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猪目峠
  いのめとうげ  (峠と旅 No.280)
  出雲大社の背後の山脈を越える峠道
  (掲載 2017. 8. 1  最終峠走行 2017. 5.20)
   
   
   
猪目峠 (撮影 2017. 5.20)
手前は島根県出雲市大社町杵築東(たいしゃちょう きづきひがし)
右奥の道は同市猪目町(いのめちょう)方面へ
左奥の道は鷺峠(さぎとうげ)を経て同市大社町鵜峠(たいしゃちょう うど)方面へ
道は猪目町側は出雲大社猪目うど線、大社町杵築東側は出雲大社宮内線(双方を合わせて鷺浦宮内線とも)
峠の標高は約260m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

 
 
 
   

<島根県の旅(余談)>
 島根県と言えば、観光の中心はやはり松江だろうか。松江城や武家屋敷、小泉八雲旧居、宍道湖(しんじこ)遊覧などを思い浮かべる。 また松江市街からちょっと足を延ばし、日本海に面した島根半島東端の美保関(みほのせき)や西端の日御碕(ひのみさき)などを訪ねるのも楽しい。
 
 更に旅の通人は、美保関から日御碕に至る半島北岸の道を辿るのである。リアス式の入り組んだ海岸線が続き、まともに道が通じていない。一部に未開通区間もあったりする。そして途中にはポツリポツリと小さな漁村が点在する。何とも旅情豊かな地なのである。
 
 1995年の正月元旦、旧平田市(ひらたし)河下町(かわしもちょう)(現出雲市河下町)から同市猪目町(いのめちょう)(現出雲市猪目町)へと通じる海沿いの道をジムニーで走っていた。 この区間は一応島根県道23号・斐川一畑大社線(ひかわ・いちばた・たいしゃせん)というしっかりした道が通じている。 右手には真冬の荒々しい日本海が広がった。人々は正月を祝っていることだろうが、そうした世間には背を向け、一人旅を堪能していた。
 
 辿り着いた猪目(いのめ)は小さな漁村であった。県道23号は更に西の鷺浦(さぎうら)まで延びるが、そこから先はもう海岸沿いに道はない。そこで猪目からは山中へと道を転じ、大社町(たいしゃまち、現出雲市大社町)の市街を目指した。
 
 猪目峠という寂し峠を越えて麓に降りて来ると、そこは人で溢れていた。道が出雲大社の境内に通じていたのだ。しかも、正月の初詣客がドッと押し寄せる天下の出雲大社である。
 
 今でこそ、御朱印が趣味の妻に付き合っていろいろな寺院や神社を訪れる機会があり、有名な寺社では多くの参拝者で大混雑することを理解している。 しかし、以前は寺と神社の区別も分からない・・・、と言っては言い過ぎだが、それ程寺社などには関心がなかった。 峠を越えた先に出雲大社があることは薄々感付いていたのだが、それが何物であるかは全く理解していなかった。
 
 ジムニーは完全に群衆に吞まれてしまった。前進困難でジムニーを停めると、車の前にも後にも人の流れができてしまい、尚更進退が極まった。 仕方なくゆっくりゆっくりと進めるが、何でこんな所に車がいるのかと、人々は不信の目をこちらに向ける。 車の立ち入り制限は行われていたようだが、それは神社の正面方向から入って来る車に関してである。神社の裏山を越えて来る車には何の規制もなかった。
 
 大社前に通じる幹線路まで抜け出すのに、どれ程の時間が掛かったろうか。車に関してはいろいろ怖い思いをしたが、この出雲大社での出来事は5本の指に入る恐怖であった。

   

<掲載の意図>
 猪目峠は峠道としてそれ程面白い訳ではない。今回は鷺浦(さぎうら)、鵜峠(うど)、猪目(いのめ)という島根半島北岸に点在する小さな集落を探訪しつつ、それらの集落と市街地を結ぶ峠道を辿る旅である。
 
 峠道が好きではあるが、実は海岸沿いの寂しい道も大好きである。以前、日本列島の輪郭をなぞるように旅をしていた時期があった。 沿岸に最も近い道を探し、そこをバイクや車で走るのだ。複雑な海岸線に沿う道は、狭い上に屈曲が多くて険しい。 そして所々に小さな入り江があり、そこに人家が密集して立つ小さな漁村が静かに佇んでいる。何とも旅情をそそられるのだった。 ただ、あまり正直に海岸沿いの道を辿ると、地図で見る以上に道程が長く、また未開通区間もあって引き返すことともなり、非常に時間が掛かった。それで、日本列島輪郭旅は途中で挫折している。
 
 今回は猪目峠がメインとなるが、それに関連して鷺峠(さぎとうげ)、高尾トンネル面坂トンネルにも触れる。そして何より、以前怖い思いをした出雲大社を、もう一度走ってみようという試みであった。

   

<所在>
 猪目峠は日本海沿いの島根県出雲市猪目町(いのめちょう)と同市大社町杵築東(たいしゃちょうきづきひがし)を繋ぐ峠である。猪目町は旧平田市(ひらたし)の猪目町であった。大社町杵築東は旧簸川郡(ひかわぐん)大社町(たいしゃまち)の杵築東であった。
 
 ただ、猪目町と杵築東の境は峠にはなく、峠より北の日本海側に少し下った所にある。
 
 尚、峠から鷺浦方向に分かれる道は出雲市大社町鵜峠(たいしゃちょううど)へと入る。そして鷺峠を越えて出雲市大社町鷺浦(たいしゃちょうさぎうら)へと下る。 鵜峠は以前の簸川郡(ひかわぐん)大社町(たいしゃまち)鵜峠(うど)、鷺浦は簸川郡(ひかわぐん)大社町(たいしゃまち)鷺浦(さぎうら)であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 出雲大社の境内は、背後に日本海岸とを隔てる峰が東西にそびえる。これを北山山脈とか北山山地、単に北山とも呼ぶようだ。 東の旅伏(たぶし)山から始まり、大社近くの弥山(みせん)を通り、西の果てで日御碕に没するまでの山塊を指す。 猪目峠は東の弥山(506m)から西の坪背山(371m)へと続く主脈上に位置する。
 
 一方、鷺峠は、北山山脈の主脈に近いものの、峠の前後の水系はどちらも微妙ながら日本海側となる。その点、猪目峠は北山山脈を南北に分ける大きな分水界上にある。

   

<水系>
 猪目峠の北側は猪目川の源流部に当たる。猪目川はそのまま北へ下って猪目港で日本海に注ぎ、猪目川水系を構成する。
 
 猪目峠の南側には素鵞川(そががわ)が流れ下り、吉野川(よしのがわ)を経て堀川(ほりかわ)に入る。堀川は西の大社湾へ注ぐ堀川水系を成す。
 
 鷺峠の北側は、八千代(やちよ)川が流れ下り、鷺浦港(さぎうらこう)で日本海に注ぐ、八千代川水系である。 ただ、地形図では、高尾トンネル(後述)方面から流れる方を八千代川本流としていて、鷺峠の方はその支流ということになる。 尚、鷺峠の南側は、微妙ながら猪目峠と同じく猪目川源流部に当たるようだ。

   

<峠名>
 猪目峠はその名の通り、猪目に通じることからの命名だろう。鷺峠もほぼ同様に鷺浦に通じるという意味合いと思われる。
 
 ところで、猪目峠には鵜鷺峠(うさぎとうげ)という別名もあるようだ。この場合、猪目の方向にではなく、鷺浦や鵜峠への方向を意味するようである。かつて、鵜峠浦と鷺浦が合併した鵜鷺村(うさぎむら)という村があった。この「鵜鷺」(うさぎ)を意味する峠名と思う。

   
   
   
県道23号で鷺浦へ(高尾トンネル区間) 
   

<県道23号>
 以前の県道23号・斐川一畑大社線(ひかわ・いちばた・たいしゃせん)は、出雲大社を起点に猪目峠・鷺峠と越えて鷺浦に至っていた。ところが最近の地図を眺めてみると、日御碕に至る県道29号・大社日御碕線の途中から鷺浦に通じる新しいルートができている。
 
 かつて、鷺浦・鵜峠・猪目という島根半島北岸に位置する集落へは、出雲大社の裏手にそびえる北山山脈を猪目峠で越えるか、 あるいは旧平田市河下町(かわしもちょう)方面より日本海沿いの断崖に通じた道を行くしかなかったようだ。どちらの陸路も厳しい。鷺浦・鵜峠・猪目は北山山脈に遮られた辺地と言える。
 
 そこに北山山脈を越える別ルートが通じた。これは一度見に行かねばならぬ。

   
日御碕神社にあった地域案内図の看板の一部 (撮影 2017. 5.20)
県道29号から鷺浦に通じる新しい道が描かれている
かつては出雲大社の裏手から鷺浦に通じる道しかなかった
(猪目では猪目洞窟に寄ろうとしたのだが、うっかり見過ごしてしまった)
   

県道29号を日御碕方向に見る (撮影 2017. 5.20)
右に新しい県道23号が分岐する

<県道23号分岐>
 以前の県道23号は出雲大社よりほぼ真っ直ぐ北へと延びていたが、現在は出雲大社から西へ5kmも行った所から始まる。 道は良くなったのだろうが、出雲大社から鷺浦までの距離は倍近くになったろう。しかし、快適な道で5kmの距離は車なら何でもない。徒歩で峠を越えていた時代とは道の通し方も自ずと違って来る。
 
 県道23号の分岐に立つ看板には、行先に「鷺浦」とのみある(左の写真)。しかし、この道の恩恵は鵜峠や猪目の集落にももたらされている筈だ。
 
 「夢の森うさぎ 6.7km」と案内がある。鷺浦にその施設があるようだ。暇があれば立寄って見ることとする。

   
県道看板 (撮影 2017. 5.20)
新しい県道23号が示されている
「夢の森うさぎ 6.7km」の案内看板もある
   

<県道23号を行く>
 県道に入ると直ぐに県道標識が立つ。
 斐川一畑大社線
 出雲市大社町日御碕

 とある。大社町側の道の起点が大きく変わったが、道の名・斐川一畑大社線に変わりはないようだ。鷺浦から先の区間ではコース変更はないのだろうか。
 
 1995年に訪れた時は、この県道の一畑付近から猪目に至る海岸沿いの部分を走った。島根半島北岸については、これまでで70%くらいは輪郭を描けているだろう。 しかし、100%など到底達成できそうにないない。この部分だけでも難しいのに、日本列島全体などやはり輪郭旅は不可能であった。


県道23号の入口近く (撮影 2017. 5.20)
   

県道標識 (撮影 2017. 5.20)

<通行止の看板>
 直ぐに通行止の看板が立っていた(下の写真)。よくよく見ると、ずっと先の「河下町〜猪目町」であった。猪目までは無事に行けそうだ。 路肩崩落により大型車通行止とあるが、やはり河下・猪目間の日本海沿いの区間は、相変わらず険しいようだ。この新しい県道23号の重要性が分かる。
 
 迂回路が指定されていたが、迂回路などという生易しいものではなく、全く反対側の東側よりアクセスするしかないようだ。

   
大型車通行止の看板 (撮影 2017. 5.20)
   

<高尾トンネル>
 新しい県道23号は、延長6km弱の全線に渡って2車線路が確保されていた。途中にはループ橋も架かり、快適そのものの車道である。追越し禁止で、センターラインはずっと黄色だった。
 
 この峠道は北山山脈を高尾山(357.8m)の少し東側で越えている。そこに高尾トンネルが開通していた。 この峠の北側には、地形図では八千代川本流が流れ下るが、別の資料では八千代川の支流・梅谷川ということになっている。鷺峠と高尾トンネルのどちらが八千代川本流上部にあるかで、本線の峠道が異なってしまう。高尾トンネル方面の方が流長が長そうだが、果たして本流はどちらだろうか。
 
 車道開通は高尾トンネルの完成を待たなければならなかったが、以前より八千代川(本流?、支流?)上流部まで川沿いに道が通じていたようだ。 あるいは高尾トンネル開通以前に細々と峠道も通じていたかもしれない。

   
高尾トンネル (撮影 2017. 5.20)
自転車がライトを点けて走って来る
   

<旧道に接続>
 県道23号の新道は最後に八千代川を右岸に渡り、出雲大社方面より鷺峠を越えて来た旧道に接続する。
 
 八千代川に架かる橋には「昭和50年3月竣工」とあったようで、比較的古い物だ。それでいて2車線路の幅があり、早くから高尾トンネルを通る新道の計画があったのかもしれない。


八千代川を渡る (撮影 2017. 5.20)
この先で旧道に接続
   
分岐に立つ看板 (撮影 2017. 5.20)
「夢の森うさぎ 1km」
   

分岐の様子 (撮影 2017. 5.20)
この先、車線減少
左手に看板

<分岐の様子>
 現在は高尾トンネルを越える道が本線となり、鷺峠を越えて来た方が、道は直線ながらも、交差点で一時停止となっている。丁度、鷺峠方向より下って来た車があり、停まってくれるかなと思いながら、慎重に交差点を通り過ぎた。
 
 交差点前に看板が立ち、家族が快適な道をドライブしている様子が描かれていた。「21世紀に向けた県単独特別道路整備事業 島根県 シマネスク島根」とあった。

   
   
   
鷺浦集落 
   

<鷺浦へ>
 今回は鷺峠は越えず、このまま鷺浦・鵜峠・猪目へと向かう。
 
 旧道に入ると、道は以前のままの狭さに戻る。八千代川の右岸を川に沿って下る。直ぐに交番があり、それに並んで八千代川に関した看板が立つ。

   

左手に交番 (撮影 2017. 5.20)
その先に八千代川の看板

八千代川沿いに看板が立つ (撮影 2017. 5.20)
   

<カジカガエル(余談)>
 鷺浦港に注ぐこの八千代川や猪目港に注ぐ猪目川は、共にカジカガエルの生息地となっているようだ。カジカガエルはその鳴き声は耳にしたことがあるが、姿を見たことはほとんどない。近付くと鳴き止んでしまい、滅多にその姿を現さない。

   
八千代川に関する看板 (撮影 2017. 5.20)
   

<八千代川右岸>
 徐々に八千代川両岸に建物が見られるようになる。八千代川は「危険渓流」と看板にあったが、今は側らを穏やかに流れている。
 
 
<集落内へ>
 八千代川沿いは500m程で鷺浦集落の中心地に入る。鷺浦は小さな港町だ。周辺は山がちで、深い湾の奥にある僅かばかりの平坦地に鷺浦港が開かれている。人家のほとんどはその小さな港を囲むようにして町並みを形成している。


土石流危険渓流の看板 (撮影 2017. 5.20)
   

八千代川沿いに細い道を進む (撮影 2017. 5.20)

そろそろ集落の中心地に入る (撮影 2017. 5.20)
   

鷺浦港に出る (撮影 2017. 5.20)

<鷺浦港沿い>
 集落の幹線路となる県道23号は、鷺浦港にそって通じる。左手に広くその湾を望む。 鷺浦のメインの家並みは道を一本山側に入った所にあるようで、県道沿いからはその様子は一部しかうかがえない。 こうした狭い漁村はちょっと車を降り、歩いて散策するといいのだが、漁港沿いに一般車が停められるような駐車スペースは少ない。そもそも県道自体、車の離合が難しいような狭さだ。

   
鷺浦港を望む (撮影 2017. 5.20)
湾の正面に柏島(かしわじま)が浮かぶ
右手には灯台が立つ
   

<ガイドマップ>
 鷺浦湾も終り頃に、看板がポツンと立っていた。「さぎうら町並みガイドマップ」とある。単なる漁村としては珍しく、鷺浦に関したいろいろな風物が紹介されていた。

   

右手に「さぎうら町並みガイドマップ」の看板 (撮影 2017. 5.20)

「さぎうら町並みガイドマップ」の看板 (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<柏島など(余談)>
 まず、湾の正面に見えるのは柏島(かしわじま)だそうだ。日本海の荒波から鷺浦湾を防ぐかのように湾の入り口に浮かぶ。 文献(角川日本地名大辞典)によると、「風土記」出雲郡の条にある脳島(なずきしま)がこの柏島に比定されるようだ。 「脳島。紫菜・海藻生えり。松・栢あり」とみえるとのこと。俗に権現(ごんげん)島といわれ、島には柏神社が祀られるそうだ。
 
 鷺浦の家並みに通じる道を北へ登ると鷺浦隧道(鷺隧道)がある。昭和10年、住民たちにより岩盤を手掘りして作られたとのこと。 現在はコンクリートで固められているが、車一台がやっと通れるような小さなトンネルだ。このトンネルを通して鷺浦の町並みが望めるらしい。やはり、のんびり散策した方が良かった。

 
「さぎうら町並みガイドマップ」の地図 (撮影 2017. 5.20)
柏島、灯台、家並み、鷺浦隧道、船着場、塗り格子・虫籠窓(むしごまど)、塩飽屋(しわくや)
向柏寺(こうはくじ)の地蔵、公衆トイレ、鷺浦会館、伊奈西波岐神社(いなせはぎじんじゃ)などが描かれている
   

<鷺浦(村)>
 鷺浦は江戸期から明治22年に掛けての神門(かんど、かんと)郡の村名で、江戸期は杵築(きずき)大社領であった。 鷺浦港は天然の良港で、帆船時代は北前船などの風待ち港として栄え、村は繁盛したようだ。
 
<大字鷺浦>
 明治22年には鷺浦と東隣の鵜峠浦(うどうら)の2か村が合併し、神門郡鵜鷺村(うさぎむら)が成立している。「鵜鷺」(うさぎ)という村名は旧村名の各1字を取って付けられたようだ。この時より鷺浦は大字となる。
 
 かつての北前船に代わり、明治33年からは大阪商船による大阪〜境港間の定期船の寄港地として利用されたようだ。 しかし、国鉄山陰本線の開通などにより、商港としての鷺浦は衰えていったようだ。明治29年からは簸川郡(ひかわぐん)に所属する。大正6年、集落に電灯が灯る。
 
<バスの開通>
 昭和24年(1949年)には大社・鷺浦間に村営バスが開通したそうだ。大社と鷺浦を結んだというからには、今の県道斐川一畑大社線の旧道である猪目峠・鷺峠を越えていたものと思う。 よくあの道にバスが通れたものだ。今も集落内の伊奈西波岐神社(いなせはぎじんじゃ)参道入口付近に、一畑バスの鷺浦バス停が立つ。まだバスの便はあるらしい。
 
<大社町に>
 昭和26年の大字鷺浦の戸数140・人口446。この数値は意外と大きいように思う。 同年旧大社町(たいしゃちょう)・日御碕(ひのみさき)村・遙堪(ようかん)村・荒木(あらき)村・鵜鷺村が合併して大社町(たいしゃまち)となる。大字鷺浦は同町の大字として存続する。

   
   
   
鷺浦から鵜峠へ(面坂峠区間) 
   

<森林公園>
 鷺浦湾沿いを過ぎ、東隣の鵜峠方面に向かい始めると、右に「うさぎ森林公園 夢の森うさぎ」への道が分かれる。この公園についてはこれまでも随所に案内看板が立っていた。比較的新しそうな施設で、駐車場もあるのではないかと思い、ちょっと立ち寄ってみることとした。


右にうさぎ森林公園の道 (撮影 2017. 5.20)
左は県道を鵜峠へ
   

森林公園の管理棟前 (撮影 2017. 5.20)
右手の上が駐車場だった

<公園の様子(余談)>
 この森林公園は、鷺浦湾背後の山中に切り開かれていて、車で登って行ってもなかなか奥深い。 何があるのか全く知らなかったのだが、公園の案内図を見ると、コテージやオートキャンプ場が点在するようだった。そうした施設を利用するのは勿論有料だろう。 散策するだけでもいいのかもしれないが、ちょっと利用しづらく、そそくさと立ち去ることとした。

   

<ウサギ(余談)>
 実は「うさぎ」という公園の名前からして、動物のウサギが居るのかと思っていたのだ。そうした小動物と触れ合うのは大好きである。しかし、公園のどこにもウサギなど居そうにない。
 
 今になって考えてみると、「夢の森うさぎ」の「うさぎ」は「鵜鷺」(うさぎ)のことだったようだ。旧鵜鷺村の村名でもある。 「さぎうら町並みガイドマップ」では森林公園の所にウサギの絵が描かれていたり、公衆トイレのマークにウサギの耳ついていたりと、「鵜鷺」を動物の「ウサギ」にもじっている。 それはそれで面白いのだが、実際に動物のウサギが居る訳ではないのであった。


森林公園の看板 (撮影 2017. 5.20)
管理棟前に立つ
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<面坂トンネル>
 鷺浦から鵜峠へは小さな半島の付根を越える小さな峠道となる。峠の部分には面坂(おもさか)というトンネルが開通している。かつて、ここには面坂峠という峠道が通じ、鷺浦と鵜峠や更に東の猪目といった漁村同士を結んでいたようだ。

   
面坂トンネルに差し掛かる (撮影 2017. 5.20)
   

面坂トンネル (撮影 2017. 5.20)
鷺浦側坑口

<県道日御碕河下小境線(余談)>
 文献によると、面坂トンネルの開通当初は「県道日御碕河下小境線」が通じていたとある。後の県道斐川一畑大社線の前身となる県道だろう。
 
 この県道のルートは、日御碕方面からは出雲大社を経由し、やはり猪目峠・鷺峠を越えて鷺浦に至っていたのだろうか。 鷺浦からは面坂トンネルで鵜峠・猪目、更に河下(かわしも)と日本海沿いを行く現在の県道と同じ道筋であろう。 小境(こざかい)は一畑薬師のある現在の出雲市小境町で、今の斐川一畑大社線は更に斐川(ひかわ)まで延伸されている格好だ。
 
 ただ、現在の面坂トンネルは新しそうで、改修された形跡がある。文献ではトンネル全長を118mとしていたが、現在の物は延長130mのようだ。竣工も1995年3月と比較的新しい。県道日御碕河下小境線が通じていたのは、もっと古い時代であろう。

   
  
  
鵜峠集落 
   

<鵜峠集落へ>
 面坂峠が鷺浦と鵜峠(うど)との境となり、面坂トンネルを抜けると県道は鵜峠集落へと下って行く。トンネル近くは改修工事のお陰もあってか良い道なのだが、集落が近付くと途端に狭くなる。人家の軒先をかすめるようにして道が通じる。小さな漁村の常である。

   

鵜峠集落内 (撮影 2017. 5.20)

鵜峠集落内 (撮影 2017. 5.20)
   

<鵜峠>
 「鵜峠」(うど)という名は面白い。「峠」という文字が付く。ただ、由来などは分からない。「宇道」とか「宇峠」とも書いたようだ。 「風土記」には「宇太保浜(うだほはま)」とあるとのこと。必ずしも峠(とうげ)に関係する地名ではなく、当て字であろうか。 余談だが、同じ鵜峠と書いて「うのたお」と読む峠がある。こちらは正真正銘、峠である。

   
鵜峠集落内の様子 (撮影 2017. 5.20)
とにかく狭い
   

<鵜峠浦>
 中世の出雲大社領を総称して杵築(きづき)大社領十二郷七浦(しちうら)と呼ばれるそうだが、鷺浦と同様、宇峠浦(うどうら)はその杵築七浦の一つであったそうだ。 鷺と宇峠とは小さな峠を挟んでお隣同士だが、天文16年(1547年)頃から地下人らが境界論争を繰り返し、それは近世にまで及んだそうだ。 天正19年(1591年)、毛利輝元は杵築大社領十二郷七浦の内5浦を没収し、鵜峠浦はその中に含まれた。一方、鷺浦は社領として残されたようだ。 江戸期から明治22年に掛けては鵜峠浦という村があった。
 
<大字鵜峠>
 明治22年からは前述のように鷺浦と鵜峠浦が合併して鵜鷺村(うさぎむら)ができ、鵜峠浦は大字鵜峠となったようだ。この時に「浦」が取れたのだろうか。
 
<バスの便>
 昭和24年に鷺浦に村営バスが通じたそうだが、同時に鵜峠にもバスの便が届いたのではないだろうか。 文献にはが杵築(きづき)から旧平田市猪目町を経て鵜峠までバスの便があるとしている。杵築とは旧大社町市街の地名になる。 バスは出雲大社より猪目峠を越え、まず猪目に下り、続いて鵜峠・鷺浦と至ったことになるか。どちらにしろ、バス運行前(1949年以前)には鵜峠・鷺浦間を直接結ぶ初代の面坂トンネルは開通していたのだろう。
 
 鵜峠は昭和26年からは大社町の大字。同年の世帯94、人口245とのこと。鷺浦に比べると集落の規模はやや小さく、2/3程度になる。

   

大宮神社前付近 (撮影 2017. 5.20)
地図にはこの付近に鵜峠バス停があるのだが見当たらない

鵜峠港へ (撮影 2017. 5.20)
前方に港が見えて来た
   

<鵜峠港>
 鷺浦港が奥深い湾に面した自然の良港であったのに対し、鵜峠港は外海に近い。 大きくは十六島(うっぷるい)湾の西端に位置するのだろうが、荒波を防いでくれるような深い湾とはなっていない。港はコンクリートの防波堤で囲んだ小さな入り江となっている。港としての規模も小さいようだ。

   
鵜峠港 (撮影 2017. 5.20)
   

左手の建物沿いにバス停が立つ (撮影 2017. 5.20)

<バス停(余談)>
 鵜峠集落に鵜峠バス停がないのはどうも不審だと、ドラレコ(ドライブレコーダー)の動画を何度も見直してやっとバス停を見付けた。 鵜峠港の小さな船着き場も過ぎ、やや大き目な漁港関係らしい建物沿いに、バスの時間表の札だけ掛けられたバス停が立っている。それが鵜峠バス停のようだ。
 
 現在、どのようなバス路線が通じているか詳しくは調べていないが、出雲大社のある大社町市街と鷺浦・鵜峠・猪目の集落を繋いだバスの運行は、まだ存続しているらしい。峠道や集落内の細い道を、よく大きなバスが通れるものだと感心する。

   

<海岸沿い>
 鵜峠港を過ぎると山と海に挟まれた海岸沿いになり、人家は少なくなる。何だか見覚えのあるマークが見えて来た。 以前のガソリンスタンドJOMOの跡地のようだ。車に乗り始めた頃からずっとこの会社のスタンドを利用していた。今はENEOSになっている。JOMO時代のマークは久しぶりで懐かしい。


かつてのJOMOのマーク (撮影 2017. 5.20)
   

鵜峠の海岸沿い (撮影 2017. 5.20)
左手奥が鵜峠港

<海岸の眺め>
 鵜峠の護岸からは十六島(うっぷるい)湾沿いの海岸線が見渡せる。対岸の半島の上部に風力発電の風車が立ち並ぶ。

   
十六島湾を望む (撮影 2017. 5.20)
   

鵜峠から猪目に至る海岸沿い (撮影 2017. 5.20)
岩盤を貫く覆道が見える

鵜峠から猪目に至る海岸沿い (撮影 2017. 5.20)
右手奥が鵜峠鉱山方面
   

<鵜峠鉱山>
 鵜峠の中心から少し離れてまた人家が僅かに集まる。その中を細い道が山の中へと登って行く。入口付近に立つバス停は「鉱山口」といった。 道の奥の竜山(312m)の東麓近辺にかつて鵜峠鉱山があったそうだ。慶応4年(1868年、明治元年)より開発され、明治10年代が最盛期となり、3,000人もの従業員が働いていたという。 極めて質の良い銅を産出し、硫化鉄鉱(黒鉱)やセメント用の石膏も採れたそうだ。鵜峠港は石膏の搬出港として一時賑わったらしい。
 
 鉱山入口付近の人家は少なく、ここに3,000人もの人口は収容できない。多分、山中に大きな鉱山集落が存在したのだろう。 今でも本谷川という川沿いに道が通じ、1km程奥に入った所に開けた谷間があるようだ。


鵜峠鉱山への入口 (撮影 2017. 5.20)
右手に細い道が分かれる
   

覆道から越目隧道へ (撮影 2017. 5.20)

<越目隧道>
 鵜峠から猪目には険しい崖沿いの道を行く。途中、岩盤を切り開いた覆道やトンネルを幾つか通る。
 
 鵜峠鉱山の道を分けてから最初に入る覆道は、それに続いてトンネルとなる。名は越目隧道といったようだ。 「猪目に越えるトンネル」とでもいう意味だろうか。このトンネルが出雲市大社町鵜峠と同市猪目町との境となる。かつての大社(たいしゃまち)町と平田市の市町境でもあった。

   
   
   
猪目へ 
   

 猪目側に入っても海岸沿いの険しい道が続く。頑丈そうなコンクリート護岸に守られたコンクリート舗装の狭い道が続く。鵜峠と猪目はその集落間は1km足らずと近い間柄だ。 しかし、この陸路の険しさが両集落をを隔てている。かつては船でなければ容易に行き来はできなかったのではないだろうか。それも、荒天時には交通が途絶したことだろう。
 
<猪目洞窟>
 険しい道の割には路肩に車が何台か停まり、数人の男性が車道を歩いている。釣り人だろうかと思ったら、肩に担いでいるのは釣り竿ではなく、カメラの三脚だった。 どこかにいい撮影スポットがあるのだろうかなどと思っていたら、猪目洞窟を通り過ぎていた。後でドラレコ(ドライブレコーダー)を確認したら、しっかり看板が立っていた。 猪目洞窟は海側の岩礁などに開いているのかと思って海の方ばかり気にしていたら、県道より山側にあったのだった。

   
右に猪目洞窟 (撮影 2017. 5.20)
ドラレコには看板がしっかり写っていた
   

<猪目洞窟(余談)>
 古くは「黄泉之穴」(よみのあな)と呼ばれたそうだ。「黄泉」(よみ)とは死者が行く世界を表し、簡単に言えば「あの世」のことである。 私が子供の頃は時折耳にした言葉だが、最近ではほとんど使われない。そこで自分自身が時折口にしてみるのだが、妻は全く相手にしてくれないのであった。
 
 猪目洞窟は深く、中で長く下って傾斜していて、そこを「黄泉之坂」と呼ぶ。この洞窟の辺りに行った夢を見ると、その人は必ず死ぬと言い伝わるそうだ。海食を受けてできた洞穴の不気味さが、この他にもいろいろな神話や言い伝えを残したらしい。
 
 地形図で「猪目洞窟遺物包含層」と記しているように、この洞窟から弥生時代前期(一部に縄文時代も)から古墳時代後期に至る人骨や副葬品などが出土している。 昭和23年の漁港修築で舟の格納所の工事を行った際、偶然発見された遺跡とのこと。これにより「風土記」に見られる「黄泉之穴」と比定された。 現在、穴の入口はやや崩れ、古く「黄泉之穴」と呼ばれた頃とは異なるようだ。ただ、舟の格納所としては現在も使われているらしい。尚、「出土品は大社町公民館の収蔵庫に収められ、展示されている」と文献にあった。


県道23号を鵜峠方向に見る (撮影 2017. 5.20)
左手が猪目洞窟
(後部に付けたドラレコ画像より)
   

<猪目浦>
 猪目はやはり杵築大社領十二郷七浦の一つで、古くは「井呑浦」(いのめうら)と書いたそうだ。「風土記」に井呑浜(いのみのはま)とも見えるらしい。「猪目浦」は江戸期からの村名でもあり、「猪目村」とも言ったそうだ。
 
<猪目>
 明治22年に猪目浦(村)は河下(かわしも)村・別所村・唐川(からかわ)村と合併し、鰐淵村(わにぶちむら、「がくえん」とも)の大字猪目となる。 はじめ楯縫郡(たてぬいぐん)、明治29年からは簸川郡(ひかわぐん)に所属。昭和26年からは平田町の大字(鰐淵地区猪目)になり、昭和30年には平田市の猪目町(いのめちょう)となる。昭和36年の猪目町の世帯73とのこと。
 
<猪目港>
 猪目の湾は鵜峠より大きそうだが、港としての規模は極めて小さい。湾の西端にある猪目洞窟に続く岸辺が船着き場となるようだが、船などはほとんど見られなかった。湾の奥はほとんどが砂浜になっていて、海水浴場として使われるようだ。

   
猪目の湾を望む (撮影 2017. 5.20)
右手奥に猪目海水浴場となる砂浜がある
正面に洞窟が見えるが、始めそれが猪目洞窟かと思った
   

<猪目集落へ>
 県道は砂浜の奥を回り込む。沿道にポツポツと猪目集落の建物が出て来る。

   
猪目集落へ (撮影 2017. 5.20)
左手奥は砂浜

   
   
   
猪目峠へ 
   

峠道起点 (撮影 2017. 5.20)
直進が猪目峠へ
左は河下へ、手前は鵜峠方面

<峠道起点>
 ここからやっと猪目峠の話となる。砂浜の奥で、道はそのまま猪目川を渡って真っ直ぐ南に進む。県道はその手前を東の河下方面へと曲がって行く。この分岐が猪目峠を越える峠道の起点となる。
 
 何となく寂しい分岐だが、看板は充実している。「出雲大社」と指す方向が猪目峠を越える道である。

   

分岐を鵜峠方面に見る (撮影 2017. 5.20)

分岐の看板 (撮影 2017. 5.20)
   

分岐の様子 (撮影 2017. 5.20)

分岐の看板 (撮影 2017. 5.20)
   

<河下方面への県道(余談)>
 この時は河下町方面に向かう県道に「大型車通行止」の看板が立っていた。「河下町〜猪目町にて 路肩崩落につき 当分の間」とあった。
 
 1995年元旦、その県道を河下町方面から猪目へとジムニーを走らせていた(下の写真)。道沿いの崖は高くそそり立ち、如何にも険しい様相である。 台風などの荒天時には、波に呑まれるではないかと思われるような道だ。世の中は新年を祝っている頃だろうが、真冬の日本海の荒海に面した道は、人っ子一人居ない寂しさである。 一人、孤独を満喫するのであったが、この後、出雲大社で人の波に呑まれるとは、つゆとも想像しなかった。


分岐より県道を河下方面に見る (撮影 2017. 5.20)
左手に「大型車通行止」の看板が立つ
   
多分、河下から猪目に向かう途中 (撮影1995. 1. 1)
断崖沿いの険しい道が続く
   

<猪目川を渡る>
 猪目峠への道は、県道23号と分かれると直ぐに猪目川を渡る。橋の袂に工事看板が立っていた。しかし、工事期間は書き変えられ、「解除中」ともあって、どうにか無事に通れそうだ。

   

猪目川を渡る (撮影 2017. 5.20)
工事看板が立つ
 
この先 鷺浦宮内線
5月25日より工事中につき
車両通行止 5/26まで
車両の通り抜けは出来ません

  

工事看板 (撮影 2017. 5.20)
   

<鷺浦宮内線>
 工事看板には道路名に「鷺浦宮内線」と手書きされていた。この場合の宮内とは、大社町杵築東(たいしゃちょうきづきひがし)内の宮内(みやうち)であろう。宮内はその名の通り出雲大社がある地で、猪目峠の大社町側起点ともなる。
 
 鷺浦から鷺峠・猪目峠を越えて宮内に通じる道は、元は県道23号・斐川一畑大社線であった。それが高尾トンネル開通により大きくコースを変えてしまった。そこで、残った旧道部分を「鷺浦宮内線」と呼ぶことになったのではないだろうか。多分、出雲市の市道であろう。
 
 尚、これで猪目峠から先は鷺浦宮内線であることが判明したが、この猪目集落から峠までの路線名は不明である(出雲大社猪目うど線?、後述)。

   

<猪目集落内を行く>
 道は猪目川沿いに峠を目指す。猪目の人家は湾岸沿いよりも、湾に注ぐこの猪目川に沿って細長く点在する。相変わらず集落内の道は狭い。道路地図には現れない細かな屈曲も多い。所々で空地が目に留まる。人家を取り壊した跡のようであった。過疎化は止めようがないのだろう。

   

猪目集落内 (撮影 2017. 5.20)
所々に空地も目立つ

猪目集落内 (撮影 2017. 5.20)
屈曲が多い
   

<猪目本町バス停>
 集落内を100m程進むとバス停があった。「猪目本町」(いのめほんまち)とある。バス停の中に掛けられた時計は正確な時間を指していた。少ないバスの便を待つかのようだ。
 
 猪目は昭和30年に平田市の一部となり、「猪目町」(いのめちょう)と呼ばれるようになったが、古くからの「猪目浦」の名がふさわしいような日本海に面した小さな寒村と言えそうだ。 交通は不便で、同じ旧平田市の市街に出るにも、今回大型車通行止であった県道23号を険しい海岸沿いに行かねばならない。 その道路状況は良くなく、荒天時には通行が困難となることもあったろう。ただ、大社方面から鷺浦・鵜峠へとバス路線が通じた折り、この猪目までもバスの便が来ていたようだ。 旧平田市にありながら、平田市街よりも、峠を越えて旧大社町へと出る方が容易だったのかもしれない。


猪目本町バス停を過ぎる (撮影 2017. 5.20)
   
猪目本町バス停の様子 (撮影 2017. 5.20)
2種類のバス停が立つ
   
バス停の先で左岸へ渡る (撮影 2017. 5.20)
   

橋上より猪目川を望む (撮影 2017. 5.20)
カジカの住む川である

 猪目漁港は規模が小さく、猪目川沿いの谷間に耕地も少ない。文献によると就労者の52%が第2次産業人口で、その大部分が市内に勤務しているとのこと。 毎日猪目峠を越えて大社町市街へと通勤する方も多いのだろう。そうした意味でも、猪目峠は猪目集落の住民にとって重要な生活路の一つになる。
 
 現在は高尾トンネルで北山山脈を越える快適な2車線路が通じているが、それでも猪目峠は最寄りの市街地に出る最短路である。 わざわざ高尾トンネルを迂回する者は居ないのではないだろうか。また、沿岸を行く県道23号は海が荒れた時などは危険である。 その点、道は狭くとも、猪目峠越えは猪目集落より直接山中を登って行く。ただ、冬期の積雪などはどうであろうか。

   

集落内の様子 (撮影 2017. 5.20)

集落内の様子 (撮影 2017. 5.20)
   
集落内の様子 (撮影 2017. 5.20)
   

道はここで鋭く右折する (撮影 2017. 5.20)
直進方向は猪目川を右岸に渡って大歳神社へ

 道は暫く猪目集落内を進む。意外と長く、人家は猪目川の奥まで点在していた。
 
 途中、直角に右折し、それ以降はほぼ猪目川の右岸にぴったり沿う。

   

<猪目交流センター付近>
 猪目集落内の2つ目のバス停が立っていた。名前は「猪目交流センター前」というらしい。何故か猪目では2種類のバス停が並んで立っている。大社町方面とは別に、旧平田市街方面からもバスの便があるのだろうか。
 
 バス停とは丁度反対側の猪目川右岸に建物が見える。林越しではっきりしないが、大歳神社と出雲市猪目交流センターのようだ。 交流センターの方は以前の鰐淵(わにぶち)小学校猪目分校の跡地に立っているらしい。猪目川を渡る橋の先には、かつての校庭と思われる敷地が広がる。 「朝のあいさつ」云々と書かれた標柱も残る。


猪目交流センター前のバス停付近 (撮影 2017. 5.20)
この先の右手の木陰の下にバス停が立つ
   

大歳神社(左)と交流センター(右) (撮影 2017. 5.20)

交流センターへ渡る橋 (撮影 2017. 5.20)
   

 猪目集落は猪目川沿いに500m程続いた。猪目洞窟遺からは稲もみなども出土していて、この地には古くから人が住み着いていたことが分かる。人の営々とした暮らしが今の猪目集落に至っているのだろう。
 
 集落の南端になってやっと僅かばかりの田畑が耕されていた。その先、猪目川の谷は一時狭くなり、沿道から人家が消える。

   

もう直ぐ集落が尽きる (撮影 2017. 5.20)

集落の南端 (撮影 2017. 5.20)
沿道に畑
   
   
   
猪目集落以降 
   

<集落以降>
 集落より上流部では、支流の川が注ぐ付近にやや広い平坦地があり、そこに畑が切り開かれていた。

   
沿道に畑が広がる (撮影 2017. 5.20)
   

これ以降、畑は見られない (撮影 2017. 5.20)

<猪目川中流部>
 左手(東)に一本、支流沿いの道を分けると、それより上流部には畑などの耕地はほとんど見られなくなる。猪目川に沿った狭い谷が続く。
 
 工事看板が立っていた。峠道の入口にあった物と同一である。鷺浦宮内線の車両通行止を告げていた。

   

また工事看板が立つ (撮影 2017. 5.20)

工事看板 (撮影 2017. 5.20)
   

<沿道の様子>
 道の両側を林が囲い、視界は全く広がらない。道の左手直ぐに猪目川が流れている筈だが、気配も感じられない。沿道に見るべき人工物もなく、僅かに廃屋を一軒見掛けただけだ。

   

沿道の様子 (撮影 2017. 5.20)
廃屋が一軒

沿道の様子 (撮影 2017. 5.20)
   

<カジカの里>
 猪目集落から峠までの半分の距離(約2km)を過ぎた辺り、路肩が広くなっていた。見ると、その片隅に看板が立っている。「カジカの里 猪目町 猪目川のカジカを守ろう」とあった。川面は全然望めないが、やはり近くに猪目川は流れているらしい。


右手に「カジカの里」の看板 (撮影 2017. 5.20)
猪目集落方向に見る
   

カジカの里の看板が立つ (撮影 2017. 5.20)

「カジカの里 猪目町」の看板 (撮影 2017. 5.20)
「猪目川のカジカを守ろう」
   

猪目川左岸へ (撮影 2017. 5.20)

<左岸へ>
 「カジカの里」の看板を過ぎると、間もなく小さな橋を渡って猪目川左岸へと移る。相変わらず川の様子はうかがえない。
 
 その後、道は再び右岸へと戻っているようだが、その先は地形図でも川筋は描かれていない。猪目川も最上流部である。

   
   
   
大社町へ 
   

<猪目川起点>
 すると、「猪目川 起点」と書かれた看板が左手に立っていた。「道の起点」とか「川の源流」というのは時折あるが、「川の起点」という看板は珍しいと思う。 地形的には峠方向に向かってまだ傾斜が続き、本来の川の源流部はまだこの先にある。この「川の起点」から急に流れが始まっている訳ではない。

   

猪目川起点の看板が立つ (撮影 2017. 5.20)

猪目川起点の看板 (撮影 2017. 5.20)
   

<2つの源流>
 一つには、この川の起点より上流部は、大きく2つの川に分かれる。峠方向から下る流れと、それより東の北山山脈稜線を水源とする流れで、その2つが猪目川の主な源流となる。 峠の方が流れ具合から本流に思えるが、どちらにしろ、その2つの流れを合した以降を猪目川と呼ぶらしい。その意味では確かにここが猪目川の起点である。
 
<大社町杵築東との境>
 「猪目川 起点」の直ぐ先に、まだ峠でもないのに、「大社町」と看板が出て来る。 古い看板であることを考慮すると、これは出雲市になる前の旧大社町(たいしゃまち)のことを指すようだ。 ここは以前の平田市と大社町との市町境、現在では出雲市の猪目町と大社町杵築東(たいしゃちょうきづきひがし)との境となる。

   
大社町杵築東との境 (撮影 2017. 5.20)
正面に「大社町」の看板
右手には「シカ飛び出し注意」の看板
   

「大社町」の看板が立つ (撮影 2017. 5.20)
「落石注意」、「倒木注意」ともある

「大社町」の看板など (撮影 2017. 5.20)
   

<複雑な境界>
 猪目峠に関しては、行政区画の境が複雑である。峠が位置する北山山脈の主稜を境とはせず、山脈をやや北に下った「猪目川 起点」に境界線が通っている。 しかも、峠から下る猪目川支流の右岸が大社町杵築東で、左岸は大社町鵜峠となるようだ。よって、この先道は杵築東と鵜峠との境に沿って登ることとなる。
 
<猪目川水系>
 猪目川と呼ぶからには猪目の地に流れているべきだ。 「猪目川 起点」から上流側は猪目ではないので、その意味でも「猪目川 起点」がこの大社町杵築東と猪目町との境にあるのはうなずける。 しかし、猪目川水系を考えた場合は、ここから峠方向の杵築東や鵜峠の地も含まれることになるのだろう。人間の都合で境界線を引いても、水の流れは自然のままである。

   

<道の様子>
 大社町側に入ってからも、特に道の様子は変わらない。ゆったりした1.5車線幅という感じだ。 それに所々路肩を広げた待避所が設けられていて、万が一大型車と遭遇しても、どうにか離合できそうだ。 そもそも交通量は極めて少なく、今回も峠に辿り着くまで一台の対向車ともすれ違わなかった。

   

道の様子 (撮影 2017. 5.20)

道の様子 (撮影 2017. 5.20)
   

<支流沿い>
 道は峠より流れ下る猪目川支流沿いに遡る。谷はほとんど直線的で道の屈曲も少ない。相変わらず林に囲まれて視界がなく、やはり峠道としての面白さには欠ける。 大社町側に入って間もなく右岸沿いになり、峠の数100m手前で左岸沿いになってから、道が少し蛇行する。ここでは杵築東と鵜峠との間を行ったり来たりしているのだろう。

   
   
   
 
   

この先が峠 (撮影 2017. 5.20)
奥が大社町杵築東へ、手前が猪目町方面

<峠の様子>
 猪目峠は三叉路になっている。大社町杵築東と猪目町を結ぶ峠であると同時に、峠から大社町鷺浦方面へと通じる道の分岐点となる。鷺浦への道はまずは鷺峠へ向けての登り坂だ。その道の方向では峠は大社町杵築東と大社町鵜峠との境となる。

   
猪目峠 (撮影 2017. 5.20)
手前は大社町杵築東方面へ
左は大社町鵜峠、右は猪目町方面へ
   

<道標>
 出雲大社側より峠道を登って来ると、ここで左の鷺浦と右の猪目とに道が分かれることになる。その分かれ目に一体の石像が立つ。 よく見ると、合掌した仏の左に「左 さき(ぎ?) うと(ど?)」、右に「右 いのめ」と刻まれているようだ。左を行けば鷺・鵜峠、右は猪目に至ることを示した道標となっている。 建立年などははっきりしないが、江戸期くらいからあった物だろうか。
 
 中世、鷺浦や宇峠浦(うどうら)、井呑浦(いのめうら)は杵築大社領十二郷七浦に含まれ、出雲(杵築)大社との結び付きは強い。 古くから大社とそれらの浦との往来にこの峠が使われたのかもしれない。 鵜峠浦と猪目浦は毛利輝元に没収され、江戸期は松江藩領となったが、鷺浦はそのまま大社領として残っている(後、鵜峠浦は松江藩より大社に寄進される)。峠を越えた往来は続いたことだろう。

   

分岐に立つ道標を兼ねた石像 (撮影 2017. 5.20)
「左 さき うと」、「右 いのめ」とあるようだ

道標を兼ねた石像 (撮影 2017. 5.20)
   

<現在の峠>
 明治4年、出雲大社神領は島根県管轄となる。現在は鷺浦・鵜峠・猪目の各浦と出雲大社とは直接の繋がりはないのかもしれない。峠はもっぱら日本海沿岸に位置する各集落の生活路としての役目を担うばかりであろう。
 
 峠に車道が開通した時期などははっきりしないが、文献には僅かに「明治24年から県費補助で鷺浦・杵築間の道路改修工事に着手」とある。 大社・鵜鷺村間に村営バスが開通するのは、ずっと下って昭和24年であった。今しも幌を掛けた軽トラックが出雲大社側から登って来て、猪目方向へと下って行った。何か生活物資を運んでいるのだろう。
 
<案内看板>
 古い道標の背後に鷺浦・鵜峠・猪目周辺の案内看板が立っている。下の方に、左は鷺浦、右は猪目・鵜峠とある。かつて鵜峠へは左の道を行ったが、今は右を案内している。 確かに距離的には猪目〜鵜峠間の方が近い。しかし、道は険しい岩礁伝いである。昔は鷺浦を経由し、面坂峠を越えて鵜峠に至っていたのだろうか。

   

案内看板が立つ (撮影 2017. 5.20)
現在は、左が鷺浦、右が猪目・鵜峠

案内看板 (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

大型車通行止の看板 (撮影 2017. 5.20)

<通行止看板(余談)>
 ここにも河下町〜猪目町間の大型車通行止を示す看板が立っていた。猪目町の県道23号沿いにあった物と同じだ。遥々河下までこの猪目峠を越える経路を使う者が居るのだろうか。しかし、旅としてはあの荒涼とした日本海沿いの道をもう一度走ってみたい気はする。
 
 
<北山山脈>
 峠は北山山脈(山地、単に北山とも)の内、弥山(みせん、506m)から北西の坪背山(371m)へと続く稜線上の最も低い鞍部に位置する。標高は約260m。
 
 北山山脈は展望に優れ、北山縦走コースは登山者がしばしば訪れるそうだ。この峠からも稜線方向に登山道が延びる。まず、東の弥山への登山口がある。

   
峠の分岐より出雲大社方向を見る (撮影 2017. 5.20)
左手に弥山への登山口がある
   

<弥山登山口>
 登山道入口には標柱が並ぶ。

   

弥山登山口の様子 (撮影 2017. 5.20)
幾つかの標柱が立つ

弥山登山口 (撮影 2017. 5.20)
   

<峠の標柱>
 一つには「弥山 尾根コース 登山口 所要時間1時間半」とある。登山案内がこうしてしっかりした石柱に刻まれているのも珍しい。 その横には「猪目峠」の標柱が立つ。峠に峠名をはっきり示した標柱があるのは嬉しいことだ。ただ、どちらも見た目に新しそうで、比較的最近建てられ石柱のようだ。
 
 また、少し離れ「軍用機事故戦没者慰霊之碑 これより東へ八百米」と刻んだ標柱も立つ。多分、北山山脈のどこかに墜落したのだろう。

   

弥山への登山口に立つ標柱 (撮影 2017. 5.20)
「猪目峠」と「弥山尾根コース登山口」の標柱

慰霊之碑の標柱 (撮影 2017. 5.20)
   

<ニホンジカ>
 北山山脈にはニホンジカが生息するそうだ。「鳥獣保護区」とか「特定猟具使用禁止区域(銃)」などといった看板が峠の周囲に立つ。 その一方で銃や罠でシカの捕獲を行っているらしい。その「お知らせ」の看板が弥山登山口の近くに立つ。保護した結果、増え過ぎて農作物などへの被害が問題になっているようだ。
 
 看板では場所を「出雲北山山地全域 (日御碕から弥山〜鼻高山〜旅伏山を含む区域)」とある。ここでは「山脈」ではなく「山地」としていた。この山地では中央部の鼻高山(536m)が最高峰となる。


シカ捕獲のお知らせ (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
峠の鵜峠側 
   

<峠の鵜峠側>
 峠から鷺浦方面は、一旦鵜峠の地を通る。ただ道の行先はあくまでも鷺浦なので、鷺浦にある「夢の森うさぎ」の案内看板が道路上に掲げられている。ここにもウサギのイラストが描かれているのだが、繰り返すが、この森林公園に動物のウサギは居ないようだ。

   
分岐を鵜峠方向に見る (撮影 2017. 5.20)
奥に「夢の森うさぎ」の看板が立つ
   

<2車線路>
 峠から鵜峠側は、何とセンターラインがある2車線路になっている。峠から出雲大社までの道でさえも狭い道なのに、峠から鷺峠までは全線が2車線路でないにしても、それなりに広い道になっている。

   
鵜峠側(鷺浦方面)から峠を見る (撮影 2017. 5.20)
センターラインがある
   

<坪背山登山口>
 2車線路の路傍に立つ電話ボックスの横から、西の坪背山へと登山道が始まっている。その足元には境界標となるコンクリート杭が傾いて埋まっているが、大社町杵築東と大社町鵜峠の境を示す物だろう。
 
 坪背山登山口を示す看板とは別に、「坪背山(371m)⇔鷺峠 1.2km」と看板があった。ここは鷺峠ではないのにと思うと、「500m北の峠より縦走路あり」ともあった。一旦、車道で鷺峠まで行くと、そこから縦走路が始まっているようだ。
 
 この峠には北山山脈の稜線が通り、登山口もあるのだが、残念ながら峠付近に車を何台も停めるられるようなスペースはない。北山登山には鷺峠に車を停めることとなるのだろうか。


坪背山登山口 (撮影 2017. 5.20)
   

「坪背山登山口」の看板など (撮影 2017. 5.20)

坪背山への縦走路の案内 (撮影 2017. 5.20)
   

縦走路図 (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<縦走路図>
 「坪背山登山口」の案内看板の後ろに、猪目峠・さぎ峠から西に延びる出雲北山縦走路の詳細図が出ている。しかし、風雨で傷んでいて、読めない部分も多い。
 
 こちらは縦走路より、それに直行する峠道に関心がある。猪目峠(現在地)を起点に3方向に分かれる道の名は、以下のようにあったようだ(一部不確か)。
 ・峠〜大社:出雲大社宮内線
 ・峠〜鷺浦:出雲大社さぎ浦線
 ・峠〜猪目:出雲大社猪目うど線(?)
 
 鷺(さぎ)や鵜峠(うど)は難しい漢字なので、ひらがなにしているようだ。 猪目町に立っていた工事看板では手書きで「鷺浦宮内線」とあったが、ここでは出雲大社さぎ浦線と出雲大社宮内線に分かれている。 肝心な「出雲大社猪目うど線」ははっきり読めていないのだが、ほぼ間違いないと思う。図中には「出雲市大社町」とあり、高尾トンネルも開通していて、比較的新しい地図である。 尚、県道23号線の高尾トンネル区間は「高尾ゆうゆうライン」と命名されている。全線2車線路は確かに「悠々」である。

   

<電話ボックス>
 今時、電話ボックスとは珍しいと思ったら、
 公衆有線
 NTTの公衆電話ではありません
 大社町独自の有線放送電話です
   大社ご縁ネット

 とある。どのようなシステムか分からないが、緊急時などで使用できるのだろう。
 
<鵜鷺峠>
 気になるのは、そのボックスの上部に「ここは、42 鵜鷺峠 です。」とある。「42 鵜鷺峠」とはこの電話ボックスの番号と名称であろうが、鵜鷺峠とは初耳である。なぜ猪目峠ではないのだろうか。
 
 「大社町独自」とあるのは出雲市になる前の大社町(たいしゃまち)で、多分、旧平田市の猪目町はこの「大社ご縁ネット」に含まれないのだろう。 また、この猪目峠は昭和26年以前は古い大社町(たいしゃちょう)と鵜鷺村(うさぎむら)との境となる。大社町側から見るとここから鵜鷺村に入ることとなる。 厳密には鷺峠の方が標高が高く、道の最高所という意味でここは峠とは表現しがたいが、便宜的に「鵜鷺峠」と呼んだものと思う。 どちらにしろ、「鵜鷺」(うさぎ)という名称は、明治22年に鵜峠と鷺浦が合併してできた造語なので、鵜鷺峠とは古くからある名称ではないと思う。

   

電話ボックス (撮影 2017. 5.20)

「公衆有線」とある (撮影 2017. 5.20)
上に「ここは、42 鵜鷺峠 です。」とある
   

<猪目峠茶屋跡>
 電話ボックスの右隣には、「夢の森うさぎ」の看板を支える鉄柱が立っている。そこに「猪目峠 茶屋跡」と書かれた木の札が掛けられていた。 広い2車線路の開通で、その付近に茶屋が立っていたような敷地はもう見られないが、峠を往来する人々の為にかつてここに茶屋があったようだ。
 
 車社会になって移動時間が短縮されてからは、茶屋の必要性はなくなったが、歩いて峠を越えていた時代、休憩や避難所的な役割を担っていたのだろう。 ここに車道が開通する前の茶屋が営まれていた頃、猪目峠はどのようであったろうかと思う。 現在のこの峠道を車で走る上では、それ程面白みがある訳ではないが、こうした歴史を刻んだ峠であることを思うと、どこか味わいがあるように感じる。


茶屋跡の看板 (撮影 2017. 5.20)
   
   
   
鷺峠へ 
   

<鷺峠へ寄り道>
 猪目峠から鷺峠は近い(道程で500m〜600m)ので、ちょっと寄り道することとした。道は猪目峠から鷺峠へとずっと登りとなる。 住所は大社町鵜峠であるが、水系は猪目川水系に入るようだ。地形は比較的穏やかで、その為か、道の大半がセンターラインもある2車線路となる。

   

鷺峠までの道の様子 (撮影 2017. 5.20)
大半が2車線路

一部に1.5車線があるが (撮影 2017. 5.20)
   

さぎ峠茶屋跡の標柱が立つ道 (撮影 2017. 5.20)

<さぎ峠茶屋跡>
 鷺峠までの半分を過ぎた辺り、道が鋭くカーブする所に小さな標柱が立っていた。よく見ると「さぎ峠茶屋跡」とある。ここにも茶屋があったようだ。背後に控える北山山脈主稜より、沢水でも流れ落ちてきそうな場所である。近くに水場があったのかもしれない。

   

さぎ峠茶屋跡の標柱 (撮影 2017. 5.20)

さぎ峠茶屋跡の標柱 (撮影 2017. 5.20)
   

<道の様子>
 稜線に近いこともあり、遠望はないが、空が開けた感じで気持ちが良い道だ。猪目峠・鷺峠に関わる道では、この区間だけは快適である。

   
道の様子 (撮影 2017. 5.20)
   

<分岐>
 鷺峠に差し掛かる少し手前、右手に分岐がある。狭い舗装路が延びている。地図ではその先に島根県動物管理センターという建物があるようだ。こんな山中に何をする施設だろうか。シカの捕獲などに関係するのだろうか。

   

右に分岐 (撮影 2017. 5.20)
左に曲がった先は直ぐに鷺峠

分岐の様子 (撮影 2017. 5.20)
   

<石柱>
 単にそのセンターへの道ならそのまま見過ごす分岐だが、何やら分岐の角に立っている。

   

分岐する道 (撮影 2017. 5.20)
左手の角に石柱が並ぶ

道の先 (撮影 2017. 5.20)
   

<島根県>
 コンクリート製の標柱が2基並んで立っていた。手前には単に「島根県」とだけある。やや古そうな標柱だ。鵜峠浦や鷺浦、猪目浦は明治4年に島根県に所属している。その当時の物だろうか。それなら古い。

   

島根県の標柱 (撮影 2017. 5.20)

「島根県」とだけあるようだ (撮影 2017. 5.20)
   

<道標>
 「島根県」の後ろに立つのは、どうやらこの分岐を示す道標である。
 ・左 さぎ (浦?)
 ・備中國川上郡吹谷・・・(後は不明)
 ・右 鵜峠浦

 とあるようだ。
 
 左が鷺峠を越えて鷺浦に至るのはいいが、右に鵜峠浦とはっきり記されている。しかし、現在の道路地図や地形図にも、この地点から海岸沿いの鵜峠へと直接至る道は描かれていない。 それでもこうして道標があるからには、かつて鵜峠へと道が通じていたことと思う。猪目峠では左が「さぎ うど」であったが、ここで更に左に「さぎ」、右に「うど」と分かれたようだ。 ここより鷺峠から続く尾根沿いを北に進み、竜山の東麓に下るとそこは鵜峠鉱山である。鉱山からは本谷川沿いに現在の鉱山口バス停が立つ所まで道が通じる。これがかつての鵜峠浦への道筋だったのだろう。
 
 明治22年に鷺浦と鵜峠浦が合併して鵜鷺村になり、鵜峠浦は大字鵜峠となっている。「鵜峠浦」と呼ばれたのはそれ以前である。この道標は江戸時代頃に建てられた物か。

   

道標 (撮影 2017. 5.20)
「左 さぎ」(浦?)
「備中國川上郡吹谷・・・」
「右 鵜峠浦」

道標 (撮影 2017. 5.20)
   

<備中國>
 不可解なのは、道標の中央に刻まれる「備中國川上郡吹谷・・・」である。ここは出雲国(いずものくに)で、備中国(びっちゅうのくに)とは瀬戸内海側の現在の岡山県に相当する。確かにかつて備中国に川上郡(かわかみぐん)があったようだ。しかし、そことこの道標はどういう繋がりがあるのだろうか。

   
   
   
鷺峠 
   

<鷺峠へ>
 鵜峠への旧道分岐から40m程で鷺峠頂上である。

   

鵜峠旧道分岐から猪目峠方向を見る (撮影 2017. 5.20)

鵜峠旧道分岐から鷺峠を見る (撮影 2017. 5.20)
   

<鷺峠の様子>
 峠は浅い切通しに2車線路がそのまま真っ直ぐ通る。行政区画としては大社町鵜峠と大社町鷺浦との境であるが、実質は出雲大社のある杵築東方面と鷺浦を結ぶ峠である。特に何の看板も立っていない。あっさりした峠だ。

   
鷺峠 (撮影 2017. 5.20)
手前が鵜峠、奥が鷺浦
   

<峠の立地>
 鷺峠は北山山脈の主脈から北の竜山方面に伸びる支脈上の鞍部にあり、主脈からは僅かにそれていそうだ。その為、峠は同じ日本海側の猪目川水系と八千代川水系の境になると思う。ただ、主脈上の猪目峠(約260m)より標高は僅かだが高く、約280mだ。

   
鷺浦側から見る鷺峠 (撮影 2017. 5.20)
   

<峠の鷺浦側>
 峠の頂上より数10m鷺浦側に下ると、道が右カーブするが、その付近の路肩が広く、車が停められる。

   

峠の鷺浦側へ (撮影 2017. 5.20)

峠の鷺浦側 (撮影 2017. 5.20)
広い路肩がある
   

<鷺浦へ下る道>
 ここより新しい県道23号に接続するまでの区間は走ったことがないが、地図上では屈曲の多い道が続いているようだ。路面には「減速」と大書されている。 猪目峠の猪目集落側は、比較的直線的な谷に直線的な道が緩やかに通じていて、峠道としては物足りないくらいだった。 それに比べると、この鷺峠の鷺浦集落側は、遥かに険しそうである。
 
 猪目峠もこの鷺峠も、道を走っている時には対向車に出会わなかったが、しばし峠に佇んでいると、鷺浦集落へと乗用車が一台下って行った。生活路として十分に使われている様子だ。

   

路面に「減速」の文字 (撮影 2017. 5.20)
鷺浦集落方向に見る

鷺浦側の広場 (撮影 2017. 5.20)
峠方向に見る
   

<分岐>
 鷺浦側の路肩の広場より、南西に向かってコンクリート路面の道が分岐する。入口には「無断入山禁止」の看板が立ち、チェーンが張られていて通行止だ。猪目峠で案内されていた、坪背山への出雲北山縦走路ではないかと思うのだが、ここにはそうした案内は見当たらない。
 
 
<看板類>
 猪目峠ではなかなか参考になる看板や道標がいろいろ立っていたが、ここにはゴミ捨て・不法投棄禁止の看板や監視カメラがあるばかりで、残念ながら面白い物は見付からなかった。


分岐する道 (撮影 2017. 5.20)
   
不法投棄監視中のカメラなどが立ち並ぶ (撮影 2017. 5.20)
   
   
   
猪目峠から杵築東方面へ 
   

<杵築東へ>
 鷺峠から猪目峠に引き返し、出雲大社のある大社町杵築東へと下る。「車両通行止」の看板が立っていたが、「解除中」のステッカーが貼ってあった。例の鷺浦宮内線の工事である。
 
 峠から出雲大社まで僅かに3km程の道程だが、猪目町側に比べ地形は険しく、道もやっと峠道らしくなる。一路、素鵞川(そががわ)上流部を目指し、道は屈曲を開始する。

   

道の様子 (撮影 2017. 5.20)

道の様子 (撮影 2017. 5.20)
   

<道の様子>
 道の前半、視界は今一つ広がらないが、暗い感じはなく、空は広い。途中、崩れかけた崖に沿って土嚢のような物が積まれていたが、これが鷺浦宮内線の工事個所だろうか。

   
工事個所だろうか (撮影 2017. 5.20)
土嚢のような物が積まれている
   

<麓の景色>
 下る先は出雲大社の門前町として発達した大社町市街である。その麓の景色が望めないかと期待したが、草木が繁茂し、僅かしか覗かない。 遥か先に大きな山が霞んで見えたが、三瓶山(さんべさん)と思われる。1992年10月に男三瓶山を、今回の旅では猪目峠を降りた後、女三瓶山まで登ってみた。

   
僅かに麓を望む (撮影 2017. 5.20)
右手奥に三瓶山らしい山影が見える
   

左手に空地 (撮影 2017. 5.20)
入口に「ポイ捨て禁止」の看板が立つ

<沿道の様子>
 眺望はなく、何か沿道に見るべき物はないかと探すが、特になし。ちょっとした空地があるだけ。

   

<川沿い>
 1.3km程下ると明らかに川沿いとなる。僅かだが川の流れが望めた。猪目川は気配さえ感じられなかったが、こちらは水面まで見えた。
 
 その川は素鵞川(そががわ)だろうが、素鵞川上流部は大きく猪目峠方向から流れ下る川と、西の坪背山を水源とする川に分かれる。沿道から川らしく見え始めたのは、道が大きく西に迂回し、坪背山方向の川に取り付いた付近からである。


川沿いに降り立つ (撮影 2017. 5.20)
   

川の流れが望めた (撮影 2017. 5.20)

右岸沿い (撮影 2017. 5.20)
   
   
   
素鵞川本流沿い 
   

<素鵞川本流>
 川沿いになると道の屈曲は減るが、代わって視界がない道となる。途中、保安林の看板が立っていた(下の写真)。その図の現在地は既に素鵞川本流沿いと言っていいようだ。 保安林の図は、いつもは川の名前などいろいろ参考になるのだが、ここの図はあっさりしている。細かい記載がほとんどない。ただ、道はこの先、出雲大社と神楽殿の間を通ることが分かる。

   

右手に保安林の看板が立つ (撮影 2017. 5.20)
この付近はもう素鵞川本流沿い

保安林の看板 (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

三歳社 (撮影 2017. 5.20)

<三歳社>
 道は素鵞川右岸に沿う。すると、川の方に何やら建物が見える。大社造りの屋根が特徴的だ。後で分かったことだが、三歳社(みとせのやしろ)というようだ。

   

<土石流危険渓流>
 路肩に土石流危険渓流などの素鵞川に関する看板が立っていた。「土石流危険渓流」の方は曲がっていて読めなかった。
 
 それにしても「土石流危険渓流」の看板はこの周辺でよく見掛ける。八千代川然り、本谷川(鵜峠鉱山の川)然り。


左手に素鵞川の看板 (撮影 2017. 5.20)
   

土石流危険渓流の看板 (撮影 2017. 5.20)

砂防指定地の看板 (撮影 2017. 5.20)
「素鵞川」とある
   

砂防指定地の看板 (撮影 2017. 5.20)
地図は右がほぼ北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<砂防指定地の看板>
 砂防指定地の看板は、文字が薄くて一部不鮮明。素鵞川の起点はよく分からないが、終点は「吉野川合流」と読める。出雲大社の南端になる。
 
 
<素鵞川左岸へ>
 三歳社も出て来て、もう麓が近いことがうかがえる。道は素鵞川を左岸へと渡る。その手前にはホタルに関した案内看板があった。出雲大社境内・素鵞川・吉野川には、ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルが生息しているとのこと。

   

この先で素鵞川を左岸へ渡る (撮影 2017. 5.20)

橋の手前にホタルの看板 (撮影 2017. 5.20)
   
「ホテルの生息地」の看板 (撮影 2017. 5.20)
   
   
   
素鵞川左岸 
   

素鵞川左岸を三歳社に至る道 (撮影 2017. 5.20)

<三歳社に至る道>
 橋を渡ると、左岸沿いに遡り、三歳社に至る道が分かれる。木陰の下を素鵞川の川面を眺めながら散策できる小径だ。川底は平石が敷き詰められ、そこを清らかそうな水が流れ下る。 ここは出雲大社の中でも最も奥まった所で、訪れる者は少ない。夏の夕暮れ時に散策すると、ホタルの明かりが見られるのかもしれない。

   

<出雲大社関係の建物>
 三歳社への道の入口には、「福迎の社 ご案内」という看板が立つ。「福迎」とは「ふくじかえ」と読むようである。三歳社の説明と、この付近の様子が描かれている。
 
 その看板の絵図にもあるように、道が左岸沿いになると、出雲大社関係の建物や駐車場などが沿道に並びだす。右手に流れる素鵞川とに挟まれ、道は狭い。待避場所も皆無だ。


「福迎の社ご案内」の看板 (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

大社関係の建物が並びだす (撮影 2017. 5.20)

右手に素鵞川が流れる (撮影 2017. 5.20)
   

<奥谷川(余談)>
 途中、砂防指定地の看板が立つ。素鵞川の小さな支流である奥谷川に関するものだ。上流部に砂防堰堤が築かれているらしい。出雲大社本殿の裏手に当たる。 出雲大社は北山山脈の南麓に立地し、背後に険しい山を控えている。尚、素鵞川本流の行先は「至 堀川」(ほりかわ)となっているが、途中に吉野川を挟む筈だ。

   
左手に奥谷川関係の看板が2つ並ぶ (撮影 2017. 5.20)
その先、小さな橋で奥谷川を渡る
手前には何やら大きな石が立つ
   

砂防指定地の看板 (撮影 2017. 5.20)

「砂防指定地 奥谷川」 (撮影 2017. 5.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<八雲の瀧(余談)>
 奥谷川入口の近くに大きな石が立っているので、何かの石碑だろうと思い、写真に撮って置いたが、後でよく見ると道標になっている。 「右 八雲の瀧」とあった。その石の脇より奥谷川右岸沿いに細い道が遡る。その「八雲の瀧」は奥山川に架かる滝であろう。砂防堰堤よりも奥にあるのだろうか。 出雲大社の真後ろに八雲山(175m)という山がある。奥谷川はそこを源流としている。瀧の命名もその八雲山に関わるのだろう。
 
 
<出雲大社境内へ>
 道は、左手の出雲大社の本殿がある敷地と右手の素鵞川とに挟まれた狭い舗装路となる。本殿側は柵や石垣、並木に囲われ人の出入りも許されない。 右手はガードレールもなく、直ぐ素鵞川の護岸だ。その内、対岸に大きな建物が見えて来た(下の写真)。神楽殿である。道はいよいよ出雲大社の中を抜けようとしている。


「八雲の瀧」の道標 (撮影 2017. 5.20)
   
左手は本殿がある敷地、右手には素鵞川を挟んで神楽殿 (撮影 2017. 5.20)
   

<神楽殿からの歩道>
 途中、右手の神楽殿の方から素鵞川を渡って来る小さな橋が架かっている。本殿へと通じる歩道で、車道には横断歩道が設けられている。

   
神楽殿から本殿に通じる橋が架かる (撮影 2017. 5.20)
運悪く、対向車がやって来た
   

対向車とすれ違う (撮影 2017. 5.20)

<峠道最大の難所>
 今しも対向車がやって来た。山中の峠道を走っている最中は、一台の対向車ともすれ違わなかったのに、運の悪いことだ。
 
 かつてこの道は県道23号(主要地方道)・斐川一畑大社線であった。 「高尾ゆうゆうライン」が開通した今は県道から外されたものの、大社町市街と鷺浦や鵜峠、猪目といった海辺の集落とを繋ぐ重要な生活路である。 大型の路線バスもここを通る。また、出雲大社の奥に位置する関係者の建物へと通じる唯一の車道でもあった。車の通行は、意外と多い。
 
 ハスラーを歩道側に避け、やっとのことで対向車と離合する。猪目峠の最大の難所は、山中のつづら折りや猪目集落内に通じる細い道ではない。この出雲大社境内が最大の難所であった。

   
橋の袂より素鵞川下流方向を見る (撮影 2017. 5.20)
売店などが立つ
出雲大社が賑わう時、この狭い横断歩道は人で大混雑する
   

<参拝者の往来>
 それでも、車同士ならお互いさまで、譲り譲られ、無事にすれ違うように努めることとなる。しかし、相手が歩行者では車の方が道を譲らなければならない。 神楽殿方面と本殿との間を行き来する人々には十分な注意が必要だ。しかも、出雲大社を訪れた参拝者は、境内の中に流れる清らかな素鵞川に沿って、車道が通じているなどとは思ってもみない。 何の注意もなく車道を横切って行く。正に最大の難所であった。

   
橋の上より素鵞川上流方向を見る (撮影 2017. 5.20)
左(右岸)は神楽殿、右側(左岸)に車道が通じる
右手の石垣を越えた先は出雲大社の本殿が鎮座する
   

神楽殿方向を見る (撮影 2017. 5.20)

<22年前の惨劇>
 出雲大社は普段から参拝者が絶えない極めて有名な神社である。それが正月元旦ともなれば、初詣客で大混雑する。正月三が日だけで60万もの人が訪れるともいわれる。人が歩くだけもままならない。そんな境内に車で乗り込んだら、一体どういうことになるのか。
 
 1995年1月1日の10時頃、前方に異常に多くの人の群れを発見する。 出雲大社の表の方は車両制限や整備員が出て混雑に対応しているのだろうが、大社の裏手の山から猪目峠を下って来る道は無防備だった。何の制限も注意案内もない。 勿論、迂回路が用意されている訳でもなく、素鵞川沿いの道はそのまま人の群れで塞がれている状態だった。しかも、車を運転している者は、出雲大社の何たるかをまだ理解していない。 荒涼とした日本海沿いを走って来たばかりなので、世の中が正月を祝う人たちで賑わっているということに思いが至らないのだった。

   

 恐る恐る通り抜けようと試みるが、参拝者の目はみな本殿方向を向いていて、車が真横に来ても全く気付かない様子だ。 仕方なく車を停めると、車を分けて前後に人の流れができ、進退が窮まってしまった。歩行者の方も、後から後から人の群れが押し寄せて来るので、立ち止ることができない。 クラクションなどはひんしゅくを買うので鳴らす訳にもいかず、こちらを不審な目で見る歩行者に頭を下げながら、またマニュアルのジムニーを人が歩くよりもゆっくりゆっくりと前進させる。


神楽殿横を過ぎてからの道 (撮影 2017. 5.20)
   

ここで右に曲がって素鵞川右岸へ (撮影 2017. 5.20)
左は参道の銅の鳥居へ通じる

土産物屋が並ぶ (撮影 2017. 5.20)
   

 本殿と神楽殿を繋ぐ横断歩道からは60m程で、車道は右に曲がって素鵞川を右岸へと渡る。そこを左に行くと、出雲大社の正面に通る参道の銅の鳥居へと出る。
 
 右に曲がった車道は、直ぐ右手に神楽殿を見る。その反対側は出雲大社専用の大駐車場に通じる。 22年前に来た時は、どのような人の流れに規制されていたか覚えていないが、ここは車で参拝に訪れた人たちのメイン通路となる筈だ。沿道には大きな土産物屋も並び、参拝客で混まない訳がない。

   
神楽殿の正面を過ぎる (撮影 2017. 5.20)
左が駐車場、右が神楽殿へ
手前が銅の鳥居へ
ここは車で訪れた人の通路となる
   

神楽殿前を抜け、左に曲がる (撮影 2017. 5.20)

 境内に通じる車道は、鍵の手のように細かく屈曲する。神楽殿の前を過ぎると、今度は左折し、道はやっと国道431号の方向に向く。道幅も広くなる。

   
国道431号に向かう (撮影 2017. 5.20)
この左手が大駐車場
   

<国道431号に接続>
 出雲大社の正面には国道431号が通じる。22年前、どうやってそこまで辿り着いたかもうよく覚えていない。 ただ、最後の方ではあちこちにロープが張られ、人や車の流れを規制していたようだ。交通整理の係員がいて、その誘導に従いやっと国道まで出たような気がする。 とにかく無我夢中だった。今ではただただ恐ろしかったという記憶しか残らない。
 
 この幹線路となる国道も年始には大混雑し、賢明な人なら自家用車を乗り入れることは避けるだろう。 それでも車同士の混雑で、警察官も出て交通整理してくれるならまだましである。群衆の中に立った一台の車で乗り込むことに比べたら、何でもないことだ。

   
国道431号に接続 (撮影 2017. 5.20)
ここを右に行けば日御碕へ
   
   
   
出雲大社境内の川(以後余談) 
   

<素鵞川を追って>
 猪目峠の峠道は国道431号に接続して一応終了と考える。ただ、この峠は素鵞川に関わる峠だ。ちょっと素鵞川の先を追ってみる。まず、車道から分かれた素鵞川は、駐車場の脇を流れ下る。

   

出雲大社の駐車場 (撮影 2017. 5.20)
立体駐車場の上より

出雲大社の駐車場 (撮影 2017. 5.20)
この奥が神楽殿方向
右端に素鵞川が流れる
   

<看板を頼りに>
 地形図などでは本流の堀川以外、小さな支流の名など載っていない。そこで、出雲大社の案合図などを参考にした。

   

出雲大社ご案内 (撮影 2017. 5.20)
(駐車場脇に立つ)
大社の左側に素鵞川、右側に吉野川が流れる
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

境内案内図 (撮影 2017. 5.20)
(駐車場脇に立つ)
素鵞川は参道途中にあるの祓橋の下を流れる
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
出雲大社周辺案内の看板の一部 (撮影 2017. 5.20)
駐車場脇に立つ(地図は右が北)
素鵞川(SOGAGAWA)、吉野川(YOSHINOGAWA)と書かれている 
   

<そががわ>
 素鵞川とは難しい名だが、看板の一つにより「そががわ」と読むことが分かる。境内の案合図を見ると、本殿の真後ろに素鵞社(そがのやしろ)と呼ばれるやや小さめの社が立っている。それと関係するのだろうか。
 
 素鵞川は駐車場脇を流れた後、やや東寄りに流れを変え、出雲大社の参道を横切る。そこには祓橋が架かる(下の写真)。


駐車場脇を流れる素鵞川 (撮影 2017. 5.20)
上流方向に見る
   

国道431号方向に見る祓橋 (撮影 2017. 5.20)
この下を素鵞川が流れる
(妻が前を歩いて行く)

<吉野川>
 素鵞川は祓橋を過ぎた後、間もなく吉野川に合流する。出雲大社を挟んで西に流れる素鵞川と東に流れる吉野川、一見してどちらが本流か分からない。 どちらも北山山脈を水源とし、流長もそれほど違いがなさそうだ。しかし、吉野川合流までを素鵞川とする看板があったことから、やはり吉野川の方が本流なのであろう。その吉野川も数100m流れると堀川に注いで終わる。

   

<出雲大社>
 22年前は車で境内を通り抜けただけで、肝心な出雲大社への参拝はせず、そそくさと日御碕方面へと走り去って行った。今回は妻と一緒にじっくり参拝する。 私が22年前に訪れた翌年、まだ学生だった妻も出雲大社を訪れているのだが、40℃近い高熱を出し、散々な旅行だったようだ。 私は22年前にジムニーで通った道筋を再体験し、妻も出雲大社をくまなく散策し、二人とも一応の満足を得た。これで心残りはない。


国道431号沿いから参道方向を見る (撮影 2017. 5.20)
勢溜(せいだまり)の鳥居(二の鳥居)が立つ
   
   
   

 私事ながら、昨日は私の誕生日で、ついに還暦を迎えることとなった。 今年はバイクや車で峠をめぐる旅を始めてから30年、ホームページ「峠と旅」を掲載してから丁度20年が経ち、いろいろな意味で一区切りの年である。 22年前の旅を懐かしく思い起こしながら、自分の人生もちょっと振り返る、猪目峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2017. 5.20 旧平田市猪目町→旧大社町杵築東 ジムニーにて
・2017. 5.20 出雲市猪目町→出雲市大社町杵築東 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 32 島根県 昭和54年 7月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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