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杖立権現越
  つえたてごんげんごえ  (峠と旅 No.251)
  小さいながらも道の険しさが印象に残る峠道
  (掲載 2016. 2.24  最終峠走行 2015. 5.26)
   
   
   
杖立権現越 (撮影 2015. 5.26)
右手前は徳島県名東郡佐那河内村下(しも)栗見坂(くりみざか)
左手奥は同県勝浦郡勝浦町坂本
道は主要地方道18号・勝浦佐那河内線
(未開通区間を勝浦名東峯越林道と大川原林道が結ぶ)
峠の標高は約650m (地形図の等高線や文献より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

  こうして見るとなかなか穏やかそうな峠だが、道は極めて険しい
パジェロ・ミニが向くのは大川原放牧場方面の道で、
妻が立つコンクリート舗装の道が勝浦町に下る峠道
これが険しい

   
   
<峠の印象>
 世の中には無数の峠があるが、県境や中央分水界といった高い山稜を越える壮大な峠道ばかりではない。 短い支流同士の小さな谷を隔てる低い尾根を越えて、隣同士の小さな村や町を繋ぐちょっとした峠道、といったようなものも少なくない。 そうした小さな峠道は車で走ればあっと言う間で、何の印象もなく何も記憶に残らなかったりする。峠の名も、その峠を訪れたことさえ忘れてしまう。
 
 この杖立権現越も、峠道としては小さなものだ。徳島県のどこかの村か町にあったなと、その所在は定かでない。実は、名前さえも忘れていた。 しかし、この峠道には強烈な印象が一つあった。道がとても険しいのだ。その険しさは、豪快な山岳道路といった魅力的なものなどではない。 とにかく暗い林の中に狭く急な坂道がくねくねと曲がるのだ。一応全線に渡って完全舗装のなのだが、まるで未舗装林道の様に荒れて寂れている。 楽しいなどというものではなく、恐ろしいばかりだ。峠道を走り慣れた妻も、さすがにこの峠道には拒絶反応が現れたのだった。
   
<峠名>
 峠には杖立権現越(つえたてごんげんごえ)という立派な名が付いている。ツーリングマップルには書かれていなかったが、地形図にはしっかり峠名が載っている。 文献(角川日本地名大辞典)にもその峠の項がある。あまり立派で長い為か、地元の看板などでは「杖立峠」と略されることもあるようだ。
 
 峠の名の由来は、峠に「杖立権現」が祀られることによるらしい。更に「杖立」の由来とは、杖をついて越える程急坂で、峠に着くとその杖を突き立てたことによるとのこと。 また、峠から西に連なる稜線上約200mに杖立山(724.0m)という山もある。ただ、その杖立権現とういのが今の峠に見当たらないのだが・・・。
   
<所在>
 徳島県西部の山間地には剣山地が連なり、その山稜を越えて名だたる峠が通じるが、杖突権現越は東部の沿岸地方にも程近い立地だ。決して山深い地域ではない。
 
<佐那河内村>
 峠の北側は名東(みょうどう)郡佐那河内村(さなごうちそん)である。村内を園瀬川(そのせがわ)が東流するが、その上流(西)側を上(かみ)、下流 (東)側を下(しも)と村を2分して呼ぶようだ。峠はそ「の」下にある栗見坂(くりみざか)という集落の上部に位置する。佐那河内村は一村で名東郡一郡を構成すると いう特徴がある。その為とはいう訳ではないが、平成の大合併を物ともせず、佐那河内村は昔のままである。古いツーリングマップ(中国四国 2輪車  1989年7月発行 昭文社)と見比べても、その村域は変わりないようだ。
 
<勝浦町>
 峠の南側は勝浦郡勝浦町(かつうらちょう)となる。こちらの町域も変わりないようだ。県の西部域では嵐のような大合併が行われ、美馬市やつるぎ町、東みよし町、三好市といった聞き慣れぬ市や町が現れたが、それとは対照的である。峠は大字で坂本(さかもと)にある。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
<水域>
  佐那河内村側では、峠は園瀬川(そのせがわ)の支流・嵯峨川(さががわ)の上流部に位置する。園瀬川は徳島市街で新町川に注ぎ、新町川は直ぐ紀伊水道に流 れ出ているが、吉野川水系に入るそうだ。園瀬川の源は剣山地東部の旭ヶ丸(1,020m)になる。旭ヶ丸から更に東へ延びる稜線上に杖立権現越が位置する。
 
 一方、勝浦町側は勝浦川水系となる。勝浦川は新町川の直ぐ南で紀伊水道に注ぐが、吉野川水系とは別となる。峠は勝浦川の支流・坂本川の更に支流・内谷川の上流部に位置する。
   
   
   
佐那河内村から峠へ
   

国道438号を徳島市街方向に走る (撮影 2015. 5.26)
<国道438号>
 佐那河内村では村の北寄りを園瀬川沿いに国道438号が通じ、これが村を横断する幹線路となっている。杖立権現越を越える主要地方道18号は高樋(たかつい)で国道より分岐する。
 
<主要地方道18号分岐>
 分岐は非常に鋭角で、国道を徳島市街方向へ進んでいる場合は分岐し易いが、徳島市街方向から来ると、急カーブとなる。
   

県道18号分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)

右に県道18号分岐 (撮影 2015. 5.26)
徳島市方向に見る
   
<主要地方道18号>
 看板の行先は「小松島」とあるが、これは途中で分岐する主要地方道33号・小松島佐那河内線の行先であって、主要地方道18号のではない。18号は勝浦佐 那河内線と呼び、その行先は勝浦である。しかし、勝浦町との境となる杖突権現越はあまり一般的な道ではないので、「勝浦行き」とは書き難いところだ。それ に、ツーリングマップルなどでは18号がそのまま峠を越えていそうに描かれているが、実際は峠の手前数kmで止まっている。代わりに峠を越えて勝浦町に至 る道は、正確には主要地方道ではなさそうだ。尚、主要地方道18号を簡略して単に県道18号と書く場合もあるのでご了承を。
   
県道18号を行く (撮影 2015. 5.26)
   
<県道18号に入る>
 県道18号は国道に代わって園瀬川沿いを下る。一方、国道は小さな高樋(たかつい)峠を越えて少し下流側へと向かう。こんな峠を車で走り抜けていては、誰もそこが峠だとは気付かない。世間にはこのような峠が無数に存在する。
 
 県道の右手には園瀬川沿いの景色が広がる。田畑やビニールハウスなどが見渡せる。のどかな雰囲気だ。県道標識の地名は「佐那河内村 高樋」とある。正確には下(しも)の高樋である。道は一時期とても狭い。
   

県道18号 (撮影 2015. 5.26)
道は一時期狭い

県道看板 (撮影 2015. 5.26)
   
<落合橋>
  路面にセンターラインが出て来る辺りで、峠より流れ下って来た嵯峨川が園瀬川に合流している筈だが、林などでよく見えない。そして直ぐに園瀬川を渡る。多 分、落合橋と呼ぶ橋と思う。川の合流点ではよくこの「落合」という名が用いられる。付近は嵯峨川の扇状地といった様子で、水を張った水田がすがすがしく眺 められた。
   
園瀬川を渡る (撮影 2015. 5.26)
多分、落合橋と呼ぶ
   
 落合橋を渡ると左手より園瀬川沿いに通じる道が合する。国道が高樋峠を越える前の旧道かとも思ったが、どうであろうか。その道も狭く、国道より嵯峨川沿いに出るには、どちらにしろ狭い道を通らなければならないようだ。
  
<寺谷勝浦線>
 道は園瀬川右岸から嵯峨川右岸沿いとなって行く。落合橋から数100m行くと、ちょっとした集落内を通過する。徳島バスの「寺谷」(てらだに)のバス停が立つ。現在の主要 地方道18号・勝浦佐那河内線の前身は、県道寺谷勝浦線と呼んだようだ。その名からすると、この寺谷集落を基点とし、折立権現越を越え、勝浦町に至るルートであっ たらしい。古いツーリングマップでは県道表記は峠の手前の嵯峨という集落までで、そこから先は一部で道は途切れ、勝浦側は未舗装となっていた。県道寺谷勝 浦線もほとんど名ばかりの道であったようだ。
   
寺谷のバス停前 (撮影 2015. 5.26)
   
<バス停(余談)>
 今回の旅の写真を眺めていると、やたらとバス停が写っている。私も時には写すが、それほど意識したことはない。一方妻は、学生時代に部員50名ほどのバ ドミントン部の部長を務めていたくらいで、動体視力がとても良い。私が運転する場合、妻には何でもいいから峠道では沢山写真を撮れと言ってあるので、バス 停を見付けては写真を撮っていたようだ。そのほとんどは役に立たないが、たまには参考になる。
   
<主要地方道33号分岐>
 寺谷集落の先に分岐の看板が出て来る。このまま直進すると主要地方道33号に入ってしまう。33号は嵯峨川の短い支流沿いに少し登り、名もない峠を越えて徳島市へと下る。ここにもまた小さな峠道であった。
 
 杖立権現越へは右折して嵯峨川を渡る。

主要地方道33号の分岐 (撮影 2015. 5.26)
   

分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)
<嵯峨>
 ここの道路看板でも県道18号の行先はやはり勝浦ではなく、「嵯峨」(さが)であった。この嵯峨というのは地名ではあろうが、住所地としては見当たらない。下(しも)より狭い が、寺谷などの字よりは広い範囲を指すようだ。嵯峨川の中上流域だと思う。道路看板の脇には「徳円寺(とくえんじ) 10km」と案内がある。
   
<寺谷橋>
 県道18号が嵯峨川を渡る橋は寺谷橋で、橋の袂の道標に「嵯峨峡を経て 名勝徳円寺に至る 六粁」とある(右下の写真)。この寺は峠に近い山間部の立地で、峠へ向かう場合の道案内ともなる。ただ、「6km」では距離が足らない。どうしたことか。
 
 また「大川原高原」とも案内が立つ。峠から稜線沿いを西、旭ヶ丸方面へと道が続き、そちらに大川原(おおかわら)高原や大河原放牧場がある。

寺谷橋 (撮影 2015. 5.26)
   

橋は「てらだにばし」 (撮影 2015. 5.26)

橋の袂の看板など (撮影 2015. 5.26)
右端は徳円寺への道標
   

鮎漁に関した看板 (撮影 2015. 5.26)
<嵯峨川>
 寺谷橋を渡ると直ぐに「嵯峨川」と書かれた看板が立つ。寺谷橋の住所は字菅沢(すげさわ)、この上流部の字宮本に嵯峨橋という橋が架かっているようだ。その橋の名からしても、その周辺が嵯峨という地域であろう。
   
   
   
嵯峨川左岸
   
<嵯峨川左岸沿い>
  県道18号は嵯峨川の左岸に沿う。これからは川筋にほぼ一本道で、地図などを見る必要はなく、周囲の景観を堪能するばかりだ。暫くはセンターラインがある 快適な道である。人家より工場の様な大きな建屋が見える。前方(南)には徳島市との境を成す山並みを望む。佐那河内村の東側約1/3の範囲はぐるりと徳 島市に囲まれている。村と言っても紀伊水道に面した徳島市街に程近い。
   
嵯峨川左岸沿いの道 (撮影 2015. 5.26)
   
<尾尻付近>
  ただ、園瀬川沿いを除くと佐那河内村の多くは急傾斜地にある。山腹に点在する集落や耕地を結ぶ道路整備が急務であったとのこと。徳島市との境の山腹にも、 幾筋もの道が通じているのが望める(下の写真)。地図を見ると、徳島市側へと越える道も少なくない。その山稜一帯は、網の目のように道が通じる。
   
尾尻付近 (撮影 2015. 5.26)
嵯峨川右岸の山腹にも道が通じる
   
<尾尻バス停>
 バス停が立ち、「尾尻」とある。これも住所地にない。嵯峨と同格か。地形図では嵯峨川右岸の山腹に尾尻の地名が見える。この付近の嵯峨川の谷は広く、眺めが広がる。
 
 尾尻のバス停を過ぎると、道幅は半減と言っていい程極端に狭くなる。そして尾尻西のバス停が出て来る付近はまた広い。その先も嵯峨川の谷が狭くなったり広くなったりするたびに、道幅が変わる。蛇行も増えて来た。

尾尻のバス停 (撮影 2015. 5.26)
   

尾尻西のバス停 (撮影 2015. 5.26)
道はまた広くなった

この先、また道が狭い (撮影 2015. 5.26)
   
<嵯峨へ>
  「尾尻西」に続いて「下嵯峨」のバス停が立つ。ようやく嵯峨の地に入って来たようだ。沿道に電気店なども見られ、少し賑わってきた雰囲気だ。ただ、人家が 道沿いに立ち並ぶという程ではない。この県道沿いから外れた山腹の方に、広く多くの人家が点在する。道は概ね西を向いて遡る。
   

下嵯峨のバス停 (撮影 2015. 5.26)

電気店付近 (撮影 2015. 5.26)
この先が荒瀬のバス停
   
<中嵯峨付近>
 県道からは時折右岸へ渡る道が分岐する。そちらを指し、「嵯峨老人憩の家」などと看板が立つ。
 
 中嵯峨のバス停辺りからは、道は概ね南西方向に転じる。道幅は相変わらず狭くなったり広くなったりを繰り返し、やや走り難い。

中嵯峨のバス停 (撮影 2015. 5.26)
この先でまた道幅が半減
   

ガソリンスタンド (撮影 2015. 5.26)

嵯峨天一神社付近 (撮影 2015. 5.26)
道が狭い
   

嵯峨橋 (撮影 2015. 5.26)
<嵯峨橋付近>
 県道18号沿いにただ一軒あるガソリンスタンドを過ぎると、その先で道幅が一段と狭くなる。ちょっとした商店も立ち、小さいながらも市街地の雰囲気だ。直 ぐに嵯峨天一神社の境内が右手に沿う。沿道に佐那河内村の案内看板などが立っていたようだが、何せ道が狭く、立寄り難かった。
 
 境内の石垣を過ぎた先で左手の嵯峨川に嵯峨橋が架かっている。ちょっと趣のある欄干だ。橋を渡った右岸に嵯峨集落の人家が密集して立ち並ぶ。住所地としては字宮本であろうが、この付近が嵯峨の中心地となるのではないだろうか。
   
   
   
嵯峨橋以降
   
<人家が途切れる>
 嵯峨橋の袂を過ぎて100mも行くと、沿道からは嵯峨集落の人家はぱったり途絶える。嵯峨川の谷は一挙に狭まったようだ。

 (撮影 2015. 5.26)
   

沿道の様子 (撮影 2015. 5.26)
僅かに人家
<嵯峨峡>
 嵯峨橋付近からは谷の方向も変わり、真っ直ぐ南へ遡る。嵯峨川にぴったり沿う道もここより1km程の区間、ほとんど直線路に等しい。向きもぴったり峠の方向を向く。
 
 嵯峨川の谷は細く狭く、これまで集落が点在していた付近とは様相がはっきり異なってきた。ポツリポツリと数軒の人家が見られたが、もう川沿いに大きな集落が形成される ような地形ではない。嵯峨川の川底には大小の岩が見られ、そこを清水が食んで流れる。寺谷橋の袂に立つ石柱に「嵯峨峡を経て 名勝徳円寺に至る」とあった が、この付近がその「嵯峨峡」ではなかろうかと思われた。
   
道の様子 (撮影 2015. 5.26)
嵯峨川は溪谷の様相
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
川底の段差を水が流れ下る
右手奥には人家の石垣が積まれている

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
川の中に何かの遺構が立つ
   
<馬木谷川付近>
 直線的な道が終る辺り、嵯峨川に一本の橋が架かる。その橋を渡って支流の馬木谷川沿いに通じる。地形図ではその沿道に人家が見られる。橋の袂には「右徳円寺」と赤書きされた石の道標が立ち、徳円寺は峠方向にあることを示していた。
   

橋が架かる (撮影 2015. 5.26)
馬木谷川沿いに遡る道
この先にも集落があるのか?

「右徳円寺」の道標 (撮影 2015. 5.26)
   
<四国のみち>
 橋の反対側には「四国のみち」と書かれた木製の道標が立ち、傍らを地図にない道が左岸の山腹へと登る。軽自動車が通れるかどうかといった狭い道だ。そちらが「四国のみち」だろうか。また、峠方向を指し、「徳円寺 あと5.2km」ともある。
   

「四国のみち」の道標など (撮影 2015. 5.26)
側らを狭い道が登る

「徳円寺 あと5.2km」 (撮影 2015. 5.26)
   
<2車線路>
 路面には所々にセンターラインも出て来るようになる。その代わり屈曲が多くなる。

改修された道に (撮影 2015. 5.26)
   

橋は「平成十二年十一月竣工」とある (撮影 2015. 5.26)
<ヒヨノ橋付近>
 途中、支流のヒヨノ谷川をヒヨノ橋で渡る。この前後は特に立派な道だ。橋の竣工日は平成12年(2000年)11月となっていた。最近改修されたようだ。
 
 
<県道通行止箇所>
 しかし、いい道は400mと続かない。前方にでかでかと通行止の看板が出て来た(下の写真)。
   

通行止箇所 (撮影 2015. 5.26)

徳円寺は左折 (撮影 2015. 5.26)
   
<県道未完成>
 地形図などではこの県道18号通行止の事態は記されているが、ツーリングマップル程度の荒い縮尺では、県道がそのまま峠を越えているように簡略化されて いる。事情を知らずにやって来ると、この通行止にびっくりする。看板には「この先 県道勝浦佐那河内線は未完成です 勝浦方面への通り抜けはできません」 と大き く書かれているのだ。看板から先に通じる道も一挙に険しくなる。すると、一台の軽トラが平然とその未完成の県道へと突き進んで行った。

軽トラが直進 (撮影 2015. 5.26)
   
通行止の看板 (撮影 2015. 5.26)
この先は細い道
   

「危険 陥没 注意」の看板など (撮影 2015. 5.26)
 軽トラが進んで行ったからと言って、看板の文句通りに県道は峠を越えていない。それは寂れた道の様子からも伺える。妻は茫然とし、これでもう峠越えはできないものと思い始めていた。しかし、峠道経験の深い私には直ぐに事情が呑み込めた。
   
<栗見坂橋>
 通行止看板の直前の嵯峨川に橋が架かっている。橋には「栗見坂橋」と名が刻まれていて、竣工年は平成4年(1992年)3月とある。そちらの道を指し て、「徳円寺 4.2Km」とか「大川原放牧場 11.6Km」などと看板が立つ。道幅は狭いが、保守がしっかり行われ、日常的に使われていそうな道だ。
 
<代替路>
 これが未完成の県道に代わり杖立権現越を越える峠道だと直感する。この先の嵯峨川上流部は、谷が険しくて川 筋に車道が通せないのであろう。峠直下のその急傾斜地を迂回する為、山腹をうねるように車道を通じさせたものと思う。

峠へは栗見坂橋を渡って行く (撮影 2015. 5.26)
   
 それにしても、その道が峠に至るようなことは一切案内されていない。道の名を示す看板さえも見当たらなかった。杖立権現越で勝浦町側に越えようとする車に対し、全く配慮されていないのである。
 
 後で分かったことだが、その道は大川原放牧場に至る途中で峠を経由していた。峠から分かれて勝浦町側に下る道があまりに険しく一般向けでない為、案内を避けているようであった。
   
   
   
栗見坂橋以降
   

快適な道 (撮影 2015. 5.26)
<右岸の山腹>
 道は川筋に通じる県道から分かれ、嵯峨川右岸の山腹を峠に向かって登りだす。ここに至って道の路面状況は良好で、センターラインこそないが、道幅も十分である。
 
 時折寂しい枝道が分岐するが、峠方向に「徳円寺」と示すだけで、分岐方向には何の案内もない。地図によっては南林(みなみばやし)という字名が付近に見えるが、枝道を行った奥にそうした集落があるのだろうか。
   
<栗見坂集落>
 栗見坂橋から1km少しで、沿道にも人家が僅かに見られるようになる。栗見坂(くりみざか)の集落のようだ。石垣を積んだ上に母屋を構える。こうした集落 があるので、ここまでの道も保守が行き届いているのであろう。集落途中からは道幅は狭まり、路面も簡易なコンクリート舗装に変わって行った。
 
 通行止看板以降(上流側)の嵯峨川沿いには、人家はなさそうだ。一方、山腹にはこうした集落が存在する。元からの杖立権現越の峠道は川筋に通じていたものと思うが、この栗見坂集落を経由する道も、古くから存在したのではないかと想像する。

栗見坂集落付近 (撮影 2015. 5.26)
沿道に人家が見られる
この先からコンクリート舗装
   

六社神社を過ぎる (撮影 2015. 5.26)
<栗見坂集落以降>
 人家も過ぎ、物置小屋の様な建屋の前を過ぎると、路面はやや新しそうなアスファルト舗装に戻る。ただ、道は狭いままだ。ひとしきり登った先の左急カーブ で、右手に鳥居が見えた。「六社神社」とあったようだ。ここが峠の佐那河内村側最奥となる、栗見坂集落の南端であろう。その後、沿道からは建造物はなくなり、 寂しい林の中に細々と道は通じる。
 
 右手には嵯峨川の谷が続いている。木々が途切れた間から、山深い谷が見下ろせた(下の写真)。この下の川筋に未完成の県道がまだ遡っているのだろうが、何の様子もうかがえない。
   
嵯峨川の谷を望む (撮影 2015. 5.26)
   
<嵯峨川源流部>
 道はいつしか谷を詰め、嵯峨川の源流部を横切る。カーブミラーの立つ右カーブで、沢水が車道の下を通って流れ下っていた。そこが嵯峨川の源流であろう。
 
<中山>
 栗見坂が佐那河内村最奥の集落と思ったが、地図にはこの嵯峨川源流部に「中山」という住所・字名が見られる。道より更に上流側だ。かつては人家があったのだろうか。

嵯峨川源流部 (撮影 2015. 5.26)
カーブミラーがある辺り
   

西へ迂回 (撮影 2015. 5.26)
やや開けている
<西へ迂回>
 道は嵯峨川の源流部を過ぎると、そのまま峠方向には向かず、西へと大きな迂回を始める。右手に嵯峨川の谷を臨む。峠道の佐那河内村側では、ほとんど眺望がないが、この付近だけは少し開けた感じがする。
   
<徳円寺分岐>
 迂回は0.6km程で、その終点に分岐が出て来る。左に急カーブして登るのが峠方向で、看板には「大河原放牧場 7.8km」とか「家族旅行村 9.1Km」などと看板がある。ほぼ直進方向に下りだす道には「徳円寺 0.4Km」とある。
   

徳円寺への分岐に出る (撮影 2015. 5.26)
左折は峠へ、直進は徳円寺へ

分岐に立つ看板 (撮影 2015. 5.26)
   
<徳円寺>
 地形図を見ると、分岐より距離で400m程車道が下り、確かにその先の山深い山中に徳円寺はあるようだ。本来の寺への道筋は、未完成県道を川に沿って遡り、車道 が尽きた所より左岸の山腹を山道でよじ登って寺に至るらしい。上方からアクセスする車道の方は、便宜のために後に改修されたものではないだろうか。
 
<元の道筋>
 尚、嵯峨川沿いから登って徳円寺を経由し、この分岐を通って峠に至る道筋が、元の杖立権現越の峠道だった可能性が考えられる。見たことはないが、徳円寺とはなかなか立派な寺だそうで、峠道はその寺を経由して通じていたのだろう。
 
 一方、栗見坂橋を渡って栗見坂集落を経由し、この徳円寺分岐に至る今の車道の経路は、やや冗長な気がする。道程としても徳円寺経由よりやや長い。それでも集落を経由するあたり、新しい道筋とも思えない。峠道は幾筋かあったのかもしれない。

分岐を徳円寺方向より見る (撮影 2015. 5.26)
   

徳円寺への道 (撮影 2015. 5.26)
こちらが元の峠道か?
右手に地蔵が佇む

服を着た地蔵 (撮影 2015. 5.26)
やや不気味
   

分岐より峠へ登る道 (撮影 2015. 5.26)
左手に林道看板が立つ
<林道大川原線>
 県道18号から分かれてからの道の名は分からなかったが、この徳円寺分岐から峠方向は「林道大川原線」であることが看板で知れる。この分岐が「起点」となるようだ。大川原線というからには峠を過ぎて大河原放牧場方面までをそう呼ぶのだろう。
 
<道標>
 分岐の角に立つ道標には、徳円寺方向に「徳円寺 500m」、栗見坂集落方向に「徳島・小松島方面」、峠方向に「大川原高原 8Km」とある。やはりここでも、峠のことや勝浦町へ抜けられるかどうかは不明である。
   

峠方向より分岐を見る (撮影 2015. 5.26)

分岐に立つ看板など (撮影 2015. 5.26)
右端に道標
道路標識は右折禁止とある
   
<看板など>
  分岐には「四国のみち」の道標が木立の中に立ち、他には「佐那河内いきものふれあいの里」と題した黄緑色の看板が目立つ。栗見坂集落方向に「森林観察の森  0.3km、水生動物観察の谷入口 0.3km」とある。0.3kmと言えば、嵯峨川源流部付近だ。そこが「水生動物観察の谷」への入口らしい。しかし、道らしき物はなかっ たように思うが。別の看板には峠方向へのいろいろな案内がされていた。
 
 分からないのは、「指定方向外進行禁止」の道路標識が2つ立つことだ。ただ、「自動車 2輪を除く」とはある。

分岐の様子 (撮影 2015. 5.26)
パジェロ・ミニの横には「佐那河内いきものふれあいの里」の看板
後ろの標識は左折禁止
   
   
   
徳円寺分岐より峠へ
   

峠まで穏やかな道が続く (撮影 2015. 5.26)
<徳円寺分岐より>
  西へ迂回した分、東へと戻りつつ峠を目指す。道程で残すところ丁度1kmだ。嵯峨川水源域の峰を登る。心持ち道幅が広くなり、勾配やカーブもそれ程ではな く、全般的に走り易い。周囲の様子も穏やかな雰囲気だ。峠を目前にしつつも残念ながらあまり遠望はない。それでも峠に近付くに従い、頭上の空が開けて行 く。
   
<駐車場>
 不意に道路脇に広い駐車場が出て来る。峠の切通しの直前である。寂しい道の割には、その広さはちょっと不可解に思われる。完全舗装と立派でもある。多分、観光目的とは思うが。
 
<「佐那河内いきものふれあいの里」の看板>
 傍らに「佐那河内いきものふれあいの里」の看板が立つ(下の写真)。それによると、この駐車場は「野鳥観察の丘駐車場」と名付けられているようだ。文献 (角川日本地名大辞典)にはわざわざ、昭和50年(1975年)に駐車場ができたとあるが、この駐車場のことであろうか。

広い駐車場 (撮影 2015. 5.26)
「野鳥観察の丘駐車場」という
   

「佐那河内いきものふれあいの里」の看板 (撮影 2015. 5.26)

看板の内容 (撮影 2015. 5.26)
   
<看板の内容>
 徳円寺分岐方向への記載は少ない。1.3kmとは車道が嵯峨川源流部を横切る地点だ。
 
 峠の切通し方向に多数並ぶ案内は、大川原林道を峠も過ぎて、大川原放牧場方面へと進んだ先にあるようだ。
 
<切通し>
 駐車場を過ぎると直ぐに切通しだ(下の写真)。佐那河内村側は峠の北面に当たるので、小さい切通しながらも薄暗い感じだ。佐那河内村から勝浦町側へ向かってやや登りとなる。
   

峠の切通し (撮影 2015. 5.26)

峠の切通し (撮影 2015. 5.26)
   
   
   
   
杖立権現越 (撮影 2015. 5.26)
手前が佐那河内村、奥が勝浦町
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<峠の様子>
 切通しを勝浦町側に抜けると、南に面している為もあって、パッと明るい雰囲気だ。杖立権現越の峠道は全般に暗く寂しい感じだが、峠のこの場所だけは、ちょっとした観光地の様相だ。
 
 今の杖立権現越は、佐那河内村から登って来た大川原林道が、峠の切通しを抜けるとUターンしてまた佐那河内村に戻り、西へと続く稜線に沿って大川原放牧 場方面へと延びている。峠前後で林道は絶えず登って行くのだ。峠は登ったら、次には降りなければならない。この林道の様子だけ見ていると、如何にも変則的 な峠で、峠らしい味わいは全くない。
 
<勝浦町側に下る道>
  さて、峠から勝浦町側に下る本来の峠道はというと、大川原林道から鋭角に分岐する狭く古びたコンクリート舗装の道となる(下の写真)。峠から直ぐに暗い林 の中に入ってしまい、一瞬、車道とは思えない有様だ。しかも、何の案内看板も立っていない。勝浦町の「か」の字もないのだ。峠周辺にはいろいろな看板が立 つが、ことごとくこの道の存在を無視しているかのようだった。
   

勝浦町側から見る峠 (撮影 2015. 5.26)
左に下るのが切通しを抜けて佐那河内村への道
右に分かれるのが勝浦町への道

勝浦町側に下る道 (撮影 2015. 5.26)
ちょっと見は車道とは思えない
   
<妻の感想(余談)>
 妻は地理が好きで中学校の授業で使っていた地図帳が今でも愛読書という人間だが、地形図や道路地図が読めず、方向感覚も悪い。峠からこの先、どこへ向かっていいのか理解できないでいる。私がコンクリート舗装の道を指し示しても、訝(いぶか)し気にするばかりだ。
 
 やっとそれ以外、進む道はないと理解すると、今度は運転を拒否し始めた。佐那河内村側は私がハンドルを握ったので、勝浦町側は妻の番と考えていたのだが、こんな道は運転できないと怯(おび)えている。さてさて困ったものだ。
   

勝浦町側に下る道 (撮影 2015. 5.26)
峠を背にして見る

勝浦町側より峠を望む (撮影 2015. 5.26)
   
<峠を訪れた訳(余談)>
  世間には無数の小さな峠があるが、この杖立権現越もその一つでしかない。この峠を訪れたのは、旅の途中のちょっとした偶然に過ぎない。
 
 あれは四国の東半分の範囲 を目途に旅をしている最中、ちょっと古いツーリングマップル(6 中国四国 1997年9月発行 昭文社)を眺めながら、どこの峠を越えようかと物色していた。すると、やたらと小刻みなカーブが続く道が目に留まった。ざっと見たところ、50回以上の急な カーブがある。後で調べると、馬木谷川合流点から勝浦町で県道16号に接続するまでの道だったようだ。地図にこれ程までギザギザに描かれるとは、実際 にはどんな道だろうかとやや興味を持った。
 
 その道は町村境を越えているので峠道ではあるが、峠に名前があるかどうかも分からない小さなものだ。道は主要地方道の格で、未舗装林道などの険しい道と は思われない。東西に細長い剣山地の東の端で、もう紀伊水道にも近い立地では、雄大な山岳道路も期待できない。偶然に旅程が合わなければ、一生越えること のない峠道であった。
 
 結局のところ、ギザギザ道には何の感想も持たなかった。この程度の屈曲は、峠道ならままあることである。ただ、峠に立つ標柱でこの峠に杖立権現越という 立派な名があることが分かった(下の写真)。それに、勝浦町側の道が非常に険しいことを知った。峠道を走り慣れた妻にとっても、その恐怖度はTOP5に入 る程である。何だか妻の恐怖心ばかりが印象に残った峠道であった。
   

勝浦町側から切通しを見る (撮影 2015. 5.26)
右手に「杖立権現越」と書かれた「四国のみち」の道標
これでこの峠の名を知った

杖立権現越の道標 (撮影 2015. 5.26)
   
<峠の標高>
 峠は旭ヶ丸(あさひがまる、1,020m)から中津峰山(なかつみねさん、773m)へと続く剣山地の東端の稜線に位置する。ここまで来ると山地の勢い も衰え、標高はあまり高くない。杖立山(724m)以東は稜線の起伏も少ない。峠は杖立山に続く標高650m余りの緩やかな鞍部に通じる。峠の標高を 650mとか655mとする資料を目にする。
 
 
<「四国のみち」の道標>
 勝浦町に下る道とは反対側の大川原林道沿いに、「四国のみち」の道標が立つ(右の写真)。大川原放牧場方面を指して「中山休憩所 2.5km」、徳円寺分岐方向には「徳円寺 1.5km」とある。

「四国のみち」の道標 (撮影 2015. 5.26)
   

「四国のみち」の看板 (撮影 2015. 5.26)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<「四国のみち」の看板>
 道標とは別に「四国のみち」に関する詳しい看板が、道標とは林道を挟んで対角の位置に立つ。現在地が杖立権現越という名であることがここでも示されている。この峠は2コースある「四国のみち」の交差点となる。
 
 峠から勝浦町に下る道は「四国のみち」ではないので仕方がないが、看板の地図に全く描かれていない。ここでも無視されていたのであった。
   
<「佐那河内いきものふれあいの里」の看板>
 峠にあるものは、この峠が「野鳥観察の丘入口」であることと、峠の切通しの先40mに「野鳥観察の丘駐車場」があることのみ記してある。
 
 
<「危険な動植物」の看板>
 ニホンマムシ、ススメバチ、イラガ幼虫、ハゼノキ、ヌルテが列記されている(下の写真)。

「佐那河内いきものふれあいの里」の看板 (撮影 2015. 5.26)
    

危険な動植物の看板 (撮影 2015. 5.26)

マムシなどが列記される (撮影 2015. 5.26)
   
<婆羅尾峠への山道>
 杖立権現越は車道の三叉路であるが、もう一本、山道が東の稜線方向へと登って行く(下の写真)。「四国のみち」の道標 では「婆羅尾峠 5.7km」へと書かれている。脇に「危険な動植物」の看板が立つのは、この山道を行く場合の注意でもあるようだった。
   

「野鳥観察の丘」への入口 (撮影 2015. 5.26)
婆羅尾峠への道でもある

婆羅尾峠の道標 (撮影 2015. 5.26)
   

「佐那河内いきもの愛ランド」の看板 (撮影 2015. 5.26)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<佐那河内いきもの愛ランド>
 その山道を少し登ると、「佐那河内いきもの愛ランド」という看板が立つ。峠より連絡歩道を400m行くと、「野鳥観察の丘」があるようだ。佐那河内村と勝浦町との境の峰に広がる、なかなか大きそうな園地と思われる。婆羅尾峠へはその中を通って行くようだ。
 
<東山溪県立自然公園>
  峠を含む一帯は、東山溪県立自然公園となる。峠周辺にある「野鳥観察の丘」から大川原高原に至るまで、行楽地化が進んだようだ。大川原林道はその幹線路的 な役割として整備されたのではないだろうか。その一方で、峠から勝浦町へと下る車道は取り残された感がある。それが、道の険しさとして残ったようだ。
   
<婆羅尾峠(余談)>
 ところで、峠となると、その婆羅尾峠の存在が気になって来る。婆羅尾は「ばらお」と読むようだ。地図を調べてみると、徳島市と勝浦町を結び、婆羅尾林道 が通じている。地図上に名前の記載はないが、その林道の峠が婆羅尾峠であろう。ここにもまた一つ、小さな峠があった。まあ、一生訪れることがない峠道であ ろうが。
 
<杖立権現>
 文献などによると、峠に茂る樹木の中に杖立権現が祀られており、それが峠名の由来だとのこと。そのことを後で知り、峠で撮った写真にそれらしい物が写っ てないかといろいろ調べてみたが、残念ながら見当たらない。峠に車道を開削した折り、切通しを掘り下げただろうが、その時に権現社は林の中に残されたのだ ろう。一目見てみたかった。

「野鳥観察の丘」へ登る道 (撮影 2015. 5.26)
5.7km先には婆羅尾峠がある
   
   
   
峠より勝浦町側に下る
   

勝浦町側に下る (撮影 2015. 5.26)
<道の様子>
 渋る妻を説得し、妻の運転で勝浦町へと下る。妻は本来車の運転が好きで、自分でも運転はうまい方だと自負している。険しい道では慎重にゆっくり走るので、私が運転するより安全かもしれない。
 
 大川原林道から分かれるこの林道の名前は不明だ。そもそも何の看板も立っていないので、本当に勝浦町側に下るのかもやや不安が残る。
 
 道は険しいことは確かなのだが、なかなか画像ではその感じが出ない。やはり体感してみないと、この険しさは分からないようだ。それに、暗い林の中でガタガタ揺れる車内から写真を撮っても、皆ブレてしまった。使い物にならない。
   
 険しさの要因の一つには、路面の荒れようだ。一応コンクリート舗装されているものの、落葉などが堆積し、見た目には未舗装林道に近い。廃道とは言わない が、あまり保守が行われずに寂れ放題だ。次に道が狭いこと。樹林に囲まれ、待避所もほとんどなく、逃げ場のない感じだ。この閉塞感には気が滅入る。妻はや たらと対向車を気にする。確かにこれでは離合はとても厄介な作業になるだろう。
 
 ただ、実際のところ、断崖絶壁といったような箇所はなく、万が一路肩を踏み外しても命まで取られることはなさそうだ。それでも、こんな山中で脱輪し、身動きできなくなるのも恐ろしい。運転は慎重にしたい。
   
<坂本>
 峠のこの南側は、勝浦町の北西端に位置する坂本の地となる。昭和30年(1955年)頃までは、この坂本地区と佐那河内村との間には往来が多くあったそう だ。勿論、徒歩での行き来である。峠を越えて静かな山道が通じていた。時に、勝浦町側からは遠く剣山へと向かった者も居たそうだ。
 
<車道の開通>
 峠に車道が達したのは、昭和46年(1971年)になるようだ。佐那河内村の嵯峨から峠を経由し、大川原高原に抜ける大川原林道が開通した。一方、坂本 集落からも峠に上る林道が開削される。古いツーリングマップ(中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社)では、坂本側の林道はま だ未舗装表記になっていた。
 
 こうして峠を越えて車での往来が可能になり、その後舗装化も進んだ訳だが、それでも坂本側の道は険しいままだった。ちょっと大きな乗用車では、入り込みたくない道である。車道開通で再び嵯峨と坂本との往来が盛んになった、という感じはあまり受けないのであった。
 
 それでも、佐那河内村の徳円寺はシャクナゲの群落で有名だそうだ。5月のシーズンには深い山の中の寺が大勢の人で賑わうとのこと。また、大川原高原や四国のみち、 野鳥観察の丘などといった観光地化が峠の周辺で進んでいる。隣り合う集落間の往来ではなく、観光目的での峠道の利用は増えているのかもしれない。
   
<若干の展望>
 道は一路南東へ向かい、東の端に出た所でちょっとした展望がある。麓に流れる坂本川の谷を見渡すことができる(下の写真)。勝浦町側の展望はこの程度だ。この後、道は急カーブで西へと方向転換し、また暗い林の中へと入って行く。

ちょっと開けた個所に出る (撮影 2015. 5.26)
   
ちょっと景色を眺める (撮影 2015. 5.26)
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
   
<大きな蛇行>
 道は東へ西へと大きく蛇行する。西の端に着くと分岐がある(下の写真)。看板はしっかりしている。峠方向に「佐那河内 杖立峠」、「杖立、名東」などとある。西へ分岐する道は行止りのようだ。
   

分岐 (撮影 2015. 5.26)
左が本線で、ここよりまた東へ向く

分岐に立つ看板 (撮影 2015. 5.26)
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
   

中継地点に出る (撮影 2015. 5.26)
<中継地点>
 再び東の端に至ると、擁壁の下でちょっと道が広くなった場所に出る。待避所などほとんどない道で、ここは手頃な中継地点となる。運転で緊張しているので、一息入れるのにいい場所だ。小さな谷間で何の景色も広がらないが、ちょっと開けているというだけでホッとする。
   

中継地点より峠方向を見る (撮影 2015. 5.26)
左が坂本集落へ、右は峠へ

中継地点 (撮影 2015. 5.26)
休憩にいい場所
   
<擁壁の案内図>
  砂防ダムを兼ねたような擁壁には、案内図が大きく描かれていた。峠を経由し大川原風力発電へと至る。これから下る勝浦方面には「ふれあいの里 坂本」とあ る。
 
 ここより更に東へと進む道は地図では「×」となっているが、地形図などではどこかへ抜けているようだ。しかし、見るからに荒れた道だ。

擁壁に案内図 (撮影 2015. 5.26)
   
   
   
中継地点以降
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
まだまだ狭い道が続く
<古道は?>
 中継地点で反転し、また西へと大きく蛇行して行く。蛇行の振れ幅は長い区間では1km以上にもなり、これ程冗長的なのはやはり車道ならではかと思う。
 
 一方、古い峠道の道筋がどこにあったかは分からない。地形図には現在の車道の道筋以外は描かれていないのだ。峠の東400mの稜線上、丁度「野鳥観察の 丘」辺りから坂本の集落内へと下る徒歩道(点線表記)が見られるが、これではないだろう。この林道の険しさからすると、昔の山道をそのまま車道にまで改修 したかとさえ思えた。実際は、大きな蛇行を一部ショートカットするような道が、昔はあったのではないだろうか。
 
 中継地点を過ぎても、相変わらず寂れた道が続く。それでも進むに連れ、石垣を積んだ畑のような場所が出て来たり、竹林になっていたりして、人里に近付いている感じがした(下の写真)。
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
石垣が出て来た

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
竹林中を行く
路肩が切れ落ちていて、ちょっと怖い
   
   
   
坂本集落へ
   

集落内の道に出る (撮影 2015. 5.26)
<集落内の道へ>
 峠より寂れた道を4km程も下って来たろうか、やっと道らしい道に出た。狭い急坂急カーブの道だが、少なくとも落葉は溜まっておらず、日常的に使われている様子がうかがえる。そのカーブの途中にひょっこり顔を出した。
   
<杖立峠への看板>
 ツーリングマップルには、勝浦町側の道に「ミカン畑の中 迷う」とコメントされている。道はこれまでも大きく蛇行し、これから先も坂本の集落内を右往左往 する。案内看板がなければ、これは確かに迷うであろう。
 
 しかし今は、要所要所の分岐に簡単ながらも道案内の看板が立つ。集落内の道に出た分岐を振り返る と、そこにも「佐那河内 杖立峠」と案内されていた(右の写真)。勝浦側から峠を目指した場合、こうした看板さえ見逃さなければ、迷うことはなさそうだ。 その点、佐那河内側からは薄情である。峠には「勝浦」とか「坂本」といった文字は一切見られない。

分岐方向を振り返る (撮影 2015. 5.26)
「佐那河内、杖立峠」と看板にある
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
<集落内を下る>
 集落に出たと言っても、坂本は急傾斜地に広く人家が点在する集落だ。まだその上部の一端に取り付いたに過ぎない。暗い林から抜け出て視界は広がり、気分は良いが、道はまだまだ険しい。
 
<勝浦ミカン>
 勝浦の地は勝浦ミカンで知られていて、この坂本は発祥地とのこと。南に面した暖かそうな斜面に人家やミカン畑が広がる。それらを繋いで細い道が縦横に通じる。
   
坂本集落を見渡す (撮影 2015. 5.26)
   
<建屋>
 沿道には建屋も見られるようになる。この険しい地形によく建てたものだと思う。
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
ここを下った所に最初の建屋

建屋の脇を下る (撮影 2015. 5.26)
   
<道の様子>
 道は集落内に入って、ある意味険しくなった。傾斜もカーブもやたらに急である。元からあった集落内を往来する山道を無理やり車道化したような感じだ。これまで は沿道の樹木が車の転落防止にもなっていたが、集落内では路肩がストンと切れ落ちている。見通しはいいが、かえって恐怖心をあおる。ここを生活路として普 段から行き来するのは、大変なことに思われた。

この先急カーブ (撮影 2015. 5.26)
   

この先に林道の碑が立つ (撮影 2015. 5.26)
<林道の碑>
 人家の屋根の脇を過ぎ、小さな沢を渡った先で妻が車を停めた。どうしたのかと思っていると、何か石碑が立っていると言う。石垣の上にポツリとそれはあった。
   
<勝浦名東峯越林道>
 石碑には「勝浦名東峯越林道」と題字があった。勝浦と、佐那河内村がある郡名の名東(みょうどう)とを結ぶ、峰越林道という訳だ。これは正しく坂本集落 から杖立権現越の峠に登る林道の名前であろう。この道に関しては林道看板など全く見られず、これまで名前が分からなかったが、これで判明した。
 
 碑文の日付は昭和50年1月吉日とある。それがほぼ勝浦名東峯越林道の竣工時期であろう。大川原林道が昭和46年だから、それに数年遅れて開通したらしい。杖立権現越の完全車道化は昭和50年頃という訳だ。
 
 それにしても、動体視力の良い妻が居たお陰でこの石碑の存在も分かった。妻に感謝である。

林道の碑 (撮影 2015. 5.26)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
林道の碑以降
   
<道の様子>
 下るに従い、徐々に道も良くなっていく。道幅が広くなり、何といってもガードレールが付いているのがあり難い。この安心感には代えられない。景色を見るゆとりも出て来る。
   
道の様子 (撮影 2015. 5.26)
   
<幹線路へ>
  地形図では、峠からずっと一本線で描かれる「軽車道」であったが、それがやっと2本線で書かれる「1車線の道路」に合流する。坂本地区の中腹を東西に横断 するちょっとした幹線路である。その分岐の角にも道案内の看板が立つ。幹線路を走って来た場合、この看板を見逃すと厄介だろう。
   

ちょっとした幹線路に出る (撮影 2015. 5.26)

幹線路からの分岐に立つ看板 (撮影 2015. 5.26)
   

東西方向に伸びる道 (撮影 2015. 5.26)
<幹線路を西へ>
 中腹に通じる幹線路は西に向かって下って行く。少し迷ったがそちらへと進む。幹線路などと言っても、相変わらず道幅は狭い。道が横切る斜面の傾斜は急だ。しかし、その分眺めは良い。
   
<内谷川上部>
 道は坂本川の支流・内谷川の上流部を横切って行く。眼下には谷に広がる坂本集落の様子が手に取るように見渡せる。
 
 杖立権現越はこの内谷川の源流部に位置する。上方を望むと、先程通って来た道のガードレールがちらりとのぞいた(右の写真)。随分険しい場所に通じているものだ。

峠方向を望む (撮影 2015. 5.26)
通って来た道のガードレールが上の方に見える
   
集落内を縦横に走る道 (撮影 2015. 5.26)
   
道の様子 (撮影 2015. 5.26)
内谷川の上流部を西へと巻いて進む
   

周辺の道の様子 (撮影 2015. 5.26)
上の方にも人家
 周辺を見渡すと、急な斜面のあちこちに人家が点在する。そしてそれらを繋いで細い枝道が通じる。
   
 こちらの本線もクネクネ曲がって急坂を下りだす。暫く行くとかなり安定して来て、道への不安はなくなった。ちょっと分かり難い分岐には、相変わらず道案内の看板が立ち、杖立峠を指し示している。

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
谷を下りだす
   

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
この先急カーブ

道の様子 (撮影 2015. 5.26)
谷の底へと降りて行く
   

内谷川沿いに下る (撮影 2015. 5.26)
この先、一旦停止の十字路
<内谷川沿い>
 いつしか小さな川の右岸沿いを下っている。それが内谷川だ。
   
<内谷川の看板>
 一旦停止の十字路に出ると、その側らに「土石流危険渓流」と看板が立つ。これからも険しい地形であることが分かる。内谷川が勝浦水系であることも示されていた。

内谷川の看板 (撮影 2015. 5.26)
峠方向に見る
   

県道16号に出たところ (撮影 2015. 5.26)
<県道16号に接続>
 間もなく本流の坂本川を渡り、坂本川に沿う県道(主要地方道)16号に出る。峠から約6kmの道程であった。ここで折立権現越の峠道は終了となる。
 
<峠を望む>
 県道16号からは内谷川の谷間が見渡せる(下の写真)。峠のある稜線まで水平距離で2kmと近いが、峠が位置する鞍部はあまり明確でなく、峠の所在は定かでなかった。
   
県道16号より峠方向を眺める (撮影 2015. 5.26)
峠は正面やや右寄り辺りだと思う
   
   
   
 杖立権現越は小さな峠だが、こうした立派な名前があることからすると、古くから使われていた峠道かもしれない。 やっと昭和50年頃になって車道が通じたが、県道としては以前として未完成のままだ。峠の下にトンネルが開通するような気配はない。 県道に代わって寂しい林道が峠を越えているが、今の杖立権現越は車道の峠道としてはあまりに険しい。 今回の旅でも未完成県道へと突き進んで行った軽トラ以外、峠前後で一般車を全く見掛けなかった。 今後も峠道として存続されていくのか不安にさせられる、杖立権現越であった。
   
   
   
<走行日>
・2015. 5.26 佐那河内村 → 勝浦町 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<参考動画(YouTube)>
杖立権現越/佐那河内村(3倍速)
杖立権現越/勝浦町(3倍速)
 
<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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