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地芳峠
  じよしとうげ  (峠と旅 No.264)
  四国カルストを観光する峠道
  (掲載 2016. 9.15  最終峠走行 2015. 6. 1)
   
   
   
地芳峠 (撮影 2015. 6. 1)
手前は愛媛県(上浮穴郡)久万高原町西谷
奥は高知県(高岡郡)梼原町永野
道は国道440号・地芳道路
峠の標高は1,080m (ツーリングマップルより)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
四国山地の峰を越える広々とした峠
電波塔なのか、高い2本の塔が立つ
車道が通じる前の峠は、この写真の左端の方に細々と通じていたようだ
また、以前はこの峠の広場に宿泊施設が立っていた
何となくその建物を見たような気がするのだが、もう22年前のことで記憶ははっきりしない
 
 
 
   

<四国の峠>
 地芳峠は、概ね東西に連なる四国の背骨とも言える四国山地の只中にある。愛媛・高知の県境となる峰に位置し、その標高も1,000mを超える。 高校で使う「新詳高等地図」、いわゆる地図帳(縮尺1/150万)にもその名が見える。 井出孫六編「日本百名峠」では四国各県から一つずつ、合計4つの峠を選んでいるが、地芳峠はその一つとなる。こうした意味で、地芳峠は四国を代表する峠と言えそうだ。
 
<四国カルスト>
 ただ、峠そのものはあまり印象に残らない。峠が越える尾根沿いには四国カルストの観光コースとなる車道(県道383号)が通じ、峠はやたらと広々としていて、峠らしい味わいなどはない。
 
 四国カルストは秋吉台(山口県)、平尾台(福岡県)と並ぶ日本三大カルストの一つとされる。 しかも、四国カルストは標高1,000m以上に広がる日本で最高位のカルスト地形となる。県道383号が通じる峰に広がる眺めは、それはそれは素晴らしい。 これでは地芳峠の印象など、残りようがない。「日本百名峠」でも、もっぱら四国カルストの話に終始している。現在の地芳峠へと登る峠道は、四国カルスト観光のアクセス路の様な存在だ。

   

<立地>
 峠の北は愛媛県の上浮穴郡(かみうけなぐん)久万高原町(くまこうげんちょう)で、旧柳谷村(やなだにむら)になる。大字では西谷(にしだに)だ。
 
 峠の南側は高知県の高岡郡(たかおかぐん)梼原町(ゆすはらちょう)で、大字は永野(ながの)となるようだ。「梼原」は時に「檮原」とも書くが、ここでは「梼原」で統一させて頂く。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 地芳峠は瀬戸内海と太平洋を分かつ四国の大分水界に位置するように思っていたが、調べてみると全く違っていた。四国の大分水界はやや複雑な経路を通り、瀬戸内海側に偏っている。地芳峠のほぼ真北に位置する黒森峠を通っていた。その後、四国カルスト西端にある大野ヶ原を南下、地芳峠の西約6kmの地点で愛媛・高知の県境に至っている。
 
 よって、地芳峠は全て太平洋側の水系にある。
 峠の北側には高野川の支流が流れ下り、黒川を経て面河川(おもごがわ、正式には仁淀川)に注ぎ、高知県に入ってからは仁淀川(によどがわ)と名を変え、 土佐湾で太平洋に流れ出る、仁淀川水系となる。
 一方、峠の南側は永野川の支流が下り、梼原川を経て渡川(わたりがわ)に注ぐ、渡川水系だ。渡川は河川法による名称で、一般には四万十川(しまんとがわ)で知られる。 もう足摺岬に近い土佐湾で太平洋に注いでいる。四万十川源流は梼原町の東隣の津野町(旧東津野町)にある不入山(いらずやま)近辺だが、梼原町の中心を流れ下る梼原川も、四万十川源流に近い存在だ。

   

<地芳>
 地芳峠という名は覚え易く、峠の実態よりも峠名の方が記憶に残る。しかし、「地芳」の由来などは分からない。 久万高原町(旧柳谷村)側にも梼原町側にも「地芳」という地名は見当たらない。 峠が通じる付近を「地芳台」などとも呼ぶので、カルスト地形となる愛媛・高知の県境の峰に付けられた名であろうか。
 また、久万高原町に流れる高野川の支流に地芳谷川という川が見られる。 峠直下にはサンコ谷川という支流が流れ下るが、峠を越える国道440号はやや西に迂回し、その地芳谷川の水域を下って高野川沿いに降り立っている。

   

<地芳村(余談)>
 ところで、文献(角川日本地名大辞典)を調べていると、「地芳村」という村が存在したようだ。 梼原町の南に続く四万十町・旧十和村(とおわそん)の西端に地吉(じよし)という地がある。 織豊期に地吉村、江戸期から明治22年まで「地芳村」、明治22年からは十川村の大字地吉、昭和32年からは十和村の大字地吉となる。 この「地芳」は「地吉」の誤植かとも思ったが、文献には何度か出て来るので、間違いではなさそうだ。 四万十町の地吉は地芳峠とは離れているが、全く無関係と断言できる程遠方の地でもない。地芳峠から南西に続く県境にも接する。 「地芳」とはこの県境の峰に見られるカルストなどの地形的な特徴でも表すのかと思ったりする。

   
   
   
梼原町より峠へ 
   

<梼原町に宿泊(余談)>
 高知県では何度も宿探しに苦労させられた覚えがある。高知市街などの都市部はともかく、ちょっと田舎に行くと手頃な宿がなかなか見付からない。 そこで梼原町では当初から公共の宿「雲の上のホテル」のみをあてにしていた。 文献には梼原町のことを「四国山地に抱かれた辺境山間地」とあるくらいで、行き当たりばったりで宿が見付かる筈はないと覚悟していたのだ。
 
 「雲の上のホテル」は国道197号沿いにある道の駅・ゆすはらに併設される。元々広い敷地の太郎川公園内に立ち、道の駅の方は最近できたようだ。 梼原の中心地からは2km程東に離れていて、昼間は道の駅や温泉への客でまあまあの人出が見られたが、夜になると寂しい山間地となった。

   

宿にあった梼原の案内看板 (撮影 2015. 6. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<峠へ>
 「雲の上のホテル」というだけあってか朝は深い霧に包まれた。しかし、宿を発つ頃には昨日の雨模様とは打って変わって青空が広がった。 宿にあった梼原の案内看板を眺めていたら、「坂本龍馬脱藩の郷」という題字が気になった。司馬遼太郎作品では「竜馬がゆく」が大好きである。 しかし、今回は時間の都合で真っ直ぐ地芳峠を目指すこととする。
 
<国道440号分岐>
 国道197号を西の梼原町の中心地へと戻る。間もなく地芳峠を越える国道440号が右に分岐する。道路看板に「地芳峠」の文字も見える。

   

右に国道440号分岐 (撮影 2015. 6. 1)

道路看板 (撮影 2015. 6. 1)
   

<分岐付近の様子>
 分岐付近は梼原町梼原の地となる。国道440号方向には「歴史民俗資料館300m」とか「森林価値創造工場 維新の門」、「梼原町役場」などと案内看板が立つ。
 
 分岐付近はガソリンスタンドや食堂が立ち、さすがに賑やかだ。
 
 国道440号に入ると、直ぐに梼原川の支流を渡り、梼原川左岸沿いとなる。


国道440号分岐を東に見る (撮影 2015. 5.31)
前日の宿に向かう途中
   

分岐直前 (撮影 2015. 6. 1)
右手に「そば・うどん」の看板を出す店が立つ

国道440号に入る (撮影 2015. 6. 1)
直ぐに梼原川支流を渡る
   

<峠までの距離>
 道路看板には「久万高原町 58Km 地芳峠 17Km」と出て来た。地芳峠には新しく地芳トンネルが開通している。地芳峠までの「17km」はそのトンネル手前より旧国道を登って峠に至る距離だ。
 
 一方、久万高原町までは当然ながらトンネル経由と考えるが、それにしては58kmというのはあまりにも長い。調べてみると、トンネルを使えば久万高原町の町役場まで約48kmである。すると「58km」は地芳峠経由を意味するようだ。なかなか律儀である。


「地芳峠 17km」の看板 (撮影 2015. 6. 1)
   

市街の様子 (撮影 2015. 6. 1)

<梼原町市街>
 国道440号は梼原町市街のメインストリートとなる。暫くは人家以外に郵便局や商店などが沿道に点在する。ここは梼原町の「中央商店街」と呼ばれるようだ。
 
 それにしてもなかなか雰囲気のある道となっている。幅の広い2車線道路と、ゆったりした歩道が両側に通じる。道も建物も新しく、現代風の「街道」といった趣きだ。意匠を凝らした建屋も見える。ここだけ見れば、もう梼原を「辺境の山間地」などとは言えない。

   
市街の様子 (撮影 2015. 6. 1)
ゆったりした街並み
   
市街の様子 (撮影 2015. 6. 1)
左手に意匠を凝らした建物(まちの駅ゆすはら)
   

<神幸橋>
 梼原の町並みは南北に600m程続く。その北の端に三嶋神社の鳥居が立ち、その参道は梼原川を渡って行く。 そこに架かる橋は神幸(みゆき)橋と呼ばれ、屋根のある珍しい物だ。三嶋神社は「脱藩の道ウォーク(町中コース)」と呼ばれる散策路の一部にもなっている。 時間さえあれば、こうした所をのんびりと見て回りたいものだ。

   

三嶋神社の鳥居 (撮影 2015. 6. 1)

梼原の案内看板の一部 (撮影 2015. 6. 1)
三嶋神社が記されている
   
神幸橋 (撮影 2015. 6. 1)
梼原川の下流方向に見る
   
   
   
大蔵谷以降 
   

<大蔵谷>
 神幸橋の袂を過ぎると梼原から大蔵谷(おぞうたに)に入る。快適な道が続くが、沿道に人家は少ない。 以前の国道は梼原川本流沿いでは、そのままずっと左岸に通じていた。そちらの旧道沿いに大蔵谷集落の人家が多いのだろう。今は立派な橋やトンネルで集落をバイパスして国道が通じる。


大蔵谷に入る (撮影 2015. 6. 1)
   

大蔵谷トンネル (撮影 2015. 6. 1)

<国道440号の様子>
 地芳峠を初めて訪れたのはもう22年も前の1994年5月23日のことで、今回とは逆に峠より梼原町側へと下って来た。 当時使っていた1989年7月発行のツーリングマップ(昭文社)には、「1.5車線」と書かれていたが、その時は既に快適な2車線路になっていたと記憶する。 2010年の地芳トンネル開通によって峠前後の国道440号が全線快適な道になったが、2車線化はそのもっと前から進んでいたようだ。

   

<親ヶ渕渓谷>
 快適な国道は一度右岸に渡り、また親ヶ渕大橋で左岸に戻って来る。その付近の梼原川は親ヶ渕(淵)渓谷と呼ばれるようだ。ただ、高所に架かる親ヶ渕大橋からは、谷が深そうだなと思うだけで、渓谷美を眺めることもなく、通り過ぎてしまった。


親ヶ渕大橋 (撮影 2015. 6. 1)
   

中古屋橋 (撮影 2015. 6. 1)
親ヶ渕大橋とは大きな違い

<中古屋橋>
 左岸に戻ると梼原川は徐々に身近な存在となって、道の直ぐ左手を流れる様になる。対岸の小さな集落へと渡る普通の橋を過ぎた先、素朴な沈下橋が架かっていた。 側らに標柱が立ち、「中古屋橋」(なかごやばし)とある。「四万十の水辺 八十八カ所」の一つになっているとのこと。 写真では小さな橋に見えるが、幅は2.8mあるそうで、一方通行ながらも自動車が渡れる規模だ。しかし、現在は歩行者のみが渡れるようになっている。 対岸の集落に通じる生活路としての重要な役目は、既に後身となる下流に架かる橋に譲ってしまっていた。 今は現役を退いて静かな余生を送りながら、時折訪れる人たちを渡しているようだ。同じ梼原川に架かる橋でも、三嶋神社の神幸橋とは対照的にシンプルそのものである。周囲の自然に溶け込むような佇まいだ。

   

中古屋橋 (撮影 2015. 6. 1)

中古屋橋 (撮影 2015. 6. 1)
梼原川の下流方向に見る
今は歩行者のみ渡れるようになっている
   

沿道の様子 (撮影 2015. 6. 1)

<沿道の様子>
 国道は相変わらず橋やトンネルで快適に突き進む。以前のツーリングマップルでは「地芳峠の狭路 大きな高度差を一気に駆ける」などと書かれていたが、今はそのような気配は微塵もない。周囲には梼原川沿いに点在する素朴な集落が眺められる。水田なども広がる。

   

<県道304号との交差>
 梼原の街中から峠に至る途中、県道304号との大きな交差点がある。以前の地図を見ると、西の四万川方面は田野々林道であった。

   

県道304号との交差点手前 (撮影 2015. 6. 1)
梼原川を右岸へと渡る

道路看板 (撮影 2015. 6. 1)
   

<梼原川源流>
 交差点直前で国道は梼原川を渡り、その支流の永野川左岸沿いとなる。一方、梼原川本流の上流部へは県道304号が延びる。 梼原川の最源流は愛媛・高知の県境の峰、五段高原付近の南斜面となるが、県道は途中より川筋を離れて東隣の津野町へと向かってしまう。 梼原川源流部で県境の峰を越える峠としては地芳峠が最奥と言える。よって、梼原川沿いの道は全て地芳峠の峠道という理屈になるかもしれない。
 
 ただ、梼原川沿いにはいろいろな国道や県道が入れ代わり立ち代わり通じていて、とても一本の峠道などとは思えない。 わざわざ几帳面に梼原沿いを走っても、峠の旅としてはあまり面白そうではない。今回の様に峠の南側では、梼原市街で国道197号から国道440号が分かれた分岐を峠道の起点とするのが、妥当な線であろう。

   
   
   
永野川沿い 
   

<永野川沿い>
 県道304号との交差以降、国道440号はますます立派な道になって行くように思える。これまであまり見られなかった高い擁壁も出て来る。
 
<久万高原町までの距離>
 間もなく「久万高原町 32Km 地芳峠 11Km」と道路看板が出て来た。 梼原市街にあった看板と比べると、峠までは6km短くなっているが、久万高原町までは何と26kmも短縮されている。さっきは地芳峠経由だったが、こちらは一転、トンネル経由だろうか。それでも32kmでは町役場まで届きそうにない。
 
 久万高原町は以前の久万町、面河村、美川村、柳谷村の1町3か村が合併していて、その範囲は広い。看板の「久万高原町」は町役場以外のどこか別の場所を指し示すのかもしれない。また、単に「32km」は「42km」の誤植かとも思ったりする。


「地芳峠 11km」の看板 (撮影 2015. 6. 1)
右に旧道への分岐がある
   

<国道の様子>
 「地芳峠11Km」の看板の脇から右に道が分岐する。そちらが元の国道の道筋だ。 梼原川支流・永野川沿いになって、現在の国道440号は更にパワーアップする。 旧国道はひたすら永野川左岸沿いを峠直下までクネクネ曲がって行ったが、今の国道は幾つもの高い橋で永野川の谷の上空を地芳トンネルの坑口まで一気に突き進む。 この辺は地芳トンネルを含めた「地芳道路」の面目躍如といったところだろう。ただ、下に細々通じる旧道の様子は全く見えず、やや寂しい気もする。
 
<永野川橋>
 新しい国道は大きな永野川橋で永野川の右岸に渡る(下の写真)。丁度橋の上から登坂車線が始まり、その向こうに地芳トンネルの坑口も見えて来る。

 
永野川橋を渡る (撮影 2015. 6. 1)
トンネル坑口に至る登坂車線が出て来る
   

<永野>
 永野川橋から上流域には永野の集落が広がる。トンネルが貫通する峰の斜面にも集落が点在するのが見える。永野集落は地芳峠の高知県側最奥の地となる。背後にそびえる峰の稜線、愛媛との県境までが広く大字永野である。地名は奥地の狭長な地形に由来するといわれるそうだ。

   
峰の斜面に集落 (撮影 2015. 6. 1)
   

<旧道分岐>
 左に「地芳峠 8Km」と出て来た。トンネルの100m程手前で登坂車線から入る。
 
 看板にはまた直進方向に「久万高原町 29Km」ともある。トンネルを通る距離であることは判明したが、やはり行先は分からない。
 
<旧国道>
 地芳トンネル開通で、この分岐から先、地芳峠を越える道は旧国道となる。地形図では旧道区間は全てもう国道表記ではなくなっている。 道路地図によっては、愛媛県側の旧道だけまだ国道表記となっているものがあるようだ。 カーナビなどで峠までの道順を検索すると、わざわざ地芳トンネルで愛媛県側に抜け、愛媛県側から旧道を登るように指示することがある。高知県側の旧道の方が険しいということか。


峠への分岐を示す看板 (撮影 2015. 6. 1)
   

左に旧国道分岐 (撮影 2015. 6. 1)

<分岐の様子>
 登坂車線から分かれて旧道区間に入ると、正面に「四国カルスト方面」と矢印の看板が立ち、道は左にカーブして永野川下流方向に少し戻って行く。
 
 一方、右手より細い道が合流して来るが、それがかつての旧国道である。 ここより80m程上流側で永野川を小さな永野橋で左岸から右岸へと渡り、現在の国道の下をくぐり、この分岐点まで登って来ている。 新国道はトンネル坑口まで盛土によって高い位置に通されているようだ。このように昔のルートを維持しているのは、新国道の左右に広がる永野の集落同士を行き来するのに便利な為だろう。

   

正面に「四国カルスト方面」の看板 (撮影 2015. 6. 1)
道は左へ

右手から登って来るのは旧国道 (撮影 2015. 6. 1)
   

分岐より新国道を見る (撮影 2015. 6. 1)

<県道梼原落出線>
 地芳峠に車道が通じたのは昭和39年(1964年)開通の県道梼原落出線が最初ではなかったかと思う。 「梼原」は梼原町の梼原市街、「落出」(おちで)は愛媛県久万高原町の柳井川の落出、旧柳谷村の中心地である。現在の国道440号の区間にほぼ等しい。 時に東京オリンピックが開催された年の開通だ。四国カルストへの利便性を考え、外国人などを含めた観光客誘致が大きな目標だったのではないだろうか。

   

<道路看板>
 旧道側からは右の写真の様な道路看板が立っているのが見られる。よくよく見ると、これがちょっとおかしい。 Uターンが国道440号で、直進方向に旧国道と思われる道が延びる。肝心な地芳トンネルへの道が描かれていない。 邪推だが、これはまだ地芳トンネルが開通する前の看板ではないだろうか。トンネル直前のこの位置まで新しい国道が通じていた時期に立てられたのではないかと思った。


旧道側に立つ看板 (撮影 2015. 6. 1)
   
   
   
旧道区間へ 
   

狭い道 (撮影 2015. 6. 1)

<旧道の様子>
 半世紀以上前の県道梼原落出線開通から、ほとんど変わっていないのではないかと思われるような狭い道が始まる。それまでの快適な新国道とのギャップが激しい。道は永野川右岸の山腹をよじ登り始めている。トンネル坑口近くに注ぐ永野川の西側支流の上流を目指している。

   

<沿道の様子>
 沿道には人家が点在し、その間も斜面に築かれた田畑が広がる。旧国道の身ではあるが、こうした集落内に通じる貴重な生活路となっている。


沿道の様子 (撮影 2015. 6. 1)
   

前方に「通行規制区間」の看板 (撮影 2015. 6. 1)

<通行規制区間>
 登り始めて200m程で「異常気象時 通行規制区間 起点」の看板が出て来る。通行規制区間はここから5km先の地芳峠までとある。分岐の直前では峠まで8kmとあったので、この「5km」はちょっと解せない。実際には7km以上ある筈だ。
 
 ところで、この先にも人家は立っている。異常気象時には住民の通行はどうなるのだろうか。

   

<集落をバイパス>
 「通行規制区間」の看板の脇からは集落内をS字の急坂で登る道が分岐する。一方旧国道はその集落内を避け、西に大きく迂回する。その間、林の中に入り、視界は利かない。
 
<再び集落内へ>
 林を抜けると開けた尾根筋に躍り出る。人家や斜面を切り開いて耕作した水田などが広がる。周囲の木々は切り払われ、視界も広い。


暫し集落を離れて登る (撮影 2015. 6. 1)
   
再び集落内に入る (撮影 2015. 6. 1)
   

周辺の様子 (撮影 2015. 6. 1)

<集落の様子>
 斜面に切り開かれた集落なので、石垣などの擁壁が多い。近くにカルスト地形があるからか、ごつごつした白っぽい岩で築かれた擁壁も見られる。旧国道はその間を抜けて通る。
 
 永野の集落は、西の支流沿いと東の本流沿いと、両翼の様に二手に分かれる。西側(左翼)の集落を抜けた後、道は支流の上部を渡り、一転して東の本流沿いへと向かう。その間、暫し人家は途切れる。地図上では地芳トンネルを西から東へ横切っている。

   

<近道>
 地芳峠から流れ下る永野川本流を暗い林の中で渡ると、直ぐに分岐が出て来る。看板には「梼原(近道)」とある。永野川本流沿いの東側(右翼)の集落内を通って国道まで下れるようだ。


右に分岐あり (撮影 2015. 6. 1)
   

分岐 (撮影 2015. 6. 1)

分岐に立つ看板(撮影 2015. 6. 1)
峠から下って来た方向に見るようだ
   

地芳峠の看板 (撮影 2015. 6. 1)

<地芳峠の看板>
 近道を登って来た者への案内の為か、分岐とは道の反対側正面の擁壁に「四国カルスト 地芳峠」と書かれた看板も掛かっている。

   
   
   
右翼の集落内 
   

<右翼の集落>
 梼原市街へと向かう近道の分岐を過ぎると、直ぐに永野川左岸側の尾根筋に出る。この尾根沿いに下の方から上の方までおよそ800mの長さに渡って人家が点在する。 なかなかの急傾斜地で標高差は150m以上もありそうだ。人家はまばらで耕作地が多い。旧国道の道筋とは別に、その集落内を行き来する為の車道が通じる。 先程の梼原への近道もその一つだ。屈曲の多い急な坂道で道路脇には高い擁壁がそそり立つ。

   

集落内の様子 (撮影 2015. 6. 1)
耕作地が広がる

集落内の様子 (撮影 2015. 6. 1)
集落内を登る道が通じる
   

<集落を抜ける>
 旧国道は急傾斜を避け、集落内を水平方向に横切るだけである。また一本、集落内に通じる道を左に分けると、その先は林の中に入って行く。

   

左は集落内の道 (撮影 2015. 6. 1)
右が旧国道

国道標識 (撮影 2015. 6. 1)
「梼原町永野 ↑地芳峠」
   

<峰の段>
 道は集落の東を迂回して、再び集落内に戻って来る。沿道に再び人家が現れる。もう、集落最上部の人家である。 地形図にはこの高知県側最奥の集落付近に「峰の段」という地名が見える。その名の通り峰の山腹を階段状に切り開いた高台に位置する。 周囲は意外と広々としていて、苗を植えたばかりの水田や青々とした野菜の畑が見られる。道はS字に集落内を登り、3軒ほどの人家を過ぎると、そこで集落は尽きる。


再び人家が出て来る (撮影 2015. 6. 1)
   

少し下側の人家を望む (撮影 2015. 6. 1)

沿道に田畑が広がる (撮影 2015. 6. 1)
   

国道とは別に集落内を下る道 (撮影 2015. 6. 1)

下方の人家の屋根を望む (撮影 2015. 6. 1)
   
   
   
集落以降 
   

<集落以降>
 最終の人家を過ぎると、後は峠まで約4kmの道程を残すばかりだ。集落以降は道が荒れるかと思ったが、最近補修されたようなきれいなアスファルト舗装の道が続いた。 道幅も心持ち広い気がする。ただ、細かな屈曲は多くなる。視界もあまりない。青々とした見事な竹林の中を過ぎる。

   

竹林の中を行く (撮影 2015. 6. 1)
道の状態は良い

竹林 (撮影 2015. 6. 1)
   

<林道分岐>
 国道の旧道区間に入ってからは、地図上では地芳峠以外に他の地に抜けられる車道はもう見当たらない。途中で右手に林道が分岐する。林道永野太田戸線の起点となるようだ。太田戸は同じ梼原町内の大字だが、地図上ではやはり太田戸に抜けていないようである。
 
<道の様子>
 道は峠の峰の南斜面を蛇行しながら登って行く。時折麓側に視界がある。送電線の束が道と一緒に登って来ていた(下の写真)。


右に林道分岐 (撮影 2015. 6. 1)
   
麓側の眺め (撮影 2015. 6. 1)
   

「天狗荘あと10K」 (撮影 2015. 6. 1)

<沿道の様子>
 四国カルストという有名な観光地に向かう道としては、不思議と観光案内などの看板は沿道にほとんど見掛けない。ただ一つ、「天狗荘あと10K」とあった。 天狗荘は四国カルストの東端の天狗高原の一角にあり、元々は国民宿舎・天狗荘である。地芳峠から稜線上を8km程東へ行った所に立つ。 現在は「高原ふれあいの家・天狗荘」という名称になっているようだ。
 
<カルストへのアクセス路(余談)>
 四国カルストへのアクセス路としては、東側の津野市(旧東津野村)から主要地方道48号・四国カルスト公園線が天狗荘へと登っている。 一部にセンターラインもある2車線路が開削されていて、高知県側からのアクセス路としては国道440号より観光道路的な意味合いが強い。 まだまだ狭い区間も多いが、今後更に改良されていくのではないだろうか。

   

 愛媛県側からは、国道440号以外に、西方の西予市(せいよし、旧野村町)の大野ヶ原より県道383号を登って来れば、 そのまま稜線沿いとなり地芳峠から天狗高原に至る。このルートも良いが、こちらもまだ狭路区間を残すようだ。 折角の四国カルストではあるが、アクセス路としては現在でもこれといって決め手がないように思える。
 
 初めて四国カルストを訪れた時は、旧東津野村から天狗高原に登り、稜線上を地芳峠まで来て国道440号で一旦旧柳谷村に下り、西の大野ヶ原から再び地芳峠に上り、 国道440号で梼原町側へと下ったのだった。四国カルストを観光しつつ、峠道も通ろうとすると、こんな具合に複雑なルートになってしまったのだった。

   

沿道の様子 (撮影 2015. 6. 1)
そろそろ峠が通じる峰が見えて来る

沿道の様子 (撮影 2015. 6. 1)
視界がない方が多い
   

<道の様子>
 文献(角川日本地名大辞典)には地芳峠の項に屈曲する豪快な峠道の写真が掲載されている。多分、高知県側と思われる。 車道開削からまだ間もない時期は、沿道の木々も少なく、そうして道の様子が遠望できたようだ。 現在は樹林の中を行くことがほとんどで、視覚的に峠道の面白さを堪能することはできない。ただただクネクネ曲がってばかりという印象だ。
 
 峠にも程近い所で、「地芳トンネルセンター」と書かれた木製の標柱が立っていた(下の写真)。既に朽ち掛けていて、文字もかすれている。トンネル開通はそれ程昔ではない筈だが。


道の様子 (撮影 2015. 6. 1)
   

峠直前 (撮影 2015. 6. 1)
左手に「地芳トンネルセンター」の標柱が立つ
電線の束が峠に上って行く
正面に高い電波塔

標柱 (撮影 2015. 6. 1)
   
   
   
 
   

<高知県側から峠に着く>
 国道は鋭角に峠の稜線に届く。そしてそのまま暫く稜線に近い所を西へ進む。一方、稜線上を東へは県道383号が天狗高原へと延びている。

   

高知県側から峠に登って来た (撮影 2015. 6. 1)
直進は国道440号を久万高原町方面へ
右折は県道383号を天狗高原方面へ

通行規制区間終点の看板など (撮影 2015. 6. 1)
   

<峠の様子>
 稜線の上は広々としている。国道440号の峠としては、この広場全体が峠となるようだ。

   
高知県側から峠を見る (撮影 2015. 6. 1)
   

<高知県側の看板など>
 県境看板や国道標識に「地芳峠」とある。また梼原町に下る方向に異常気象時の通行規制の看板が立つ。区間は峠を起点に5.7kmとある。また、昨夜泊まった太郎川公園にある宿の案内看板が立つ。もっと梼原市街に関する観光案内があっても良さそうに思えた。

   

峠より高知県側を見る (撮影 2015. 6. 1)
通行規制区間起点の看板などが立つ

高知県側に立つ看板など (撮影 2015. 6. 1)
   

<峠の広場>
 それにしても国道440号の峠は広々としている。その理由は、峠の愛媛県側の直下には高野川支流・サンコ谷川が下るが、その地形は急峻で車道が開削できなかったようだ。 代わりに峠の700m程西に下る地芳谷川の一支流沿いに車道が築かれた。その為、車道は稜線の真上を少し西へと進む。稜線は大きく切り開かれ、現在の様な広場となったと想像する。

   
峠の様子 (撮影 2015. 6. 1)
高知県側から愛媛県側に見る
ほぼ稜線上に道が通じる
   

<看板など>
 峠は広いが、看板や石碑などは高知県側の下り口付近に集中する。稜線を東へ進む県道方向には「四国カルスト 天狗高原 五段高原」と大きく案内看板が立つ。

   
峠より高知県側を見る (撮影 2015. 6. 1)
左は天狗高原へ、右は梼原市街へ
   

高知県側の様子 (撮影 2015. 6. 1)

<石碑など>
 県道と国道に挟まれた三角地帯には、国道側に向かって大きな石碑が立つ。峠の石碑かと思ったが、「四国カルスト」と刻まれていた。それに並んで「ようきたね ゆすはら町へ ゆっくりしていきや」と梼原町の案内看板が立つ。

   

<高知県側の道>
 愛媛県側は昭和39年の県道開削時に元の峠道とは異なったコースで車道が開削されたようだが、高知県側は、途中の蛇行は別として、概ね昔の峠道と同じコースに車道が切り開かれたのではないかと思う。峠からの下り口も大体今の場所と同じではないだろうか。


石碑など (撮影 2015. 6. 1)
   

四国カルストの石碑 (撮影 2015. 6. 1)

石碑 (撮影 2015. 6. 1)
   

<のぞき岩>
 昔の地芳峠の位置を知る上で、参考になる記述を文献に見付けた。地芳台(ほぼ峠の意と思う)には林業研修センターなどの他、「石鎚山を望めるのぞき岩」があるという。 「四国カルスト」の石碑の右手は少し奥まっていて、その先に蛇口の付いた水場があり、更に少し登った所に穴の開いた岩が一基祀られている。 左右に花が供えられるようになっているが、大きな2本の木の根方の間にあり、ほとんど人に気付かれないような位置にある。穴の先は天狗高原へと続く県道が横切り、その向こうの愛媛県側は木々が成長していて、今はもう石鎚山は見えそうにない。

   

水場 (撮影 2015. 6. 1)
右上にのぞき岩

のぞき岩 (撮影 2015. 6. 1)
   

<旧峠の位置>
 この「のぞき岩」はおあつらえむきに元から今の位置にあったとは考えにくい。 峠の周囲は四国カルストの浸食され易い石灰岩が多く、その中に大きな穴の開いた珍しい岩が見付かったのだろう。 それを人の目に付きやすいようにと峠に据えたのではないだろうか。峠の切通しを通して石鎚山が望めるように配置したものと思う。 車道が通じる前の元の地芳峠は、高知県側から上って来ると、今の水場付近からのぞき岩の脇に登り、現在の県道383号を横切るようにして細々と県境の峰に通じていたのではないか。

   

天狗高原に続く県道を見る (撮影 2015. 6. 1)
左手に「地芳峠」の看板

<県道383号を横切る旧峠>
 国道440号の峠より天狗高原へと伸びる県道383号は緩い登り坂になっている。入口の左脇に「地芳峠」と書かれた看板が立つ。 何故、広々とした峠のこんな片隅にあるのかと思ったが、本来の地芳峠がそこに通じていたからなのだろう。 地形図を見ると、確かに看板の裏手辺りから点線表記の徒歩道が愛媛県側のサンコ谷川沿いへと下って行く。それが愛媛県側の元々の峠道と思われる。
 
 県道を少し行った沿道には道路情報の看板が立ち、「(−)四国カルスト高原縦断線 夜間・早朝 凍結注意」と看板が立つ。その裏辺りに道標があったようだ。 今は草木が生い茂り、バリケードなどもあって、そこに道があるとは全く気付かなかったが、かつての地芳峠の峠道は、そこから愛媛県側へと下って行ったのだろう。

   
この辺りが旧峠ではなかったか (撮影 2015. 6. 1)
右手の看板の少し奥の林の中に「のぞき岩」が祀られる
   

地芳峠の看板 (撮影 2015. 6. 1)
この近くに峠が通じていた証拠だろう

旧峠付近から現在の峠を見る (撮影 2015. 6. 1)
車道開通で峠の様相は大きく変わった
   

<峠の標高>
 最近の道路地図では、地芳峠の標高は1,080mとなっていることが多いようだ。地形図を見ても国道が通じる稜線の鞍部はほぼ1,080mと読める。しかし、文献などでは1,084mとある。もしかしたら、元の地芳峠の標高だろうかと思ったりする。

   
   
   
峠の様子 
   

<愛媛県側>
 今の国道の峠は広く、愛媛県を示す県境看板は西の端に立つ。高知県の看板とは50mくらいは離れているだろう。元の地芳峠は現在の県道383号の道幅に過ぎないのとは対照的だ。県境看板に並んで、倉庫や事務所の様な建屋が立っている。これらはまだ使われている様子だ。

   

左手に愛媛県を示す県境看板 (撮影 2015. 6. 1)

愛媛県側の道路看板 (撮影 2015. 6. 1)
   

<地芳荘>
 今回(2015年)、久しぶりに地芳峠を訪れ、高知県側から峠に登り付いた時、ちょっとした違和感があった。 初めて訪れたのは1994年と古く、峠のことなどもうほとんど忘れてしまったとはいえ、こんなに広々とした峠に全く覚えがないというのも変である。
 
 峠の広場の高知県側の草むらを探していると、「地芳荘」と書かれた石碑を見付けた。脇に「林業研修センター 梼原町」とも刻まれている。近くには池の様な石垣も見られる。

   

地芳荘の石碑 (撮影 2015. 6. 1)

池の跡 (撮影 2015. 6. 1)
   

 文献には峠に「宿泊施設」とか「国民宿舎」とかがあると記されていたが、最初これは天狗高原の天狗荘か何かの間違いかと思った。 しかし、手持ちの古い交通公社(現JTB)の旅行ガイドブック(1988年11月20日改定)の宿泊情報を調べてみると、地芳峠には地芳荘があるとしっかり書かれている。 一泊4,800円で通年営業とのこと。時代を感じさせる。ただ、国道440号は冬期閉鎖だと思うが。
 
 また地形図を拡大して見ると、愛媛県の県境看板近くの倉庫以外に、もう一つの建物が国道沿いにあることになっている。これがかつての地芳荘であろう。池の跡などは、地芳荘の南側にちょっとした庭園があったのではないだろうか。

   
地芳荘が立っていたと思われる敷地 (撮影 2015. 6. 1)
高知県(南)側から愛媛県(北)側を見る
前に国道が横切る
   

 最初に峠を訪れた時は、天狗高原方向から稜線沿いに峠に辿り着いた。峠道を登って来たのではないので、あまり峠に着いたという感じがしない。 そればかりか、沿道に大きな旅館の様な建物などが立ち並び、如何にも四国カルストの観光地という雰囲気だ。地芳峠はあまり峠らしくない。 一旦国道で愛媛県側に下り、大野ヶ原方面から再び峠に戻って来たが、地芳荘の前は素通りするばかりで、峠の写真を一枚も撮らなかった。何となくそんな記憶が蘇って来た。
 
 「地芳荘」の石碑の並びには、少し離れて水槽がある。地芳荘の名残かとも思ったが、いまだに水が溜められていて、まだ林業研修センターの設備として使われているのかもしれない。その脇を車の轍が下って行ったが、峠の旧道などとは関係ないようだった。

   

水槽 (撮影 2015. 6. 1)
まだ使われている様子

車の轍が下る (撮影 2015. 6. 1)
   

 現在の広々とした地芳峠の謎が少し解けたような気がする。峠の車道開通に伴い、峰の稜線を大きく切り崩して地芳荘などの宿泊施設を建築したのだろう。 その後、何らかの理由で地芳荘を取り壊し、跡に峠の広場が誕生した。のぞき岩の脇を細々越えていたかつての地芳峠とは、全く違う様相である。


地芳荘が立っていた敷地 (撮影 2015. 6. 1)
東の天狗高原方向に見る
   
峠から高知県側を望む (撮影 2015. 6. 1)
今はやや木々が成長してしまい、視界が広がらない
地芳荘の部屋の窓からは、もっといい景色が眺められただろう
   
   
   
唐岩番所へ 
   

<愛媛県側>
 今回は峠より稜線沿いを天狗高原方向に四国カルストを見に行ってしまったので、愛媛県側に下っていない。峠の愛媛県側については、写真も記憶も何も残っていない。 1999年の大晦日に、高野川沿いを遡って大野ヶ原を訪れたことがあった。下の写真は大野ヶ原を行く主要地方道36号から地芳峠へと県道383号が分岐する地点である。 その付近は仁淀川水系と肱川水系の境で、太平洋と瀬戸内海を分かつ四国の大分水界となる。ただ、峠の様な味わいはなく、四国カルストの西端となる草原が広がる。

   

大野ヶ原を行く主要地方道36号 (撮影 1999.12.31)

右に県道383号が分岐する (撮影 1999.12.31)
   

<西谷>
 余談だが、県道383号を少し天狗高原方向に進む。一部にセンターラインもある2車線路が通じていて、国道440号よりいい道だ。 県道標識には愛媛県側の住所「久万高原町 西谷」とある。西谷(にしだに)は江戸期から明治22年までの西谷村、明治22年に柳井川村と合併して柳谷村の大字となっている。

   

天狗高原へ向かう県道の様子 (撮影 2015. 6. 1)

県道標識 (撮影 2015. 6. 1)
   

<唐岩番所跡>
 途中、何でもない所に道標と2つの看板が立つ。一つは一般的なカルスト地形に関する説明で、これを覚えて置けばちょっとした物知りと言える。もう一つは唐岩(からいわ)番所についてで、この場所にあったようだ。

   

唐岩番所跡の看板 (撮影 2015. 6. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

カルスト地形の看板 (撮影 2015. 6. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 文献にも唐岩(口)番所についての記述は多く見られる。ただ、地芳峠の「東200m」とあったが、看板の側らに立つ道標では地芳峠から1.2kmの距離である。 地形図にもそこに「唐岩」と出ている。地芳峠より標高は高く、約1,160mの稜線上だ。地芳峠の様な明確な鞍部でもない。
 
 土佐と伊予との国を結ぶ地芳峠は重要な交通路であったようだが、この四国カルストの峰を越える道は一つだけではなかったようだ。 地芳峠から十分離れた所に唐岩番所があったことから、この地点にも峰を越える別の道が通じていたのだろう。 地形図には高知県側の永野川支流・井の谷川上流部より唐岩に登る徒歩道が描かれている。唐岩から更に尾根伝いに地芳峠に至り、そこから伊予側に下るということもあったかもしれない。
 
 今は広大な四国カルストを観光する道路が通じる峰だが、かつては国境として取り締まられる厳しい時代があったようだ。

   
   
   
四国カルスト(以下は余談) 
   

<姫鶴平>
 峠から3km程で四国カルストの景勝地の一つ、姫鶴平(めづるだいら)に至る。愛媛県側に草原が広がる。


姫鶴平 (撮影 2015. 6. 1)
   
姫鶴平の様子 (撮影 2015. 6. 1)
   
姫鶴平の様子 (撮影 2015. 6. 1)
   
姫鶴平の様子 (撮影 2015. 6. 1)
   

姫鶴平の様子 (撮影 2015. 6. 1)
姫鶴荘はこの反対側

<姫鶴荘>
 姫鶴平の姫鶴荘は健在のようだった。県道沿いにその建物が立つ。地芳荘もこのような様子だったのではないだろうか。

   

 初めて地芳峠を訪れた時は、峠の写真は撮らなかったが、姫鶴平からの景色は何枚か写した。その眺めを見た後では、地芳峠に魅力を感じないのも無理はない。


姫鶴平からの眺め (撮影 1994. 5.23)
   

姫鶴平からの眺め (撮影 1994. 5.23)

姫鶴平からの眺め (撮影 1994. 5.23)
   
姫鶴平からの眺め (撮影 1994. 5.23)
   

<看板>
 姫鶴荘の側に以下のような看板が立つ。柳谷の観光案内などだ。姫鶴荘は愛媛県に属す。

   

柳谷の案内図 (撮影 2015. 6. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

四国カルストの案内図 (撮影 2015. 6. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<四国カルスト>
 秋吉台や平尾台もそれぞれ2回程訪れたことがある。しかし、今回の四国カルストは最高だった。天候に恵まれ、季節も良かったのだろう。青い空に緑の草原、白い石灰岩。

   

平尾台 (撮影 2003. 4.27)

平尾台 (撮影 2003. 4.27)
   

秋吉台 (撮影 1992. 1. 3)

秋吉台 (撮影 1992. 1. 3)
   

<五段高原>
 姫鶴平の先には五段高原がある。その付近の景観がまた素晴らしい。稜線に通じる道は、天に駆け登るようだ。

 
五段高原を登る道 (撮影 2015. 6. 1)
標高は1,400mを超える
   
五段高原付近のカッレンフェルト (撮影 2015. 6. 1)
地芳峠方向に見る
   
高知県側の展望 (撮影 2015. 6. 1)
   
   
   

 この地芳峠で「峠と旅」に掲載した峠は264となる。ホームページを始めてから19年になるが、最終的には300峠を少し超える程度であろう。 あまり先は永くない。ならば、もう少し峠の選択には気を使えばいいようなものだが、いつも適当である。ちょっと気になった峠を思い出すと、それについて調べ始める。 別に厳選している訳ではないのだ。しかも、地芳峠は愛媛県側について掲載できる写真がなく、尻切れトンボとなるのが分かっていた。 しかし、もう二度と四国カルストを訪れることはないので、掲載してしまおうという気になったものだ。
 
 地芳峠は日本百名峠の一つともなり、有名な四国カルストの中にあってそれなりに世間に知られている。しかし、峠の実体はあまり理解できていなかった。 今回、のぞき岩や地芳荘跡地のことが分かり、それなりに峠に関するイメージが掴めた気がする。 また、この付近の県境を越える峠は地芳峠のみに限らず、幾筋かあったようだ。地芳峠は広く地芳台に通じる峠道の代表格、総称とでもいったところじゃないだろうか。
 
 こうして峠について理解を深めるのは面白いことは面白い。但し、何の役にも立たない。どちらかと言えば、個人的な旅を復習しているようなものだ。 264の峠も客観的に選んだ峠たちではなく、そこに個人的に懐かしい旅が264通りあるだけだ。 まるっきり余計な秋吉台を訪れた時の古い写真なども眺め、旅の思い出に浸る、地芳峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 5.23 天狗高原方面から峠 → 旧柳谷村側 → 大野ヶ原方面から峠 → 梼原町 ジムニーにて
・2015. 6. 1 梼原町側から峠 → 天狗高原方面 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 38 愛媛県 昭和56年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・その他、一般の道路地図など
 
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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