ホームページ★ 峠と旅
中峠
  なかとうげ  正確な読み方は不明 (峠と旅 No.282)
  糸魚川静岡構造線の断層崖を駆け上がる峠道
  (掲載 2017. 8.25  最終峠走行 2013. 5.19)
   
   
   
中峠 (撮影 2013. 5.19)
手前は長野県諏訪市大字湖南(こなみ)の北真志野(きたまじの)方面
奥は同大字湖南の後山(うしろやま)方面
道の名は不明(旧県道442号・諏訪箕輪線)
峠の標高は約1,210m (峠の標柱では標高1,236mとある)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ご覧の通り、未舗装林道が通じる寂しい峠
この付近には似たような峠が幾つかある
 
 
 
   

<掲載理由(余談)>
 前回の杖突峠(つえつき)と、 それに横並びとなる芝平峠(しびら)、金沢峠(かなざわ)、南峠、真志野峠(まじの)、中峠などは皆、糸魚川静岡構造線の断層崖上に位置する。 杖突峠だけ別格で快適な国道が通じるが、他は険しい地形を反映してその峠道も険しい。真志野峠などは地図上にその名は記載されているものの、車道は通じていないようだ。 他の芝平、金沢、南峠、中の各峠には辛うじて林道が通じてはいるが、どれも林の中に佇む寂しい峠である。
 
 ただ、杖突峠に比べると、これらの峠道は規模が小さく全体像を把握し易い。また、歴史的な内容が少ないか、そもそも分からないので、余計な詮索をせずに済む。 既に南峠を掲載してあるので、前回杖突峠を話題にしたついでに、ちょっと中峠でも取り上げてみようかという軽い気持ちである。

   

<所在>
 峠は長野県諏訪市の大字湖南(こなみ)の中にある。峠はあまり明確な行政区域の境になっていない。 峠の北側、諏訪盆地の端の山麓部に湖南の北真志野(きたまじの)があるのははっきりしているが、一方、峠を南に越えた山間部には湖南の後山(うしろやま)、 椚平(くぬぎだいら)、板沢(いたざわ)といった集落が一帯に点在する。中峠は、地形的には北真志野と板沢集落とを結ぶが、現在の道筋は青木沢と繋がるようだ。 更に、後山・椚平とも縁は薄くない。まあ、広く見れば、諏訪盆地にある諏訪市街と、一山越えた諏訪市の山間部の集落群を繋ぐ峠道と言える。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 諏訪湖や諏訪盆地に糸魚川静岡構造線が通り、その南側に断層崖となる峰が連なる。その中で、中峠は比較的西の端に位置する。 更に西には有賀峠(あるがとうげ)があるが、ここには県道50号(主要地方道)・諏訪辰野線が通じ、断層崖もかなり落ち着きを見せている。 断層崖を越える険しい峠道としては、中峠が西の最初と言える。

   

<水系>
 峠の北側には中ノ沢川が急な断層崖を流れ下り、新川(しんかわ)に注ぐ。新川は諏訪湖に流入する26もの河川の一つとなる。一方、諏訪湖から流出する河川は一つで、それが天竜川である。
 
 峠の南側は微妙ながら上野川水域にあるようだ。天竜川の支流である。峠は上野川の支流の上部に位置する。上野川水域に板沢集落が位置する。 しかし、道としては間もなくは沢底川(さわそこ)本流沿いに至り、そこに青木沢集落が見える。沢底川は穏やかに流れ下って辰野町(たつおまち)で天竜川に注ぐ。
 
 よって、峠道全体は天竜川水系にある。峠部分は新川(狭くは中ノ沢川)と上野川(狭くはその支流)との分水界となるが、峠道としては中ノ沢川水域と沢底川水域を繋ぐと言える。

   

<湖南を分ける峰>
 地形(水系)的に見ると、中峠の南側は天竜川本流沿いであり、その意味で伊那谷にあると言える。ところが、行政区域としては同じ諏訪市の湖南(こなみ)に属す。 そもそも後山などの集落は、古くは後山新田村(うしろやましんでんむら)と呼ばれ、真志野から人が入り、新たに金鉱や耕地を開拓して始まった。 地形的には険しい峰を越えなければならないが、距離的には天竜川沿いの辰野町(たつのまち)や箕輪町(みのわまち)側から遡るより近い。真志野から後山・椚平・板沢へ向かった時に越えたのが、その名の通り、真志野峠であったようだ。

   

<峠名>
 中峠の名は地形図や一般の道路地図で掲載されているのを見たことがない。しかし、峠に大きな標柱があり、そこに「中峠」と書かれている。 その点、南峠は県別マップル(長野県)に載っているし、峠の標柱もある。ただ、南峠も中峠も、その峠名の由来がこれまでさっぱり分からなかった。
 
 文献(角川日本地名大辞典)では、湖南の新川に断層崖から流れ込む支流を東側から列記すると、「権現沢川・唐沢川・小田井沢川・砥沢川・明野沢川・中ノ沢川」としている。資料によっては砥沢川を「碇濃川」とするものもあるようだ。
 
 ともかく、中ノ沢川の源流部に中峠があることが判明した。峠は人工的に造られるもので、自然の川はそれより前から存在する。初めに川の名「中ノ沢川」があり、その上流部に通じた峠なので、川の名を取って「中峠」とした、と考えるのがよさそうだ。
 
 多分、「中ノ沢川」は元は単純に「中ノ沢」と呼んでいたものと思う。それからすると、峠の方も「中ノ峠」と書いたかもしれない。現在は「中峠」と書くが、発音としては「なかのとうげ」なのかもしれない。ここでは一応「なかとうげ」とするが、明確な根拠はない。
 
 更に、「中」の由来は何かとなると、付近にそのような地名などは見付からず、これはさっぱり分からない。

   

<南峠の名(余談)>
 ところで、砥沢川(碇濃川?)と明野沢川の間にもう一本支流があり、その名が「南沢川」だった。 南峠は厳密には砥沢川(碇濃川?)の源流部に位置するが、登り始めは南沢川から明野沢川に掛けてである。明野沢川の源流は真志野峠なので、その東隣の峠は南沢川の名を取って「南峠」としたのではないだろうか。南峠のページでは、峠名に関してあれこれ邪推したが、これでややはっきりした。ただ、南峠を「みなみとうげ」と発音するかどうかは、これも確証はない。

   
   
   
北真志野より峠へ 
   

<県道16号沿い>
 湖南(こなみ)の諏訪盆地に面する地域では、新川沿いに県道16号(主要地方道)・岡谷茅野線が町の幹線路として通じる。 元は左岸沿いだったが、現在は右岸に真っ直ぐなバイパス路ができたようだ。元の曲がった県道16号は糸魚川静岡構造線の断層崖に沿っていて、南峠(真志野峠も入口はほぼ一緒)や中峠へはここより分岐して峠道が始まる。
 
 しかし、県道沿いのどこにも南峠や中峠の案内看板などは出ていない。ごちゃごちゃと狭い道が沢山分かれていて、どこが峠道の入口かさっぱり分からないのだ。 今回は、東の諏訪大社上本宮社方面からやって来たが、中ノ沢川よりずっと手前で県道を曲がってしまった。 北真志野集落内の狭い道を迷走しながらも中央道沿いにある西山公園脇を通って、どうにか中ノ沢川沿いに出た。
 
<湖南郵便局(余談)>
 後でよくよく地図を見ると、中峠へは県道16号沿いにある湖南郵便局の角を曲がると良さそうだ。そんなことは事前に調べておけばいいのだが、峠の旅はいつも無計画である。 折角計画しても通行止で無駄になることもあり、通行に時間が掛かって思うように峠が回れないこともある。その為、大抵は行き当たりばったりで、それはそれで面白い旅となるのだった。

   

中ノ沢川を上流方向に見る (撮影 2013. 5.19)
右手に中央道開通記念の碑が立つ

<中央道開通記念>
 中ノ沢川沿いに出た場所は西山公園の一角にある蓼宮神社の近くだったようだ。その時はまだ川の名は知らなかったが、側らを急傾斜で流れ下るのが中峠を源流とする中ノ沢川である。折しも、多数の鯉のぼりが川に渡されていた。左岸沿いには「中央道開通記念」と書かれた大きな石碑が佇む。
 
 中峠や南峠へのアクセスを複雑にしている要因の一つが中央道の存在である。県道16号より更に崖側の高みに通じる。 この道路をくぐるか跨ぐかしなければならず、その経路が限られる。中ノ沢川沿いに真っ直ぐ道が通じていれば一番分かり易いのだが、川は急流で、車道は通し難かったようだ。

   

<中央道を越える>
 道は中ノ沢川の左岸方向にちょっと迂回して橋で中央道を越えていた。更に進むと、また右岸へと戻り、振り返ると諏訪湖が望めた(下の写真)。 中峠や南峠、杖突峠などもそうだが、諏訪盆地側は急な斜面に道が通じるので、少し登ると直ぐにも諏訪湖やそれに続く諏訪盆地の景色が広がる。諏訪市の中心街に立ち並ぶビルなども遠望できる。

   
中央道より上流側に出る (撮影 2013. 5.19)
左側の緑色の人家近くに中ノ沢川が流れ下る
奥に諏訪湖を望む
その右手が諏訪市の中心街
   

<中ノ沢川沿いを目指す>
 道は蛇行し分岐もあるが、なるべく中ノ沢川沿いに近い道を選んで進む。付近の史跡などを巡るウォーキングコースの看板が立つ分岐を右に進むと、やっと中ノ沢川方向に向いた。

   

ウォーキングコースの看板 (撮影 2013. 5.19)
杖突峠旧道周辺でもこうした看板を見掛けた
ここでコースとは反対方向の右に進む

この先、直進すると中ノ沢川沿い (撮影 2013. 5.19)
手前を左に分岐がある
どちらも未舗装
   

<砂防ダム>
 左に分岐を見た後は未舗装路となり、いよいよ中峠へ向けての峠道が始まった・・・、と思ったら、間もなく大きな砂防ダムに突き当たって、道は途絶えた(下の写真)。中ノ沢川に架かるダムで、この麓の北真志野の集落を直前で守る大事な存在だ。
 
 それにしても、何とトリッキーな道であろうか。砂防ダムができる前は、ここに本来の峠道が通っていたのかもしれない。ダム建設に伴いダム下流側の道が作業道として使われ、今は保守用の道として残されているようだ。それに迷い込んでしまったらしい。


未舗装路を直進する (撮影 2013. 5.19)
   
大きな砂防ダム (撮影 2013. 5.19)
比較的新しそうだ
ここで道が行き止まった
   

<迂回路へ>
 未舗装路を引き返し、舗装になる所の分岐を右(東)に入る。川から離れる方向だが、これしかルートが見当たらない。

   
ダムへの道を戻る (撮影 2013. 5.19)
この先、右に入る
   

<誤植>
 後で地形図や道路地図を見ても、この部分は誤植となっている。地図では、峠への本線は砂防ダムから先に続いていることになっているのだ。しかし、実際は一旦東に迂回する道を進み、その後、西に道が延びる。その部分が地図には描かれていない。

   

迂回路に入る (撮影 2013. 5.19)
こちらも未舗装

再び中ノ沢川方向に向く (撮影 2013. 5.19)
この部分が地図に載っていない
   

<中ノ沢川右岸>
 迂回路を通ってやっと中ノ沢川の右岸沿いに出る。右下に先程の砂防ダムがちらりと覗く。この部分の道は砂防ダム建設に伴い付け替えられたのではないだろうか。川面よりずっと高みに通じ、砂利道ながらもよく整備されて、道幅は広くガードレールも完備されている。

   
右下に砂防ダムがある (撮影 2013. 5.19)
ここは砂防ダム誕生により新しくできたる道筋だろう
   
   
   
中ノ沢川右岸以降 
   

中ノ沢川右岸沿い (撮影 2013. 5.19)

<中ノ沢川右岸>
 道は新しい為か、安定している。本来、断層崖を登る険しい道の筈が、やや拍子抜けだ。
 
 しかし、間もなく大きなS字カーブに差し掛かる(下の写真)。右下の谷底に砂防ダムがちょっと覗いた。北真志野はその直近にある2つの大きな砂防ダムで守られているようだ。S字カーブを成す急坂は2番目の砂防ダムの上部へと登る為のようだった。

   

S字カーブの途中 (撮影 2013. 5.19)

S字カーブに差し掛かる (撮影 2013. 5.19)
右下には次の砂防ダム
   

<中ノ沢川沿い>
 ダム堰堤脇を過ぎて150m程行くと、右手にダム上部への道が分かれる。そちらが麓から上って来る元の道筋であろうか。
 
 その後、道は中ノ沢川右岸にぴったり沿う。道の様相も、如何にも古そうだ。落ち着いた雰囲気がある。川には水の流れは全く見られなかったが、一たび大雨が降れが、激流が流れ下るだろうと思われる様な急勾配だ。天候によっては怖い道となろう。

   
中ノ沢川の脇を進む (撮影 2013. 5.19)
昔からの味わいがある峠道 (個人的感想です)
   

<谷の様相>
 進むに連れ、谷はますます険しい様相を示す。道が左岸に渡った先で、砂防ダムが何段にも連なっていた。黒っぽいダム擁壁で、鋼板か何かの枠の中に石でも詰められているような構造だった。


ここから左岸へ (撮影 2013. 5.19)
   
中ノ沢川左岸 (撮影 2013. 5.19)
幾つもの砂防ダムが連なる
   

S坂に差し掛かる (撮影 2013. 5.19)

<再びS坂>
 道はまたSの字の急坂でその砂防ダムの上部へと登って行く。この部分だけはコンクリート舗装されていた。

   

S坂を登り切る (撮影 2013. 5.19)

S坂を見下ろす (撮影 2013. 5.19)
なかなか険しい
   

<白いダム>
 黒っぽい砂防ダムの上流部には、今度は白い砂防ダムが続く。こちらは一般的なコンクリート造りのようだ。

   
谷の様子 (撮影 2013. 5.19)
白いコンクリート製の砂防ダムが続く
   

<麓方向を望む>
 谷が僅かだが広がった箇所を通る。麓方向を望むと、木々の間からちらりと麓の諏訪盆地が覗いた。杖突峠などは快適な国道が通じ、峠直前まで広々とした景観が続く。 しかし、中峠や南峠は、山に入るともう視界がほとんどない。金沢峠へと続く金沢林道も似ているが、あちらは途中に展望台があり、同じ断層崖にあってもやや事情が違うようだ。、

   

谷を麓方向に見る (撮影 2013. 5.19)
この部分、やや谷が広い

樹間に僅かに麓が覗く (撮影 2013. 5.19)
   

<砂防ダムを横切る>
 左手から登って来た砂防ダムの続きが、右手へと登って行く。道はその間を横切って再び谷の右岸へ出る。

   

左手に砂防ダムが下る(撮影 2013. 5.19)

右手に砂防ダムが登る (撮影 2013. 5.19)
   

<谷の上流部へ>
 その後、砂防ダムは沿道から消える。川らしさも薄れ、中ノ沢川の谷も上流部となる。道は屈曲しながら峠を目指す。路面もやや荒れた感じを受ける。

   

道の様子 (撮影 2013. 5.19)
やや荒れた感じ

道の様子 (撮影 2013. 5.19)
   
   
   
 
   

<峠>
 断層崖の頂上にあることを象徴するかのように、道は最後の急坂を登って峠に着く。一方、峠から先の山間部集落方面へはなだらかに道が下る。 峠部分は意外と広く、安定した雰囲気だ。周囲は暗い感じはないが、林に囲まれ視界は全く広がらない。 そして、この寂しい峠の唯一の装飾として、側らに木製の大きな標柱が一本立つ。中峠は素朴な峠である。


前方が峠 (撮影 2013. 5.19)
急坂の向こうに峠の標柱が見える
   
北真志野側から見る峠 (撮影 2013. 5.19)
右手に峠の標柱が立つ
山間部集落方面は穏やかだ
   

北真志野方面を見る (撮影 2013. 5.19)
急坂が下る
左手に峠の標柱が立つ

峠より北真志野側に下る道 (撮影 2013. 5.19)
諏訪盆地の眺望はない
   

峠より山間部集落方向を見る (撮影 2013. 5.19)
穏やかな道が延びる

<道程>
 中央道を越えた辺りから峠まで3kmに満たない短い距離だ。道は急坂・急カーブの連続でそれなりに険しいが、車ならのんびり走っても20分に満たない。
 
 一部のコンクリート舗装を除いてほぼ未舗装路となる。それでも走り難いという感じはない。路面はまあまあ良好だ。 対向車など一台の車も見掛けなかったが、それなりに利用され、整備されている林道のように思えた。

   

<峠の標柱>
 木製の標柱はそれなりに傷んでいて、黒書きされた文字を読むのも苦労する。辛うじて下記のように書かれていると分かった。
 中峠
  標高一二三六米
  北真志野生産森林組合

 
 ちなみに南峠に立つ標柱には次のようにある。
 南峠
  標高一、二二一米
  南真志野生産森林組合

 
 北真志野と南真志野の違いがあるが、どちらも生産森林組合によるもので、同じような書き方の標柱である。多分、同時期に建てられた物だろう。 中峠も南峠も、文献などではその歴史に関して全く分からない。しかし、こうして峠名を記した標柱が建てられるところからみて、それなりに古い歴史がある峠だと推察する。 現在は林道が開通して、車が越えられる峠であるが、それより以前、人が徒歩で越えていた時代からこの中峠は存在したのではないだろうか。
 
 尚、標柱の裏側には何か彫られている。いたずら書きかもしれないが、何が書かれているかは読めない(下の写真)。


峠の標柱 (撮影 2013. 5.19)
   

標柱の裏側 (撮影 2013. 5.19)
何か文字のような物が彫られているが、意味は分からない
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<標高>
 この中峠の標高は、地形図で読むと約1,210mに道が通じている。標柱に示される1,236mとはやや異なる。一方、南峠では標柱が示す1,221mと地形図上の1,218mという数値は数mの差でほぼ一致していた。
 
<峠の別ルート>
 地形図を見ると、中峠や真志野峠・南峠の周辺には無数の道(車道とは限らない)が通じる。 中峠の南東400mくらいの所にも峠道が一本通じ、丁度中峠のバイパス路の様な存在になっている。中峠の北真志野側直前で分かれて峰を越え、真志野峠や南峠から下って来た沢川(田無川とも)沿いの道に接続する。その峠の標高が約1,240mくらいで、標柱に示す標1,236mにかなり近い。
 
 これはあくまで憶測だが、その別ルートも中峠の一種ではなかったろうか。現在の中峠より、より短距離で沢川沿いに降り立ち、その下流にある後山集落へは最短路となる。何かの手違いで、その峠の標高が、今の中峠に立つ標柱に書かれてしまったのではないかと思ったりする。

   

<峠からの分岐>
 地形図では中峠自身からも道が分岐する。峠から西方の上野川水域へと下る徒歩道が描かれている。上野川は辰野町で天竜川に注ぐ支流である。 その道は峠の標柱に向かって右手から始まっているように思う。確かに何となく道がありそうにも見える。ただ、車が通れるような代物ではなく、歩くのも大変そうだ。果して徒歩道としても続いているかどうか分からない。

   

標柱の脇に道のようなもの (撮影 2013. 5.19)

標柱の裏手の様子 (撮影 2013. 5.19)
ここから下る谷が上野川の支流の一つと思う
   

<パジェロ・ミニ(余談)>
 2016年でそれまで乗っていた黄色のパジェロ・ミニは廃車とし、その後はピンクのハスラーで旅に出掛けている。 今写真で見ると、パジェロ・ミニの最低地上高は大きく、林道では圧倒的な安心感があった。軽自動車なので、中峠の道の様に急なS字カーブでの取り回しも良い。 ただ、パートタイム4WDの為、時折出て来るコンクリート舗装ではいちいち切り替えなければならないが、ハスラーの簡易的なフルタイム4WDより信頼感がった。
 
 しかし、峠に付き物の坂道が苦手だった。中峠に辿り着いた時も、ボンネットのなかからグツグツ音がする。ボンネットを開くとラジエーターが唸っているのだ。 意外に大きな音である。今にも沸騰した水蒸気が噴き出して来るんじゃないかと恐ろしくなる程だ。それでいてエンジンが止まる訳でもなく、平然と動いてくれていた。 ただ、心配は心配なので、峠で休む時は冷却効果を上げる為、ボンネットを開けておくのを常とした。今では懐かしい思い出である。


中峠で休憩 (撮影 2013. 5.19)
ボンネットを開くのはいつものこと
   
   
   
山間部集落方面へ 
   

峠を南に下る (撮影 2013. 5.19)
右手に谷を見る

<峠の南側>
 道は最初、上野川の支流の谷を右手に臨む。この川の下流に湖南の山間部集落の一つ、板沢(いたざわ)があるようだ。 現在の峠道はこの先、沢底川沿いへと下ってしまうが、本来の中峠としては北真志野と板沢の集落を結ぶ峠と言える。その意味では峠の標柱脇から下る徒歩道の方が、峠道としては本線的な存在だ。
 
<板沢(余談)>
 江戸期より板沢新田村(いたざわしんでんむら)があった。慶安(けいあん)3年(1650年)北真志野村を親村として岩本姓の人々により開発されたそうだ。明治7年(1874年)に湖南村の一部となっている。板沢にはまだ訪れたことがない。どんな集落であろうか。

   

<林道中峠後山線の分岐>
 峠から100m余りも下ると明確な分岐がある。斜め左に車道が登って行く。 地形図では、上野川(あるいは沢底川)水域から沢川水域へと分水界を越え、中峠の一つ東の峠を越えて来た道に接続し、更に下って南峠から沢川沿いに下る道に接続する。 以前の県道442号、あるいは林道南後山線と呼ばれる道である。そちら側の入口に林道標識が立ち、「林道 中峠後山線 諏訪市」とあった(2001年11月)。 その名の通り、中峠経由で沢川下流にある後山集落に至るには距離の短いルートである。 中峠という一つの峠を越えても、いろいろな道が分岐して開削されたようで、それぞれに都合のいい道筋が利用されてきたのだろう。 見ようによっては、中沢峠は板沢にも青木沢(後述)にも後山にも椚平(後述)にも通じていたと言える。
 
 林道中峠後山線は、一目見た限りでは車でも通り抜けできそうだったが、沢川沿いの入口ではかなり荒れた様子だった。 今はこのまま中峠を下ると舗装路に出て(現在の県道442号)、距離は長くなるがその道を行けば容易に後山へと至る。 かつて歩いて峠道を越えていた時代は、林道中峠後山線の道筋も使われたのかもしれないが、現在の車にとっては険しい林道中峠後山線は、キノコや山菜採りにでも利用される程度だろうか。

   
左に林道中峠後山が分岐 (撮影 2013. 5.19)
右が本線
   

<沢底川沿いに>
 林道中峠後山線分岐を過ぎて暫くすると、道はほぼ谷筋に進むようになる。この付近の地形は微妙ではあるが、沢底川本流の最上流部と思われる。 路面に落石が若干見られたが、道は安定している。勾配も緩い。峠の北の中ノ沢川沿いとは全く対照的である。

   

少し落石が見られる (撮影 2013. 5.19)

谷筋の道 (撮影 2013. 5.19)
安定している
   

<道の様子>
 安定した地形というだけでなく、意外としっかりした道が続く。砂利が敷き詰められ、未舗装ながらも走り易い道だ。 現在、北真志野と板沢や後山とを繋ぐ生活路として使われるようなことはないだろうが、林業などでは時折利用されているのではないかと思わせる。 少なくとも峠の物好きだけが通る道ではない。

   
道の様子 (撮影 2013. 5.19)
流水を通すゴムが時折道を横切る
   
   
   
県道442号に接続 
   

この先で県道442号に出る (撮影 2013. 5.19)

<県道442号に接続>
 峠から下ること600〜700mで未舗装林道は立派な舗装路に出会う。相手は丁度180度の急カーブを描く地点である。この道は今は県道442号となっているようだ。

   
県道442号との接続点 (撮影 2013. 5.19)
簡易的なゲートがある
   

県道を後山集落方向に見る (撮影 2013. 5.19)

県道を有賀峠方向に見る (撮影 2013. 5.19)
   

県道側より峠方向を見る (撮影 2013. 5.19)
採取禁止の看板が立つ

<茸山>
 県道に出る手前には木製の柵が設けられ、こちらの林道は特別な存在と言う感じだ。道の入口に看板が立ち、次のようにある。
茸山につき
 「茸」「山菜」等の
   採取を禁止
   北真志野生産森林組合

 
 南峠周辺もそうだったが、この近辺の山ではキノコや山菜が採れるようで、この一帯に通じる林道はその為に維持されているのかもしれない。

   
県道側より峠方向を見る (撮影 2013. 5.19)
   

<県道付け替え>
 ところで、県道442号・諏訪箕輪線は元は何と南峠を越えていた。今から考えると驚くべきことだ。 古くは真志野峠が本線の峠道だったのだろうが、車道開削時に少し東に迂回して南峠を越え、それが後に県道442号となった。 諏訪盆地と後山集落を繋ぐ幹線路としての位置付けだろう。少なくとも2003年4月発行のツーリングマップル(中部北陸 昭文社)ではまだそうなっている。
 
 しかし、南峠前後は険しい未舗装林道のままで、距離は近いが生活路としては利用し難い道だった。 実質は、県道50号(主要地方道)・諏訪辰野線の有賀峠(あるがとうげ)付近から分かれる道が使われたようだ。それが今の県道442号の経路となっている。そして、今の中峠はその県道に最も最短で降り立っている。

   
   
   
県道442号を後山方面に下る 
   

<県道442号を下る>
 有賀峠方面から続いて来た県道442号は、上野川水系と沢底川水系を分かつ尾根を越え、中峠の道を合わせて沢底川沿いを下り始めたばかりである。この下って行く県道は中峠に続く峠道と言える。
 
 県道は1.5車線幅のアスファルト舗装で、補修されてきれいな路面もあれば、継ぎはぎだらけの箇所もある。


県道を下る (撮影 2013. 5.19)
   
この先分岐 (撮影 2013. 5.19)
   

<青木沢口>
 県道を600m程下ると、右に下る道が分かれる。左に登る方が県道の続きだが、どちらも同じような寂しい道だ。側らに「青木沢口」というバス停がポツンと立つ。 有賀峠から始まるこの道が県道になる前から、ここはバス路線だった。一つ前に「板沢口」のバス停があり、この次は後山集落内にある「古屋敷」のバス停となる。

   
青木沢口の分岐の様子 (撮影 2013. 5.19)
左が県道の続き、右は底沢川沿いに下る林道青木沢線
   

<林道青木沢線>
 右の道には林道看板が立ち、「林道 青木沢線 諏訪市」とある。そちらが引き続き沢底川沿いに下る道で、中峠の本来の峠道と言えそうだ。
 
 地図には、青木沢口から入った直ぐに青木沢という小さな集落が見られる。沢底川の最上流部に位置する集落となる。しかし、文献では湖南の項にそのような山間部集落の名は出て来ない。近くに板沢集落があるので、その枝村のような存在だろうか。
 
 林道看板の他に「憩の森入口」という看板も立つ。「延命水200M 仏岩20M 北真志野生産森林組合」とある。


林道青木沢線の看板など (撮影 2013. 5.19)
   

<県道方向に進む>
 今回は、青木沢方面には進まず、県道の続きを後山集落へと向かった。青木沢口から下流の沢底川沿いは、これまで訪れたことがない。天竜川沿いに出るまで、7km程ありそうだ。

   
県道方向に進む (撮影 2013. 5.19)
右端に「延命水」の案内看板
   
   
   
県道を沢底川と沢川の分水界へ(以後は余談) 
   

県道を後山方面へ (撮影 2013. 5.19)

<沢底川から沢川へ>
 これ以後は、中峠の峠道とは関係ないのだが、参考までに県道442号の続きを辿ってみる。
 
 道は沢底川と沢川を分かつ尾根へと登って行く。ちょっとした峠越えとなる。すると、新しそうな2車線路が出て来た。その脇には細い旧道の名残が見られる。

   

県道422号の様子 (撮影 2013. 5.19)
左手に旧道の名残

旧道と並走する (撮影 2013. 5.19)
   

 旧道沿いには何かの建物が立つ。その為に、僅かだが旧道部分を残しておいたようだ。

   
麓方向に旧道を望む (撮影 2013. 5.19)
沿道に作業小屋のような建物が立つ
   

<道の改修>
 2車線路はそう長くは続かず、また元の道に戻るが、その先で改修工事が行われていた。断続的だが、道の改修が進んでいるようだった。 県道に昇格したことも一因だろうか。諏訪市街と板沢やこの先にある後山などの山間部集落を繋ぐ生命線である。しかし、全線が快適な2車線路となるような気配はない。 道の改修は一部に限られるのではないだろうか。


道の様子 (撮影 2013. 5.19)
また1.5車線路に戻った
   

工事個所 (撮影 2013. 5.19)

工事個所の続き (撮影 2013. 5.19)
改修箇所は一部に限られていた
   

<沢底川と沢川の分水界の峠>
 現在の県道442号は上野川の本流や何本かの支流、沢底川といった川の分水界を次々と横切って来る。 そして最後に沢底川と沢川との境を越え、やっと沢川沿いへと下って行く。これらの分水界はどれもちょっとした峠越えだ。かつての県道が南峠ただ一つを越えていたのとは大きく異なる。
 
 ただ、これらの小さな峠に名前などはない。「県道442号が通る沢底川と沢川との分水界の峠」とでも呼ぶしかない。

   
沢底川と沢川の分水界の峠 (撮影 2013. 5.19)
   

<峠の様子>
 何やらいろいろ看板があると思ったら、「全山茸山つき入山禁止」や「山火事注意」であった。気の利いた面白い案内看板などはない。


看板類 (撮影 2013. 5.19)
   

峠を振り返る (撮影 2013. 5.19)

 この峠は中峠や南峠などの本来の峠に比べ、かえって視界が広い。遠望がある程ではないが、空が広く明るい感じだ。

   
   
   
沢川への下り 
   

<沢川沿いへ>
 珍しく、峠からは先行車があった。遥々諏訪市街からやって来たようだ。普通乗用車である。あの車で中峠を越えるにはちょっと無理があるだろう。

   
道の様子 (撮影 2013. 5.19)
   

<道の様子>
 沢川沿いへ下る途中も新旧の道が交互に出て来た。新しい県道442号の改修はやはり断続的である。

   
新しい2車線路 (撮影 2013. 5.19)
左手に旧道が残る
   

この先狭い道 (撮影 2013. 5.19)

また広がった (撮影 2013. 5.19)
   

<沢川沿いへ>
 道は沢川の上流方向に向けて下る。その内、右手に沢川沿いに耕作された田畑が見えて来る。これらはこの直ぐ下流側にある後山集落のものであろう。北真志野から中峠を越え、ずっと視界のない狭い谷の中ばかりを走って来た。この沢川の谷の広さは晴れ晴れする。


沢川沿いに広がる畑 (撮影 2013. 5.19)
   
沢川の谷が広がる (撮影 2013. 5.19)
   
水田も見られる (撮影 2013. 5.19)
   

<南峠の道に接続>
 県道が沢川沿いに降り立つと、上流側から南峠(真志野峠)を越えて来た道が合流する。元はそちらが県道442号であった。 ただ、峠前後の未舗装区間は林道南後山線とも呼ばれた。最近、南峠は完全に県道ではなくなったので、かつての「林道南後山線」の名が復活しているかもしれない。 一方、県道のルートから外れたことで、今後の林道改修は望めず、廃道になどならなければいいと思う。

   

南峠の道に接続する (撮影 2013. 5.19)
左奥が南峠方向
右が沢川沿いを後山集落へ
 
分岐に立つ看板には
箕輪(みのわ) 16km
後山(うしろやま)集落 1km
とある 

分岐に立つ看板 (撮影 2013. 5.19)
   

南峠方向の道を見る (撮影 2013. 5.19)
少し前までこれが県道442号の道筋だった

<真志野峠>
 この地は沢川の上流部で、田畑が切り開けるだけの広さがある谷としては、最上部に近い。諏訪市街とはかつて真志野峠を越える峠道が最短で結んでいた。その後、真志野峠の代替峠として、南峠に車道が開削されたものと思う。
 
 同じ諏訪市でありながら、諏訪盆地に位置する中心地とこの山間部では、隔絶の感がある。

   
   
   
沢川沿いを後山集落へ 
   

<沢川右岸沿い>
 南真志野から南峠を越え、現在の県道442号に接続するまでは、既に南峠のページに掲載した。ここから沢川沿いを下ろうと思うが、中峠の峠道とはもう関係なく、全くの余談となる。

   
沢川沿いの県道を下流方向に見る (撮影 2013. 5.19)
   

県道の看板 (撮影 2013. 5.19)

<県道の様子>
 沢川沿いの県道442号は、南峠を越えていた時代から変わらない。有賀峠方面から沢川に至るまでの新しいルートでは、改修工事が行われて新しくなった部分もあったが、この沢川が流れる谷に通じる県道は、以前と同じように素朴な道である。
 
 沿道には水田が広がる。5月に訪れた時は、苗を植えたばかりの水田が広がった。11月の時は、稲の刈り取りを終わった田んぼが、これから来る冬を迎えようとしていた。

   
沢川の谷間を行く (撮影 2013. 5.19)
沿道には水を張った水田が広がる
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.11.10)
稲の刈り取りが済んだ後
   

<田無川>
 現在の地図や地形図では、県道が沿う川は「沢川」と記されている。それが今の正式の河川名称であろう。しかし、文献などでは田無川(棚瀬川とも書く)と記す場合が多い。古くはそう呼ばれていたのではないだろうか。
 
 しかし、現在は水田が広がり、決して「田が無い川」ではない。この地が開墾される前の名称か、あるいはもっと下流の箕輪町側に於いてそう呼ばれたのではないかと思ったりする。田無川では現状にそぐわないが、それにしても単純に「沢川」というのもちょっと変わっている。

   

<後山集落>
 沢川沿いを走ること約700mで、沿道に人家が並びだす。看板には1kmとあったが、集落の中心地までの距離だったのだろう。 ここが湖南(こなみ)の山間部に位置する集落の一つ、後山(うしろやま)である。この集落は意外と大きく、沢川沿い500mくらいに渡って人家が点在する。

   
後山集落に入る (撮影 2013. 5.19)
   

<後山の成立>
 この山間部の開発は金山で始まったようだ。現在の後山より沢川下流にある椚平(くぬぎだいら)の流域で、天正年間(1573〜1593年)に金鉱が発見された。 当時の真志野村(まじのむら)の人々が峠を越えて山に入り、文禄年間(1593〜1596年)には採掘が行われ、その鉱山は真志野山と称された。 同時に後山を中心に耕地を開拓し、最初の集落ができたようだ。「後山」の由来は分からないが、金山に関係するような気がする。しかし、金鉱は後に廃鉱となり、村も荒廃した。
 
 その後、後山・板沢・椚平といった集落は、新田開発としてほぼ同時期に始まったようだ。 後山は慶安4年(1651年)の後山新田開発免許状により、武田家浪人といわれる遠藤孫兵衛・三木嘉兵衛・藤原幸左衛門の3人が開拓(当初は小川村)に入ったのを始まりとするようだ。 最初は真志野村が親村とされ、寛政5年(1793年)に南真志野村(真志野村が北真志野村と南真志野村に分村)から後山新田村(うしろやましんでんむら)が分村して誕生した。
 
 こうした金の採掘や耕地の開拓の時、新たに開削したのが真志野峠であったのだろう。その後、北真志野村が板沢新田を、南真志野村が後山新田を担当したように、それぞれに都合の良い峠道がいろいろと作られたのではないだろうか。断層崖には徒歩道を含め無数の峠道が通じる。
 
 後山新田村では、途中飢饉などを乗り越え、天保18年(1848年)には家数は29、人数は男53・女50という記録が残るようだ。 明治7年(1874年)に板沢新田村、椚田新田村などと共に湖南村の一部となる。更に、昭和30年(1955年)には湖南村は諏訪市に編入され、湖南は諏訪市の大字となる。 大字湖南の後山は断層崖を越えた山間部にありながら、諏訪盆地に大きな市街を持つ諏訪市の一部となった。

   
後山集落の様子 (撮影 2013. 5.19)
   

古屋敷のバス停 (撮影 2013. 5.19)
後山集落内にある

<集落の様子>
 文献では後山集落の現状は何も伝えていない。集落内に細い県道が屈曲しながら通じ、その沿道にはまだ多くの人家が立つ。30軒前後はあるのではないだろうか。 甲斐武田の元家臣の末裔もおられるかもしれない。山間部に独立した小さな集落だけに、その歴史ははっきりしているのではないだろう。
 
 車社会となった現在、距離の短さより、道の良さが優先する。 かつての真志野峠(南峠)や中峠などが日常で使われることはなく、もっぱら有賀峠を越え、新しい県道442号で諏訪市街と車で行き来するものと思う。 一方、沢川沿いに下って箕輪町へと出ることも考えられるが、さすがに距離は遠い。歴史的にも諏訪盆地との結び付きが強い集落である。ただ、道が改修されても、ここは標高が1,000mを越える地である。冬場の交通事情はあまり良くないであろう。

   

後山集落の様子 (撮影 2013. 5.19)
左手に防災無線の塔が立つ
沿道には芝桜が咲く

後山集落の様子 (撮影 2013. 5.19)
雨戸が閉ざされ、無人と思われる人家もある
   

 現在も田畑の耕作が続けられる後山集落だが、米が経済の中心だった江戸時代と異なり、現金収入が必要な世の中である。 集落の興りが新田開発であったことを考えると、ここでの暮らしは容易ではないと思う。 この周辺の茸山は、現金収入を得る方策の一つであろう。また、毎日諏訪市街まで車で通勤することもあるのかもしれない。

   

後山集落の様子 (撮影 2013. 5.19)
防災無線の塔が立つ
集落内で一部道は左岸を通る

後山集落の様子 (撮影 2013. 5.19)
集落の南の端
   

<林道分岐>
 後山集落を南の端に過ぎた所で、道の分かれがある。左に林道日向入山が分岐して行く。

   
後山集落の外れにある分岐 (撮影 2013. 5.19)
左が日向入山林道、右が県道の続きを椚平方面へ
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.11.10)
   

分岐に立っていた看板 (撮影 2001.11.10)
この周辺の道の概略が分かる
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<日向入山線(余談)>
 林道日向入山線は東から流れ込む沢川支流沿いに遡る。そのかなりの上流部までも田畑が耕作されていた。このように、沢川本流だけでなく、その幾つかの大きな支流沿いにも後山集落の人の手により耕地が広げられている。
 
 日向入山線はその先箕輪町に入って林道日影入線に接続し、林道日影入線は松尾峠を越えて旧高遠町(現伊那市)の片倉へと降り立つ。 そこに諏訪方面から杖突峠を越えて来た国道152号・杖突街道が通じる。この守屋山(もりやさん)南麓一帯の地域は、いろいろ林道が通じ、探索すると面白そうだ。

   
   
   
後山から椚平へ
   

<後山以降>
 後山集落以降も細い県道の道は続く。暫くは谷は広く、後山の耕作地が見られる。しかし、それも下るに従い、やがて狭い谷となって行く。

   
後山から椚平へ (撮影 2001.11.10)
   

<椚平>
 現在の地図にはもう椚平の文字は見られない。それでも、後山から3km程下ると、ポツリポツリと沿道に人家の跡などが佇む(2001年のこと)。ここはもう箕輪町との境に近く、諏訪市の中では最も南に位置する集落だ。後山付近に比べて谷は狭く、耕地は少ない。
 
<椚平新田村>
 「椚平」(くにぎだいら)は「櫧平」とも書く。寛文年間(1661年〜1673年)に南真志野村の関与左衛門によって開発が始まった。 当初、伊那郡(高遠藩)との境界争いを生じたが、寛文12年(1672年)に結着し、南真志野村を親村とする椚平新田村(くぬぎだいらしんでんむら)が成立する。


椚平の集落 (撮影 2001.11.10)
   

椚平の由来の碑 (撮影 2001.11.10)

<椚平の由来>
 椚平集落の途中、沿道に石碑が立っていた。以下に碑文を写す(?の部分は判読できず)。
 椚平由来
 椚平は西暦一六六一年寛文年中 南真志野関作左エ門が開拓した。当時島藩より山番として向けたものである。高遠藩との山争いの為に関所も置かれた。 以後三百余年 昭和に入っては戸数も十五戸にふえ、山林養蚕を生として生計を立てていた。其の間道路の開設等には部落をあげて努力してきた。 しかし大東亜戦争の終結 そして経済の進展に伴い 過疎の波もこの山間に打ちよせ 一人減り二人減り 昭和四十七年の今日ではたった八戸のみとなった。 これだけの戸数では椚平区を維持することもできず 交通機関のバスも運行中止となり かつ加えて養蚕水田山林では生計の道が立たず 伊那や諏訪へ通って現金収入を??ざるを得なくなった。 ましてや子供の教育にも支障をきたした。????もなく消滅手前にあった。 時の岩太(?)諏訪市長の積極的なご助言をいただき いくたびか区の総会を開いた結果 全戸移住と???。 部落有林七十七町歩を市に寄付したところ 市からは多額の移住資金をいただき 住みなれた椚平部落を閉鎖することになった。ここにその経過を碑に記して永久に記念とする。

   

 碑文によると、昭和47年(1972年)以降間もなく、椚平集落は閉ざされたようだ。関与左衛門以来、数えてみると確かに300余年の歴史であった。

   

<椚平以降>
 沢川は箕輪町に入ると箕輪ダムのもみじ湖に注ぐ。このダム湖は椚平離村のずっと後の1992年に完成していて、同時にその周辺の道も改良された。 それ以前にどのような道が通じていたか今はもう分からないが、快適な2車線路などということはない。 椚平は位置的には諏訪市街より、もう箕輪市街に近いが、それでも10km以上の道程がある。沢川沿いに細い道しか通じていなかったことと思う。碑文には伊那へも通ったことが記されているが、ご苦労されたことと想像する。
 
 現在の箕輪ダム周辺はもみじが美しい所で知られる。観光客も訪れるようだ。


もみじ湖もみじトンネルの道 (撮影 2001.11.10)
もみじ湖よりずっと手前にある
   

 結局、中峠とはあまり関係ない沢川の箕輪ダムまで話を進めてしまった。 しかし、真志野峠を代表とする古くから旧真志野村と後山・椚平・板沢といった山間部の新田村を繋いだ峠道の一つであったことは確かであろう。 村人達の手で峠道開削の努力も行われた。廃村となった椚平のことは、決して他人ごとではないと思え、ここまで話を長引かせてしまった次第だ。

   
   
   

 やはり、杖突峠などに比べると、中峠の道はこじんまりしていて、細かな点まで手が届くような気がする。その為、調子に乗って余計な所まで話を進めてしまったと思う、中峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2001.11.10 南峠を越える(大熊→後山) ジムニーにて
・2013. 5.19 北真志野→後山 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・関東 2輪車 ツーリングマップ 1989年1月発行 昭文社
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東   1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部   1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸  2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
峠と旅         峠リスト