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三才山峠
 
みさやまとうげ
 
峠道がなくなった今でも車で行ける峠
 
 
 
三才山峠 (撮影 2004. 8.10)
道の左側が長野県丸子町まるこまち西内にしうち
右側が松本市三才山みさやま
標高は1,528m(資料より)
(地形図から読むと約1,505m)
 
写真に写る道は稜線を走る林道蝶ヶ原線で
峠道の痕跡は見られない
車が向く方向に本来の峠道が通じていた筈である
 
 
 
<序>
 
 峠で道が分岐しているのはあまり好きではない。峠には細々とした峠道が一本越えていればいい。でも、しばしば、稜線方向に伸びる道が峠で交差する。峠道は暗い谷の底から登って来て、また暗い谷の底へと降りて行く。一方、稜線を行く道はいわゆるスカイラインであって、こちらは終始眺めがいい。これ程対照的な二種類の道が峠で交差するというのも面白い。どうせ走るなら気分よく走れる道の方がいいが、こちらは峠道を辿って峠を旅したいのだ。稜線の道へと入り込む機会は少ない。
 
 ところが、その稜線を走る道のお蔭で、この三才山峠は今でも車で訪れることができるのだ。本来の峠道はと言えば、既に使われなくなって久しく、人が歩いた踏み跡さえ分からない。そもそも車道が開削されたことがなかったその峠へ、ノコノコ車で出掛けられるのだから変な話である。
 
 
 
<鹿教湯温泉>
 
 この時の旅の目的は三才山峠ではなく、鹿教湯(かけゆ)温泉であった。長野県の中程に位置する丸子町にある古くから伝わる湯治場で、今でも観光ガイドに大きく紹介される人気の温泉地である。これより数年前にも鹿教湯温泉に泊まろうと画策したが、お目当ての国民宿舎が一杯で予約が取れなかった。それが今回やっと宿泊できることとなったのだ。
 
 旅の出発前に地図をしげしげと眺めていると、丸子町と西に隣接する松本市との境に三才山峠という名の峠があった。しかし、肝心な峠道が記されていない。古い峠なのであろう。現在は、その峠の下を国道254号が三才山トンネルと言う有料トンネルで抜けている。峠には稜線を走る林道が通じているようであったが、峠道がない峠にはあまり関心が向かない。旅の目的はいろいろあって、峠も勿論その一つなのだが、峠が全てと言う訳でもない。たまには温泉でのんびりするのも楽しい。三才山峠は頭の隅にあったが、メインはやっぱり鹿教湯温泉であった。
 

鹿教湯温泉への北の入口
ここより南へと道が続く
<温泉街の幹線路>
 
 旅館の朝食は遅い。旅の最中はいつも早起きで朝6時前に起きては、時間が余ってしょうがない。こういう時は空いた時間を使って朝風呂に入り、その後旅館の周辺を散策するのが常である。国民宿舎鹿月荘を抜け出して、早朝の温泉街の真ん中を貫く幹線路に出てみた。
 
 現在、国道254号は鹿教湯トンネルで温泉街の東をバイパスしている。その為、街の中心を通る幹線路でも車の通行は少なく、静かなもんだ。国道からは一旦県道12号に入り、内村川(うちむらがわ)を渡って左に入るとそこが温泉街の北の入口で、そこから幹線路が南へとほぼ一直線に伸びている。
 
 三才山峠は、ほぼ国道の三才山トンネルに相当する区間の峠道が全く記されていない、謎に満ちた峠なのであった。しかし、三才山トンネルが開通するずっと前から鹿教湯温泉は存在し、当然、松本方面から三才山峠を越えて鹿教湯温泉に湯治に来る者もいたであろう。さすれば、この温泉街を貫く幹線路は、三才山峠へと続く峠道の一部であったのではなかろうか。
 
 バス路線ともなっている幹線路は、両側に朝の開店を待つ商店などが建ち並ぶ。道幅が狭く歩道もないが、車の往来が少ないので、歩いて見て回るのには便利だ。ただ、あまり温泉街の情緒は感じられない。ところが幹線路に交差する「湯端通り」という路地に入ると、昔ながらの温泉地の雰囲気を残していた。これはガイドブックを事前に調べて、先刻承知であった。その路地の先にある内村川に架かる屋根付きの橋・「五台橋」などもしっかり観光するのだった。
 
 この日は、前日まで一緒に旅行をしてきた友人を最寄の鉄道の駅まで送り届ける予定である。友人は用事があって帰宅しなければならないのだ。最寄と言っても、なかなか近くに鉄路が通っていない。結局、松本まで出ることにした。その折、三才山峠の下を貫通する三才山トンネルを抜けることになる。

温泉街を通る幹線路
 

旅館を出発する
<内村ダムへの道>
 
 宿に戻りゆっくり朝食を済ませ鹿月荘を出発する。幹線路を南に走ると、鹿教湯トンネルを抜けて来た国道にT字で合流する。一旦その国道に乗って松本方面に走ると、直に右に分かれる道が出てくる。内村川の上流にある内村ダムへと続く道だ。ダム湖を見学する積りでそこに入った。沿道には何もない道かと思ったら、意外と人家が多い。
 
 考えてみれば、これが今の国道が通じる前身の道で、いわば三才山峠の旧道に相当するのではないかと思い当たった。
 
 三才山峠の前後は地形図などにも全く道が記されておらず、昔の道筋を知る手掛かりがない。そんな現在、鹿教湯温泉街の中を通る幹線路やこの内村ダムへの道が、古い峠道の面影を辛うじて偲ぶ存在なのではないだろうか。昔の街道を見守る様に道の両側に人家は軒を連ねる。路肩に郵便配達の車が止まり、郵便局員が道端で住民と立ち話をしていた。国道の喧騒を離れ、のどかな雰囲気だ。
 
 ダムに近付くにつれ人家はまばらとなり、枯野の中を行く道となる。周辺には僅かな田畑が見られるが、荒地となった様な所もある。道の右手に内村川のせせらぎを聞きながら進む。
 
<河川公園>
 道を川に沿って真っ直ぐ行くと、ダムの下に突き当たる。そこは河川公園になっていた。側らの林は「こもれび広場」と呼ばれているようだ。

ダム下の河川公園
(ダムをバックに見る)
 

ダムから流れる内村川
(鹿教湯温泉方向を見る)
 公園には何もないが静かでいい所だった。友人が思わず「野宿には打ってつけの場所じゃないの」と言った。ほとんど同時に私もそう思っていた。
 
 ダムからは内村川に水が注がれていた。川沿いの道はここで行き止り、多分、この付近を通っていたであろう峠道の旧道も、もうこれ以上辿るすべがない。
 
 
<ダム湖へ>
 
 公園を後に少し道を戻ると、ダムの堰堤に登る道が分かれている。河川公園を南に巻いて、車道はダムの上の管理棟に出て終わった。途中、笠岩と呼ばれる名所があったようだが、山道を登らなければ行けないようで、あっさり見送った。その岩は国道がダムの脇で小さなトンネルを抜ける、その頂上にあるようだ。
 
 ダム管理棟に隣接する僅かな駐車場に車を停め、周囲を眺める。ダムから下流は内村川の狭い谷が続く。ここに旧峠道は細々と通じていたのであろう。
 
 ダム湖は「鹿鳴湖」という立派な名前を持っていた。谷間を埋め、水を一杯にたたえていた。この水の下に峠道が続いていたのであろう。湖面の向こうに三才山峠が越えている山の峰が連なって望めた。
 
 
<天地一険一易>
 
 管理棟に並んで「天地一険一易」という記念碑があった。「てんちいっけんいちい」と読むらしい。中国の管子の言葉だそうだ。簡単に言うと、自然は険しい危険な面もあるが、時には平易な姿を見せ、有益なものであるという意味だそうだ。
 
 内村ダムは昭和47年に計画され、建設の為に11世帯が立ち退いた。完成は昭和61年。

ダムの堰堤より下の河川公園を眺める
 

鹿鳴湖
 あちこち歩いて調べたが、ダムから先に行ける車道はなかった。ただ、散策路が伸びていた。湖の右岸を通って上流に抜けているようだった。
 
 国道がダムの直ぐ脇を通っているが、車が直接出られるルートはなかった。元来た道を引き返すよりない。すると、1台の車がやって来た。私達以外にも物好きが居るもんだと思ったら、宿の食堂で隣の席に居合わせたご夫婦だった。
 
河川公園にあった看板の案内図より
 

国道を行く。松本まで19km
<国道に戻る>
 
 来た道を国道まで戻り、松本方面へ走る。道路標識には「松本まで19km」と出てきた。この先に有料道路があることを示す「料金所あり」の看板も見える。
 
 鹿教湯温泉街の道や内村ダムへの道と違って、こちらの国道は交通量がある。大型トラックなども多い。幅の広い2車線路が真一文字に山間部を突き進む。
 
<県道464号の分岐>
 
 三才山トンネルの有料道路に入る前に、寄ってみたい所があった。国道から分岐する県道464号・美ヶ原公園西内線である。料金所の手前から左(南)に分岐している筈だ。この道は道路地図では黄色表記の県道だがツーリングマップルには通行止とある。こういう怪しい道には惹かれるものがある。
 
 本当に料金所の直前で分岐を発見し、その入口に寄せて車を止めた。すると、道にはしっかりゲートが閉じられていた。入り込む余地は全くない。
 
 この道は三才山峠の南に位置する武石峠まで続いている筈なので、もし通れたら、三才山トンネルを通らず、すなわちお金を払わず松本まで越えられるのではないかと考えていたのだ。

県道はゲートで通行止
 

ゲートの先の県道の様子
 ゲートの先をのぞいてみると、ほとんど未舗装同然の荒れ果てた道が続いていた。県道と言うより林道と言った方がふさわしい道だった。もう閉じられてから久しい様子だ。
 
 国道を挟んで反対側に、内村ダムの上流に位置する奥鹿教湯温泉病院へ通じる道が分岐している。三才山峠の旧道はその病院付近を通っていたと思う。そしてその病院付近から上流の峠方向に車道はない。代わりに、この県道方向へと車道が伸びている。
 
 推測だが、病院から国道へ出る道は、今の県道464号を通って武石峠まで続く一本の道であったのではなかろうか。そこへ後から三才山トンネルを通る国道が開通し、その道を寸断した。トンネル開通以前、この道が唯一丸子町の西へ抜ける車道として機能していた時代があるのではないかと思う。
 
 三才山トンネル開通後、その役目を果たして県道464号は静かに朽ちかけようとしている。そんな風に思えた。

国道の反対側に内村川上流へ行く道
 

料金所方向を見る
<県道の前身>
 
 県道入口付近に「水源かん養保安林」などの看板が立つ(次の写真)。それらを見比べると、県道の前身は南角林道と言ったらしい(あるいは、県道の一部はまだ林道としての存在いなっているのか)。そして、南角林道の少し東には行止りの西内林道と言うのがあるようだ。
 
 だた、県別マップルでは西内林道の方を南角林道と記述しているようにも見えたりする。道の変遷にはいろいろあり、はっきりしたことはなかなか分からない。
 
水源かん養保安林の看板
県道と西内林道が記載(下が北)
 
国設南角鳥獣保護区の看板
南角林道と西内林道が記載(右が北)
 
<料金所を過ぎる>
 
 有料道路は緊張する。高速道路ならハイウェイカード(ハイカ)が使えるが、こういう所ではどういう支払方法なのか分からないからだ。自動支払機を前に、一体どこにコインを入れたらいいか、あちこち探してしまった。確か、安房トンネルでは、袋の中にコインを放り投げるようなシステムになっている。その方がコインを落とさなくて済むのだろうが、知らないとまごついてしまう。三才山有料道路の料金は500円であった。
 
 料金所を抜けると直ぐにトンネルに入るが、こちらは三才山トンネルではない。孫六(まごろく)トンネルだ。長さ240m。対向車線の松本方面からの車が数珠繋ぎになっている。

孫六トンネル
 

有料道路区間(孫六トンネルを抜けた先)
<峠の鞍部>
 
 孫六トンネルの後は暫く快適な2車線路だ。内村川の上流の谷を渡る。この下を古い峠道は通っていたのだろう。
 
 前方に峠のある峰が迫る。左の写真の左端に見える稜線上の鞍部が、多分三才山峠ではないだろうか。
 
<三才山トンネル>
 
 山が迫るといよいよ三才山トンネルだ。長さ1、511m(看板より)。四角い入口だ。その上に「三才山隧道」と書かれていた。
 
 三才山トンネルは、長野県が昭和47年に開削を着手し、昭和51年より三才山トンネル有料道路として開通したものだ。それ程、昔のことではないのに驚く。これによって松本平と上田・小県(ちいさがた)地方を隔てる筑摩山地(あるいは三才山山脈と呼ぶ)を越えて快適な車道が通じた。大きくは、関東と関西を結ぶ産業・観光の大動脈ができたことになる。交通量の多さからしても、納得できる話だ。この車道がつい30年以上前には全く存在しなかったのがうそのようだ。
 

三才山トンネルに入る
 

松本へ下る
左下の谷に旧道があるのか?
<松本へ>
 
 三才山トンネルを抜けると快適な下りが待っている。峠を越えた余韻を味わっている間もなく、車はどんどん下って行く。後続車が気なっては、ゆっくり走ることもできない。
 
 道路の左手に谷が見える。女鳥羽川(めとばがわ)上流の谷(本沢)だ。その底に多分峠道の旧道が通じていたのだろう。しかし、国道を高速で走る車を運転していては確認のすべもない。
 
 途中、有料道路区間を過ぎた辺りで、谷へ降りる分岐(三才山集落に出る)もあったようだが、どんどん通り過ぎて行くのであった。
 
 
 
<武石峠へ>
 
 友人を松本市街で無事下ろすと、その先の予定は何もなかった。何となく美ヶ原林道を経て、武石峠に出ていた。やはり漠然と三才山峠のことが気になっていたからでもある。
 
 武石峠からは稜線方向に道が伸び、三才山峠も通過しているのだ。但し、入口は県道464号のものだ。県道途中から蝶ヶ原林道が分岐し、その林道が三才山峠を経て保福寺峠付近まで繋がっているのだ。

武石峠
 

県道464号の入口
 武石峠から県道方向を見ると、道を半分塞いで大きな看板が、「全面通行止」と仁王立ちである。「法面・路肩崩落のおそれあり 当面の間」、だそうだ。下の国道からの分岐にあったゲート同様、これはかなりの「当面の間」だと感じさせる。
 
 半分開いているのは、多分、蝶ヶ原林道へ入る便宜を図る為なのだろう。ただし、県道標識もなければ、どこに通じるとの道案内もない。看板の先を見れば、いかにも寂しそうな道である。好き者でなくては、入り込もうなどとは考えないだろう。
 
<県道を進む>
 
 さて、私は峠好きだからその道を進むことにする。道は鬱蒼と茂る林の中を行く。全く視界は開けない。丸子町と松本市の境界付近を進んでいる筈だが、まだ稜線からは少し離れているようだ。
 
 路面は舗装されているが、苔むして古ぼけた感じを受ける。三才山トンネルが開通する前は、奥鹿教湯温泉病院の方からこの道をやって来る車も居たのだろう。
 
 一人旅は慣れたものだが、ついさっきまで友人と二人で旅してきたので、何だか不安で寂しい。道はその気持ちを助長させるに十分な雰囲気だ。

県道464号を行く
 

道路標識が現れる
<蝶ヶ原林道の分岐>
 
 草木の他に何もない道だったが、何やら林の中に青色の道路標識が現れた。入口には何もなかったのに、奇異な感じがする。こんな寂しい山の中で、似つかわしくない大きな標識に思えた。
 
 左は「保福寺峠」、右は「鹿教湯、大塩、霊泉時、丸子」とある。この道路標識はこの道がまだ県道として立派に機能していた頃の名残なのであろう。今となっては、これを見る者がどれほど居ることであろうか。しかし、一人旅で寂しい思いをしている自分には、ちょっとした救いのようにも思えた。
 

道路標識

分岐
 
<県道方向>
 
 右の分岐の県道方向は、しっかりゲートが掛けられていた。武石峠にあった通行止と同じ文句の看板が空々しく立て掛けてあった。文字はかすれて寂れ、ゲートの先の道もご同様だった。

県道方向
 

林道方向
<林道方向>
 
 左の林道方向には、未舗装の道が続いていた。未舗装ながらも車の通行跡があり、道として使われている様子がうかがえた。林道と考えれば、立派な道である。
 
 道の右側に林道標識が立っていた。「ここまで 林道蝶ヶ原線 (総延長7,104m)」。こちらの標識は文字もはっきりし、それほど古い物ではなさそうだった。
 
<蝶ヶ原林道を行く>
 
 地図を見ると、県道からの分岐付近で道は丸子町から松本市側へと稜線を跨いでいる。空は開け明るい雰囲気となる。路面は細かい砂利を含んだ、しっかり踏み固められた土の道だ。概ね良好である。
 
 こうした本格的な未舗装林道走行は久しぶりだった。視界も広がりだし、一人旅の調子が戻って来た。何となく楽しい気分にもなる。
 
 道は南北に伸びる稜線の西側を進む。左手に山並が広がりだす。稜線を行くスカイラインの真骨頂だ。

快適な未舗装路
 

左手に烏帽子岩えぼしいわを望む
<烏帽子岩>
 
 暫くすると、左手前方に奇妙な形をした岩山が見えるようになる。烏帽子岩(えぼしいわ)と呼ぶらしい。稜線沿いの道は眺めはいいが単調となりがちだが、その岩の姿はちょうどいいアクセントとなった。
 
 道が烏帽子岩方向に一番張り出したカーブで車を停めた。そこからは、稜線から派生した支尾根沿いに烏帽子岩へと登山道が伸びているらしかった。こちらは烏帽子岩を肴にジュースでも飲んで休憩とする。林道走行でシートに座ったままの身体を伸ばそうと、車外へ出た。すると蜂がうるさくまとわりついてきた。この時期、蜂やアブには悩まされる。ウンザリして車の中に逃げ込んだ。窓を閉ざした熱い車内でのんびりする訳にもいかず、また車を走らせるのだった。
 
 
 
峠近くから松本市方向を望む
V字に切れ込む谷が続く
 
<峠に到着>
 
 その後も暫く烏帽子岩は左手後方に姿を見せてくれていた。視界は終始開け、道はアップダウンがなく、ほとんど水平移動を続ける。
 
 左手にまた一段と深く切れ込んだV字の谷が遠くまで見渡せた。三才山峠から松本市側に流れ下る沢の谷であろう。峠は近い。しかし、この道は峠道でないのが残念だ。
 
 道は水平移動のまま峠に着いた。遠くから見れば、峠は稜線の鞍部に位置するのだろうが、稜線の凹凸を避けて水平に進んで来ては、そこが峠だとはなかなかピンとこない。


左が松本市、右が丸子町
 

峠の松本市方向
<峠の様子>
 
 峠と思しき部分の松本市側に、車が1台置ける程度の待避所があるだけで、峠道らしき痕跡は見られない。蝶ヶ原林道がただただ突き抜けているばかりで、それに交差する筈の峠道など、その気配すらないのだ。
 
 停めた車の後ろから、松本市側の谷を覗き込んでみた。何か踏み跡でも見つからないかと思ったからだ。しかし、谷は鋭く切れ落ち、こんな所に道など通せないのではないかと思えるくらいだった。この急勾配では使われなくなった道など、直ぐにかき消されてしまうのだろう。
 
 丸子町側も調べてみた。こちらも負けず劣らず急勾配だ。三才山峠は鋭く切り立った稜線上にあったのだ。そこを通る林道はさながら一本のロープの上を綱渡りするかのようである。峠から見る丸子町側はちょうど木々が邪魔して遠望がきかない。木々の下をのぞいてみるが、こちらにも峠道の痕跡は確認できない。三才山峠の道は、全く煙の様に消えてしまっていた。

峠の丸子町方向
 

三才山峠を示す標柱など
<標柱など>
 
 峠道ははっきりしないが、ここが峠であることは、幾つかの標柱や看板がはっきり示している。
 
 中でも、大きな文字で「三才山トンネル 通過地点」と書かれた看板が目立っていた。でも、地形図などを見ると、峠の位置とトンネル通過点は微妙にずれている。水平距離で200m強か。どちらかと言うと、トンネルは峠の北西に位置する三才山(1,605m)のほぼ真下を抜けていた。参考資料ではトンネルは峠の約450m下とあった。また同じ資料に、峠の標高は1,528mとあったのだが、地形図から読むと1,510に満たない。あちこち微妙にずれるのだった。
 
<峠道の変遷>
 
 看板を写した右の写真が参考になる。参勤交替路として保福寺峠が使われる前の道だったようだ。江戸期、松本から江戸に行くのに、上田を通り追分で中山道に合するこの三才山峠越えのルートが、最短路として多く使われたそうだ。
 
 明治維新後、東京への交通が増加すると共に、この峠の重要性が高まり、明治9年から14年に掛けて、三才山峠の開削が画策されたそうだ。しかし、地形があまりにも険しく、実現を見なかった。そのことは、今現在も峠に立てば納得する話である。よって、信州を東北信と中南信に分かつ筑摩山地を、最初に車道が越えたのは、保福寺峠の方であった。
 
 結局、昭和に入って長野県が選択したのは、長大な三才山トンネルであった。三才山峠越えルートは昭和45年に国道254号に昇格され、その後、三才山トンネルが昭和51年に開通している。今でも林道の様な保福寺峠の道に対し、一挙に挽回である。ただ、肝心な峠は忘れ去られる運命となってしまったが。

峠にあった看板
 

湯福の里  鹿教湯温泉
里 山 歩 き
かけゆウォーキング
(下のコース距離は空欄になっている)
<峠名の由来>
 
 「三才山」という名前に関しては、峠の北西に、松本市と丸子町、四賀村の3市町村の境となる三才山という山がある。また、地図上で峠の松本市側に目を移せば、三才山と言う地名が目に入る。丸子町の西内の住民にとって、そこは三才山村に越える峠であり、三才山峠と呼ばれたと考えるのが妥当なところだろうか。
 
 三才山地区は田川の支流・女鳥羽川の上流域にある山峡の村だ。村名の由来は、諏訪郡内から御射山社(御射神社秋宮)を勧請したことによるとのこと。御射は「みさ」と読み、勧請(かんじょう)とは、「神仏の分身、分霊を他の地に移し、まつること」(国語大辞典(新装版)小学館 1988)。「御射」の字が「三才」に当てられたという訳だ。
 
 また、これは勝手な想像だが、三才山と呼ばれる山は、前述したように三つの地域の境に位置している。それが何か関係していないかとも思う。
 
  
 
 
<保福寺峠方向に進む>
 
 峠を後に、蝶ヶ原林道の続きを進む。道は峠の部分で松本市側から丸子町側に稜線を跨いでいる。峠の手前では左手の松本市側に広がっていた眺めは、今度は右手の丸子町側に広がりだす。相変わらず切り立った崖の上の道である。

峠より保福寺峠方向を見る
 

稜線より丸子町方向を眺める
<丸子町方向を眺める>
 
 峠をほんの少し過ぎた先で、一段と眺めがいい場所がある。谷の下をのぞくと、国道が通っているのが良く見えた(左の写真)。ちょうど孫六トンネルを抜けた箇所である。そこを通った時、やはり峠の鞍部が見えていた訳だ。
 
 国道のあの賑わいとは対照的に、こちらは1台の車もバイクともすれ違わない寂しい道だ。国道との標高差も大きく、上からの眺めは別世界の感がある。
 
 谷を渡る国道の左手奥を見ると、谷の底に白い部分が見える。多分、奥鹿教湯温泉病院の建物だろう。その谷は下流へとほぼ真っ直ぐ伸びている。そこに三才山峠の峠道が通じていたのだ。
 
<蝶ヶ原林道の様子>
 
 その後の蝶ヶ原林道も楽しいものであった。無粋な舗装は全くなく、スカイラインとあって眺めは相変わらずいい。こういう林道の旅はそうどこでもできるというものではない。ただ、峠道とはあまり関係ないので、ここでは省略である。
 
 途中、反射板の様な大きな建造物が見られた(右の写真)。写真は撮ったものの、後から見ても何だかさっぱり分からないのが気に掛かる。

何?
 

県道に出る
<県道に出る>
 
 三才山峠から4kmほどで舗装路に出た。保福寺峠を通る県道181号・下奈良本豊科線である。林道入口には「これより 林道蝶ヶ原線 (総延長7,104m)」と林道標識があった。反対側の県道464号からの分岐には「ここまで」とあったので、こちらが林道の起点ということになるのであった。
 
 出た県道を右に少し登れば、直ぐにも保福寺峠だ。三才山峠の宿敵である。三才山峠も面白かったが、やはり峠道がしっかり走れる保福寺峠の方が、私には楽しい。
 
<結>
  
 今回は肝心な峠道をほとんど走っていない峠の旅だった。ないものは走れないが、よくよく考えれば、国道から外れて三才山集落内を通る道は、旧峠道の面影を残しているかもしれない。牛の供養のためのと言う大日如来の石碑などが見られるかもしれない。また、名前の由来ともなった御射神社秋宮にも寄ってみたい。
 
 こうした旅は快適な国道を突っ走っていてはできない。またいつの日か、じっくり時間を掛けて旅したい三才山峠であった。

林道標識 「ここより」
 
  
 
<参考資料>
 角川  日本地名大辞典 20 長野県 平成3年9月1日発行
 昭文社 ツーリングマップル 関東 1997年3月発行
 昭文社 ツーリングマップ  中部 1988年5月発行
 昭文社 ツーリングマップル 中部 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 長野県 2004年4月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図(Web版)
 その他 Web上のホームページより
 
<走行 2004. 8.10><制作 2006. 1.23><Copyright 蓑上誠一>
 
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