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黒森峠  四国地方の西方、石鎚山脈の峠
 
くろもり とうげ

 初掲載 2000. 5.21

 
黒森峠
黒森峠 (1999年12月31日)
手前が愛媛県面河(おもご)村、奥が同県川内(かわうち)町
高々と「黒森峠」と書かれた標識
 
 峠の検索がし易い様にと、最近「峠マップ」を作って掲載しているが、自分でそのマップを眺めてみても、これがなかなか面白い。改めて日本地図上での峠の位置を確認すると、随分思い違いをしていたのに気付く。全く別のところにある峠だと思っていたら、案外ご近所の隣同士の峠であったりする。ツーリングマップなどの道路地図では、拡大されてかえって分かりにくかったが、こうして日本地図で大局的に眺めると、峠の配置具合がよく分かるのだ。
 これまで、北海道から九州まで、なるべく万遍なく峠を選ぼうと思ってきたが、やはりある程度の偏りや、集中ができてしまったのにも気付く。九州は真ん中にかたまっている。北海道は数が少ない。東北の岩手県あたりは皆無。中国と四国地方の西の方は空白地帯となっている。もともと日本に存在する峠が、それほど平均的に日本中に散らばっているのではないから、仕方がないことなのだが、それだけでもなさそうだ。好きな峠を選ぶと、どうしても山深い地方の峠になってしまって、その為の偏りや集中だとも言える。これからはそんなことにも注意して峠を選ぼうと思う。

 そこで、今回は峠空白地帯である四国地方の西方からひとつ取り上げた。「峠と旅」の開設当初には、峠名が書かれた標識の写真を掲載していたこともある黒森峠だ。四国地方の西方と言えば、四国最高峰の石鎚(いしづち)山を中心に、その近辺に非常に山深い地域がある。黒森峠はその石鎚山から西に伸びた石鎚山脈の一つの鞍部に位置する。黒森峠から石鎚山の間には、もう他に車が通れる峠は存在しない。日本最大の断層、中央構造線を跨ぐ峠でもある。
 瀬戸内海に面した松山平野の一大都市松山から車を走らせても、峠まではさほどの時間は掛からない。しかし峠を越えて入り込んだ愛媛県面河(おもご)村は、北面を石鎚山脈に、南東面を高知県との県境の峰々に挟まれた、山また山の世界だ。

 
国道494号
国道494号(川内町側)
国道と言えども狭い道が続く
 今日は1999年の大晦日。巷ではミレニアムと騒いでる。そんな世間と隔絶した様に、今日も黙々と一人旅を続ける。
 昨夜宿泊した松山市内のホテルを出発し、一路国道11号を東へ走る。最初の目的地は井内峠だ。黒森峠より更に西に位置する、林道梅ケ谷・永子線の峠である。国道から分かれて県道210号に入り、井内の集落を抜け、いよいよ林道というところで、凍結した路面に行く手を阻まれた。早くも予定変更。それで黒森峠行きとなった。いつもの様に行き先定まらぬ迷走の旅である。
 黒森峠は5年前の、やはり冬期に訪れている。古いツーリングマップには「冬期閉鎖」の文字が見られるが、現在は冬期でも通行可能なはずだ。国道11号に戻り少し東に行くと、古いツーリングマップでは県道の表記となっている、現在の国道494号が右に分岐する。そこが黒森峠への入口である。
 まだ町が寝静まった早朝に松山を出発したのに、時間はもう9時を過ぎている。冬は日が短いので、気がもめる。 
 
 元の県道川内大味川(おおみかわ)線は、最初こそ国道にふさわしい2車線路だが、峠道に差し掛かれば、昔と変わらぬ狭い道である。松山平野に別れを告げ、山脈目指してグイグイ登る。
 峠のこちら側、松山平野に面した北斜面は、中央構造線の断層崖の一部にあたり、急斜面の険しい地形を成している。

 中央構造線とは、日本列島に無数にある断層の中でも最も大規模なもので、東は関東平野に始まり、諏訪湖でカーブして南アルプスの西を南下、渥美半島を通って紀州に渡り、和歌山から淡路島をかすめ、四国徳島の吉野川に沿い、石鎚山脈から佐田岬半島を抜けて九州に上陸する、長大な断層だ。数々の険しい峠とも無縁ではない。例えばあの青崩峠を思い出す。(青崩峠はその内掲載します)

峠の北斜面
松山平野に面した北斜面
険しい地形が連なる
  
日陰の道
日陰は路面が凍結
除雪されてはいても、滑り易い道だ
 この黒森峠もその中央構造線のただ中をよじ登っている。谷は複雑で崖は急峻である。足下の切れ落ちた谷を覗き込みながら、無数の連続するコーナーを曲がって行く。
 北斜面の為、日陰になりやすい部分は特に多くの雪が残っている。除雪された雪が一度解け出して路面を覆い、それが夜間に凍って滑り易い道となっているようだ。
 スタッドレスの4輪駆動でゆっくり登る。幸い林道の様な非常に勾配のきつい坂ではないので、それ程不安はない。この点は辛うじて国道としての面目を保っている。
 
 国道494号に入ってから、のんびり40分程も登って来た頃であろうか、ヘアピンカーブの脇のスペースに、休憩所が雪の中に建っている。他にもトイレや石碑や、それと「唐岬の滝」の案内図があった。
 ツーリングマップルにも載っているその滝へは、ここより車を降りて歩かなければならない。案内図には滝への道は示されているが、肝心なコースタイムがない。
 旅の途中で見付けるこうした滝などのちょっとした名所は、なるべく寄道したいと思うのだが、行ってみたら片道30分以上の険しい山道を歩かされたなんて時もある。行き当たりばったりの旅なので、前もって下調べすることはできない。その唐岬の滝についても、一体どんな滝なのか、どの程度有名なものなのか、全く分からない。片道5分や10分ならいいが、はっきりしなければ、おいそれとは行く気にはなれないのだ。
 しかし案内板をよく見ると、誰かがマジックインキで時間を記してあった。行きは約12分、帰りは登りで約22分、「急坂なり」とある。ちょっと長いし、この分では山道は雪に埋もれ、もっと時間が掛かりそうだ。やめることにした。最後にマジックインキは「川内さん、もう少していねいな案内板にして下さい」としめてあった。同感である。

 昔はこの峠道の途中に茶店があったそうだ。「八町坂の上り口」だという。そこがどこだか分からないが、もしかしたら休憩所が置かれているこの場所かもしれない。

休憩所
休憩所
ここより唐岬の滝への歩道が始まっている
昔の茶店跡?
 
明るい平野を望む
明るい平地が時折のぞく
松山平野の一端だ
 相変わらず道はコーナーの連続で、方向感が定まらない。もうそろそろ峠に着いてもよさそうだが、その峠がどこらあたりにあるのか、さっぱり見当がつかない。地形が複雑だからだ。

 しかし下界の方に目をやると、時折明るい日の当った平地が見える。松山平野の一端が顔を覗かしているのだ。ここまで高度を上げてきても平野が望めるのは、それほど山が急峻であるからだろう。道は険しいほど眺めがいい。

 
 また次の谷間に回り込むカーブかと思ったら、黒森峠と書かれた標識が目に入った。カーブの先は峠の切り通しである。

 標識には標高985mとあり、その直前を左に、雪に埋もれた割石(われいし)林道が分岐する。林道看板によると、延長1.9kmの行止りの道のように見える。しかし位置的には滑川沿いの県道302号皿ヶ嶺公園滑川線に連絡していてもよさそうだ。非常に気になる林道だが、この雪では通行は極めて困難だ。またの機会にする。

 峠はあまり日の差し込まない暗い切り通しで、道の両脇に積まれた雪が寒々しい。でも峠を抜け面河村側に入ると、暖かそうな陽だまりが迎えてくれた。

川内町より峠に着く
川内町側より峠に着いた
このカーブを曲がった先が峠の切り通し
峠を示す標識の手前を左に割石林道が分岐する
 
5年前の峠
黒森峠 (1995年1月3日)
同じ冬期でも雪は皆無
 黒森峠の前身は割石峠と言うそうだ。南西の方角約1kmにあり、藩政期こ使われた峠らしい。黒森峠が明治初期に開通したことで、割石峠の道は廃道となり、代わって黒森峠が面河村と松山方面を結ぶ要路となった。
 面河からは木材や木炭が馬の背に乗せらて運ばれ、松山方面からは日用雑貨や海産物がもたらされた。周囲を山に囲まれた面河にとって、広大な平野やその先に控える瀬戸内海へと続く、まさしく主要交通路であったのだろう。
 また、松山方面からは霊峰石鎚山への登山道としても使われた。黒森峠を越え、面河村の市口、梅ヶ市、堂ヶ森を経て石鎚参りをするコースは、松山からの最短路でもあった。
 しかし要路としての役割は昭和10年頃までで、面河村の面河川に沿う県道が開通、整備されると、物資は馬の背からトラック輸送に代わり、峠はさびれた。
 
 昭和31年には、遅まきながらも黒森峠に新しい自動車道が開通する。この頃は自動車の普及に伴い、日本各地で車道の開通ラッシュとなっている。県道川内大味川線と名を変えた峠道は、勿論松山と面河を結ぶ最短経路ではある。しかし、カーブの多い1車線の山岳道路では、利用者も少なかった。それでも昭和37年には伊予鉄バスが運行したそうだが、過疎やマイカーブームやらで採算が取れなかったのか、間もなく廃止となった。
 現在は国道に昇格し、冬期も車で越えられる峠道だ。しかしこうして暫く峠に佇んでいても、通る車は一台もない。それは今日が大晦日だからだろうか。ここを荷物を鞍に乗せた馬を引いて、人が歩いて越えた時代のことを思う。その頃よりずっと便利な道になったが、峠道の価値は下がってしまったようだ。自動車は、道の距離よりも、道の快適さを優先させた。黒森峠は今でも面河から松山までの最短路には違いない。しかし険しい峠越えより、大回りしても快適な道が選ばれてしまう。せめて私はそうした峠を好んで越える。
峠の面河村側
峠の面河村側
右手に石鎚面河渓の看板
左手にトイレがある
 
面河村の集落
峠から下りて来て最初の面河村の集落
田畑は雪で埋もれていた
 峠の面河村側には、石鎚面河渓の看板が立つ。面河渓は村内最大の景勝地である。看板の反対側には小さなトイレがあった。以前来た時には気付かなかったので、最近できたものだろうか。またその近くには大正五年ニ月と記された小さな地蔵が、暖かそうな日を浴びて、まじめそうな顔で立っていた。
 峠は瀬戸内海と太平洋との分水嶺である。峠の川内側の雪解け水は、峠直下の表川を下り、最終的には松山市の南を西走する重信(しげのぶ)川で瀬戸内海に注ぐ。一方、こちらの面河側は割石川から仁淀(によど)川で、はるばる土佐湾まで行っている。この山の中の峠に立って土佐湾と言われても、ピンとくるわけない。

 峠の前後には車も止められるだけのスペースがあるので、のんびり休憩するのがいい。でもあまり展望はないのが残念だ。それに時間は既に10時を回った。出発することにする。

 面河村に下りると、山の様相は一変する。川内町側とは異なって、穏やかな緩斜面を下る道だ。山懐に深く抱かれて、落ち着いた感じを受ける。かわりに遥かに見渡す様な展望はない。一長一短である。
 峠より20分程で面河村側最初の人家が現れた。小網と呼ぶ集落だろうか。田畑は雪で埋もれていた。

 
 更にもう少し下ると、面河ダムに堰き止められたダム湖に出る。湖の西側を走る県道153号が分岐する。
 国道は湖の東側を大きく巻くが、県道は湖沿いを進む。湖を眺めるなら断然県道をお薦めする。
 県道を行き、湖を過ぎたらまた国道に戻る道がある。ただし、ツーリングマップルにある、ダムの堰堤を通る道は通行止だと思う。5年前に行ったら見事に柵で行き止まった。

 ダムの後は左に県道12号、通称石鎚スカイラインが分かれる。石鎚山下の土小屋まで行ってる県道だが、勿論冬期は通れない。面河村から抜け出すには、このまま面河川の流れに沿って国道を行くしかないのだ。

 時間は10時半を少し過ぎた。約1時間半の黒森峠の旅であった。さてこれからどうしようか。今夜は高知市にでも宿をとって、新年を迎える積もりである。高知市まで、この山里からどんな旅をして抜けるかである。

ダム湖
面河ダムによるダム湖(1999年1月3日)
多分、県道より眺めた様子
 
峠と旅