渡河にあったようだ。「四十八渡」とも呼ばれる渡河点があり、通行が困難であったとのこと。 この下ノ黒沢沿いに細々と道が通じていた頃は、僅かでも広い岸辺を選んで、飛び石を伝うようにして何度もこの沢を渡り返していたのかもしれない。
   

道の様子 (撮影 2012.11. 5)

道の様子 (撮影 2012.11. 5)
   
   
   
県道234号分岐
   
<県道分岐>
 雫石町側の道は単調だ。谷はなかなか広がらず、遠望がない。沿道にも見るべき物がない。 4、5km下ってやっと分岐を示す看板が出て来る。右に県道234号が分かれることを示していた。

分岐を示す看板が出て来る (撮影 2012.11. 5)
   

分岐の看板 (撮影 2012.11. 5)
<峰越峠>
 県道の行先には「花巻」とある。 花巻市との境の峰越峠を越え、豊沢川沿いへと下り、豊沢ダムの上流部で小倉山トンネルを越えて来た主要地方道12号に合する。 山伏峠の道は、そこから分岐する別の峠道ばかりが気になる。
   
<案内看板>
 県道234号方向には、看板にいろいろ案内がある。しかし、それらは主要地方道12号沿いになってからの話だ。
 
 峰越峠の区間は、これといった施設が何もなく、人家も皆無のなかなか険しい峠道だ。 主要地方道1号からの寂しい分岐の様子を見ても、これが県道かと疑わしくなる。 分かれて直ぐに下ノ黒沢を渡るが、この道は本当に通れるのかと、橋の前で一瞬たじろぐ程である。 この山伏峠より、やはり峰越峠を掲載した方が面白かったようだ。

案内看板 (撮影 2012.11. 5)
   
分岐の様子 (撮影 2012.11. 5)
右に県道234号が寂しく始まっている
   
   
   
県道分岐以降
   
<県道分岐以降>
 県道234号を分けた後、道の様相は一変する。下ノ黒沢は本流の南畑川(南川とも)に注ぎ、道は南畑川の左岸沿いになる。 南畑川沿いには平坦地が広がり、早くも雫石盆地の一端に降り立ったかのようだ。集落も現れ出す。
 
<南畑>
 これより雫石町の大字南畑(みなみはた)の地となる。ここより峠側は大字がはっきりしない。定まっていないのかもしれない。
   

鍵掛峠への道 (撮影 2012.11. 5)
大村集落内
<大村付近、鍵掛峠>
 間もなく南畑の大村集落を過ぎる。ここにもまた別の峠道が待っている。 支流の尻合川沿いに東へと登り、 北上川沿いの紫波町(しわちょう)へと至る鍵掛峠である。この峠道も楽しい。
 
 大村集落付近はもう完全な平坦地で、一見穏やかそうな地形に感じる。ただ、谷の広さは限定的で、その谷底を川筋が大きく蛇行して通る。 直線的に伸びる主要地方道1号は、南畑川本流やその支流を何度か渡る。 「四十八渡」とは、場合によってはこの南畑川沿いであったかとも思う。
   
大村集落付近を雫石町市街方向に見る (撮影 2012.11. 5)
左手に少し男助山の隆起が見える
   
   
   
男助山以降
   
<男助山、女助山>
 沿道の左手に特徴的な山を見る。道の西側で地図には男助山とある。道の反対側には対を成すように女助山がある。 この2つの山に挟まれた区間、一度広がった南畑川の谷が再び狭まる。しかし、そこを抜けるといよいよ雫石盆地が本格的に広がり始める。
   
沿道の様子 (撮影 2012.11. 5)
   
<岩手山>
 平坦地を進む内、前方に一際高い山を望む。雫石盆地の北端にそびえる岩手山(2038m)だ。季節によっては雪を頂いた姿が目を引く。
   
前方に岩手山を望む (撮影 2012.11. 5)
   
<雫石環状線>
 案内看板に「鶯宿温泉」と出て来る。看板は左折を示している。それは雫石環状線の分岐で、一旦その道に入り、県道172号に出てから鶯宿へと向かう。 主要地方道1号をそのまま進んでも、県道172号に出るが、雫石環状線を使うと若干近道だ。

雫石環状線との交差 (撮影 2012.11. 5)
   

雫石環状線手前の看板 (撮影 2012.11. 5)
<県道172号>
 鶯宿温泉は南畑川の支流・鶯宿川沿いにある。御所湖方面から主要地方道1号を来ると、直進方向がそのまま県道172号になり、鶯宿温泉へと至る。 鶯宿温泉の上流部が長橋峠であったと思われるが、まるでそちらが本線のようだ。 かつては長橋峠が沢内の貝沢へと通じる峠道であったようだが、その名残であろうかとも思われた。
   
   
   
峠道の終点へ
   
<安庭橋>
 道は御所湖の上流側で安庭橋にて雫石川本流を渡る。橋の上からは雫石川越しに岩手山を望む。 雫石川本流沿いに出た安庭橋が、支流の南畑川水域にある山伏峠の峠道の終点と言えるが、主要地方道1号はもう少し先に伸びる。
   
安庭橋より岩手山を望む (撮影 2009. 1. 3)
手前に流れるのは雫石川(上流方向に見る)
   
<県道212号分岐>
 安庭橋から1km程で県道212号に合する。この交差点を右折。

古舘 (撮影 2009. 1. 3)
   

交差点の看板 (撮影 2009. 1. 3)
 県道方向は雫石駅とある。
   
<国道46号に接続>
 山伏峠を越えて来た主要地方道1号は、雫石町側では国道46号に接続して終わる。 西和賀町側の国道107号からここまで、約55kmの道程であった。

この先で国道に接続 (撮影 2009. 1. 3)
   

看板 (撮影 2009. 1. 3)
 国道46号は盛岡市街から雫石川左岸沿いに通じ、御所湖やその岸辺に立つ繋(つなぎ)温泉、また小岩井牧場への道としても使われる。県境を越えれば田沢湖だ。
   
   
   
御所湖周辺(全くの余談)
   
<御所湖>
 山伏峠とは関係が薄いが、峠道の南側には和賀川の錦秋湖があり、北側には雫石川の御所湖がある。どちらも旅行の途中で立寄る観光スポットとなっている。 調べてみると御所湖も過去に何度か訪れていた。景観が良い地だ。
   

展望所より御所湖を望む (撮影 2009. 1. 3)

左とほぼ同じ場所 (撮影 1995. 8.16)
   

御所ダムを望む (撮影 2009. 1. 3)

左とほぼ同じ場所 (撮影 1995. 8.16)
   
<ダム湖百選>
 御所湖の途中に繋大橋が架かり、その南側が「繋大橋南園地」として整備されている。 繋大橋越しに岩手山を望む。その景観もあってか、御所湖は「ダム湖百選」に認定されているらしい。

「ダム湖百選」の石碑 (撮影 2009. 1. 3)
   
岩手山と繋大橋 (撮影 2009. 1. 3)
   
繋大橋南園地 (撮影 2009. 1. 3)
御所湖の上流方向を望む
   

繋温泉 (撮影 2009. 1. 3)
<繋温泉>
 繋大橋の袂には繋温泉がある。妻が中学生くらいの頃、家族でその温泉に宿泊した思い出があるようだ。 確か紫苑(しおん)というホテルだったとのこと。何日か連泊し、その間父親が車でその周辺のスキー場などに連れて行ってくれたらしい。 今は私の義父に当たるが、私が会った時は既に難病を患い、自力歩行がやっとで会話もほとんどできない状態だった。 元気な頃の義父を知らないが、厳しい一方、家族思いだったようである。今は穏やかに座椅子に座って過ごす時間が長い。
   
繋温泉の看板 (撮影 2009. 1. 3)
左端に「ホテル紫苑」とある
   
   
   
 この山伏峠は総延長55kmと長大な峠道だ。 新しい山伏トンネルが開通した今は、かつての峠前後の難路区間が解消され、全線快適な二車線路となっている。 西和賀・雫石の両町ともに温泉や風光明媚な湖などを有し、それらの観光地を繋ぐ峠道ともなる。 ただ、本線よりも、脇にそれる萱峠や真昼岳林道、小倉山トンネルなどの道の方が気に掛かってばかりいる、山伏峠であった。
   
   
   
<走行日>
(1993.12.31 国道107号の錦秋湖に寄った後、川尻橋通過 ジムニーにて)
(1995. 8.16 川尻橋から真昼温泉入口まで往復 ジムニーにて)
(1999. 8.11 岩手県千畑町側の真昼岳林道入口に寄る ミラージュにて)
(2003.12.27 薬師温泉宿泊 キャミにて)
(2009. 1. 3 御所湖に寄る キャミにて)
(2009. 1 .4 川尻橋から、途中薬師温泉に立ち寄り、小倉山トンネル方面の分岐まで往復 キャミにて)
・2012.11. 5 西和賀町側の貝沢トンネルへの分岐から峠を越えて雫石町側の県道234号分岐までと
        主要地方道12号(小倉山トンネル)分岐から湯本温泉・笹峠分岐まで パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  3 岩手県 2010年 3版 1刷発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2015 Copyright 蓑上誠一>
   
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