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崩野峠
  くえのとうげ  (峠と旅 No.255)
  祖母山麓の五ヶ所高原へと越える峠道
  (掲載 2016.3.20  最終峠走行 2012. 5.11)
   
   
   
崩野峠(崩野隧道) (撮影 2012. 5.11)
手前は宮崎県西臼杵郡高千穂町河内(かわち)
奥は同町五ヶ所(ごかしょ)
道は県道(主要地方道)8号・竹田五ヶ瀬線
隧道の標高は約850m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

  こちらは旧道の峠で、随分と趣のあるトンネルが通じている

   
   
<掲載理由(余談)>
 この「峠と旅」のホームページに掲載する峠を選択する時、その峠に関して何らかの関心事があることが多い。例えば前回の伯母峰峠は、紀の川水系の最奥に位置し、新宮川水系でもその大きな支流・北山川の源頭部にあり、紀伊半島中の峠として屈指の存在と言える。また一方で、その峠に通じる峠道の変遷がいろいろと複雑で、多くの謎を秘めていた。前々回の林道本谷線の峠は山陰の山間部を流れる素朴な久斗川(くとがわ)を延々と遡った先にある峠だが、その川沿いに通じる道に味がある。更にその前の県道熊谷味取線の峠は、とにかく県道の険しさが目に余る程なのだ。
 
 実は今回の崩野峠は妻の推薦である。この何年か九州旅行はご無沙汰なので、今年(2016年)の春頃に新車のハスラーを連れて旅をしようかなどと話をしていた。 そこで妻は過去の旅の写真を眺め、どの辺へ行こうかと調べてみたようだ。その時、偶然崩野峠を見付け、この峠を掲載してはどうかと言う。確かにその峠を訪れたことは覚えている。 しかし、これまで思い出すことはほとんどなかった。勿論「峠と旅」に掲載しようと考えたこともない。この峠に関してはあまり関心事がないのだ。 妻にとっても、峠の旧道にあるトンネルがちょっと変わっているという程度のことらしい。特別理由がある訳ではない。
 
 崩野峠はちょっとした峠道だ。県境の峠などでは勿論なく、市町村境にもなっていない。峠道の距離も短い。 普通、川沿いに延々と遡り、峠直下では山腹をよじ登って峠に至るのが峠道らしい峠道で、林道本谷線の峠などはその典型例であろう。 ところが、崩野峠の道は川との関連が分かり難い。川の流れから見ると、どうにも腑に落ちない峠道に思える。 峠や峠道を理解する場合、私の場合はまずその周辺の地形を理解して、初めてその峠について分かったような気になる。 しかし、崩野峠の場合、地形図を眺めてもどうにも分かったような気になれないのだ。
 
 しかし、妻が言い出した峠なので、今回は崩野峠を取り上げてみることとする。この峠に関して何らかの魅力が引き出せればと思うのであった。
   
<峠名>
 九州には難読文字が多い。「崩野」は「くえの」と読む。同じ字を書いて「くずれの」と読む地が静岡県に見える(地理院地図)。やはり崩壊地などと関係するのか。文献(角川日本地名大辞典)によると、崩野峠は古くは崩野坂とも呼ばれたようだ。
   
<所在>
 九州は宮崎県の西臼杵郡(にしうすきぐん)高千穂町(たかちほちょう)にある。高千穂町は大分県や熊本県とも接するのだから、県内でもずいぶんと奥まった地である。高千穂峡や天岩戸神社で知られるが、峠としては大分との県境となる尾平峠が秀逸であろう(あくまで個人的感想です)。
 
 その高千穂町にあってもう熊本県との境まで1kmに満たない距離にあるが、県境を越えている訳ではない。北側の大字五ヶ所(ごかしょ)と南側の大字河内(かわち)の大字境でしかないのだ。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
<水系>
<大野川水系、大谷川>
 大字五ヶ所は大野川水系にある。しかも、その本流の上流部である大谷川沿いに位置する。 大野川は祖母山(そぼさん)に源を発し、最初高千穂町を西流、その後北へ向かって熊本県高森町を北流、更に東へ転じて大分県に入り、竹田市(たけたし)などを流れて別府湾に注いでいる。 大分県内では最大の河川となる。また祖母山は、「九州山地の主峰」、「九州の屋根」などとも呼ばれ、九州本島(本土)第2の高峰であるそうな。
 
 ところが、その大谷川を崩野峠の道は跨いでいる。残念ながら沿っている訳ではない。大谷川の支流の上部と言う訳でもない。そこのところがどうにも歯がゆい。
 
<五ヶ瀬川水系、河内川>
 一方、大字河内は五ヶ瀬川の一次支川・河内川(かわちがわ)の最上流域にある。五ヶ瀬川水系は祖母山を挟んで大野川水系の南に広い水域を持つ。 文献(角川日本地名大辞典)の記述によっては、河内川は田原川(たばるがわ)の支流のようになっていたが、田原川の方が河内川の支流と思う。 峠はほぼその河内川の上部にあり、河内川沿いに下る道は崩野峠の峠道と言える。この点は少し納得がゆく。
   
<道>
 峠を越えるのは県道(主要地方道)8号・竹田五ヶ瀬線となる。非常に大雑把に見れば、起点の竹田市街からほぼ大野川に沿って遡っている。しかし、本流にぴったり沿うことはほとんどない。大抵はその支流沿いを渡り歩いている。
 
 また、河内側では県道8号が河内川に沿うのはその川の上流側半分だけである。そもそも下流側半分には川に沿った道が存在しない。
 
 何ともしっくりしない峠道なのだ。それに比べると、久斗川沿いに坦々と遡る林道本谷線の峠道の何と素晴らしいことか。峠道とはかくありたい。
   
   
   
河内側より峠へ
   

県道8号が国道325号をくぐる (撮影 2012. 5.11)
<国道との立体交差>
 河内側から峠に向かう県道8号は、国道325号より分岐して始まる。 手持ちのツーリングマップル(九州沖縄 2003年4月3版 1刷発行 昭文社)では河内集落内にある交差点で分かれているのだが、現在はその少し手前で大規模な立体交差となっている。 レンタカーに付いてたカーナビを見ていたが、事態がなかなか呑み込めない。とにかくカーナビや道路標識に従ってぐるぐる回る。 国道は河内川をゆったりカーブする大きな橋で渡り、高千穂町市街へと延びて行く。県道8号はその下をくぐって河内川右岸沿いを北上し始めた。こんなのどかな所に、随分と立派な道である。
   
 以前の県道8号は、現在の立体交差付近より更に下流側600mくらいまでは河内川沿いに通じていた。しかし、今は改修された国道との併用区間となってしまい、増々河内川に沿う距離が短くなってしまっていた。
 
 今回の九州旅行は、飛行機で九州まで来て、現地ではレンタカーの移動とした。いつもの走り慣れたパジェロ・ミニではないので、やや勝手が違う。林道などの険しい道も走れない。あまり過酷な峠の旅は控えなければならない。
 
<河内集落へ>
 間もなく県道8号は河内集落の中へと入って行く。道路看板は右折方向に「延岡 高千穂」と出て来た。
   

河内集落内 (撮影 2012. 5.11)

道路看板 (撮影 2012. 5.11)
   
<河内の交差点>
 その看板が示す分岐が河内集落の中心地にある。「高千穂町 河内」の交差点だ。以前はここまでが国道325号(県道との併用)で、ここより国道は右折して高千穂町を目指した。一方、直進方向には県道8号が始まっていた。

「河内」の交差点 (撮影 2012. 5.11)
   

河内関所跡の標柱 (撮影 2012. 5.11)
<交差点付近>
 地図は鳴滝神社などがあることを示している。その参道脇の私邸に国天然記念物の田原のイチョウがあることが文献などに記されている。
 
<河内関所>
 交差点脇には「河内関所跡」と標柱が立つ。この河内は日向(宮崎県)、肥後(熊本県)、豊後(大分県)の3国の境に近く、それぞれへの街道が通じる交通の要衝であったようだ。その為、ここに河内番所が設けられた。
 
 現在の河内交差点が正にその3道の交点なのだろう。ここを東へ行けば延岡や日向に至る。西は肥後熊本、北は豊後竹田である。今回の崩野峠は豊後国へと続く道となる。
   
<河内村>
 江戸期から河内村があり、明治22年には田原村の大字、昭和31年には高千穂町の大字となっている。
 
 河内交差点より県道を500mも行くと河内集落の人家はまばらになる。道は河内川右岸沿いに通じ、人家はその沿道に散見される。

河内集落内を行く (撮影 2012. 5.11)
   

前方に道路看板 (撮影 2012. 5.11)
<郊外へ>
 2km程は河内川の谷間に通じるのどかな道が続く。看板には「竹田 38km、祖母登山口 7km、五ヶ所高原 5km」と出て来た。五ヶ所高原は崩野峠を越えた先である。峠までもう4km程度しかない。
 
 道はずっと快適な2車線路だ。春の陽気に緑も映える。
   
沿道の様子 (撮影 2012. 5.11)
河内川沿いに遡る
   
   
   
屈曲区間へ
   

この先、支流を渡る (撮影 2012. 5.11)
<支流を渡る>
 谷がやや狭まると、もう人家はほとんど見ない。峠まで後2kmくらいの所で支流を渡る。本流に対して西の方から下る川だ。そこからは更に谷は狭い。道はやや東寄りに方向を転じて河内川本流を遡る。
   
 支流を渡った先で路傍に何か石碑が立っていた。写真を撮っておいたが、うまく写っていなかった。
 
 道は川沿いから少し離れて通じるので、川の様子などは全く分からない。川とは縁が薄い道である。

川沿いから少し離れる (撮影 2012. 5.11)
   

左へ急カーブ (撮影 2012. 5.11)
ここより川筋から離れる
<川筋から離れる>
 道が急なカーブを曲がると河内川沿いから離れ、西へと方向を変える。この後は屈曲しながら峠までの山腹をよじ登る。
   
<道路情報>
 曲がった先に広い路肩があり、側らに道路情報の看板が立つ。「これより先 通行注意 落石注意 スリップ注意」とある。ここから先の登り道が、やや険しくなることを示している。

道路情報の看板が立つ (撮影 2012. 5.11)
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
<道の様子>
 道は山腹を深く切り崩して通してある。高い擁壁が囲む。崩野峠には新しいトンネルが開通しているのだが、それに伴い改修された道であろうか。この後訪れる旧道部分の道とは比較にならない程、快適な道となっている。
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
快適な道が続く
   
   
   
旧道分岐
   
<旧道分岐>
 何度か緩いカーブを曲がりながら登ると、ちょっと開けた谷間の上に出る。河内川の本流よりは、西寄りの支流の上部に近い。 すると、その谷を渡る橋の前で、右手に旧道らしき道が分岐する。付近にはその道を案内する看板は皆無である。 ただ、手持ちのツーリングマップルでも既に新トンネルの記載があり、旧道の存在は事前に分かっていた。
   
旧道分岐 (撮影 2012. 5.11)
左が新道、右が旧道
   

新道は谷を渡る (撮影 2012. 5.11)
<宮ノ上>
 橋の袂に立つ県道標識では、「高千穂町宮ノ上」とあった。大字河内内の集落では、河内以降馬場、崩野といった名が地図に見えるが、宮ノ上は見当たらない。崩野峠直前の集落であったのだろうか。しかし、今はこの周辺に人家などは全く見掛けない。
 
<坑口へ>
 谷間に架かる橋は鳴神橋(なるかみばし)とあったようだ。その先に新道のトンネル坑口が見えて来た。橋を渡って数100mである。
   
五ヶ所高原トンネル直前の様子 (撮影 2012. 5.11)
   
   
   
新峠
   
五ヶ所高原トンネルの河内側坑口 (撮影 2012. 5.11)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<トンネル名>
 新道の新しいトンネルの名前は「五ヶ所高原トンネル」となる。地形図では「新五ケ所高原トンネル」とわざわざ「新」を付けているが、旧の「五ヶ所高原トンネル」という名のトンネルがある訳ではない。旧道のトンネルの名前は単に「崩野隧道」である。
 
<五ヶ所高原>
 トンネル名は、大字「五ヶ所」にある「高原トンネル」という意味ではないようだ。「五ヶ所高原」へ至るトンネルとでもいう意味合いだ。 崩野峠を五ヶ所側に越えた先に、祖母山麓の広大な草原が広がる。それを「五ヶ所高原」と呼び、高千穂町の観光名所の一つにもなる。 崩野峠は高千穂町市街から五ヶ所高原へと通じる道の最終関門であった。その峠に通じた新しいトンネルを五ヶ所高原に因んでそのように名付けたものと思う。

トンネルの扁額 (撮影 2012. 5.11)
   
 一方で、「新崩野トンネル」としたのでは、まず一般観光客には「崩野」が読めない。それに「崩れ」ではあまり縁起が良くない。それで「崩野」の文字を避けたのではないかと邪推したりする。
   
<銘板>
 峠が趣味なのだが、峠にはトンネルが開通しているケースがやたらに多い。自然、トンネルにも関心を向けざるを得ない。最近は、トンネル坑口や扁額、銘板などを写真に撮ってばかりいるような気がする。
 
 一般に、峠道の開通年は容易には分からない。車道の開通もなかなか資料が見付からない場合が多い。 ましてや、古くからの峠道がどのくらいの時代から使われ始めたのかなど、ほとんど分からず推測の域でしかない。 しかし、トンネルの開通年、竣工年ははっきりしていて、銘板さえあれば容易に分かる。五ヶ所高原トンネルの場合は1998年(平成10年)10月とある。
   

坑口左側に銘板が掛かる (撮影 2012. 5.11)

銘板 (撮影 2012. 5.11)
   
<坑口の花>
 五ヶ所高原トンネルは、観光道路の意味合いもあってか、坑口にあしらわれた赤い花の絵柄がアクセントになっている。 草木には詳しくないので、何の花か分からなかったが、その後訪れた五ヶ所高原の一角にある三秀台(さんしゅうだい)に答えを見付けた。 「ひめゆり」らしい。やはり五ヶ所高原を意識したトンネルであった。
   

坑口にあしらわれたひめゆり (撮影 2012. 5.11)

三秀台のひめゆり (撮影 2012. 5.11)
時期外れで花は咲いていない
   

ひめゆりの看板より (撮影 2012. 5.11)

ひめゆりの看板より (撮影 2012. 5.11)
   
<坑口前の様子>
 坑口は、崩野峠から南へ下る谷がやや広まった所の右岸に位置する。坑口を背にして左手に、ちょっとした広場がある。
   
坑口を背に、河内方向を見る (撮影 2012. 5.11)
左手に空地あり
   
谷を渡る橋の向こうは開けている (撮影 2012. 5.11)
「この先下り坂 急カーブ連続 走行注意」の看板が立つ
   
<空地>
 トンネル前後の道路沿いには、車を停められる適当な場所はないが、坑口直前の谷寄りに砂利敷きの空地があり、恰好の駐車場となっている。

坑口前の空地 (撮影 2012. 5.11)
   

坑口上部へと続く道 (撮影 2012. 5.11)
<山道>
 空地への入口に並んで、トンネル上部方向へと続く山道が始まっている。直ぐに林の中に入って行先は分からないが、位置的には旧道に合しているように思えた。
   
 新トンネル開通で良かったことの一つは、眺めのいい場所ができたことである。 この後、訪れる旧道沿いは、開けた箇所はほとんどなく、車を長く停められるような休憩場所は皆無だった。 その点、旧道分岐から僅か2、300mにある坑口前の空地は、空が開け開放的な場所だ。トイレなどの設備はないが、長い旅の休憩地としても適している。車を降りて、伸びをする。

空地より峠方向を見る (撮影 2012. 5.11)
   
空地より谷を眺める (撮影 2012. 5.11)
   

昼食 (撮影 2012. 5.11)
<昼食(余談)>
 格好な休憩場所では、お決まりの昼食だ。前もってコンビニ(スーパーだったか)で買っておいた稲荷・太巻きの寿司セットと、肉じゃがコロッケを食す。質素なものだが、眺めの良さが食欲を増してくれる。
   
   
   
旧道へ
   
<旧道へ>
 新道を少し戻り、旧道に進む。旧道は新道とは反対側の谷の左岸に通じる。谷を挟んで新旧の道が200m程並行する。
 
 道は、最初の内は申し訳程度に広いが、直ぐに狭まって行く。新道開削時に旧道の方も入口付近だけ広くしたのではないだろうか。

旧道を走り始める (撮影 2012. 5.11)
   
旧道より新道方向を眺める (撮影 2012. 5.11)
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
勾配12%の道路標識が立つ
<勾配12%>
 道が林の中に入って行くと、もう昔ながらの様相である。主要地方道も名ばかりだ。側らに勾配12%の道路標識が立つ。10%を越える勾配はなかなかお目に掛からない。
 
 心配なのはレンタカーである。いつものパジェロ・ミニなら何の気掛かりもないが、借りた車の性能が分からない。最低地上高など十分とは到底思えない。そもそも、借りた車の名前さえ全く知らない。この先の路面状況が心配だ。
 
 それに、自家用車ならちょっとした傷など付けても何とも思わない。そもそも、パジェロ・ミニには険しい峠道を走った時の無数の傷がある。しかし、レンタカーではそうはいかない。路傍から飛び出している小枝にも注意する。
   
<県道標識>
 古そうな県道標識が立つ。新道開通前からこの道は主要地方道に指定されていた。その当時の物と思う。地名は「高千穂町 崩野」とある。新道沿いは「宮ノ上」だったが、旧道に入って「崩野」となった。
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
左手に県道標識
「高千穂町 崩野」とある

県道標識 (撮影 2012. 5.11)
   
<道の様子>
 旧道分岐から崩野隧道入口まで約500mと短いが、やはりその間がこの峠道で一番険しい。「崩野」の名にふさわしく、若干だが落石も見られた。

若干の落石 (撮影 2012. 5.11)
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
 また勾配12%の看板が出て来た。路面はひび割れているが、今のところ最低地上高が小さなレンタカーでも問題ないようだった。
   
<峠直前の急坂・急カーブ>
 道はつづら折りと言っていい小刻みなカーブを繰り返す。そして峠に至る直前に特別な急坂・急カーブが一箇所用意されている。多分、勾配は12%ではきかないだろう。古くからある峠道をそのまま無理やり車道にしたような道だ。旧東海道の中山峠の「二の曲り」を思い出す。あの道も古い道をそのまま車道化したような状況だった。ただ、こちらは僅かに一箇所である。それ程恐ろしいものではない。

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
峠直前を麓方向に見る
この場所が最も険しい
   
   
   
   
崩野隧道の河内側 (撮影 2012. 5.11)
   
<崩野隧道>
 崩野隧道は新トンネル開通の1998年まで県道(主要地方道)8号が通じていた訳だが、それにしても古めかしい面構えだ。デコボコで粗いコンクリート表面は、何かの岩を積み上げているのではないかと思われるくらいだ。
 
<覆道の峠>
 一番の特徴は、トンネル上部にほとんど土の層がないことだ。草木は生えているが、土埃として風で飛ばされて来たり、両側の崖から崩れて来た土砂が少しづつ堆積したものだろう。 多分、トンネル竣工当時は、いわゆるスノーシェッドとかロックシェッドと呼ばれる覆道の形態であったものと思う。
 
<大平峠>
 これに似た峠とし ては大平峠(おおだいらとうげ、別名:木曽峠)が挙げられる。 しかし、大平峠に鎮座するトンネルらしき物体の扁額には「木曽峠」とあり、「隧道」と言う文字はどこにも見当たらない。 正式にトンネルと呼んでいい代物かどうか判断に迷うところだ。その点、こちらの崩野峠はしっかり「隧道」を主張している。 どちらも面白いトンネル(らしき物)があるという点では似ている峠だが、大平峠は木曽山脈・通称中央アルプスを越える峠である。峠道としての面白さは、崩野峠などとは比べ物にならない。
 
 こうした覆道の峠のいい点は、その覆道の真上が元の峠があった場所であることが明白なことだ。 峠の切通しを一旦深く掘り込み、両側の土砂が崩れないように覆道化したものであろうから、峠の位置は水平方向にも垂直方向にもほとんど変わっていない筈だ。 旧峠が無くなってしまったことに変わりなく、その点は残念だが、最小限の土木工事により旧峠の周辺の様子を色濃く残せているのではないかと思う
   
<扁額>
 通常は扁額が埋め込まれている形態だが、崩野隧道の場合、周辺と同じ材質にただ文字が掘られているだけのように見える。非常に荒々しい感じである。 ただ、文字は左から右へと書かれているので、それ程古いトンネルではなかもしれない。経験上、昭和10年代頃までは、右から左へと文字が刻まれていたことが多いようだ。 左から右へと書かれるようになったのは、戦後くらいからと思う。更に時代が下ると「隧道」が「トンネル」へと変わる。トンネルについていろいろ詳しくなると、それはそれで面白そうだが、あくまで峠の旅を楽しもうというだけのスタンスである。深入りしないこととする。
 
 文献(角川日本地名大辞典)には残念ながら崩野隧道の竣工日などの記載はない。ただ、トンネル延長63mとのこと。
   

扁額 (撮影 2012. 5.11)

扁額 (撮影 2012. 5.11)
   
<トンネル周辺>
 急な坂道を登り切った所が直ぐにトンネル坑口になり、トンネル手前に平坦路はない。道幅は狭いままで、車の駐車スペースが全くない。 かつてこの峠を往来する車は、ただただ通り過ぎるだけであったろう。旧道となった今は、少しはのんびりできる。この地がほぼ古くからあった崩野峠である。その雰囲気を味わう。
   

隧道を背に麓方向を見る (撮影 2012. 5.11)

隧道を少し手前から見る (撮影 2012. 5.11)
(車のフロントガラスが写り込んでいる)
   
<標高など>
 文献では、崩野峠の標高を854mとし、現在の地形図にも「854」と記されている。隧道の標高は等高線で840m〜850mと読める。元の峠と10m程度の差であろうか。
 
 尚、五ヶ所高原トンネルに関しては、河内側坑口が約810m、五ヶ所側は約830mくらいである。新旧のトンネルであまり差はない。

崩野隧道を五ヶ所側へ抜ける (撮影 2012. 5.11)
   
   
   
峠の五ヶ所側
   
五ヶ所側から見る崩野隧道 (撮影 2012. 5.11)
   

五ヶ所側坑口 (撮影 2012. 5.11)
逆光で写真は撮り難い
<峠の五ヶ所側>
 トンネル手前の切通しはやや深い。道の西側にコンクリート製の高い擁壁が立つ。木々もややうっそうと茂る。扁額周辺も草やコケに覆われ、文字は見え難い。
   

五ヶ所側の扁額 (撮影 2012. 5.11)

五ヶ所側の扁額 (撮影 2012. 5.11)
   
<峠の位置>
 当峠は、宮崎・熊本の県境にそびえる国見岳(1088m)より東に延びる稜線上にある。 その稜線は、その先赤川浦岳(1232m)、黒原越(1118m)などを通り大分県との県境となる障子岳(1709m)に至る、1000m以上の山々の連続となる。北側の大野川水系と南側の五ヶ瀬川水系の分水界ともなる。 その稜線中、崩野峠(854m)は最も低い鞍部にあるようだ。この東西方向に10km程の稜線のどこかを越えようとすれば、やはり現在の崩野峠の位置になるのだろう。
 
 宮崎県はその稜線を越えて北側にコブのように出っ張り、県域を不自然に広げているようにも見える。祖母山西麓に発した大野川源流は、宮崎県、熊本県、大分県と流れ下り、とにかくこの付近の3県の県境は複雑である。
 
 尚、障子岳から更に東へと続く大分・宮崎県境には、尾平越杉ヶ越と大きな峠道が続く。崩野峠とは一直線上にある。
   
   
   
五ヶ所へ下る
   
<深い切通し>
 峠から五ヶ所側に下る道は、ちょっとびっくりするような深い切通しが長く続く。実際はその切通しの上に並ぶ木が高く成長した為に深く見えるのだが、それにしても見事である。
 
 ただ、古くからある峠道ではないようだ。元からこの様に直線的に道が通じていたとは思えない。やはり崩野隧道開通と共にここに車道を開削する折り、この様な切通しになったのだろう。それに比べ、河内側は比較的古い道をそのまま車道にしたように思える。
 
<五ヶ所>
 崩野峠の北側は、高千穂町の大字五ヶ所(ごかしょ)の地である。国見岳から障子岳に至る稜線の北側にある宮崎県全てが五ヶ所となる。高千穂町と言わず宮崎県内に於いても特異な立地と言える。
 
<バス運行>
 高千穂町の中心地からこの五ヶ所に定期バスが通じたのは昭和29年(1954年)のことだそうだ。宮崎交通と大分交通の2社協定で、祖母山麓バスが運行された。 そのコースは、高千穂町市街を三田井(みたい)から出発し、一路国道325号を北上、河内の交差点より県道8号に乗り継ぎ、崩野隧道を越え、五ヶ所に至る。更に、熊本県高森町(たかもりまち)の津留(つる)を経由し、大分県の竹田市へと続いていたそうだ。「祖母山麓バス」という呼称からしても、登山客や観光客などの輸送を目的に営業されたのではないだろうか。

五ヶ所側には深い切通しが続く (撮影 2012. 5.11)
   
 これは推測だが、崩野隧道開通と共にこのバス運行が計画されたのではないかと想像する。当時はまだ自家用車は少なく、車道が通じても個人の車が頻繁に往来するというようなことは稀だ。 公共の交通機関としてのバス運行がまず先決であろう。他の峠でも隧道開通を機にバスが運行されたというケースは多い。バス運行を目的に隧道が開通されるということもあったのではないだろうか。
 
 崩野隧道の竣工日は不明だが、バス運行の昭和29年よりそれ程古くはないと推測する。やはり戦後程ない昭和20年代後半であろうか。それにしても、あの河内側の急坂・急カーブをよくバスが通れたものと思う。
 
 バス運行が開始されても、その後の自家用車の普及などで峠越えのバス路線は廃止されるケースが多い。崩野峠の場合は、現在でも高千穂町の「ふれあいバス」が運行されているようだ。 河内の中心地と五ヶ所の原山との間を日に往復6便の五ヶ所線が通う。1998年からは五ヶ所高原トンネルが通じ、バスの運転手の方も随分楽になったのではないだろうか。 五ヶ所高原は高千穂町の観光資源の一つだが、市街から直接五ヶ所へ至るバス路線はないようだ。今の「ふれあいバス」はもっぱら地元住民の便宜の為であろう。
 
 全くの余談だが、高千穂は高千穂鉄道の終着駅・高千穂駅があった町である。しかし、残念ながら高千穂鉄道は廃線となったようだ。これも、自家用車の普及が大きく影響しているのだろう。 自分自身も車の旅ばかりしているが、鉄道の終着駅が好きで旅の途中に寄っては写真を撮ることにしている。2003年に立ち寄った時は、高千穂駅前は観光客で賑わっていた(下の写真)。あの駅がもうないと思うと、町から一つの火が消えたように感じる。
   

高千穂駅前 (撮影 2003. 4.29)

高千穂駅構内 (撮影 2003. 4.29)
   
25年前の高千穂駅 (撮影 1991. 5. 5)
始めて九州をバイクツーリングした時の写真(偶然見付けたので掲載した次第)
駅舎の脇にAX−1を停めての写真撮影
峠の旅をする前からこうして終着駅には時々立寄っていた
   

左手に作業道 (撮影 2012. 5.11)
<作業道>
 トンネルからずっと左手に続いていたコンクリート擁壁が途切れた所で、荒れた作業道が登って行った。五ヶ所高原トンネルの上部へと続くものと思う。最初これが国見岳への登山口かと思ったが、登山道は別にあった。
 
 
<道の様子>
 五ヶ所側の切通しは新道に合するまでの間、350m程続く。木々の間から前方にちょっと変わった山容の山がのぞいた(下の写真)。 方角からすると、祖母山から西へと続く大分・宮崎県境の峰にある山である。地形図に筒が岳(1293m)という山が見られるが、そのあたりだろうか。
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)

切通しの向こうに山を望む (撮影 2012. 5.11)
ちょっと変わった山容
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)

切り立つ杉の木 (撮影 2012. 5.11)
   

国見岳登山道 (撮影 2012. 5.11)
<国見岳登山道>
 作業道から更に少し下ると、「国見岳」と小さな案内看板が立っていた。草に覆われていたが、登山道らしかった。
 
 
<道の様子>
 下るに従い、徐々に切通しが低くなり、木々も道の両側に並ぶようになる。最後に杉木立を抜ければ旧道の終点も近い。
   

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
切通しが徐々に低くなる

道の様子 (撮影 2012. 5.11)
杉木立を抜ける
   
   
   
新道に接続
   
前方で新道に接続 (撮影 2012. 5.11)
   
<新道に接続>
 新道に接続する付近では、左手にそびえていた木立は途切れ、一挙に草原の雰囲気が広がる。五ヶ所高原トンネルからゆったり下って来た快適な県道8号に鋭角に接続する。
   
旧道分岐より峠方向を見る (撮影 2012. 5.11)
左が旧道、右が新道
   
<新道上>
 新道に乗ると、直ぐに案内看板が立っている。「↑ 祖母山登山口 1.2km」、「← 五ヶ所高原 三秀台」とある。「五ヶ所高原 三秀台」は直ぐ左にあることになっている。

新道を下る (撮影 2012. 5.11)
直ぐ先に案内看板が立つ
   
   
   
三秀台付近
   
<三秀台入口>
 案内看板の下に、小さな道が分岐する。入口には「平和記念碑入口」とか「五ヶ所 三秀台」と道標が立つ。また、三秀台とウェストン碑の説明看板も並ぶ。
   
三秀台への入口 (撮影 2012. 5.11)
   

入口にある三秀台などの看板 (撮影 2012. 5.11)
<三秀台(余談)>
 折角、五ヶ所の地に来たなら、五ヶ所高原を堪能しない手はない。ただ、高原は広く、的が絞り難い。そこで一番安直なのは、やはり三秀台に寄ることのようだ。 案内に従い、細い車道を進む。県道から分かれて奥まで周遊道路が続いている。途中にはトイレも完備されていた。崩野峠前後にはトイレの設備がない。その点、三秀台は格好の無料休憩所となる。
   

三秀台の看板 (撮影 2012. 5.11)

ウェストン碑の看板 (撮影 2012. 5.11)
   
三秀台への道 (撮影 2012. 5.11)
   
 小高い丘に三秀台の散策路が広がる。いくらでも時間がつぶせる。眺めは良く、五ヶ所高原を堪能した気になれる。ただ、三秀台の石碑や平和記念碑は見付けたが、どういう訳かウィンストン碑がどこだか分からず仕舞いであった。

三秀台の石碑 (撮影 2012. 5.11)
古い字「䑓」を使っている
   
三秀台からの祖母山方面の眺め (撮影 2012. 5.11)
   
   
   
三秀台以降
   
<三秀台以降>
 快適な県道が続く。「竹田 32km」と道路看板が出て来た。
   
道の様子 (撮影 2012. 5.11)
右手奥の一番高い山は祖母山か?
   

右手の小屋は三秀台のバス停 (撮影 2012. 5.11)
<三秀台バス停>
 三秀台入口からもう何100mも離れた所に三秀台のバス停が立っていた。三秀台観光には不向きである。多分、近くにある集落の為のものであろう。バス停の小屋の反対側には大きな記念碑が立っていた。これが「ウィンストン」かと思ったが、農地開拓か何かの記念の様だった。
 
<大谷川を渡る>
 崩野峠を越えて来た県道8号は、川沿いとは無縁である。それでも、三秀台バス停以降、道が少し下り、広い谷間に降りて来る。そこで直角に大谷川を渡る。
   
大谷川を渡る (撮影 2012. 5.11)
   
<大谷川>
 大野川本流の上流部を大谷川と呼ぶ。一部に「五ヶ所川」との呼び名もあるらしい。五ヶ所高原を南北に2分しながら、大字五ヶ所の地を西流する。川は、五ヶ所から更に熊本県を流れ、大分県へと入って行く。多分、大分県に入ってから以降を大野川と呼ぶものと思う。
 
<五ヶ所の中心地>
 五ヶ所の人家は大谷川沿いに集中しているようだ。県道が渡る近辺は特に人家が密集し、五ヶ所の中心地と言ってよさそうだ。 現在、五ヶ所には10か所の集落があるが、昔は5か所で、それが名前の起こりだとする説もあるとのこと。江戸期には五ヶ所村があり、明治22年に田原村の大字、昭和31年からは高千穂町の大字となったのは、河内と同様である。
 
 県道8号が大谷川を渡った先に五ヶ所のバス停が立ち、その付近から大谷川の右岸沿いを遡るのが祖母山への登山道となるようだ。祖母山は大野川本流の源である。
   
<県道の行方>
 五ヶ所バス停前を過ぎた県道8号は、大谷川には見向きもせず、あらぬ方向へと進む。ちょっとした峠を越えて大谷川支流沿いへと下る。そこに高千穂町「ふれあいバス」の終点、原山集落がある。 その付近になると、道は昔ながらの狭い1車線路と変わる。その後も支流間の小さな尾根を越えるアップダウンが続く道で、もう崩野峠とは無縁な感じだ。崩野峠の峠道は、河内と五ヶ所のそれぞれの中心地を結ぶ僅か6km程の区間と考えた方がよさそうである。
   
   
   
 妻推薦の崩野峠であったが、旧道に残る崩野隧道の一風変わった姿以外、これといって面白みが見当たらない。やはり峠道全体に「越え応え」がないのが難点だろうか。 何か魅力が引き出せないかと思ったが、やや残念な結果である。ただ、隧道完成後の早い時期から峠を越える定期バスが運行されていたそうである。 高千穂町市街より祖母山への登山客を乗せた路線バスが、のどかな田舎道を走り、峠の急坂をあえいで登り、狭い崩野隧道を抜けて行く。そんな光景を思い描くと、何となくいとおしく思う、崩野峠であった。
   
   
   
<走行日>
・2012. 5.11 河内 → 五ヶ所 レンタカーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 45 宮崎県 昭和61年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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