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善知鳥峠
 
うとう とうげ
 
善知鳥の謡曲と分水嶺で有名な峠
 
善知鳥峠 (撮影 2001. 4.28)
奥が長野県塩尻市金井(かない)、手前が同市北小野(きたおの)
標高889m
道は国道153号・三州街道(飯田街道とも)
 
 漢字は大の苦手だが、「善知鳥」を「うとう」と読むことだけは、何となく以前から知っていた。どこで覚えたか全く記憶にないが、鳥の名としてではなく、やっぱり峠の名としてであろう。その証拠に、善知鳥がどんな鳥だか今でも知らない。最初は架空の鳥かとも思っていた程で、実在する海鳥であることと知ったのは後のことである。
 
 峠の「善知鳥」の方も、知っているのはただ名前だけで、実際に自分の足(車)で峠を越えたのはつい最近のことだ。名前が知れた有名な峠と、車で旅して面白い峠とは違う。善知鳥峠を避けていた訳ではないが、かといって訪れたいと思う峠でもなかったのだ。それがどういう気の持ち様か、ちょっと訪ねてみようと考えになった。しかし、勿論旅のついでではあるが。
 

金井側からの峠への登り
 長野自動車道を塩尻ICで降り、国道20号をちょっと上り方面に戻り、金井の仲町より国道153号に乗る。閑散とした国道だ。オレンジ色のセンターラインがずっと続いている。
 道はほぼ南へと進路をとっている。直ぐに前方に低い山並みが見渡せた。これからそこを越えるのだと思ってみても、あまり峠を越えるという実感が湧いてこない。道は峠への坂を登り始めたが、勾配はゆるく道はあまりにも快適なので、何のストレスもなく車は進んでいく。
 
 しかし、善知鳥峠の北側のこの道は以前は険しい道で、それが所以で「魔の峠」とも言われたそうな。急斜面に31のカーブがあり、冬季は路面凍結を起こし、交通事故が多発したそうだ。それが昭和46年に全面改修が完成し、現在の道路となっている。車に乗りながら周囲を見ても、昔の面影を見い出すのは難しい。今では何でもない国道である。
 
 そういう訳で峠にはあっさり着く。赤地に白抜きで「分水嶺」と書かれた文字が目に入る。まるでのぼり旗の様だがそうではなく、風になびくことはない看板だ。わざとのぼり旗を模しているようにも思える。峠前後の道はなだらかなので、はっきりした峠の位置が掴み難い。多分「分水嶺」の看板付近がそうだろうと納得する。
 
 看板の直ぐ脇に車が3、4台置ける駐車スペースがある。何とも書いてないが、その直ぐ後ろにある「分水嶺公園」の駐車場と思われる。先客の車2台の間にジムニーを滑り込ませる。車はあってもその持ち主の姿は公園にはなかった。国道を通過する車両も少なく、ひっそりした峠である。

金井側から峠を望む
 

分水嶺公園の小さな駐車場

分水嶺公園
 

峠の碑と由来などが書かれた看板
 やはり現在の峠そのものにはあまり魅力はないが、峠に付けられた「善知鳥」は気に掛かるところだ。当然ながらいわれがあろう。園内には峠の石碑とその脇に峠の名の由来などが書かれた看板が立つが、その看板には次の様にあった。
 
 北国の浜辺で猟師に捕らえられた雛鳥を追い求めて飛んで来た親鳥は、険しい山々、激しい吹雪に力つき、この地に果てたという。
 土地の人はその珍鳥が善知鳥(うとう)と知って手厚く葬い、うとう山と呼ぶようになったという。
 
 謡曲ではそのあと、善知鳥は化鳥となり猟師をさいなむ。
 
 これだけで納得がいくというものではないが、とにかく現在この「善知鳥」は山や峠の名以外にもいろいろと使われている。例えば、峠の下には中央本線の「善知鳥峠トンネル」が抜け、何でも「善知鳥峠号」なるSL(蒸気機関車)が走ることもあるそうな。
 この地と善知鳥の関係をもっと深く知るには、能でも鑑賞すればいのかもしれないが、ちょっと寄り道した程度の峠の積りである、そこまでする気にはなれないのであった。
 
 分水嶺公園の中を散策する。一般の峠ではこんな公園などないので、石碑を見たり看板を読んだりと、することがあるのはいい。あちこち歩き回る。でも、枯葉が園内のアスファルト敷きの歩道やコンクリート造りのモニュメントに溜まり、ゴミ箱からはゴミ袋が溢れ、誰も居ない東屋はガランとして、それがかえって寂しい峠でもある。
 
 善知鳥という変わった名前を持つことの他に、善知鳥峠のもう一つの特徴はと言えば、公園の名が示すようにここが分水嶺であることだ。この峠を流れ下る水は、南は天竜川を経て太平洋へ、北は犀川・千曲川・信濃川を経て日本海へと注ぐことになる。

分水嶺公園の様子
 

分水嶺を表すモニュメント
汚い水溜りではない
 公園の中の奧の方に、山を背にして二手に分かれる浅い水路が設けられていた。水は流れがなく淀んでいる。最初は何でこんな所に枯葉が浮いた汚い水溜りがあるのかと思いきや、それはここを流れる水が南と北に別れることを象徴していたのだった。そのモニュメントがこの地が分水嶺であることを表現していることに気付くまで時間がかかってしまった。
 
 善知鳥峠は北側の松本平と南側の伊那谷との境をなす峠である。大芝山の東の鞍部に位置する。しかし、峠は同じ塩尻市内にあり、郡境にも市町村境にもなっていない。峠の様相からしても何となく太平洋と日本海の分水嶺という大それた峠には思えないのであった。
 
 何でも、峠の南側の北小野は、以前は伊那郡(辰野町側)に属していたのが、江戸期から筑摩郡(塩尻市側)に編入されたことにより、峠はどことの境にもならなくなったらしい。
 
 古代は東山道(「あずまやまみち」と読み、「とうさんどう」ではないらしい)というのがこの峠を越えていたそうな。
 
 また「伊那街道」という古い呼び名もあり、江戸期以降は「三州街道」と呼ばれ、太平洋に面した三河の地から伊那谷を縦貫し、内陸深く信州の塩尻までを結ぶ「塩の道」であった。「三州」は三河地方を表すので、どちらかと言うと伊那方面からの呼び名と考えられる。一方、三河からは「飯田街道」とも呼ばれた。
 
 園内の看板によると、昔の三州街道は現在の国道より少し東側の山の中を通っていたようだ。
 
 「塩尻」の名が示す様に、遥々三河湾から中馬(ちゅうま)と呼ばれる馬での塩輸送が塩尻まで行われた。「塩尻」の「尻」とは塩を運んだ終着点とでもいう意味があるのかと想像させられる。その終着点を前に最後に越える難関がこの善知鳥峠であったのだろう。この峠道は塩以外にも各種海産物などの交易が行われ、また庶民信仰の旅の道でもあったそうな。
 
<参考文献:角川日本地名大辞典(長野県編)>

園内の看板
 

北小野側への下り
 相変わらず先ほどから訪れる者もなく、道を通り過ぎる車も絶えて、寂しく善知鳥が一匹飛んできてもよさそうな善知鳥峠である。まだ午前の日の光は東の山陰に隠れ、分水嶺公園は薄暗くさびしい。そろそろ峠を辰野町方面に下ることとする。
 
 峠を後にし国道を走るが、こちらの下りは尚更なだらかで、現在の道では峠を越えてきたという感じはほとんどない。ましてや、峠などに関心がなく善知鳥だろうが分水嶺だろうが、知ったことではないと思う者にとっては、峠としての意識がないまま走る過ぎてしまいそうな善知鳥峠であった。
 
<制作 2002. 6.30>
 
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