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牛首峠
 
うしくび とうげ
 
木曽路に抜ける隠れた峠ルート
 
牛首峠 (撮影 2001. 4.28)
手前が辰野町小野方面、奥が楢川(ならかわ)村桜沢方面
(但し、峠は辰野町にあり、市町村境とはなっていない)
道は県道254号・楢川岡谷線
 
 この牛首峠はこれまでも幾度か利用している峠道だ。何でも「初期の中山道」にあたるそうだが、歴史に関心があって通り始めた訳ではない。その証拠に、峠道の途中に「江戸から六十里の一里塚」があるのを知ったのはつい今年(2002年)のことである。
 
 東京方面から旅に出て、木祖路(現在の国道19号)の木祖福島町辺りに出ようとすると、その直前に木祖駒ケ岳を中心として南北に連なる山脈・中央アルプスが大きな障壁となる。ちょっと失礼な言い方だが、木祖は中央アルプスの裏側に隠れてしまっているのだ。
 
 さて、この中央アルプスをどうやって越えるかであるが、一番楽しい峠道は何と言っても「権兵衛峠」である。しかし、道は険しいし、距離は長いし、冬季は長い間閉鎖だし、よっぽど時間に余裕があり、タイミングも良くなければ選択できるルートではない。
 
 一方、一番安易なのは、国道20号・甲州街道や中央高速道路で塩尻まで行き、素直に国道19号に乗って南下する方法である。でも、この国道19号はあまり面白くないので、なるべく走りたくない。昔こそ古い木曽路の面影を残す道だったのだろうが、現在の国道は元からあった集落を大きくバイパスし、もっぱら直線的に走る快適2車線路となっている。仕事で通るにはいいだろうが、旅をするには味も素っ気もない。多分、こまめに国道を外れて丹念に細部を見て回れば、今の奈良井宿の様に昔ながらの素朴な街道筋の雰囲気を残している部分もあるのだろう。しかし、なかなかそこまでの旅はできない。ただ漫然と国道を走るぶんには、大型の輸送トラックなどがビュンビュン行き交い、早くここから抜け出たいと思うばかりの道に感じる。
 
 そこで、道路地図を見ながらいろいろ思案すると、この牛首峠の道に行き当たるのである。こんな場合、昭文社のツーリングマップ(ル)は素晴らしい。本来こんなマイナーな峠道は一般の道路地図では恐れ多くてはっきり記載していない場合が多い。手持ちの10年ほど前に買ったある道路地図では、楢川村側の道が完全に抜け落ちていて、通り抜けできるように見えないのだ。そんな時でも、我々のツーリングマップは、正々堂々と「おすすめルート」(以前は「ガイドのコース」と言っていた)として記載をはばからないのであった。
 
 そんな訳で、この牛首峠を越えるようになったのは、単に当たり前の国道19号をなるべく走らず、少しでも面白そうな道を走りたいと単純な魂胆からで、歴史などには全く無頓着なのであった。
 
 例えば、中央高速を走ってきたのなら、岡谷ICで降りて一旦国道20号に乗る。20号を塩尻峠方面に進む途中で県道254号に入る。「勝弦峠」を経て国道153号・「旧三州街道の小野宿」に出る。小野より再び同じ番号の県道に分岐して牛首峠を越え、国道19号に合流する。こうすると僅かだが19号を走る区間が少ないし、何しろ寂しい道の連続で落ち着いてのんびり旅が楽しめるのだ。
 
 ところが、これもつい最近知ったのだが、勝弦峠から県道を離れて「小野峠(三沢峠)」を越えて小野に達する「塩嶺(えんれい)王城(おうじょう)パークライン」というのがある。岡谷方面から牛首峠へといざなうルートの一つとなっているが、この道も初期の中山道の道筋に当たるらしい。図らずしもいつのまにやら歴史的な道筋を辿っていたのであった。

塩嶺王城パークラインより
牛首峠方面を眺める (撮影 2002. 9.28)
 

「小野下町」の交差点 (撮影 2002. 9.28)
<東の入り口「小野」>
 
 さて、牛首峠の東にあたる辰野町側からの入り口は、前述した通り国道153号・三州街道(古くは「飯田街道」とか「伊那街道」とも呼ばれる)の宿場・小野である。小野より三州街道を北へ進めば「善知鳥峠」越えが待っている。
 
 小野には現在「小野下町」という信号のあるT字の交差点があり、そこより峠への県道が分岐する。国道上に県道分岐を示す目立つ道路標識はなく、ほとんど信号名の「小野下町」を頼りにするしかない。入る県道はセンターラインのない狭い道で、いつも本当にこの道でいいのかと不安にさせられる。
 
 県道入り口に向かって右側には「青少年健全育成道場」というやや古めかしい建物が立ち、また国道沿いには「アオヤギ精器」という大きな看板が県道方向を指し示している。こうした目印はいくらでもあるのだろうが、そんなこといちいち覚えていられやない。「小野下町」という交差点名さえ忘れている場合が多いし、あまり視力がよくないので、信号の下に小さく書かれた交差点名を確認している間に通り過ぎてしまう。いつも、ここら辺りだったかなと思いながら道を曲がるのだった。
 
 県道に入って数10mくらい先の左手に県道標識が立っている。「県道 254 長野 (−)楢川岡谷線 辰野町小野」とある。これを見て、この細い道が目指す県道であることを確信しやっと安心する。
 
 暫くは小野の集落の中を抜けて行く。車では狭苦しい道だ。でも、人家の密集地区を過ぎるとその先に、峠から流れ下って来た「飯沼川」沿いに広がる田園の景色が現れる。道幅は相変わらず狭いのだが、人家の軒先が沿道にまで迫ってきている集落内とは違い、落ち着いた開放感がある。秋の実りの季節には黄金色に輝く稲穂が谷間の田んぼを埋め尽くす。思わず見とれてしまう眺めだ。懐かしい日本の風景の一コマである。そういう中を走っていると、「やっぱり旅はいいな〜」と思ってしまう。
 
 途中、左手の原地の中に大きな石碑が立っている。確認はしていないが、旧中山道の「江戸から五十九里の一里塚」跡地を示す石碑ではないかと思う。しかし、一里塚そのものは現存していないそうだ。

田園風景 (撮影 2002. 9.28)
残念ながらこの時は稲の刈り取りは終わっていた
 

中村集落にある分岐 (撮影 2002. 9.28)
<下村から中村へ>
 
 道はその先、「下村」、「中村」と県道沿いに点在する集落を過ぎる。中村では不意にY字路に遭遇する。よく見れば県道標識や道路標識があり、そこを左に入ることは直ぐ分かる。
 
 Y字を右に行く道は、「藤沢」集落を経て、元来た小野の「中央本線小野駅」のまん前に出る。実は本線の県道を来るより小野駅から来る方が、距離は長いが道は県道よりややいいように思うのだ。
 
 中村のY字路には「中部北陸自然歩道」とかかれた標柱が立つ。「牛首峠経由 桜沢 6.2Km」とある。車なら何でもない距離だ。短いからこそ、じっくり味わいたいと思う。
 
<山口集落へ>
 
 中村の次は「山口」へと向かう。徐々に谷が狭まってくるので耕地は少なく、斜面を切り開いて作った僅かな田んぼがそこここに点在する。道幅も一段と狭くなり、軽自動車同士さえもすれ違えない。その曲がりくねった道の先に山口集落の人家が見えてくる。
 
 山口は牛首峠の辰野町側最後の集落である。思えば、集落の名前が単純なのがいい。下の村(下村)から中の村(中村)、そしてここが山への入り口の村(山口)とでも覚えればいいのだろう。

中村から山口に向かう (撮影 2002. 9.28)
道がまた一段と狭くなる
 

山口集落内 (撮影 2002. 9.28)
この直ぐ脇に「山口・口」のバス停あり
<山口集落内>
 
 狭い谷に肩を寄せ合うように人家が集まった山口だが、県道沿いにはなかなか立派な蔵などが並ぶ。昔は旅籠でも営んでいたのではないかと思われるような家屋も見られる。ちょっとした古い街道の趣が感じられて楽しい。
 
 集落内にはポツリと極端に背の低いバス停が立っている。普通のバス停を想像していると完全に見落としてしまうだろう。「町営バス飯沼線」の「山口・口」とか「山口」という名のバス停である。多分「山口」が最終であろう。ここと小野駅を結んでいるらしいが、そういえば随分前に一度マイクロバスに出くわしたことがあるような気がする。あまりこのような狭い道で会いたくない存在だが、時刻表に書かれた便数は日に3本程度だ。出合う確率は非常に少ないのであった。
 
<登りの開始>
 
 集落を抜けると道は右手に回り込み、いよいよ本格的な峠への登り坂が始まる。右下に山口集落が小さくなっていく。
 
 坂道の右手に並ぶ畑が途切れる辺りに、一本の作業道のような未舗装路が細々と分岐する。多分、山口の北側の裏を通って中村から藤沢へと続いているんじゃないだろうか。牛首峠の道も何度も来ているとさすがに飽きる。今後来た時はこの道を使ってみようと思う。

山口集落方面を望む (撮影 2001. 4.28)
 

一里塚付近 (撮影 2002. 9.28)
<一里塚>
 
 ここから峠までは狭い道が続く。集落が見えなくなると、それからはほとんど視界も広がらず、ただただ黙々と道を進むことになる。峠まではさほどの距離もないので、ここでついつい先を急いでしまう。それが、これまでの見落としの原因だったかもしれない。一里塚のことである。
 
 登り始めてから半分ほども来たろうか、赤い樹皮のなかなか見事な枝振りをした松が立っている。その根方には「入山禁止」の看板が目立つ。しかし、こここそが「江戸から六十里の一里塚」の地なのであった。これまで気が付かなかったとは迂闊である。確かに良く見れば、道路脇に案内標柱が立つ。しかし、どうしたって「入山禁止」の方に目がいってしまう。
 
 道路の右手の木々の中をのぞくと、大きな石碑が立っていた。道路脇に立つ説明文によると、一里塚は街道を挟んでニ基が向かい合って対を成していたのだそうだ。この牛首峠(「前山」)の一里塚は一基が紛失し、一基のみが残っているとのこと。小野峠(三沢峠)下にある「楡沢」の「五十八里の一里塚」では、二基共現存しているらしい。その間が昔の街道であったということだ。勉強になる。
 
 牛首峠の一里塚は江戸から離れて六十里にあたる。1里は約4Kmだから、東京から240Kmの距離だ。見ればなかなか立派な碑である。その二基とも残っているという小野峠の方の一里塚も是非見たいものだ。多分、塩嶺王城パークラインの途中にでも案内看板があるだろう。歴史などにはこれまでほとんど関心がなかったが、こうして現物をいろいろ見ているうちに興味が湧いてくるのであった。
 
 ところが後日、撮った一里塚の碑の写真を見ていたら、その面に何と「史跡 一里塚」と彫られているではないか。「史跡」とはどいうことか。立派だと思ったのは現存する一基の一里塚そのものではなかったらしい。にわかに歴史に関心を持っても、結局この程度である。
 

峠から小野方面を見る (撮影 2001. 4.28)
春の穏やかな日差しが注ぐ

峠の辰野町側に分岐する作業道桜沢線
(撮影 1999. 7.26)
入ったことはないが、どうせ行き止まりだろう
 
<峠に到着>
 
 一里塚の跡地を過ぎれば、もう直ぐその先に峠の鞍部が見えてくる。
 
 峠の少し手前を右に未舗装の「作業道桜沢線」が分岐する。入ってみたいが、多分直ぐに行き止りだろう。
 
 峠の切り通し手前右に石碑が立つ。「峠路の」に始まる詩が彫られている。が、後は読めない。歴史に詳しくなるにはその前に、苦手な漢字を学ばなければならないのであった。
 その碑に並んで「復碑」とかかれた四角い碑が立つ。それからすると、どうも「峠路の」は昭和52年に作り直されたものらしい。もう碑には騙されないのである。

峠の手前を左に入る道がある (撮影 2001. 4.28)
今は入り込める状態ではない
 
 石碑の脇には井戸のような四角いコンクリート製の枠が蓋を乗せて据えつけられている。沢水でも引き込んで貯めておくのだろうか。
 
 峠の手前を左に入る道がある。前から車が通れるようなものではなかったが、今年訪れた時はもう人さえもたやすく入り込めない状態になっていた。以前は車を乗り入れ駐車しておくのにちょうどよかった。また、そこからは僅かではあるが辰野町側に展望が開けた。この牛首峠から見られる唯一の遠望であった。
 
 峠にも中部北陸自然歩道の標識が立つ。「鳥獣保護センター 15.0Km」、「桜沢 3.9Km」とある。またそこに小さな文字で「ここは牛首峠」と書かれている。以前は峠に「牛首峠」の文字をここに唯一見た。
 
 この峠名の由来は、「主人を失って荒牛となった牛の首を葬った」ことによると、ものの本に書いてある。どこまで真実かは分からないが、昔は農耕や荷運びにと牛が頻繁に使われた。死んだ牛の頭蓋骨が峠に転がっていたとしてもおかしくない。「牛首」の名を持つ峠は他にもいくつかある。
 
 この峠を最初に越えたのは10年程前のことだ。それ以来、幾度となく越えているが、いつも変わらず穏やかに迎えてくれる峠である。この10年で峠道が大きく様変わりしたようには思えない。
 
 でも、よくよく見ると、やはり少しずつは変化はあるようだ。特に目を引いたのは峠に新しく設けられたゲートである。確か2001年の4月に越えた時はまだなかったように思う。ゲートは開かれていたが、そのゲートに掲げられている「全面通行止」の看板には、「平成13年12月14日〜平成14年4月12日」と期間が記されていた。理由は「積雪および落石のため」とある。平成13年から14年にかけての冬は、特別な災害でもあったのだろうか。実は牛首峠を冬期に越えたことがないので、毎年冬期閉鎖となるのかどうか知らないのだ。
 ところで、通行止の区間が「辰野町桜沢〜牛首峠」とあった。桜沢は楢川村ではないのかな?
 
<峠の切り通し>
 
 峠の最高所の部分は長い切り通しになっている。両脇は石積の壁に囲まれ、壁の上からは鬱蒼と茂る木々の枝が覆い被さり、暗い峠である。天候の悪い日などは薄気味悪い程だ。でも、夏の暑い季節に越えた時は、そこの日陰になって涼しい場所で、のんびり昼食をとって休んだ。
 
 長い切り通しが終わった所で左へと牛首林道が分岐する。いつもチェーンが一本張られ、車の進入を阻む。最近はちょっと見たところでは路面がかなり荒れていて、あまり使われていない様子だ。

峠の長い切り通し (撮影 1999. 7.26)
小野方面を見る
 

桜沢方面への急な下り (撮影 2002. 9.28)
<峠より桜沢方面へ下る>
 
 牛首林道を左に見た後、道は右へ回り込み、急な下りを開始する。連続するつづら折で一気に高度を下げようというのである。しかし、道幅はまあまあで、アスファルト路面もしっかりしている。この峠道全般の中では、かえって走り易いくらいなものだ。特に、この先に控える狭路に比べたら・・・。
 
 急なつづら折を下りきると、比較的平坦な川沿いの道になる。道の直ぐ横を清らかなせせらぎが流れているのがのぞかれる。夏などには涼しげな光景だ。
 
<市町村境>
 
 川沿いに暫し進むと、間もなくちょっとした広い場所にポッと出る。道が一本、橋を渡って左に分岐している。
 
 よく見ると峠方向に向いて「辰野町」と標識が立っている。ここは辰野町と塩尻市及び楢川村との市町村境になっているのだ。道路地図によってはここを「牛首峠」と誤記している場合がある。
 
 この市町村境はやや複雑だ。ここより道は塩尻市と楢川村の境界付近を進み、最終的には塩尻市日出塩で国道19号に合流しているのだ。
 
 牛首峠の道を、中部北陸自然歩道の標識や古い中山道に因んで、辰野町小野と楢川村桜沢を結ぶ峠道としてきたが、現在の県道の実態とはそぐわない。本来、峠が単純な境になっていてくれればいいものを、そうじゃないからこんなにややこしくなるのである。
 
 市町村境にも立つ中部北陸自然歩道の標識によると、桜沢まで残すところ2.1Kmである。峠より1.8Km下って来たことになる。
 

市町村境 (撮影 1999. 7.26)
峠方向には「辰野町」とある

市町村境 (撮影 2001. 4.28)
国道19号方向を見る
県道標識には「塩尻市」とある
 

桑崎林道起点 (撮影 2001. 4.28)
<謎の林道>
 
 ところで、市町村境より分岐し楢川村の中を進んで行く道は「林道桑崎線」という。以前のツーリングマップでは、この道こそが国道19号に出る本線の様に描かれていたのだ。入り口から直ぐに未舗装で、県道楢川岡谷線が通る現在では、到底その林道が本線とは思えない。しかし、道路地図や国土地理院発行の地形図を見ると、楢川村の贄川(にえかわ)に通じているらしいのだ。桜沢作業道や牛首林道など、どうも行止りだと思える道ではそれ程関心はないが、通り抜けられる道となっては別である。ここに来るたび、気に掛かって仕方がない。
 
 入り口から眺めていてもラチがあかないので、ある時一度入り込んだことがある。途中「桑崎」という廃村を過ぎ、その後ちょっとした峠の様な所を越える。それから道が悪くなった。怪しげな分岐もある。結局、道に迷ってどこにも出られず退散とあいなった。今度は贄川側から入り込んでやろうと思うのである。 
 
<峠道最大の難所>
 
 謎に包まれた桑崎林道の分岐を過ぎると、さてこれからが大変である。ここから国道に出るまで僅か2Km余りの区間、勾配はなだらかだし急なヘアピンカーブなどもない。代わりにやたらに道が狭いのだ。
 
 道の左側はキッチリとガードレールが設けられ、そのお陰で川に落ちる心配がない。しかし、反対側は切り立った山の斜面で、ガードレールと山に挟まれ、非常に窮屈な思いをするのだ。待避所もほとんどない。ここは牛首峠最大の難所である。
 
 その上、視界のきかない川沿いの谷底で、暗くじめじめしている。昼なお暗いというのはこのことである。ある時、道の真中に大きなものが居ると思ったら、体長10cmほどもある大きなカエルだった。湿気を好むカエルにはちょうど都合がいいような場所である。

国道19号までの狭い道が続く (撮影 2001. 4.28)
 
 この区間は旅を楽しむどころではない。早く抜け出たい一心だ。万一対向車など現れては面倒である。しかし、こんな寂しい道でも、その対向車がたま〜にやって来るのだ。そんな時はお互い顔を見合わせウンザリする。運転席に座ったまま後ろを振り返っても、離合できそうな場所は双方とも確認できない。どちらがさがろうが、待避所なんてどこにあったか覚えていないくらい後方にあるのだ。結局、勇気がある方が車をバックさせる。ガードレールに擦らないようにと願うばかりだ。延々後退した後、少し道幅が広い所を見つけ、やっとどうにか離合する。すれ違いざまに挨拶する顔はお互いにゆがんでいる。
 

中央本線が下を通る (撮影 2001. 4.28)
<国道19号に出る>
 
 道の周囲には見るものが何もないので、ただただ運転に集中していると、ふと左下に何か通っている。車を停めてガードレール越しに見れば、それは中央本線である。こんな山の中を走っているのかと驚かされる。
 
 中央本線を過ぎればもう出口は近い。そこで対向車に出合ったら、よっぽど運が悪い。
 
 視界が開けると、道はクネクネとカーブしながら下りだす。脇に県道標識が出ている。「県道 254 長野 (−)楢川岡谷線 塩尻市日出塩」とある。
 
 その先で道は逆Y字で国道19号・中山道に合流する。国道ではトラックや大型トレーラーなどが頻繁に走っている。そんな道を使わず、静かな峠越えをしてきたので、ちょっと得した気分である。牛首峠はそんな峠道だ。
 
 最近、その国道19号からの分岐点にラブホテルができてしまった。国道上に県道分岐を示す道路標識がないので、こちらから牛首峠に向かうにはいい目印にはなる。しかし、ホテルへの入り口と一緒の分岐とは、何とも体裁が悪い気がする。ちょっとのぞくと、あまり賑わっていないようである。その周囲の国道沿いは、塩尻市と楢川村との境付近にあたり、建物などがない寂しい所だ。そのポツンと立つホテルの看板ばかりが目立っている。確かにいい目印なんだが・・・。

入り口近くに立つ県道標識 (撮影 2001. 4.28)
 

国道に出る (撮影 2001. 4.28)
トラックなどが頻繁に通っている

国道からの入り口を見る (撮影 2002. 9.28)
脇に立つラブホテルが目印
 
<木曽路に入る>
 
 国道に出たついでに、「是より南 木曽路」の碑を見ておくのもよい。ツーリングマップ(ル)にも記載がある。県道分岐から国道を数100m程南に下ると、「境橋」で牛首峠から下ってきた奈良井川の支流(名前は不明)を渡り楢川村に入る。すると直ぐ右手にある。駐車場がないので橋を渡る手前に立っている「ようこそ木曽へ」と書かれた大きなモニュメントの前の駐車スペースを利用するとよい。
 
 古くは境橋より北が松本領で、南が尾張領であった。碑に記されているようにここより南が木曽路となる。牛首峠の道は木曽路に向かってほぼまっしぐらに越えていたのだ。碑を過ぎて更に南下すれば小さな桜沢の集落である。
 
 ところで、この「是より南 木曽路」の碑も、昔からあったものではない。昭和に入って建てられた碑だ。それなりに古いものではあるが、江戸時代の旅人がこの碑を見て木曽路を旅した訳ではないのである。石碑に関しては、ちょっと神経過敏であった。
 

是より南 木曽路」の碑 (撮影 2002. 9.28)

是より南 木曽路」の碑 (撮影 2002. 9.28)
  
   牛首峠にある小さな地蔵 (撮影 2001. 4.28)
にっこり笑っているような顔がなごませてくれる
いつの頃からここに居るのか知らないが、
大きく立派な石碑よりもこっちの方がいいように思う
 
 古いツーリングマップには「ダート」の文字もある牛首峠だが、10年前に初めて越えた時には既に全線舗装となっていた。ちょっと狭いが交通量はほとんどなく、木曽へのいい抜け道に巡り会えたと思った。それからは度々訪れているが、毎回運良く通行止に遭遇することもなく、無事に越えさせてもらっている。これからはただ利用するだけではなく、歴史についてもちょっと勉強しようと思う牛首峠であった。
 
<参考資料>
 ・角川 日本地名 大辞典 長野県編
 ・昭文社 ツーリングマップ  中部 1988年5月発行
 ・昭文社 ツーリングマップル 中部 1997年3月発行
 ・昭文社 ツーリングマップル 関東 1997年3月発行
 ・エスコート WIde Map 関東甲信越 1991年2月
 ・国土地理院ホームページの2万5千分1地形図より
  5337764 薮原(北東)
  5337773 宮木(北西)
  5437062 贄川(南東)
  5437071 北小野(南西)
  5437072 北小野(南東)
  5437074 北小野(北東)
<制作 2002.11. 4>
 
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