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天谷峠
  あまだにとうげ  (峠と旅 No.279)
  今も尚、辛うじて旧峠の痕跡を留める峠道
  (掲載 2017. 7.12  最終峠走行 2017. 5.18)
   
   
   
天谷峠 (撮影 2017. 5.18)
手前は兵庫県豊岡市(とよおかし)但東町天谷(たんとうちょうあまだに)
奥は京都府福知山市(ふくちやまし)夜久野町板生(やくのちょういとう)
道は京都府道・兵庫県道56号(主要地方道)・但東夜久野線
峠の標高は約355m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
この府県境の看板が立つ位置は、道の最高所ではない
現在の天谷峠の最高所は京都府側にちょっと入った所にある
左手上に旧道が残っていて、以前は府県境が最高所であったことが分かる
また、京都府の看板の足元に江戸時代の古い石の標柱が立っている
この峠は、3世代?の道が同居している
 
 
 
   

<掲載理由(余談)>
 今回の峠は前回の床尾峠(仮称)と近い位置関係にある。 特に峠の北側は同じ兵庫県の旧但東町となる。こうした地名などは主に角川日本地名大辞典を利用して調べるのだが、それがなかなか面倒な作業だ。 峠の片側だけでも共通していると、その分、手間が省けることになる。そんなことが掲載理由となった。今回の峠に特別な思い入れは見当たらない。
 
 考えてみると、このホームページ「峠と旅」を開設してから丁度20年が経つ。今回でやっと279峠目だ。多分、300峠くらいで力尽きるのではないだろうか。 本当はもっと他に取り上げるべき峠が何十、何百とあるように思う。しかし、選定で迷うのはこれまた面倒だ。そもそも峠の選定基準などはなく、もっぱら個人的な趣向で選んでいる。 調べ物が楽だ、という理由でもいい気がする。また、一つの峠についてあれこれ調べ、撮影した写真や動画を眺め、いろいろ勝手に推察などしていると、愛着が湧いて来るものだ。それを一つのページとして仕上げるのは面白いことではある。

   

<所在>
 峠道はほぼ南北に通じ、南は京都府福知山市の夜久野町板生(やくのちょういとう)で、旧天田郡(あまだぐん)夜久野町の大字板生(いとう)となる。「板生」を「いとう」と読むのが特徴だ。
 
 一方、峠の北側は兵庫県豊岡市(とよおかし)の但東町天谷(たんとうちょうあまだに)で、旧出石郡(いずしぐん)但東町の大字天谷となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<峠名>
 兵庫県側の峠直下に「天谷」(あまだに)という集落があり、峠名はそこから来ていることは明白だろう。京都府側から見て、兵庫県の天谷の地へ越える峠、ということになる。

   

<立地>
 京都・兵庫の府県境にそびえる鉄鈷山(かなとこ、775m)から東に延びる稜線上に峠は位置する。鉄鈷山系の内と言ってよいのかもしれない。鉄鈷山系は現在の京都・兵庫の府県境であり、旧国名の:丹波(たんば)と但馬(たじま)の国境でもある。

   

<水系>
 峠の南方へは板生川が流れ下る。西に連なる鉄鈷山山系と東に連なる富岡山山系に挟まれた峡谷を水源として、南流する。 板生川は下って、小坂峠(こざことうげ)より流れ下って来た直美川(なおみがわ)と合わせた後、牧川(まきがわ)となる。 文献では牧川の源を鉄鈷山としているので、板生川の方が牧川本流となるようだ。また、板生川の部分を牧川と呼ぶこともあるようだ。 そうした意味で、牧川流域は全て天谷峠の領域とも言える。尚、牧川は由良川(ゆらがわ)の一次支流であり、峠は由良川水系に属す。 由良川は丹後半島の東側の京都府宮津市字由良で日本海に注ぐ、日本海側の河川だ。
 
 一方、峠の北方へは天谷川(あまだにがわ)が下る。河本川(こうもとがわ)の上流部を天谷川と呼ぶので、実質、河本川水域全部が天谷峠の領域と言える。 河本川は北流して出石川(いずしがわ)に注ぐ。出石川は円山川(まるやまがわ)の一次支流で、円山川水系になる。円山川は但馬の中央部を北流し、豊岡市津居山で日本海に注ぐ。
 
 峠は大きく東の由良川水系と西の円山川水系の境にあるが、両水系共に比較的下流域に位置する。

   
   
   
夜久野町より 
   

<夜久野町>
 今は福知山市の一部になっている旧夜久野町は、福知山市西端にあり、西と南北の3辺を兵庫県との県境を成す峰が囲む。福知山市街からはJR山陰本線と国道9号(山陰道)が延びて来ていて、交通の便が良い位置にある。
 
<福知山(余談)>
 京都府から兵庫県に掛けての内陸部は、なかなか宿が見付け難い地域だ。その中にあって福知山は比較的大きな都市で、サンルートなどのシティーホテルが多くあり、当日での急な宿泊予約もし易い。中国地方への旅の中継地点としても宿泊すること機会があった。

   

JR下夜久野駅前の国道9号 (撮影 2015.11.15)
(西に見る)

<額田>
 福知山市街から国道9号を西方へ15km程走ると夜久野町額田(やくのちょうぬかた)に入る。額田集落は旧夜久野町の中心地であった。山陰本線の下夜久野(しもやくの)駅周辺に広がる。
 
<東経135度(余談)>
 この額田には一つの名所がある。下夜久野駅前から国道9号沿いに少し西へと進むと、道の右手に大きな塔が立っている。「子午線標柱」と呼ばれる東経135度を示すモニュメントだ。 私はあまり関心がなかったが、妻が寄ろうという。車の停め場所に困るんじゃないかと心配したが、モニュメントの脇に駐車スペースが見付かった。

   

子午線標柱 (撮影 2015.11.15)
(下夜久野駅方向に見る)
標柱の西面:「日本中央標準時」
標柱の北面:「東経一三五度 北緯三五度一九分一一・六秒」

子午線標柱 (撮影 2015.11.15)
標柱の東面:「子午線標柱 夜久野町」
標柱の南面:「東経一三五度(日本中央標準時)」
   

<子午線標柱ご案内>
 側らに立つ石板の碑文によると、この標柱は京都府天田郡夜久野町により1982年(昭和57年)1月に建設されたそうだ。東経135度を基準として日本標準時が定められている点がミソである。
 
 尚、文献では「昭和47年再建」とあったが、昭和57年の誤りだろうか。また、「再建」とあるので、現在の標柱の前に別の標柱が立っていたのかもしれない。
 
 更に、文献では標柱側面に「北緯35度19分18.6秒」と書かれているとあったが、現物では「北緯35度19分11.6秒」となっている。「18.6秒」は「11.6秒」の誤植かと思ったが、どうも標柱に修正したような形跡が見られた。書き変えたのかもしれない。


子午線標柱の石碑 (撮影 2015.11.15)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

やくの玄武岩公園 (撮影 2015.11.15)

<やくの玄武岩公園(余談)>
 子午線のモニュメントはツーリングマップル(関西 2015年8版1刷発行 昭文社)に載っていて知ったのだが、夜久野町に関してはもう一つ、 「玄武岩公園」というのが「自然が創りあげた奇観」として紹介されていた。額田より更に国道9号を西に向かった夜久野町小倉(おぐら)にある。 国道から狭い道を少し南に入るので、やや分かりずらい。カーナビ頼りで辿り着いた。牧川の支流・東川沿いに位置する。

   

公園内の池と玄武岩 (撮影 2015.11.15)

公園案内図 (撮影 2015.11.15)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 玄武岩公園は比較的広々としていて、駐車場完備でトイレもあり、ちょっとした休憩にも適した所だった。六角形の柱状節理も、なかなか見応えがあるものだった。 この地に因んで「小倉の玄武岩」とも呼ばれるようだが、これは火山である宝山(350m)の噴火によってできたらしい。看板によっては「田倉山」(たくらやま)ともあったが、宝山の別称のようだ。

   

「小倉の玄武岩」の看板 (撮影 2015.11.15)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

「玄武岩」の看板 (撮影 2015.11.15)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
府道56号へ 
   

<高内の府道56号分岐>
 話を峠道に戻し、道も国道9号に戻る。天谷峠を越える府道56号(主要地方道)・但東夜久野線は国道9号の高内(たかうち)より分岐する。高内は玄武岩公園のある小倉よりやや福知山寄りに位置する。

   

<但馬街道>
 但馬国と多くを接する夜久野には但馬街道が通じていた。額田は但馬街道の駅だったそうだ。但馬に通じる道筋は幾つかあったようで、今回の天谷峠もその一つとなる。現在は国道9号と山陰本線が幹線路だ。
 
<牧川沿いの峠道>
 国道9号は高内の分岐からは牧川本流沿いを離れ、更に西へ進んで由良川・円山川水系の境の峰を越えて朝来市(あさごし)和田山町(旧但馬国)に入る。 本来、牧川沿いは全て天谷峠の領域としたいところだが、何しろ相手は但馬街道の現在の本線ともなる国道9号である。 高内の分岐までの牧川沿いは国道に譲り、ここでは国道から分かれた京都府道(兵庫県道)56号のみを天谷峠の峠道として扱うこととする。


国道9号を福知山方向に見る (撮影 2015.11.15)
この先、左に府道56号が分岐する
国道の行先は「京都 京丹波」
   

国道9号を兵庫県方向に見る (撮影 2017. 5.18)
この先、右に府道56号が分岐する
右手は中夜久野郵便局

府道56号分岐を示す道路看板 (撮影 2017. 5.18)
(高内地内)
   

<府道56号に入る>
 高内の分岐は信号機のない殺風景な分岐だ。角に立つ大きな建物は石材店だった。高内の地は古くから宝山火山の噴火による玄武岩を産した。それを原料として作られた石塔や灯籠などは「高内石」として知られるそうだ。

   
国道9号側から府道56号を見る (撮影 2017. 5.18)
左手の建物は石材店
看板にある「グリーンビラ夜久野」とは福祉施設のようだ
直ぐ先に小さな十字路がある
   

 府道56号に入ると直ぐに小さな十字路を過ぎる。2車線幅の広いの府道を横切るその細い道は、古くから高内集落内に通じていた道で、多分、今の国道9号の前身であろう。かつての但馬街道を往来した人々は、その道を通ったのではないだろうか。
 
 その先直ぐに府道標識が立っている(下の写真)。
 府道56 京都
 但東夜久野線
 福知山市夜久野町高内

 と出ている。

   

府道標識が立つ (撮影 2017. 5.18)

府道標識 (撮影 2017. 5.18)
   

<牧川左岸沿い>
 高内集落の人家は直ぐに沿道から消え、道は牧川左岸沿いに寂しく通じる。対岸の高みに山陰本線が通るのが見える。国道は既に牧川沿いを外れたが、鉄路はもう暫く牧川右岸に沿う。側らには牧川の水面が直ぐ目の前にして流れ、周辺の田畑を潤している。

   

牧川左岸沿い (撮影 2015.11.15)

牧川を下流方向に見る (撮影 2015.11.15)
   

<左岸へ>
 途中、大油子(おゆご)バス停前を過ぎ、広瀬橋(ひろせばし)で牧川の右岸へ入ると、そこからは平野(ひらの)となる。
 
<上夜久野村>
 かつて、ここより牧川の上流域は、平野村、板生村、直見村に分かれていた。 明治22年(1889年)にそれら3か村が合併して上夜久野村(かみやくのむら)が誕生、旧村名を継承した3大字を編成する。 昭和33年(1958年)に当時の夜久野町の大油子・小倉の2大字を編入して5大字となるが、翌年には村ごと夜久野町の一部となり、上夜久野村は消滅した。現在、山陰本線に「上夜久野」という駅名が見られる。

   

広瀬橋を渡る (撮影 2015.11.15)
(右の写真とほぼ同じ)
偶然同じような場所を写していた

広瀬橋を渡る (撮影 2017. 5.18)
   

<府道63号>
 北上する府道56号から西に府道63号(主要地方道・山東大江線)が分かれ、山陰本線も同じ方向へとそれて行く。その道路と鉄路は宝山の南麓を越えて但馬へと入って行く。また、宝山の北麓にはかつて水坂峠が通じ、この峠道も丹波と但馬との往来に使われたそうだ。

   

府道63号の分岐 (撮影 2015.11.15)

府道63号の分岐を表す看板 (撮影 2017. 5.18)
   

<小坂峠への分岐>
 府道56号の最初の方は分岐が多い。次は右手に府道63号が分かれる。 牧川支流・直美川の狭長な谷間に位置する旧直美村を通り、小坂峠(こざことうげ)で府県境を越え、兵庫県豊岡市但東町小坂(こざこ)に至る道だ。2年前はその峠道を通ったのだが、峠前後で大雨に遭い、峠自身も面白みに欠け、あまり楽しい峠越えではなかった。

   

この先で右に府道63号分岐 (撮影 2015.11.15)

右に府道63号分岐 (撮影 2015.11.15)
住所地は「平野」とある
この時は小坂峠を越えた
   
   
   
板生へ 
   

板生口バス停 (撮影 2017. 5.18)

<板生口バス停>
 府道63号を分けて150m程行くと「板生口」というバス停が立っている。ここから板生川上流域は昔の板生村、途中上夜久野村や夜久野町の大字板生を経て、平成18年からは福知山市の夜久野町板生である。
 
 尚、バス停直ぐに板生川を左岸に渡る道が分岐するが、ちょっと古いツーリングマップ(関西 2輪車 1989年7月発行 昭文社)では、それが府道63号(主要地方道・山東大江線)となっていた。現在の府道は新規に作られたもののようだ。
 
<板生>
 板生という地名の由来は、上夜久野村史によると「木材を産することによるか」とされているそうだ。 「板を生む地」とでもいう意味合いか。西は鉄鈷山(775m)を北端とする鉄鈷山山系、東は富岡山(707m)を中心とする富岡山山系がそれぞれ南北にそびえ、 その間で北の天谷峠を頂点に板生川沿い約7km余りの細長い谷に板生は位置する。ほとんどの集落は板生川沿いにあり、現在その川の右岸に府道56号が一筋通じる。

   

<集落>
 地形図上では板生川下流側より、中田(なかた)、上町(かんまち)、三谷(さんだに)、羽白(はじろ)、田谷垣(たやがい)、現世(げんぜ)、今西(いまにし)、 田谷(たや)といった集落名が見られる。さすがに峠直下の1km程に集落はないが、それ以外の6km余りの範囲に長々と集落が点在している。 それらの集落を一つずつ辿るのも面白いかもしれないが、ここでは大幅に割愛する。

   

府道標識 (撮影 2017. 5.18)
「現世」とある

府道標識 (撮影 2017. 5.18)
   

<現世>
 妻が「現世」というバス停を見付け、次は「あの世」だろうかなどと不謹慎なことを言っていたが、現世は「げんせ」ではなく「げんぜ」と呼ぶようだ。どのような名の興りを持つのだろうか。

   

現世集落付近 (撮影 2017. 5.18)

現世バス停 (撮影 2017. 5.18)
   

<今西>
 今回は私の運転で妻が写真係りを担当した。妻はあまり美的センスがなく、いつもカメラのアングルが良くない。 もっと道と周囲の景色をうまくまとめて写真に収めてくれればいいのにと思う。ただ、動体視力は抜群なので、走行する車からバス停を撮らせたら、まず右に出る者は居ない。 今回も、何も注文していないのに、現世・今西・田谷のバス停が逃さず写真に写されていた。

   

今西集落付近 (撮影 2017. 5.18)

今西バス停前 (撮影 2017. 5.18)
   

<妻のこと(全くの余談)>
 ちょっと調べてみると、府道56号線で右に左にと立つバス停の、9割がたを妻は写真に撮っていたようだ。こういう単純作業を辛抱強く続けるのも妻は大得意とする。
 
 妻は幼少の頃、なかなか立ち上がろうとせず、ハイハイばかりしていたそうだ。 それも前進するのではなく、後退するという横着振り。言葉もなかなか発せず、両親は発達障害かと随分心配したそうだ。 小学校に入っても、暫くは同級生と話すことをせず、校庭の片隅で他の子供らが遊ぶのをぼんやり眺めてばかりいるような子だったらしい。 その当時のことを本人に聞いてみると、ただ、友達と話すということに思い至らなかっただけとのこと。
 
 一方、妻には妹が一人居る。小学校で知能(IQ)テストを受けたところ、その学校始まって以来の高得点を出した。 それに驚いた教師が、親を学校に呼んで説明するという騒ぎになった程だ。その後、有名国立女子大を卒業する才女に成長して行く。 何だか姉の分も合わせ、二人分の知能を持って生まれたかのようだ。
 
 しかし、妻も国立大学の工学部を卒業している。社員1,500名程の中堅企業に勤め、昇級試験では一番の成績を収めたこともある。頭脳の方はまんざらではないようだ。 それでも、府道56号沿線に並ぶバス停をことごとく写した写真を眺めていると、どういうことだろうかと不思議である。妻はどこか歯車がずれているような気がする。 今日まで妻が撮った数々のバス停の写真は、そのほとんどが日の目を見ず、ハードディスクのゴミとなって行く。妻の人生とも思い合わせ、何だか哀れな気がしてくるのであった。

   

<田谷>
 府県境の天谷峠から下って1.2km程の所に田谷(たや)のバス停が立つ。その周辺にある田谷は京都府側最終の集落となる。
 
<路線バス(余談)>
 タラガ谷越でちょっと触れたテレビ番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」の新シリーズが始まっているようだ。 この「路線バスの旅」で困るのが、県境越えである。県境を跨いでバス路線が通じることは少なく、その番組の出演者達はよく県境の峠を苦労して歩いて越えていた。 今回の天谷峠もバスが通じていない県境越えの峠の一つだ。京都府側の福知山市市営バスは、田谷バス停が終点のようだ。 一方、峠の兵庫県側で全但バスが通じるのは峠直下の天谷バス停までである。その間、約4.4kmに公共の交通機関はない。 それ程険しい峠道ではないが、誰もここを歩いて越える気にはならない。しかし、「路線バスの旅」ではこの程度の峠越えは珍しくなかった。出演者の苦労が偲ばれる。
 
 尚、後で分かったことだが、兵庫県側の全但バスでは、もう天谷バス停までの路線はなくなったようだ。こうなると、尚更歩ける筈がない。

   
田谷バス停前 (撮影 2017. 5.18)
   

<田谷集落の外れ>
 田谷集落も間もなく尽きる所で、丁度「福知山市バス」と書かれたマイクロバスが停まっていた。側らに運転手らしき男性が一人、手持ち草たに佇む。 ここがバスの折り返し場となるらしい。バスの左手奥に道が延び、そちらにも田谷の人家が並ぶ。 多分、旧道と思われる。一方、現在の府道は人家から少し外れた所を、真っ直ぐな2車線路で快適に進む。

   
田谷集落の外れ (撮影 2017. 5.18)
左の旧道の先に人家が立つ
   

<田谷以降>
 バス折り返し場付近を過ぎると、もう沿道に人家はない。それでも快適な府道56号が峠に向かって続く。

   

府道標識が立つ (撮影 2017. 5.18)
この先で左より旧道が合して来る

府道標識 (撮影 2017. 5.18)
   

<道の様子>
 天谷峠の京都府側の地形は穏やかだ。田谷集落も過ぎるとさすがに道の勾配は少しは増したが、屈曲などないほとんど直線路である。快適な2車線路が続く。古い道の痕跡など全く残りようがない状態だ。
 
 ただ、途中一箇所だけ、左手の支流方向にちょっと迂回して戻って来る道が見られた(下の写真)。舗装されたような形跡がなく、その200mくらいの道が唯一残る旧道ではないだろうか。

   

左に旧道分岐 (撮影 2017. 5.18)

左手より旧道が戻って来る (撮影 2017. 5.18)
   
   
   
峠に着く 
   

道のピーク峠 (撮影 2017. 5.18)
京都府側から見る
右に旧道が分かれる

<道のピーク>
 京都府側から登ると、快適な2車線路がそのまま峠の切通しに差し掛かる。快適過ぎて峠に辿り着いたという感動は薄い。
 
 現在の道のピークは、兵庫県との府県境よりやや京都府寄りにある。そのピークより、脇に入る道が残っている。峠に現在の2車線路が通じる前の道の片鱗のようだ(後述)。

   

<峠の様子>
 法面をきれいに整えられた切通しを数10m下った所に府県境を示す看板が道の両側に立つ。下り坂の途中なので、峠と呼ぶにはやや違和感があるが、ここが府県境となるようだ。
 
 ちょっと困ったことに、切通し前後の長い距離で広い路肩がなく、車を停めるのに苦労する。この峠を往来する車の量は少ないが、それでも時折快適な道を乗用車が走り過ぎる。あまり峠付近でうろうろできない。
 
 府県境の看板は、京都府側は「福知山市」、兵庫県側は「豊岡市」となっている。かつてはそれぞれ夜久野町と但東町の地であった。この峠が改修されたのと合併が行われたのでは、どちらが先であろうか。


峠を背に京都府方面を見る (撮影 2017. 5.18)
   
峠 (撮影 2017. 5.18)
京都府側から見る
   

兵庫県の看板 (撮影 2017. 5.18)

京都府の看板 (撮影 2017. 5.18)
   

府県境の看板の下に石の標柱 (撮影 2017. 5.18)

<国境の標柱>
 兵庫県側から見る「京都府」と書かれた看板の足元に一基の石柱が立つ。「従是東丹波國福智山領」とはっきり刻まれている。 「これより東、丹波の国 福知山藩領」を示す国境の標柱であった。一般に「国境石」などとも呼ばれる。 これは兵庫県側の県道改修工事中(2006年)に発見され、その後現在の位置に据えられたものだそうだ(詳しくは両丹日日新聞にて)。 長い間土に埋もれ、人々から忘れ去られていた標柱が、こうして再び人の目に触れることとなった。
 
 江戸期の板生村は福知山藩領であった。この福知山藩領を示す標柱は当然ながら板生村側に立っていたと思われる。それで、現在の府県境看板のちょっと京都府寄りに設置したのであろう。
 
 尚、標柱では「福智山」となっていて、現在の「知」の代わりに「智」を用いている。そもそもこの丹波の地は天正7年(1579年)、織田信長の命により明智光秀が平定した。 「福智山」の命名は光秀によるものらしく、当初は明智の「智」を用いていたようだ。それが江戸期の途中で「知」に改められたとのこと。標柱に建之年は書かれていないが、「福智山」時代の物と推定されるらしい。

   

国境の標柱 (撮影 2017. 5.18)

国境の標柱 (撮影 2017. 5.18)
   

<旧道>
 峠道の途中に旧道が残る例は多いが、この天谷峠はちょっと変わった残り方をした。正に峠の部分に旧道が残る。ただ、国境石が立っていた頃の古い道ではなく、現在の2車線路が通じる直前の車道だ。
 
 京都府側の道のピーク辺りから東寄りに古く荒れた道が登る。アスファルト舗装され、白線も一部残る。元あった車道の西側半分ぐらいが削り取られ、東側半分程が残っている状態だ。車一台がどうにか通れるかどうかという道幅である。


僅かに残る旧道 (撮影 2017. 5.18)
京都府側から見る
   

<旧峠>
 数10m行くと道のピークとなる。下を覗くと、丁度府県境の看板が立っていた。ここが旧峠であった。以前は道のピークと府県境が一致している普通の峠であったようだ。

   
旧峠 (撮影 2017. 5.18)
兵庫県方向に見る
   

<旧峠の様子>
 しかし、わざわざこうして旧峠を残した訳ではなさそうだ。道を直線的に通した結果、切通しの片側の上に旧道の一部が取り残されただけのことらしい。 旧道の路面は草や枯れ枝で荒れ、一部に不法投棄も見られた。全く哀れな姿である。何か旧峠を示す遺品はないかと辺りを探したが、何も見付からなかった。
 
 それでもこうして旧峠の様子が垣間見られたのは嬉しい。多分、この車道を開削する折り、例の国境石も取り除けられ、土の中に埋没したのではないだろうか。当時はまだこうした遺構に関する理解がなく、単なる古ぼけた石碑としか見られなかったのかもしれない。

   
旧峠 (撮影 2017. 5.18)
京都府方向に見る
   

 新しい大きな切通しの片隅に残るこの旧峠は、江戸時代の国境石が置かれていた頃の古い峠ではないにしろ、それに最も近い存在だ。 その意味で、土から掘り出した国境石を改めて設置するなら、この場所の方がふさわしいように思う。ただ、それでは人の目に留まることがない。 また、旧道部分の保守管理も必要となり、不経済だ。やはり今の所に置くしかないようだが、快適な2車線路をスピードを出して通り過ぎる車から、路傍にポツリと立つ境国石が果して目に留まるだろうか。
 
 旧峠の上から下を覗くと、府県境の看板や国境石が望める(下の写真)。ある意味、3世代の峠を一度に見ていることになる。

   
新旧の峠を見る (撮影 2017. 5.18)
   

<峠の標高>
 峠は地形図の等高線で350mと360mの間に位置する。代表値として355mとしてみた。道のピークに対し府県境は2m程下だ。一方、旧道の峠は2m程上にある。元々の峠は更に数mは高かったであろう。

   
   
   
兵庫県側に下る 
   

兵庫県側に下る (撮影 2017. 5.18)
右手上には暫く旧道が続く

<豊岡市側へ下る>
 峠から兵庫県豊岡市側には、もう暫く快適な2車線路が下る。右手の上には旧道もまだ続いている。その距離は400〜500mもありそうだ。面白いことに、地形図では旧道側を以前として県道表記にしている。車で通り抜けできるのだろうか。
 
<狭小区間へ>
 府県境から300m程すると、この先で狭小区間になることを示す道路標識や、保安林の看板、通行規制区間の看板が立つ(下の写真)。

   

この先狭小区間 (撮影 2017. 5.18)
左手に保安林などの看板が立つ

保安林の看板 (撮影 2017. 5.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<保安林の看板>
 看板には「水源かん養・土砂流出防備 保安林」とある。所在地は「出石郡但東町天谷字土橋 外1字」であった。 但東町が豊岡市に編入される前の古い看板と分かる。看板の地図には「土橋」と「アヤ谷」という字が示されていた。天谷峠の部分の住所は、細かくは大字天谷・字土橋となるようだ。 「土橋」というからにはかつてどこかに橋が架かっていたのかもしれない。

   

通行規制区間の看板が立つ (撮影 2017. 5.18)
 
<通行規制>
 異常気象時の通行規制はここを起点に「但東町天谷」までの2.3kmとなっている。この場合の「天谷」とは天谷集落がある地点と解釈する。そこまでの2.3kmの道が険しい。

通行規制区間の看板 (撮影 2017. 5.18)
   

<旧道の豊岡市側入口>
 いよいよ道が狭まり急な下り坂が始まるという所で、右手より旧道が合流して来ている。入口にはロープが張られ、通行止になっていた。 やはり車は通さないようにしているようだ。仮に通れたとしても、路面の荒れ状態からして、パンクでもしかねない。こうして旧道は朽ち果てて行くのだろう。

   

右から旧道が合流して来る (撮影 2017. 5.18)

旧道方向を見る (撮影 2017. 5.18)
   

左手に造成地 (撮影 2017. 5.18)

<造成地>
 狭く屈曲した峠道は慣れっこで、特に何とも思わないのだが、今回ばかりはいつもと景観が違う。狭い道の左手に広大な造成地が広がった。ちょっとした道の改修工事などとは比べ物にならない程大規模なものだ。この山間部にそぐわない異様な風景である。
 
 天谷峠の豊岡市側はまだ一部につづら折りの区間を残す。地形が急峻で道の改修が進まず、以前の険しい峠道のまま最後まで残ったようだ。 ここに2車線路を通すのは容易なことではない。そこで、谷を大きく切り開き、多分そこに大きなカーブを描く立派な道路を建設しようというのではないだろうか。

   
広い造成地の様子 (撮影 2017. 5.18)
   

<道の様子>
 側らの広い造成地をしり目に、道は旧来通りの狭さで屈曲を続ける。

   
つづら折りを下る (撮影 2017. 5.18)
   

<工事の様子>
 道の右手の方でも工事が行われている様子だった。峠直下の谷とは別の、東寄りの支流の谷にまで造成の範囲は及んでいるようだ。
 
 工事は大規模だが、工事を進めている様子は全くなかった。工事現場のどこにも重機は見られないのだ。時折トラックが通ったりはしたが、この工事の関係ではなさそうだった。造成工事が一通り終了し、次に道路建設が始まるまで、休工中といった感じである。


道の右手にも工事現場 (撮影 2017. 5.18)
   

造成地を峠方向に見る (撮影 2017. 5.18)
峠直下の谷
新道はここを峠へと登って行くのだろう

右手の工事現場 (撮影 2017. 5.18)
支流の谷の方向
新道はこちらから登って来るのではないだろうか
   

現在の道 (撮影 2017. 5.18)
支流の谷へと下って行く

<支流の谷へ>
 峠道は概ね北を目指すのだが、現在の車道は一時南へ戻る方向に進む(左の写真)。地形の険しさから、峠直下の谷沿いにそのまま通ることができす、一つ東寄りの支流沿いへと下る。
 
 
<支流沿い>
 支流に降りればそこで180度反転し、その後は川沿いになる(下の写真)。そのカーブの所に「危険区間 終り」の看板が立つ。これでつづら折り区間も終了となる。 カーブから分かれ、支流の上流方向へと工事区間が延びていた。新道はこの方向へと進むようだ。 将来、この支流から本流に掛けて大きなSの字を描いた2車線路が開通するのではないかと想像する。そうなると、この付近の景観も一変することだろう。

   

支流の谷に降り立ったところ (撮影 2017. 5.18)
危険区間終りの看板が立つ
ここを右の方へ新道の工事が進んでいる

危険区間終りの看板 (撮影 2017. 5.18)
   
   
   
川沿い 
   

<支流の左岸沿い>
 まずは支流の谷の左岸沿いに道は下る。やはり川沿いになって、道は勾配の少ない直線的な穏やかものになった。ただ、視界は広がらず、暗い林の中だ。
 
 この川沿いは本流沿いも含め1.6km程続く。その間、道幅は十分ながら、既に改修された幅の広い2車線路と比べると、やや狭い感じがする。 ここにセンターラインが引けるだろうかと危ぶむくらいだ。ただ、この間で拡幅工事が行われるような様子は全く見られなかった。多分、この区間はこのまま残されるようである。


支流の左岸沿い (撮影 2017. 5.18)
   

<本流沿いへ>
 支流沿いは200m程で、次は本流を渡って本流左岸沿いになる。支流を迂回したのは車道開削の為であり、天谷峠の元からの道は峠直下に下る本流沿いに通じていたことと思う。 本流に出た橋の袂より本流沿いに峠方向を眺めてみた(下の写真)。害獣除けの網が設けられていたが、その先、何となく道のような物が川筋に沿って通じていそうにも見える。ただ、倒木などが覆い、容易に歩けた状態ではなかった。

   

本流を渡る (撮影 2017. 5.18)
今後、本流の左岸沿い

本流沿いを峠方向に見る (撮影 2017. 5.18)
   

<天谷川本流>
 これまで「峠直下に流れる本流」などと表現したが、川の名前が分からないからだ。河本川(こうもとがわ)の上流部を天谷川(あまだにがわ)と呼ぶ。 しかし、天谷川本流の源流は天谷峠ではなさそうなのだ。そう示す資料(「川の名前を調べる地図」というwebサイト)があった。
 
 峠から流れ下る川沿いになってから更に400m程下ると、東より川が合流して来ている。よくよく見ていないと気付かない。 ただ、谷がその付近だけちょっと広がっている(下の写真)。またその200mほど手前に右手の川を渡るみすぼらしい橋が架かっている(右の写真)。 その道の先が天谷川本流沿いへと続くらしい。天谷峠から下る川と同様、府県境を源とするが、確かにこちらの方が流長が長く、やはり本流かもしれない。


右手に橋が架かる (撮影 2017. 5.18)
   
ちょっと谷が広がった (撮影 2017. 5.18)
この辺りが天谷川本流との合流部だろうか
   

天谷川左岸 (撮影 2017. 5.18)

<天谷川左岸>
 ただ、道を走っている限りには、一本の川筋に沿って通じているようにしか見えない。それでも、天谷川本流沿いと思われる頃になってからは徐々に谷が広がりだした。そして遂には対岸に段差を築いた田畑が見えて来る。山里の雰囲気である。

   
対岸に田畑が見られる (撮影 2017. 5.18)
   

<集落入口>
 道の左手に社が立っていた。路面にはセンターラインが描かれ始める。集落も近いような雰囲気がする。ここが天谷集落への入口、あるいは但馬から天谷峠を目指す者にとっては、集落からの出口といった箇所になるようだ。
 
<通行規制の看板>
 社の少し後方に峠方向を向いて通行規制の看板が立つ。峠近くにあった物と同様だ。しかも、文面も全く同じである。どちらも「起点」で「終点」がないことになる。「ここより2.3km(但東町天谷まで)」とあるが、ここがその但東町天谷である。


規制区間終了 (撮影 2017. 5.18)
ここからセンターラインが描かれ始める
   

社 (撮影 2017. 5.18)

通行規制の看板 (撮影 2017. 5.18)
   

<右岸へ>
 道は通行規制区間を終わると、集落直前で天谷川を右岸へと渡る。

   

天谷川を渡る橋 (撮影 2017. 5.18)

「あまだにがわ」とある (撮影 2017. 5.18)
   

「ゆりばし」とある (撮影 2017. 5.18)

<ゆりはし>
 橋の銘板には「ゆりばし」とあった。多分「百合橋」と書くようだ。
 
 
<左岸の道>
 この橋を渡らず、左岸沿いのままに下る細い道もあった。百合橋はあまりに立派で新しそうなので、左岸沿いの道の方が元からあった道ではないかという想像もできる。ただ、この先の右岸沿いに天谷集落の人家が多く、元々川の両側に道が通じていたのかもしれない。

   
百合橋 (撮影 2017. 5.18)
天谷集落方向に見る
橋の向こうの左岸沿いにも道が通じる
   
   
   
天谷 
   

<人家が見えて来る>
 百合橋以降は快適な2車線路となる。前方に人家が見えだす。県道看板も立ち始める。京都府側は「府道56京都」とあったが、こちら側は「県道56兵庫」となる。住所は「豊岡市但東町天谷」と出ている。


県道看板が立つ (撮影 2017. 5.18)
   

県道看板 (撮影 2017. 5.18)

<56号(余談)>
 京都府道・兵庫県道56号但東夜久野線は、豊岡市側の国道426号の「合橋小学校前」交差点を起点に、福知山市側の国道9号の高内の分岐を終点とするようだ。Webでちょっと調べると、その延長は約7.512kmと出ていた。しかし、この峠道はそんなに短い訳がない。
 
 地図上での距離を調べると、
・京都府側:10.3km
・兵庫県側:8.1km
・合計:18.4km
 となる。京都府側で府道63号との併用区間があるが、それも約900mと僅かなものだ。どうも7.512kmが謎である。

   

<最初の人家>
 間もなく兵庫県側最初の天谷集落の人家が現れる。人家と西の端に流れる天谷川との間は水田稲作が行われていて、丁度水を張った田んぼに苗を植えている真っ最中であった。
 
<河本川>
 地形図には河本川上流部の天谷川などの記載はなく、どこから河本川になるのかがはっきりしない。 「川の名前を調べる地図」というwebサイトでは、天谷の人家の前を行く途中、稲谷川という支流を円田橋で渡るが、その稲谷川が天谷川に合流して以降を河本川と呼ぶことになっている。


兵庫県側最初の人家 (撮影 2017. 5.18)
   
稲谷川を円田橋で渡る (撮影 2017. 5.18)
左手に小さな古い橋が残っている(軽トラが停まる)
天谷川がこの稲谷川を合わせた後は河本川と呼ばれるようだ
   

<河本川沿い>
 峠から天谷最初の人家までが約2.7km。その後、河本川沿いに長々と1km程に渡って人家がポツリポツリと点在する。ずっと天谷集落である。
 
<天谷バス停>
 地図によると、兵庫県側最初のバス停である天谷バス停がある筈だが、見当たらない。この路線はもうないのであった。

   

河本川を渡る (撮影 2017. 5.18)
ここではもう天谷川ではなく河本川である

集落の様子 (撮影 2017. 5.18)
「天谷」と集落名が記されている
この少し先辺りに天谷バス停がある筈なのだが
   

<天谷村>
 室町期に「あま谷村」と見える。江戸期からの天谷村。明治22年に周辺16か村が合併して合橋村(あいはしむら)が成立。旧村域は大字天谷となる。 明治24年の戸数32、人口は男74・女74。昭和31年に合橋村が但東町の一部となったことで、天谷は但東町の大字と変わる。 昭和35年の世帯数は23、人口は118。人口はその後も漸減しているのではないだろうか。

   
沿道の様子 (撮影 2017. 5.18)
人家はそれほど多くない
   
   
   
西谷 
   

<西谷川>
 左手からやや大きな支流の谷が合して来る。西谷川である。本流の河本川との間に広い三角州が形成され、そこに水田が切り開かれている。この支流の地域は但東町西谷(にしだに)となる。西谷川とその支流沿いに西谷集落の人家が点在する。

   
西谷方向を見る (撮影 2017. 5.18)
右手奥に西谷川が遡る
その川沿いに西谷集落の人家が点在する
手前の川は河本川本流
   

<西谷分岐>
 河本川を左岸に渡った所で左手より西谷川沿いに通じる道が合流して来る。

   

河本川を渡る (撮影 2017. 5.18)

左手より西谷集落からの道が合して来る (撮影 2017. 5.18)
   

<西谷を通る峠道>
 西谷川上流方向に向いて案内看板が立つ。西谷川に架かる「清竜の滝」は地図にも示されている。
 
 この西谷川沿いを遡る道は、そのまま山腹をよじ登って行くと床尾峠(仮称)に至る道筋に相当する。 しかし、地形図を見る限り、途中で車道は尽きるし、その先に登山道も見られない。一方、途中で支流の福延川上流方向に分かれる道がある。 車道はなくなるが、その先に山道が延び、遂には天谷峠の直前まで至っている。しかし、現在の天谷峠は2車線路を通したことで、峠は深く大きな切通しとなり、道が繋がっていないようだ。 多分、昔の天谷峠は西谷からの道も通じていたのではないだろうか。天谷集落を通る道筋が峠道の本線としても、西谷経由の道も住民たちによって使われたのではないだろうか。

   
西台の案内看板など (撮影 2017. 5.18)
   

<床尾峠>
 床尾峠(とこのおとうげ)からはこの河本川と西谷川の合流部が眺められた。ならばこちらから床尾峠が望めていたのかと、写真を拡大すると、確かに峠の切通しの様な部分が写っていた(下の写真)。

   

床尾峠を望む (撮影 2017. 5.18)

床尾峠より西谷付近を望む (撮影 2017. 5.18)
   

<西谷口バス停>
 地図では西谷川沿いになった直ぐの所に西谷口というバス停があることになっていた。それらしき所に小屋はあるが、バスの時刻表などが書かれたバス停が立っていない。やはり、この河本川水域を走っていた全但バスの路線は廃止されたようだ。

   
西谷口のバス停 (撮影 2017. 5.18)
右側の小屋がそうだったのだろう
   
   
   
河本 
   

<河本>
 西谷川を合わせてから下流側の河本川沿いには河本集落の人家が点在する。大字河本は河本川中流域を占め、河本川水域にある集落の中では人口が一番大きいようだ。河川名と集落名が一致している。
 
 沿道に大きな石塔と灯籠が立っているのが目に付いた(下の写真)。その横に小屋が立つが、これが元の河本バス停だったようである。


河本集落に入る (撮影 2017. 5.18)
   

石塔や灯籠が並ぶ (撮影 2017. 5.18)

右手の小屋は河本バス停? (撮影 2017. 5.18)
   

下河本バス停 (撮影 2017. 5.18)

<下河本バス停>
 そこより数100m行くと、「全但バスのりば」とはっきり書かれた小屋があった。「下河本のりば」ともある。妻は相変わらずバス停を逃さない。
 
 河本の人家を過ぎると、河本川の谷は一段と広がった。水を張った田んぼが清々しい。

   
水田が広がる (撮影 2017. 5.18)
   

河本土地改良区の記念碑 (撮影 2017. 5.18)

<記念碑>
 水田の傍らに記念碑が立っていた。道の開通記念碑などなら関心があるのだが、耕作地の改良に関する記念碑のようだった。

   
   
   
日殿 
   

<日殿>
 河本川沿いでは最も下流に位置するのが日殿(ひどの)集落だ。規模は小さい。人家の他には畜産業に関する建物が目に付く。


日殿集落へ (撮影 2017. 5.18)
   

集落途中の分岐 (撮影 2017. 5.18)

<分岐(余談)>
 集落内で右に一本分岐がある。「やまびこ シルク温泉館」と案内看板が立つ。「安国寺 1.4km」ともある。

   

<採石場>
 県道脇に目に付くのは山肌を露わにした採石場だ。県道の傍らに発破に関する注意看板が立っていた。恐ろしや。


右手に採石場 (撮影 2017. 5.18)
発破注意の看板が立つ
   

床尾峠の分岐 (撮影 2017. 5.18)

<床尾峠分岐>
 右岸の採石場とは反対側に埃っぽい道が分かれるが、それが床尾峠(仮称)への峠道入口となる。県道沿いに何の看板もない。
 
<出合市場>
 採石場がある所からは出合市場(であいいちば)となる)。しかし、この県道沿いでは採石場の建物以外、人家はほとんど見られない。

   
   
   
国道426号に接続 
   

<合橋小学校前>
 天谷峠を下って来た県道56号は、出石川(いずしがわ)沿いに通じる国道426号に接続して終わる。交差点名は「合橋小学校前」。 付近一帯は但東町出合市場(であいいちば)で、合橋村の時代はここが村の中心地であった。交差点の北側に合橋小学校が隣接し、ここに「合橋」の名が残る。
 
 交差点より国道の200m程下流側で、河本川がその本流となる出石川に合流している。このことからも、河本川水域をその範疇とする天谷峠の峠道はここで終了である。


この先で国道426号に接続 (撮影 2017. 5.18)
   
道路看板など (撮影 2017. 5.18)
   

<交差点付近の様子>
 国道に接続する直前、「(主)但東夜久野線 早期 改修実現 但東夜久野線改修促進期成同盟会・但東町」と書かれた大きな看板が立っていた。 色あせていて、もうあまり文字もよく見えない。改修工事は概ね達成されていて、この看板の役目ももう少ないのかもしれない。 後は、峠の豊岡市側の1kmに満たない区間だけが未改修で残っている。ただ、その区間は最も難所で、改修完了まではまだ時間が掛かるかもしれない。

   
合橋小学校前交差点付近の様子 (撮影 2017. 5.18)
正面に国道が通る 手前が峠方向
右に「但東夜久野線 早期改修実現」の看板
左の小屋はバス停かと思ったが、自転車やバイクが停められていた
   

案内看板など (撮影 2017. 5.18)

<国道426号(余談)>
 看板では、国道426号を東に4km行った所に「やまびこ」とある。日殿集落からの分岐にも看板があった「シルク温泉やまびこ」である。 宿泊もできる温泉ホテルのようで、時にはこうした宿を利用するのもいいだろうが、ただ、お値段は高い。やはり福知山市内のビジネスホテルなどに泊まった方が安上がりで済む。 やまびこでは福知山駅からの送迎バスもあるようで、福知山市街からそうは離れていない。今回はわざわざ天谷峠を越えて来たが、福知山市街方向からだと、国道426号経由で来ればずっと早く来れるのであった。

   

<出石川沿いの峠道>
 河本川が注ぐ出石川は円山川下流域にある一次支流で、その源流は京都府道・兵庫県道63号の小坂峠(こざことうげ)となる。一方、天谷峠は支流の河本川源流部なので、その意味では小坂峠の方が本線の峠道、天谷峠はそこより分岐する支線の峠道と言える。
 
 ただ、出石川沿いには幹線路の国道426号が通り、登尾峠(トンネル)を越えて福知山市街方面へと向かうので、県道63号などの出る幕はない。更に、京都府側では天谷峠が牧川本流(板生川)上流部、小坂峠はその支流の直美川上流部であった。


河本川を下流方向に見る (撮影 2017. 5.18)
この少し先で出石川に合流している
   
河本川を上流方向に見る (撮影 2017. 5.18)
   

<出石(余談)>
 天谷峠が降り立った出石川流域はほぼ全域が出石郡(いずしぐん)に当たる。 以前は出石町と但東町がこの郡を構成していたが、この2か町共々、2005年(平成17年)4月1日に豊岡市に合併してしまった。その為、今は出石郡を名乗る町村はない。 かつての城下町出石は但馬の小京都とも呼ばれ、一度観光したことがあるが、多くの観光客で賑わう町だった。
 
 出石に関しては何の予備知識もなく、特に見てみたい所もなかったのだが、一つだけ関心事があった。 桂小五郎、後の木戸孝允(きどたかよし)が維新直前に潜伏していた地が出石ということだ。潜居跡を訪ねてみると、隣のそば屋で行列して待つ客が騒がしい。 仮に桂小五郎が捕えられていれば、日本の明治維新も違ったものになっていたと思うが、そば屋の客はそんなことには何の関心もなく、楽しそうに順番を待っていた。 今は丁度「翔ぶが如く」(司馬遼太郎作)を読み返しているが、そこでは西南の役の最中、苦悩しつつ木戸が病没する様子が描かれている。

   
   
   

 天谷峠は快適な2車線路が通じる峠で、それだけを見ると有り触れた府道・県道の峠でしかない。 ただ、新しく開削された切通しの上部に、旧道の一部が残っているというのは変わっている。更に、「従是東丹波國福智山領」と刻まれた国境石も発掘され、予想外に面白い峠だったと思う、天谷峠であった。

   
   
   

<走行日>
(2015.11.15 京都府側から小坂峠へ パジェロ・ミニにて)
・2017. 5.18 京都府→兵庫県 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 26 京都府 1982年 7月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 28 兵庫県 昭和63年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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