峠と旅
ホハレ峠
 
ほはれとうげ
 
小さな地蔵が見守る峠道
 
    
 
旧ホハレ峠の地蔵 (撮影 2004. 9.25)
地蔵に向かって左手方向は岐阜県坂内村(さかうちむら)川上(かわかみ)
右手方向は同県藤橋村(ふじはしむら、旧徳山村)門入(かどにゅう)
標高は約800m(国土地理院の地形図から読み取る)
道は林道ホハレ線
 
 はたして私はジムニーと共にホハレ峠を越えていたのだろうか。
 
 この10年近くの間、ずっとそれが疑問だった。1995年5月4日の早朝、坂内村の川上の方から登るホハレ林道は、赤茶けた土の道で、路面には流水により深い溝が掘られ、険しい様相を呈した。途中で幾つか訳の分からない分岐が現れ、一体どっちに進めばいいのか迷ってばかりいた。それでも、恐る恐るジムニーを走らせる内に、いつの間にやら細い稜線の上に出ていた。道の両側は谷である。峠があるとすればこの辺りなのだろうが、どうにも判然としない。稜線は起伏の少ないなだらかな尾根で、そこを道が僅かな角度を成して越えている。切り通しの様な明確な峠ではなかったのだ。
 
 ここに至るまでの間、何度も引き返そうかと思ったが、もう少し進んでみることにした。道は明らかに稜線の反対側を下ろうとしている。やはりどこかで峠を越えていた。すると間もなくジムニーを止めざるを得なくなった。その先に道がないのだ。土砂が崩れて久しいようで、そこが元々は道であったであろう痕跡がかすかに感じられるだけだった。それを見て、半面安堵した。これで迷わずジムニーを引き返せる。藤橋村側に抜けられる道かどうかと思ってやって来たのだが、この道の惨状を確認すれば、もう何も言うことはない。来た道を川上へと戻って行った。
 
 それはまだホームページ「峠と旅」を出す以前のことで、それ程峠について思い入れがなかった頃のことだ。しかしその後、このホハレ峠については時々思い返していた。あの稜線は本当にホハレ峠だったのだろうか。疑問を深くするには訳があった。ホハレ峠は2つあるということをその後知ることとなったのだ。現在の地図に示されているホハレ峠は新しいもので、本来のホハレ峠が他にあるというのだ。ぞれでは私が通過したのは新旧どちらのホハレ峠だったのだろうか。時が経つに連れ気になるばかりであるが、いつしか10年近くの月日が流れていった。
 
 疑問を解決する機会は、ひょんなことから訪れた。以前よりホームページ「峠と旅」と相互リンクして頂いていた「オカ・プランニング」の岡村さんより突然メールが届いた。4×4MAGAZINEのエリアレポーターをしているそうで、一緒に未舗装林道を走って、そのことを雑誌に載せたいという。直ぐにOKを出し、実際にお会いすることとなった。岡村さんは広島で私が東京なので、その中間を取って滋賀県の琵琶湖辺りで落ち合うことになった。走行コースは私に一任下さったので、地図を広げて思案した。滋賀県より国見峠で岐阜県に入り、その後八草峠で滋賀に戻って、余呉湖の北の方の林道を走るコースを考えた。その時、ホハレ峠のことが脳裏をかすめた。通り抜けができず、ピストン走行になるが、あそこなら未舗装林道があるだろう。そういうことでホハレ峠探索も加えて頂くことになった。
 
    
 
 2004年9月25日。坂内村役場がある付近の国道303号を西の八草峠方向に向かって走る。前方を岡村さんのジムニーが行く。八草トンネルが開通してから、国道303号は益々変貌を遂げつつあった。沿道には道の駅もできていた。道は各所で改良され、尚もバイパス工事中が進行中であった。
 
 大草履で左に鳥越峠の道を分けた後、国道は川上の集落を抜けた。この部分は道が極端に狭い。でも、その内、左手に流れる坂内川の対岸に、立派なバイパスが作られることだろう。
 
国道沿いの坂本にあった案内図 (撮影 1995. 5. 4)
ホハレ峠からの帰り道で撮影
図の右側の「川上浅又」と書かれた集落沿いの道がホハレ林道
 
<ホハレ林道起点>
 
 川上の集落を過ぎた後に、国道は左に急カーブする。その角の右に目指す峠道であるホハレ林道が分岐している。八草峠を越えた時は大抵この前を通っているので、この林道起点はよく覚えていた。
 

ホハレ林道起点前の国道
川上方向を見る

ホハレ林道起点前の国道
八草峠方向を見る
 
 林道起点には今も昔も大きな看板が立つ。但し看板にはホハレ林道の先に「行止り」と書いてあるだけで、これは夜叉ヶ池登山やバイクランドに関した案内看板である。その道はホハレ林道とは川一つ隔てた対岸にある。慌て者はこの看板を見てホハレ林道に入り込んでしまうかもしれない。
 

ホハレ林道起点

ホハレ林道起点 (撮影 1995. 5. 4)
峠から帰って来たところ
看板は古い
 
 看板は以前に比べて新しくなっているが、書かれている内容はほとんど同じである。ただ、決定的な違いは、現在の看板には八草トンネルが描かれていることだ。
 
 夜叉ヶ池への道は、これまで一度も足を踏み入れたことがない。神秘的な伝説が残るというその池には、道の終点より登山道を90分歩かなければならないようだ。往復することを考えると3時間以上を必要とする。ホハレ峠などよりはよっぽど有名な夜叉ヶ池を、一度は見てみたいと思うのだが、なかなか時間がない。今回の旅でもまた素通りであった。

夜叉ヶ池など案内看板
 

林道標柱
 ホハレ林道の起点には林道標柱が立っていた。以前に訪れた時の写真を良く見ても、その標柱は写っていない。これは後に立てられたものだろうか。それにしては、標柱の文字は既にかすれ、巾員も延長も全然読み取れない。また、巾員と延長の数値が2つ並んで書かれていたようなのが、どうも不思議である。
 
 他にも林道起点の様子は、昔と今の写真を見比べると、少しづつ違うのが分かる。分岐の角に「とりたて市」という地元野菜の無人販売所があるが、それが少し規模の拡大をしたようである。
 

起点直ぐのホハレ林道
<ホハレ林道に入る>
 
 林道起点には我々以外にも1台のワゴン車が停まり、何をするのか男性2人が降りて来て、付近をうろつきだした。林道を少し歩いて入り込み、草むらを覗き込んだりしている。怪しげである。
 
 その横をすり抜け、我々はホハレ林道を走り始めた。林道といっても起点から暫くは舗装路が続く。坂内川の左岸を進む。
 
 坂内川の対岸には夜叉ヶ池への道が通るのが望める。こちらとさして変わらぬ狭そうな道だ。でも、偶然だろうか、車の通行を何台か認めた。こちらより賑わっているのは確かなようである。
 
<川上発電所を過ぎる>
 
 山と川に挟まれた狭い舗装路を行くと、道は坂内川の支流、川上浅又川(かわかみあざまた)川を渡り、そこの左に川上発電所がある。
 
 発電所の直ぐ先に保安林などの看板が立つ。この道沿いに看板は少ないので、これは貴重である。保安林の看板に「ホハレ峠」の位置が示されていたが、ここでも一般の地図と同じ様に、新しい方の峠を指していた。地元では新しい峠を「ホハレ峠とは呼ばない」そうだが、旧峠をホハレと書いている看板は、なかなか見当たらない。

左に川上発電所
 

保安林の看板などが立つ

保安林の看板 (撮影 1995. 5. 4)
 
保安林の看板の図 (撮影 1995. 5. 4)
右端にホハレ峠が示されている
夜叉ヶ池の道は「村道川上池ノ又線」というようだ
 
<川上浅又谷に沿う>
 
 発電所の側らを過ぎ、道は坂内川の谷と分かれて、川上浅又谷に入って行く。道の右手に小さな流れを見る。
 
 道は左手に山が迫り、沿道に平地は少ないが、対岸に目をやると、比較的開けた土地になっている。日当たりも良さそうだ。そこに小屋などが点在するが、人が住む人家はなさそうな様子である。この地区は、坂内村大字川上字浅又という住所で、多分以前には集落があったのだろう。

川の対岸に小屋などが点在する
 

「クマに注意」の看板
 川を渡って対岸に出られそうな道が幾つかある。そんな分岐に今では「クマに注意」の看板が立つ。人家があった時は、住人の往来もあったろうが、今は山に入る人が時折訪れるだけなのか。
 
 今年は、特に天候不順などが禍して、クマの被害が急増していると聞く。今夜はこの付近で野宿を予定しているが、大丈夫だろうか。
 
 そういえば、最初にここを訪れた時は、この付近の浅又川の支流に架かる砂防ダムで野宿をしたのだった。浅又川を橋で渡って、更に支流沿いに少し登った、狭い谷間だった。
 
 浅又川に面した土地には、もう人が住んでいないかもしれないが、畑作などは続けられているような場所もあり、人の手が入って整えられている様子が対岸に見受けられた。
 
 でも、その一方、見捨てられて草地と化したような土地もあった。以前来た時は、道の側らにも畑や資材置き場など、もっといろいろあったような気がしていたが、今回はほとんど何も目に入らない。それが何となく寂しい。

道の周囲は草地も多い
 

砂防ダム上流の広場
<砂防ダム>
 
 川上浅又川を北に、ほぼ一直線に進むと、大きな砂防ダムがあり、その上流に比較的広い平地が道沿いにある。
 
 ここにははっきりとした見覚えがあった。最初にここを訪れた日は、この広場まで来て、ここで野宿しようかどうか迷ったのだ。峠を越えるにはもう日暮れが近く、その広場は適当な野宿場所に思えた。しかし、谷を吹き降ろす風がやや強かった。その少し前の旅で、夜中に強風に襲われ、それまで愛用していたテントを飛ばされて失うという災難に遭っている。それが脳裏をかすめ、道を少し麓に下って、支流の小さな砂防ダムを見つけるに至ったのだった。
 
<川上浅又谷を詰める>
 
 砂防ダムを過ぎると、道は川上浅又谷を詰める。川を渡れば、そこからは一転、南へと方向を変え、険しい山肌を登って行く。右下に切れ落ちた浅又の谷を見下ろすようになる。明らかにそれまでとは道の険しさが違う。事実、これから暫くの区間で、過去に土砂崩れが何度か起きているようだ。この日も帰り道にクレーン車が通るのを見かけた。クレーン車は作業を終えたらしく、下の砂防ダムの広場まで降りて行った。
 
 ただ、今は舗装路が途切れることがなく続いている。ホハレ林道はこんなに奧まで舗装されていたのだろうかと、ちょっと不思議に思えた。

右手に浅又谷を見下ろす
 

道はほぼ北東を向くようになる
向こうの峰に道筋が見える
<尾根を巻き返す>
 
 南に向かって一気に高度を上げた後は、左回りに尾根を巻き返し、道はほぼ北東を向く。するとその先に峰が見えてくる。山肌が削られて土が露出し、そこを道が通っていると思われる個所が幾つか確認される。地図では新ホハレ峠はその峰の近くにあることになっている。峰の頂上付近に見える道筋が新ホハレ峠への道だろうか。
 
<峰に近付く>
 
 道は右にそれ程深くない谷を見て進む。峰に近付くと、かえって峰の頂上が見えなくなってくる。前方の山肌にはっきり道筋が認められる。これからそこを登ることになるのだろう。
 
 
<舗装路が荒れる>
 
 相変わらずの舗装路なのだが、ここに来て一気に路面が荒れた。雑誌では未舗装林道を走ることになっているので、舗装路では困るのだが、この荒れを利用して写真撮影をすることになった。この先いつ未舗装路になるかも分からないからである。

峰の頂上近くの道筋がはっきりしてくる
 

路面が悪くなった
ここで雑誌の写真撮影
<峠の地蔵の話し>
  
 撮影をしていると1台のバイクが下りて来た。撮影が終わるまで、バイクの彼は待っていてくれた。撮影後に話してみると、何とホハレ峠の地蔵を見に来たと言う。
 
 実は、旧ホハレ峠に地蔵があることは、インターネット上で調べて私も知っていた。地蔵が見つかれば、すなわちそこが旧ホハレ峠である証拠になるのだ。今回は峠の地蔵が最大のキーポイントになると思ってやって来た。こうして同じ目的をもった者に出会うとは奇遇なことである。
 
 しかし残念ながら、バイクの彼は地蔵を発見できなかったと言う。細い稜線上のような部分には行き着かなかったかと聞いたが、どうもそれははっきりしないようだ。ただ、車が崖下に落ちていたりして、道は非常に険しいらしい。最後に新ホハレ峠の分岐はどこにあったかと聞くと、この直ぐ上にあると言う。それを聞いて彼とは分かれた。
 
<作業道分岐>
 
 彼の言う通り、小さなカーブを登った先で、右手に道が一本分岐していた。ただ、一目見て車道にしては随分荒れた感じを受けた。勾配のきつさといい、砂利路面の粗雑さといい、ブルドーザーが通るような道で、一般的な林道とは思えない。
 
 後でいろいろ検討した結果、これは新ホハレ峠への分岐ではなかったようだ。国土地理院の2万5千分の1地形図にも掲載されているが、ホハレ林道から分岐し、概ね南に向かって進む行止りの道がある。何かの作業道だと思うが、それが分岐していたのだ。2つのホハレ峠の分岐は、まだこの先である。
 

右に作業道を分岐

作業道
 
<草の中の道>
 
 作業道分岐を過ぎた頃から、道は左に旋回し、向きをほぼ西へと移す。するとそこからはほとんど廃道状態となる。
 
 舗装も終わり、路面は車の轍の僅かな部分を除いて草が伸び、道の両側からも草が道を塞ぐように覆い被さっている。それを見ては、進むことを躊躇させられる。
 
 こんな、車で草を掻き分けて行くような道を、これまでも幾度となく経験しているが、あまり気持ちのいいものではない。道の山側も谷側も、生い茂った草で判然とせず、自分が乗っている車のタイヤが、はたしてどのような地面に支えられているのか、十分に確認がとれないのだ。

草の中の道
 

道の先が開けてきた
もう直ぐヘアピンの分岐に出る
 険しい道といっても、その道の状態が把握できれば、それ程の危険もない。路肩が弱ければ山側に車が擦るくらいにも寄って通過する。山側が崩れてきていれば、車が横転しない程度の傾斜で済むのか、目測しながら崩れている土砂を乗り越える。落石があるか、深い溝があるかも注意する。それで通過できそうになかったら、潔く引き返せばよい。
 
 でも、草が路面状況を隠していては、まるで手探りで車を運転しているようなものだ。いくら目を凝らしても、フロントガラス越しに見えるのは、草ばかりである。その草の僅かな隙間から時々のぞく地面だけで判断するしかない。
 
 しかし、今回は強い味方がいた。岡村さんのジムニーが先導してくれたのだ。平然と草を掻き分けて進んで行くジムニーに付いて、こんな道にはあまりにも不似合なピンク色のキャミが走る。
 
 道は一本調子で登って行く。勾配もなかなかきつい。草はひどいが、路面その物の状態はそれ程でもないようだ。落石や溝、路肩決壊も見られなかった。
 
<ヘアピンの分岐>
 
 草の中の道を登り切ると、少し開けた所に出て、そこで道が二手に分かれる。一本は直進方向に、もう一本は鋭角のヘアピンで右方向へと進んでいる。
 
 この分岐は印象的で、記憶に残っていた。山肌は赤土が露出し、同じ赤土の路面は深い溝が掘られ、路肩も弱そうだった。またヘアピンが異常にきついのだ。そしてどちらに進んだのか肝心なことがはっきりしない。
 

ヘアピンの分岐地点
直進はやや下っている

ヘアピンの分岐
前方左にここまで登って来た道
右には地図にない下る道
手前が峠方向
 
 最初に訪れた時に撮った数枚の写真と、時を追うごとに薄れていく記憶から、これまでこれが2つのホハレ峠を分ける分岐ではなかったかと誤解していた。自分が向かっているのは地図に示されているホハレ峠(新ホハレ峠)であり、そこに向かうにはどこかの分岐で右に折れなければならないのだ。ところが、この分岐付近でひどい路肩決壊を目撃していた。それが理由でどちらかの道にしか進めなかったよう気がする。
 
 右の写真がアルバムに収められていた写真の一枚である。これがそのヘアピンの分岐付近で目撃した決壊個所かどうかも、今となっては判然としない。
 
 ヘアピンはあまりにも急で、ヘアピン方向には曲がらず、直進の道を進んだものと思い込んでいた。それが結局、ジムニーを旧ホハレ峠(その時にはまだホハレ峠が2つあるとは知らなかったが)へと導いてくれたのかと、後々解釈していた。それは2重の間違いだった。

謎の路肩決壊個所 (撮影 1995. 5. 4)
 
<ヘアピンを曲がる>
 
 今回訪れてみると、直進の道はやや下っている。どうも峠のある峰には続いていそうにないのだ。峠への登りはヘアピンを右に曲がる道らしい。
 
 では、曲がりましょうということになったが、先行のジムニーが2、3回の切り返しで難なく曲がったのに対し、私のキャミはなかなか曲がってくれない。ヘアピン部には大きな段差があり、また、路面の山際が大きく掘れているので、車の底を乗り上げてしまうか、タイヤを落とすかと、ヒヤヒヤさせられるのだ。岡村さんの誘導でどうにかクリアできたが、今考えると、もしここで曲がれなかったら、大変なことになっていた。曲がれなければ車の方向転回もできず、そうなればあの草の中の急坂をバックで下ることになるのだ。それは考えただけでもゾッとする行為だ。
 
 キャミはダイハツのテリオスキッドという軽自動車と車体構造はほとんど同じで、幅広のタイヤを履いていることと、後部の荷室が少し長い程度で、ホイールベースなどは軽自動車並なのだ。それでも直進走行安定性を狙ってか、ホイールベースが軽自動車仕様内で目いっぱい長くとられている。それがこうしたヘアピンカーブでは禍した。今回は誘導者がいたから良かったものの、ジムニーかそれと同等の小さく走破性のある車以外では、下の作業道分岐以後には入るべきではなかったようだ。
 

ヘアピンの先よりこれまでの道を望む
<ヘアピン分岐の位置>
 
 ヘアピンを曲がった先で、それまで登って来た方向を見下ろすことができる。左の写真がそうだ。中央に舗装路面が見えるが、それは写真の奧に向かって登りである。谷を詰めた所で、右に作業道を分岐し、本線は一路こちらに向かって登って来ている。右上隅の土が露出した道筋が作業道で、中央やや左の道筋が草の中を登る本線のようだ。
 
 国土地理院の2万5千分の1地形図を見ると、ヘアピンで直進方向に分岐する道は示されていないが、確かに急激に道が反転している個所がある。その部分は稜線の峰から分岐する一つの支尾根の頂上突端付近に位置する。だから開けて見渡しが良い。
 
<ヘアピンの先>
 
 ヘアピンを曲がった先は、暫く土の路面がはっきり見える道である。山側は深い溝が掘られ、谷側は路肩がもろそうで、決して安全な道とは言えないが、それでも草の中を盲目的に走るよりはましだ。道の勾配はゆるく、それまでと比べればほとんど水平移動に近い。右手に谷を広く見下ろし、左手の山肌の直ぐ上は支尾根の頂上が続いて空が開けている。道の方向は概ね北である。

ヘアピン以後の道
 
 以前にこの付近を写したと思われる写真が下の一枚だ。帰り道に振り返って写したということもあり、これまで場所が特定できていなかったが、路面の状態や周囲の山並を今回の写真と見比べれば、ヘアピン直後の道に間違いないようだ。帰りのヘアピンで曲がる時に車から降りたついでに写したのだろうか。
 
 現在は草木が伸びて遠方が良くみえないが、下の写真では右の奧の方に道筋が確認できる。後に考えて結論を出したことだが、その部分が2つのホハレ峠を分ける分岐で、そこより右方向に延びる道筋は、新ホハレ峠の道だと思う。旧ホハレ峠の道はそこより更に奥へと進んでいる。
 
ヘアピンの先の道 (撮影 1995. 5. 4)
右手奧に道筋が見える
 

前方をジムニーが行く
<ヘアピン以後の道を進む>
 
 以前は開けていて雰囲気がいい部分だったようだが、ここも荒廃は進んできたようである。進むに連れ段々両側から草が押し寄せてきた。前方を行くジムニーの後姿が消えていく。
 
 そして遂にまた草を掻き分けて進むようになった。道の傾斜は相変わらず少ないようだが、路面状態が悪い。ぬかるみも多く、ヘアピン分岐前の道より事態は悪化しているようだ。一体いつになったら峠に着くのだろうか。こんなことで峠の地蔵が発見できるだろうか。
 

またもや草の中

路面も悪い
 
<進退を迷う>
 
 また一際ひどい草を掻き分けた先でジムニーが待っていた。そこには道の右脇に車が1台止められる程度の空き地があった。ここなら車を回転できる。ここで引き返すか、もう少し進んでみるか、悩ましいところだ。
 
 道が進む方向は更にひどい草が茂り、車で入り込んだ場合、どんな困難が待ち受けているか知れなかった。ここまで辿り着くまでにも、随分神経をすり減らしてきていて、峠に辿り着く、峠の地蔵を見るという目標に対する気力がなえ始めてきていた。
 
 でも、今回は車2台で来ている。仮に一方がスタックしてももう1台で助け出す道が残される。それではと、ジムニー1台でまず先行し、無線で状況を知らせてもらい、キャミが後を追うということにした。
 

2つの峠道の分岐点
左が旧、右が新
<2つの峠道の分岐点>
 
 一人で無線連絡を待ちつつ、その回転スペースのある周囲を写真に収めた。この旅が終わった後、その写真を眺めていろいろ考えたが、その場所こそが新旧2つのホハレ峠を分ける分岐点であった可能性が高いことが分かった。
 
 駐車スペースと思った所は、また一つの道の痕跡であり、その先に新ホハレ峠への道筋が続いていた筈なのだ。今は轍の跡もなく、車の往来をなくしてから久しい様子である。
 

分岐点より旧ホハレ峠方向を見る

新ホハレ峠方向を見る
 
 下の2枚の写真は同じ分岐点を写したものと思われる。左は分岐を背にして、それまで登って来た方向を見ている。一方、右の古い写真は、旧峠方向へ進む道より振り返って写した物のようだ。丁度ジムニーが停まる所からカメラを構えれば、左の写真の様になる。
 
 古い写真ではY字の分岐ははっきりしている。ジムニーも右と左のどちらに進んでいいか迷っている様子だ。多分、この時も既に右への新ホハレ峠への道は進むことができない状況で、訳も分からず左の道を選んだのだろう。このことからすれば、私とジムニーは10年前に旧ホハレ峠を越えたことは多分間違いがないようだ。
 

分岐を背にして見る

旧峠方向の道から見る (撮影 1995. 5. 4)
 
<新ホハレ峠のこと>
 
 2つの峠道の分岐から、新ホハレ峠方向を望むんだ写真(右)を見ると、山肌の一部で土が露出し、その下に道筋があることを想像させる。それが今では車など全く寄せ付けなくなった、峠道の名残なのであろう。
 
 現在の道路地図でホハレ峠と示されているのは、昭和40年(1965年)に王子製紙が徳山村(現在の藤橋村)門入(かどにゅう)の方から、パルプ材を搬出する為に新しく開削した林道の峠だそうだ。地元川上では、その峠道を「王子製紙の作業道」とし、昔からの峠とは区別して、その峠も「ホハレ峠」とは呼ばないらしい。ここでは「新ホハレ峠」と言ってきた。
 
 古い昔からの峠道が自動車を通さない道であったのに対し、王子製紙の作業道は自動車を通すものだった。しかし、王子製紙の仕事が終わると、その作業道を管理する者はなく、見る間に廃道となっていった。その命は短命であったようだ。

新ホハレ峠方向を望む
 

分岐の先の道
路面も悪い
<分岐の先へ進む>
 
 無線機から岡村さんの声がした。少し先で待っているのでやって来いとのこと。左の谷側に路肩の弱い個所が一箇所、右の山側から落石が崩れてきている個所が一箇所あると付け加えられて通信は終えた。
 
 三度、草を掻き分けて進む。これまでで一番険しいと感じた。勾配の少ない水平移動なのだが、道幅は狭く路肩が弱そうだ。それでいて草で路面状況がはっきりとは確認できない。先導のジムニーが通ったのだから、この軽自動車同然のキャミの幅で、通れないことはないと信じて進んだ。
 
 長く伸びた草の切れ間から、西の方角に僅かに遠望があった(下の左の写真)。もう峰と同じ高度で峠は近い筈だ。
 

草の切れ目から西に僅かに景色を望む

ほぼ同じ場所と思われる (撮影 1995. 5. 4)
峠からの帰り道で撮影
(手前方向が峠)
 
 昔に撮った写真の中で、最後まで場所の特定ができない1枚があった(上の右の写真)。写真には開けて見通しのいい道が写っている。赤茶けた土の路面も、林道としての味わいを感じさせる。どうもこの場所は、2つの峠道の分岐より旧峠方向に進んだ所のどこかのように思える。
 
 今は全般に草に埋もれ、右の写真に見える様に、もうほとんど草の海を泳いでいる様な状態である。昔訪れた時には、草を掻き分けるなどということは全くなかった。今回は夏を過ぎた9月下旬で、前回は春先の5月初旬である。季節による草の生育状況は全く異なるだろうが、それにしてもこれ程の違いがあるとは考え難い。多分に10年という長い年月の影響があるのだろう。するともう、昔の様に周囲の山々を見渡しながら登る、爽快なホハレ峠の道は戻って来ないことになる。それは残念なことに思えた。

完全に草でふさがれている
(帰り道で撮影、峠とは反対方向を向く)
 
    
 

峠の地蔵(右奧)
手前の岩が地蔵を見えにくくしている
<峠に到着>
 
 草木に埋もれながらも、右の路肩に僅かな駐車スペースを残す個所でジムニーは停まっていた。ここがまた一つの思案どころである。行くか戻るか、どうにも決めかねる。道の先をのぞくと、草の下に真新しいバイクの轍が確認できた。作業林道分岐手前で会ったバイクの彼のものだろう。彼はこの先にも進んだようだ。そして地蔵を発見できないで戻って来ている。
 
 2人とも、もう諦め顔である。峠に到達する、峠の地蔵を見つけるという目的はもう達成できないかと思われた。その時、岡村さんが路傍を指差した。そこには草に埋もれて一体の地蔵が佇んでいた。車を停めた駐車スペースとは反対側の、道の左手である。
 
 ちょっとした遊び心で立てた、ホハレ峠の地蔵を発見するという目標だったが、こうしてその地蔵を目の前にすると、自分でも驚く程に嬉しいものだった。これもこんな酔狂な旅に付き合っていただいた岡村さんのお陰である。一人では到底ここまで来れなかったろうし、地蔵もこうして発見できなかったかもしれない。
 
 地蔵はコンクリート製の比較的高い台座の上に乗っており、その周囲は草木に囲まれ、路面ばかりを見ていると見つけ難い位置にあった。また、川上側から来ると、地蔵の手前に大きな岩があり、それが地蔵の姿を隠していたことも発見を困難にしていた。
 
 地蔵は長年の風雪により、その姿はもう見る影もない。摩滅した石像からは、顔の様子も文字も、何も読み取れない。しかし、こここそがホハレ峠であることを今でも雄弁に語っているのだった。

峠から門入方向を見る
草の下にバイクの轍を確認した
 
<峠の様子>
 
 地蔵のある周囲は、確かにその前後の道より幅が広くなり、単なる道の一部とは違う、特定のポイントのように思えた。しかし、ここが峠だと分かった後でも、いま一つピンとこない場所であることも確かだった。高く伸びた草木により遠望がきかず、峠という地形的な特長を大局的に判断することも困難であった。写真を撮ってみても、草木が写るばかりでその峠の様子は伝えられない。この点からしても、小さな地蔵は峠を象徴する存在として、その価値は大きかった。
 
 ホハレ峠に到達したことを確認でき、ジムニーとキャミの帰りの足取りは軽かった。しかし、あのヘアピンではまた散々苦労させられたキャミであった。
 
    
 

以前の峠付近 (撮影 1995. 5. 4)
近くに焚き火の跡などが残る
<以前の峠付近>
 
 これ以後は、以前に峠を訪れた時のことである。今回の旅の結果から判断しても、私はジムニーと共に、自覚のないまま、旧ホハレ峠を越えていたのは間違いないようだ。
 
 稜線に近付き、周囲にここより高い山が見えなくなる頃になると、道はさびれた雰囲気になった。路面上に草や苔が多くなる。それまでの土が露出した道とは異なり、あまり車などが通った形跡が感じられない。それでも、道端に焚き火の跡が残ったりしていて、時には人が訪れているようでもあった。
 
 更に進むと、これはもう完全に稜線上を走っていた。道は狭い尾根の正に真上を通り、両側はどちらも谷となっている。峠を訪ねる目的ではなく、あくまでも坂内村から藤橋村へ抜けられるかどうかが問題であった。不安が気持ちの大半を占めている一方、僅かばかりの期待も感じた。それまで何度となく引き返そうと思ったかしれないが、もう少し進んで見る気になった。
 
 道は左手に山側を見て稜線の反対側へとなだらかに下って行く。これで峠を越え、藤橋村側に足を踏み入れたのは間違いない。しかし、間もなく行き止まりとなった。前方に大きな岩がゴロゴロ転がっている。あえなく目論みは断念することになった。

稜線上 (撮影 1995. 5. 4)
行止りからの帰り道
この付近が峠と思われる
 

行止り (撮影 1995. 5. 4)
下り方向に見る

行止り (撮影 1995. 5. 4)
峠方向に見る
 
<行止り>
 
 車では通行困難となった地点から、更に歩いてその先を見に行った。路面に土砂が堆積してから久しいようで、草木が生い茂っていた。辛うじて周囲の山肌とは異なることが分かり、そこが元は道であったことを感じさせる。近くの木々が異常な曲がり方をしていた。土砂崩れによるものか、豪雪によってこんなことになるのだろうか。
 
 木の根を避けるようにしてバイクの轍の様な痕跡が、尚もその先にかすかに延びているようだった。でも、もうここは車が通れる道ではないのだと、自分で納得して車に戻った。
 
 行止りからの帰り道は、ややすっきりしたものだった。越えられないという残念さより、これでもう引き返していいんだという安堵感が勝った。しかし、今考えると、行きも帰りもホハレ峠の地蔵に気づくことが全くなく、残念なことをしたとつくづく思う。

行止りの先 (撮影 1995. 5. 4)
 
<峠の道筋>
 
 地蔵が佇む所が旧ホハレ峠であることは間違いないにしろ、旧ホハレ峠の道は人が越えた道である。現在は峠前後に自動車さえ通れる道幅がある。どこまでが本来の峠道かは疑問が残る。
 
 まず、川上浅又川の谷を詰めてから、2つのホハレ峠への分岐に至るまでの区間も、あるいはその大半が元は「王子製紙の作業道」であったのではないだろうか。人が歩いて越えるなら、もっと峠に対して直登してもよさそうだ。現在ホハレ林道と呼ばれている道筋は、あまりにも迂回し過ぎている。これは車を通す為になだらかな経路をとった結果とみられる。
 
 2つの峠道の分岐点から旧ホハレ峠までの区間は、王子製紙の作業道かできた後に、新たにつなげられた可能性が考えられる。元のホハレ峠の道は、川上浅又川の谷を詰め地点からそのまま北方へと登り、その区間のどこかで合流していたか、あるいは直接峠に至っていたのではないだろうか。
 
 また、現在の道路地図では、旧ホハレ峠を通る道の藤橋村側は、稜線近くを北西の烏帽子山方面へと延び、一向に門入方向へは下ろうとしない。これでは峠道にならない。2つのホハレ峠への分岐点から分かれ、烏帽子山方向へと続く林道は、ホハレ峠の古くからの峠道とは全く無関係に、王子作業道後に開削されたのでないかと疑問が湧く。たまたまその林道が旧ホハレ峠の側らを通過しているに過ぎないのでは。
 
 今回の旅で多くの疑問が解消されたが、こうしていろいろ頭を悩ませると、再びホハレ峠は闇の中に消えうせてしまったように感じる。峠の草の中に垣間見た小さな地蔵だけが、古いホハレ峠を示す唯一の拠り所である。しかし、峠道の変遷を黙って見つめてきたその地蔵は、何も語ってはくれない。
 
 尚、ホハレ峠の峠名の由来などに関しては、国土交通省・中部地方整備局・岐阜国道事務所のホームページ(下の参考資料の項を参照)に詳しい。
 
    
 
 峠の地蔵から戻ると、そろそろキャンプの時間である。まだ少し日暮れには早いが、川上浅又川に架かる大きな治山ダムの上流の広場まで来たら、そこでキャンプするのが無難だという考えにまとまった。私にはホハレ峠で2回目の野宿となる。
 
 その夜は地蔵を拝めたことで、テントの中では満足して眠ることができた。ただ、あの険しい草の中は、もう一人では到底行くことができない。しかもキャミではあのヘアピンカーブは曲がれないのだ。これからはもう二度と旅をすることがないと思われるホハレ峠であった。

治山ダム上流の広場でキャンプ
 
<参考資料>
 昭文社 中部 ツーリングマップ 1988年5月発行
 昭文社 ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 岐阜県 2001年1月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
    (美濃川上、美濃徳山、美濃広瀬)
 角川 地名大辞典 岐阜県
 ホームページ:ぎふこくナビ http://www.gifukoku.go.jp/
 (国土交通省 中部地方整備局 岐阜国道事務所)
    道の文化 美濃の峠 http://www.gifukoku.go.jp/mino/
 
<走行日:1995. 5. 4、2004. 9.25 制作:2004.12.13 蓑上誠一>
  
    
 
峠と旅