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関田峠
 
せきだとうげ/せきたとうげ
 
雪深い新潟国境の峠

 
関田峠 (撮影 2000. 6. 3)
手前が長野県飯山市温井(ぬくい)、奧が新潟県板倉町関田
道は県道95号・上越飯山線
 

県道95号上越飯山線を板倉町側より峠を目指す
この県道に入るまで、
県道30号からの分岐で手間取った
前方に信越国境の関田山脈がそびえている
 新潟県の国境は豪雪地帯が多く、春になってもなかなか峠が越えられなくて困る。そこそこの峠なら、せいぜい5月のゴールデンウィーク頃までには冬期閉鎖が解除されるのだが、新潟県の峠は非常に手ごわく、7月くらいまで待たないとダメなのである。
 夏休みを使って訪れればいいのだろうが、期間が長い夏休みとなると、一挙に東北とか北海道へ遠征してしまって、新潟には目がいかない。それで、まだ越えていない峠や、また越えてみたい峠が、新潟には沢山残っている。
 そのままほっておく訳にはいかないと思っていた折りの去年(2000年)の6月初旬、会社の仕事も一段落つき、1日くらい休んでもよさそうな状況になった。ちょうど労働組合でも有給休暇の利用を促進しようとする運動が行われており、これはチャンスである。
 いつもなら、風邪などの病気が理由での有給休暇は取り易くても、前もって「私用」での有給休暇の届出は出しにくい。しかしここは一番、清水の舞台から飛び降りた気分で、有給休暇を取ることにした。
 
 清水の舞台から飛び降りたにしては、たった1日の有給休暇なのだが、金曜日と土日の休日を合わせて3連休である。旅のターゲットは勿論新潟。日本の大多数のサラリーマンが会社に出勤して行くのを横目に、新潟向けて旅に出た。
 しかし、途中の山梨県や長野県の峠で散々道草を食い、ついでに車を崖に落としそうになり、新潟に入ったのは2日目の土曜日となった。その後は、乙見川峠やこえど越え(糸魚川市と能生町の境)、南葉山林道の峠(名立町と新井市の境)などでことごとく通行止にあい、新潟の峠はやっぱり手ごわいと痛感させられることとなった。
 そして、最後の頼みの綱とばかりに、この関田峠に向かったのは、2日目ももう午後3時を過ぎていた。空はどんより曇り、そのうち雨粒が落ちてきそうな様子である。峠越え日和ではないが仕方ない。
 まず、新潟県の上越市の方から県道30号で南下する。途中、左に県道95号へ折れる予定が、何の道路標識もないので、まんまと行き過ぎてしまった。かりにも主要地方道ともあろう道の分岐で、標識がないとは許せない。県道30号が南から西へ徐々に方向を変えたことで、分岐を通り過ぎたのを確信し、プンプン怒って引き返して来た。

板倉町 県道95号
沿線の人家が減って、代わりに田畑が広がりだした
こういう所なら、いつでも道路脇に車を止められる
地図の確認も容易である
 

そろそろ山に近付いた
 最初の行き過ぎた時も、「この分岐は怪しいな」と思ったところを曲がると、案の定、関田峠に続く県道95号であった。後でツーリングマップルを調べると、「針」というT字路のところである。助手席にナビをしてくれる者がいれば、信号機に出ているこうした交差点名なども手掛かりにできるのだが、一人で走りながらでは、道路地図の確認もままならない。やっぱり分かり易い道路標識を完備していただきたいものだ。
 
 県道95号は、日本海に面した高田平野の端を、ほぼ真っ直ぐ南東に向けて進む。前方の遥か遠くに目をやると、信越国境の関田山脈がそびえている。
 
 暫く走ると、時々センターラインのない道となる。沿線の人家もまばらで、代わりに田畑が広がり出す。交通量も極めて少なくなった。こんな所なら、気楽に路肩に車が止められ、一人旅でも地図の確認は容易なのだが。これだから田舎道は好きである。
 
 田園風景の穏やかな田舎道は、いよいよ峠への登り道へと変わった。たいして標高を上げてもないのに、道は直ぐにも険しい様相をあらわにした。狭いコンクリート舗装の道である。勾配は急で、ガードレールもない。路面には亀の甲羅のような模様が、車の滑り止めとして深く刻まれている。これが主要地方道とは到底思えないのである。
 
 旅をしていると、時々小高い山の上まで、車道が築かれているのを見付ける。名もない村道である。試しに行ってみると、山頂に見晴らしのいい展望台があったり、村人が集まる小さな公園があったりする。
 しかしその途中は、よくこんな所に道を造ったなという程、地形は厳しい。舗装は一応されていたりするが、その狭さや急勾配の度合い、カーブの鋭さなど、尋常ではないのだ。一般道と一味も二味も違った道である。途中で入り込んだことを後悔しても、簡単には引き返せない。

峠への本格的な登りが始まった
これが主要地方道?
 

路面には滑り止めの甲羅の様な模様が
 しかし、そうした地図にもなく、地元の人しか使わない道なら、仕方がないと諦める。よそ者がとやかく言う筋合いではない。でも、関田峠の道は、誰でもが通る一般道であろうに。それが、名もない村道と変わりないのだ。
 
 最初、主要地方道の峠道なんて、全く期待していなかった。今回の旅では、あちこちの峠でそっぽを向かれ、仕方ないから関田峠だけでも越えておこうかといったくらいの気持ちである。快適な2車線路であっと言う間に峠を越えても、それはそれでしょうがないと思っていた。
 ところが、嬉しい予想外れである。こんなコンクリート路面は、そう簡単にお目にかかれる代物ではない。無名の村道と比べても、全く遜色がないのである。
 
 道はどんどん標高を上げていく。右手後方に下界の景色が広がった。非常に高度感がある。眺めはいいが、よそ見は禁物。ガードレールが全くなく、代わりのコンクリートブロックが、道路脇にとびとびに並べられているだけだ。
 
 右手前方には、深い森が今は霧に霞み、ますます山の奥深さを感じさせる。国境の山脈の懐に入り込んできたのを実感する。

いよいよ高度を上げてきた
 

前方に一段と急勾配の道が
 ふと見ると、前方にやたらと急勾配、急カーブの道がちらりとのぞいた。天にも登るのかと思える道である。まさか、あれは本線ではあるまい。枝道の林道か何かだろう。
 
 ところが近づいてみると、他に道はなかった。また、コンクリート舗装である。今は路面凍結の心配などないが、冬場は怖いことだろう。ここで滑ったらひとたまりもない。天どころではなく、地獄の底までも滑り落ちていきそうだ。
 
 ところが、その険しい道の先には、広々とした高原が広がっていた。下界を見下ろす山岳風景とは、全く別世界である。のどかな光ヶ原牧場であった。
 
 ここは単なる牧場ではなく、リクリエーション施設になっているようだ。道路脇に「グリーンビレッジ総合案内図」という看板が出ていた。それによると、ふれあい広場や野外ステージ、ロバ乗り場、ゲートボールコート、バーベキューガーデン、パターゴルフ場、渓流広場、テニスコート、クラブハウス、レストランなどなど、いろいろ設備が整っているようだ。
 しかし、どこにも人を見掛けない。大きな駐車場も、ガラ空きである。どこからともなく中年の夫婦が車でやって来た。一旦、車の外に出たものの、高原を渡る冷たい風に閉口して、直ぐまた車内にもどってしまった。
 天気が悪いせいもあるだろうが、この牧場にはまだ春が来ていないように思えた。ここが行楽客で賑わうには、あと数ヶ月、夏まで待たなければ、ならないのではないだろうか。

高原が広がる
 

左手前が峠方向、左前方が登って来た道
右に分岐する道は?
 右に牧場を眺めながら来ると、左に分岐する道が一本あった。幅の広い道である。分岐の角には大きな駐車場がある。行き過ぎて振り返ると、分岐に立つ道路標識に、これまで来た道には「×」が書かれ、分岐の道には「上越・新井」とあった。峠から下りて来ると、直進せず、分岐に右折しろということだ。
 
 どうも、どこかでバイパスがあるのを見落としていたようだ。ツーリングマップル(発行1997年3月)には載っていないのだが、板倉町の上関田あたりから光ヶ原高原へ直接出る道らしい。そっちの方が、コンクリート舗装などではない、いい道かもしれない。
 この高原にこれだけ立派な施設があるのに比べて、どうもさっきのあのコンクリート道は、あまりにも一般向きでないと思った。ちゃんと別の道が考えられていたらしい。
 
 分岐を過ぎ、県道をそのまま、牧場をぐるりと回って行くと、今度は左手に「光ヶ原森林公園」がある。キャンプなどができる施設だろうか。しかし、今はここにも人影はない。
 
 高原の広々とした中の道を走っていると、何となく方向感覚がなくなる。一体峠はどっちの方角にあるのか、さっぱり分からなくない。見えるのはなだらかな丘陵ばかりで、この先の道筋が予想できないのだ。
 単純な峠越えだと、ただただ目の前の山を登って行けばいい。道はジグザグに曲がっても、常に上り坂で、結局ほぼ一定方向に高度を上げているだけである。分かり易くていい。
 光ヶ原高原の、登るでもない下るでもない道を進む。県道は立派で、道の間違いようはないが、何となく不安である。ついつい先を急いでしまう。

光ヶ原森林公園
 

峠は近いが春はまだ遠い
道の脇の窪地には、雪が累々と残っていた
関田峠は雪の峠である
 
 高原を過ぎ、道はまた登り始めた。なだらかな勾配である。やっと前方に峠らしい場所が見えてきた。同時に道路脇の窪地に、累々と雪が残っているのが目に入った。土が混ざった汚れた雪であった。冬はもう確かに過ぎ去っていたが、まだ春も遠いい関田峠であった。
 
 関田峠は関田山脈中部の信越国境にあり、山脈中最も高い峠だそうだ。関田山脈にあるその他の峠は、東のほうから深坂、野々海、須川、伏野、牧、平丸、富倉である。中には車道の通ってない峠もある。
 関田峠は、戦国期に於いて上杉謙信が信濃川中島への出兵の際に、軍道として使われた。近世では、高田平野の農民と千曲川流域飯山の農民の間の、物資交流の道であった。越後からは塩、魚、米が、信濃からは内山紙、小麦、箕が運ばれ、峠の広場で交換が行われたそうだ。
 また、越後の農民が信濃の野沢温泉へ行く湯峠道として、第二次大戦前ころまで、関田峠が使われた。峠の名前は、越後側の関田集落によるものらしい。
 しかし、明治中期の信越線、昭和初期の飯山線の開通に伴い、物資輸送の役割は薄れていった。代わって昭和40年より光ヶ原牧場の建設が始まり、同時に車道新設も進められた。昭和58年には主要地方道上越飯山線として全面舗装が完了している。


手前が新潟県板倉町、奥が長野県飯山市
右手に大きく立つ看板には
黒倉山登山道 頂上」とある
 

左は「飯山高田線 自動車道開通記念碑
右は「主要地方道上越飯山線
全線舗装完成記念碑

自動車道開通記念碑」の碑文
昭和49年10月28日に開通した事が分かる
 

関田嶺修路碑   嘉永2年建立
何て書いてあるか分からない
 関田峠には道に関する石碑が多い。道の歴史が分かってなかなか参考になる。

 一番古いものでは「関田嶺修路碑」がある。嘉永2年(西暦1849年)の建立というから、今から約150年前のものである。石碑に刻まれた文字は、長い風雪によりかすれ、判読しにくくなっている。まあ、読めたとしても、古い文章だから意味は分からないのだが。
 でも、石碑は苔むすこともなく、よく手入れがされていることがうかがえる。
 
 「関田嶺修路碑」と道路を挟んで、「飯山高田線 自動車道開通記念碑」と「主要地方道上越飯山線 全線舗装完成記念碑」が並んで立っている。
 
 「自動車道開通記念碑」によると、自動車道が開通したのが昭和49年とのことである。ほんの少し前のことで、びっくりさせられる。現在は、新潟県の上越市と長野県の飯山市を結ぶ主要地方道として、「上越飯山線」と呼ばれているが、車道完成時は「飯山高田線」であったことも分かった。「高田」とはどこの地名だろうか。
 
 
 峠より長野県飯山市側をのぞくと、山の斜面にまだ多くの雪が残っていた。ふと見ると、路上に人が立っている。何か写真を撮っているようだ。近付いてカメラが向いた方向を眺めると、幻想的な風景が広がっていた。水を溜めた湿地が半分凍り、周囲を雪原が取り巻いていた。やっぱり関田峠は、雪の峠であった。

 

峠より長野県側を見る
写真を撮っている人がひとり

半分凍った湿地
幻想的な風景だった
 

茶屋池

茶屋池はうす
 
 峠を長野県側に下り始める。
 間もなく左手に2階建ての小屋が建っていた。「茶屋池はうす」とある。道を挟んで小屋の反対側を見ると、水を満々と溜めた茶屋池が、林に囲まれて静かに佇んでいた。峠近くの、まだ標高が高いところに、こんな池があるのが、不思議な感じがした。
 
 峠や茶屋池の周辺は、「関田峠森林浴歩道」なるものが整備されているようだ。茶屋池はうすに案内標が出ていた。しかし、森林浴にはまだまだ時期が早いとしかいいようがない。峠の周囲に残る雪を見ただけで、寒々してくる。散策などする気にはなれない。
 
 それより新潟国境2日目の旅も、もう夕方5時半をまわり、今日のねぐらの心配をしなければならない。こんな寒いところでなんか、野宿はできないのだ。早く暖かい下界に下りて、よさそうな野宿地を見つけ出さなければならない。

関田峠森林浴歩道案内標
 

飯山市側のなだらかな斜面
 茶屋池を過ぎ、車で5分も行くと、飯山市中心を流れる千曲川に向かって、なだらかに裾野を広げた山の斜面が見渡せる。新潟県側のあの険しい山岳風景と対照的に、全く穏やかな景色である。
 道を下るにしたがい、桜も咲き、山里の水田風景が眼下に望める。一瞬にして春がやって来た思いだ。
 
 峠道は、たった一本の道なのに、いろいろな風景を見せてくれる。特にこの関田峠の道は、険しい山岳道路や高原牧場、雪の峠、山の上の静かな池、春の水田と、僅かな時間の流れの中に、いろいろな風情を凝縮して味わせてくれた。
 季節も丁度よかったようだ。冬でもなく、夏でもなく。冬の名残がまだまだ残る、遅い春であった。
 
 県道を下る途中、田茂大池という人工的な池があった。釣人が数名釣り糸を垂れていたが、日が暮れるに従い、三々五々家路についていく。その内誰も居なくなるだろう。今夜はこの池のほとりで野宿することに決めた。
 雨がパラパラ降り始めたが、それも風流である。傘をさしながら、池でも眺めて夜を待つことにする。最初つまずいた旅ではあったが、この関田峠のお陰で、今回もいい旅になった。
 
 
 尚、この旅をした時には30日近くあった有給休暇も、その年の暮れにひどい風邪を引いたり、いろいろあって、その後一度も旅に使うことなくスッカラカンになってしまった。3月の有休休暇の新規支給を前に、もう一日も休めない。全く背水の陣である。もう風邪さえ引けないと思ったら、のどは痛いし、頭痛も始まった。旅をするどころか、苦痛を我慢して会社に出勤しなければならないのが悲しい。

桜が咲く飯山市の水田の風景
 
<制作 2001. 3. 6>

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