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大塩峠   (別称:萱峠)
  おおしおとうげ/かやとうげ  (峠と旅 No.261)
  旧会津・米沢街道が通った峠道
  (掲載 2016. 8. 8  最終峠走行 2016. 6.13)
   
   
   
大塩峠の広場 (撮影 2016. 6.13)
峠は福島県耶麻郡(まやぐん)北塩原村(きたしおばらむら)大字大塩(おおしお)にある
奥は大塩集落へと下る
手前は同村大字桧原(ひばら)方面に至る
道は村道大塩桧原線(以前は高曽根林道とも)
峠の標高は864m (文献や現地の看板より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
車道の最高所はこの少し手前にある
車道が通じる前の萱峠と呼ばれた頃は、車を停めた右手の林の奥に峠の茶屋があったそうだ
そこには会津と米沢を結ぶ古い街道が通じていた
 
 
 
   

<裏磐梯(余談)>
 妻が裏磐梯(うらばんだい)に行ってみたいと言う。まだその地を旅行したことがないようだ。 私は3回程訪れたことがあるが、ほとんど通り過ぎるばかりで、じっくり旅をしたことがない。 そこで、ここはひとつ裏磐梯にある休暇村にでも宿泊し、じっくり腰を据えて旅をてみようかということになった。
 
 裏磐梯では、ついでに越えてみたい峠があった。今回の大塩峠とその道に続く蘭峠(あららぎとうげ)である。 どちらも小さな峠だが、かつての米沢街道が通じていた歴史ある峠道だ。現在、元の峠とほぼ同じ位置に車道が通じ、車での往来が可能になっている。

   

<所在>
 裏磐梯とは、会津磐梯山の北側、すなわち裏側にあるのでそのような名が付いたのだと思っている。 一帯は福島県の耶麻郡(まやぐん)北塩原村(きたしおばらむら)と猪苗代町(いなわしろまち)にまたがる高原地帯で、 裏磐梯高原あるいは単に磐梯高原とも呼ばれる。桧原湖(ひばらこ)を最大とする大小の湖沼(こしょう)が点在し、それらを観光資源とする一大観光地でもある。 ただ、大塩峠は裏磐梯にあっても、その北西の端っこにあり、余程観光地とは縁がない。
 
<大塩と桧原>
 桧原湖を中心とする北塩原村の地は大字で桧原(ひばら、以下では桧原地区)と呼ぶ。「檜原」とも書くが、ここでは「桧」の字で統一させて頂く。 桧原地区は北塩原村東部の大半の範囲を占める。 その西に隣接するのが大字大塩(おおしお、以下では大塩地区)で、大塩峠は大塩と桧原の大字境に極めて近いが、厳密にはそうではないらしい。 峠を桧原方向に下り切った所に境橋という橋が架かっていたようで、その名前からしてそこが大塩と桧原の境ではないかと思う。 現在の地図では大字の境界線が描かれていることは稀なので、あまりはっきりしない。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<峠名>
 古くは「萱峠」(かやとうげ)と呼ばれたようだ。この付近の樹木が伐採され、見渡す限りの萱野原と化したのに由来すると推測される。 また、峠には一軒の茶店があったので「茶屋峠」などとも呼称されたようだ。
 
<車道の峠>
 峠に北塩原村の村道・大塩桧原線が通じてからは、「大塩峠」とも呼ばれるようになったらしい。 現在の地形図や一般の道路地図ではこの「大塩峠」で掲載されている。桧原地区からすると大塩地区に至る峠という意味になろう。
 
 車道開通により古い峠の一部が切り崩され、峠の位置は僅かにずれた可能性がある。その為、厳密には萱峠と大塩峠は別物である。 元の萱峠はなくなり、現在の車道の峠は大塩峠と呼ぶべきだろう。以後は、「大塩峠」で通すが、時代的には「萱峠」と呼んだ方がふさわしい場合も含まれる。

   

<桧原峠>
 峠は大塩側からすると桧原地区に至る峠道にあるから、桧原峠(ひばらとうげ)とでも呼んでよさそうなものだが、桧原峠は別に存在する。 そもそも大塩峠に通じる米沢街道が、会津地方と米沢盆地の境を越えるのが桧原峠であった。大塩峠とは深い関係にある。
 
 吾妻連峰(あづまれんぽう)から西の飯豊山地(いいでさんち、飯豊連峰とも)へと連なる峰は、現在は福島県と山形県との県境になっている。 西吾妻山(2,035m)を代表とする高い山がそびえ、福島県の会津地方と秋田県の米沢盆地とを隔てている。 桧原峠はその峰の主脈上にあり、会津若松市街と米沢市街とを直線で結んだ場合のほぼ線上に位置する。また、標高で1,094mと比較的低い鞍部に通じる。 こうした地形的条件からか、古くから若松と米沢の間を往来する米沢街道として使われて来た。
 
<桧原峠に付属する峠>
 ただ、この米沢街道は若松・米沢間をなるべく最短で繋ごうとした為か、中央の桧原峠以外にもその前後で幾つかの峠を越えることとなった。 桧原峠を米沢側に下った最初の宿場は綱木(つなき、つなぎ)宿だが、 その後米沢市街へと至る間に綱木峠、船坂峠と越えていた。 一方、桧原峠の会津側最初の宿場は桧原宿で、それに続き越えたのが蘭峠(あららぎとうげ)と今回の大塩峠(萱峠の方がふさわしい)であった。

   

<米沢街道(余談)>
 これまで何の但し書きもなく米沢街道と書いてきたが、単に米沢街道と言った場合、必ずしも桧原峠を越える道とは限らない。 米沢の周囲より米沢に至る道が、ある意味全て米沢街道である。例えば以下の3ルートとも米沢街道と呼ばれたようだ。
 @:西の新潟県の新発田(しばた)市や村上市から荒川沿いに遡り、山形県の小国盆地を経て米沢市街に至るルート。米沢道とも呼ばれた。 現在の国道113号に近い。
 A:北の上山市方面から至るルート。山形街道とか最上街道とも呼ばれた。現在の国道13号に相当する。
 B:南の福島県喜多方市街を経由し、大峠を越えるルート。現在の国道121号に相当する。
 但し、Bの大峠ルートは、桧原峠のルートを変更したものだ(後述)。

   

<会津街道(余談)>
  また桧原峠の道は、米沢側からすると会津に至る会津街道とも呼ばれる。米沢街道同様、会津街道と名が付く道は複数ある。主なものでも5ルートあるようで、 会津五街道などとの呼び名もある。全部列記しようかと思ったが、大変な労力になりそうだし、必ずしも峠道とは限らないので、ここでは省略とする。尚、会津地方の中 心地的存在であり、江戸期までの城下町であった会津若松を使って「若松街道」などという名もあるようだ。

   

<桧原街道>
 「米沢」かと「会津」とか「若松」とか、目的地を指す名称ではその街道のルートが特定できない。 その点「桧原街道」という呼び名は、桧原峠を越え、桧原宿を通るということを表し、今回の街道以外にはない。 この桧原街道という名称も米沢城下と会津若松城下を繋ぐ街道の名として存在したそうだ。ただ、現在はあまり使われている形跡がない。 今の桧原峠は廃道寸前の状態であり、またかつての桧原宿は既に桧原湖に沈んでいる。こうした現状では仕方ないことだろうか。

   

<会津・米沢街道>
 現地に立つ看板などでは、桧原峠を越える街道を「会津・米沢街道」などと記していた。これは「会津街道」と「米沢街道」を単に並記しただけかもしれない。 その証拠に、路傍の標柱には会津若松方向に見ると「会津街道」と書かれ、米沢方向には「米沢街道」と書かれていた。
 
 しかし、「会津・米沢街道」とは「会津街道」かつ「米沢街道」という意味に取れなくもない。 大峠ルートを除けば、「会津街道」でありかつまた「米沢街道」であるのは桧原峠を越えるルートだけとなる。 「会津・米沢街道」という書き方は個人的にも気に入っている。今後、多用したい。

   

<桧原峠の変遷>
 今回の大塩峠にも大きく関係することなので、桧原峠の変遷にちょっと触れたい。
 
 戦国期、米沢は伊達政宗で知られる伊達家の本拠地で、伊達家は近隣との領地争奪にしばしば桧原峠を越えた。 豊臣政権下になって世の中が収まると、伊達政宗は仙台へと移封され、代わって会津と米沢の地は越後の上杉謙信を祖とする上杉家の領地となる。 主君の景勝(かげかつ)が会津若松城に住まい、家臣の直江兼続(なおえかねつぐ)が米沢城下を治めた。 桧原峠を越え、上杉の家臣らが頻繁に往来したことだろう。
 
 しかし、関ヶ原の役で西軍の豊臣方に加担した上杉は、江戸期には米沢の地のみに押し込められ、大藩の財政は貧窮を極めた。それは幕末まで続く。 それでも、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という歌を訓戒とした名藩主・上杉鷹山(ようざん)を輩出して、 耐え忍んだ。
 
 一方、広大な会津盆地を治めたのは、徳川二代将軍秀忠(ひでたた)の血統を引く会津松平家で、幕末には悲運の藩主松平容保(かたもり)へと続く。 桧原峠は明治維新における戊辰戦争の舞台ともなった。
 
 こうした時代の中、桧原峠は会津と米沢を結ぶ唯一の幹線路として栄えていたようだ。

   

<桧原峠の衰退>
 桧原峠に大きな変遷が訪れたのは明治期に入ってからである。 時の福島県令・三島通庸(つうよう)は、強権を持って会津若松から三方に延びる道路の近代化政策を推し進めた。 その道を会津三方街道(あいづみかたかいどう)とも呼ぶ。その一つが桧原峠から換線して大峠を越える新しい大峠ルートであった。 幹線路・米沢街道の名は桧原峠から大峠へと移って行った。その後、米沢街道と言えば大峠を指し、桧原峠は「旧米沢街道」とも呼ばれるようになった。

   

<大峠(余談)>
 大峠そのものは古くからあった峠だが、長らく桧原峠が幹線路であったのに対し、大峠は間道に過ぎなかったらしい。 また、軍略・政略上の関係で、交通を制限したとも言われる。
 
その大峠は明治17年(1884年)に車馬の通行が可能な道として新たに開削された(初代の大峠隧道)。 一方、それまでの桧原峠は、米沢側の綱木宿から峠を越えて桧原宿手前の鉱山集落・金山(かねやま)までは、牛も越えられない険しい道のままで、 峠越えの荷の輸送はもっぱら人の背に頼るという状態であった。
 
 新しい大峠の標高は桧原峠(1,094m)より50m以上高い約1,150mだが、米沢街道としての道程は約6km短縮され、 南向きのため雪の消える時期が20日程早いという利点があった。 また、桧原峠はそれ以外に幾つもの峠を越えなければならなかったが、大峠は越えるべき峠が一つとなった。 特に明治32年(1899年)国鉄奥羽南線の福島〜米沢間開通までは、大いに利用されたようだ。
 
 大峠に自動車の通行が可能となったのは昭和10年(1935年)で(二代目の大峠隧道)、 昭和11年(1936年)には山形県指定県道11号、同28年(1953年)に国道となり、同40年(1965年)には現在の国道121号となっている。 大峠を越え、ボンネットバスが列を成して走る光景が見られたそうだ。
 
<白布峠>
 ただ、昭和48年(1973年)には、桧原峠より更に東に位置する白布峠(しらぶとうげ)に、西吾妻有料道路(西吾妻スカイバレー)が開通する。 それまで白布峠を越えていた砂利道を幅員7mのアスファルトコンクリート舗装に改修して開通させたものだ。 その後は大峠を越えていた車の一部は、快適な白布峠へと流れて行ったようだ。
 
<大峠トンネル>
 会津若松・米沢間の陸路が画期的に変わったのは、やはり大峠トンネルの出現である。平成4年(1992年)8月の開通だ。 その後もこの新しい国道121号は喜多方近郊などの改修が進められ、幾つもの谷を橋で渡り、幾つもの尾根をトンネルで抜け、 真一文字に県境の山脈を越えている。桧原峠の道が幾つもの谷や尾根を丁寧に越えていたのとは隔世の感がある。 それまでの車道である大峠隧道や白布峠も、冬期は積雪の為通行止となったが、大峠トンネルにより通年の通行が可能となった。

   

<磐梯山噴火>
 明治17年(1884年)以降、大峠に米沢街道の本道の座を奪われた桧原峠だったが、その旧街道を更に悲劇が襲う。 大峠開通直後の明治21年(1888年)、小磐梯の峰が吹き飛び、泥流となって桧原の秋元(あきもと)、細野(ほその)、雄子沢(おしざわ)の3集落全てと、 その他の集落の一部を一瞬にして埋め尽くした。また、上流域にある桧原川が堰き止められ、桧原宿のあった桧原集落は1日にして水没してしまったそうだ。 それが現在の桧原湖になっている。今では観光客で賑わう裏磐梯高原だが、その誕生は僅か130年前の大災害による。 尚、磐梯山の噴火に関しては、桧原湖東南の剣ヶ峯にある磐梯山噴火記念館が詳しい。
 
 桧原宿の水没で、その前後約1kmの範囲で旧街道は途絶した。 福島県令が地元の反対を押し切り、強制労働も執行して切り開いた大峠だったが、この点では正解だったのかもしれない。

   

<大塩峠・蘭峠の変遷>
 桧原峠に付属する大塩峠・蘭峠は、明治期に会津・米沢街道という大きな役目がなくなってからも、桧原湖周辺に点在する桧原の集落と、 より村の中心地に近い大塩方面とを結ぶ生活路として利用され続けたと思われる。
 
<細野峠の開通>
 しかし、昭和29年(1954年)に蘭峠の南約2.5kmに細野峠(ほそのとうげ)が開通する。 後の主要地方道・喜多方北塩原線の前身だ。 桧原湖の湖岸に通じる道路も整備され、細野峠は桧原湖を中心とする桧原地区と大塩地区を結ぶ本線の地位に就く。 その一方、会津・米沢街道時代から長く使われて来た大塩峠・蘭峠の道は、ついに衰退して行ったようだ。 文献(角川日本地名大辞典)では「廃道に似たもの」になったとも表現している。
 
<取上峠(余談)>
 その細野峠も、主要地方道・喜多方北塩原線から国道459号に付け替えられ、細野峠より更に南の取上峠に取って代わられてしまった。 現在、細野峠は通行止で廃道寸前のようだ。細野峠は1994年8月に一度越えたことがあるが、もう越えられないと思うと残念である。
 
<大塩・桧原間の変遷>
 大塩峠・蘭峠、細野峠、取 上峠と大塩・桧原間を結ぶ峠は徐々に南下して来た。かつて大きな桧原集落があった桧原湖上流部だが、今は北岸付近に桧原、金山、早稲沢(わせざわ)といっ た集落が細々と点在するばかりだ。一方、裏磐梯高原の観光の中心地は南岸に近い剣ケ峯(けんがみね)である。喜多方市方面からのアクセス路として、国道 459号はより南へとルートを取ったようだ。
 
<村道大塩桧原線>
 こうして大塩・桧原間の交通が改良される中、大塩峠にも車道開削の手が差し伸べられる。 途中、林道が一部に開通し、最終的に大塩峠・蘭峠を通り、大塩集落と桧原集落を結ぶ北塩原村の村道・大塩桧原線が開通する。 その開通年は不明だが、昭和の終り頃と思われる。

   
   
   
喜多方市より峠へ 
   

<国道459号へ>
 どうも序文が長い。自制しないと余計なことばかり書いてしまう。さっさと大塩峠に向かわねば。
 
 大峠隧道へと続く旧国道121号沿いにあったラーメン屋で喜多方ラーメンの昼食を摂り、一路国道459号を目指す。 大峠隧道は平成3年(1991年)8月3日にオートバイで一度だけ越えたことがある。 翌年にはもう大峠トンネルが開通してしまい、大峠隧道は通行止になってしまった。間一髪で越えることができた大峠なので、思い入れがある。

   

国道459号分岐の手前に立つ看板 (撮影 2016. 6.13)
(手前の信号機の看板が邪魔であった)

<案内看板>
 大峠トンネルを抜けて来る新国道121号に入ると、間もなく国道459号が交差する。 手前に立つ看板には喜多方市街方向に「蔵のまち 喜多方」、桧原方向に「北塩原 裏磐梯高原」とある。
 
 現在の国道459号は桧原方面へと向かう旧会津・米沢街道、国道121号は大峠を越える新会津・米沢街道に相当し、 その新旧の街道がこの交差点で交わることとなる。ただ、元の国道121号はここより500m程喜多方市街寄りを通っていた。 また、桧原峠を越える元の会津・米沢街道は、この南東方向にある塩川沿いの熊倉宿(喜多方市熊倉町熊倉)に通じていたようだ(下の写真は余談)。

   

県道337号が大塩川を渡るところ (撮影 2016. 6.13)
この少し先が熊倉集落

熊倉集落内に通じる県道69号 (撮影 2016. 6.13)
左が会津若松方向、右が桧原方向へ
この道が旧会津・米沢街道ではなかったか
   

<交差点(余談)>
 立派な国道同士が交差する交差点の周辺は殺風景だ(下の写真)。混雑する喜多方市街地を避け、バイパス路的に郊外に道が通じている。 その点、昔の街道の分岐は味わいがあった。交通の要衝としてその周囲には集落が発達していた。
 
 交差点の桧原方向には大塩裏磐梯温泉のホテルの案内看板が立つ。ここより約10km。当面の目的地はその大塩裏磐梯温泉になる。


道路看板 (撮影 2016. 6.13)
   
国道121と459の交差点付近 (撮影 2016. 6.13)
国道121号上より会津若松方向に見る
   

<国道459号の様子>
 真東に向かって暫くあまりにも真っ直ぐな道が続く。 この先にある北塩原村と喜多方市街を結ぶ生活路ではあることは間違いないが、多分に裏磐梯へと続く観光道路の意味合いも強いように思う。 狭く屈曲する細野峠から2車線幅がある取上峠のルートに換線し、多分、喜多方方面から裏磐梯の中心地・剣ケ峯まで、完全2な車線路が一本通じたものと思う。 取上峠を桧原湖側に少し下ると、桧原湖を望む地に道の駅・裏磐梯もできた。 裏磐梯へのアクセス路は、これまで南の磐梯町や猪苗代町方面から磐梯山ゴールドラインなどを使うのが一般的だったが、 快適な国道459号の開通で、裏磐梯観光はまた新しい世代が到来したように思う。

   

<北塩原村の境(余談)>
 去年からハスラーに乗り換え、それを機にドラレコ(ドライブレコーダー)を少し画像のいい機種に変えた。 古いドラレコはリアガラスに取り付け、車の後方を撮影する。 これで、峠道を走っている最中に見逃しと物などを、旅の後になってより詳しく確認できるようになった。
 
 東へ向かう国道459号は喜多方市から北塩原村に入る。その境がどこにあったか全く気付かなかった。 早速ドラレコ画像を確認すると、「北塩原村」と書かれた小さな看板が立っている場所を見付けた(下の写真)。 何の変哲もない場所で、余程気に留めていないと気付かない。 まあ、その市村境が分かったからといって、どうという訳ではないが、それでも何だか楽しい。

   
喜多方市から北塩原村に入る (撮影 2016. 6.13)
左手に北塩原村の看板が立つ
   

<北塩原村>
 北塩原村に入ると、沿道に田畑が多くなる。左手には大峠などが通じる福島・山形の県境の峰がそびえる。道の前方もやや山がちになってきた。 ここは広大な会津盆地ももう北東の端になり、この先は徐々に山間部に入って行く。 北塩原村の多くはその山間部にある。
 
<村名>
 北塩原村は昭和29年(1954年)3月31日に北山・大塩・桧原の3か村が合併して成立した。 一見して分かるように、それぞれの村から1字を取って「北塩原」という新しい村名が誕生している。別に、「塩原」という地の「北」にある訳ではなかった。 丁度、北塩原村ができる時期に細野峠も開通している。一つの村となるにあたり、桧原村と他村との交通の便を図ったのではないだろうか。
 
<大字>
 村の大字は北山・下吉(しもよし)・関屋(せきや)・大塩・桧原の5つで編成される。大塩村と桧原村だけは、そのまま大字となっている。 桧原地区だけでも北塩原村の7割ぐらいを占める程広い。更に残りの半分が大塩地区で、この2つで北塩原村のほとんどを占める。 ただ、大半が山間部で、平坦地は残りの地区に全て取られてしまっている。 ほぼ大塩地区と桧原地区の境にある大塩峠ではあるが、北塩原村の中では西から1/3くらいの距離に位置する。

   
北塩原村を行く国道459号 (撮影 2016. 6.13)
沿道はやや閑散とする
   

<村役場付近>
 間もなく北山地区にある村役場前を過ぎる。村全体からすると、全くの西の端っこに位置する。 東部の桧原湖を中心とする桧原地区が、とても遠い存在に思える。松陽台(しょうようだい)という看板があった。 役場の裏手辺りに一戸建てが立ち並ぶ団地があるようだ。喜多方市のベッドタウンといったところだろうか。桧原地区ではちょっと考えられないことだ。 同じ村とは思えない。

   

会津一望の丘 (撮影 2016. 6.13)
峠方向に見る

<会津一望の丘>
 「会津一望の丘 展望箇所 200m」という看板もあった。暫く行くと路肩に縦列駐車するスペースがあり、整備された広場が設けられていた。
 
 会津盆地の盆地床(ぼんちしよう)を会津平(あいづだいら)とも呼ぶ。一続きの平坦地としては福島県内随一の広さを持つそうだ。 「会津一望の丘」はその会津平が尽き、山間部へと道が上り始めた箇所にある。 それ程高い場所ではないが、南西の会津若松方向に広い平野部が望める。

   

<看板>
 「会津一望の丘」の看板には次のようにある。
 
 会津一望の丘は国道459号の喜多方市街地と裏磐梯地区の2大観光地の中間に位置する当該地に、視点場を兼ねた休憩施設として整備しました。 この箇所は杉の木が生い茂っていましたが、路面の部分凍結を解消するために伐木を行ったことにより会津盆地を一望できる眺望が生まれました。


会津一望の丘の看板 (撮影 2016. 6.13)
   
会津一望の丘からの景色 (撮影 2016. 6.13)
   

会津一望の丘の様子 (撮影 2016. 6.13)
市街地方向に見る

<ポケットパーク>
 この休憩場所は「国道459号ポケットパーク」とも呼ばれるようだ。 まだ大きな木には成長していないが、桜が植樹されているようで、「東京都交流の桜」とも看板にあった。 観光地然とした場所より、こんな素朴な休憩所の方が立ち寄り易い。ただ、東屋はあるが、トイレを探したがなかった。 ラーメン屋で済ませておけばよかった。

   

<大塩川>
 「会津一望の丘」の南側は僅かながらも谷になっている。 川面は望めないが、そこには蘭峠や細野峠方向から流れ下って来た大塩川(おおしおがわ)が流れている筈だ。 川沿いに北山地区の小さな集落土合(どあい)の人家が見える。
 
<関屋>
 その向こうの左岸の小高い丘の上に比較的多くの人家が望める。関屋地区の中心地・関屋集落だと思う。 後に分かったことだが、旧会津・米沢街道はそちらに通っていたようだ。概ね大塩川沿いに通じていた街道ではあるが、現在の国道とは南に少し離れている。


大塩川の谷を望む (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
大塩川右岸 
   

大塩川沿いの道に (撮影 2016. 6.13)

<大塩川右岸>
 「会津一望の丘」を過ぎると、国道は大塩川の狭い谷間に入って行く。直ぐ右手に川面を眺める。土合集落を過ぎ、暫くは人家を見ない。 谷筋はやや険しく、集落などは形成されなかったのだろう。

   
右手に大塩川を望む (撮影 2016. 6.13)
   

<水系>
 大塩峠は中央分水嶺や県境などの峠と違い、わざわざ水系を考える程ではない。峠は全て大塩川の水域に入る。
 
 大塩川はその本流の上流部を小塩川と呼び、喜多方市との境に位置する高曽根山(1443.2m)の南麓に源を発する。 最初、小塩川が南に流れ、細野峠から西へ流れ下って来た支流(名前不明)を合わせて大塩川本流となり、西から南へと方向を変えつつ、 喜多方市の塩川町で猪苗代湖の排水口となる日橋川(にっぱしがわ)に合流する。 日橋川は阿賀川(あががわ)に注ぎ、新潟県に入って阿賀野川(あがのがわ)と名を変える。大塩川は阿賀野川水系になる。
 
 大塩峠は大塩川本流部の途中から、小塩川の上流部へと越えている。川筋が大きく屈曲している所を、ショートカットするように峠道が通じたことになる。
 
<大塩・桧原の境>
 ちょっと不思議なのは、大塩地区と桧原地区の境である。 小塩川上流部は桧原地区に属し、どうも小塩川が南流する途中の中途半端な所から大塩地区となるようだ。
 大きくは大塩川水域と桧原湖水域との分水界があり、そこに蘭峠、細尾峠、取上峠が位置するが、これらの峠は全て桧原地区に属す。 この分水界が大塩・桧原の境になっていないのだ。大塩川水域側に入った所に境界線が引かれ、全く複雑である。それ程桧原の地は広い。

   

<旧道?>
 途中、左手に細い道が分かれる。その先に集落がある訳ではなく、不可解な道だ。現在の国道459号の旧道だろうかとも思った。


左手に旧道? (撮影 2016. 6.13)
   

道路情報案内の看板 (撮影 2016. 6.13)

<道路情報案内>
 分岐の先に道路情報案内の看板が立つ。「大塩〜細野地区」とある。
 
<現在の細野>
 細野は磐梯山噴火で泥流に埋まった集落だが、地形図には細野峠を桧原湖畔に下り、北岸を少し遡った所に細野の地名が残る。 しかし、その沿道に人家などはなかったように思う。 「細野放牧場跡」などの史蹟と、キャンプ場や「裏磐梯野鳥の森」といった施設があるばかりだったようだ。

   

<大塩川左岸へ>
 旧道の様な道を分けた後、国道は大塩川を左岸へ渡る。この付近、やや谷は広い。


左岸に渡る (撮影 2016. 6.13)
   

対岸に神楽岩? (撮影 2016. 6.13)

<神楽岩>
 対岸には先程分かれた旧道のような細い道が通じる。大きな岩の足元に道筋が見える。地形図には神楽岩と書かれている。

   

<温泉の看板>
 広がった川岸には水田が切り開かれていた。水田の畦道には目立つ看板が幾つか並んでいる。温泉のホテルや旅館などの案内看板だ。 この先の大塩集落にある温泉は、一般に大塩裏磐梯温泉と名が付いているが、北塩原温泉とか単に大塩温泉などとも呼ばれるようだ。


温泉の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

史蹟の標柱 (撮影 2016. 6.13)

<道の様子>
 この国道区間は旧会津・米沢街道ではないこともあり、沿道にあまり見るべきものがない。 「史蹟赤城館山跡(向エノ要害山)」と書かれた標柱が立つが、付近は畑ばかりである。快適な2車線路が続くばかりだ。

   
道の様子 (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
大塩集落へ 
   

学校のような建物 (撮影 2016. 6.13)

<大塩集落へ>
 大塩川を左岸に渡ってからは、道は既に大塩地区に入っていた。しかし、なかなか建物が見えて来ない。 国道121号から分かれて約8km、やっと人家や学校のような建物が見えて来た。 ただ、地形図には学校を示すマークはなく、学校跡地を公民館にしているようだ。
 
 文献(角川日本地名大辞典)には、大塩村は江戸期からの村名ともあるが、また明治8年(1875年)に大塩、下川前(しもかわまえ)、 上川前(かみかわまえ)の3か村が合併して新しい大塩村になったともある。沿道に見え始めたのは、下川前の集落かもしれない。

   

<大久保への分岐>
 沿道にはいよいよ本格的に人家が並びだす。すると右手鋭角に道が分岐する(右の写真)。分岐の反対側には北塩原郵便局が立つ。 分岐する道を指して「大久保 900m」とか「柏木城跡」などと看板ある。
 
 旧会津・米沢街道はこの先の大塩集落を通って来ていたが、ここからは国道を離れ、大久保集落へと向かっていたようだ。 大久保は大塩地区の一集落である。


右手に大久保への道が分岐 (撮影 2016. 6.13)
   

温泉の看板 (撮影 2016. 6.13)

<大塩裏磐梯温泉>
 「大塩裏磐梯温泉」と書かれた大きな看板が出て来た。「会津・米沢街道 大塩宿 塩泉の秘湯」とも書かれている。 ここに来て、やっと「会津・米沢街道」の文字を見た。
 
 大塩集落の人家は、そのほとんどが現在の国道459号の沿線1km程度の範囲に長く点在する。 そのほぼ中心が大塩裏磐梯温泉と呼ばれる温泉地だ。かつては会津・米沢街道の大塩宿であった。

   

<大塩の由来>
 村には塩井(えんせい?)、すなわち塩を採る為の井戸があり、それが「大塩」の名の興りだそうだ。 「大」が付くのは、多分多量に採れたからだろう。江戸時代には主に2つの塩井から、年間500俵もの塩を産出したとのこと。 その「大塩」が大塩村や大塩川の名の由来ともなった。


集落内を行く国道 (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
大塩の中心地 
   

大塩峠への道 (撮影 2016. 6.13)
大塩橋から眺める

<大塩の中心地>
 両側に建物が並んだ中で、国道は大塩川を左岸に渡って行く。橋は大塩橋という。この橋の付近が大塩集落の中心地である。
 
<峠への分岐>
 また、橋を渡って直ぐ左手に、細い道が分かれる。何の道案内もないが、それが大塩峠へと続く旧会津・米沢街道の道筋である。 このまま国道を行くと、細野峠方面や取上峠へと向かってしまう。 かつての本道である大塩峠の道は、現在は国道脇からひっそり分かれる、一般車両には全く案内されていない道となっている。

   

大塩橋の上 (撮影 2016. 6.13)
細野峠方向に見る
左に大塩峠への道が分かれる

分岐の右手に案内図の看板が立つ (撮影 2016. 6.13)
   

<旧街道の分岐点>
 大塩橋の袂は、かつては大塩峠より山腹を下って来た旧会津・米沢街道が、一転して大塩川沿いに若松方面へと向かい始める箇所である。 また、ここより大塩川を遡る道は旧猪苗代道で、ここはそれらの街道の分岐点であった。それなりに味わいが残っているような気がする。

   
大塩橋周辺の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

<大塩宿>
 現在の大塩橋の周辺は、温泉旅館などが立ち並ぶ。ここはかつての大塩宿でもあった。 桧原峠を会津側に下って来た旧会津・米沢街道は、桧原宿、大塩宿、熊倉宿と続いた。大塩宿は会津側2番目の宿場となる。 ただ、大塩宿は昭和42年(1967年)に大火に遭い、宿場の面影はなくなったそうだ。
 
 旧会津・米沢街道は、大塩宿より上りは熊倉宿へ1里12町(約5.2km)、下りは桧原宿へ2里9町余(約8.8km)あったそうだ(新編会津風土記)。 米沢から会津に向かう方向が「上り」となる。大塩宿〜桧原宿の間に大塩峠と蘭峠があった。


大塩橋より喜多方市街方向を見る (撮影 2016. 6.13)
   

旧米澤街道の看板 (撮影 2016. 6.13)

<旧米澤街道の看板>
 大塩峠へと登る道には何の道路標識も案内看板もないが、分岐とは反対側にある駐車場の一角に、「旧米澤街道歴史案内図」という看板を見付けた。 「この看板の裏側をご覧下さい」とある。北塩原村教育委員会により建てられたものだ。

   

<案内図>
 丁度、看板の近くに車が停められていて、案内図を真正面から見れなったが、北塩原村内に通じる旧会津・米沢街道(旧米澤街道)のほぼ全容が描かれていた。 地形図などには大塩峠、蘭峠と続く現在の車道は勿論記載されているが、それ以前に通じていた旧街道の道筋は全く描かれていない。 その点、この案内図には点線表記で旧街道が示されている。これはとても参考になる。


看板の裏側の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

熊倉宿方面から大塩まで (撮影 2016. 6.13)
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<熊倉宿〜大塩>
 北塩原村の外にある為か、熊倉宿は地図からはみ出ている。熊倉宿方面から下りは関屋・樟(くぬぎ)・大久保を経てこの大塩宿に至っていたようだ。 関屋に通じていたことがはっきりしたのは、この地図のお陰である。
 
 現在の国道が土合より上流側で大塩川にぴったり沿っていたのに対し、旧街道は大塩川左岸の少し離れていた所に通じていたようだ。 国道沿いにほとんど人家が見られなかったのに対し、旧道沿いには関屋、樟、大久保といった集落が点在する。 街道が通じることでその沿線に集落が形成されていったのか、あるいは道が通し易い地形は集落も発達し易かったのかもしれない。

   

<大塩〜蘭峠>
 この間はこれからじっくり踏破したい。赤丸で示された旧跡がいろいろあるようだ。
 
 地図には大塩峠の名はなく、代わりに「萱峠茶屋跡」とある。やはり、旧街道の時代は萱峠と呼ばれ、大塩峠とは車道が通じてからの名前であるからだろう。
 
<蘭峠〜桧原・金山>
 蘭峠を取り上げる時間があったら、その時に掲載したい。桧原宿は桧原湖の湖底に沈み、旧街道は現在の桧原集落と金山集落の間で断絶している。
 
<金山〜桧原峠>
 以前、鷹ノ巣林道が越える金山峠で掲載したが、 まだ会津・米沢街道についてもあまり知らなかった頃なので、いろいろ訂正・追加したい事項が多く出て来た。その内、再掲載したい。


大塩から蘭峠まで (撮影 2016. 6.13)
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<一里塚>
 案内図には一里塚の場所がいくつか記されている。会津若松城下と米沢城下を結ぶ距離は14里(56km)余であったそうだ。 その内、会津側には以下の一里塚があった。
・起点:大町札の辻(藩の高札場があった)
・1里:下高野
・2里:及川
・3里:別府
・4里:熊倉分
・5里:樟(くぬぎ)
・6里:八丁壇(はっちょうだん)
・7里:中ノ七里
・8里:桧原
・9里:鷹ノ巣
 
 この内、地図には樟から鷹ノ巣までの一里塚の位置が記されている。桧原一里塚は湖底である。 また、桧原峠には一里塚とは異なるが、国境を示す境塚があったようだ。


蘭峠から桧原峠まで (撮影 2016. 6.13)
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旧道へ 
   

<旧道>
 大塩橋袂から国道を分かれ大塩峠を越えて行く車道は、旧会津・米沢街道の道筋そのものではないが、それに近い存在だ。 また、大塩地区と桧原地区を結ぶ道としても、細野峠が開通する前の本道と言える。もろもろの意味で「旧道」的な存在である。
 
<村道大塩桧原線>
 この旧道沿いには、この車道が何であるのかを示す道路看板は見当たらなかった。 ただ、ある「郷土資料」や旧跡案内の看板に村道「大塩桧原線」という記述を見掛けた。
 
<郷土資料>
 裏磐梯休暇村に泊まった時、宿泊者が自由に読める図書の中に、その「郷土資料」はあった。 題名の中に「峠」という文字が含まれていたような気がするが、正確な図書の名称は失念してしまった。 数冊の巻に分かれていた。今後もその内容の一部を参考にさせて頂く。
 
<車道の開通時期>
 大塩桧原線と思われる車道がいつ通じたのかもさっぱり分からない。 ただ、1989年(平成1年)5月発行のツーリングマップ(東北 2輪車 昭文社)には、大塩集落と大塩峠の間にまだ車道が描かれていない。 「大塩峠」の文字もない。それで、当初はこの地を旅することなど全く考えもしなかった。 また、国道459号はまだなく、代わりに主要地方道・喜多方北塩原線が細野峠を越えていた時代だ。 細野峠開通が1954年(昭和29年)とのことだが、大塩峠はそれよりずっと遅れての車道開通らしい。多分、昭和の末期頃と推測する。
 
<高曽根林道>
 前記のツーリングマップには、大塩峠付近から蘭峠に至る道に「高曽根林道」とあった。細々と一本線で描かれた道だった。 蘭峠付近から桧原集落までは既に車道が通じていたようだ。 一方、大塩峠付近からは北へ進んで高曽根山南麓を巻き、大谷川沿いの車道へと繋がっているようだった。 この高曽根林道などを元に車道の整備を進め、大塩集落から桧原集落までの全線を村道大塩桧原線として開通させたようだ。

   

旧道へ (撮影 2016. 6.13)
早くも狭い道

<旧道へ>
 ここから先は、私にとっては未知の世界だ。一度も足を踏み入れたことのない地である。何となくワクワクする。 険しい道が待っているだけで、何の観光名所もないのだが、旅の面白さの原点は、こんなところにあるように思う。
 
 ワクワクするのはいいが、道は早くも大塩川沿いを離れ、急な坂道を登って行く。それがまた異常に狭い。峠の趣味がなければ、まず入り込まない道だ。

   

<温泉神社>
 上り始めて直ぐの右手に、鳥居が立ち、急な石段が登って行く。鳥居の手前に石柱が立ち、「村社 温泉神社 村中安全」と刻まれていた。

   
道の右手に温泉神社の鳥居が立つ (撮影 2016. 6.13)
   

<源泉>
 つい最近、この場所がテレビに登場した。 NHKの「ブラタモリ」という番組で、確か「会津磐梯山は宝の山」というようなテーマで磐梯山周辺を取り上げていたのだ。 丁度裏磐梯を旅した直後だったので興味深く見ていると、とてもローカルな場所だが、どうも見覚えのある鳥居が出て来た。 主役のタモリさんが促されて石段途中から右手を覗くと、そこに大塩温泉の源泉の一つが湧いていた。 鳥居の右横のコンクリートがやや茶色になっている所だ。ただ、普段は蓋がしてあって、一般者には温泉が流れ出ている様子は見られない。
 
<山塩>
 この温泉は地元では1,000年以上前から湧いていると伝わるそうで、いれも「大塩」の名の由来になった塩井の一つらしい。 こうした塩井から精錬した塩を「山塩」(やまじお)と呼ぶそうだ。海水から採れる塩に対して、山で採れる塩とでもいう意味があるのだろう。 古くは年間400トンもの山塩を産出していた時期があったとのこと。そして今でも年間2トンの山塩の生産は続いているらしい。 温泉神社近くに精錬工場があるようだ。


鳥居の横に源泉が湧く (撮影 2016. 6.13)
   

 大塩で採れる山塩は、温泉成分を含み、深い味わいがあるようだ。「会津磐梯山は宝の山」と呼ばれるが、山塩はその宝の一つとなる。

   

道標の一部が写っていた (撮影 2016. 6.13)

<道標>
 上の写真をよく見ていたら、温泉神社の標柱の左後ろに、どうやら「左ハよねざわ道」と書かれた道標らしき石柱の一部があるのに気付いた。 後で分かったことだが、それは文化八年(1811年)の銘の道標で、
 右ハいなわ志ろ道
 左ハよねざわ道
 と刻まれていたようだ。
 
 大塩橋の袂は現在でも車道が分かれるが、古くからこうした街道の分岐点であった。 往時の大塩宿の面影はもう失われているのだろうが、周囲には温泉旅館や人家が立ち並び、今でも街道の分かれ道としての雰囲気が感じられる。 国道121号と459号の交差点とは、味わいが違う。

   

<石段>
 大塩橋近くに立つ史蹟案内図では、旧街道は大塩川の岸辺から温泉神社近くを直登するように描かれている。 車道とは全く別のルートとなっている。しかし、その付近は急傾斜地で神社の参道となる石段以外に道など存在しない。階段は何と180段もあるそうだ。
史蹟案内図はあくまで概略図なので、会津・米沢街道が神社の鳥居をくぐって石段を登って行ったとは考え難い。道標が階段横にあるからと言って、石段そのものは旧街道ではないと思うのだが。
 
<温泉神社の森(余談)>
 石段の左手には「古峯神社」と書かれた標柱も立つ。その後ろの看板が気になったが、この神社の変遷などについて記されていたものだった。 北塩原村指定重要文化財「天然記念物:温泉神社の森」ともある。尚、この神社の住所は大塩字湯ノ上であるそうな。


石柱には古峯神社とある (撮影 2016. 6.13)
左奥には「温泉神社の森」の看板
   

大塩宿高札場の標柱 (撮影 2016. 6.13)

<高札場>
 温泉神社付近のドラレコ画像をいろいろ見ていたら、温泉神社とは道の反対側にある2階建ての家屋の前に、 何やら史蹟を示す標柱らしき物が立っているのに気が付いた。どうやら「史蹟 大塩宿高札場跡」と書かれていたようだ。 大塩宿には高札場(こうさつば)と検断屋敷があったそうである。
 
 大塩橋までの現在の国道は左岸に通じる。 右岸の温泉神社の下流側に高札場や検断屋敷の跡があるということは、古い街道は国道とは反対側の右岸沿いに通じていたのではないかと思ったりする。 今の大塩橋より少し下流側に別の橋が架かっていたのではないか。 単なる誤植かもしれないが、地形図では大塩橋を渡る前に大塩峠への道が分かれ、現在は存在しない別の橋で大塩川を渡っていることになっている。

   

<温泉神社以降>
 写真の他にドラレコ動画も加わり、それらを見ていると気になることが多い。なかなか先に進まない。
 
 温泉神社前を過ぎ、道は北へと登る。「民宿・食堂」と書かれた看板が見え、その店の建屋が沿道に立つ。 古い地図にはホテル鈴川という宿が見える。そうした宿などの家屋を除くと、もう沿道に人家は全く見られない。


民宿が立つ (撮影 2016. 6.13)
   

対岸へ渡る道がある (撮影 2016. 6.13)
山荘の案内看板が立つ

<支流の谷筋>
 道は大塩川の小さな支流の谷筋に通じる。川の名前は分からない。「鈴川」だろうかと思ったりする。 その川を渡る橋が架かり、そちら方向に山荘があることを看板が示していた。側らに「土石流危険渓流」の看板が立ち、流れは急だ。
 
<交通量>
 実は、大塩橋の袂でうろうろしている短い間にも、4台程の車が喜多方市方面からやって来て、この大塩峠への道へと入って行った。 そんなに交通量があるのかと驚いた。しかし、この後はトラック一台とすれ違い、峠で小型乗用車が一台追い越して行っただけだった。 最初に見掛けた4台の車は、この付近の民宿などの関係だったのかもしれない。

   
   
   
旧街道との別れ 
   

<会津・米沢街道の看板>
 建物が途切れた先で、右手の空地に看板が立っていた。これも北塩原村教育委員会によるもので、「会津・米沢街道と大塩宿」と題した看板は比較的新しい。 この先、同様な看板が沿道の随所に立ち、会津・米沢街道に関する知識が得られるようになっている。
 
<旧街道の道筋>
 ところで、この看板がある位置は、果して旧会津・米沢街道なのだろうか。 まさか温泉神社の石段は登って行かなかったとしても、このままずっと現在の車道と一緒とは考えられない。 この先、車道は大きく屈曲し、如何にも後の世に車道として開削されたような道筋を描く。


右手に看板 (撮影 2016. 6.13)
   

 看板の横を過ぎると、車道は支流の川の右岸へと渡り、峠とはやや反対方向の北寄りに迂回して登る。 多分、旧街道は看板辺りを過ぎ、そのまま川の左岸沿いに東寄りに登って行ったのではないだろうか。
 
 看板が立つ空地は、コンクリートの土間の跡があり、かつては何か建物が立っていたようにも思える。 また、空地の奥の山側には擁壁が巡らされていて、もうここには道らしい痕跡は見られない。 それでも、ここに会津・米沢街道の看板が立つからには、それなりの意味があるだろう。 やはり、この付近で車道と旧街道は分かれていたのではないかと想像する。

   
車道は直ぐそこで川を渡る(ガードレールの位置) (撮影 2016. 6.13)
旧街道は看板の付近を通り、右手への山の中へと分かれて行ったのでは?
   

看板の全景 (撮影 2016. 6.13)

<看板の内容>
 看板には街道に築造された一里塚や塩井で採れた山塩のこと、大塩宿に検断屋敷・高札場があったことなどが記されている。
 
<街道を歩いた人物>
 また、この街道を歩いた歴史上の人物が数例記されていた。時代の順番ではなく、有名な順ではないだろうかと思う。 筆頭に新島八重(にいじまやえ)が来ている。ちょっと前なら、一般にはほとんど知られることがなかった人物だろう。 NHKの大河ドラマ「八重の桜」で一躍有名になった。ドラマの放送はつい最近の2013年だが、するとこの看板はその年以降に立てられたものとなる。 上杉景勝の家臣・直江兼続(なおえ なかねつぐ)なども、大河ドラマが切っ掛けで広く知られるようになったのではないだろうか。 現在放送している「真田丸」では、あまりセリフがないが、兼続がよく登場するように思える。

   

看板の左側 (撮影 2016. 6.13)
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看板の右側 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<人力車が通れる街道?>
 八重の夫の新島襄(じょう)は、明治15年(1882年)に大塩から桧原へ人力車で街道を通っているとある。 大峠隧道(明治17年)が開かれる直前のことだ。 桧原宿から先の桧原峠は人が歩かなければならない険しい峠道だったが、大塩峠や蘭峠は人力車も通れる程の峠道だったということだろうか。 少なくとも、温泉神社の石段はやはり登っていないらしかった。
 
<花神(余談)>
 日本の歴史では、やっぱり戦国期と幕末・明治維新が人気だろう。看板に挙げられた人物も、ほとんどその時代に活躍した人物ばかりである。 丁度最近、司馬遼太郎の「花神」を読み終わったところだ。 戊辰戦争に官軍側として活躍した長州人・大村益次郎(おおむら ますじろう、村田蔵六)を主人公とする時代小説だ。 旧幕府側として大鳥圭介(おおとり けいすけ)や土方歳三なども少し登場する。
 
 大塩宿に集結した後、最後には函館の五稜郭まで退いたこの二人だった。土方は籠城は好まず、最後まで戦って死の道を選んだ。 五稜郭に残った旧幕府軍も自害を考えたが、大鳥が「自害はいつでもできる」と言って降伏に決まったそうな。 明治初年に出獄した大鳥は明治政府に出仕し、男爵ともなる。 この二人の生き方のどちらがどうということはないが、同じ時代に生き、同じ幕府方に付きながら、全く違った人生を送ったものだと思う。 大鳥も大村と同じように緒方洪庵に学んでいる。土方は平民出身でひたすら武士を志し、大鳥は一部に学者の資質があった。 そんな違いがその人の人生に大きく影響を与えたように思う。

   

<看板の地図>
 地図を見ているといろいろ参考になる。右下に温泉神社の鳥居の近くにあった道標の写真が載っていた。
 
<峠の標高>
 「大塩宿-450m-」などとあるが、この数値は標高を示すようだ。「萱(大塩)峠-864m-」となっている。文献にも大塩峠の標高を864mと記してあった。 地形図の等高線で調べてみても、この値は正しそうだ。
 
<標高を調べる(余談)>
 ところで、最近のインターネットのウェブサイトは、調べてみるといろいろ便利な機能を有している。 国土地理院の地形図にも標高を1m単位で計算してくれる機能があるのを見付けた(地図の下にある上向き矢印をクリックする)。 ただ、周辺の標高(主に10m単位)から計算で割り出すもので、それ程正確ではない。 それでも、これまで必死になって等高線を追いかけていたが、もうそんな必要がないことが判明した。 もっと前はわざわざ図書館に出掛け、1/25,000地形図を探し出して閲覧していた。時代は変わったものだ。


看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
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道の様子 (撮影 2016. 6.13)

<看板以降>
 川は道の右手に移り、倉庫のような建屋を過ぎると、もう沿道に目に付く人工物はほとんどない。 徐々に谷の上の方に向かい、空が開けて明るい感じになって行く。道も峠のある東へと向き直る。
 
 沿道に僅かながら耕地があった。一度分かれた旧街道は、その付近に登って来ていたものと思う。左の写真の坂を上り切った辺りである。 ただ、麓方向へ下る道らしい跡は見当たらなかった。
 
 その後は谷筋を外れ、高台の上を屈曲しながら進む。周辺には時々耕作地が切り開かれていた。 大塩峠まで車道が通じる前も、この付近までは耕運機などが入れる程度の道が開削されていたものと思う。ただ、もう旧街道の痕跡はこの辺りでは見掛けない。

   
   
   
旧街道分岐 
   

<開けた個所>
 道は一段と開けた箇所に登って来た(下の写真)。国道分岐から1.4km程である。開放的で気分が良い場所だ。 周囲には耕作地が広がるが、あまり利用されている様子はなく、やや休耕地が目立つ。

   
道の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

この正面に旧街道分岐 (撮影 2016. 6.13)

<旧街道分岐>
 車道は正面に茂る林を前に右にカーブして行くが、その林の中を真っ直ぐに登る山道が分岐する。入口には道標や看板が立つ。
 
<道標>
 道標は登り方向に「米澤街道」とある。その後ろは「会津街道」となっている。この山道は現在の車道とは別に残る、会津・米沢街道の元の道筋となる。 大塩集落からここに至るまでの旧街道は、今はもうあまりはっきりしていなかったが、 ここから先はこうした道標が車道脇に立ち、かつての街道の道筋を示してくれている。

   

旧街道入口 (撮影 2016. 6.13)
左脇に小さな沢が流れ下る
看板の後ろに塚が一つ見える

「米澤街道」の道標 (撮影 2016. 6.13)
裏は「会津街道」となっている
   

「会津街道」の道標 (撮影 2016. 6.13)
大塩集落方向に見る

旧街道側から車道を見る (撮影 2016. 6.13)
開けた場所だ
   

八丁壇一里塚の看板が立つ (撮影 2016. 6.13)

<八丁壇一里塚>
 旧街道に少し入った所に案内看板が立つ。近付くと、その奥に土をこんもり盛り上げた塚が一基見えた。 看板には「八丁壇一里塚」(はっちょうだん いちりづか)とある。
 
 看板の説明文にあるが、大塩の「大橋」から8丁の距離にあったことから「八丁壇」と呼ばれたようだ。 「壇」は土を盛り上げて作った祭場(祭壇)などを示すが、この場は「塚」とほぼ同程度の意味であろう。 「大橋」とあるが、現在の国道459号が渡る大塩橋に相当する橋が、往時には近くに架かっていたものと思う。
 距離の単位「丁」は「町」などとも書き、約109mである。8倍すると確かに872mになる。 今の車道では約1.4kmで、旧街道の方がやはり短い。 尚、看板の地図で示された八丁壇一里塚の位置はやや手前であり、実際はその先で車道が右カーブする所にある。

   

<一里塚(余談)>
 こうした一里塚を目にする機会ができたのは、やはり峠の旅をするようになってからのことだ。 繁華な街中などでは土を盛った塚など邪魔物でしかなく、後世に残ることはない。 険しい山中に取り残された古い街道に、辛うじてその痕跡が見られることがある。それも、盛った土は崩れ、その跡に記念碑が建っているのがせいぜいだ。
 
 それに比べ、八丁壇の一里塚はしっかりと塚の形が保存されている。 車道が塚の直前で大きく方向を変え、旧街道がそのまま残されたのが幸運だったのだろう。まさか、一里塚を残す為に車道の道筋を変えたとも思えない。 会津若松城下から6里目に当たるこの一里塚は、全くの偶然で残ったようだ。 しかも、車道から直ぐの所にあり、見学も容易であるだ。全く良い位置にあったものだ。


八丁壇一里塚の看板 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<片側だけの一里塚(余談)>
 ただ、一里塚は街道の両側に塚があるのが本来の姿だ。八丁壇の一里塚は、片側の塚しか残らない。 次の中ノ七里の一里塚にも塚が残るが、やはり脇に車道が通じて1基のみの一里塚となっている。 そういえば、これまで2基とも残る一里塚を見たことがないように思う。
 
 それでもこの旅では一日に2回も一里塚を目にすることができた。こんなことは初めてだ。看板の説明文では樟(くぬぎ)にも一里塚が残るとのこと。 樟は、今の国道459号の前身の道が大塩川沿いに開削されたことにより、幹線路から外れた集落で、また市街地からもやや距離がある。 こうした条件により、一里塚が残ったのだろう。

   

八丁壇一里塚 (撮影 2016. 6.13)
大塩集落方向に見る

八丁壇一里塚 (撮影 2016. 6.13)
大塩峠方向に見る
塚は道の左手にある
   

<塚の位置>
 「郷土資料」によると、昭和の初め頃まで八丁壇の一里塚は2基とも存在したそうだ。それが、水田造成の際に北側の1基が潰滅してしまったらしい。 今残るのが南側とすると、登りの大塩峠方向に向かって、塚は道の右手になければならない。 ところが、現在塚を巻く細い道は、塚を左手に見て登る。郷土資料の記述が確かなら、これは旧街道ではないことになる。
 
 現在残る塚の北側は僅かに林となり、その先が耕地となって広がる。水田造成で塚がなくなるとしたら、確かに北側の塚だろう。 八丁壇の一里塚が北塩原村の重要文化財に指定されたのは昭和61年(1986年)のことだそうだ(郷土資料)。 それ以後は残された1基が保存されたが、その付近の旧街道の様子は、もう今に留めていないようだ。 こんもりときれいな塚の形も、多分にその後の補修によるものと思われる。

   

<旧街道の様子>
 大塩峠を下って来た会津・米沢街道は、八丁壇一里塚を過ぎると大塩宿まで残り僅かだ。 現在、その付近一帯は耕作地が点在し、一部には明るい高原状の雰囲気がある。 旧街道も暗い林の中を抜け、これで峠道の難所を越えたと旅人たちは安堵したかもしれない。畑などを目にすれば、もう人里は近いと思ったことだろう。


一里塚付近より大塩集落方向を見る (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
旧街道との交差 
   

<八丁壇以降>
 車道も暗い林の中へと入り、蛇行しながら山腹を登って行く。 八丁壇以降、車道が旧街道を横切る箇所には、会津・米沢街道の道標がほとんど必ずと言っていい程立っている。
 
 まず、八丁壇への分岐を過ぎて150m程登ると、滑り止めの砂でも入っているのか、路肩に箱が設けられている。 その少し先で車道は旧街道を横切るようだ。八丁壇一里塚を通って来た旧街道である。


左手の箱が置かれる付近で旧道と交差 (撮影 2016. 6.13)
   

左手前に会津街道が下る (撮影 2016. 6.13)

 車道と旧街道はやや斜めに交差していたようで、左手前に山道が下り、右手奥に「米澤街道」の道標が立つ道が登る。 入口に石が一つ置かれてあり、バイクや自転車の乗り入れを禁止している様子だった。

   

右手奥に米沢街道が登る (撮影 2016. 6.13)

米沢街道入口の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

<林道分岐>
 その先、本線が直角に右に折れる所を、直進方向に林道が分岐する。入口には「通り抜け出来ません」とある。 寂れた道だ。林道標柱などは既に見られない。
 
 地形図では、その林道は高曽根山の南麓を巻き、大塩川支流・大谷川沿いに上川前・下川前と下って国道459号にまで至るルートを形成している。 道の繋がり具合からすると、最初にその林道が通じ、後からこの分岐より大塩峠へと道が延びたようにも思える。


林道分岐 (撮影 2016. 6.13)
右にカーブするのが峠への本線
   

大塩集落へと下る会津街道 (撮影 2016. 6.13)

<旧街道交差が続く>
 その後も車道は会津・米沢街道の旧道との交差を何度も繰り返す。

   

<旧街道の様子>
 旧街道の区間はほとんど歩いていないので、その様子ははっきりとは分からないい。 車道から少し覗くだけだが、意外と広い道が残っているように見える。
 
 ただ、前出の看板で新島襄が人力車で通ったような記述が見られたが、それ程の道とも思えない。 長い歳月で草木に埋もれてしまった部分が多いのだろうが、道の勾配などはなかなかきつい箇所がある。 そこを人を乗せて人力車が登ったとすると、車夫は大変な重労働だったろう。 あるいは、新島襄も時折人力車を降り、歩いて急坂を登ることもあったのかもしれない。


大塩峠へと登る米沢街道 (撮影 2016. 6.13)
   

左手に国有保安林の看板 (撮影 2016. 6.13)

道の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

<対向車(余談)>
 車道の方は比較的新しいアスファルト舗装がずっと続いている。ただ、道幅は狭い。よりによって特に狭い所で滅多に来ないトラックの対向車に出くわす。どうしたものかと思っていると、トラックはぎりぎりで離合していった。

   

対向車接近 (撮影 2016. 6.13)

対向車と離合 (撮影 2016. 6.13)
   

大塩峠方向の米沢街道 (撮影 2016. 6.13)

<道の様子>
 道は淡々と登って行く。最初の内は旧街道との交差でいちいち立止っていたが、その内面倒になって来た。 さりとて、他に沿道に見るべき物はない。看板類も非常に少ない。周囲は林に囲まれ、全くと言っていい程、視界が広がらない。

   

高曽根国有林の看板 (撮影 2016. 6.13)
立っている看板はこの程度

高曽根国有林の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

道の様子 (撮影 2016. 6.13)
たまには待避所がある

大塩集落方面への旧街道 (撮影 2016. 6.13)
なかなか広い道が真っ直ぐ延びる
ここなら人力車も通れただろう
   
   
   
退頭古戦場跡 
   

<退頭古戦場跡>
 また一つ、左手に旧街道が分かれる。そこに「史蹟 旧米沢街道退頭古戦場」と標柱が立つ。ただ、説明看板などはない。

   
退頭古戦場跡 (撮影 2016. 6.13)
   

<退頭とは>
 八丁壇一里塚に続く会津・米沢街道の史跡として、この退頭(たいがしら、だいがしら)古戦場跡がある。 一里塚は江戸前期に会津藩により会津五街道の整備と共に築造された物だったが、この古戦場跡は戦国期の伊達政宗に関するものだ。 天正13年(1585年)に米沢より桧原に入った政宗の軍は、更に萱峠(大塩峠)を越えて進軍しようとする。 しかし、途中で戦況は不利と見て桧原へと退却した。その場所を人々は退頭と呼称したそうだ(郷土資料より)。
 
<標柱>
 こうした史蹟を案内する白地に黒文字の標柱は、地元の方たちによって建てられた物だ。 以前は八丁壇一里塚にも立っていたようだが、今はもう見られない。 退頭には特に何が残るということはないが、この標柱自体が既に古い物で、そろそろ歴史を感じさせ始めている。


退頭古戦場跡 (撮影 2016. 6.13)
ここを少し入った所が小さな平坦地になっていたようだ
   

松並木付近 (撮影 2016. 6.13)

<松並木>
 珍しく道が真っ直ぐな区間に差し掛かる。左手後方から旧街道が登って来ていた。 この付近は旧街道と車道がほぼ重なり合い、かえって旧街道の痕跡は留めていない。代わりに車道沿いに史蹟の「松並木」が見られる。 この会津・米沢街道に点在する史蹟の中では規模の大きなもので、「旧米沢街道の松並木」とか「萱峠の松並木」と呼ばれる。
 
 こうした旧街道沿いの史蹟は昭和61年(1986年)に村指定の重要文化財の指定され、それに伴って標柱や看板が建てられたようだ。

   

<13本の松>
 松は合計13本ほどあったようで、峠より大塩集落側に下った最初の松をNo.1とし、そこから順次番号が振られ、 車道沿いにはNo.7からNo.12が並んでいたようだ。
 
 車道の西側の林の中に「No.7」の看板を見付けたが、看板が掛かっているだけで松らしき大きな木は見られなかった。


松 no.7の看板 (撮影 2016. 6.13)
   
松 no.7の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

No.12の松・・・だと思うが? (撮影 2016. 6.13)

「萱峠の松並木」の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

<2つの案内看板>
 松並木に関した案内看板は、大塩集落寄りに「萱峠の松並木」と題した物、少し離れた峠寄りに「旧米沢街道の松並木」という看板が立つ。 どちらも昭和61年より後に建てられた新しい看板のようだ。「萱峠の松並木」の看板には退頭(だいがしら)についても記されていた(下の写真)。

   
「萱峠の松並木」の看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
2007年のことが書かれているので、それ以後に立てられた看板と分かる
   

「萱峠の松並木」の看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<地図>
 看板の地図はこれまであった物と大差ない。どういう訳か「退頭」が記されていないのも同じだ。
 
<休憩所>
 峠寄りに立つ案内看板には、近くにベンチが設けられ、ちょっとした休憩所の雰囲気がある(下の写真)。 看板の横からはまた米沢街道の道が林の中へと入って行く。ただ、歩いてこの旧街道を探索する人は滅多に居ないことだろう。

   
峠寄りに立つ「旧米沢街道の松並木」の看板と休憩所 (撮影 2016. 6.13)
   

<残る7本>
 峠寄りの看板によると、2014年現在、7本の松を見ることができたとある。No.1、4、6、7、10、12、13でそれらの写真も掲載されていた。 No.7はその後に枯れてしまったのだろうか。
 
<史蹟を留める(余談)>
 こうした史蹟は時間と共に失われて行く。看板や標柱でその痕跡を留めるしかない。峠道そのものも同じような運命だ。 この「峠と旅」を製作する上では、大げさながらも峠道の様子を少しでも残せないものかという思いがある。


「旧米沢街道の松並木」の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

看板の案内図 (撮影 2016. 6.13)
「村道大塩桧原線」と書かれている
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<村道大塩桧原線>
 松の番号を示した地図をよく見ていると、上の方に「村道大塩桧原線」とあった。大塩から桧原までの車道はやはりこのように呼ぶようだ。
 
<松並木以降>
 「旧米沢街道の松並木」の看板の前を過ぎると、この先1km程は大塩桧原線は旧街道とは大きく離れて進む。 峠までも約1.3kmを残すばかりだ。八丁壇一里塚以降、深い森の中を登って来た道だが、ここに来て空が広がり始めた。 僅かながら遠くの峰を遠望する箇所もある。
 
<高曽根林道>
 古いツーリングマップでは、この間で高曽根林道が大谷川方面から延びて来た道と繋がっているように記されていたが、 林道の分岐らしき跡は全く見られなかった。間に高い尾根がそびえ、地形的にも車道が通じていたとは思えない。

   

道の様子 (撮影 2016. 6.13)

道の様子 (撮影 2016. 6.13)
空が開けて来た

   

<峠への旧街道分岐>
 峠の300m程手前で大塩集落側最後の旧街道との交差がある。左手に「会津街道」の道標が立ち、やや細い道が峠方向に登る(下の写真)。これより車道と旧街道は別々に峠を目指す。

   
左手に峠に続く旧街道が分岐 (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
峠の広場 
   
この先が峠の広場 (撮影 2016. 6.13)
   

<峠の広場>
 車道の最高所は小さいながらも切通しになっていて、厳密にはそこが大塩峠となろう。 ただ、切通しの大塩集落側にちょっとした広場があり、そちらの方が峠を代表とする場所としてふさわしいように思われた(下の写真)。

   
峠の広場 (撮影 2016. 6.13)
桧原方向に見る
この先左に曲がった所が切通しとなる
左手に旧街道へと登る道がある
   

峠の広場より大塩集落方面を見る (撮影 2016. 6.13)
この右手の林の中に旧街道が通じる
正面の奥辺りに1号松がある筈なのだが、この時は見えなかった

<1号松>
 峠の広場付近から大塩集落方向を眺めると、本来は車道の右手の山の方にNo.1の松「1号松」が見えるようだ。 冬場になって落葉樹の葉がみんな落ちてしまえば、その1号松が姿を現すのかもしれない。 郷土資料には雪に埋もれた冬場の大塩峠の写真が掲載されていて、1号松が一本すっくと立つ姿が写されていた。 2014年には存在が確認されていた1号松だが、もう枯れてしまった可能性もある。

   

<旧街道へ>
 広場付近が大塩峠を代表とする場所だと思ったのは、もう一つ理由があった。広場とは反対側に車道より数m高い所に登る道がある。 登る方向に「会津街道」、車道に降りる方向に「米沢街道」と道標が立つ。上がった所に「萱峠」(かやとうげ)の看板がある。 その看板付近が車道が開削される前の旧街道となるようだ。


看板が立つ付近が旧街道 (撮影 2016. 6.13)
   

米沢街道の道標 (撮影 2016. 6.13)
ここで車道に降りる

<旧街道の道筋>
 旧街道は峠直前では現在の車道よりやや北側に通じていた。その為、峠より大塩集落側の古い道筋は、数100mに渡ってしっかり残っている模様だ。 しかし、「萱峠」の看板が立つ付近で旧街道はパッタリ途切れている。そこから先の桧原方面は車道開通により失われたらしい。 それで「米沢街道」を示す道標は、仕方なく車道へと降りる方向を示す。
 
<旧峠の位置>
 萱峠と呼ばれた頃の旧峠は、正確にはもう存在しないのではないかと思う。「萱峠」の看板より更に桧原方面寄りにあった筈だ。 看板が立つ付近が現在残る旧街道の中で最も峠に近い箇所となろう。

   
大塩集落方面より旧峠付近を見る (撮影 2016. 6.13)
看板の先には道が残っていない
   

<萱峠の由来>
 「萱峠」の看板でも、付近が萱山であったことに由来するとあるが、慎重に「推測」という文字を使っている。
 
 ただ、付近の山が製塩の為に伐採されたことは確かであろう。 会津藩にとって山塩は貴重な産物であり、山塩精練には火力となる多量の樹木が必要だったようだ。 郷土資料では「見渡す限りの萱野原と化した」とあるが、現在の様子からはもう想像もできない。


大塩集落方面へと続く旧街道 (撮影 2016. 6.13)
しっかりした道筋が残る
この手前に「萱峠」の看板が立つ
   

「萱峠」の看板 (撮影 2016. 6.13)

<峠の茶屋>
 この峠が「茶屋峠」とも呼ばれるようになった茶屋が一軒、江戸初期からあったそうだ。 峠に車道が開通した後もまだその痕跡が残っていたとのこと(郷土資料)。 いろいろな記述のニュアンスや看板の地図などから、その茶屋は現在の「萱峠」の看板より少し1号松寄り(大塩集落寄り)に立っていたように推察される。
 
 現在、車道の南側(旧街道とは反対側)の路肩が広がり、ちょっとした峠の広場になっている。 その様子は、如何にも茶屋の一軒でも立っていたように見える。しかし、萱峠の時代の茶屋がそこにあった訳ではないようだ。 あくまで車道開削以降にできた広場と思われる。

   

看板の案内図 (撮影 2016. 6.13)
「萱峠茶屋跡」の位置が、
現在の峠よりやや大塩集落寄りに見える
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<墓標>
 ところで、とても気になるのは、看板の言う「道路向いに残された墓標」である。広場の端の草むらを覗いてみたが、そのような墓石は見当たらなかった。元禄八年 (1695年)の記銘があるとのことで、この峠の茶屋の歴史を物語る遺物となろう。現在の車道の路面は旧街道より低く、そこに墓石があるとすれば、車道開 削時に移築されたと思われる。


付近に墓標を探すが見付からない (撮影 2016. 6.13)
   

<茶屋の経緯>
 萱峠の茶屋については「郷土資料」に詳しい。以下に概略を記す。
・会津藩末期
 大塩出身の関本清七、たつ夫妻が
 萱峠六六四七番地に茶屋住人として居住
・明治初めより
 大塩出身の五十嵐又七郎、ナツ夫妻が茶屋を受け継ぐ
・明治34年(1901年)4月
 五十嵐夫妻下山
 喜多方市熊倉雄国出身の野口元四郎、スイノ夫妻が茶屋を受け継ぐ
 長男元典、長女ミサノをもうける
・昭和11年(1936年)
 妻スイノ死亡により下山、大塩新町に居住
 以後、峠の茶屋は閉じられた
 
 茶屋は代々、夫婦が居住しながら営まれて来たようだ。冬場も通して定住していたのだろうか。厳しい生活だったことだろう。 明治17年の大峠開通や明治21年の磐梯山噴火以降、萱峠は会津・米沢街道としての本道ではなくなるが、その後も茶屋は営まれ続けている。 大塩村と桧原村を結ぶ峠道として、依然茶屋の必要性があったのだろう。 昭和11年はまだ萱峠に車道は開通していない時期だが、妻スイノの死亡を切っ掛けに、峠の茶屋は幕を閉じたようだ。 もう後継者が出て来なかったのかもしれない。
 
 最後の茶屋住人となった妻スイノは、「道向かいの墓地」に永眠するとのこと。35年間の長きに渡って茶屋に住み、茶屋で最後を迎えたようだ。 「郷土資料」には雪の中に立つ2基の石碑の写真が載っている。今回、墓地の跡やその石碑は見付からなかった。 アスファルト路面が比較的新しく、最近改修が行われたようだし、あるいは路肩を広場として広げたかもしれない。 その折、墓地の跡がなくなったのかとも思った。

   
   
   
峠の切通し
   

<切通し>
 峠の広場の先は、道はやや左カーブしながら小さな切通しを抜ける。そこが道の最高所となり、正確な意味ではそこが大塩峠であろう。

   
車道の最高所 (撮影 2016. 6.13)
大塩集落側から見る
僅かながらも峠らしい切通しになっている
   

<峠の所在>
 切通し付近には何の看板もない。何の境にもなっていないのだ。この付近の峠全体が北塩原村の同じ大塩地区にある。 以前は桧原地区との境(大字境)かと思っていたが、そうではなかった。 峠を桧原方向(東側)に少し下った所にある史蹟・鹿垣の住所が、まだ大字大塩である(後述)。

   

切通しより大塩集落方面を見る (撮影 2016. 6.13)
この路面の上空辺りに旧街道が通じていたのだろう

桧原方面より切通しを見る (撮影 2016. 6.13)
   

<峠の立地、標高>
 大塩峠は行政区分の境ではなく、かつまたはっきりした分水界にもない。峠は基本的に同じ大塩川水域にあり、高い峰を越えるような峠ではない。 高曽根山方面より南に下る尾根上に位置する。北数100mに966mのピークがあり、同じように南に928mのピークがある。峠はその間に通じる。 僅かながらも鞍部の地形となっているので、それなりの切通しが存在し、峠らしい様相だ。 それでも切通しの前後で、谷は常に一方向に見え(大塩方面から桧原方面へは常に右手)、大塩川の右岸に居ることに変わりない。
 
 文献や看板などの記述では、峠の標高は864mとなっている。現在の地形図の等高線でも860mと870mの間に位置する。 旧峠と車道の峠とは2、3mの違いはあろうが、864mとは旧峠のことだろうか。

   

切通しから桧原方面に下る道 (撮影 2016. 6.13)

<切通し付近の旧街道>
 大塩集落側では旧街道が多く残っていたが、峠から桧原方面側は現在の車道と旧街道が近い関係にあり、旧街道が残る余地があまりなかったようだ。 峠の切通しも車道開削時に数mは切り下げられているので、その付近で交差していたであろう旧街道の痕跡はもう見られない。
 
<昭和期以降の峠>
 昭和の初めに峠の茶屋が閉められてからも、 第2次大戦後までは桧原地区で生産された木地(木工品の材料、桧原は木地師が住み着いた地としても知られる)や木炭などが、 この峠を越えて大塩へと運ばれたそうだ。しかし、細野峠の車道開通(昭和29年)でこの峠道は廃れて行く。 大塩峠の復活はその後の村道開通に待たなければならなかった。

   

<峠の様子>
 峠で暫し佇む間、僅かに小型乗用車1台が大塩集落側から登って来て、桧原方面へと村道を下って行った。 戦国期には伊達政宗の軍が米沢より押し寄せ、明治維新では旧幕府軍が会津若松の落城から退却していった。そんな峠も今は静かな佇まいである。

   
   
   
峠より桧原方面に下る 
   

<道の様子>
 大塩集落側が屈曲の多い坂道であったのに対し、桧原方面側は比較的真っ直ぐな道である。小塩川の上流部へとほぼ北に向かって下って行く。道の右手が小塩川の谷となる。
 
 峠直下に待避所が一箇所ある。その付近、旧街道もほぼ同じような位置に通じていたようで、今はその痕跡を留めない。旧街道は車道よりやや谷寄りに通じていたようだ。


峠の桧原方面側直ぐの待避所 (撮影 2016. 6.13)
   

鹿垣入口 (撮影 2016. 6.13)

<鹿垣>
 峠から500mくらい下ると、右手の谷側にやっと旧街道の分岐が出て来る。「米沢街道」と道標が立つ。
 
 入口には「鹿垣」(ししがき)と案内看板が立つ。以前は「史蹟 鹿垣柵跡 道下約百米」と標柱が立っていたようだ。 鹿垣跡までは100m程歩いて下らなければならないらしい。

   

<鹿垣とは>
 案内看板の説明では、鹿垣は害獣被害を防ぐ柵で、合戦にも用いられたとある。 しかし、「郷土資料」ではもっぱら伊達軍に備えて造られた砦のような物と記している。 鹿垣が設けられた箇所は、元々小塩川の急流が近くを流れ、その急な右岸の崖の途中に道が通じる難所であった。 そこに木を切り倒したりして障害物を設け、獅子をも通さぬ堅固な砦としたために、「鹿垣」(ししがき)と呼ばれたのだろうとある。


鹿垣の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

看板の地形図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<大塩川>
 看板に示された鹿垣跡の地形図(左の写真)では「大塩川」とあるが、この大塩川本流の上流部を小塩川とも呼び、現在の地形図ではそのように記されている。
 
<字稗田>
 看板には鹿垣の所在を「大字大塩字稗田地内」とあった。後でこれを見付け、大塩峠が大塩と桧原との境でないことを確信したのだった。 それにしても、峠の茶屋があった所は萱峠六六四七番地で、鹿垣にも字稗(ひえ)田という住所があったようだ。 今よりも細かく地名が決められていたらしい。

   

看板の案内図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<小塩川右岸>
 鹿垣入口を過ぎると、右手に小塩川の谷が望める。視界があまり広がらない大塩峠の道では、この辺りの景色は貴重である。 対岸にこんもりとした山が見える。八森山(1149.7m)かその西に続く1117mのピークだろう。

   
小塩川の谷が広がる (撮影 2016. 6.13)
   

<旧街道分岐>
 鹿垣を経て下って来た旧街道が再び車道に合する地点を過ぎる。右手の急な崖際に「会津街道」と記した標柱が立つ。地形は険しそうだ。

   

右手の崖際に旧街道の標柱 (撮影 2016. 6.13)

旧街道の標柱 (撮影 2016. 6.13)
   

この先、小塩川沿いになる (撮影 2016. 6.13)

<小塩川沿いへ>
 峠から約800mで小塩川沿いに出る。そのちょっと手前から道幅が広がりだし、川沿いになれば完全な2車線路に変わる。
大塩集落の大塩橋の袂で分かれた筈の大塩川であったが、折角峠を越えて来たにも関わらず、再び同じ大塩川上流部の小塩川沿いに出ていた。
これが大塩峠のちょっと変わった点と言えようか。大塩峠の峠道は、絶えず大塩川水域から出ていない。
 
<境橋>
 古いツーリングマップに記されていた高曽根林道は、小塩川に出ると直ぐに対岸へと渡っていた。 不思議なことに、現在の地形図もそのようになっている。しかし、現状は橋など架かっている様子は全くない。 「郷土資料」の鹿垣に関する記述に、鹿垣は「萱峠と境橋の中間にある」としている。高曽根林道開通時には、その「境橋」という名の橋が架かっていたのだろう。

   
小塩川沿いになる (撮影 2016. 6.13)
この付近に対岸へ渡る橋が架かっていたようだ
   

<大塩と桧原の境>
 「境橋」と聞いて、ピンと来た。その橋が大塩と桧原の境ではないのか。 国土地理院(電子国土Web)の地形図には標高を計算する機能があったが、その場所の住所も表示される。 ただ、「正確な所属を示すとは限らない」との注意書きはある。 試してみると、境橋の手前(南側)では「大字大塩」と表示され、橋を渡った先(北側)では「大字桧原」と出て来た。 いろいろ調べてみると、大塩と桧原の大字の境界線は東の大森山山頂からほぼ真西に通じ、境橋を経て、西の966mのピークへと至っているようだった。

   

<一ノ渡戸古戦場>
 以前はその境橋の袂付近に「史跡 一ノ渡戸古戦場」と書かれた標柱が立っていたようだ。 境橋が架かる以前から、この付近には会津・米沢街道の「一ノ渡戸」と呼ばれる渡し場があったと思われる。 やはり伊達軍との合戦に関わりがある史蹟となるらしい。

   

<峠道の境>
 道は既になくなった境橋の側らを過ぎると、そのまま小塩川右岸沿いに遡り始める。 普通の単独の峠道なら、峠を下って川岸に降り立てば、次はその川沿いに麓へと下るのが一般的だ。 しかし、大塩峠の場合、次の蘭峠とセットなる峠道である。小塩川沿いになると、今度は蘭峠に向かって道は登り始める。 境橋があった時はその境橋が、境橋がない今は境橋の袂付近が、大塩峠と蘭峠との峠道の境となる。
 
 地形的には、ここは単に小塩川が流れ下るだけの場所で、分水界でも何でもない。しかし、ここを渡し場として会津・米沢街道が通された。 道が下りから上りに転じる場所である。 街道が通されたことをきっかけにして、古くはここが大塩村と桧原村の村境となり、現在の大字境にもなったのではないだろうか。
 峠道の終着点としては殺風景な場所だが、ここから先は蘭峠の領分である。 大塩峠から境橋袂まで1kmに満たず、大塩集落からでも僅かに6kmの峠道だったが、ここで大塩峠は終了となる。 (蘭峠に続く)

   
   
   

 小さな峠道だが、旧会津・米沢街道が通った由緒ある道だ。 車道沿いの随所に史蹟を示す標柱とそれを説明した案内看板が立ち、車で旅をしながらもいろいろと歴史を堪能できた。
 
 しかし、旧街道を歩いて探索することまではせず、ましてや廃道の様な険しい峠道で探検まがいな真似をしようとも思わない。 あくまで旅の一環で峠を訪れているだけのことだ。磐梯山噴火記念館に寄ったり、桧原湖で遊覧船に乗ったりする、一般的な観光の延長でしかない。 それでも、八丁壇一里塚を目の前にし、古い萱峠付近の様子を眺めるのは、有り触れた観光とは一味違う。 現代の峠の旅をするなら、最適な峠道だと思う、大塩峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2016. 6.13 大塩 → 桧原 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  7 福島県 昭和56年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・福島県広域道路地図 24 1996年 7月発行 人文社
・マックスマップル 東北道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・郷土資料(名前は失念、休暇村裏磐梯で閲覧)
・その他、一般の道路地図など
 
<参考動画(Youtube)>
大塩峠/大塩集落側
 大塩集落から大塩峠までのドラレコ動画(2倍速)です。
大塩峠/桧原方面側
 大塩峠から小塩川沿い(境橋袂)までのドラレコ動画(2倍速)です。
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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