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黒姫越
  くろひめごえ  (峠と旅 No.309)
  また一つ、大佐渡山地を横断する峠道
  (掲載 2020. 3.15  最終峠走行 2005. 5. 3)
   
   
   
黒姫越 (撮影 2005. 5. 3)
手前は新潟県佐渡市岩谷口
奥は同市黒姫
道の名は不明(林道)
峠の標高は545m (観光ガイドブックより)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
15年前の峠の様子
去年訪れてみると、峠に通じる林道は全線通行止だった
 
 

   

<掲載理由>
 ドンデン線の峠(アオネバ越)・石名越と続けたので、ついでに佐渡島の大佐渡山地を越える峠を挙げようと思う。アオネバ越・石名越と来れば、位置の順番では大倉越になるのだが、そこには車道が通じていない。そこで一つ飛ばして今回の黒姫越となった。
 
 ただ、去年(2019年)訪れてみると、峠に通じる林道は全面通行止となっていた。入口の様子を写真に撮るだけに終わってしまった。峠には15年前(2005年)に一度だけ登ったことがある。その時も、峠の西側にはまだ雪が残っていて、結局引き返しになった。
 
 もう古いことで記憶は不確かだし、情報も少ない。しかし、今後佐渡に渡る機会はないだろうし、林道が再び開通するかどうかも分からない。そこで簡単ではあるが、今回掲載してしまおうと思うのであった。

   

<所在>
 大佐渡山地のかなり北部に位置し、佐渡島の中でももう北の外れに近い。峠はその山地の主脈を越える。 大佐渡山地の東側は、両津湾から北端の弾崎(はじきざき)まで約30Kmの内海府(うちかいふ)海岸が延びるが、そのぼぼ真ん中にある佐渡市黒姫(くろひめ)が峠の東側起点になる。
 
 一方、大佐渡山地の西側は外海府(そとかいふ)海岸が延びる。その海岸沿いにある佐渡市岩谷口(いわやぐち)が西側起点である。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 黒姫側には黒姫川が流れる。峠はほぼ黒姫川の源頭部に位置する。
 
 岩谷口側には大河内が流れ下る。岩谷口の集落手前で小河内と合流し、日本海に注ぐ。地形図では河口近くの河川名が載っていないが、大川と呼ぶようだ。地図によっては大河内までを大川としている。大河内の方が大川本流ということだろう。
 
 峠は黒姫川水系と大川水系の分水界上にある。

   

<峠名>
 黒姫越は当然ながら黒姫という「地名」から来ているのだろう。文献(角川日本地名大辞典)によると、「地名は戴山から発する黒姫川に由来する(加茂村誌)」とのこと。更に「黒姫川は水の女神黒姫山信仰によるもの」とある。黒姫とは水の女神であった。
 
 尚、黒姫川の源流を「戴山」としているが、地形図にない。南隣の歌見川との分水嶺上に歌見戴(いただき)山(546m)があるが、この山ではないようだ。多分、峠の東の稜線上に631mの山があるが、それあたりが戴山ではないだろうか。
 
 ところで、石名越・大倉越など地名に「越」を付けた峠名では、外海府側の地名を使っている。しかし、今回の黒姫越は内海府側である。他には椿越峠(椿は内海府側)などというのもある。 どちら側の地名を選ぶのか、その理由は分からないが、峠道の成り立ち、利用価値などに関係するかもしれない。
 
<越え>
 尚、文献の大佐渡山地の項には「黒姫越え」と出ていた。その一方、大倉越・石名越・アオネバ越などには「」を付けていない。偶然かもしれないが、古い旅行ガイドブックでも「黒姫越え」になっていた。何か慣習のようなものがあるのかもしれないが、単なる書き方の違いかもしれない。ここでは黒姫越で統一する。

   
   
   

黒姫

   

県道45号を弾崎方面へ進む (撮影 2019.10.30)
歌見を過ぎた所
この先の小さな入り江が黒姫集落
手前に黒姫大橋が架かる

<黒姫へ>
 現在の内海府海岸にはほぼ2車線路の快適な県道45号(主要地方道・佐渡一周線)が北端の弾崎(はじきざき)へと通じる。しかし、歌見(うたみ)から先は大佐渡山地の山々が海に迫り、絶壁となる海岸線が続く。かつては険しい山道を行く交通の難所だったようだ。

   

<黒姫大橋>
 今は黒姫集落に入る手前に立派な黒姫大橋(昭和62年3月竣功)が架かり、何の苦労もない。海側に大きく張り出した、豪快な橋だ。ただ、橋より山側を望むと、通常見られる旧道跡がない。
 
<大山トンネル>
 ちょっと古い道路地図などでは、黒姫大橋の代わりに「大山トンネル」というのが載っている。古い観光ガイドブック(ブルーガイドブックス 17 佐渡・越後路 昭和62年発行 実業之日本)にも「黒姫の大山トンネルが整備され」、交通も便利となったとある。どうやら、黒姫大橋の区間は以前は大山トンネルで繋いでいたようだ。そう言えば、橋の手前でトンネル坑口のような跡も見られたが、もうほとんど草木に埋もれている。


黒姫大橋 (撮影 2019.10.30)
   

<黒姫集落>
 黒姫大橋を渡ると間もなく黒姫集落が出て来る。江戸期からの黒姫村で、明治22年に黒姫から先の内海府海岸沿いの虫崎・北小浦・見立・鷲崎の計5か村が合併して加茂郡内海府村(うちかいふむら)が成立し、旧黒姫村は大字黒姫となる。明治29年からは佐渡郡に所属、昭和29年には両津市の一部となって行く。

   
黒姫集落に入る (撮影 2019.10.30)
   

集落内に通る旧道へ (撮影 2019.10.30)

<旧道へ>
 集落が見えてくると直ぐ、細い道が左に分かれて行く。黒姫集落の人家は、ほとんどがその旧道沿いにある。県道の方は集落を大きく海側に迂回して通る。

   

<旧道の様子>
 旧道側から両津港方向を見ると、かつては道が真っ直ぐ延びていたらしいことが分かる。集落内にはこの道一本が通じていたのだろう。旧道区間は300m余りと短い。そこが黒姫集落の中心地である。


旧道側より県道を見る (撮影 2019.10.30)
左手が県道
かつては真っ直ぐ道が通っていたようだ
   
集落内 (撮影 2019.10.30)
右手に「黒姫」の看板
   

<ここは黒姫です>
 少し行くと、「ここは黒姫 KUROHIME です」の看板が立つ。多くの車は県道側を走り、この看板を見る者はほとんど居ない。 黒姫集落という存在も気付かずに、弾崎や大野亀といった観光地へと、快適な県道を走って行く。私も峠などを趣味とせず、佐渡の普通の観光地を巡っている限りは、黒姫集落に足を踏み入れることはなかった。
 
 
<黒姫川>
 集落のほぼ中央を黒姫川が流れ下って来ていて、そこに黒姫橋が架かる。


黒姫の看板 (撮影 2019.10.30)
   
黒姫橋 (撮影 2019.10.30)
   
黒姫橋を下流方向に見る (撮影 2019.10.30)
向こうにも県道の黒姫橋が架かる
   

「くろひめばし」の看板 (撮影 2019.10.30)

<黒姫橋>
 橋の銘板には「くろひめばし」などとあるが、竣功日を示すものはなかった。一方、県道側にも並んで橋が架かる。そちらも同じ名の黒姫橋で、平成8年3月竣工とのこと。1996年に集落をバイパスするように県道が付け替えられたようだ。それ以前は集落内の道を誰もが使っていた訳である。

   

<旧道の反対側>
 今回はうっかり旧道に入り損ね、虫崎(むしざき)まで行ってそこから引き返して来た。
 
 黒姫と虫崎の間も険しい。しかし、現在は内海府トンネル(2009年3月竣功)が開通していた。ついでなので、トンネル区間を旧道で引き返そうとしたのだが、途中で通行できなかった。もう、二度と使われないのではないかと思われるような寂れかただった。


弾崎方面からの旧道入口 (撮影 2019.10.30)
   

旧道側から弾崎方面を見る (撮影 2019.10.30)
隣村の虫崎までもかつては険しい道だった

<虫崎側から集落へ>
 虫崎方面側から入る旧道は特に狭い。人家の軒をかすめるように道が通じる。
 
 運の悪いことに、道の途中に軽自動車が停まっていた。荷物でも降ろしている様子だった。脇にそれて待っていると、近くの人家に乗り入れて行った。
 
 この小さな集落では我々は完全によそ者である。見慣れぬ車が入って行けば、住民から不審者と思われるかもしれない。遠慮がちに車を進める。

   

集落内の様子 (撮影 2019.10.30)
道は狭い

途中に車 (撮影 2019.10.30)
   

<黒姫橋左岸袂>
 黒姫川左岸の袂には三晃荘という民宿らしい建物が立つ。

   

黒姫橋手前 (撮影 2019.10.30)

右手に三晃荘という民宿がある (撮影 2019.10.30)
   
黒姫橋より虫崎方向に見る(撮影 2019.10.30)
峠へは三晃荘の脇を行く
   

<峠道起点>
 黒姫越への道はその三晃荘の脇を通って左岸沿いに遡って行く。この黒姫橋左岸袂が黒姫側の峠道起点である。これからいよいよ黒姫越の峠道だ。まずは黒姫橋の上から峠方向を眺める。左岸沿いにコンクリート舗装の寂れた狭い道が延びて行く。

   
黒姫橋より上流方向を望む (撮影 2019.10.30)
   

<通行止>
 ふと見ると、数10m程行った道の真ん中に何か看板が立っている。よくよく眺めると、「通行止」とある。峠道では日常茶飯事のことだが、やはり残念である。看板の前まで行くほどでもないと判断、黒姫越はあっさり諦めたのだった。


通行止の看板が立つ (撮影 2019.10.30)
   
   
   

黒姫より峠へ

   

<黒姫より>
 以下は15年前の写真である。川沿いに何本も横木を渡した柱が立っている。これは稲木(いなぎ)などとも呼ばれ、刈り取った稲を天日干しする時に使う物と思う。 黒姫川沿いにも僅かに田んぼはあるが、その上流部に大きな棚田が広がる。そこで採れた稲を干すのだろう。現在の黒姫川沿いにはその稲木は見られなかった。

   
黒姫橋より峠方向を望む (撮影 2005. 5. 3)
川沿いに稲木が並ぶ
   

道の様子 (撮影 2005. 5. 3)

<黒姫川沿い>
 道は黒姫川沿いに2Km程遡る。道はコンクリート舗装だったようだ。狭い谷に一筋道が通じる。黒姫越を越える林道の名やその開通年などは全く分からない。 少なくとも中腹にある棚田までは、早くに車道が通じていたことと思う。但し、古い道路地図では、全く道が描かれていないことも多い。
 
<黒姫越について>
 黒姫越に関しては、ほとんど何の情報もない。前回の石名越などは大佐渡石名天然という観光資源があり、そのお陰で林道が整備され、看板やパンフレットによるPRも行われている。 一方、この黒姫越にはそんな観光名所などはない。最近の旅行ガイドで、黒姫や反対側の岩谷口が紹介されているのを見ることはまずない。 文献でも大佐渡山地の項で、「北部の刃切山・樅木平山・立ケ平山は300〜500mであるが黒姫越えから南は800mと高度を増し、中央部の金北山・妙見山で最高」と僅かにその名が見えるのみだ。

   

<林道開通>
 ところが、古い旅行ガイドブック(昭和62年発行)にはズバリ「黒姫越え」と題して短文が掲載されていた。それによると、「現在、林道工事が進められており車の通行も間近」とある。本の発行年からして、1987年以降に林道が開通したものと思う。
 
 道は川沿いを離れ、山腹を登りだす。コンクリート路面が剥がれ、荒れた区間もある。

   
道の様子 (撮影 2005. 5. 3)
少し荒れている
   

<棚田>
 標高で300m前後の高地に棚田が広がる。道はその中を通る。峠の標高が545mなので、中腹以上である。黒姫集落からは3Km以上の道程になる。

   
広々とした棚田に出る (撮影 2005. 5. 3)
   

<棚田の中を行く>
 石名越の和木(わき)側にも同じような棚田が見られた。集落からは離れた山腹である。こうした稲作は古くから行われていたのかと思っていたら、どうやら明治中期くらいからだったようだ。 大規模な棚田の開拓技術やそこまでの移動手段が、明治期以降ではなければ発達しなかった為だろうか。

   
棚田の中を行く (撮影 2005. 5. 3)
道は未舗装となった
   

<棚田を見渡す>
 棚田の中を抜けて一段高い所に出ると、棚田全体が見渡せるようになる。15年前に訪れた時は田に水が張られ、清々しい水田の景色が広がっていた。石名越の和木の棚田も同様だった。
 
 しかし、去年訪れてみると、和木の棚田はもう耕作が行われている様子はなかった。一部は荒地になっていた。過疎と高齢化の影響だろうか。 もしかすると、黒姫のこの棚田ももう休耕地となっているかもしれない。麓の黒姫川沿いに稲木が見られなかったのはその為か。そもそも、道が通行止になっていたが、黒姫の住民がこの地を訪れることはもう滅多にないのかもしれない。

   
棚田を見渡す (撮影 2005. 5. 3)
   

棚田以降の道 (撮影 2005. 5. 3)

<棚田以降>
 棚田を過ぎると峠直下の急斜面を登り始める。地図を見てもウンザリするような九十九折りである。現在の地形図でも一本線で描かれる軽車道となっている。まともな車道ではない。土が露出した未舗装路である。
 
 この時は、結婚前の妻と二人での旅だった。尖閣湾などの一般的な観光地ならまだしも、こんな険しい林道に巻き込んでしまった。やや申し訳ない気持ちである。

   

<分岐>
 途中、右手に分岐がある。大佐渡山地の稜線沿いに北へ進む林道だ。この時は入口を重機が塞ぎ、通行止であった。
 
 地図を見ると、北の山居越(さんきょごえ)方面へと繋がっている。古いツーリングマップルにはない道で、比較的新しい開削だろう。ただ、この黒姫〜岩谷口間の林道が通行止となると、山居越側からも進入禁止になっているかもしれない。


右に分岐 (撮影 2005. 5. 3)
工事で通行止
   

<積雪>
 それまで雪はほとんど見られなかったのに、突然長さ10m位の路面に雪が積もっていた。しかし、轍の跡もあり、この程度なら問題ないとゆっくり雪に乗り上げた。すると積雪の只中でタイヤが空転し、進退が極まってしまった。これには慌てた。
 
<キャミ(余談)>
 当時はトヨタのキャミに乗っていた。ダイハツのOEMでダイハツではほぼ同じ車をテリオスの名で供給し、その軽自動車版はテリオスキッドいった。キャミの最大の特徴はセンターデフのあるフルタイム四駆であることだ。
 
 それまではパートタイム4駆のジムニーを乗り回していたが、時々問題が起きた。舗装と未舗装が頻繁に繰り返される路面では、その都度2駆と4駆を切り替えなければならない。 誤って4駆のままグリップの良い路面に上がると、急カーブでエンストしてしまう。タイトコーナーブレーキング現象などと呼ぶ。 センターデフがないので前輪と後輪の回転差を吸収できず、止まってしまうのだ。一方、アイスバーンでうっかり4駆に入れ忘れていると、加速時にグリップを失い、大変なことになる(経験者)。 更に、単にレバーを2駆の位置に戻したからといって、必ずしも2駆に戻るとは限らないことだ。トルクが利いている時は、ギヤが噛み込んで外れないのだ。直線路で加速したり減速したり、車を揺動させてやっと外れる時がある。
 
 その点、キャミはフルタイム4駆である。舗装路・未舗装路・アイスバーン、どんな路面でも何も考えず、何もせずに走っていればよい。ところが、そのセンターデフが悪さをする。 全輪が積雪の上では、前輪か後輪か、どちらかグリップが悪い方が空転してしまい、動けなくなるのだ。こんな場合、かえってパートタイム4駆のジムニーの方が、何でもなく走れたのである。
 
 しかし、その点は抜かりがなかった。センターデフ・ロックというオプションを装備していたのだ。そのスイッチを押すと、センターデフを無効にしてくれるという優れものだ。 これを使えば問題解決なのだが、キャミを購入して以来、そのスイッチは一度も押したことがない。動転していたこともあり、その存在さえすっかり忘れていたのだった。
 
 雪上で立ち往生したキャミは前にも後にも進んでくれない。グリップを確保する為、砂や毛布などをタイヤと雪の間に挟めばいいのだが、適当な物が見当たらない。 結婚前の妻を連れ、この誰も来ない山の中から、果たして抜け出せるのかどうか。不安は募るばかりだ。妻には無事に麓まで連れ戻すと言いながら、何の方策も浮かばない。
 
 仕方なく車に一人乗り込み、前進と後進を小刻みに繰り返し、車を振り子のように動かす。すると少しづつ雪がつぶしていき、遂には積雪区間を抜けることができた。しかし、その時はもう精も根も尽き果てていた。

   

ゲートの道 (撮影 2005. 5. 3)

<峠直前>
 峠に差し掛かる直前、今度は左に稜線を南へと進む道が分岐する。入口のゲートは半分壊れていた。こちらもまともに走れそうな道ではない。地図を見ると、行く行くは大倉越に達し、大倉側に下って大倉川沿いの大倉林道に接続するようだ。ツーリングマップルでは「黒姫〜大倉ダート21.1Km」と載っていた。

   
峠を背に黒姫方向を見る (撮影 2005. 5. 3)
峠道は左へとカーブして下って行く
右に分かれる道は稜線沿いを南の大倉越へ
   

<黒姫側の様子>
 古い旅行ガイドブックでは、「峠からの眺望は雄大ですばらしい。晴れた日には秋田、山形県境にある鳥海山が望まれる」とある。本州が見えるのは黒姫側になるが、そんな展望は広がらなかったように思う。車道開通前のことで、峠の様子も当時は違っていたのかもしれない。あるいは、どこかの峠と勘違いしているのかとも思った。

   
   
   

   

<峠の様子>
 峠は浅い切通しになっている。荒れて寂れた未舗装林道が大佐渡山地の稜線を越えて行く。道の西側には柵が張り巡らされていて道は狭苦しいが、頭上の空は開けている。 少し前までは両津市大字黒姫と佐渡郡相川町大字岩谷口との市町境であった。しかし、境を示す何の看板もなく、寂しい限りだ。路面には薄っすら雑草も生え、あまり使われている峠とは思われない。

   
黒姫側から見る峠 (撮影 2005. 5. 3)
   

<標高など>
 東の631mの山と西の三角点のある602mの山との鞍部に峠は位置する。比較的なだらかな鞍部である。標高は古い旅行ガイドに545mと出ていた。現在の地形図を見ても540mを少し超えた辺りで、545mは信用できそうだ。
 
 地形的に見ても、現在の車道の峠は古くからの黒姫越と場所は一致するものと思う。林道開削で稜線を少し掘り下げたくらいだろうか。

   
黒姫側から見る峠 (撮影 2005. 5. 3)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠の岩谷口側>
 峠の岩谷口側では急な谷が下って行く。谷が複雑に曲がっているので、あまり遠望はない。道はその谷を大きく蛇行して進む。

   
峠を背に岩谷口方向を見る (撮影 2005. 5. 3)
   

<旧道>
 地形図には岩谷口側のみ、徒歩道の旧道らしき道が描かれている。峠からは直ぐに車道から分かれ、最短で大河内沿いへと下って行く。但し、その下り口付近は草に覆われ、道らしき痕跡はもう確認できない。

   
岩谷口側から峠方向を見る (撮影 2005. 5. 3)
旧道はこの右手の谷へと直接下って行ったようだ
   

<峠の役割>
 ここより南に位置する大倉越・石名越・アオネバ越に関しては、文献は「国中平野と北部沿岸の海府方面を結ぶ重要な交通路であった」と記す。 黒姫越についても、ほぼ同じような役割があったのではないかと思う。 佐渡の中心地ともなる国中平野から黒姫までもなかなか険しい陸路だが、更に大佐渡山地の反対側の岩谷口方面は容易に辿り着ける地ではなかった。 現在は立派な県道45号・佐渡一周線が弾崎経由で外海府へと繋がる。それでも岩谷口から北は今でもなかなか険しい道である。
 
 黒姫越は大きく弾崎方面を迂回することなく、最短で内海府の黒姫と外海府の岩谷口を繋ぐ。大倉越以南が標高700〜800mの高所を越える峠であるの対し、黒姫越はやや標高が下がるのも利点だろうか。

   
岩谷口側から見る峠 (撮影 2005. 5. 3)
   
   
   

岩谷口側

   

<道の様子>
 路面に薄く敷かれた砂利の間から草も伸び始め、寂れた様子は否めない。黒姫側では途中に棚田や稜線方向に分岐する林道もあり、道の保存状況はまだ良かったが、岩谷口側はあまり利用されることがないのだろうか。

   
岩谷口側に下る道 (撮影 2005. 5. 3)
   

<眺め>
 峠の岩谷口側はほとんど展望がない。前面に大河内と小河内の分水界となる尾根の連なりが辛うじて望める。その手前の大河内源流の谷は、草木が多くて底が見えて来ない。

   
岩谷口方面を望む (撮影 2005. 5. 3)
   

<作業道>
 数100m程下ると、左に作業道が分岐していた。地形図にはない道だ。あまりの険しさに唖然とする。車は便利な道具だが、道以外は走れない。

   
険しい作業道を見る (撮影 2005. 5. 3)
本線の林道ではない
   

<道の様子>
 谷底に向かって暗い林の中を進む。道の荒れ方は酷くなる一方だ。岩谷口は大佐渡山地の北西側になる。日当たりは良くない。するとまた嫌な物が見えて来た。

   
ここは2ヶ所目の積雪箇所 (撮影 2005. 5. 3)
   

<また積雪>
 またもや雪溜まりが現れた。その先を見ると、荒れた道が下って行く。目の前の雪を乗り越えたとしても、今後、どんな困難が待ち受けているか分かったものではない。もう午後4時を過ぎ、夕暮れまでに時間もない。
 
 この時点であっさり諦めた。引き返すことにしたのだ。帰りにまた例の積雪箇所を通らなければならなかったが、一度轍の跡がはっきり刻まれたので、勢いをつけてそこを通るとすんなり越えられた。


ここは乗り越えなかった (撮影 2005. 5. 3)
   
   
   

岩谷口

   

<岩谷口へ>
 ほとんど通れなかった岩谷口(いやわぐち)側であるが、その林道入口程度だけでも見てみようと思う。外海府海岸沿いの県道45号を相川市街方面から弾崎方面へと進む。 五十浦(いかうら)の集落を過ぎると、前方の海に突き出た押出岬の断崖が目に入って来る。その手前に岩谷口の集落がある。

   
県道45号を相川市街方面から弾崎方面へと進む (撮影 2005. 5. 3)
この前方の集落が岩谷口
   

<岩谷口>
 江戸期からの岩谷口村で、かつて海府24村と呼ばれた純朴な集落の一つであった。 明治22年に外海府北部の小田(こだ)から願(ねがい)までの9か村が合併して外海府村(そとかいふむら)ができ、旧岩谷口村は大字岩谷口となった。 岩谷口はその外海府村のほぼ中間点に位置する。最初は加茂郡、明治29年からは佐渡郡に所属。昭和31年には相川町の一部となって行く。

   
岩谷口の看板が立つ (撮影 2005. 5. 3)
   

<岩谷口の看板>
 県道沿いに「ここが 岩谷口 IWAYAGUCHI です」の看板が出て来る。通常は「ここは」だが、「ここが」というのは珍しい。県道沿いに細長く人家が点在し、黒姫よりは規模が大きな集落に見える。
 
 この岩谷口に関しては古い観光ガイドブックに少し掲載がある。相川市街方面から外海府の景勝地である大野亀や二ツ亀への観光の中継地点的な役割があったようだ。 岩谷口から北の海岸線は険しく、近年になって岩谷口から鷲崎(弾崎の先)までに外海府周遊道路が完成し、狭いながらも舗装された道が通じたそうだ。現在、外海府周遊道路は県道45号の一部になっている。


岩谷口の看板 (撮影 2005. 5. 3)
   

集落内で道が狭くなる (撮影 2005. 5. 3)

<集落内>
 岩谷口の地名の由来は、集落の外れに波浪の浸食でできた岩窟が沢山あることによるのだろうとしている。また文献でも、「地名は、北の海岸にある大きな岩屋洞穴にちなむ」と出ている。
 
 集落を進む内に、それまで立派な2車線路だった県道が急に狭くなる。慎重に進むこととなる。

   

<分岐>
 道が狭くなってから直ぐ、右手にコンクリート舗装の道が分かれて行く。側らに岩谷口バス停が立つ。

   
右に分岐 (撮影 2005. 5. 3)
   

<岩谷口側起点>
 そこが黒姫越の林道の岩谷口側起点となる。ここから大河内沿いに遡り、峠を越えて黒姫に至っている。残念ながら今は入口に通行止の立て看板が立っている。再びこの林道が開通日は来るのだろうか。
 
 
<大川>
 大河内の本流となる大川は、集落を少し北に外れた所を流れ下って来ている。この付近ではまた立派な県道に戻っている。


通行止の看板が立つ (撮影 2005. 5. 3)
   
大川 (撮影 2005. 5. 3)
この先の地形は険しそうだ
   

跳坂途中より岩谷口集落を望む (撮影 2005. 5. 3)

<跳坂(余談)>
 岩谷口を北に過ぎた県道は、押出岬の険しい崖を登って行く。「跳坂」という呼び名もあるようだ。かつての外海府周遊道路の難所である。坂の途中からは下の海岸沿いに佇む岩谷口集落を一望する。その奥には大佐渡山地の山並みが内海府側とを隔てて連なっていた。

   

 かつては黒姫越を通し、黒姫と岩谷口という小さな村同士の行き来が行われ、同時に広く国中平野と外海府方面との人や物資の交流もあったものと思う。近年になって峠にも車道が通じた。 一方、海府海岸沿いに点在する集落を繋いだ県道45号が改修に改修を重ねて行く。現代の車社会では険しい林道の黒姫越よりも、距離は長くとも快適な県道の方が格段に便利である。
 
 更に最近は山中の棚田の耕作が行われなくなり、林道保守の費用的な問題もあるのだろう。折角峠に開通した林道も今は通行止となっている。もう歩いて峠越えをする者などいない。 かつては黒姫と岩谷口の集落は黒姫越を通じて近しい間柄だったかもしれないが、その関係も薄れて行ったのではないか。黒姫越はほぼその歴史を閉じたと言えるのではないか。

   
   
   

 これでまた一つ、心残りが減ったような気がする。一つの峠に関し、書きたいことをあれこれ吐き出せば、それで気が済む。今回の黒姫越についても、これからはあまり思い出すことはないだろう。
 
 最近の黒姫越については何も分からず、15年前の旅の経験だけが頼りだった。それでも、峠の様子などを何枚かの写真に収めてあったのは幸運だった。峠を越える林道が通行止となった今では、なかなか貴重な写真ではないかと思う、黒姫越であった。

   
   
   

<走行日>
・2005. 5. 3 黒姫側より峠まで往復 キャミにて
・2019.10.30 黒姫側・岩谷口側の林道入口を通過 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・ブルーガイドブックス 17 佐渡・越後路 昭和62年発行 実業之日本
・佐渡島の観光パンフレット各種
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2020 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
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