旅と宿
No.008
温泉情緒を求めて山梨県の下部温泉へ |
林道湯之奥猪之頭(ゆのおくいのかしら)線の峠道は楽しい「仮称:湯之奥猪之頭峠」。 静岡・山梨の県境越えで、峠道その物も面白いが、静岡県側では富士山の眺めいいことで知られる。山麓に広がる朝霧高原から続いて山頂までなだらかに立ちあがる姿が見事だ。 他ではなかなか見られないロケーションである。また、あまり注目されないが、峠を山梨県側に下ると静かな佇まいの湯之奥集落がある。 古くから金山との関係が深い土地で、集落内には草葺きの大きな門西家(もんざいけ)の屋敷が残り、国指定重要文化財となっているようだ。 「湯之奥」の地名の由来は「温泉の奥に位置する」と言うことから来ているとのことで、その温泉が下部(しもべ)温泉となる。林道湯之奥猪之頭の峠を通るたび、必ずその温泉街を通ることとなる。 険しい峠道が目的なので、下部温泉はいつも素通りだった。写真の一枚も撮ったことがない。それどころか、温泉宿の間に通じる狭くゴミゴミした道を抜けるのが厄介にさえ思えていた。 |
富士を望む |
湯之奥集落を望む |
ところがいつしか、あの下部温泉の昔ながらの温泉街の佇まいが、何とも好ましものに思えて来た。そろそろ体力的にも年齢的にも野宿旅に限界を感じ始めていた頃だ。
普通の旅館やホテルに宿泊することの方が多くなっていたが、すると、単に宿に泊まるだけでなく、温泉街の情緒なども楽しみたいと思うようになっていた。
温泉まんじゅうを蒸かす蒸気が立ち上る街並みを、下駄を突っ掛け浴衣を着てそぞろ歩きするのも一興である。
山梨県には他にも石和(いさわ)や湯村、河口湖などなどまあまあの数の温泉地があるが、旅館が林立する温泉街を形成しているケースは少ない。
その点下部温泉は下部川の狭い谷沿いに多くの旅館や店が肩を寄せ合うように立ち並び、情緒ある温泉街を成している。 |
下部温泉の街中の様子 |
こうして下部温泉に泊まろうと思った動機は極めて健全だったのだが、またいつもの悪い癖が出た。宿の施設や食事の良否は二の次で、とにかく安い宿に泊まろうと考えた。
下部温泉は古くから知られた温泉地で、そこに立つ温泉宿はどれも由緒正しく、格式が高い。よって宿泊料金の設定もそれなりに高いのだ。1泊2食付きで1万数千円から2万円を超えることもざらである。
どこかに手頃な宿はないかと探していると、当時買ったばかりのツーリングマップル(3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社)に「民宿おおしま荘」と出ていた。
本来、ツーリングマップルは一般の旅館・ホテルについての情報はほとんど載せていないが、若いライダー向けなのだろうか、たまに庶民的な宿を紹介している。
その宿について「渓流沿いの気落ちいい温泉 1泊2食付き7,000千円」とツーリングマップルは記していた。下部温泉の他の旅館・ホテルに比べ、別格に安い。
宿の掲載数の多さを誇る宿泊情報や宿泊表にさえその宿の名は見付からなかった。しかし、当時(2003年)、そろそろインターネットが一般に普及し、宿の情報なども容易に閲覧できるようになっていた。
観光ガイドブックなどにはあまり紹介されない小さな宿についても調べられる。その宿を紹介するホームページもあり、それには水面(みなも)に照明が灯った雰囲気のある夜景の画像が大きく出ていた。
近くを流れる下部川の景色かもしれない。なかなか良さそうな宿である。ただ、宿の立地が下部温泉の中心街からやや離れている点がちらっと気になった。
それはともかく、ツーリングマップルに載っている宿であり、とにかく価格に魅かれたのだった。 |
湯之奥猪之頭トンネル |
今回で5度目となる湯之奥猪之頭峠(トンネル)を越えて湯之奥へと下って来た。当時(2003年9月)はまだ山梨県側西八代郡の下部町(しもべちょう、現身延町)である。
前回の峠越えからもう8年の月日が流れていた。また、以前はいつも一人旅だったのだが、今回は結婚前の妻と一緒という点が異なっていた。 |
湯之奥集落内に続く石畳の道 |
湯之奥集落の散策後、下部川右岸に通じる県道を下部温泉方面へと下る。県道と言えど軽自動車同士でも離合が難しい箇所も多い。数Kmで今夜の宿の近くに着いた。県道沿いに宿の案内看板が立つ。 しかし、また時間が早いのでそのまま素通りし、下部温泉の中心街まで下ることとした。すると、なかなかあの見慣れた温泉街が出て来ない。寂しい道が続き、いつしか右岸から左岸へと移って行った。 結局500m以上下るとやっと旅館が立ち並び始め、温泉街上部にある神泉(しんせん)橋を渡った。例によって、浴衣姿で散策している温泉客を見掛ける。 しかし、あの宿からここまで浴衣で歩いて来るのは、ちょっと無理がありそうだ。どうやら、今夜の温泉街散策は諦めるしかない。 |
ならば、時間が許す限り付近を観光しようと、下部温泉の更に下流側にある湯之奥金山博物館に行ってみた。そこで砂金採りも体験することとした。
これが以前の一人旅では、こうした有料施設に入ることや、まして砂金採りなど恥ずかしくてできたものではなかったが、今回は二人連れである。体裁は悪くない。
水槽の中の砂を笊(ざる)にすくい、水でこして砂金を見付けるのだが、初めてではなかなかうまくいかない。1、2粒程度しか採れずに時間ばかり過ぎて行く。
いつしか水槽の周りには私たち二人だけとなってしまった。閉館時間が迫っているので、係りの男性が後片付けを始めだした。
いよいよ閉館という時、受付係りの女性がやって来て笊を受け取ると、慣れた手付きで私たち二人それぞれに十分な砂金を採ってくれた。
それを小さな容器に入れると、私たちに手渡してくれた。いい記念になった。 |
神泉橋(下部温泉内)の更に上流に架かる橋 |
湯之奥金山博物館を出ると県道を取って返し、今夜の宿に向かう。
県道の路肩に宿の駐車場が設けられていたが、宿は県道より少し下った川沿いにある(地理院地図)。
車を路肩に停め、一応駐車場所を確かめに宿への急坂を歩いて下る。厨房から女将さんらしい中年女性がこちらを覗いていた。 |
県道沿いの宿への入口付近 |
玄関で案内を請うと、小学校高学年くらいの女の子が応対に出て来てくれた。今夜は二人連れの泊り客があることを知っていたようで、車を停める場所を問うと、玄関近くの空き地を案内された。
本来は宿の車を停める場所なのだろう、そこに私たちの黄色のパジェロミニも並べて停めさせて頂くことになった。直ぐ脇を下部川が流れ下る。翌朝は近くの川岸でゴミでも燃やしていた。
何とものどかな雰囲気だ。 |
宿に隣接する空地 |
女の子に導かれて玄関に入ると、ご主人の出迎えを受けた。スリッパが2セット並ぶ。先程の女の子は、その後も夕食の配膳などで女将さんとなる母親の手伝いをしていた。
こうして宿を営む実家の家業を助けることが常となっている様子だった。無口だが、てきぱきと作業をこなしている。幼い子供だから初めて会う宿泊客に余計な話などできる訳もない。
一方、私たちも子供相手に気の利いた会話など全く思い付かない。「家の手伝いえらいね」程度の声掛けも出来ないのは残念だった。
ただ、こうした場合にも男の一人旅でなく、女性同伴の夫婦連れの体裁で良かったと思う。胡散臭そうな男の一人客では、受け入れる宿の方も警戒することだろうに。 |
宿の玄関付近 |
宿の玄関がある東側 |
ロビーの様子 |
部屋は2階南西の角部屋だったと思う。「桐の間」という名の8畳の和室だ。南側の窓から下部川上流方向に眺めがある。谷の奥に向かって民家が何軒か続いているのが見える。
多分、この宿では一番いい部屋になるのではないだろうか。建物全体は複雑な造りで、その一部はこの宿を営む家族の住居にもなっていることと思う。 |
部屋の様子 |
部屋の様子 |
部屋の窓から見る景色 |
2階の非常口の左手が私たちの部屋 |
夕食前に風呂に行く。風呂は混浴だった。と言うより、浴室が一つだけなのだ。男女交互に使うのだろうか。連れはちょっと戸惑っている。
ただ、今夜の泊り客は私たちだけなので、一緒に入ることとする。浴槽は大小2つあったが、大きい方は冷たい水のままだった。小さい方に仲良く入る。窓を開けると冷気が入って来て気持ちいい。
外に明かりは見えない。風呂は翌朝にも入ることができた。また窓を開けてみたが、下部川の岸辺の草木だけで、人工物は視界に入って来ない。 |
宿の裏手(西側)の様子 |
夕食は部屋に運ばれて来た。食事が終わったら、お膳を廊下に出しておけば片付けますとのこと。これなら時間を気にせず食べられる。食事の内容は川魚の塩焼きをメインにいろいろ品数が多い。
普段、一般の食堂・レストランで川魚を食べることはないが、こうした山間部の旅館に泊まると、川魚の料理が出ることが多い。以前は苦手だったのだが、最近は食べ慣れて来た。
連れは要らないというので、連れの分まで美味しく食べた。何の魚だったかもう覚えていないが、多分マスの類だったと思う。ふと考えてみると、宿に隣接する池で養殖しているのかもしれない。 |
布団は自分たちで敷き、自分たちで仕舞う。9月下旬の夜は更けて、下部川の谷は冷え込んだ。深夜、寒くて目が覚めた。押入れから毛布をもう一枚出して掛けた。
最近は異常気象で9月になっても暑い日が多い。これからは下部温泉は天然の涼しさが売りになるかもしれない。 |
翌日は朝風呂の後、朝食前に宿周辺を散策する。旅先の宿では朝の散歩がほぼ習慣になってきた。宿の人に一言声を掛け、玄関を出る。宿の裏手、川沿いに回り、少し上流側に進む。
隣家の畑で朝からおじいさんが作業している。県道に上がって少し湯之奥集落方向に歩く。途中、近隣に住むおじいさんとすれ違い、挨拶する。その直ぐ先の県道沿いにもう一軒宿があった。
多分、下部温泉最奥の宿であろう。ただ、昨夜の泊り客はなかったようで、ひっそりしている。小さな神社で引き返し。先程のおじいさんとまた会う。
実は、宿の看板がある近くの県道沿いに、この近所の家の為の新聞受けが設けてある。10数軒分のポスト代わりだ。おじいさんはそこに朝刊を取りに行って来たのだった。
下部温泉の温泉街を歩き、温泉情緒を楽しもうと思って来た旅だが、全く趣が異なる散策となった。しかし、これもまた楽しい。 |
共同の新聞受け |
宿の出立時にはご主人に加え更におばあさんの見送りを受ける。こういうのをアットホームと言うのだろう。山梨ガイドのパンフレットを頂く。 |
宿泊代は予定通り1泊2食付きで7,000円。消費税(当時は5%)と入湯税(150円/人)を含めても一人7,500円で天下の下部温泉に泊まれたのだった。
ところで、宿のホームページで見た明かりが灯る水面の風景だが、あれはどこだったろうか。最初は下部川かと思ったが、どうもマスの養殖池ではなかったかと思う。 |
宿代の領収書 |
その10年後、思い直してもう一度下部温泉に泊まってみることとした。今度は間違いなく温泉街の只中にある旅館を選んだ。神泉橋の上流側の袂近くに立つ裕貴(ゆうき)屋に宿泊した。
すると、部屋に備え付けのハンガーに「大市館」と書かれていた。その大市(だいいち)館とは裕貴屋になる前の宿の名だ。つげ義春氏が宿泊したことがあるようだ。
氏の著作の「貧困旅行記」にその時のエピソードが記されている。以前、「サラリーマン野宿旅」を本として出すことになった時、編集者の方から参考にと「貧困旅行記」を紹介された。
以後、氏の著作をいろいろ読み漁った。また、その関連で川崎長太郎の作品も読んでいた時期がある。これらの作者の作品が、どうやら私の志向にぴったり合ったようだった。 |
下部温泉の一角 |
おおしま荘に泊まったのはつい最近のように思えていたが、今(2023年)からするともう20年も前のことになる。宿の手伝いをしていたあの女の子ももういい大人になっている頃だ。
ネットで調べて見ると、残念ながら宿は既に閉館となっているようで、ホームページは見当たらない。私の記憶もだんだん薄れて来ている。今後、再び湯之奥猪之頭峠を越えることはないだろう。
金山博物館で砂金採りをしたことなど、ほんの断片の記憶が残るばかりだ。こうして写真と文章で少しでも記録に留めておきたいと思う。 |
下部温泉の上流部を望む |
前の写真と同じ位置からの望遠 |
2003年 9月27日(土) |
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