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柳ケ瀬峠・柳ケ瀬トンネル
  やながせとうげ  (峠と旅 No.303)
  多彩な経歴を持つ峠道
  (掲載 2019. 9.30  最終峠走行 1997. 4.27)
   
   
   
柳ケ瀬トンネル (撮影 1997. 4.27)
トンネルのこちら側は滋賀県長浜市余呉町(旧伊香郡余呉町)柳ケ瀬
反対側は福井県敦賀市刀根
道は県道140号・敦賀柳ケ瀬線
坑口の標高は滋賀県側約250m、福井県側約230m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
このトンネルは3回以上越えているが、撮った写真はこの一枚だけ
坑口直前で信号待ちをするので、車を降りてのんびり写真を撮る訳にはいかなかった
 
 
概要 
   

<狭いトンネル>
 こんな所にと思うような所にトンネルが通じている。しかも、狭く長く、信号機で交互通行しなけれならない。 ほぼ同じ場所に北陸自動車道の柳ケ瀬トンネルが通じるのだが、私の様に無料を好む者の為に別に細いトンネルを掘ってくれたのかと思っていた。 しかし、そうではなかった。元々は鉄道のトンネルだったのを、車道に転用したというのを後で知った。この峠はいろいろ変わった経歴を持つ。
 
 前回、杉本隧道(丹生峠)を掲載したので、同じ「狭いトンネル」繋がりである。所在地も近く、八草峠から杉本隧道・柳ケ瀬トンネルと続いて越え、福井県敦賀市と至るルートとなっている。

   

<所在>
 峠は滋賀県と福井県との県境にある。
 峠の東側は滋賀県長浜市余呉町(よごちょう)柳ケ瀬(やながせ)、旧旧伊香郡(いかぐん)余呉町大字柳ケ瀬になる。
 峠の西側は福井県敦賀市刀根(とね)である。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<古い峠>
 トンネル開通前の古い峠は、現在のトンネルの位置とはやや離れて、県境の南約1.2Kmにあった。柳ケ瀬山(標高約450m、中尾山とも)の南の鞍部に通じる(地形図ではこの位置)。尚、近くの439.1mの三角点は柳ケ瀬山の山頂ではない。

   

<道筋>
 滋賀県側は北国街道の宿場町である柳ケ瀬集落を起点に、尾根上を登る。地形図に描かれる徒歩道がそれに当たると思う。標高約400mの鞍部で県境を越え、福井県側では谷筋に下る。地形図ではそこは車道になっている。柳ケ瀬トンネルの福井県側坑口付近からは刀根川沿いに刀根集落に至る。

   

<水系>
 峠の東側には余呉川(よごがわが)が南流し、行く行くは琵琶湖に注ぐ。すなわち淀川水系となる。
 峠の西側には笙の川の支流・刀根川が流れ下る。笙の川は敦賀湾に注ぎ、笙の川水系を成す。
 峠はさほど高くはないが、本州を横断する中央分水嶺上にあることになる。

   

<峠名>
 峠は柳ケ瀬峠とも呼ばれたが、この峠道には他にもいろいろな呼び方がされたようだ。文献(角川日本地名大辞典)では、刀根越(とねごえ)、刀根坂(とねざか)、久々坂(くくざか)、倉坂越(くらさかごえ)、鞍坂越、クラ坂峠などの名が見られた。
 
 柳ケ瀬峠は滋賀県側の柳ケ瀬の地名による。刀根越・刀根坂は福井県側の刀根の地名による。それ以外は、あまり由来がはっきりしない。

   
   
   
峠道の変遷 
   

<交通の要衝>
 古来、峠が通じるこの地域は北国と畿内・東海を結ぶ交通の要衝であった。峠の柳ケ瀬(東)側には東近江路(北国街道、現国道365号)が南北方向に通じ、栃ノ木峠を越えて近江(滋賀県)と越前(福井県)とを繋いでいた。 一方、峠を西に下った疋田(ひきた、敦賀市)に通じる西近江路(現国道161号)は、日本海に面した敦賀湾の良港・敦賀へと至っていた。柳ケ瀬峠はこれら東・西近江路をつなぐ間道として利用されたようだ。

   

<戦国期>
 この峠道では戦国武将・織田信長や豊臣秀吉といった有名どころも活躍する。 天正元年8月、信長自らが率いる織田軍が小谷城籠城の浅井氏の援軍として向かった朝倉軍を追撃したのがこの峠であった。 また信長の死後、天正11年4月に賤ケ岳(しずがたけ)合戦で秀吉に大敗した柴田勝家が壊走した峠でもあった。

   

<江戸期>
 近世、柳ケ瀬には彦根藩による関所が置かれ、刀根にも小浜藩による女留番所が置かれるなど、江戸初期頃までは近江の湖東・湖北と敦賀・越前とを結ぶ重要路であった。

   

<明治期>
 近代以降も、近畿・東海地方と北陸地方を結ぶ幹線交通路として重視され、一時は国道乙第12号(後の国道8号)にも指定された。一方、現在の国道8号は木之本から西へ賤ヶ岳隧道を抜けて琵琶湖北岸に出、塩津街道で敦賀方面へ向かう。その原型のルートが開かれ、柳ケ瀬峠に陰りが見えて来る。

   

<鉄道開通>
 代わりに、峠の北約1.2Kmの尾根を貫いて、明治13年着工・明治17年開通の国鉄北陸本線・柳ケ瀬トンネル(全長1,351m、柳ケ瀬隧道・刀根隧道とも)が通じる。当時の最新技術を投入し、日本人だけによる鉄道トンネルの第2号であり、わが国最長のトンネルでもあった。
 
 最初、北陸本線は塩津街道コースとして計画されたようだが、当時はまだ蒸気機関車であり、煙害を心配する沿線住民の反対で、この北国街道から刀根越を通るコースに変更されたそうだ。この鉄路の開通により、古来からの柳ケ瀬峠は寂れて行った。

   

<鉄道事故>
 しかし、トンネル内は1,000分の25の勾配の連続で、蒸気機関車の登坂力の限界に近かった。列車の前後に繋がれた機関車から出る煤煙と熱気がトンネル内に充満し、しばしば機関士が倒れた。昭和3年には上り貨物列車の車輪が空転、乗務員全員が窒息死するという事故も起きた。

   

<昭和期以降>
 昭和2年、賤ケ岳隧道などが完成し、国道8号が塩津街道コースへ移された。これが決定打となり、柳ヶ瀬峠の道は幹線交通路としての地位を完全に失い、廃道化の道を進むこととなる。

   

<鉄路の換線>
 昭和31年の北陸本線は上下75本もの列車が柳ケ瀬トンネルを抜けたが、更なる輸送力増強・近代化が望まれた。 そこで柳ケ瀬トンネルの急勾配を避け、木之本から余呉湖北岸をかすめ、余呉トンネル・深坂トンネルを抜ける新線が昭和13年より計画された。 そして、昭和32年には交流電化の新しい北陸本線となった。半世紀余りに渡り、北陸と近畿・東海を結ぶ大動脈としての役割を果してきた柳ケ瀬トンネルであったが、この時にその栄光の幕を閉じることとなった。

   

<廃線>
 柳ケ瀬トンネルの旧線は一時期、北陸支線・柳ケ瀬線として存続し、ディーゼルカーがトンネルを抜けた。しかし、赤字のローカル線であり、間もない昭和39年5月10日、柳ケ瀬線も廃止された。これにて柳ケ瀬峠の鉄路の歴史も完全に閉じることとなった。
 
 尚、かつて柳ケ瀬トンネルの柳ケ瀬側坑口には伊藤博文筆による「万世永頼」という石額が掲げられていたそうだ。それは旧長浜駅舎の鉄道博物館に保存されたとのこと。

   

<車道化>
 柳ケ瀬線の廃線敷はアスファルト化されて国鉄バス専用道路となり、鉄路に代わる代行バスの通行に利用されることとなった。木之本と敦賀の間を国鉄バス・柳ケ瀬線が運行した。バスに限られたが、ある意味柳ケ瀬峠の復活でもあった。
 
 一方で、昭和55年には北陸自動車道の敦賀〜米原間が開通、峠には新しく上下2本の柳ケ瀬トンネルが貫通した。新しい峠の歴史の始まりでもある。

   

<県道化>
 昭和62年4月には、トンネル周壁の石と煉瓦積みの一部をコンクリート巻にし、更に待避所・蛍光灯・信号機を設け、一般車の通行も開始されるようになった。それが現在の県道140号・敦賀柳ヶ瀬線である。

   
   
   
現在の峠 
   

 岐阜県から八草峠を越えて旧木之本町を下り、大字杉本から杉本隧道を抜けると、その先旧余呉町の中之郷へと至る。かつてはここに北陸本線が通じ、中之郷駅があった。
 
 この後、福井県の敦賀を目指す場合、一旦南に下って木之本市街より国道8号を進むか、木之本ICから北陸自動車に乗るのが無難だ。 しかし、折角杉本隧道で木之本市街の北側に出たのに、また南に戻るのは癪でもある。その時活躍するのが、かつての鉄路のトンネルを抜ける県道140号である。距離だけで言えば、これが敦賀への最短となる。
 
 中之郷より一路東近江路・国道365号を北に進む。柳ケ瀬集落を過ぎた先、トンネルは左手にあるのだが、一旦国道を右にそれて再び国道の下を抜けるように柳ケ瀬トンネルはある。

   
柳ケ瀬トンネルの柳ケ瀬側坑口 (撮影 1997. 4.27)
   

坑口前にある信号機 (撮影 1997. 4.27)

 トンネル前後の県道140号はほぼ2車線路なのだが、トンネル部分は元々は単線の鉄路である。 少しは改修されたと言えども、その大きさは明治17年(1884年)の開通当時とさほど変わりない。交互交通の為の信号機が坑口直前にあるが、それを見落とせば大変なことになる。 信号機のあるトンネルというのは他にもあるが、初めての時はちょっと緊張する。
 
 待ち時間も長いが、1.35Kmの道程も長い。トンネル内には一応照明が灯るが、お飾り程度である。 ひたすら暗い穴倉の中をヘッドライト頼りに走るのだが、とにかくその閉塞感が怖い。こんな所で事故ったりしたら目も当てられない。 それに、信号待ちの間に何台かの車が並ぶ。その車列に遅れる訳にもいかない。早く反対側に抜け出したいと思うばかりだ。

   
   
   

 歳を取ってからはやや閉所恐怖症・暗所恐怖症の気が出て来た。一旦怖いと思うと、もういたたまれなくなる程だ。これでは窒息死した鉄道員の亡霊でも見かねない。同じ柳ケ瀬トンネルでも、これからは北陸自動車の方を走ろうと思う、柳ケ瀬峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992.10. 9 滋賀県→福井県 ジムニーにて
・1994.12.29 滋賀県→福井県 ジムニーにて
・1997. 4.27 滋賀県→福井県 ジムニーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 18 福井県 1989年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 25 滋賀県 昭和54年 4月 8日発行 角川書店
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2019 Copyright 蓑上誠一>
   
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