旅と宿  No.011

初めての「かんぽの宿」
兵庫県旧大河内町/峰山高原・簡易保険総合レクセンター
(掲載 2023.12.10)

 

<かんぽの宿>
 「公営の宿」あるいは「公共の宿」などと呼ばれる一群の宿泊施設がある。国民宿舎などがその代表格になるだろうか。一般の旅館やホテルに比べ比較的安い価格で利用することができ、とても人気である。 公営の宿ばかりを掲載したガイドブックを持っているのだが、その種類は50種以上にもなり、多種多様だ。ただ、公務員向けの施設も多く、一般の民間人が気楽に利用できる施設はある程度限られる。 その中でも簡易保険加入者福祉施設、いわゆる「かんぽの宿」は普通の旅館やホテルと同じように利用できるので便利だ。 私たち夫婦はどちらも普通の民間企業に勤め、簡易保険の加入者でもなかったが、何の制約もなくかんぽの宿に泊まれた。同様の理由で休暇村も利用し易い。 妻と一緒に旅行をするようになってからは、旅行先にまずかんぽの宿か休暇村がないか探す。時にはかんぽの宿や休暇村があるところを旅行先にすることもあった。
 
 特にかんぽの宿は夫婦共々大変気に入っている宿だった。まず立地がいい。高台などの見晴らしが優れた場所に建てられていることが多く、部屋からの眺望があることがほとんどだ。 ただ、車がないとアクセスし難い場所だったりするが、私たちはもっぱら車で旅行するので問題ない。宿の近くになると主な幹線路上に案内看板が立っている。 しかも、十分な駐車場が完備されているのが有難い。必ず宿に隣接して平坦な敷地が設けられている。町中の立体駐車場などに比べると出し入れが自由で、車一台当たりのスペースもゆったりしている。

 

かんぽの宿・焼津
焼津市街を見渡す高台に立つ
2005年3月に泊まったことがある
(撮影 2005. 3. 6)
(本編とは特に関係なし)

 

 更に宿の設備がどこをとっても申し分ない。部屋も充分広いが、玄関や洗面台、トイレといった付属のスペースが広くゆったりした造りになっている。自宅の洗面台もこんなに広ければ良かったのにとつくづく思わせる。 電気ポットや冷蔵庫、浴衣、などの備品もしっかり揃っている。フロントやそれに続くエントランスなどの共用スペースも豪華だ。しかも、そうした宿の質がどこのかんぽ宿に泊まっても一定レベル以上を維持している。 例えば同じ公営の宿でも国民宿舎は宿によって全く質が異なる。まず公営の国民宿舎か民営かで違う。一般に公営の方が質が高いように思う。妻はいつも公営に拘っている。 よって国民宿舎に予約を取る時は念入りに宿の内容を調べることになる。一方、かんぽの宿は所在地さえ分かれば他に何も確認する必要がない。予約さえ取れればいつもの快適な宿泊が約束されていた。 かんぽの宿の会員になると宿泊の予約時などで便利なので、私たち夫婦も遅ればせながら平成27年(2015年)より会員になっている。その後のスタンプ帳には23個のスタンプが押されている。 同じ宿に複数回泊まったことがあり、会員になる前も何度か利用しているので、かんぽの宿に泊まったのは合計で30回前後になるだろう。
 
 ただ、近年のかんぽの宿は全体的に経営状況が思わしくなく、かないり前から廃館の危機がささやかれていた。かつては60以上もあったかんぽの宿だが、私たちが会員になった頃は既に下火になっていて、その数を徐々に減らしていった。 高度経済成長真っ只中の時、人口増加と右肩上がりの景気を過信して余りに贅沢な宿泊施設を乱立させてしまったようだ。利用する側としては破格な値段で立派な宿に泊まれるが、宿としては採算が取れなくなっていた。 そしてついにその時が来た。去年(2022年)会員宛に通知が届き、かんぽの宿が無くなることがはっきりした。一部は亀の井ホテルグループなどに引き継がれるようだが、その数は20軒ぐらいで後は廃館になるらしい。 まだ泊まったことがないかんぽの宿も多く、いつかは泊まろうと思っていたのだが、残念な結果となった。

 

かんぽの宿・焼津
部屋からの眺めがいい
(撮影 2005. 3. 7)

 

 かんぽの宿はその質の高さの割に値段が安いとは言え、普通に一般にある旅館やホテル並みの料金は取られる。夫婦でかんぽの宿を好んで泊まるようになったのは、せいぜいこの10年くらいなものだ。 それまでは宿の質など二の次で、とにかく安ければ民営の国民宿舎でも何でも泊まっていた。20年程前、佐渡島を旅行して3泊したが、全て島内にある国民宿舎に泊まった経験がある。 毎日同じような食事でさすがにやや閉口した。更に古く一人で野宿旅などをしていた頃は、そもそも滅多に宿には泊まらなかった。 たまに旅館やホテルを利用する時も、泊り客のほとんどが作業着姿の男性で駐車場には屋根に梯子を乗せたワンボックスカーやトラックばかりが停まるいわゆる商人宿だ。 また、こんなところにホテルがあったのかと驚かされる場末の雑居ビルのビジネスホテルなどであった。ところが、もう30年以上も前になるが、一度だけかんぽの宿に泊まった経験があるのだ。 しかも、そこがかんぽの宿であるということを知らず、そもそも世の中にかんぽの宿というとても豪華なホテルがあるという認識も持ち合わせていなかった。

 

かんぽの宿・焼津
広く天井の高いロビーがなかなか立派
(撮影 2005. 3. 7)

 

 それは、3度目に勤めた会社もあっさり辞め、次の就職先を決めないまま旅三昧の日々を送っていた時期のことだった。1992年の秋に西日本を17日間旅をし(西への長い旅)、その13日目は兵庫県内の山中をさまよっていた。 秋の日は釣瓶落とし言うが、日の暮れるのは思いの外早い。午後も3時頃になればもう今夜の宿の心配をしなくてはならない。 前回ホテルに泊まってから野宿泊が既に4回続いていた。その間、風呂にゆっくり入ることはなく、服も着の身着のままだ。テントの中でも急な事態に直ぐに行動できるようにと夜も服を着て寝る。 下着も前回いつ取り換えたかハタと記憶にない。身体的にも精神的にも今夜あたりはしっかりした宿に泊まってぐっすり眠りたいものだ。
 
 ツーリングマップで現在地を確認すると、兵庫県の一宮町という所に居た。地図にも載っていない林道を走り通し、ひょっこり県道8号・加美宍粟線(かみしそうせん)に出て来た所だった。 宿を探すとなると、どこか賑やかな町中まで行かなければならないが、この近くに大きな都市は全く見当たらない。山ばかりである。 すると、東隣の大河内町(現神河町)の峰山高原(みねやまこうげん)という所に、「なだらかな高原 宿泊施設あり」との記述が目に留まった。ただそれだけで、他には何の情報もない。 電話番号の記載もなかったが、当時は携帯電話などないし、近くに公衆電話もありそうにないので何の役にも立たない。 いつもなら予約した宿しか泊まらないのだが、その時はどういう訳かその「宿泊施設あり」という文句に惹かれ、行ってみる気になった。 高原にあるというので山小屋程度の宿だろうと高をくくってもいた。それに、その宿に泊まれなくてもその峰山高原のどこかに野宿地を見付けることができるだろう。
 
 県道から分かれて峰山高原へと続く急な坂道を登る。暫く行くと一帯が丘陵状に大きく開けた。 周辺には体育館やテニスコート、キャンプ場などのスポーツ施設が点在するようだ。洒落たリゾート地の雰囲気が漂う。私には全く場違いな気がしてきた。 そして道の行き着く先に忽然と立派な建物が立ちはだかった(地理院地図)。 玄関前は広々とし、綺麗に花など植えられたロータリーがあった。山小屋程度の宿泊施設かと思ったのは大間違いだったことに気付かされた。

 

 ずっと後になって分かったことだが、そこはいわゆる「かんぽ宿」であった。正式には簡易保険加入者福祉施設という長い名称になる。 その種類はいくつかあり、宿泊を主にした施設が簡易保険保養センターで、かんぽの宿と言うとほぼこれを指す。 一方、峰山高原にあったのは簡易保険総合レクセンターと呼ばれ、スポーツやアウトドアを楽しむ施設を備えていて、勿論宿泊もできる。 調べてみると、沖縄に那覇レクセンターというのがあるそうだ。2014年9月発行の「かんぽの宿ガイドブック」では既にレクセンターはそこのみになっていた。 かんぽの宿は基本的には簡易保険の加入者を対象とした施設だが、一般の者もほぼ何の制約なく利用することができた。
 
 当時はそんなこととはつゆ知らず、どうしてこんな山の中にこんな立派なホテルがあるのだろうかと不思議に思った。 しかし、ここまで来たからには意を決してフロントまで行ってみることにした。このまま黙って車を引き返したのでは、かえって不審者に思われる可能性がある。 玄関脇に遠慮がちにジムニーを停め、旅に出てからまだ着っぱなしのジーパンやシャツを一応は整え、恐る恐る玄関を入って広いロビーをフロントに向かう。 身なりの悪い胡散臭い男が一人、夕暮れ近くに予約無しの飛び込みでやって来て、果たして泊めてもらえるようなホテルなのだろうか。 それにこの4日間、野宿ばかりで人と対面して会話する機会など皆無に近かった。声を発することさえ殆どなかったのだ。うまく話すことができるだろうか。不安で一杯だ。 しかし、そんなこちらの危惧をよそに、若い男性のフロント係は快く応対してくれ、あっさり泊めてもらえることとなった。 その日のねぐらが確保できたと分かると、毎度の事ながら安堵するものだ。それが野宿であろうがホテルであろうが同じである。
 
 ジムニーを駐車場に移す為、フロント係にことわって一旦ホテルの外に出る。見上げた高原の空はもう夕暮れに染まっていた。 ついさっきまでまだ明るかったと思うのだが、確かに「秋の日は釣瓶落とし」である。もしここで宿泊を断られていたら、野宿地探しにもう一苦労するところだった。 どうやらこれで見知らぬ土地での今日の旅も無事に終われそうだ。 駐車場は玄関に隣接して広々と設けられていた。宿泊表の記述では300台分あるそうな。どの区画に停めてもいいとのこと。後で分かったことだが、かんぽの宿は大抵そうなっていて、車の駐車に気を使わなくて済む。 周囲を見渡すとトラックや梯子を乗せたワンボックスカーなど一台もなく、立派な乗用車ばかりである。長旅で汚れきったジムニーはそうした車と少し離れて停めた。
 
 急いでホテル泊の準備をし、荷物を抱えて明るい照明が灯ったホテルのロビーに戻る。午後遅くやって来た予約なしの宿泊なのに夕食の準備はできるとのこと。 何日でも野宿が続けられるように車の中には豊富な食料が積んであるのだが、ここは一つ奮発して食事を頼むことにした。みすぼらしい服で食事なしの素泊まりではあなどられてしまう。  
 余談だが、野宿旅などと言うと「貧乏旅行」のことだろうと勘違いされるのだが、私は決して貧乏ではない。その当時は無職だったが、翌年にはしっかり中堅企業に就職している。 人生3回の転職も、全て給料アップに繋がった。常日頃いつ死んでもいいくらいの気分ではいたが、図らずしも年を取ってしまって、経済的に困窮することだけはみじめだと考えていた。 そこで、しっかりサラリーマンで稼ぎつつ、合間合間に旅をすることにした。野宿は倹約を目的にしたことではないが、結果的に無駄にお金を使わずに済むんだ。そうやってコツコツ預金を貯めていた。 「貧乏旅行」ではない証拠に、野宿旅の最中もクレジットカードが使えない場合にと十分な現金を所持していた。数10万円は用意していたと思う。 それとは別にイザという時の為に10万円を茶封筒に入れて旅行バックの中に忍ばせておいた。今回のように急なホテル泊で普段にない大きな出費が予想されても、何ら恐れることはないのであった。 近年はコロナ禍などもあって殆ど旅行に出ていないが、気付いてみると、茶封筒はまだ旅行カバンのポケットの中に納まったままだ。  
 フロント係の説明では、夕食は2コースから選べるとのことで、それぞれの値段も提示された。ちょっと迷ったが、さすがに安い方を注文した。それでもその代金は野宿の食事10食分に相当した。 当時は領収書などとって置く習慣がなかったので、今となっては正確な代金は分からないが、食事代を含めても1万円で充分お釣が来る安さだったと思う。
 
チェックインを済ませ、部屋に向かう。かんぽの宿に限らず、こうしたちょっと高級なホテルに泊まるのは初めてのことなので、勝手が分からない。係員による案内はなく、部屋まで自分で行ったと思う。 これまでかんぽの宿はよく利用してきたが、こうした人によるサービスは比較的少ないように思う。人との係わりあいが苦手な私たち夫婦にとっては、かえって程よい距離感である。
 
 部屋はそれ程広くない洋室だった。ロビーなどの立派さに比べると、シティーホテルやビジネスホテルとあまり変わらないという印象だった。 久しぶりに石鹸を使って洗面所で手や顔を洗う。車に積んできたポリタンクの水を野宿でケチケチ使うのとは違い、蛇口から豊富に水が出てくれるのが嬉しい。
 
 暫く休んでから、持っている中で一番いい服に着替えた。それでやっと世間並みの普段着姿である。食事の予約時間を待って食堂に向かう。フロントロビーのある一階フロアの一角に食堂スペースが設けられていた。 いくつも並ぶテーブルの中にこじんまりと一人分の食事が用意された小さなテーブルがあり、そこに案内された。借りてきた猫のように椅子にちょこんと座る。 いつも狭いテントの中で夜を過ごすので、吹き抜けの高い天井がどうも落ち着かない。周りを見ると、宿泊客は皆さんお喋りなどしながら夕餉のひと時を楽しんでいる。 多分、昼間は真っ白なスポーツウエアに身を包み、テニスコートで汗を流していたのだろう。連れが居ない一人ぼっちは私のテーブルだけである。時々ウェイターが暖かい料理やデザートなどを運んで来る。 こんな時は少し気まずく、寂しい気持ちにさせられる。かえって誰も居ない深い山の中で一人、野宿で過ごしている時の方が寂しさなど微塵も感じない。
 
 食事はかなりのボリュームがあり、普段粗食・小食に慣れている私には全部は平らげ切れなかった。部屋に戻りバッグの中を確認すると、野宿した時の夕食となる筈だった菓子パンが一つ入っていた。 たまには今日のような豪華な食事もいいが、こんな粗末な菓子パンやおにぎりなどの質素な食事でも何ら不満はない。 折角豪華な食事をしても緊張していたせいか、後でどんな料理だったか、それがどんな味だったかなど、ほとんど思い出せない。私に高価な食事を与えても、ただただもったいないだけである。 バックに残った菓子パンは勿論無駄にすることなく、明日の昼食となる予定だ。

 

 満腹した後は風呂に出掛けた。この宿では「トロン温泉」と言うらしい。浴室に入ると誰も居ない私だけの貸切であった。他の泊り客は食事前に済ませてあったのだろう。スポーツで汗をかいた後は何を置いても風呂である。 浴室はジャグジーやらサウナやら、湯船も複数ある豪華な造りだ。洗い場も多く設けてある。かんぽの宿は男性用、女性用の区別なく風呂の施設は充実している。 夫婦で好んでかんぽの宿を利用した理由の一つがこの風呂の良さである。古い温泉旅館などでは、広い男性用の風呂に比べ、女性用は家族風呂並みに狭い時があった。
 
 トロン温泉の効能書きを読んだのだが全く覚えていない。こういうことには元々関心がないのだ。それに一度や二度入った程度で温泉の効果など期待できない。 久しぶりに念入りに身体を洗った後は暇である。のんびりゆっくり湯につかるといった性格ではないので、暫く湯船に入っていると直ぐにもそわそわしてきた。 そこで全ての浴槽に入り、浴室にあるサウナなどありとあらゆる設備を試し、最後には誰も居ないのをいいことに水泳までして部屋に戻って来た。これが私の温泉であった。
 
 部屋ではベッドに横になりながら備え付けのテレビをぼんやり眺め、普段家で過ごすよりずっと怠惰にその日が終わって行った。 野外での野宿とは違い、何の危険もないという安心感は心地よい睡眠を誘った。
 
 翌朝は朝風呂などという悠長な習慣はまだなかったので、そそくさと出発準備をし、早々に逃げるようにして宿を後にした。 ジムニーを走らせ宿から少し離れてから、こんな宿に泊まったのも一つの経験と思い、ジムニーと一緒の記念写真を一枚撮った(下の写真)。 当時はもちろんフィルム写真で、特に長旅の最中ではフィルムは貴重である。宿の写真はこれ一枚であった。

 

宿泊した翌朝に撮った宿の遠景写真
宿から十分離れ、遠慮がちに撮った
(撮影 1992.10.20)

 

 思えばこれが初めての「かんぽの宿」の経験になる。次に利用したのはそれから10数年後、かんぽの宿・焼津に泊まった時だったかと思う。 宿があった峰山高原は兵庫県下屈指の高原で、第2次大戦前は旧陸軍の軍馬放牧場として利用されたそうだ。戦後は一時期、開拓地としても開かれた。 そこに簡易保険総合レクセンターが開設されたのは昭和51年(1976年)秋とのこと。各種スポーツ施設やキャンプ場などのアウトドア施設が併設され、峰山高原は観光地として生まれ変わっていった。 そのかんぽの宿はもうとっくになくなってしまったが、元の建物を利用して今はリゾートホテルが営業しているらしい。 去年には全てのかんぽの宿が姿を消した。もうあの質の高い宿をリーズナブルな価格で泊まれなくなったのは、やはり残念なことだ。

 

1992年10月19日(月)
峰山高原・簡易保険総合レクセンター泊

 
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