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和田峠
  わだとうげ  (峠と旅 No.229)
  江戸期の中山道以降、幾度かの変遷を経てきた峠道
  (掲載 2015. 2. 1  最終峠走行 2014.11.19)
   
   
   
和田峠 (撮影 2004. 8. 9)
 見えているのは和田峠トンネルの長野県(小県郡)長和町(ながわまち、旧和田村)側の坑口
トンネルの反対側は同県(諏訪郡)下諏訪町(しもすわまち)
道は国道142号・中山道(なかせんどう)
トンネルの標高は1,510m前後 (地形図より読む)
この和田峠トンネルは信号による交互通行となっている
トンネル上部の鞍部が和田峠
江戸期の中山道の峠(古峠)はまた別にある
        
 
概要
   
<和田峠>
 東京都心から長野県の諏訪湖がある諏訪盆地に至るには、鉄路なら中央本線、道路なら国道20号や中央自動車道が通じる。どこかに寄り道するのでなけれ ば、これらの経路を使うのが最も一般的である。鉄路も道路も、途中で乗り換えることなく、ほとんど一筋に通じている。しかし、中山道の昔は違った。諏訪湖の北側に そびえる山の向こうより、和田峠を越えて諏訪の地に降り立っていたのだ。
   
<中山道>
 和田峠は勿論、中山道(なかせんどう)の峠である。江戸末期、皇女和宮(こうじょかずのみや)が江戸の徳川将軍家に降嫁(こうか)する折りも、この中山 道を使っている。江戸期に整備された五街道の一つであるが、現在この道筋をきちっと示すことができる者がどれだけ居るだろうか。多分、いろいろな国道や県 道を乗り継がなければならない。現代人からすると、東京を出発して、なぜ最後に和田峠を越えることになるのかと、不思議な感じがする。
 
 一方、 国道20号や中央自動車道は、ほぼ元の甲州街道に相当する。こちらなら多くの者がその道筋を示すことができる。国道20号の笹子トンネル(笹子峠)などは馴染みである。しかし、和田峠に通じる和田峠トンネルをよく知っているなどという者は少ないことだろう。距離としても中山道より甲州街道の方が短い。それでも往時は中山道の方が多く使われたようだ。
   
<中山道の峠>
 東京から諏訪までの中山道の経路を、ざっくり言ってしまえば、群馬県の利根川水系から旧碓氷峠(う すいとうげ、1,180m)を越えて一旦長野県の千曲川(信濃川)水系に入り、更に和田峠を越えて天竜川水系の諏訪湖畔に至る道筋だ。利根川と天竜川は太 平洋側、千曲川は日本海側であり、すなわち諏訪地方に至るまでにわざわざ二回も中央分水嶺を越えている。更に和田峠は中山道の中での最高所であるのみならず、 五街道の中でも最も高い所に通じていた峠道だそうだ。古い和田峠(古峠)で標高は1,600mを超える。ちなみに甲州街道の難所、笹子峠でもその標高は 1,096mである。
 
 尚、中山道に関係した他の峠では、鳥居峠牛首峠を掲載している。
   
<峠の所在>
  諏訪湖は諏訪盆地の中央に大きく居座り、山裾に追いやられるようにして諏訪市、岡谷市、下諏訪町がその周りを取り囲んでいる。中でも下諏訪町は諏訪湖の北 岸に注ぐ砥川(とがわ)と承知川による扇状地帯に位置し、背後に山が迫っているので市街地は特に狭い。その市街地と背後の山を越えた北隣りの旧和田村、現在の長和町 (ながわまち)とを結ぶ道の町境に和田峠がある。尚、長和町とは、和田村とその東隣りの長門町が合併してできた町のようで、それぞれの頭文字「長」と 「和」を取って「長和」と命名したようだ。下諏訪町は諏訪郡、長和町は小県郡(ちいさがたぐん)に属し、峠はこれらの郡境でもある。
 
<峠名/和田>
 旧和田村の「和田」とは、中世以来にある地名だそうだ。峠名はこの地名から来ていると思われる。江戸期からある和田村は、つい最近までほとんど合併などせずにそのまま存続していたようだ。
   
<峠の変遷>
 和田峠はこれまでいろいろな変遷を経て来ていて、その事情は複雑だ。 現在でも国道142号の和田峠トンネルの他に有料の新和田トンネルが通じる。 ただ、新和田トンネルはまだ一度も通ったことがないのだが。
 
 文献(角川日本地名大辞典)などから峠の変遷を整理すると、概略以下のようになる。

古峠にあった看板の地図 (撮影 2014.11.19)
右が北側
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

古峠に立つ看板 (撮影 2014.11.19)
古峠の説明が書かれている
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<変遷@/古峠>
 最も初期の和田峠で、後の和田峠に対して「古峠」(ふるとうげ)と呼ばれる峠がある。 今の国道142号・和田峠トンネルより西に1km足らず離れた稜線上の鞍部だ。 現在の地形図で標高約1,605mの地点となる。 江戸期の中山道が通じた峠で、いわゆる参勤交代の大名行列などが越えた歴史ある峠だ。 中山道は慶長7年(1602年)の制定で、峠前後に宿場が設けられた。 江戸期以降、東北信(信州の東北部)と中南信を結ぶ峠として最も利用された。 現在、峠を挟む1〜2km程の区間が遊歩道として整備され、歩いて歴史を偲ぶことができる。
 
 尚、文献などで峠の標高を1,650mとするのはこの古峠の方だと思われる。 ただ、現在の地形図の等高線では、1,600mと1,610mの間にあり、50m程異なる。
   
<変遷A/紅葉橋新道>
 文献では「明治10年(1877年)、古峠の南東の鞍部 1,570mを越える旧道が開かれる」とある。 また、古峠に立つ看板(上の写真)には「明治九年(一八七六)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通」 ともある。 この「旧道」と「紅葉橋新道」とは同じものだと思う。 「旧トンネル」とは、有料の新和田トンネルに対して、和田峠トンネルを「旧」としたものか。 現在の地形図では、和田峠トンネルの真上の鞍部に「和田峠」と記されている。 ただ、そこの標高は1,510m〜1,520mである。こちらも文献の数値と50m程違う。
 
 明治期以降はこの峠が和田峠と呼ばれ、それに対し江戸期の中山道の峠を古峠と呼ぶようになったようだ。この後、古峠の交通はぱったり途絶えていく。 一方、新しい峠道は現在の国道142号(和田峠トンネルの経路)の原型となっていったようだ。
 
 尚、文献で「旧道」といっているのは、後にこの峠の下に開通する和田峠トンネルの道に対して「旧」としたものか。 あるいは、新和田トンネルが通じる新国道に対する「旧道」か。
   
<変遷B/明治29年以降>
 文献では「明治29年(1896年)現在の峠道開通」とある。 ただ、その中身は不詳だ。 この頃はまだ現在の和田峠トンネルはできていない。 馬車などが通れるような道へと改修されていったものか。
 
 同じ明治29年、峠の北側に通じる信越線に大屋駅が開業している。 大屋駅と製糸業で盛んとなる諏訪地方を結ぶ重要な道として和田峠は賑うこととなる。 明治33年(1900年)の鉄道唱歌・北陸編に 「諏訪の湖水を見る人は、大屋を降りて和田峠、越ゆれば五里の道ぞかし、山には馬もかごもあり」とあるそうだ。 この「五里」とは、中山道の和田宿と下諏訪宿の間の距離と思われる。 約20kmである。 この唱歌からすると、この時代、まだ交通手段は人馬に頼っていたようだ。
 
 しかし、明治38年(1905年)には中央線が岡谷まで開通してしまい、諏訪地方が東京都心と一本の鉄路で結ばれることとなる。 中山道の時代、江戸と京都を結ぶ大幹線路の峠であった和田峠も、諏訪地方と佐久・上田地方を結ぶ、小さな役割となっていく。
 
 それでも大正期には自動車道として改修が進められたようで、 大正14年(1925年)には和田嶺自動車が和田と下諏訪間の運行を開始したそうだ。 まだトンネルが開通する前に、自動車が和田峠を越えていたことになる。
   
<変遷C/和田峠トンネル>
 昭和8年(1933年)には峠直下に和田峠トンネルが開通している(トンネル竣工は昭和7年とも)。 現在我々が目にする和田峠がこの時完成した。 同年、このトンネルを抜けて和田峠線のバス運行が営業を開始しているそうだ。 和田峠を越える本格的な自動車交通の幕開けであった。
 
 昭和28年(1953年)には二級国道142号に指定、昭和40年(1965年)に現行法の一般国道142号に指定される(昭和41年とも)。 一般国道指定に伴い道は完全舗装されたそうだ。 尚、文献に「昭和41年、和田バイパス完成」とあったが、これは何かの誤記か。
   
<沿線D/新和田トンネル>
 昭和53年(1978年)、新和田トンネルが開通し、国道142号に新しいルートが加わった。 古い和田峠トンネルは狭く、信号により交互通行しなければならなかったが、この新トンネルでその不便は解消された。
 
 文献に新和田トンネルの標高は1,380mとあったが、現在の地形図では長和町側坑口の標高が丁度その値である。 下諏訪町側坑口はやや低く、約1,340mとなる。 和田峠トンネル(約1,510m)に比べるとグッと低い。 全長1,920m(1,922mとも)もの長いトンネルは、和田峠トンネルのやや東に通じた。 トンネルを含む約4.6kmの新しいルートは新和田トンネル有料道路と呼ばれ、狭く屈曲する旧道に比べてなめらかなようだが、 まだ一度も通ったことはない。
   
   
下諏訪町市街へ
    
<下諏訪町市街>
 諏訪市の方から国道20号をやって来ると、下諏訪町に入って地形が厳しくなる。 湖と山に挟まれた狭い所に道路と鉄路が窮屈そうに通じている。 そこを抜けると下諏訪町の市街だが、中央線の下諏訪駅を中心に建物が密集し、道も複雑に交差する。 車の運転は相変わらず気を使う。

諏訪大社下社春宮の駐車場にあった看板 (撮影 2014.11.20)
下諏訪市街の参考に
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

大社通りの交差点前 (撮影 2014.11.19)
左折は国道20号の続き
右折は国道142号を和田峠へ
<大社通りの交差点>
 下諏訪町で最大の幹線路である国道20号も、市街地内では真っ直ぐには進めない。 「大社通り」という交差点で左折して行く。
 
 概略、「国道20号=甲州街道」であるが、この大社通りの交差点以降、 塩尻峠を越えて塩尻で国道19号に接続するまでの国道20号は、現代の中山道と言える。 一方、大社通りの交差点を右に進むのは国道142号で、こちらが和田峠へと続く中山道となる。 大社通りの交差点は、現代の中山道と甲州街道が合流する地点と言えそうだ。
   
<「甲州道中・中山道合流の地」の石碑>
 「大社通り」交差点より国道142号を進むと、諏訪大社下社秋宮の前で左折し、北へと方向が向く。 すると直ぐに「甲州道中・中山道合流之地」と刻まれた石碑が立っている。 ここが本来の甲州街道と中山道が合流する地点だったようだ。
   
「甲州道中・中山道合流之地」の石碑が立つ (撮影 2014.11.20)
石碑の前に通るのが国道142号
 左が諏訪神社下社秋宮前へと続く甲州道中
正面が塩尻峠へと向かう中山道
右が和田峠から下って来た中山道

   
 付近は家屋が密集し、車を停めるスペースなどはない。 秋宮の駐車場に停め、参拝を済ませた後に散策がてら周辺を見て回らせてもらう。
   

「甲州道中・中山道合流之地」の石碑 (撮影 2014.11.20)

石碑の文字 (撮影 2014.11.20)
   
<石版>
 石碑の脇に埋め込まれた石板には、次の様にある。

  旧甲州道中
 → 江戸 五十三里十一丁
 
 京都 七十七里三丁 ↓
  旧中山道
 江戸 五十五里七丁 ←
 
 この地から江戸までは中山道の方が二里弱長い。
 
 石碑が立つ一帯はかつての中山道・下諏訪宿で、近くに本陣跡なども見られる。歴史好きなら立ち寄る所に事欠かない。

石碑の脇の石版 (撮影 2014.11.20)
   
   
下諏訪宿より峠へ
   

正面は旧中山道 (撮影 2014.11.19)
国道142号はやや右にカーブして続く
<旧道分岐>
 「甲州道中・中山道合流之地」の石碑から国道142号を更に進むと、100m程して左に下る道が分かれる(左の写真)。 そちらが旧中山道らしい。 昔の道はその先にある春宮の脇を通っていたそうだ。 翌日、春宮に参詣した後、その道をパジェロミニで通ってみたが、狭い狭い。 他にも、秋宮の脇から東に続く旧甲州道中にも行ってみたが、やはり対向車にびくびくしながら進む道だった。 途中の所々にある遺跡なども、のんびり眺めていられない。 やはりこうした旧道探索は歩いて回らないと駄目だが、それには有り余る時間が必要だ。
   
<市街を外れる>
 旧中山道に対し現在の国道142号は山際の少し高い所に通じる。 左手の車窓から下諏訪町の市街とその先に諏訪湖を望む(下の写真)。
   
国道142号より下諏訪市街と諏訪湖を望む (撮影 2014.11.19)
   

前方でバイパス路に合流 (撮影 2014.11.19)
<砥川沿い>
 市街を抜けると砥川(とがわ)の左岸沿いになる。 対岸に棚田や段々畑が望め、やっと落ち着いた雰囲気となる。 道は快適な2車線路が続く。
 
<バイパス合流>
 何事もなく真っ直ぐ行けると良いのだが、途中でバイパス路にこちらから合流しなければならない。 混雑する市街地を避け、西側より回り込むように国道142号のバイパス路が新しく設けられている。
   
<浪人塚(寄り道)>
 さっさと峠に行けばいいのだが、少し寄り道(余談)。
 10年程前、付近を走行しながら昼食場所を探していた。レストランではない。 手持ちの食料を食べる静かな場所だ。 地図に「水戸浪士の墓」とあるので、そこに寄ってみることにした。 大樋橋(おおとよはし)を渡る少し手前、小さな看板の案内に従って国道から右手に外れる。 ペット霊園や採石場を過ぎ、少し迷ったが、その塚を見付けた。 いつもはコンロでお湯を沸かして即席麺などを作るが、面倒なので手持ちの魚肉ソーセージと昨日買ったパンをかじる。 塚を囲む林の中で夏の日差しを避けつつ、一時を過ごす。 「浪人塚」と書かれた看板が立っていたが、何の関心もなく、ただ写真を一枚撮っておいた。

左に小さく「水戸浪士の墓」の看板 (撮影 2014.11.19)
その先で右手に下る道が分かれる
   
 今回その看板を読んでみると、水戸浪士・武田耕雲斎が登場していた。 最近、温見峠(再訪)を掲載し、その関係で蠅帽子峠 (はえぼうしとうげ)についても触れた。 この浪人塚がある地で戦があったのが元治元年11月、その翌12月に耕雲斎らは厳冬の蠅帽子峠を越えている。 幕末の動乱期にあっては、あまり一般には顧みられない史事であるが、千人もの人が命を掛けた行動をしていた。 結局、後に耕雲斎も処刑されている。 僅か150年程前の出来事である。 今は浪人塚の前でのんびり昼食が採れる時代だ。
   

浪人塚 (撮影 2004. 8. 9)

浪人塚の看板 (撮影 2004. 8. 9)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
   
国道の旧道へ
   
<旧道分岐>
 大樋橋以降、道は砥川の右岸沿いを遡る。 下諏訪町市街から10km程で、和田峠トンネルを越える道が左に鋭角に分岐する(下の写真)。 他に適当な呼び方がないからこちらを「旧道」と呼んでおく。 直進は新和田トンネルを抜ける新道で、こちらは有料である。 料金を払って快適な道を選ぶかどうかは個人の選択であり、あくまで「旧道」の方が「本線」だと思っている。 道路標識もどちらの道も国道表記となっている。 繰り返すようだが、和田峠トンネルは記憶にあるだけでも4回は越えているが、 新和田トンネルはまだお目にかかったことがない。
   

左に旧道分岐 (撮影 2014.11.19)

分岐から先は有料 (撮影 2014.11.19)
  
 旧道方向には「ビーナスライン入口 美ヶ原高原 霧ヶ峰高原」、「東餅屋・接待」などと案内看板がある。 旧道の利点は無料であること以外に、ビーナスラインへ近いことだ。
   
旧道より下諏訪町市街方向を見る (撮影 2014.11.19)
   

旧道の様子 (撮影 2014.11.19)
<旧道の様子>
 分岐から峠までは4km弱の道程だ。 やや狭い道が屈曲して登る。 交通量は少ないが、意外と大きな輸送トラックや、付近の山からの木材搬出の車が時折通る。 それでも、車で走る限りには全般的に面白みに欠ける和田峠の道にあって、この旧道区間の道はそれなりに楽しく救いとなっている。暫し、静かな山間の道を堪能する。
   
<中山道分岐>
 旧道を半分近く登って来て小さな橋を渡る手間、左手の山の中へと山道が始まっている。 入口には「中山道」と看板や標柱が立っている。 折しも近くで木材搬出作業が進行中で、その作業者の車が入口の脇に停まっていた。
 
 この「中山道」とは、初期の和田峠である古峠へと登る道だ。 峠まで約1kmの山道が今でも保存されている。 和田峠トンネルの前身は紅葉橋新道であるが、それより更に前の時代の道だ。 旧道から更に旧道が分かれていることになる。 ちょっとのぞく限りには、草が刈られた歩き易そうな道が林の中へと登って行く。 紅葉橋新道は東餅屋から西餅屋に達していたそうだが、この付近が西餅屋だろうか。

正面の車の脇から中山道が始まる (撮影 2014.11.19)
   

中山道入口 (撮影 2014.11.19)

橋の上から中山道を見る (撮影 2014.11.19)
   
 その後も穏やかな道が続く。右手の対岸に道が見えるようになる。 県道194号・霧ヶ峰東餅屋線(ビーナスライン)のようだ。
   
峠への道 (撮影 2014.11.19)
   
   
峠の下諏訪町側
   

和田峠トンネルの下諏訪町側 (撮影 2014.11.19)
信号待ちの車列の最後尾に付く
<峠の下諏訪町側>
 この旧道は交通量が少ないが、それなりに車の利用がある。 峠のトンネルは信号機による交互通行なので、途中で数台の車列とすれ違ったり、峠で信号待ちしている車の列に出合うことがある。 今回も峠でトラックの後ろに付いた。
 
 トンネルの信号は以前からあったが、トンネル手前の右側に広い路肩があり、そこに車を停めて峠をのんびり散策できた。 最近はその路肩がやや狭くなってきていて、車も停め難い。
   
以前の和田峠トンネルの下諏訪町側 (撮影 1992. 9. 6)
 約22年前の様子
右側の路肩に車を停められる十分なスペースがあった
坑口の様子も今とは異なる
   
以前の和田峠トンネルの下諏訪町側 (撮影 2004. 8. 9)
約10年前の様子
右側の路肩は入れないようにバリケードがあった
トンネル坑口も一新されている
   
<トンネル坑口>
 昔の写真と見比べると、トンネル坑口の様子が違う。 高さ制限は以前も今も3.6mと同じなので、トンネルの大きさそのものは変わりがないらしい。骨格もそれ程大きな違いはなく、表面的な補修に見えた。
   
和田峠トンネルの下諏訪町側 (撮影 2014.11.19)
青信号で走りだす
   

現在の下諏訪町側坑口 (撮影 2014.11.19)

約22年前の下諏訪町側坑口 (撮影 1992. 9. 6)
扁額はなさそうだ
   

坑口に掛かる扁額 (撮影 2014.11.19)
「和田峠トンネル」とある
<トンネルの扁額>
 今は「和田峠トンネル」と書かれた扁額が掛かっているが、以前はそうした扁額はなかったようだ。ただ、手持ちの古い道路地図(1991年頃の発行)でも、このトンネルを「和田峠トンネル」と記載している。 トンネル開通当時からそう呼ばれていたのかもしれない。
   
<和田峠>
 紅葉橋新道は旧トンネルの上に通じたという。 以前、坑口の右横より少し登ってみたことがある(右の写真)。 確かにトンネル上部は峰の鞍部になっていて、峠らしさは感じた。 しかし、道の痕跡がはっきりしない。 周囲は灌木が生い茂るばかりだ。 ここが地形図にも示される和田峠とは到底思われなかった。 峰の頂上に立つ前に引き返してしまった。

トンネル上部を眺める (撮影 1992. 9. 6)
ここが和田峠か?
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<黒曜石(余談)>
 和田峠と言えば、個人的には東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の境にある陣馬街道の和田峠の方が馴染みである。 バイクや車で何度も越えた。 陣馬高原への登山道としても数回利用している。 しかし、バイクや車に乗るようになる以前から、今回の和田峠を知っていた。
 
 子供の頃、自宅からちょっと離れた畑などから、土器の破片や石器などがいろいろ見付けられた。 子供だから何も分からず、他人の畑にズカズカ入って、勝手に掘り出しては家に持ち帰っていた。 そんな出土品の中に、三角形の真っ黒な石があった。 黒曜石でできた矢じりであった。 東京の多摩地方などで黒曜石は自然には産しない。 調べてみると、長野県の和田峠付近が原産地とのことで、古代人がよく矢じりなどに加工して使ったそうだ。 遠い昔、遠く長野の地から原始人が運んで来たと思われる、その黒光りする石の矢じりを見ていると、 子供ながらにロマンを感じるのだった。 その和田峠とやらに行くと、黒曜石の原石がゴロゴロしているのかと思ったりした。
 
 後年、実際に和田峠に来てみたが、黒曜石の原石が地表に露出している訳はなかった。 トンネルの上の鞍部を眺めた時、そこが本当に和田峠かと疑念を持ったと同時に、子供の頃からの淡い期待が消えていった。 現在、国道142号を走っているだけでは、沿道に立つ店先に土産物の「黒曜石」と看板が出ているくらいで、 直接黒曜石に関われることはない。
 
 それにしても、子供の頃掘り出した土器の欠片や石斧、黒曜石の矢じりなど、 今思うと考古学的にもなかなか貴重な物だったように思える。 中学生の時に家が引越した折り、皆捨ててしまったようだ。 残念なことをした。
   
   
峠の長和町側
   
<峠の長和町側>
 和田峠トンネルを抜けた後、長い切通しが続く。 退避所がないので、この区間でなかなか車を停める訳にはいかない。 その為、長和町側の坑口を間近に写真に収めたことがない。 ちょっと行くと、上に県道194号・霧ヶ峰東餅屋線が渡っている。 その橋の上から眺めるのが丁度良いのだが、残念ながら写真は撮っていなかった。
   

和田峠トンネルを長和町側へ抜けた所 (撮影 2014.11.19)

上に県道194号が通る (撮影 2014.11.19)
   
 長和町側は峰の頂上近くまで掘削されている為、峰を越えていた和田峠の道が残る余地がほとんどない。 また、坑口付近は擁壁に囲まれ、登ることは困難だ。 長和町側からの峠の探索は難しい。 県道194号の方から降りてみたら良かったかもしれない。
   
和田峠トンネルの長和町側(再掲) (撮影 2004. 8. 9)
峠の鞍部は坑口上部から近い
   
   
長和町側に下る
   

看板に「長和町」と出てきた (撮影 2014.11.19)
<旧和田村>
 旧和田村は大字を編成していなかったようだ。 代わりに国道沿いに東餅屋、接待などの地名が見られる。
 
 峠からは和田川が流れ下る。 この先で男女倉沢(おめぐらさわ)川が合流し、その後、千曲川の支流・依田川となる。 旧和田村は依田川上流域に位置する。 道は一旦和田川右岸に下り、間もなく左岸に出る。
 
 文献では男女倉沢川が和田峠の源と書かれていたが、男女倉沢川側には新和田トンネル有料道路が通じている。
   
和田川を渡った直後 (撮影 2004. 8. 9)
左手に「和田峠」と看板があるが、これはレストランの敷地に立つもの
今はこの看板はなく、レストランも営業していない
尚、ここで和田川を渡るのが紅葉橋新道の名になる「紅葉橋」ではないだろうか?
   
<県道194号分岐>
 トンネルから800m程で県道分岐である。 ビーナスラインへはここ入る。
   
県道194号の分岐 (撮影 2014.11.19)
国道が右カーブする所を左に分岐

   
 分岐にはカーブ番号が立っていた。「第78カーブ」とある。下諏訪町側にはカーブ番号はなかったように思う。
 
 中山道はこの先、旧和田村の中心地である和田宿を通り、旧長門町から立科町へと続くようだが、 依田川の流域から離れて行ってしまう。 こうした点も中山道の道筋を理解しにくくしている。
 
 代わって依田川沿いには国道152号が続き、その先に信越線の大屋駅が待っている。 中央線や信越線は概ね東西方向に通じ、それらを繋ぐ和田峠の南北方向には、結局鉄路は通じなかった。 往時、江戸から京都まで一筋に通じる中山道であったが、現代はこの和田峠で真っ二つに断絶した感がある。
 
 まだまだ77ものカーブを残す和田峠の道だが、この先、適当な写真も残ってなく、中途半端だがここで終わりとする。

分岐に立つ看板 (撮影 2014.11.19)
   
   
東餅屋から古峠へ
   

右に県道460号が分岐 (撮影 2014.11.19)
<古峠へ>
 江戸時代の中山道の和田峠、すなわち古峠には以前より一度行ってみたいと思っていた。 諏訪湖畔に一泊した折り、思い切って出掛けてみようとしたのが今回の旅である。 地図で見ると、旧和田村の方から歩くのが近そうだった。
   
<県道194号へ>
 国道から県道194号が分岐する付近が東餅屋だろう。 ここより県道194号は峠の峰の方に引き返す。 道筋は異なるが、大まかな方向としては江戸時代の中山道と同じである。 今の車道が屈曲して登るのに対し、昔の中山道はほぼ真っ直ぐ峠に向かって行ったようだ。
 
<県道460号分岐>
 ひとしきり登り切ると広いT字路に突き当たる(右の写真)。 左が県道194号の続き、右に県道460号・美ヶ原公園東餅屋線が始まる。 看板にはここを「和田峠」としている。 範囲を数100mに広げれば、確かにここも和田峠である。ただ、ビーナスラインは本来の峠道に直交する方向に延びている。和田峠トンネルに新和田トンネルが加わり、更にビーナスラインが通じて、和田峠の事情は複雑怪奇である。

県道460号の分岐に立つ看板 (撮影 2014.11.19)
「和田峠」とある
   
県道460号側からT字路を見る (撮影 2014.11.19)
この付近一帯が和田峠?
   
<古峠入口へ>
 車道で出来るだけ古峠に近付くには、県道460号の方をもう少し登る。屈曲した坂道が続く。 直線的な中山道をS字の車道が切断した格好だ。 カーブを曲がる度に中山道の出入口の看板が見られる。
 
<長和町の景色(余談)>
 目的の古峠入口をうっかり通り越し、転回場所がないまま1km程行き過ぎた。やっとちょっとした路肩を見付けて車を入れたら、そこから長和町側に景色が広がった(下の写真)。 時間を無駄にしたが、それをちょっと取り返した気分だった。 中山道はこの雄大な山の景色の下に通じている。
   
県道460号の途中から望む長和町側の景色 (撮影 2014.11.19)
この山中に中山道が通じる
   
<古峠入口>
 近くの看板には「至和田峠 0.6km」とあった。 この「和田峠」とは県道460号の起点となる先のT字路であろう。そこに 道路脇から登る階段がある(下の写真)。 横の青い小さな看板に「中山道」と書かれている。 ほとんど目立たないので、中山道や古峠に関心がない者には、まず注目されない階段である。 実のところ、過去2、3度通ったことがあるが、全くの素通りであった。
   

左手に古峠入口 (撮影 2014.11.19)
雪で滑りやすい階段で、夫婦で注意しあいながら登った

古峠入口を正面に見る (撮影 2014.11.19)
   
<古峠へ>
 雪で滑りそうな階段を慎重に登ると、峠に向けて穏やかな道が待っていた。 しかし、その脇に穏やかでないことが書かれた看板も立っていた(下の写真)。 クマに関する注意看板だった。 目撃は「西餅屋下の垂木坂付近」とあるが、「垂木坂」が分からない。 「五十三里目の一里塚下」も分からない。 分かるのは峠の下諏訪町側であることだけだ。 ちょっとたじろいだが、進むことにした。
   

古峠へと登る中山道 (撮影 2014.11.19)
右手にクマの注意看板

クマの注意看板 (撮影 2014.11.19)
   

古峠への道 (撮影 2014.11.19)
 初めから山歩きを目的にした場合は、クマ除けの鈴などを持参するが、今回は急きょのことで無防備である。 こういう場合、私は手を叩いて歩く。 妻は石を2つ拾い、それを打ち合わせて音を出し始めた。 私の2、3m先を進んで歩いて行く。 最近体調不良の私をけん引する気遣いの様だ。 クマが出たら私をかばう意気込みなのかもしれない。
   
 幅の広い山道は草が刈られ、木立の中を気持ち良く登って行く。 木陰になる部分は雪が残っていた。 その雪の上に、どう見ても獣の足跡らしいものが確認できる。 周囲をきょろきょろと見回し、掌も痛くなる程に叩きながら先を急ぐ。 峠まで400m程の道程は、歩いて10分弱だった。 峰の頂上に開けた峠が現れた。

前方に峠を見る (撮影 2014.11.19)
   
   
古峠
   
古峠(和田峠) (撮影 2014.11.19)
下諏訪町側から見る
   
<峠の様子>
 峠は稜線上の見事なV字の鞍部にあり、山道の峠としては広々とした印象だ。 峠道は北東から南西へとほぼ真っ直ぐ通じている。 南西に開けた上諏訪町側から明るい日差しが降り注いでいる。 峠の旧和田村側に東餅屋、下諏訪町側に西餅屋があり、この「東西」関係に間違いはないが、ちょっと奇異な感じも受ける。個人的には「南北」で表してもらった方が、理解し易い。和田峠は概略「南北」方向に通じているという印象があるからだ。でも、 東の江戸に近い方を東餅屋、西の京に近い方を西餅屋とする方が、中山道を旅する者には分かり易いのかもしれない。
   

峠より長和町方向を見る (撮影 2014.11.19)
東餅屋へと下る道

峠より下諏訪町方向を見る (撮影 2014.11.19)
西餅屋へと下る道
右手に「下諏訪中山道を守る会」による案内看板
「下諏訪宿へ11.5km 420m ← 石小屋」とある
マップを入れるボックスがあるのだが、残念ながら空だった
   

「歴史の道 中山道」の看板など (撮影 2014.11.19)
<看板など>
 峠にはいろいろな標柱や看板が立ち、目移りする。 比較的新しい物が多い。 明治初期、紅葉橋新道に和田峠の名を奪われたこの古峠であったが、戦後、歴史の旧跡が見直される中、 昭和53年には文化庁が中山道を「歴史の道」として選定している。 また、旧和田村は男女倉口(おめぐらぐち、新和田トンネル有料道路との分岐付近)から古峠までの4.7kmを整備・復元に努めたそうだ。 今回歩いた道も、その一部である。昭和62年には国史跡になっている。
 
 和田峠前後の中山道だけでも随所に史跡が残り、いろいろ史事も多く、ここで改めて記するのもおこがましい。 代わりに、下に看板の地図と説明文を掲載し、僅かばかりの資料とする。
   

中山道の地図 (撮影 2014.11.19)
右が北
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

中山道の説明 (撮影 2014.11.19)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<石仏など>
 この峠にあって古そうなのは、峠を挟んで西側にある石積みの上の石仏と、東側の石柱である(下の写真)。 近年立てられた看板や標柱に混じって、やや目立たぬ存在だが、江戸期当時からこの峠にある物ではないだろうか。 石柱の両面を写真に撮って来たが、何とも読めない程に磨滅していた。 この石仏や石柱は、和宮の通行も見守ってきたのだろう。
 
<余談>
 ところで、NHK大河ドラマ「篤姫」で和宮を演じたのは確か堀北真希さんだった。中山道の和宮降嫁の事を思うにつけ、ついつい堀北真希さんの顔が浮かん できてしまう。人は物事を考えたり記憶したりする場合、やはり安易な視覚的イメージに頼りたがる。私の場合、「和宮=堀北真希さん」でイメージが定着して しまい、堀北真希さんを通して和宮のことを想像しがちである。全く違った人格なのに。
   

石積みの上に小さな石仏 (撮影 2014.11.19)
峠より西に続く峰を背景に立つ

古そうな石柱 (撮影 2014.11.19)
東の峰を背景に峠のほぼ真ん中に立つ
この裏面にも何か刻まれているが、読めない(・・・観音?)
   
 峠にもクマの注意看板があり、入口にあった物と同じかと思ったら、 「六月二十八日(2014年のこと?)に、中山道和田峠の接待付近で」クマが目撃されたとのこと。 「接待」というのは、これから戻る旧和田村側にある。やや心残りながらも、そそくさと峠を後にした。 今度は私が先行するも、逃げ腰の気味はぬぐえない。 また暫く付近の山に、手を叩く音と石を打ち鳴らす音が響くのであった。
   
   
   
 この和田峠は掲載対象とするにはあまりにも大きな峠である。 何しろ中山道がその対象となる峠道だ。 峠前後の和田宿から下諏訪宿の間に限ってみても、歴史の深さや峠道の変遷の多さに扱いかねる気がする。 もっと記すべきことがいっぱいあるように思われ、消化不良気味だ。 それでも、念願だった古峠を実際にこの目で見ることができ、これで子供の頃から思っていた和田峠も、その全体像がやっとイメージできた気がする。 この「峠と旅」にも、また一つの区切りがつけたのではないかと思う、和田峠であった。
   
  
   
<走行日>
・1992. 9. 6 旧和田村 → 下諏訪町 ジムニーにて
・1993.10.24 下諏訪町 → 旧和田村 AX−1にて
・2004. 8. 9 下諏訪町 → 旧和田村 キャミにて
・2014.11.19 下諏訪町 → 長和町 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<1997〜2014 Copyright 蓑上誠一>
   
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