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山王峠
 
さんのうとうげ
 
鬼怒川の最深部・川俣温泉へと通じる峠道
 
 
 
山王峠(車道の峠) (撮影 2005.10.30)
奧が日光市高徳こうとく
手前が同市(旧栗山村)川俣温泉方向
標高は約1,730m(地形図より読む)
道は山王林道(または奧鬼怒林道)
 
 
 
 いつも思うことだが、旅先で初めて訪れた峠の印象が後々までも強く残るようだ。それでいて峠や峠道の様子などあまり詳しいことは覚えていなかったりする。二度目に訪れた時、こんな峠だったのかと、記憶と違うことにびっくりすることもある。詳細は覚えていなくても、ある漠然とした印象、あるいはス ナップ写真の様にある一場面だけが強く脳裏に焼きつくことがある。それはやはり初めて旅をした時である。
 
 この山王峠を初めて越えたのは1992年の初秋の頃だった。今は亡き愛車ジムニーを駆り、つい最近日光市と合併したらしい旧栗山村側からアプローチした。辺ぴな峠道などを巡るこんな旅を始めた当初、 旅をするのが精一杯、車やバイクを走らせるのが精一杯、という状態だった。ほとんどが初めて訪れる所ばかりで、道も分からず土地勘もなく、常に不安が付きまとう。次々と目の前に現れる状況に対処するのが忙しく、あまり写真を撮っている余裕もない始末。この時も、福島県から県境の安ヶ森峠を越えて栗山村に入り、湯西川温泉を抜けて馬坂林道を通り、川俣湖に架かる川俣大橋の袂まで来ると、さすがに一息入れずにはいられなかった。どこも初めて通る所ばかりで緊張の連続だったのだ。
 
 川俣湖の周辺には人影もなく、湖面は寂しい山の景色を映すばかりである。吊橋構造の川俣大橋の写真を撮ったりして一休みすると、橋を渡る県道を更に鬼怒川の上流部へと進む。この道は地図では一応主要地方道になっているのだが、細く狭く曲りくねり、車一台がやっと通れるような箇所も少なくない。行く手には川俣温泉と言うのがあることになっているが、本当にこの先、人が住んでいる所などあるのだろうかと疑いたくなる始末。周囲の景色に目をやる余裕もなく、ただただジムニーを慎重に走らせる。
 
 到着した川俣温泉は、思いの外、大きな温泉地だった。ひなびた湯治場風の旅館を想像していたが、大きな鉄筋コンクリートの建物が狭い渓谷に並んでいて、拍子抜けだっ た。川俣温泉からは、西へ奧鬼怒スーパー林道 なるものが更に続いて走っているらしいが、一般車は通行禁止である。残るは南へ山王峠を越えて奧日光へと出る山王林道だけだ。それがなければ川俣温泉は言ってみればどん詰まりの地なのである。
 
 さて、その山王林道は普通に通っていい道なのかどうかも分からない。しかし、会社の休日は今日が最後。今日中には帰宅しなければならないのだ。近くに間欠泉があるということも知らず、渡った橋が噴泉橋と言う名であることも知らずに、寂しい林道の入口を入った。
 
 山王林道は山間を縫って登るなかなかの山岳道路であった。ただただ夢中で車を走らせる。途中、林道記念碑があり、そこで一度車を止めたくらいで、後は車一台通らない寂しい林道をひたすら走り通した。峠の様子もほとんど記憶にない始末。しかし、峠を越えて日光側に下ると、そこは日本有数の観光地。戦場ヶ原などがある奥日光。休日を行楽で過ごす人が多数訪れていて、別天地の感だ。こうなると、もう旅をする気分ではない。まだ有料であった金精峠を抜け、さっさと帰宅の途に就いた。後には峠の栗山村側でのさびしい印象が強烈に残った。
 
 今回 (2005年10月)の山王峠はこれで三度目になった。過去二回の峠越えにも関わらず、肝心な峠部分の記憶が完全に抜け落ちているのだ。どんな峠だったか全く覚えていない。あろうことか峠の写真も一枚もないのだ。栗山村が寂しいということばかりに気をとられ、峠自身にはあまり注視してこなかったのだ。そこで今度はじっくり峠を拝見しようという訳だ。
 
 また調べてみると、古い峠がまだ残っているらしい。ついでにそちらも訪 れたい。峠の旅で下調べなどすることはこれまで全くなかったが、何度も同じ峠を訪れる時、峠を見る観点が変わって、旅がマンネリにならずに済むのはいい。
 
 尚、同じ山王峠と言う峠が栃木県と福島県の境 にあるが、そちらはれっきとした国道121号の峠で現在は山王トンネルが抜けている。旧道もあったようだが、今では車は全く入れない。今回の山王峠と場所も近いとあって、取り違えないとも限らないので念の為。
 
 
奧日光から峠へ
 

左に山王林道
(国道120号を日光市街方向に見る)
<山王林道の分岐点>
 
 無料になった金精峠を大手を振って越えると奧日光だ。いつもながら休日には人が多く、国道120号の通行量はなかなかのものだ。直線的に伸びる国道の途中より、山王峠への道は分岐する。入口は広いが目立った道路標識がなく、「あれ、ここで良かったかな?」と思わず車を止めて確認したくなる。車を降りて外に出ると、道路上からは林に隠れて見えないが、周辺は戦場ヶ原の広大な湿原が広がり、野外派(アウトドア)向きの雰囲気が漂う。
 
 峠道に入った直ぐ先には、光徳牧場などがあるので、入口にはそれらに関した案内看板が立つ。それを眺めて、これが山王峠への道であることを確信する。
 
<案内看板>
 
 入口の右手に比較的大きな案内看板が立つ。そこに並んだ案内文の最後には、「山王峠、川俣温泉」の文字も見える。
 
 日光国立公園 光徳温泉入口

 光徳クロスカントリースキー
 日光アストリアホテル
 光徳沼 光徳牧場
 山王峠 川俣温泉
 
 道の入口で暫くうろうろしていると、道端の草の中に倒された冬期通行止の看板を見つけた。光徳から栗山村川俣(噴泉橋)(約21km)までが毎年通行止になるらしかった。前年の看板かと思ったら、「平成17年12月15日から平成18年4月28日」とあり、訪れたのが平成17年の10月だから、驚いたことにこれから使う物らしかった。


入口の看板
 

峠道の入口
山王峠方向に見る
林に挟まれた直線路が伸びる

峠道の入口
右側の矢印看板には「戦場ヶ原・光徳方面歩道」とある
これから訪れる旧峠も歩道となっている
 
<道の名>
 
 国道から分かれた道は、まだ山王林道とは呼ばないようだ。この先にあるゲート箇所に林道標識がある。国道からゲートまで2キロ程の短さで、地図などには名前の記述は見当たらない。道路脇に道の用途及び面積を示した木柱が立ち、それには「逆川光徳線」と書かれていた。逆川とは道の北側を流れる川である。あるいは国道から峠道が分岐するこの付近の地名を指すのだろうか。
 
 逆川光徳線は両側を林で囲まれ、ほとんど視界が広がらない。でも、秋の日などには落ち着いた雰囲気が漂い、特に国道から外れた静けさがうれしい。
 
 
<光徳園地>
 
 暫く行くと、右手に大きな駐車場があり、その周辺は光徳園地となっている。隣接して光徳温泉の宿泊施設などもあるようだ。園地の駐車場は広くて無料だし、立派なトイレもある。これから始まる長い峠の旅の前に、ちょっと立ち寄るには好都合である。私も小用を済ませる。この先峠道沿いにはトイレは見当たらない。
 
 園地は静かな秋の一日を自然に囲まれてのんびり過ごすにはよさそうで、子供を連れた家族などを見かけた。

奥日光案内図
 

光徳園地(案内図の部分拡大)

光徳園地の駐車場
アスファルトの上には落葉がたまり、秋の雰囲気だ
 

左に光徳牧場へ
大きな看板がある
<光徳牧場>
 
 光徳園地の駐車場を過ぎた直ぐ先に、今度は左に光徳牧場への道が分岐する。車道上からは牧場の様子は伺えないが、一般者も迎え入れてくれるようだ。
 
 この付近からは林の間を通して、前方に山並がのぞく。だんだん峠道の雰囲気となる。
 
<ゲート箇所>
 
 さて、いよいよ山王林道の始まりである。ゲートが出てきた。上に掲げられた道路標識には、「栗山43km、川俣21km」と書かれている。ここまでは光徳温泉や光徳牧場を訪れた車が行き交うが、ここから先は川俣温泉に抜ける一本道だ。奥日光を訪れた観光客も、このゲートから先にはあまり入って来ないだろう。こちらは今晩、川俣温泉に宿を取っているのだ。
 
 林道は冬季間は積雪の為通行止で、このゲートが閉まることになる。ここから峠の反対側の川俣温泉まで、山王峠は車を寄せ付けない冬の峠となるのだ。

ゲート
 

林道看板
林道奥鬼怒線 日光市中宮祠 起点
柱の右側には標高が書かれている
<林道の名前>
 
 ゲートの脇には林道標識や「奥鬼怒林道、光徳側入口」と書かれた看板があり、林道名は奥鬼怒線ということになっている。しかし古いツーリングマップには山王林道と書かれ、奥鬼怒林道と併記されていた。山王林道とだけ記載された地図も持っている。
 
 奥鬼怒林道と言えば、川俣温泉から更に西へ、群馬県へと抜ける比較的最近に開通された大規模幹線林道である。これは想像だが、多分、もともと山王林道として開削された道が、後に造られた奥鬼怒林道の一部に組入れられ、全体で奥鬼怒林道と呼ぶのではないだろうか。
 
 一般車通行止の新しい奥鬼怒林道と一緒くたの名前ではややさびしい。奥鬼怒とう名前自身も何だか取って付けたようで味気ない。それに、峠道の部分だけを考えたら、やはりこの道は山王林道と呼びたい気がしてくる。
 
<峠への登りが始まる>
 
 「林道奥鬼怒線」と銘打つ看板には、標高1,460メートルと書かれていた。峠の標高が約1,730だから高低差270メートルという計算になる。車道の峠としてはそれ程の高さではない。実際にも峠まで、それ程ストレスなく辿り着ける。
 
 林道の様子は、さすがに奥日光の観光地から離れ、センターラインもない狭い道で、道の格としては明らかに下がってくる。しかし、舗装はよく整備され痛んだ箇所もない。現在はこのまま川俣温泉まで全線舗装済みである。1992年に訪れた時は、やっぱりこれもはっきりと記憶にないのだが、何となく全て舗装されていたように思う。但し、その直前に未舗装の多い安ヶ森林道や馬坂林道を通って来ていたので、ちょっとくらい未舗装区間があっても、もう眼中になかったかもしれないが。

ゲートを過ぎた峠道の様子
 

前方に三角形の山
 道ははっきりした勾配を示し、いよいよ峠道らしくなる。時折前方に三角形をした山影がのぞく。峠の東に位置する山王帽子山だろうか。道の交通量は極めて少ないが、峠までの間に都合3、4台の車とすれ違った。本日は日曜日とあって、休日を栗山村で過ごした観光客が帰って来たのだろう。ここは名前こそ林道だが、誰しも立派な舗装路だと知っているのか、通るのは普通の乗用車ばかりである。意気込んでやって来る4WD車などはいない。
 
 光徳側から山王峠まで、峠道にありがちな深い谷を見下ろすこともなく、下界に視界が広がることもなく、比較的緩やかな山腹をジグザグに縫って登る。険しい林道や峠道を目当てでやって来た者にはやや物足りない面はあるが、それでも、登りの半分くらいから九十九折が連続する所もあり、それなりの峠道ではある。
 
 途中、左に登山口があり、「太郎山」とある。車道から直ぐに笹の中に入っていく登山道で、ややもすると見落としてしまう。多分、山王帽子山を経由して太郎山に行き着く登山道だろう。地形図にその山道が載っている。
 
 道を走りながら峠はどこかと目を凝らすが、なかなかその所在ははっきりしない。空が広がり、道の勾配もやや穏やかになってきたかなと思うと、峠らしい箇所を通過した。

峠の直前
 
 
 峠に到着
 

光徳側から峠のピーク付近を見る
<峠>
 
 実は、峠が何となくはっきりしない。道の峠の付近は平坦な区間が長く、ここが標高で一番高いピークだと簡単に断定できない。車で走っていても、あれよあれよと言う間に道が下りだすので、峠が過ぎたことは認識するが、どこがそうだったか分からない始末だ。これまで二度、山王峠を越えてきたが、峠の記憶がないのがよく分かった。これではあまり印象に残らない。はっきり言って、峠自身は魅力がないのだ。
 
 道が明らかに下りだした地点で、左側に「湯元光徳線歩道」と書かれた看板が立っている。そんな看板もあることだし、この付近が山王峠だと思って、納得することにする。
 
<峠付近の地形>
 
 山王峠は東の山王帽子山と西の三岳(みつだけ)とのほぼ間に位置する。山王峠が峠らしくないのは、地形図を見ると分かる。大抵の峠は境となる稜線上の少し窪んだ「鞍部」(あんぶ)と呼ばれる所を越えていて、等高線から峠の箇所を指し示すのはいともた易い。 ところが、この山王峠は等高線が複雑に入り組み、何が何だか分かり難い。等高線のどちら側が高いのか低いのかさえも読み取れないくらいである。それ程複雑な地形をしている。
 
 その複雑さの主な原因は、峠に隣接して涸沼(かれぬま)と呼ばれる窪地が存在する為だ。涸沼から流れ出す川はなく、涸沼の周辺は全て涸沼より高くなっている。峠の近くにこうした地形が見られるのは珍しい。
 
 そんな関係で、今は日光市となった旧栗山村と日光市の境も、この峠にはない。車道を峠から更に1kmほど進んだ所に市村境はあった。これでは峠の印象が薄くなるのも仕方ない。

峠のピークを過ぎ、道は下り始める
 

峠より川俣方向を見る
左に旧峠への歩道がある
<峠の歴史>
 
 山王峠の道は、元々奥日光と川俣の集落をつなぐ生活道か何かとして切り開かれたのかと思ったら、そうではなかった。引化年間(1844〜48年)頃に栗山村川俣字西沢に西沢金山が発見された。鬼怒川の支流・門森沢の源流、標高約1,500m付近だそうだ。本格的な採鉱は明治26年に川俣の村民が採鉱出願を申請して以降だが、山王峠は西沢金山の鉱石運搬用路として開かれたのだ。金山の発見により生まれた峠道だった。
 
 西沢金山は明治30〜34年には精錬も試みられ、明治39年には株式組織の西沢金山採鉱会社が発足している。明治41年には豊かな鉱脈が見つかり、最盛期となる大正4年頃には戸数200戸以上、人口1,300人余となる大きな鉱山集落ができ、栃木県下でも代表的な金山となった。
 
 しかし、大正10年頃から鉱脈が枯渇し休鉱も止む無しとなり、昭和期に入って再開したものの振るわず、遂に廃坑となった。今はもう全く鉱山集落の面影をとどめない。
 
 大正期以降、金山の衰退と共に山王峠の道も荒廃していった。同じく鉱山とつながりの深い峠として毛無峠を思い出す。地元民の生活路として切り開かれた峠とは、やはりどこか趣が違うように思われる。鉱山と運命を共にしなければならなかったことも哀れに感じる。
 
 金山が元で開削された峠道であったが、第2次大戦後は光徳から西沢金山の間に築かれた道を基に、川俣温泉まで通じる道として、林業と観光開発を目的に改修・整備が進められた。そして林道として昭和39年には完成している。その後、一時期は環境保護の為、一般車は紅葉期だけの通行に限られたことがあったそうだ。今は冬季の通行止だけで、基本的に一般車も通ってよい林道である。

峠を川俣方向から見る
 

歩道を涸沼方向に見る
<峠の様子>
 
 車道からはあまり眺めがない。両側を高いコンクリート壁でふさがれていて、ほとんど何も見えない。峠の前後からも遠望はきかない。峠の川俣側はやや開けているが、この先旧市村境に向けて一旦下り、そしてまた登り返すということもあり、遠くに山並みを望む景色が広がる訳ではない。ただただ山の中だ。
 
 峠の周囲はダケカンバなどの原生林が覆う。涸沼などの存在もあり、何となく荒々しい感じを受ける。日光火山群の険しい地形を垣間見る。
 

湯元光徳線歩道の看板
<旧峠への歩道>
 
 車道の峠はあまり趣きがないが、こんなこともあろうかと画策してきたのが旧峠を訪れる案だ。やや時間も押して余裕がないが、今日は川俣に下ればそこに宿が待っている。それを頼りに少し時間をかけて旧峠を訪れることとする。
 
 「湯元光徳線歩道」と書かれた看板から、二手に歩道が延びている。一方には「涸沼 0.8km」と標識にある。もう一方には「湯元 5.3km」とある。旧峠へは湯元方向に少し車道を戻る方向に進めばよい。
 
 
 
地図の拡大 (撮影 2001. 7.29)
右が北方向
 
 
 旧峠へ寄り道
 
 旧峠へと歩道を歩き始めると、歩道の両脇は熊笹が生い茂り、何となく薄気味悪い。旧峠までどのくらいの距離があるかも分からないので、やや不安がある。道は車道とほぼ平行に進んでいるようだが、車道より少し高いせいか、周囲に少し眺めが広がる。左手(東)に山を望む。多分山王帽子山だろう。
 
 暫く歩いていると、やっぱり不安になってきた。クマのことである。最近はクマの被害が多いと聞く。車から離れてこうした山道を歩いていると、やっぱり気になってくる。無防備なのはまずい。それならどうしたものか。その時、名案が浮かんだ。同伴の者が護身用にと防犯ブザーを携帯していた。100円ショップで買ったもので、いざと言う時に紐を引き抜くと、それなりに大きな音がする。そのブザーにはテストボタンがついていて、それを押しても音がする。歩道を歩きながらそのボタンを時々押すこととした。迷惑な話かもししれないが、しばしの間、旧山王峠の道にはブザー音が鳴り響くこととなった。

歩道から山王帽子山(?)を望む
 

看板
左:山王帽子山・太郎山
右:山王峠・光徳
 歩道を100mも行くと左に看板が立ち、分岐が現れた。左は山王帽子山・太郎山、右は山王峠・光徳とある。この先に旧峠があることはこれで間違いないが、左への道はどこかで車道を横切っていることになる。どうも心当たりがない。
 
 車道の峠と思しき所からもう随分歩いて来ている。これでは車道の峠と旧峠があまりにも離れ過ぎている。やはり車道の峠がはっきり分かっていないのだ。
 
 歩道の東側には山がそびえるが、西側は斜面を下っている。峠に向かって真っ直ぐ進んでいる筈なのに、これではいつ峠に着くのか分からない。地形がややこしい。
 
 
<旧峠に着く>
 
 それでもやっと峠に着いた。そこに歩道に関した看板があり、山王峠と書かれていたから、そこが峠だと認識した。そうでなければ相変らず、峠とは思われない場所である。歩道を歩き始めてからも、その位置より標高が高い場所があったように思う。道の最高所が峠でないのは、やっぱりしっくりいかない。
 
 それでもその旧山王峠を過ぎると、光徳方向に道ははっきり下りだす。光徳側から峠道を登って来ると、坂道をほぼ登り切った所を峠としているようだ。そうなれば車道の峠も、峠付近の平坦路の最も光徳側を峠とすべきだった。しかし、その付近は特定できないし、車道から旧峠に来るには、今回の歩道を歩くしかなかった。

歩道の様子
川俣方向を見る
 
旧山王峠
川俣側から光徳方向に見る
 
<旧峠の様子>
 
 資料や地図などには、山王峠の標高を1,739mと記述してあるのを見かける。多分、こちらの旧峠のことだろう。車道はここよりも10m程度低い所を通っている。車道の開削によりその分掘り下げられたと考えられる。
 
 峠の付近は熊笹も刈られて土が露出した小さいながらも広場となっている。その前後は熊笹が足元にまとわり付くような道だったので、それなりに単なる道とは違った場所にはなっている。歩道を歩いた疲れを癒すにはもってこいだが、ここからもいい眺は得られない。車道の峠が味気なかったので旧峠に期待したが、やはり元の地形が地形だから、これは仕方ないことか。
 
 西沢金山が発見された当初は、この峠道を通って鉱石が運ばれたのだろう。車がない時代、重い鉱石をどのようにして運んだのだろうか。人が背負って運んだのだろうか。今は何の痕跡もなく、ただ山歩きを楽しむ歩道としての道があるだけだ。

旧山王峠の看板
 

光徳側から旧峠を見る

旧峠より川俣方向を見る
 

峠から光徳側は一気に下りだす
 峠から光徳側を見ると、熊笹に消え入りそうな道が下っている。これ以上散策するような道ではなさそうだ。時間もないことだし、旧峠を見れたことに満足し、もと来た道を引き返すこととした。またしばし、奇妙なブザーが歩道に鳴り響いた。
 
 
 峠から旧栗山村との境へ
 
<川俣方向に進む>
 
 歩道から車道に戻り、川俣方向に車で峠を下りだす。左手が窪んだ地形となっていて、その底には涸沼がある。周囲は山が迫っている。
 
 一旦下りだした道だが、またなだらかに登り始める。日光市と旧栗山村との境に向かって登っているのだ。峠道としては、やはりあまり好ましいとは思われない。道は単純に登って、単純に下って欲しいと思う。

左手に涸沼の窪地を望む
 

旧市村境へ

旧市村境へ
 
<旧市村境>
 
 山王峠から1kmもしないで日光市と旧栗山村との境に辿り着く。こちらの方がよっぽど峠らしい。道のピークがはっきりしている。日光市側から旧栗山村に抜けると、そこから峠道は一気に下りだすのだ。それに、「栗山村」とその反対側には「日光市」と書かれた市村境を示す看板が、道の上に掲げられている。但し、栗山村が日光市に吸収されてしまった今では、その看板は取り外されているかもしれない。山王峠の道はどの市町村の境でもなくなってしまった。
 
旧栗山村との境
境から栗山村方向を見る
左手上の看板には「栗山村」とある
 

旧栗山村側より市村境を見る
右端に木柱が立つが・・・
 旧市村境を川俣側から見渡すと、道の右端に何やら古めかしい木柱が立っているのに気づいた。この境にまつわる何かいわくでも書かれているのかと思ったら、「王子緑化株式会社 社有林」とあった。がっかりである。
 
 他にはこの境に保安林を示す看板がある。それには境から栗山村側の地図が載っており、なかなか参考になる。門森沢の上流は、西沢、中沢、日光沢に別れていて、西沢金山があったのは多分その西沢だろう。山王峠の道は、まさしくその西沢の上流域へと下っている。
 
保安林の看板の地図
 
 
 旧栗山村 へ下る
 
<栗山村>
 
 何かのテレビ番組を見ていたら、日本の中であ まり注目されない、目立たない県のランキングが紹介されていた。ちょっと失礼な話なのだが、その上位に栃木県が入っていたとのこと。その栃木県の中でも、更に目立たない市町村として栗山村の名前も出てきていた。
 
 しかし、関東に住んでいる私にとって栃木県は近県であり、栃木と言えば栗山村、と言うくらい、栗山村は私には馴染んだ存在である。例えば、今回の山王峠や帝釈山峠(仮称)、田代山峠、安ヶ森峠などは皆、栗山村とその周辺の市町村との境にある。どれも面白い峠で、中には未舗装林道が通じる峠もある。ダムや渓谷などの見所も多い。温泉宿に泊まることもある。これまでも何回となく旅で訪れた地だ。テレビニュースで栗山村の土呂部(どろぶ)で大雪が降ったなどと聞くと、ああ、あの村かと親しみが沸いてくるのだった。
 
 その栗山村も今回の平成大合併で日光市に編入されてしまったようだ。とても残念な気がする。「栗山」というとても馴染み深く覚え易い名前も良かった。あの山深い地が、日光東照宮などがある日光市と同じでは、どうもピンとこないのだった。
 
旧栗山村へと下る峠道
 
<分岐>
 
 旧市村境から旧栗山村へと下りだすと、急なヘアピンが少しあり、直ぐに右に分岐が現れる。上の写真で右上方向に進んでいる道は、その分岐の先だと思う。そちらは地図で見る限り行止りの林道だ。車を走らせているぶんには、それ程意識せずとも道を間違えることはない。
 
<川俣側の道>
 
 光徳側に比べてこちらの川俣側は、山岳道路の雰囲気満点だ。深い谷間を間近に望み、視界も広い。谷側に張り出したヘアピンカーブの路肩に車を止め、山峡の眺めに見入っている人もいた。谷はほぼ道の右側にあり、それは多分中沢の上流部だ。時期がまだ早いのか、紅葉の彩りはいまひとつだが、なかなかいい雰囲気だ。
 
 路面はよく整備されたアスファルトで、道幅もそれ程狭いと言う訳ではなく、林道と言うよりちょっとした県道並みである。4WDでも何でもないごく普通の車もやって来るが、ひとたび周囲を見渡せば、これでなかなか山深い。旧栗山村の面目躍如といったところだ。少なくとも山王峠の道の、ここはクライマックスだ。

川俣側の峠道
 

記念碑の広場
<林道記念碑の広場>
 
 道は中沢に面した谷から西沢に面した谷へと移っていく。その中沢と西沢を隔てる尾根の頂上付近に林道記念碑や看板などの立つ広場がある。尾根上に位置するので、空が開けて明るい場所だ。峠と川俣温泉の間で、やや峠よりの距離にある。広場には車が乗り入れられるので、ちょっと休憩するにはちょうどよい。
 
 広場には「治山」と銘打った林道記念碑と「日光の治山」と題した看板などがある。
 
<林道記念碑>
 
 林道記念碑には、標高1,620米の文字と、裏に「山王治山林道完成の言葉」が刻まれている。以下に碑文を写す。
 
 
       山王治山林道完成の言葉

 鬼怒川は本県最大の河川であり本水系上流地域の整備は県政発展に直接関係があるばかりでなく東京都をはじめ関東地方の災害防止に大きな影響を及ぼすものである
川俣地区は地勢地質の関係で崩壊地が多く治山事業を早急に実施しなければならないが奥地僻遠の地であり道路がないため工事用資材輸送の問題を解決しなければ実行不可能な状態でありこれを解決することは本協会の悲願であった
 


林道記念碑 (撮影 1992. 9.15)
ジムニーの後ろに「日光の治山」の看板が立つ
 

碑文 (撮影 1992. 9.15)
 昭和三十四年横川知事就任にあたり本協会常務理事である県治山課長若井真平君これを解決するため各般の努力をつくし光徳を起点とする七粁の既設山王林道を延長し国有林山王林道北線に接続して鬼怒川から工事用骨材を採取する計画をたて昭和三十五年治山事業付帯工事として着手したが三十六年から林道事業と合併施行となり昭和三十八年既設山王林道改修を含めて十六粁を完成しこの地区治山事業推進の基礎を拓いたものである
 この工事費二億四千万円のうち金五千万円を協力された市町村その他関係者の好意と深い理解を寄せられた国有林当局に対して心から感謝するとともに並々ならぬ苦労を重ねられた工事施行者並びに治山担当県職員に深く敬意を表し完成の言葉とします
 
    昭和三十八年十月
       社団法人 栃木県治山治水協会
                 会長 福田新作
 
 碑文を読むと、この山王林道が昭和38年に完成したことが分かる。それ以前には、「光徳を起点とする7kmの既設山王林道」と「国有林山王林道北線」というのがあったようだ。7kmの既設山王林道とは、山王峠または栗山村との境から光徳側の道のほぼ全線を指すのだろう。
 
 「既設山王林道を含めて16kmを完成した」とあるが、光徳側のゲートから川俣温泉まで21kmなので、約5km足らない。その部分が「国有林山王林道北線」だろうか。いろいろ考えてみるが、想像の域を脱しない。何にしても、この林道開通当初は「山王林道」であって、その頃にはまだ「奥鬼怒林道」の呼称が出てきてないのがいい。

「日光の治山」の看板 (撮影 1992. 9.15)
 
看板の地図の拡大
右側が北であるのに注意
 
林道記念碑付近からの眺め (撮影 1992. 9.15)
見えている川は門森沢だと思う
奥に川俣湖の上流部がのぞく
 
<西沢へ下る> 
 
 さて、記念碑の広場を過ぎると、道は西沢の谷間へと下って行く。そろそろ日が傾きだした。山間の道は直ぐに日が陰ってくる。峠からこちら、すれ違う車もほとんどなくなったが、前述のように路肩に車やバイクを停めて眺めを堪能している人達を2、3組は見掛けた。もう直ぐ日が暮れるというのに、こんな山の中でそんなにのんびりしていていいのだろうかと、他人事ながら心配になる。こちらは夜道を走るのは苦手である。早く宿に着きたい気持ちでいっぱいだ。暗くなってきたので写真も思うように撮れない。走る車の中からシャッターを切っても、露光時間が長くて画像は流れてしまい、ここに掲載できるような写真がないのは残念だ。
 
林道奥鬼怒線の看板 (撮影 1994. 8.12)
多分、記念碑の広場から西沢に下る途中
看板の向うの対岸に道が通じているのが見える
二度目に山王峠を訪れた時は、こんな写真一枚しか撮らなかった
 
<西沢沿い>
 
 道は西沢の上流部に降り立ち、沢を渡って左岸に入る。この辺りは「日光の治山」の看板にも「地すべり区域」と記されていたが、地形がもろい場所で、地肌が露出している箇所も目立つ。
 
 この西沢の更に上流域に金山があったらしい。今はその跡を留めないと言われるが、何かしらの痕跡が見られるかもしれない。しかし、もう立ち寄っている余裕がないのだ。後ろ髪引かれながらも、西沢沿いを川俣温泉へと下って行く。
 
 西沢金山の探訪はまたいつの日か、この旧栗山村の川俣を訪れた機会にまわすしかない。こうして旅の途中でやり残したことが次々と溜まる。旅をすればするほど増えてくる。いつまで経っても、旅へのいざないは尽きることがない。
 
<門森沢からホリホリ沢へ>
 
 西沢は下流の門森沢へと流れ下るが、道は沢から少し離れた高所を通るようになり、川面を眺められる場所はなくなってくる。高度が下がってきているので広い視界もなく、林の中を這い回る。
 
 道はまた尾根をまたいで、門森沢より西に位置するホリホリ沢へと下り、上流部の左岸に入って、また尾根の上の方を進む。峠より川俣側の道は、単純に一本の沢沿いに下るのではなく、いくつかの沢を渡りつないで走っている。その点が、ちょっと分かりにくい。
 
 一体どの辺りを走っているのだろうか思っていると、ひょっこり本流の鬼怒川に出る。そこには噴泉橋が架かっている。ホリホリ沢が流れ込む所より更に数100m上流である。

日が陰り、写真は流れた
 
 
 噴泉橋に着く
 
<噴泉橋付近>
 
 噴泉橋は鬼怒川の水面よりかなり高い位置にあり、橋から眺める鬼怒川渓谷は見ごたえがある。橋には昭和60年12月竣工とあり、林道が完成した後に架け替えられたことになる。
 
 山王林道はこの橋の袂からスタートしていることになる。林道標識もある。この先にはもう人家はなく、ここから光徳のゲートまでが冬季通行止だ。

噴泉橋 (撮影 2005.10.31)
林道側から県道側を見る
 

林道入り口 (撮影 1992. 9.15)

林道入り口 (撮影 2005.10.31)
 
<冬季通行止>
 
 山王林道は通らなかったが、2003年の11月下旬に川俣温泉を訪れたことがある。林道入り口まで行ってみると、「通行止めのお知らせ」と書かれた看板が出ていた。「平成15年12月15日から平成16年4月28日まで」となっていた。毎年決まってこの期間が通行止のようだ。
 
 実はこの時も山王林道を利用しようかと思ったが、安全をみて県道からのコースを往復したのだった。泊まる予定の宿の者にも問い合わせてみたが、あまり勧められない様子だったのだ。実際に林道入り口からのぞいた山王林道は、半月後の冬季通行止を控えて、ひっそりしていた。光徳までの長い道のりを思い浮かべると、やはりこの時期、無理に通らない方が賢明に思えた。

林道入り口 (撮影 2003.11.29)
道の左に冬季通行止の看板が立つ
 

林道標識 (撮影 2005.10.31)
<川俣温泉>
 
 噴泉橋を渡って県道に出た付近は川俣温泉の中心地と言っていいのではないだろうか。鬼怒川左岸に、川に面して切り立つように温泉旅館の建物が並ぶ。戦前までの川俣温泉は、谷あいの村落の中に湯治宿が一軒あるだけの所だったようだ。後に川治方面からの県道が通じ、旅館も増えていった。
 
 現在、山王林道が全線舗装になったと言っても、やはり川俣温泉までのルートはこの県道である。通常はここを往復する。日光経由でうまくルートが組めて、ちょっと険しい道でも大丈夫というなら、県道と山王林道を周遊するコースをとれば、これは格段に楽しい旅となる。
 

県道から林道が分岐する所 (撮影 2005.10.31)
 この川俣温泉を初めて訪れたのは県道からのコースだった。メインルートなのに初めてとあってか十分険しい道に思えた。その後、この場所には都合4回訪れている。その内二回は川俣温泉に宿泊している。旅で同じ所に何度も足を運ぶことは少なく、それも4回も訪れるというのは私にとってはとても珍しいことだ。川俣温泉は旧栗山村の中にあっても鬼怒川の上流の奥まった地にある。始めて訪れた時には本当に寂しい所だと思ったが、今ではもう馴染みの土地である。
 
 左の写真は川俣湖の方から県道を走って来て、左に噴泉橋を渡って林道が分岐する地点だ。ここももう見慣れてしまった風景だ。道の上に掲げられた道路標識には次のようにある。
 
↑女夫渕 3km
←光 徳 21km
←日 光 48km
 
 ここまで来るのも大変だが、ここから更に林道の峠道が始まるのだから、それなりに覚悟がいる。
 

川俣温泉・国民宿舎渓山荘
<国民宿舎へ>
 
 その日に取った宿は公共の宿・国民宿舎渓山荘で、噴泉橋付近の旅館街から少し県道を下流に下り、途中から川岸へと下る狭い道に入る。その宿の宿泊もこれで二回目なので、道も良く分かっている。山王峠の道も後半はやや急ぎ足としたが、それでも渓山荘に到着した時は、もう部屋の明りも灯り、夜の帳が落ちようとしていた。県道から離れ、鬼怒川の清流を間近に見る静かな一夜を過ごした。
 
<間欠泉>
 
 ところで、噴泉橋の名前が示すように、そこには間欠泉がある。数年前に訪れた時は、間欠泉の展望台付近に電光掲示板があり、それが噴出までの大まかな残り時間を示していた。何でも、約1時間待って1分程度噴出するとのこと。試しに立ち寄ってみると、残り時間が30分以上もあり、たった1分程度のショーを見るのにそんな時間は掛けられず、残念ながら旅の先を急いだのだった。
 
 ところが今回、例の電光掲示板が消えていた。自然現象なのでもう噴出しなくなったのかと思ったが、念の為、宿の者に訪ねてみると、最近は噴出の時間間隔がもっと短くなっているとのこと。宿に泊まった翌日、チェックアウトして早速噴泉橋まで行ってみた。待つこと数分、深い鬼怒川の川底から、勢い良く熱水と水蒸気が立ち昇った。それ程期待していた訳ではなかったが、予想に反してなかなか見ごたえがあった。その後待つこと5〜10分。また同じ様に噴出した。これまで全く見られなかった間欠泉が、今回は二度も見ることができた。これで旅先のやり残しがやっと一つ解決した。

川俣温泉の名物・間欠泉
右奥に見える噴泉橋から眺めるのもいい
 
 今回の山王峠を掲載するに当たり、国土地理院の地形図を調べていて、栗山村がなくなっているのに気付いた。以前は山王峠の近くに引かれていた日光市と栗山村の境を示す線がなくなっていたのだ。これはどうにも寂しい。山王峠ほどの峠道がどこの市町村境も越えていないのである。しかし、名前はなくなっても旧栗山村のあの山深さには変わりない。山王峠から川俣温泉に下るあの峠道を思い浮かべたら、また何度も行きたくなる山王峠であった。
 
  
 
<参考資料>
 角川  日本地名大辞典 栃木県
 昭文社 関東 ツーリングマップ 1989年1月発行
 昭文社 ツーリングマップル 3 関東  1997年3月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図 (Web版)
 
<最終走行 2005.10.30><制作 2007. 2.11><Copyright 蓑上誠一>
 
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