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粕尾峠
かすおとうげ   (峠と旅 No.209)
  足尾山地を越えて足尾町へと通じる峠道
  (初掲載 2013. 6.15  最終峠走行 2003.11.28)
    
  
    
粕尾峠 (撮影 2003.11.28)
手前は栃木県日光市(旧上都賀郡足尾町)
奥は同県鹿沼市(旧上都賀郡粟野町)上粕尾
道は県道(主要地方道)15号・鹿沼足尾線
峠の標高は1,120m (峠にあった看板より)
(国土地理院の1/25,000地形図からは、1,100〜1,110mと読める)
写真は道の最高所を写したものだが、市境はやや鹿沼市方向にずれて いるようだ
  
  
    
  栃木県にはよく旅をした。特に県北西の山間部、旧日光市や旧栗山村近辺が好みである。栃木県そのものが旅の目的地であったり、東北方面まで足を伸ばす時の 行 きや帰りに立寄った。2日や3日でちょっと旅に出掛けたいなと思った時など、必ず栃木県が候補の一つに挙がった。一時期は、ほとんど毎年のように出掛けて 行っ た地である。
 
 栃木県に行くルートはいつも決まっていた。一つは、群馬県の大間々町方面から渡良瀬川(わたらせがわ)沿いに国道122号を進み、旧足尾町で栃木県に入 り、その先日足トンネルや
細尾 峠(ほそ おとうげ)を越えて旧日光市に至るルート。もう一つは、群馬県の沼田市方面から国道120号を行き、金精峠(こんせいとうげ、峠は金精トンネル)を越えて 日 光市に入るルートだ。東北自動車道を使って宇都宮経由で行くよりずっと時間はかかるが、どちらも旅をするには楽しいルートである。
 
 しかし、いつも同じルートでは芸がない。そこでいろいろ思案したところ、渡良瀬川の東に連なる足尾山地東麓を旅しつつ、更に栃木県の奥深くへ進んでみよ うと 考えた。そこで登場するのが、この粕尾峠である。
    
<峠 の所在>
  粕尾峠は栃木県の旧粟野町(あわの)と旧足尾町(あしお)との境にあり、足尾山地の主脈を越えている。今は粟野町は鹿沼市に、足尾町は日光市に入ってし まったようだが、鹿沼市と日光市の境などと言ったら、あまりに広過ぎてどこだかさっぱり分らない。粟野町と足尾町の境なら、その場所は限られ、そしてそこ には粕尾峠の道がただ一本通じているだけである。
 
<足尾山地>
 粕尾峠が越える足尾山地とは、中禅寺湖、大谷川(だいやがわ)、渡良瀬川に囲まれた山域を指すそうだ。北部に当山地最高峰の夕日岳(1526m)がそび え、その南に連なる横根山や地蔵岳などの山々を従えている。稜線の南半分は、群馬県と栃木県の県境になっているようだ。粕尾峠は県境にこそなっていない が、 峠の僅か1.5km程南に群馬・栃木の県境が走っている。
 
<峠の標高>
 粕尾峠は南の地蔵岳(1274.3m)と北の勝雲山(1322.1m)との間の鞍部に位置する。峠にある看板や文献では、粕尾峠の標高を1,120mと う たっているが、これは昔の粕尾峠の標高だと思う。国土地理院の1/25,000地形図で読むと、現在の車道の峠は1,100mと1,110mの等高線の間 に通じている。この10m程度の標高差なら、稜線の峰を切り崩したことにより、生じたものと考えられなくはない。
 
<峠名について>
 粕尾峠の鹿沼市側には、古くは賀蘇尾村と呼ぶ村があった。「
加蘇尾」とも「糟尾」とも書かれたようである。明治27年に賀蘇尾村が改称して、粕尾村が成 立した。また、足尾山地の横根山南斜面を源流とし、粕尾峠直下から南東流する川を粕尾川と呼んだ。現在は思川(おもいがわ)となり、粕尾川の公称は消えた が、こうして河川名でも粕尾の名が出て来る。峠の名も、この「粕尾」という地名から来ていると考えてよさそうだ。よって、古くは賀蘇尾峠とか加蘇尾峠、糟 尾峠などとも書かれたかもしれない。
    
鹿沼市側より峠に向かう
    

国道293号を北上中 (撮影 2003.11.28)
この先で左に県道15号が分岐
 粕尾峠に通じる道は、現在は 県道(主要地方道)15号・鹿沼足尾線になっている。鹿沼市を南北に通る国道293号(国道352号との併用)からその県道は分岐する。国道上に掲げられ た道路看板には、行先を「足尾 粟野」と示されている(左の写真)。足尾山地は広い関東平野の縁に位置するが、この国道が通じる付近には、まだ山の気配 など微塵もない。この付近の国道は不案内でしかも混雑し、気を使ってばかりである。一刻も早く足尾山地の領域に踏み込みたい思いだ。
 
 粕尾峠の足尾側の道はほぼ一筋だが、鹿沼市側で進む道には幾つかの選択肢がある。その中で県道15号は幹線路だ。鹿沼市側ではほとんど思川沿いを遡るこ とからも、粕尾峠の本筋の峠道と言って良い。
    
 思川は利根川水系で、調べてみると渡良瀬川の支流となるようだ。粕尾峠を挟 んだ足尾側にはその渡良瀬川の本流が流れている。粕尾峠は全て渡良瀬川の水域にあるのだった。
 
 大門宿という交差点で国道293号から分かれて始まった県道15号は、直ぐに樅山駅(もみやま)の近くで東武日光線を渡る(右の写真)。日光線の終点で ある日光と、粕尾峠の先に待つ足尾とは、細尾峠(後に日足トンネル開通)で繋がっている。足尾に渡良瀬川沿いに鉄道が通じるまで、粕尾峠と細尾峠が足尾と 外界を結ぶ重要な生活路だったそうだ。どちらの峠も偶然ながら「尾」が付いた峠である。

東武日光線を渡る (撮影 2003.11.28)
    

県道15号を行く (撮影 2003.11.28)
まだ思川沿いではない
 県道15号は暫くはセンターラインがある二車線路で西へと延びている。道は ま だ思川からは少し北に離れていて、途中思川の支流である大芦川や南摩川(なんまがわ)を渡って行く。
 
 旧粟野町の領域に入るとやっと思川沿いになる。思川の上流部がまだ粕尾川と呼ばれていた時期は、この付近から下流は小倉川という名であったそうだ。国道 293 号が思川を渡る橋の名が小倉橋である。小倉川と呼ばれた頃の名残だろうか。
    
  
旧粟野町を行く
    
<県 道246号と前日光林道
 旧粟野町の中心地・口粟野で、思川の支流・粟野川沿いを遡る県道246号が北西方向に分岐する。その県道を終点まで進み、上流部からは林道前日光線に乗 り継ぐと、粕尾峠直下でまた県道15号に合流できる。この前日光林道を使って粕尾峠に向かうのも楽しいルートである。
 

<粟野川と粕尾川>
 粟野川は旧粕尾川の北をほぼ平行して流れる川だ。源流はどちらも横根山付近である。地図を見た限りでは、どちらが本流だかちょっと判断がつかない。粕尾 川が正式に思川となったので、こちらが本流なのだろう。しかしその為、かえって粕尾川という名が消えてしまった。昔は粟野川と粕尾川が合流し、そしてそ こより下流を小倉川と呼んでいた。
 
<粟野町> 
 粟野町の「粟野」の由来は、粟野川と粕尾川(現在の思川上流部)が合流して できる野である「合野」が転訛したものだそうだ。江戸期には粟野川沿いに粟野村と呼ぶ村があった。一時期分村したが、明治22年には口粟野、中粟野、入粟 野、柏木の4か村が合併し、新しい粟野村が生まれている。明治39年に町制をしいて粟野町になり、昭和30年には清洲、永野、粕尾の3か村が加わって、鹿 沼市になる直前の粟野町が完成した。
  
  
旧粕尾村を行く
  
  口粟野を過ぎると、道は旧粕尾村の領域に入る。旧粕尾村は粕尾川の上流から下流に向かって、上粕尾、中粕尾、下粕尾の3大字を編成していた。粕尾峠は上粕 尾にあることになる。
 
 道はまず下粕尾に入る。ここで
南の永野川沿いから尾根一つ越えて来た大越路峠(おおこえじとうげ)の県道(主要地方道)32号を合し、更に思川(旧粕尾 川)上流部へと進む。
 
 口粟野は旧粟野町の中心地で町役場などがあった所で、それなりに賑わっているが、下粕尾付近まで来ると、もうのどかな県道である。思川流域に広がる田畑 が沿道 に望める。
    
旧粟野町内の県道15号を行く (撮影 2001.10.20)
下粕尾から中粕尾付近
ぐっとのどかな雰囲気になってきた
  
  
休憩ポイント
    
  県道15号の行き着く先は、粕尾峠を越えた足尾の地だが、そこまで足を運ぶ者は多くはないだろう。よって、県道の交通量も知れたもので、のんびり走ってい ても、後続車に急き立てられる心配は少ない。
 
 中粕尾に入って暫くすると、県道は思川にピッタリ沿うようになる。それ以外、何もない単調な道かと思っていたら、意外にも休憩場所が道路脇に設けられて いた。僅かな駐車スペースに、東屋が建っている。思わず車を停める。
    

休憩スポット (撮影 2001.10.20)

休憩スポット (撮影 2001.10.20)
双体道祖神が佇む
    
  場所は、中粕尾ももう直ぐ終わるという所で、目の前に鋭く湾曲する思川を眺める。その休憩所内には大きな粟野町の観光案内看板が立ち、東屋の脇には双体道 祖神のような石像が祀られていた。何だか急に観光気分である。粕尾峠越えの寂しい峠道を想定していたが、休日ともなると行楽に人々が訪れて来るような観光 道路に思えてきた。
 
 「清流とやすらぎの里 あわの」と題した案内看板は、明るい基調の絵で旧粟野町内の名所・旧跡を案内している。粟野川沿いを行く県道246号にも、入粟 野の上五月バス停に隣接して休憩所が設けられ、これとほぼ同じ看板が立っている。
    

案内看板 (撮影 2001.10.20)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

案内看板の地図の一部 (撮影 2003.11.28)
県道246号線にあった看板のもの
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    
  案内看板に書かれた紹介文にもあるが、粟野町は足尾山地に源を発する粟野川、思川(旧粕尾川)、永野川の3筋の川の流域にある。よって、観光地もそうした 渓流に関わるものが多い。観光地ではないが、案内看板には粕尾峠も載っている。交通案内図では国道からの分岐点・大門宿から峠を経て足尾に至る所要時間も 記されている。
    

案内看板の交通案内図 (撮影 2003.11.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

案内看板の粟野町の紹介文 (撮影 2003.11.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    
  
上粕尾の発光路へ
    
 次に道が進む上粕尾は、旧足尾町との町境まで広がっていて、中粕尾や入粕尾 に比べてその領域は広い。道はまだ快適な二車線路が続いている。粕尾峠を走って越えて来たのだろうか、スポーツ自転車が一台、颯爽と下って来た。
 
 上粕尾では発光路(ほっこうじ)という場所が気になるポイントである。発光路と呼ぶちょっと変わった名は、仏 教に関係した地名だそうだ。古くは修験の地であったことを示すとか。また、粟野町には発光路の強飯式という祭りがあり、その発祥地である。集落内を狭そう に通じる県道脇に、そうした発光路の案内看板が立つ。尚、その看板では発光路を粟野町最奥の集落と言っているが、この先にはまだ山ノ神 がある筈だが。

上粕尾付近 (撮影 2001.10.20)
この写真では分り難いが、スポーツ自転車が下って来た
    

発光路の集落を過ぎる (撮影 2001.10.20)
左脇に案内看板などが立つ
県道はここで大きく右に曲がっている

発光路の看板 (撮影 2001.10.20)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    
  
前日光線分岐
    

関東ふれあいの道の看板 (撮影 2001.10.20)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

左の看板の地図 (撮影 2001.10.20)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    

前日光林道と県道15号の合流点 (撮影 2003.11.28)
林道側より見る
分岐の角に石割桜があったらしいが見落とした
 「発光路」の看板に並んで、「関東ふれあいの道」の看板が立っていた(上の 写真)。発光路集落を過ぎた先、「石割桜を右折して基幹林道を進み」 とある。その基幹林道とは前日光線のことだ。分岐の角にあるという石割桜には気付かなかった。桜が咲く季節なら、目に付いたかもしれない。関東ふれあいの 道は前日光線の途中から奥深沢沿いの山の神林道に分かれて行くようだ。
 
 右に前日光線を分けた先、今度は左に大荷場木浦沢林 道が分岐する。前日光線も大荷場木浦沢線も、林道といえども走り易い道で、ほとんど舗装済だったと思う。最初に県道15号で粕尾峠を越えたなら、2度目以 降はこれらの林道経由で粕尾峠を訪れるのも楽しい。尚、基幹林道前日光線と呼んだ場合、広い範囲の林道群を指すこともあるようだ。7つの路線を持ち、前日 光林道は3番、大荷場木浦沢林道は4番に当たる。
    
  
峠への登り
    
 山の神で2つの林道を分けた 後は、道は峠まで一本道である。更に暫く思川の左 岸沿いを行くが、間もなく川筋から離れ、北の峰へと斜面を登りだす。道の屈曲が多くなり、カーブ番号が出て来る。こちらの粟野町側が1番で、カーブ番号は 峠を越えて足尾側まで続いていたと思う。峠を目指していよいよ本格的な登りが始まった。

カーブ番号が立つ (撮影 2003.11.28)
ここは14番
    

峠への登り (撮影 2003.11.28)
 道幅はやや狭いが、交通量は それ程ないので、狭さを感じたことはない。路面 の舗装状態も良好だ。ただ、あまり眺望はない。沿道の木々の様子を楽しむだけである。
    
 粟野町の観光案内看板にあっ た交通案内図では、山の神から粕尾峠まで20分 の道程だ。いつものんびり走っているので、それ以上掛かっているかもしれない。しかし、長いと感じたことはない。カーブ番号でも数えながら、坦々と曲がり 道を登って行く。運転に飽きることもない。ただ、カメラを持って行っても、写す物が全くないのだ。旅から帰って後で調べてみても、何でもない道を写した写 真が数枚あるだけだ。何のコメントもない。
 
 峠も間近になった頃、沿道に石の記念碑が建っていた(下の写真)。「足粕道路竣工記念」とあり、昭和28年6月5日と日付が記されている。これが僅かに 被写体となる対象物であった。

峠への登り (撮影 2001.10.20)
    

足粕道路竣功記念 (撮影 2003.11.28)

昭和二十八年六月五日とある (撮影 2003.11.28)
    
  
    
粕尾峠 (撮影 2003.11.28)
手前が旧粟野町、奥が旧足尾町
    
  粕尾峠にはいつもあっさり着く。右に分岐する道が現れ、アレッと思うとそこが粕尾峠である。
    

峠の様子 (撮影 2003.11.28)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2001.10.20)
    

峠より鹿沼市方向の道を見る (撮影 2003.11.28)
この手前にカーブがある
  鹿沼市側から登って来ると、道は峠直前で右にカーブしている。そのカーブを曲 がると急に分岐やいろいろな看板が現れるので、不意に峠に着いたように思うのだろう。
 
 考えてみると、最後に粕尾峠を越えてから、もう10年近くが経過した。その頃はまだ粟野町と足尾町の町境だったが、今は鹿沼市と日光市の市境となってい る筈 だ。ここに掲載する写真には「粟野町」とか「足尾町」と書かれた看板が出てくるが、それらはもう掛け替えられているかもしれない。
  
日光市側から峠を見る (撮影 2003.11.28)
    
<市境のズレ>
 粕尾峠でやや奇異に思うのは、道の最高所と市境(以前の町境)の位置がずれ ていることだ。鹿沼市側から登って来ると、右への分岐の直前に、以前は「粟野町」と書かれた看板が立ち、その反対側には「足尾町」と看板が立ってい た。分岐する道がほぼ市境に通じているようだ。しかし、峠道の最高所はその分岐を過ぎた先にある。ただ、距離で10mもないずれだが。
 
 国土地理院の1/25,000地形図を見ると、南の地蔵岳からの稜線には市境が重なるが、粕尾峠付近から北の勝雲山に掛けての稜線からは、市境が微妙に それている。事情は分らないが、市境と稜線、すなわち道の最高所との位置のズレは間違いないようだ。

上とほぼ同じ場所 (撮影 2001.10.20)
  

日光市側から見た峠 (撮影 2001.10.20)

日光市側から見た峠 (撮影 2003.11.28)
左の写真より更に日光市側に入った所より見る
    

峠にある県道標識 (撮影 2003.11.28)
この時はまだ「粟野町」である
 粕尾峠を訪れたのは2001年と2003年の2回で、それらを比べる限りに は、峠の様子にほとんど変わりはない。町境が市境に変わった今でも、何となく変わっていないような気がする。
    
  
県道58号
    
  粕尾峠から東へ分岐する道は、道路地図では以前から県道(主要地方道)58号・草久足尾線と載っているが、かつて県道標識など見たことはない。入口近くに 立つ看板には、「これより7.6Km先 通行不能につき 通行止」と書かれていて、あまり入り込む気にはなれなかった。
    
峠から分岐する県道58号 (撮影 2003.11.28)
  

県道58号 (撮影 2003.11.28)

右に通行止の看板 (撮影 2001.10.20)
    
 分岐脇に立つ「ようこそ横根高原へ!」と題した案内看板を見ると、その県道 58号は、勝雲山の更に東に位置する古峰ヶ原(こぶがはら)高原や前日光高原への観光目的の道らしかった。
 
 横根高原には大戦後、開拓団が入植し、開拓集落を形成した時期があったそうだ。しかし、閉鎖の憂き目に遭い、その後は観光地として開発されたとのこと。 古いツーリングマップ(関東 2輪車 1989年1月発行 昭文社)には、県道58号沿いの勝雲山より手前(西側)に「横根山」という集落名が記されてい る。もしかしたら、これは開拓集落の名残かもしれない。

横根高原の案内看板 (撮影 2003.11.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
 最近の道路地図によると、県道58号の通行不能区間は開通し、通り抜けられる ようになったらしい。これでまた一つ、日光市側から粕尾峠へと通じるルートができた。横根高原も一度訪れてみたいと思う。
  
  
峠の日光市側
    

峠より日光市側を見る (撮影 2003.11.28)
道の左脇に「お知らせ」看板
正面に「足尾市街10Km」の看板
 峠の日光市側はあっさりしている。連続雨量200mmで通行止になるという 「お知らせ」看板に、「足尾市街10km」と書かれた看板が目に付くくらいだ。
 
 その「足尾市街10Km」の看板に、「粕尾峠 標高 1,120m」とある。前述の通り、これは旧粕尾峠の標高ではないかと思う。車道が通じる前の峠で ある。
    

足尾の案内看板 (撮影 2003.11.28)

峠から日光市側に下る道 (撮影 2003.11.28)
    
  
峠にある碑など
    
  粕尾峠の鹿沼市側は、車が僅かに2台ほど停められるスペースがあり、片隅に景色を見ながらちょっと腰掛けるベンチが設えてある。また、傍に句碑や前日光県 立自然公園の案内看板なども立つ。
    

峠に建つ句碑 (撮影 2003.11.28)

句碑の看板 (撮影 2003.11.28)
    
  句にある「穐」(あき)とは、「秋」の字の古字のひとつだそうだ。句碑の説明文に自動車道の完成が昭和28年とあるが、足粕道路竣功記念の日付と一致す る。
 
 車道が通じる以前、粕尾街道などとも呼ばれた粕尾峠は、時に足尾で産した銅を馬の背に乗せて運んだ峠だそうだ。句で読まれた情景は、車道が通じる以前の 粕尾峠だろうか。
    
前日光県立自然公園の看板 (撮影 2003.11.28)
(上の画像をクリックすると地図部分の拡大画像が表示されます)
    
<峠 での思い出>
 一度目に粕尾峠に来た時は、車のトラブルに見舞われていた。ジムニーのクラッチの具合が悪く、クラッチペダルを思いっきり踏み込まないと、クラッチが完 全に切れず、ギアチェンジがうまくいかない。栃木県だけでなく、この先山形県あたりまで2泊3日の旅をする積もりだったので、このままほって置いては足が くたびれてしょうがない。幸い粕尾峠には駐車スペースがあり、人も滅多に来ないので、修理することにした。これまでも何度か同じトラブルに遭ったことがあ るので、修理方法は分っていた。クラッチペダルの所に頭を突っ込んで、クラッチワイヤーの張り具合を何度か微調整すると、スムーズにギアチェンジができる ようになった。
    
 二度目の時は、定番の昼食とした。カセットコンロでお湯を沸かしてカップ ラーメンをすすり、それと菓子パンを少しかじった。粗末な食事だが、ベンチにシートを敷き、クッションも用意して、景色を眺めながらくつろいだ一時であっ た。峠には40分 程も 居たことになる。これだけ粕尾峠を堪能する者も少ないことだろう。

峠で昼食 (撮影 2003.11.28)
    
  
日光市側に下る
    

日光市側に下る道 (撮影 2003.11.28)
 粕尾峠の鹿沼市側は、思川沿いに遡る道程が長く、最後に足尾山地の主稜へと 急登する。一方、日光市側は、下に流れる渡良瀬川へと一気に駆け下る峠道だ。距離は短いが、その大半が急坂、急カーブの険しい道となる。
 
 確かカーブ番号は日光市側でもカウントは続き、峠の鹿沼市側の最後が38番、日光市側は39番から始まっていたようだ。
    
 下りだして間もなく、道は主脈から北に派生した尾根を回り込む。開けた北側 に張り出した箇所なので、沿道からの展望が非常に良い。以前はそのカーブの路肩に車が停められるちょっとした空き地があった(右の写真)。そこに車を乗り 入れて、ゆっくり眺めが堪能できたのだ。さながら展望場所のようであった。群馬県の赤城山方面から栃木県との県境になる金精峠方向に連なる、雄大な山並み が眺めら れた(下の写真)。
 
 残念ながら2003年に訪れた時、その空き地は立入禁止となり、近くの路肩には車を停められるスペースはなく、立ち止るのがはばかられた。折角の景色だ が、車を走らせながら眺めるだけとなった。

展望が良い道路脇の空き地 (撮影 2001.10.20)
    
展望場所からの眺め (撮影 2001.10.20)
  

  その絶好の展望箇所を過ぎると、道は高度を下げると共に尾根上から谷底へと下って行くので、もう二度と良好な遠望は得られない。徐々に視界が狭まってい く。
    
徐々に眺めがなくなる (撮影 2003.11.28)
  

  
屈曲が始まる
    

谷へ下る (撮影 2003.11.28)
上の方にさっき通った道のガードレールが望める
 谷へ下りだすと道の屈曲が酷くなる。遠望の代わりに谷間の景色が周囲を覆い 尽くす。目に入るのは、沿道の草木と自らが走る道筋ばかりだ。鹿沼市側より屈曲は鋭く勾配もきついように感じる。目の前に何度もヘアピンカーブが現れる。
    

道の様子 (撮影 2003.11.28)
ヘアピンカーブが続く

道の様子 (撮影 2003.11.28)
そろそろ川沿いとなる
    
  
川沿いに出る
      
 九十九折りも一つ一つのカーブを丁寧にクリアする気持ちで走っていると、そ れ程苦にはならない。すると、道の直ぐ側の林の中を小さな沢が流れ始めたのに気付く。さっきまでの急坂、急カーブがおさまり、穏やかな道となる。久良沢と いう川の右岸沿いを行くようになったのだ。
 
 その後、林を抜けてひょっこり開けた所に出る。側に県道標識が立っている。地名に「足尾町 久良沢」とある。前方には家屋も見える。これで峠の難所も無 事に過ぎ、山里へと辿り着いたことになる。

川沿いの穏やかな道となる (撮影 2003.11.28)
前方右手に家屋が見える
    

県道標識 (撮影 2003.11.28)

峠方向を振り返る (撮影 2003.11.28)
    
  
琴の家と粕尾峠の看板
      

御宿琴の家 (撮影 2003.11.28)
粕尾峠の看板が側に立つ
 見えていた家屋は民家ではなく、「琴の家」という温泉宿である。地図などに は「白樺ノ湯」などと載っている。「入浴可」とあるので、立寄り湯もやっているらしい。
 
 ただ、関心があるのは温泉ではなく、宿の看板に並んで立つ粕尾峠の看板の方だ。この宿と粕尾峠との関係は分らないが、古くからこの峠道沿いに建つ宿なの かも知れない。とにかく、粕尾峠の看板はじっくり読まねばならぬ。
    
<粕尾峠の歴史>
 看板によると、粕尾峠の往来が多くなったのは鎌倉時代らしい。更に江戸時代には足尾銅山の銅を運搬したとある。足尾からの銅の搬出だけではなく、銅山経 営に必要な物資の搬入もあったことだろう。文献によると、足尾と外界を繋ぐ通路として、粕尾峠は他のものより安全だったそうだ。また、粟野や栃木からは河 川交通の便があったことも有利であった。
 
 足尾で産した粗銅の運搬路としては、粕尾峠から地蔵岳の東斜面を回り、秋山川を下って佐野に抜ける道もあったそうだ。看板でもそのことを示唆している。 大荷場木浦沢林道が秋山川沿いを下るので、その道に近いのではないだろうか。ただ、大荷場木浦沢林道は麓の神の山で別れて行く。昔のルートは、粕尾峠から 主脈沿いに地蔵岳に達し、群馬県との県境を南下、秋山川の源流部に出て、そこから川沿いを下ったのではないだろうか。

粕尾峠の看板 (撮影 2003.11.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    
  粕尾峠の往来の最盛期は明治年間だそうだ。その時期に鉄索も架けられ、木炭などの物資の運搬で峠は賑わった。鉄索の架設は、文献では明治23年となってい たが、看板には明治29年(1896年)とある。
    
  粕尾峠が寂れていくきっかけとなった足尾鉄道は大正元年(1912年)に全通し(文献では大正3年とも)、営業を開始している。最初は足尾鉄道(株)によ るもので、大正7年には旧国鉄の足尾線となっている。足尾鉄道は群馬県の桐生から渡良瀬川沿いに終点の間藤までを結び、産銅輸送が目的であった。
 
 鉄道開通までは足尾と外界を結ぶ重要な道であった粕尾峠は、鉄道開通後は利用が激減し、荒廃していった。足尾と外界を結ぶもう一つの峠、細尾峠も同じ憂 き目である。細尾峠の先の日光には、明治23年に日光線が開通している。このことも少なからず影響したようだ。こうした峠道と鉄路との関係は、日本全国で まま見られる経緯である。
    
  ところが大戦後、昭和22年のカスリーン台風、昭和23年のアイオワ台風の被害で、足尾の町は陸の孤島ともなる。町民からは、粕尾峠を拡幅し自動車道を開 通するよう、強い要請が出された。こうしたこともあり、昭和28年の足粕道路竣功へと繋がる。
 
 それまでは馬で越える峠道に、初めて自動車が走るようになった。昭和29年からはバスの運行も開始され、宇都宮と足尾の間をバスが行き交う時期もあった そうだ。しかし、昭和46年以降、乗客減少で運休となる。マイカー時代の到来であった。
    
  粕尾峠を寂れさせた足尾線だが、昭和48年に足尾銅山が閉山となり、更に輸送のトラック化、マイカーの増加が世の趨勢となると、鉄路の利用者が減少して いった。ついにはローカル線のレッテルを貼られる足尾線だったが、第三セクターに引き継がれ、現在はわたらせ渓谷鉄道として存続している。今でもその奮闘 振りが時折テレビで放映される。
 
 足粕道路も全線舗装となり、今では主要地方道の格にある。峠に隣接する高根高原の観光開発、県道58号の開通ともあいまって、マイカーで訪れる者もいる ことだろう。今後、粕尾峠はどのように変わっていくのだろうか。
    

琴の家より先を見る (撮影 2003.11.28)
 琴の家を過ぎると、沿道にポツポツ人家も現れだす。旧足尾町は大字を編成し ていなかった。現在、ここの住所は日光市足尾町で、その後に続く地名はない。更に細かくは久良沢であるが、住所として久良沢の名は出てこないようだ。
    
  
内の籠
    
  久良沢は渡良瀬川の支流・内ノ篭川(または内ノ籠川)の上流部の沢の一つである。内ノ篭は「うつのこもり」と読むそうだ。地名としても久良沢の下流側に内 の篭がある。道は久良沢沿いから川を一本渡って本流の内ノ篭川沿いになる。
 
 内ノ篭川沿いになってからまた川を渡る。支流の都沢だ。多分その橋の袂だったと思うが、人家が建っていた(下の写真)。都沢の流れを直ぐ脇に望む地にあ り、周囲の自然に溶け込んだ閑静な佇まいだ。ちょっと憧れる立地である。古くから粕尾峠の往来を見守ってきたのかもしれない。
 
 その先で右に狭い道の分岐がある。都沢沿いに遡り、上流部で県道58号に接続しているようだ。
    

川を渡る (撮影 2003.11.28)
橋の袂に人家

支流の都沢か? (撮影 2003.11.28)
上流で滝のように水が流れ落ちている
側を道が通じているようだ
都沢上流で県道58号に接続しているらしい
    
  道の左手に集会所がポツンとあった(下の写真)。「内の籠集会所」と看板にある。ご丁寧にもルビが振ってあった。「内」を「うつ」とは、なかなか読めな い。
    

内の籠集会所 (撮影 2003.11.28)

集会所の看板 (撮影 2003.11.28)
名前にルビが振ってある
   
  
国道122号へ
    
 集会所を過ぎると、道は内ノ篭川を渡り、左岸沿いを下るようになる。その頃 から県道15号は広い道へと変わる。
 
 以前はそのまま左岸沿いに国道122号に接続していたが、最近は道が改修され、再び右岸沿いに戻って国道に出ている。
 
 出た所は渡良瀬川左岸に通じる足尾バイパスで、古くは右岸のわたらせ渓谷鉄道に並ぶ道が元の国道122号だったようだ。

川の左岸を行く (撮影 2003.11.28)
快適な道である
    

渡良瀬川を渡る (撮影 2003.11.28)
上流方向に見る
直ぐそこで内ノ篭川が合流している
 よって、県道15号も渡良瀬川を渡って右岸の元の国道に接続するまでが、そ の範囲と記載されている道路地図もある。
 
 県道15号から入った足尾バイパスを少し下流側に進むと、県道15号の旧道が立体交差している。その旧道に入ると直ぐに渡良瀬川に橋が架かっている。そ れを渡ると元々あった国道に突き当たる。そこまでが県道15号という訳だ。
 
 その橋からは谷を深く削って流れる渡良瀬川の渓谷が眺められる。上流方向を望むと、直ぐそこで内ノ篭川が渡良瀬川に注いでいる。これで粕尾峠の峠道も終 りである。
    
  
足尾駅に寄り道
    
 折角だから、近くにある足尾駅に寄り道する。駅舎はこじんまりとした木造瓦 葺で、焦げ茶色の板壁に引き戸や窓枠は白に塗られ、素朴な佇まいだ。今では珍しい公衆電話のボックスがポツンと脇に立っていた。周囲はのどかな集落で、丁 度駅前にある商店の店員が一人、トラックから荷下ろしをしている最中だった。他にはほとんど動きのない静寂さだ。
 
 足尾駅は小さい駅だが、駅前広場に車を停めても文句を言われそうにない。広場の一角にはトイレもあって便利である。周辺の観光案内看板も立つ。駅を背に 南を望むと、V字に切れた谷が見える。それが内ノ篭川の谷間だ。その谷の奥に粕尾峠はひっそり佇む。

足尾駅 (撮影 2003.11.28)
素朴な佇まい
    

駅を背に南を望む (撮影 2003.11.28)
正面に見えるのが内ノ篭川の谷間

駅にあった観光案内の看板の一部 (撮影 2003.11.28)
粕尾峠近辺のみ
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    
     
    
  ずっと渡良瀬川沿いに国道122号でやって来るより、鹿沼市側から粕尾峠を越えて渡良瀬川沿いに降り立つ方が、足尾の地がより奥深いように感じる。東京か ら山梨に引っ越し、やや縁遠くになった栃木県だが、また足尾の奥深さでも感じに行ってみたいと思う、粕尾峠であった。
    
     
    
<走行日>
・2001.10.20 
旧粟野町→旧足尾町 ジムニーにて
・2003.11.28 旧粟野町→旧足尾町 パジェロ・ミニにて
  
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  9 栃木県 昭和59年12月 8日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
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