ホームページ★峠と旅
大越路峠
 
おおこえじとうげ No.190
 
栃木県南部の小さな峠道
 
(初掲載 2012. 2. 7  最終峠走行 2001.10.20)
 
  
 
大越路峠 (撮影 2001.10.20)
手前は栃木県鹿沼市(旧粟野町、あわのまち)下粕尾(しもかすお)
峠の向こうは同市下永野(しもながの)
道は旧主要地方道32号・栃木粕尾線
峠の標高は320m(文献や地形図より)
下粕尾は峠の北側なので、こちらから見る峠は暗い感じがする
近年、この下に大越路トンネルが開通し、
峠は主要地方道の地位を奪われたものと思う
 
 
 日本の都道府県を比較すると、栃木県はあまり目立たない県だとか言われるそうだが、私にとってはよく旅に出掛ける土地である。しかし考えてみると、日光の中禅寺湖から北、福島県との県境付近を訪れることが多く、栃木県の中でもほんの限られた地域だけだったようだ。都心からだと東北自動車道で矢板くらいまで走ってしまい、そこから高速を降りておもむろに栃木県の旅を始める。あるいは、関越自動車道で群馬県の沼田まで行き、金精峠(こんせいとうげ、実際は金精トンネル)で県境を越えて中禅寺湖畔に出ることも多い。これでは栃木県の南側半分は、完全に抜け落ちてしまうのは当たり前だ。
 
 時には、群馬県の大間々町方面から渡良瀬川沿いの国道122号を使って日光に入ることもままある。しかし、あまり好んで選ぶルートではない。それは大間々町以南は都市部が多いからだ。同様に栃木県の南部は足利市や栃木市、宇都宮市などなど大都市が居並び、車では不用意に入り込みたくない。そうした地域をなるべく避けようと思うと、結局、高速道路でバイパスすることになるのだ。
 
 これではいかんと一念発起し、ある時、栃木県の中禅寺湖より南側をあえて訪ねることにした。その旅の中で偶然に越えたのが大越路峠である。
 
 余談だが、大越路では犬越路(いぬこえじ)を思い出す。ただ字が似ていると言うだけで、何の関係もないのだが・・・。
 
永野川に沿って
 

主要地方道32号・栃木粕尾線 (撮影 2001.10.20)
峠方向に見る
 足利市の中心街から国道293号に乗り、やっとの思いで市街地を抜け出して来た。今回は地図を見ながらナビをしてくれる助手もいないので、分り易く国道ばかり選んで走っていたら、足利駅の目の前を走ることになり、一時はどうなることかと思った。それでも国道293号に入り暫く東へと進むと沿道は閑散としてきて、やっと人心地付けたのだった。
 
 国道293号は栃木県南部の都市部の北縁をほぼ東西に走っている。ここより南は町、北は山である。さてこの先、どこから山に入ろうか。何の考えもないまま、栃木市内で県道(主要地方道)32号・栃木粕尾線に左折した。
 
 栃木粕尾線は栃木市街に始まって、北の粟野町(あわのまち)・現在の鹿沼市下粕尾(しもかすお)まで続いている。側らを永野川(ながのがわ)と呼ぶ川が流れる。利根川水系で巴波川(うずまがわ)の支流である。付近にはのどかな田畑の風景が広がる。
 
 道も閑散としているが、時折大型のダンプばかりが通る。土砂を積み、土埃を巻き上げながら行き交っている。センターラインもない狭い県道は埃だらけである。後で考えると、大越路峠の下を貫通するトンネル工事が行われていた最中だった。その関係の工事車両だったようだ。
 
 すれ違う大型ダンプや土埃に辟易して、県道脇に見付けた空き地に一時避難。車を降り、背伸びをし、それまで国道を走り繋いで来た疲れを癒す。この辺りの永野川の谷は広く、山際まで延びる平坦地に田畑が広がっていた。永野川の支流・出流川(いずるがわ、いづるがわ)が西方から流れ下り、合流している地でもあった。

永野川の谷間の風景 (撮影 2001.10.20)
支流の出流川方向を眺める
 

峠方向を背に下元の分岐を見る (撮影 2001.10.20)
前方の分岐を左は栃木市方面、右は上永野方面
 国道293号から県道に入って10Km弱で下永野・字下元にある分岐に出る。そこを右折して大越路峠を越えるのが県道32号の続き、直進は県道199号・上永野下元線となる。道路標識には県道199号方向に「上永野 10Km」とあり、県道32号を戻る方向には「栃木 17Km」とあった。
 
 旧粟野町は、北西の渡良瀬川の谷を隔てる足尾山地主脈・横根山や地蔵岳から分岐して南東方向に派生する4筋の尾根と、その間の3本の谷、粟野川、思川(旧粕尾川)、永野川の谷で成っている。大越路峠はその内の2つ、思川と永野川の谷を南北に結ぶ峠だ。永野川沿いの起点がこの下永野下元で、思川沿いの終点は下粕尾大越路となる。大越路峠の名前は、その大越路と呼ぶ集落名から来ているのだろうか。ただ、「大越路」という名前は峠道そのものを指しているようにも思えるが。
 
 下元の分岐には道路沿いに幾つかの商店が立ち並び、その周囲に人家が集中し、ちょっとした集落を形成している。
 
 分岐を右に折れて峠方向に向くと、人家が並ぶ道路の左脇に、ちょこんと道路情報の看板が立っていた。「土砂崩れのおそれあり 下永野〜下粕尾」とある。静かな住宅街に「土砂崩れ」とは、あまり似つかわない看板だ。前方を眺めれば、こちらの永野川と向こうの思川を隔てる尾根が東西に連なる。峠がある鞍部付近も、前方の峰のやや左手にそれらしきものがうかがえる。さあ、これからいよいよ峠越えだと思わされる。
 
 こんな序章で始まる大越路峠であったが、私が越えたのは2001年で、もう10年以上も前になる。その後、大越路トンネルが開通し、その前後の道も大きな変貌を遂げたようだ。最近の道路地図で確認すると、下元から大越路までの旧道区間は、ほとんど全て新しい道に取って代わられた。国道293号方面から来ると、何の分岐もなくそのまま真っ直ぐ大越路トンネルに入って行くらしい。その代わり、旧道の峠は昔のまま残っているようだ。

下元の分岐以降の道 (撮影 2001.10.20)
峠方向に見る
前方の峰のやや左手にある鞍部が峠付近
道の左手には道路情報の看板
 
 下元の分岐はこれまでT字路だとばかり記憶していたが、今回調べてみると十字路であった。下元から峠とは反対方向にも道があった。寺坂峠という峠を越え、出流川(永野川の支流)の上流部、栃木市出流(いずる、いづる)に通じる道だ。車の通行も可能な寺坂林道が通じているとのこと。
 
 幕末、出流事件を起した討幕の志士たちが闊歩した峠として大越路峠は知られるが、その志士たちの拠点となった満願寺が出流にある。深刻な飢きんをきっかけに討幕へと立ち上がった若者たちは、風雲急を告げる中、大越路峠から寺坂峠へと急ぎ足で越えたのだろうか。その若者たちの多くは幕府軍により殺害されてしまったそうだ。
 
 下元の分岐から峠へ向かって走り出すと、人家が途切れる付近でトンネル工事が行われていた。大越路トンネルの下永野側の坑口だ。峠道のカーブにはカーブ番号が付けられていて、No.34の番号が見える。
 
 峠道は、もうトンネルの新道建設が決まっていることもあってか、昔からの狭い舗装路がそのまま残され、くねくねと曲がっていた。ただ、峠までは近く、僅か2Kmと少し。
 
 
大越路峠の下永野側 (撮影 2001.10.20)
左手に東屋などがある
その前にジムニーが停まっている
 
 大越路峠の陰と陽ははっきりしている。峠の下永野側は南側に位置し、明るく開けて眺めも良い。一方、下粕尾側は北側にある上、道の両側を高い杉木立に囲まれている(下の写真)。下永野の陽と下粕尾の陰は明確な対比を成し、それぞれの方向から見た峠の姿は全く異なる。また、下永野側には東屋が立ち、石碑や案内看板が並び、僅かながらも車が置けるスペースがあり、峠に立ち止まるとなると、どうしても下永野側となる。しかし、下粕尾側から見た大越路峠も悪くない。細い道が一筋上り詰めて行く様は、峠らしさにあふれている。
 
大越路峠の下粕尾側(再掲) (撮影 2001.10.20)
 
 峠の下永野側からは、眼下に永野川とその谷に点在する下永野の集落を俯瞰し、その先には出流川とを隔てる峰を望む。この大越路峠は小さな峠で、ほとんど期待していなかったが、開けて眺めも良く、休める東屋や峠に関した看板や記念碑もあり、なかなか楽しめる峠であった。
 

峠からの下永野側の眺め (撮影 2001.10.20)

永野川沿いに点在する下永野の集落 (撮影 2001.10.20)
(左の写真のアップ)
 
記念碑など
 

峠の石碑など (撮影 2001.10.20)
下永野側
 東屋や記念碑などが立つ敷地は峠の下永野側の左手にある。片隅に立つカーブ番号は18であった。多分、下粕尾側の麓が1番なのだろう。
 

峠のカーブ番号は18 (撮影 2001.10.20)
 
 展望所のように設えた柵に沿って立てられた「粟野町名勝」の看板には下記の様にある。
 
 粟野町名勝
 大越路峠 (下永野)
その昔この峠道は出流山と日光方面を結ぶ重要
なルートで茶屋もあったと伝えられています。
昭和38年には県道が開通し、永野地区の交通事
情を大きく改善しました。下粕尾大越路から下
永野下元まで5.3Kmあり、道の両側にある桜が毎
年見事な花を咲かせています。   粟   野   町
                      粟野町観光協会
 
 古くから大越路峠は地域の重要な生活路として使われてきたが、看板に記された通り、峠道は昭和38年に舗装道路として改修され、頂上に竣工記念碑も建てられた。

粟野町名勝の看板 (撮影 2001.10.20)
 
 旧粟野町の中心は、思川の下流、粟野川が合流する付近の口粟野で、その意味で思川沿いの下粕尾の方が、下永野側より開けた地だったのかもしれない。それで、県道開通で永野地区の交通事情が良くなったと、看板は言っているのだろう。峠道につけられたカーブ番号も、下粕尾側が起点である。
 
 敷地の一角に木の立札が立つ。何かの警告板かと思ったが、どうにも字がかすれて読めない。いろいろ調べると、「山路来て」で始まる芭蕉の句が記されているそうだ。この峠と何の関係があるかは不明。
 

立札と記念碑 (撮影 2001.10.20)

立札 (撮影 2001.10.20)
実は芭蕉の句「山路来て・・・」が書かれているらしい
今はほとんど読めない
 

記念碑の碑文 (撮影 2001.10.20)
 昭和38年にたてられたと言う竣工記念碑の碑文には、次のようにある。
 
昔 この峠に茶屋があり 旅人は老媼(ろうおう)の汲んだ渋茶に舌づつみをうちながら下野(しもつけ)の山河を眺めた。そして草露を散らしつつ里へ下りて行った。大越路峠は県道栃木粕尾線の一部として産業交通の要路であるが難路のためその利用が充分でなく地元関係者から久しく開鑿(かいさく)が望まれていた。
 (中略)
 昭和三十八年五月 建立
 
 いつもながら、その場で碑文は読まず、撮った写真を後でルーペで覗いて解読するのは、なかなか苦労する。前出の志賀坂峠(しがさか)の開削記念碑と同様である。ところで、開削の古い字「開鑿」がここでも登場している。志賀坂峠で勉強したばかりなので、もうお手の物だ。志賀坂峠開削記念碑の建立の日付は昭和35年4月で、こちらの大越路峠とほぼ同年代である。
 
 
<峠と関係ない余談>
 
 大越路峠の駐車スペースは車一台がやっとで、とてもこじんまりとした峠だが、行き交う車もほとんどなく、あまり人目には付かない。それをいいことに、カセットコンロを取り出して湯を沸かし、カップ麺の昼食とした。今回は焼そばと、ソーダである。辛味の強いソースが効いた焼そばと、喉にグッと来る炭酸飲料の組合せは絶妙で、旅先の昼食では私の定番の一つとなっていた。焼そばに具が不足と感じる時には、これに魚肉ソーセージを一本加える。こうなるとボリュームもカロリーもたっぷりで、ついでに塩分も取り過ぎとなる。如何にも不健康そうな昼食である。
 
 最近は生活習慣病を考え、食品の塩分に対して関心を持つようになった。カップ麺の焼そばは食塩相当量で6g前後ある。しかも、ラーメンなどのようにスープ部分がないので、含有される塩分はことごとく胃の中に入ってしまう。魚肉ソーセージも1.5g程度と、味噌汁一杯を飲んだに等しい。日本人の1日の塩分摂取量は平均12g程度もあり、本来人間が必要とする量の倍近くにもなるらしい。
 
 そこで最近は1日8gを目標とし、朝と昼は各2.5gで合計5g、夕食は3gを目指している。すると、カップ麺の焼そばなど言語道断と言うことになった。魚肉ソーセージもおわずけで、もし食べるならせいぜい半分だけである。ラーメンや掛けそばなどのつゆ物は、絶対につゆを飲まない。そうすれば麺とかやくだけなら2g前後に押えられ、目標達成だ。以前は、ラーメンにしてもそば・うどんにしても、スープまで一滴残らず完食していた。今思うと空恐ろしい話である。
 
 カップ麺に含まれる塩分の2/3前後がスープの塩分なので、スープを残すことは塩分制限に極めて有効である。塩分を気にするあまり、ラーメンや掛けそば・掛けうどんを極端に避ける必要はない。スープさえを飲まなければ問題ないと考えている。
 
 ただ、旅先で困ったことがある。カップ麺の昼食でスープを飲まないと、残ったスープを捨てなければならない。これまでは完食していたので、空のカップをゴミ袋に入れるだけでよかった。しかし、スープを残しては持ち運ぶことが困難だ。それで、スープの捨て場所に右往左往することになる。仕方ないので、たまにはいいかと、スープまで完食する場合もある。
 
 塩分制限を開始してまだ数ヶ月だが、自宅でも時々食べるカップ麺は、ついついスープを飲みそうになる。口に含んだ時のあのしょっぱさがたまらない。ちょっと飲んではこれはいかんと理性で押し止めようとするのだが、なかなか自制心が言うことを効かない。それに既に買ってあった焼そばがまだ納戸に少し残っているのだ。焼そば断ちを始めて早3ヶ月。しかし、いつあれに手を出そうかと、虎視眈々と狙っているのだった。
 
下粕尾側に下る
 
 下元から下粕尾の大越路まで、看板によると5.3Kmで、峠からだと僅か2、3Kmだ。車で峠から下粕尾へ下ると、カーブ番号などどこへやら、あっと言う間に県道(主要地方道)15号・鹿沼足尾線に突き当たる。その間の写真も記憶もない。
 

前方に県道15号 (撮影 2001.10.20)
左手に赤い「とまれ」の標識

県道15号の手前に立つ看板 (撮影 2001.10.20)
左は上粕尾、前日光横根高原34Km
右は口粟野、前日光つつじの湯22Km
 
 県道が合流する大越路付近は閑散とし、下元の方が商店などが多かったような気がする。前を横切る県道15号のその先には、北の粟野川とを隔てる峰がそびえる。
 
 この大越路の交差点も、トンネルができた後は大きく様変わりしていることだろう。昭和38年に舗装の県道として改修され、永野地区の交通事情を改善した大越路峠であったが、今新たにトンネルの峠道として生まれ変わった。しかし、新しい道はまるで下永野を素通りするかのように一気に大越路に通じていて、それがやや気に掛かる。
 
 県道15号を左に入ると、その先粕尾峠(かすお)を越えて足尾に通じる。そう言えば、大越路峠と粕尾峠はどことなく似ている気がしていた。旧粟野町側から粕尾峠に登ると、右にカーブしながら峠のピークに到着し、その左手に駐車ペースがある。峠の南側と北側の陰と陽の対比も、似た感じがある。
 
 大越路から粕尾峠へ向かう思川沿いの県道15号はのんびりとした道で、途中に休憩所などがあり、旧粟野町の案内看板が立っていた(下の写真)。最奥の上粕尾には発光路と呼ぶ地名があり、「発光路の強力」の行事が受け継がれているらしい。大越路や発光路とは仏教に関係した地名だそうだ。古代より修験の場であったとのこと。
 

「あわの」の看板 (撮影 2001.10.20)

「あわの」の看板の一部 (撮影 2001.10.20)
大越路峠付近
(上の画像をクックすると拡大画像がご覧頂けます)
 
 栃木県の南側を旅して、ちょっと寄った大越路峠の後は、粕尾峠、細尾峠(ほそおとうげ、国道122号・日足トンネルの旧道)と越え、結局栃木県の北の奥へと入り込んで行った。これと言って印象に残らない栃木県南部の旅の中で、東屋があり眺望があり、ちょっとした憩いの場だったと思う大越路峠であった。
 
  
 
<走行日>
・2001.10.20 下永野→下粕尾(ジムニー)
  
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  9 栃木県 昭和59年12月8日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
峠と旅        峠リスト