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金山峠 (追補)
  かねやまとうげ  (峠と旅 No.143-2)
  鉱山集落・金山に通じた旧街道の峠道
  (掲載 2016. 9.30  最終峠走行 2001.10.22)
   
   
   
金山峠 (撮影 2001.10.22)
手前は福島県、奥は山形県
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(以前の写真です)
   

<金山集落>
 裏磐梯高原の一部を成す北塩原村大字桧原(ひばら、檜原)の地に南北に細長く桧原湖が静かに佇むが、その北岸の奥まった地に金山という小さな集落が見られる。その集落を起点に、背後に迫る福島・山形県境の吾妻連峰を越える峠が金山峠(掲載 2002.10. 7)であった。土砂崩れで通行止となることも多く、あまり使われる様子のなさそうな寂しい鷹ノ巣山林道が通じる。しかし、かつては金山集落を通り、会津若松城下と米沢城下を結ぶ会津・米沢街道の本道が通じていたのだった。
 
 このところ、桧原湖西部に位置する大塩峠(萱峠)、 蘭峠細野峠(取上峠を含む)と掲載が続いたので、 それらに深く関係するこの県境越えの金山峠がまた気になって来た。 ただ、今回(2016年6月)訪れた時は鷹ノ巣山林道が通行止で、単に金山集落近辺をうろうろしただけである。 上に掲載した峠の写真も以前撮った物で、今回の内容とは特に関係なく、単なる飾りのようなものだ。 ここでは金山集落付近について少し分かったことがあるので、それを追記してみたいと思う。 尚、会津・米沢街道に関しては大塩峠でやや詳しく取り上げので、そちらを参考に。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

裏磐梯地域案内の看板 (撮影 2016. 6.13)

<かねやま>
 金山峠は、峠の福島県側に下った最初の集落である金山から名付けられたものと思う。 その「金山」だが、最初にこの峠を掲載した時、「かねやま」と読むらしいと理解していた。しかし、今となってはその根拠がどこにあったかさっぱり覚えていない。Mapionの住所検索では「かやま」となっていて、非常に不安がらせる。
 
 今回いろいろな看板を写真に撮ったが、その中に桧原集落(金山集落の西隣に位置する)に近い県道64号沿いに「裏磐梯地域案内」という看板があった。 桧原湖北岸部の拡大図が出ていて、そこの「金山」に「Kaneyama」とローマ字書きされていた(下の写真)。それが一つの根拠となる。

   

看板の拡大図 (撮影 2016. 6.13)
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「Kaneyama」とある (撮影 2016. 6.13)
   

<桧原金山精練所跡>
 その看板には桧原湖北岸部の歴史が簡潔に書かれていて、概要を知るには参考になる。金山集落から会津・米沢街道(旧米沢街道)を少し行った所に、桧原金山精練所があったことが記されている。
 
●桧原金山精練所跡
 金山集落のはずれにあり、金山最盛期には人夫関係小屋500軒も立ち並んでいました。精錬所は江戸時代を経て、明治末期ごろまで利用されていました。

 
<鉱山集落>
 「金山」の名の通り、そこは金の鉱山集落だったようだ。 現在の桧原湖を中心とする桧原地区は、江戸期から昭和29年までは桧原村であった。この村の土地は痩せていた為、木地の生産や会津・米沢街道での駄賃稼ぎなどで生計を立てていたそうだ。それともう一つの産業がこの金山である。


看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
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「会津・米沢街道と大塩宿」の看板の一部 (撮影 2016. 6.13)

<桧原金山>
 北塩原村の大塩集落近くの旧街道(現村道大塩桧原線)沿いに立つ「会津・米沢街道と大塩宿」という看板には、金山集落内を流れ下る長井川の上流右岸に「桧原金山」とあった(左の写真)。脇に会津・米沢街道が通じ、その傍らに精練所もあったようだ。
 
 新編会津風土記には「一年に五十両の好金を出せし所…」とあるそうだ(角川日本地名大辞典、一説には月に50両とも)。 桧原村には他にも数ヵ所の金や銀の鉱山があったようだが、明治21年(1888年)の磐梯山噴火により、鉱脈の半ばは湖中に没したそうだ。噴火の難を免れた金山集落奥の鉱山は明治末期まで続いた最後のものだったのだろう。

   

<旧街道沿いの史跡>
 桧原集落の一角に「桧原ふれあい広場」という園地があり、そこに北塩原村の史蹟に関する看板が立っている。その看板の地図には、金山集落前後の会津・米沢街道の道筋が記されている。
 
 その看板の金山集落には「桧原山精錬所跡」とある。前掲の「桧原山精練所跡」とは微妙に位置も異なるようだ。別物だろうか(下の写真)。
 
 


「北塩原村史蹟」の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
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<一里塚など>
 他の史跡としては「桧原口留番所跡」や「鷹ノ巣一里塚」が長井川上流部に見える。 ただ、以前鷹ノ巣山林道を走った時は、そのような痕跡はどうも見掛けなかったようだ。 「桧原口留番所跡」は「跡」とあるように、案内看板でもなければ気付かないのだろう。 一里塚については、一つ前の桧原一里塚は湖底に沈んでしまったが、 更にその前の中ノ七里一里塚は今も保存されて残っている(蘭峠参照)。 鷹ノ巣一里塚は見落としただけで、今も残っているのかもしれない。

   

<桧原歴史館前>
 桧原湖北部には桧原、金山、早稲沢(わせざわ)と大きく3集落があるようだが、桧原集落から長井川沿いの金山集落中心地に至る県道64号沿いに金山、 苧畑沢(うばたさわ)などといった小さな地名が道路地図などに見られる。 これらも大きな金山集落の内に入るのだろう。ただ、小さな金山の付近にはほとんど人家など見られなかった。 次の苧畑沢付近は人家の他に桧原歴史館という施設が立つ。 一緒の建物の中にはラーメン店が併設されていて、日曜祭日には行列ができる程の人気もあるようだ。 どうやら村営ではないかとも掲示板で教えて頂いた。 桧原湖北岸付近は観光地としてはあまり賑わう場所ではないように思えたが、こうして訪れる人達が居るようだ。


桧原歴史館前 (撮影 2016. 6.13)
長井川河口方向を見る
   

<金山の中心地へ>
 桧原歴史館前以降は沿道に人家が点在し、長井川沿いに広がる金山集落の中心地へと向かう。 現在のこの県道64号の道筋は、桧原湖が出現してからその湖岸に沿って築かれたものだ。沿道に並ぶ人家も、磐梯山噴火以降にこの地に移って来たのではないだろうか。
 
 元の会津・米沢街道の道筋は、現在の桧原集落から湖底に沈んだ旧桧原集落の桧原宿に下り、そこからまた長井川沿いの金山集落へと登って行ったようだ。 その区間の旧街道のほとんどは、県道から眺める桧原湖に沈んでいるのだろう。

   

再び県道沿いに人家が並ぶ (撮影 2016. 6.13)

金山峠への道が左に分岐する (撮影 2016. 6.13)
   

金山の分岐 (撮影 2016. 6.13)

<分岐>
 県道が長井川を渡る200m程手前で、川沿いに広がる金山集落内へと分岐する道がある。多分これが桧原峠へと続くかつての会津・米沢街道なのだろう。現在は金山峠を越える鷹ノ巣山林道へと接続する。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.10.22)
この時はジムニーで金山峠を越えて来た
   

<金山浜探勝路>
 集落内へ分岐する道とは丁度反対側に「金山浜探勝路」という道標が立ち、県道から岸辺の方に向かって散策路が始まっている。 以前は単に桧原湖でも眺める為に造られた歩道だろうと思っていた。 しかし、考えてみると、桧原峠をこの会津側み下って来た旧街道は、今はもう湖底に沈んでしまった桧原宿へと湖方向に進んでいた筈だ。 金山浜探勝路は旧街道と非常に近い位置関係にあるのではないだろうか。ただ、現状は草地が広がりその先に僅かな浜辺があるばかりだ。 長い間に水位の高低が繰り返され、街道の痕跡は消し去られてしまったようだ。

   

金山浜探勝路 (撮影 2016. 6.13)
この方向に旧街道が通じていたのだろう

金山浜探勝路の看板 (撮影 2016. 6.13)
やはり「Kaneyama-Hama」とある
   
以前の金山浜探勝路 (撮影 2001.10.22)
この時は、単なる草原としか思わなかった
   

 余談だが、金山浜探勝路の道標に「Kaneyama-Hama」と記されているのに気付いた。やはりここの「金山」は「かねやま」だった。現地に立つ看板だから、これは間違いないだろう。


集落内の道から県道方向を見る (撮影 2016. 6.13)
丁度正面に金山浜探勝路が位置する
   

金山集落内 (撮影 2016. 6.13)
右に分岐

<集落内>
 金山峠(桧原峠)へと続く集落内の道に少し入ってみた。長井川右岸の山際に道が通じる。川側の方に多く人家が並ぶ。 集落内は静まり返っていたが、人の姿はちらちら見掛けた。 滅多にこの旧街道には車が入って来ないようで、カゴを持ったおばあさんが一人、こちらには何の注意も払わず車道をゆっくり横断し始めた。のんびり待つこととする。

   

<集落内分岐>
 途中、川の方へ分かれる道があった。手持ちの県別の道路地図では、長井川を渡って県道に戻れるように車道が描かれている。 しかし、その道は人家の庭先を通って行き、入り込むのは躊躇させられた。しかも、どうやらその先に橋はもう架かっていない様だった。 現在、2車線路の立派な県道には長井川橋が架かっているが、その県道が通じる前の旧道の様にも見えた。


左岸への道を覗く (撮影 2016. 6.13)
人家の庭先を通る
   

また右に分岐 (撮影 2016. 6.13)
銀山精錬所跡へ続くのか?

 また右に分岐があった。そちらには長井川を渡る橋が架かっているようだった。前掲の看板では銀山精錬所跡が金山集落内の長井川左岸にあるように描かれていた。その道を行った先が丁度その精錬所跡辺りではないかと思った。ただ、何の案内看板もない。

   

<林道起点>
 県道から分かれて400m程行くと金山の人家も途切れ、そこにポツンと林道標柱が立つ。これには見覚えがあった。

   

左手に林道起点 (撮影 2016. 6.13)

林道標柱 (撮影 2016. 6.13)
   
以前の林道起点の様子 (撮影 2001.10.22)
ほとんど変わりがない
   

<林道標柱>
 「鷹ノ巣林道 巾員5.0m、延長6,270m」とある。延長は、多分この林道起点から金山峠までの距離と思われる。尚、その途中の桧原峠への旧道分岐にも林道標柱が立ち、そちらには「巾員3.6m、延長2,343.8m」とあった筈だ。それも峠までの距離であろう。
 
<鷹ノ巣>
 地理院地図には林道名となる鷹ノ巣山という山は見られないが、多分この近くにあるのだろう。古くから鷹ノ巣一里塚という一里塚があったことから、「鷹ノ巣」とはこの付近の地名でもあるのかもしれない。

   

<通行止箇所>
 鷹ノ巣山林道は100m程も走るとゲートで通行止となった。看板には次のようにあった。
 
 壊れた道路を直す
 工事を行っています。
 平成28年7月29日まで
 時間帯 8:00〜17:00
 林道 鷹ノ巣山線修復工事
 


通行止箇所 (撮影 2016. 6.13)
   
通行止のゲート (撮影 2016. 6.13)
   

<林道鷹ノ巣山線>
 金山峠の福島県側に通じるこの林道は険しく、地図によっては車道として描かれていないことも多い。最初に金山峠を越えた時も、福島県側に通行止の看板が立っていた。幸いゲートによる通行止はなく、丁度復旧工事が終わった後のようで、走行に支障はなかった。
 
 今回はゲートが閉まっている。それでも看板の内容からすると8月頃から普及する見込みだ。 林道鷹ノ巣山線の開通時期など詳しい変遷は分からないが、少なくとも1989年(平成元年)発行のツーリングマップ(昭文社)には金山峠を越える車道が描かれている。 まだ大塩峠に車道が通じる前のことである。こうして細々ながらも林道鷹ノ巣山線は生き延びているようだ。ただ、崩れやすく通行止の多い林道が、どれほど利用されるのかとも思わされる。

   

口留番所跡? (撮影 2001.10.22)
林道脇に空地があった
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<口留番所跡など>
 今回は山形県側へ越える積りはなかったので、林道通行止のショックはなかった。それでも、この先にある筈の口留番所跡、金山精錬所跡(桧原金山)、鷹ノ巣一里塚などは見てみたかった。
 
 以前の写真を眺めていると、この先林道が未舗装路になる少し手前に空地があった(左の写真)。その時は別に何とも思わず、ただ昼食休憩をしただけだった。 今思うと、どうもその付近が桧原口留番所があった地点に思える。 あるいはその一帯は桧原金山の鉱脈があった場所なので、「人夫関係小屋500軒」とも言われる桧原金山精錬所があったのかもしれない。ただ、史跡を示す標柱などは全く見掛けていない。

   
口留番所跡? (撮影 2001.10.22)
林道側から見る
   

<金山集落>
 文献(角川日本地名大辞典)には「早稲沢・金山・檜原等の集落は民宿経営者が多い」としている。確かに県道64号沿いの金山集落に大きな建物が見える。
 
 130年前の磐梯山噴火は大参事であったが、その後桧原湖を始めとする約300もの湖沼群が生じ、裏磐梯高原という観光地が誕生した。それでも、桧原湖最北の金山集落には、その恩恵はあまり届いていないように思われた。


県道が長井川橋を渡る (撮影 2016. 6.13)
沿道に大きな建物が見える
   

長井川橋より長井川上流方向を見る (撮影 2016. 6.13)
川沿いに金山の集落が静かに佇む

 長井川沿いに広がる金山集落内には、右岸に無縁原(むえんはら)、左岸に舘山(たてやま)・小屋沢(こやざわ)、上流部に五十両といった小さな地名が見える。「五十両」というのは「一年に五十両の好金を出せし所・・・」(新編会津風土記)という繁栄を物語るものだろう。
 
 また、磐梯山噴火以前(大峠隧道開通以前)は会津・米沢街道の本道が集落内に通じていた。多い時は1日に500人もの通行があったそうだ。 ただ、金山から桧原峠を越えた米沢側の綱木宿までの峠道は険しく、牛馬も越えられなかった。その為、荷物の運搬はもっぱら人の背に頼らざるを得なかったようだ。 金山には駄賃稼ぎで暮らす者も居たことだろう。
 
 かつてはこうして金銀鉱山や街道交通で賑わった金山集落であったが、今はその痕跡をどこに見付けたらいいのだろうかと思う、金山峠(桧原峠)であった。

   
   
   

<走行日>
・2001.10.22 山形県 → 福島県 ジムニーにて
(2016. 6.13 金山集落に寄る ハスラーにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  7 福島県 昭和56年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
福島県 広域道路地図  1996年7月発行 人文社
・マックスマップル 東北道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社

・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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