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加杖坂峠
  かつえざかとうげ  (峠と旅 No.294)
  高見峠の手前で小さく越える峠道
  (掲載 2018. 8.23  最終峠走行 2018. 5.25)
   
   
   
加杖坂峠 (撮影 2018. 5.25)
手前は三重県松阪市飯高町栃谷
奥は同市飯高町青田
道は飯高町道・青田栃谷線の旧道
峠の標高は約615m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは旧道となった元の加杖坂峠
この下には加杖坂トンネルが通じる
 
 
 
   

<峠の数(余談)>
 世の中には万を超える峠があるとも言われる。ちょっと聞いた話では、日本の城は2〜3万もあるとのこと。 勿論、姫路城の様な立派な城から山の中の砦程度の物まで含まれる。それにしても、峠より城の数の方が遥かに多いというのはちょっと驚きだ。 峠と城は特に関係ないが、どちらも人工物であり、かつ地形や立地・人の世の移り変わりなどに大きく左右される代物だ。
 
 その為、歴史上存在したかどうかあやふやな城もあることだろう。峠も栄枯盛衰が激しく、その総数を捉えるのは難しい。 かつてマタギなどしか利用しない獣道の様な峠道は、山中に無数に通じていたことだろう。本来は一つの峠にトンネルが何本も通じた場合、峠としてはどのようにカウントするのだろうか。 同じ名前を持っていても、旧峠と車道の峠が明らかに別の道筋を通るという場合もある。元は複数あった峠道が一つの車道の峠に統一された場合はどうするのか。 新しく林道が通じた場合など、「峠」と名が付かなくても実体は峠そのものだったりする。 ウソ峠などともいうが、一つの峠道に付属的な小さな峠があり、しかも名前さえ付いていることがある。 道路と鉄路の峠を区別するのだろうか。峠が道の最高所ではなく、別の所に最高地点がある場合など、そもそも「山の上りから下りにかかる境」というような単純な峠の定義では判断しかねる。数え方によっては峠の数は膨れ上がって行くことだろう。
 
<面白い峠(余談)>
 一方、峠の数にあれこれこだわっても仕方ないと思う。それより、数ある峠の中からどうやって面白い峠を見付けるかだ。 県境となるような大きな山脈・山地を越える峠は、それなりに面白い。前回まで掲載した関田山脈越えの峠たちがそうだ。しかし、そうした「越え応え」のある峠は限られる。 万の峠のほとんどは、細かな峠ばかりだ。この「峠と旅」では300近い峠を掲載して来たが、今後は小さな峠の中にも面白味を探して行こうと思う。今回の加杖坂峠はその試みの一つであった。

   

<所在>
 峠道は概ね東西方向に通じる。峠の東は三重県松阪市(まつさかし)飯高町(いいたかちょう)青田(おおだ)となる。 「青田」の読み方が変わっている。松阪市になる前は飯南郡(いいなんぐん)飯高町(いいたかちょう)の大字青田であった。
 
 峠の西側は同じ松阪市の飯高町栃谷(とちだに、稀に「とちたに」)で、青田と同様に元は飯高町の大字栃谷であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 三重・奈良の県境を成して南北方向に台高山脈(だいこうさんみゃく)がそびえる。北の高見山から南の大台ケ原に至る延長約30kmの山脈だ。 その名は大台ケ原の「台」と高見山の「高」を取って付けられたそうだ。 この険しい山脈に通じる峠道は稀で、高見山(たかみやま)の南の中腹を越える高見峠(たかみとうげ)がほとんど唯一となる。高見峠は古い歴史のある峠で、近世には和歌山街道(伊勢街道などとも)が越えていた。 現在は国道166号の高見トンネルが台高山脈を抜けている。
 
 加杖坂峠はその高見峠の三重県側に於ける脇道的な存在でしかない。国道166号が櫛田川(くしだがわ)沿いに通じるのに対し、加杖坂峠は櫛田川の支流・蓮川(はちすがわ)沿いに登り、再び国道166号に戻って来る。

   

<水系>
 高見峠は三重県側が櫛田川(くしだがわ)水系、奈良県側が紀の川水系と分かれるが、三重県側にある加杖坂峠の道は全域が櫛田川水系に属す。
 
<青田川・蓮川>
 峠の青田側(東側)は櫛田川最大の支流・蓮川(はちすがわ)のそのまた支流の青田川(おおだがわ)の源流部となる。 蓮川はその本流となる櫛田川同様、台高山脈を源とするが、前述のように蓮川上流部などには県境越えの峠道が通じていない。 地形図には辛うじて徒歩道の様な道筋も見られるが、少なくとも車道の存在はないようだ。よって加杖坂峠は蓮川水域を代表する車道の峠と言える。
 
<栃谷川>
 一方、峠の栃谷側(西側)は木梶川(きかじがわ、きかじかわ)の支流・栃谷川(とちだにがわ)の上流部に位置する。
 
<櫛田川源流>
 櫛田川の源流は大きく木梶川と舟戸(ふなと)川とに分かれている。高見峠直下に下るのが舟戸川で、そちらを櫛田川本流とする資料もある。 その場合、支流の木梶川が流れ下って飯高町落方(おちかた)で櫛田川(舟戸川)に合流するということになる。
 しかし、流長の長いのは高見峠のずっと南を源とする木梶川の方である。 そちらを本流とする資料では、木梶川が飯高町木梶(きかじ)で栃谷川を合わせ、飯高町落方で舟戸川を合わせ、飯高町波瀬(はぜ)で太良木(たらき)川を合わせ、その付近以降を櫛田川としている。 現在の地形図では概ねこの様に取れる。どちらにしろ、木梶川と舟戸川が櫛田川の2大源流となるようだ。
 
<高見峠>
 尚、元の高見峠の道は舟戸川沿いに峠へと通じていた。大正期から路線変更され、戦後に開削された車道は一旦木梶川沿いに登り、その後舟戸川上部の高見峠へと到っていた。 それが後の国道166号となって行く。よって現在の木梶川沿いは高見峠の領域と言える。加杖坂峠は木梶川の支流でしかない小さな栃谷川水域だけが、その領域となる。
 
 しかし、高見峠に車道が通じる以前の昔は、峠を栃谷川沿いに下った木梶の地は高見峠の峠道からは外れていたことになる。すると、加杖坂峠は櫛田川本流・木梶川と最大の支流・蓮川を最上流部で繋ぐ峠道という大きな立場となる。

   

<峠名>
 今回の加杖坂峠のような小さな峠に関しては、文献(角川日本地名大辞典)には詳細な記載はない。青田や栃谷の項に辛うじてその名が見える程度だ。しかも、「加杖峠」とか「加杖坂」とあって、「加杖坂峠」の文字はなかった。峠に立つ地蔵の説明文(後述)でも、「通称加杖坂峠」としている。
 
 元々「峠」と名の付くはっきりした名称はなく、加杖坂などと呼んでいたようだ。文献では加杖坂が拡幅され、飯高町道・栃谷青田線が通じたとある。もしかすると、その町道完成後、何らかの峠名が必要となって加杖坂峠と仮称したのかもしれない。
 
<かつえざか>
 尚、加杖坂を「かつえざか」と読むことは現地で知った。蓮ダムで居合わせたバイクのライダーから聞いたものだ。それ以外、明確な根拠はない。
 
<かつえ谷川>
 ただ、文献に「かつえ谷川」という名称が出て来る。「かつえ谷川・青田川の水を集めた蓮川の・・・」とある。 この「かつえ谷川」という川は地図には見当たらず、青田川の支流かどうかも分からない。しかし、「かつえ」と呼ばれる地名が青田にあったことを窺わせている。 この「かつえ」が現在の「加杖」なのであろう。かつえと呼ばれる地に通じる坂道ということで、「加杖坂」などと呼称したのではないか。
 
<加杖>
 尚、峠道に「杖」の字が用いられるのは如何にもふさわしい感じがする。「加杖坂」とは杖を加えなければならないような険しい坂道を意味するかのようだ。 一方で、どうも当て字の様な気もしてならない。台高山脈を目の前にして、「川」が「尽きる」とか「ついえる」という意味で「かつえ」と呼んだのではないかと想像したりする。

   
   
   
森より峠へ 
   

<櫛田川沿い(余談)>
 高見峠(トンネルの方)を初めて越えたのはもう25年くらい前になる。今回は三重県側から峠を目指す。 奈良県との境は台高山脈やその北に続く高見山地に阻まれ、高見峠以外に道の選択の余地がない。しかし、単に快適な高見トンネルを抜けるだけでは物足りない。 行き掛けの駄賃として加杖坂峠とやらに寄り道しようと思う。そしてあわよくば高見峠の旧道を登れないかと期待している。
 
 櫛田川の中・上流域では国道166号は忠実に櫛田川に沿う。下流域でやや国道と川筋は離れるが、結局は国道の起点となる松阪市街の直ぐ北方で櫛田川も伊勢湾に注いでいる。三重県側の国道166号と櫛田川はほとんど一心同体の関係だ。

   

<香肌>
 湯谷峠(ゆだにとうげ)を湯谷トンネル(国道422号)で越えて来たので、国道166号に入った時はもう櫛田川の上流域である。この付近の櫛田川は「香肌峡」(かはだきょう)とも呼ばれる。文献では、「この一帯が古くから茶・シイタケ・アユなどの香り高いものの産地であったところから香肌の名がおこったといわれる」とある。
 
<川俣>
 また、江戸期には櫛田川上流域の河谷は「川俣谷」と称されたそうだ。 「川俣」は「かばた」とか稀に「かわばた」と読まれている。 それが現在の「香肌」(かはだ)に通じるとのこと。川俣を「かばた」と読むのが難しいので、前述の理由などから「香肌」の字を当てたものだろうか。
 
 現在、川俣の地名は見られないが、明治22年から昭和31年まで川俣村(かばたむら)があった。 旧飯高町の大字では、櫛田川に沿って概ね下流側から田引(たびき)・粟野(あわの)・富永(とみなが)・七日市(なぬかいち)・宮本(みやもと)に相当する。 昭和31年に宮前・川俣・森・波瀬の4か村が合併して飯高町が成立している。
 
 この「かばた」という古称があったことからして、「かつえ」もまた「川」の字が付く地名ではないかったと思える。

   

国道166号を高見峠方面へ向かう (撮影 2018. 5.25)
県道569号分岐の看板が出て来た

<県道569号分岐>
 国道166号は旧川俣村の領域から飯高町森(もり)へと入る。直ぐに県道569号の分岐を示す道路看板が出て来る。行先は「蓮ダム」とある。他にも「奥香肌湖」とか「健康の森」という案内看板が立つ。

   

県道569号分岐の看板 (撮影 2018. 5.25)

蓮ダムなどの案内看板 (撮影 2018. 5.25)
直進は国道166号を「高見峠 10km」
   

<看板>
 また、「天然温泉 かばたの湯 森のホテル スメール 左折4km」とか、「宮の谷峡谷 登山口まで12Km」などという看板が県道方向を指示している。かばたの湯の「かばた」とは「川俣」のことだろう。


看板が並ぶ (撮影 2018. 5.25)
   
左に県道569号が分岐 (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
県道569号へ 
   

<蓮峡線>
 加杖坂峠へは、高見峠へと向かう国道から分かれ、一先ず県道569号を進む。この道は蓮峡線(はちすきょうせん)と呼ぶ。櫛田川の支流・蓮川(はちすがわ)に沿ってその上流部まで通じるが、勿論台高山脈を越えることなく途中で尽きている。
 
<森>
 交通量の多い国道から外れ、県道蓮峡線は穏やかな道だ。直ぐに「森」というバス停があり、その奥が園地の様に整備されている。ちょっと立ち寄りたいような気にさせるが、加杖坂・高見と峠越えが控えているので先を急ぐ。
 
 この櫛田川に蓮川が合流する地は飯高町森で、広々とした「谷盆地」に集落が立地する。国道と県道が交わるちょっとした交通の要衝でもある。 明治初期からの森村で、明治22年に猿山村・蓮村・青田村と合併して新しい森村となり、旧村域は大字となった。昭和31年に飯高町が成立して、飯高町の大字森となって行く。

   
園地の様な箇所を過ぎる (撮影 2018. 5.25)
前には森バス停が立つ
   

櫛田川を渡る (撮影 2018. 5.25)

<櫛田川を渡る>
 県道は直ぐに櫛田川を渡る。橋の名は「新高橋」とあったようだ。渡った先からは蓮川の左岸沿いになる。
 
 古い道路地図を見ると、元の県道は蓮川からもう少し離れ、集落内に通じていた。現在の県道は川に沿った快適な2車線路になっている。沿道に建つ人家は少ない。「新高橋」という橋の名も、旧道に架かる「高橋」に対しての名称かもしれない。

   

蓮川左岸沿いの快適な道 (撮影 2018. 5.25)
沿道に人家は少ない

スメールの看板 (撮影 2018. 5.25)
   

<蓮川左岸沿い>
 新しい県道は蓮川左岸側を湾曲する川にぴったり沿って進む。川面が近い。一方、森の集落はやや遠い存在だ。大きな建物が見えたと思ったらお寺のようであった。

   

蓮川対岸を望む (撮影 2018. 5.25)
高い堰堤が築かれている
その向こうは水田になっているようだ

集落側には東漸寺の建物 (撮影 2018. 5.25)
   

櫛田川の看板 (撮影 2018. 5.25)
ただ、ここはその支流の蓮川沿い

<沿道の様子>
 蓮川沿いでは「あまご」と書かれた看板を多く目にした。漁期などが記されている。「櫛田川の源を守る実行委員会」による面白い看板が立っていた。笑っている魚は「あまご」なのだろう。
 
 
 「谷盆地」と表現されるように、蓮川が流れる谷には意外と広い平坦地が広がる。ただ、周囲を見渡せば、高い山がニョキニョキと屹立していて、独特の景観を成している。

   
蓮川上流方向を望む (撮影 2018. 5.25)
広い谷盆地の中を行く
   

奥香肌峡温泉方面を望む (撮影 2018. 5.25)

<奥香肌峡温泉>
 これまで看板に出ていた「ホテルスメール」とは、対岸の塩ケ瀬という所にある奥香肌峡温泉の宿泊施設のようだ。古くは国民保養センター奥香肌荘があったようだが、最近の地図には見えない。奥香肌荘の後継がスメールなのかもしれない。

   

<奥香肌峡>
 蛇行していた川筋がやっと峠のある西を向く。それまで広々としていた谷が狭まり、峡谷の様相を呈してくる。「奥香肌峡」という名称がある。櫛田川本流が「香肌峡」と呼ばれるのに対し、支流の蓮川では「奥」が付くようだ。
 
 川に沿っていた県道が、川沿いに進む道を分けて左岸の斜面を登りだす。この先に蓮ダムが完成しているので、今の県道はそのダム堰堤へと上がって行く。一方、川沿いの旧県道はダム直下へと向かう。「木場(こば)公園」などと案内があった。


落石注意の看板 (撮影 2018. 5.25)
蓮ダムへと登る道
   

<蓮ダム>
 ひとしきり登ると、左手に蓮ダムが大きく見えて来る。ダム堰堤の少し手前が広々としていて、付近にダム管理所の建物や公衆トイレがあり、トイレ脇からは展望台への長い階段が登る。

   

蓮ダム (撮影 2018. 5.25)

ダムの展望台 (撮影 2018. 5.25)
長い階段を上る
   
蓮ダム管理所の前辺り (撮影 2018. 5.25)
道路看板には「奈良」の文字があった
   

<奥香肌湖>
 蓮川の本流を蓮ダムで堰き止められてできた湖は奥香肌湖と呼ばれるようだ。実は「香肌」をどう読むのか分からずにいたのだが、堰堤脇の銘板に「おくかはだ湖」とあり、この時やっと「かはだ」と読むことが判明したのだった。

   

ダム堰堤脇 (撮影 2018. 5.25)
右手が堰堤
奥に見えるのは蓮ダム管理所の建物
銘板には「櫛田川水系 蓮ダム」とある

「おくかはだ湖」とある (撮影 2018. 5.25)
   

<石碑>
 堰堤より少し奥に進んだ所に「奥香肌湖」と刻まれた石碑が湖畔に立つ。碑文の日付は平成元年となっていたが、文献などでは蓮ダムの着工は1971年、竣工は1991年(平成3年)と出ていた。


奥香肌湖 (撮影 2018. 5.25)
   

奥香肌湖の石碑 (撮影 2018. 5.25)

<石碑>
 碑文を以下に写す。
 この自然石は、三波川変成岩類に
 属する砂質片岩で奥香肌湖の
 湖底より採取した石です。
 平成元年3月29日

 
 蓮ダムにより大字森の「津本」から上流の集落が移転を余儀なくされた。ダム湖に沈む集落だけでなく、過疎化による人の流出もあったことだろう。 ダムより上流側の水域は猿山・蓮・青田の地域となる。尚、「津本」という地名はもう地形図にもないが、奥香肌湖の右岸側に「津本公園」というのがあるようだ。

   

石碑の裏 (撮影 2018. 5.25)

碑文 (撮影 2018. 5.25)
   

<蓮ダム周遊散策マップ>
 ダム堰堤近くにはいろいろ看板が立ち、参考になる。特に「蓮ダム周遊散策マップ」という案内図が興味を引いた。ただ、これから向かう加杖坂峠に関しては何の情報も得られなかった。マップにも峠道は通じているようだが、「加杖坂峠」の文字は見られない。

   

蓮ダム周遊散策マップ (撮影 2018. 5.25)

マップの一部 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<奈良>
 ただ、道路看板に県道569号の行先としてポツンと「奈良」の文字が書かれていた。加杖坂峠の先の栃谷や木梶を飛び越し、高見峠を越えた先の奈良県を示しているようだ。何とも大雑把である。にわかには信じ難い。
 
<バイクライダー>
 「奥香肌湖」の石碑の前でうろうろしていると、県道の上流方向から一台のオンロードバイクが走って来て、石碑の前で一休憩始めた。 メットを脱いだ顔付は中年男性だったので、話し掛け易いと思い、この先の道の様子を尋ねた。この時、「かつえざかとうげ」と読むことを初めて知った。峠道は問題なく通じているようだが、車だと離合が難しい狭い道だとのこと。その点がやや気に掛かった。


「奈良」とある (撮影 2018. 5.25)
「林道」はダム堰堤を行く道
   

<昼食(余談)>
 12時を過ぎていたので、管理所前の駐車場で昼食を摂ることとした。それにしても暑い。普段なら、眺めのいい場所にでも腰かけて食事をするのだが、この炎天下では野外での長居はできない。仕方なく、車のクーラーを点けっぱなしで、狭い車内での食事となった。
 
 昼時とあってか、管理所の建物からの人の出入りも少し見掛けた。トイレに立ち寄るビジネスマン風の者も居る。 すると、若い女性が一人、この暑い昼下がりに展望台への長い階段を登って行った。建物の中での事務作業ばかりでは気が詰まるのだろうか。 ところが、間もなく階段を降りて来た。展望台の見回りでもして来たのかもしれない。

   
   
   
蓮ダム以降 
   

奥香肌湖を望む (撮影 2018. 5.25)
左手奥が蓮ダム
対岸に林道が通じる

<湖の左岸>
 湖の左岸に快適な県道が通じる。ダム近くには「この先落石有り」とか、途中にも「落石注意」の道路情報看板が立っていたが、当面はそのような危険をあまり感じさせない道が続く。
 
 沿道には風光明媚と表現してもいいかもしれない景色が広がる。かつては津本などの集落があったのだろうが、もう昔の様子など窺い知ることもできない。洪水調節などを目的に建築されたダムであったが、観光資源となる期待もあるようだ。

   
奥香肌湖を上流方向に望む (撮影 2018. 5.25)
正面の山の左手に蓮川本流、右手に支流の青田川が流れる
   

分岐の看板 (撮影 2018. 5.25)

<辻堂橋>
 左岸を2.5Km程進むと、赤いアーチの橋が見えて来る。道路看板では県道蓮峡線はその橋を渡る方向に左折して行くことを示している。直進が「奈良」で、そちらが加杖坂方面となる。幅員減少の道路標識が立つ。
 
 橋の名は辻堂橋(つじどうはし)で、蓮川の支流・青田川(おおだがわ)に架かっている。概ねこの橋より上流側が青田川となる。 ダム湖ができる前から県道は通じていたが、ダム湖と共に辻堂橋も架け替えられたものと思う。竣工は昭和63年(?)8月とあったようだが、写真がはっきりしない。

   

県道蓮峡線分岐の看板 (撮影 2018. 5.25)

左が辻堂橋 (撮影 2018. 5.25)
直進が加杖坂峠へ
   
   
   
蓮へ寄り道 
   

<蓮へ(以後は余談)>
 手持ちの2015年発行のツーリングマップル(関西 昭文社)に、「終点は廃村 廃校の石碑には殉職教師の悲しい話が・・・」とあったのが気になった。辻堂橋を渡った県道の終点にある蓮(はちす)という村のことである。行止りの道ではあるが、旅のついでに立寄ってみようと思う。もうこの地には二度と来ることもないであろうから。最近はよくそんなことを思う。(峠道の続きはこちら

   

<辻堂橋以降>
 辻堂橋に続いて辻堂トンネルを抜ける。古い地図にはこのトンネルはない。トンネル坑口脇に小さなお堂を見掛けたが、それが「辻堂」の名の由来だろうか。辻堂橋以降、暫くはセンターラインこそないが比較的道幅の広い走り易い道が続く。
 
<猿山>
 辻堂橋以降の蓮川上流域は飯高町猿山となる。 「猿山」は文献では「さるやま」となっていたが、大抵の道路地図などでは「えてやま」とルビが振ってある。 江戸期から明治22年までの猿山村。地名の由来は山間にあることにちなむという。この猿山も上流側にある蓮も、その集落は川俣(かばた)谷の谷盆地にある、と文献は記す。 「川俣」という呼称は櫛田川本流だけでなく、この支流の蓮川に関しても使われるのだろうか。明治22年からは森村の大字猿山、昭和31年からは飯高町の大字猿山となって行く。 昭和35年の世帯数35、人口232。その頃がピークであろうか。今は蓮川沿いにあった集落域のほとんどが湖底に沈み、蓮集落と共に無住の地となっている。

   

<鳥獣保護区の看板>
 途中、「飯高町森鳥獣保護区区域図」の看板が立っていた。地図上の現在地はかすれて消えているが、辻堂橋から3.5Km程、地形図に332mの標高が記されている地点だ。ここは地図によってはまだ猿山であったり、既に蓮に入っていたりする。
 
<青田栃谷線>
 看板の地図を見ると、上部に「加杖坂峠」の文字が見える。まだ加杖坂トンネルの開通前のようだ。 青田川沿いに峠を越える道は「飯高町道青田栃谷線」とある。文献などでは「町道栃谷青田線」とあったが、多分同じことだろう。 青田側から見た地図なので、青田が先に来ているのかもしれない。現在この地は松阪市なので、市道栃谷青田線などと呼ばれるのであろうか。
 道の起点となる辻堂橋は明確には描かれていないが、その付近に「青田字辻堂」とある。「辻堂」は青田の字名であった。


県道沿いに鳥獣保護区の看板 (撮影 2018. 5.25)
   

鳥獣保護区の看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<県道蓮峡線>
 地図の県道蓮峡線に目を移すと、途中に「清瀬」という地名が見える。大字猿山の字名だろうか。現在、この付近は奥香肌湖の上流部になり、集落は水没したようで痕跡もあまり確認できない。ただ、対岸に通じる道は「林道清瀬線」といい、その名を残す。看板の数100m先で清瀬線が蓮川を渡って来ていて、そこが林道終点となる。
 
 鳥獣保護区の看板は古く、まだ蓮ダムができる前の物と思う。蓮川や青田川には無数の支流が流れ込んでいるが、その中に「かつえ谷川」がないかと探したが見付からない。 もしかすると、青田川そのものの古称が「かつえ谷川」ではなかったかと想像したりする。櫛田川の古称が川俣谷だったように。

   

<蓮>
 林道清瀬線終点近くに立つ県道標識には「松阪市 飯高町蓮」とあった。既に大字蓮に入ったようだ。 徐々にダム湖の影響は少なくなり、川面が近くに見えて来る。その一方で道幅が狭くなり、寂れた道となる。ダム完成前からあった道に近いのだろう。 蓮の地に森からの道路が開通したのは昭和7年で、同26年には県道となったようだ。同31年に電灯開通、同34年に電話架設と続く。それ程昔のことではない。
 
<三軒屋>
 対岸に流れ込む江馬小屋谷沿いに通じる林道を分けた先で集落跡が出て来る。地図によってはまだ「三軒屋」という地名が載っている。蓮の字名となるのであろう。地形図でも僅かだが家屋の記号が残っている。


三軒屋集落付近 (撮影 2018. 5.25)
人家や畑の跡地か
   

三軒屋集落跡 (撮影 2018. 5.25)

三軒屋集落跡 (撮影 2018. 5.25)
小屋には「緊急電話」と書かれていた
   

<三軒屋集落跡>
 集落といっても、蓮川の谷は相変わらず狭く、蓮川左岸の急斜面に通じる道沿いに僅かばかりの平坦地が切り開かれている。以前は何軒かの人家が立っていたのであろうが、今はほとんどが空き地で、建物として残る物はあまり多くはない。

   
三軒屋集落跡道 (撮影 2018. 5.25)
人家が残る
   

三軒屋集落跡道 (撮影 2018. 5.25)
空地の奥にトイレがポツンと立つ

 中にはまだしっかり人家が建っており、土間への入口の戸が開いていた。かつてはそこを住人が出入りしていたのかと思うと、寂しい気がしてくる。空地の奥にトイレの小屋が残っていたが、時折かつての住民が訪れるのかもしれない。
 
 集落内にログハウス風の小屋が一軒立ち、そこに「緊急電話」と看板が出ていた。飯高町観光協会による「ゴミ持ち帰り」の看板や「室生赤目青山国定公園特別地域」に関した注意看板なども立つ。登山などで訪れる者が居るようだ。

   
三軒屋集落跡 (撮影 2018. 5.25)
下流方向に見る
   

<蛭(余談)>
 道は蓮川左岸の崖をへばり付くように通じる。ガードレールもない箇所があり、なかなかスリリングだ。車のハンドルは妻に任せ、私は写真撮りに注力する。
 
 すると、何となく左足のふくらはぎ辺りに違和感を感じた。無意識に手でこすり、ふとその手の指を見ると血が付いている。直ぐにピンと来た。 丁度、宮の谷峡谷に通じる林道宮の谷線の分岐があったので、その分岐に車を停め、慌てて外に飛び出す。ズボンの裾をまくって調べてみると、もう蛭は居ない。 無意識に手で取り払ってしまったようだ。
 
 蛭の1匹や2匹にかまれても実害はない。ただ、無理やり取り払おうとすると、皮膚に噛み込んだ顎の部分がそのまま残って取れなくなる。 蛭に噛まれた場合は慌てず騒がず塩を振り掛ける。すると、蛭が嫌がって自ら離れてくれるそうだ。以前、蛭に噛まれてからは、旅行かばんに少量の塩を入れた小さなビニール袋を携帯している。
 
 ただ、一般の旅行者でいつも塩を持ち歩いているなどという人は少ないだろう。また、蛭に噛まれても痛くもかゆくもないが、肌に食いついて胴体をくねらしている蛭を見て、落ち着いて居られる人は少ない。極めて気持ちが悪い。特に虫嫌いな人は尚更だ。
 
 本当は蛭が食いついている様子を写真に撮りたかったのだが、今回は無意識に取り払ってしまい、塩の効果を確認することもできなかった。血だらけのふくらはぎをティッシュでふき取ると、出血部は一箇所だけだった。念の為消毒し、バンドエイドを2枚重ねで貼る。
 
 処置はそれだけでは十分ではない。大抵の場合、蛭は群生している。一匹見付けたら、他にも居ると考えた方がいい。妻と一緒になってお互いの体中をチェックする。 特にズボンの裾、靴下、靴などである。車の中のシートも念入りに調べる。幸い、車の床に血を吸って丸く膨れた蛭を一匹見付けただけだった。こいつが犯人のようだ。 それをチリ紙に包んで車内に出し、これで一安心である。
 
 ところで、どこで蛭に食われてかについては心当たりがあった。湯谷峠である。 現在、この峠には湯谷トンネルが開通しているが、旧道を探してトンネル坑口上部へと登ってみた。 その時、迂闊にも草むらの中を不用意に歩き回ってしまったのた。多分、その間に蛭が靴にでも取り付いたのだろう。 その後、蓮ダムで昼食したりする間も、蛭はズボンの裾から入り込み、靴下を過ぎ、肌の露出しているふくらはぎに噛み付いたようだ。ここで発見するまで1時間半も経過していることになる。
 
 その夜、宿の風呂に入ろうと思い、もう止血したろうとバンドエイドを外してみた。しかし、小さな傷口からはツーッと鮮血が流れ落ちた。 蛭が厄介なのは、いつまでも出血が止まらないことだ。血液の凝固作用を妨げる液を分泌するらしい。新しいバンドエイドを張り直す。翌朝にやっと止血を確認した。
 
 峠道と蛭は切っても切れない関係にある。現代の快適な舗装路を車で走っている限りには関係ないが、昔の峠道では蛭の被害に遭うことが多かったようだ。 文献などでも木から多量のヤマビルが降ってきたなどと書かれている。しかし、私の経験上では、草の先端に鎌首をもたげて待ち構えていることが多い。 木から落ちて来るというのはちょっと考え難い。ある時、やはり峠の旧道を探していた時だったと思うが、ふと気が付くと周りの草にはそこら中に蛭が居た。 取り付く相手を求め、クネクネと身体を動かしている。生きた心地がしなかった。現代の峠でも、山道では十分な注意が必要である。

   
三軒屋以降の道 (撮影 2018. 5.25)
蓮川下流方向に見る
   

<地蔵>
 林道宮の谷線を分けた直ぐ先、何でもない路傍に小さな地蔵が佇む。今でもきれいに祀られている。何気なく写真を撮っておいたが、もしかすると例の殉職教師と関係があるのかもしれない。

   

路傍に地蔵 (撮影 2018. 5.25)

地蔵 (撮影 2018. 5.25)
不動尊とある
   

人家の一つ (撮影 2018. 5.25)

<人家>
 その後、沿道にポツリポツリと建物が見えてくる。人家の様だがもう人が住んでいる気配は全くない。付近は険しい崖で、広々とした平坦地などは望めない場所だ。ちょっとした空地は見られたが、もっと広々とした蓮集落があるのだろうと、先に進む。

   

<分岐>
 途中、右手の山へと登る道が分岐する。分岐の角には「蓮」(はちす)と書かれた看板が転がっていた。ただ、ツーリングマップルに廃校とあったのは、このもっと先である。


右に分岐 (撮影 2018. 5.25)
   

林道看板 (撮影 2018. 5.25)

<千石平線起点>
 分岐から先には林道標識や林道看板が立っていた。「林道
千石平線起点」とある。しかし、ツーリングマップルでは県道がまだ続いていることになっていた。多分、その終点に大きな集落があるのだろう。

   

<千石平線>
 ところが、行けども行けども集落など出てくる気配はない。道は未舗装となり、谷は深まり険しい崖にガードレールもない。かなり危険を感じる。思わずしり込みしたが、とにかく県道終点まで進むこととした。
 
<林道のゲート>
 結局、ツーリングマップルで示されていた県道終点は、林道千石平線のゲート箇所で、その先は一般車両進入禁止、チェーンが張られていた。どこにも廃校の石碑などはない。


険しい千石平線 (撮影 2018. 5.25)
   
林道のゲート箇所 (撮影 2018. 5.25)
   

<廃校跡>
 やはり千石平線起点付近までが蓮集落であったようだ。「蓮」の看板があった分岐を入ると小屋などが立ち、行止りに広い敷地があった。そこにかつては校舎が立っていたらしい。一時期、この地点に「蓮山の家」と地図に書かれ、今でも案内看板が残っていたりする。多分、廃校跡を使って「山の家」と呼ぶ施設が設けられていたのだろう。しかし、現在は朽ち掛けた倉庫の様な小屋が残るばかりだ。校舎跡には椅子が2脚ポツンと置かれていた。
 
<蓮(余談)>
 蓮(はちす)は蓮川上流に位置し、地名の由来は「蓮生寺」の名にちなむという。蓮川の名も蓮集落を流れることによるそうだ。 曹洞宗蓮生寺という寺が蓮にあったと文献にもあるが、今はどこにあったかよく分からない。
 「蓮」を「はちす」とも読むことはあまり現在人には馴染がないかもしれない。 ただ、渥美清主演の映画「男はつらいよ」の主題歌の中(2番)に、「いつかは はちすの花と咲く」というくだりがある。その「はちす」である「ハス」のことだ。
 江戸期からの蓮村で、明治22年以降は大字となり、最初は森村、昭和31年からは飯高町に属す。昭和35年のデータでは、世帯数59、人口370と大きな集落であったことをうかがわせる。

   

倉庫の様な小屋 (撮影 2018. 5.25)

廃校跡 (撮影 2018. 5.25)
   

<石碑>
 廃校跡に到る手前、山側の小さな沢沿いに石碑などが並んでいる。その一角に、人の姿をかたどった像が立つ。「殉職教師の悲しい話」のことを考え合わせると、教師とその教え子であろう。 中央が男性教師、左が男の子、右が女の子と分かる。しかし、肝心な碑文が書かれた石碑が見当たらない。これでは悲話について何も分からない。折角苦労してここまで辿り着いたのに、またしてもツーリングマップルに裏切られた気持ちだ。

   

石碑などが並ぶ (撮影 2018. 5.25)

教師と子供たちの像 (撮影 2018. 5.25)
   

<悲話>
 気が済まないので、その夜、宿に入ってインターネットで調べてみた。石碑は移設されていたようだ。 「殉職教師の悲しい話」とは、熱心な男性教師が外出先から無理を押して自転車で戻る途中、崖崩れに遭って亡くなられたとのこと。 林道宮の谷線分岐近くに地蔵があったが、どうやらそこが遭難現場となるらしい。集落までもう少しの所だ。
 
 地蔵や廃校跡は今でもきれいにされ、人の手が入っているように思われる。元の住民の方たちが時折訪れているのだろうか。教師や子供たちの像は笑っているが、どことなく寂しげにも思える。

   
   
   
青田川沿い 
   

辻堂橋の袂 (撮影 2018. 5.25)
あまごの漁期や火の用心の看板などが立つ
右手奥に青田栃谷線が延びる

<青田栃谷線へ>
 話を峠道に戻す。
 辻堂橋袂を起点に青田川(おおだがわ)に沿って青田栃谷線(栃谷青田線とも)が延びる。現在は松阪市の市道になるのだろう。ただ、現地には道の名に関する標識などは見られない。 行く行くはこの道が加杖坂峠を越え、国道166号に接続する。これまでの県道の様なセンターラインこそないが、ダム湖建設に伴って付け替えられた道とあって、十分な幅員を確保した舗装路が続く。
 
 橋の近くにはキャンプに関する注意看板が立っていた。キャンプ禁止かと思いきや、「ゴミは、持ち帰りましょう。」とのこと。 山火事などを危惧するあまりキャンプ全面禁止とする地が多い中、ここは良心的である。野宿させてもらえるなら、野宿の痕跡をほとんど残さずに立ち去ってみせる。ただ、もう野宿する体力も気力もなくなってしまったが。

   

<村道開通>
 青田川流域に位置する青田の地に森からの村道(当時はこの地域全てが森村)が開設されたのは、蓮などと同様、昭和7年(1932年)のことだそうだ。今は蓮ダムにより青田川の方も水位が上がって道路は川の左岸の高みに通じるが、元の村道はもっと下に通じていたのだろう。
 
<深山>
 文献では青田川の川名は青田を流れることにちなむとある。また、青田川全流域は「深山(みやま)谷」とも呼ばれたそうだ。 青田川が蓮川に合流する付近に深山小学校があったとのこと。しかし、今はその痕跡も見当たらない。湖水に沈んだものだろう。 辻堂橋袂から150m程進んだ地点で道路脇に大きな石碑が立っていた。記念碑かと思ったが、大きく「不動尊」と刻まれていただけだった。古そうな物で、かつて青田集落にあった物をここに移設したのではないだろうか。

   

<青田川左岸>
 道は青田川左岸に流れ下る小さな支流の谷を、その都度橋を架けて渡って行く。
 
 現在の沿道に暫くは建物などは見掛けない。ただ、崩谷橋(くずれたにばし)という橋を渡った先で、倉庫の様な二階建ての建物を見た程度だ。ダム管理に関係する建物だろうか。


建物 (撮影 2018. 5.25)
   

<深山橋>
 蓮川沿いの様には対岸に道は通じていない。しかし、倉庫を過ぎた先で青田川に橋が架かっていた。「深山橋」とある。橋はやや古そうで寂れている。 地図を見ると、対岸の橋の袂の左右に道が通じるが、どちら方向も直ぐに行止っている。地形図には「荒地」のマークがあり、多分元は青田集落の畑があったのだろう。今は荒れ地となり、深山橋もほとんど使われないものと思う。

   

左手に深山橋が架かる (撮影 2018. 5.25)

深山橋 (撮影 2018. 5.25)
   

<谷の様子>
 青田川は谷一杯に水をたたえ、暫くは湖の様相が続く。谷の幅はいまだ広い。実際にも青田川というより奥加肌湖の一部として扱われるのかもしれない。
 
 青田の昭和35年の世帯数113・人口496は、猿山や蓮を上回る。かつてこの谷に多くの人々が住んでいた。それも今は幻のようだ。

   
青田川を下流方向に見る (撮影 2018. 5.25)
深山橋が見える
   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
右手に登るのは林道笹ヶ谷線

<谷が狭まる>
 深山橋から1Kmも進むと、谷は狭まりやっと川らしい様相に変わった。軽トラが一台停まっていた。猿山や蓮では工事車両くらいしか目にしなかったが、軽トラは地元車両であろう。 集落が近いことをうかがわせる。人家はまだ皆無だが、ポツポツと倉庫のような建物などが見られ、人が住む気配を感じさせる。

   

<奥加肌湖青田展望所>
 川沿いにアスファルト敷きの広い駐車場の様な敷地が設けられていた。入口には特に看板はないが、地図によっては「奥加肌湖青田展望所」と出ている。 駐車場に続いて川岸に降りられるようになっていたり、対岸に渡る橋も架かっている。奥には東屋が立ち、「想」と題した石碑が並ぶ。蓮ダム以降、加杖坂峠を越えて国道166号に至る間では、最も立ち寄り易い場所で、休憩にはもってこいだ。ただ、トイレの施設はなかったようだ。

   

左手に奥加肌湖青田展望所 (撮影 2018. 5.25)

「想」の石碑 (撮影 2018. 5.25)
   

<石碑>
 石碑はやはり蓮ダム建設とそれに伴い青田地区が全戸移住を決意するまでの経緯を記していた。この石碑が立つ地点より下流側は、ダム湖の影響下に入るのだろう。

   

<人家>
 徐々に沿道の建物が多くなる。人家らしい建屋も散見される。青田は基本的には全戸移転なのであろうが、青田川上流部でダム湖の影響がない所では、まだ僅かながらも定住者が居るのかもしれない。

   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)

人家らしい建物 (撮影 2018. 5.25)
   

お堂 (撮影 2018. 5.25)

<お堂>
 沿道の敷地にお堂がポツリと建っていた。「南無不動明王」と赤いのぼりがはためく。新しそうなお堂で、多分水没したお堂をここに新しく移転したのではないだろうか。

   

<沿道の様子>
 確かに人家は見られるが、中にはもう住民の気配がない建物もある。一方で、空地が多い。かつては人家が立ち、あるいは畑を耕していたのかもしれないが、今は草地となっている。 その中で、大きな蔵の様な建物が目に付いた。農機具置場や穀物倉庫などに使われるのかと思った。はたして現役だろうか。

   

大きな建物 (撮影 2018. 5.25)

大きな建物(反対側) (撮影 2018. 5.25)
   
空地が広がる (撮影 2018. 5.25)
   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
建物が多くなる

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<林道分岐>
 増々建物が多くなった所でY字路が現れる。本線から左に分かれ、青田川の源流の一つ・木屋谷川沿いに進む林道木屋谷線が延びる。本線の青田栃谷線は右手の山へと登って行く。分岐周辺には一段と建物が集まり、ちょっとした集落の様相を呈する。


この先林道分岐 (撮影 2018. 5.25)
   
林道分岐の様子 (撮影 2018. 5.25)
左が林道木屋谷線、右が市道青田栃谷線を加杖坂峠へ
   

林道方向を見る (撮影 2018. 5.25)

<林道木屋谷線>
 林道木屋谷線はこの分岐を起点に木屋谷川沿いを上流部へと遡るが、台高山脈を越えることはない。ただ、林道に引き続き徒歩道が山脈を越えているようだ。
 
 どういう訳か黄色い林道標識が市道脇にあった(下の写真)。ただ、埋め込まれている訳ではなく、擁壁に立て掛けてあるだけだった。ちょっと紛らわしい。

   

<青田川本流>
 木屋谷川という名が付いていることからして、青田川の支流のように思える。確かに加杖坂峠から流れ下る川の方を青田川としている資料がある。しかし、加杖坂峠は青田川水域とその本流となる櫛田川(木梶川)水域とを分かつ稜線上でしかない。
 
 一方、木屋谷川は奈良との県境を成す台高山脈に源を発す。流長も木屋谷川の方がずっと長い。更に文献では青田川の項で、「台高山脈中部の国見山東麓に源を発し」とある。これからすると、木屋谷川が青田川本流とも取れる。
 
 地形図では加杖坂峠方面からの川には何も記されていない。青田川の延長かもしれないが、名無しの川かもしれない。すると、「かつえ谷川」の名がが思い出されて来る。


何故か市道脇に立つ林道標識 (撮影 2018. 5.25)
鳥獣保護区(左)や車上狙いに注意(右)の看板が並ぶ
   
分岐より峠方向を望む (撮影 2018. 5.25)
正面奥にあまごの養殖場らしい施設がある
   

<青田>
 木屋谷川が青田川に合流するこの地は、谷が幾分広がり、その一帯に建物が集中している。現在の青田に於いてはもっとも集落らしい様相を見せている。 しかし、建物は皆新しく、昔から続く集落といった雰囲気とも異なる。ここは元の青田地区に於いては最奥の地となる。 改めて写真を眺めてみても、人家より民宿や何かの施設の様な感じの建物が多い。「あまご直売」という看板も見え、養殖場らしい施設が並ぶ。こうした事業の為に人々が訪れることは間違いないが、その内どれだけの人が青田に定住しているだろうかと思う。
 
 文献によると、青田は古くは「盛田」といい、後に転訛して「青田」となったそうだ。 昭和期になってやっと村道が開通、続いて電灯や電話が架設される。一時は500人前後の住民を擁し、中学校の分校もあったそうだ(昭和42年廃校)。過疎もあったろうが、ダムの影響は大きい。蓮ダムより上流部では、本流の蓮川沿いはもとより、この青田川沿いもほぼ無住地帯に限りなく近い。

   
   
   
峠への登り 
   

<分岐以降>
 林道木屋谷線を分けてからは、峠に向けて本格的な登りが始まる。暫くは沿道に建物も見えるが、間もなく林の中を行く寂しい道となる。概ね北西方向に向かって登る。
 
 それでも時折、沿道の林の中にポツリポツリと建物が見え隠れする。人家なのか、人家だとしも住民は居るのかどうかは、ちょっと判別できない。


沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
時折建物が現れる
   

沿道に空地 (撮影 2018. 5.25)

<沿道の様子>
 また、耕地も峠までの中腹辺りまで点在する。ただ、一見して草地のようにしか見えず、既に休耕地となっている所も多いようだ。

   

<道の様子>
 道は川の左岸沿いに登る。時折、左岸側に注ぐ小さな支流を横切る。
 
<狭い道(余談)>
 妻はバイクの男性の言葉を懸念していた。車の離合が難しい「狭い道」ということに関してだ。しかし、私は大丈夫だと予想していた。 バイクで走っている者にとっては、車だと狭そうに思えるかもしれない。しかし、あくまで個人的な感想である。実際にも道幅は1.5車線を十分に確保しており、小型乗用車同士のすれ違いなら、ほぼ問題なかった。
 
 これより遥かに狭く、軽自動車一台で走っていても窮屈な思いをする道を何度も経験している。それこそバイクとすれ違うにも苦労するような道である。 それに比べ、加杖坂峠の道は何のストレスも感じない。しかも、狭い道はそれなりに交通量が少ない。今回の加杖坂峠でも、すれ違ったのは軽ワゴン車一台だけで、僅かに減速しただけで事もなく離合したのだった。


支流の川を横切る (撮影 2018. 5.25)
地形図では標高444mの地点
   

<青田の大カシ(余談)>
 この加杖坂峠への本格的な登りが開始されてからは、興味を引く看板類は皆無である。参考になる物が一切ない。唯一、峠(トンネル)までの中間地点辺りで、「青田の大カシ」という看板を見掛けた。旧飯高町指定文化財となる天然記念物だそうだ。大カシへの道は急勾配だが、車で入れそうでもある。しかし、どのくらい先にあるかも分からないので、入り込むのには躊躇させられた。それこそ狭い道である。

   

右手に青田の大カシの看板 (撮影 2018. 5.25)
旧飯高町教育委員会による物
看板脇から右逆Y字に急坂が登る

青田の大カシの看板 (撮影 2018. 5.25)
   

<工場>
 沿道にはポツリポツリと建物が見えていた。すると、一段と大きな建物が現れた。人家などではなく、工場か資材置き場のようである。その先、峠を越え反対側の栃谷集落に至るまで、建物は見られない。


工場の様な建物を過ぎる (撮影 2018. 5.25)
   

青田川源流を横切る (撮影 2018. 5.25)

<青田川源流>
 峠は正確には青田川の源頭部にはない。大きな建物を過ぎた先で道は川を渡るが、それが青田川本流となるようだ(木屋谷川は別として)。青田川源頭部はここより北東方向にある。一方、峠は北西方向から流れ下る支流上部に位置する。その支流が「かつえ谷川」であろうか。

   

<支流沿い>
 それまでゆったりしたカーブしかない道だったが、支流沿いになってS字カーブが現れる。しかし、それも僅かな区間で、険しいものではない。道幅は依然十分あり、幾分空が開けて来た。ただ、あまり景色に恵まれず、終始林の中だ。


S字坂を登る (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
加杖坂トンネル 
   

トンネル前にある分岐 (撮影 2018. 5.25)
左がトンネル、右が旧道

<トンネル手前>
 道はひょっこり峠に到る。何の予感もなかった。加杖坂トンネル坑口の数10m手前がちょっと開けた箇所となり、そこから支流の川を渡った先に暗いトンネルが待っている。背後から午後の西日が差し、逆光で尚更暗い感じがする。
 
 橋の手前を右手の山へと分け入って寂れた道が登る。それは元の加杖坂峠に至る旧道である。バリケードが置かれているが、端に除けてあった。

   
分岐の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

橋の先に加杖坂トンネル (撮影 2018. 5.25)
逆光で写真が撮りづらい

加杖坂峠への旧道 (撮影 2018. 5.25)
バリケードが置かれているが、端に除けてあった
   

<道程>
 林道木屋谷線分岐からこの旧道分岐まで登ること約2.5Kmであった。僅かな距離で、寂しい道だが走り難いこともない。ただ、飯高町森で国道166号から分かれた時からすると、道程は約13Kmとなり、それなりに山奥を走り続けて来たことになる。
 
 尚、峠の栃谷側は国道166号に接続するまで約2.5Kmと、青田側とほぼ同様である。加杖坂峠の正味の道程は合計約5Kmとなる。

   
分岐より麓方向を見る (撮影 2018. 5.25)
   

<峠の様子>
 支流の橋を渡った先はそのままトンネルへと続くので、車を停めるのは橋の手前、旧道分岐付近に限られる。そこより歩いて散策する。 橋より下を覗くと、しっかり川筋がうかがえるが、水はほとんど枯れていた。この川の源頭部は正確には加杖坂峠ではなく、峠よりやや東の尾根上になるようだ。


橋より旧道分岐方向を見る (撮影 2018. 5.25)
手前が加杖坂トンネル
   

支流の川の上流側 (撮影 2018. 5.25)
電線の様な線が横切っている

支流の川の下流側 (撮影 2018. 5.25)
   

<トンネル坑口の様子>
 何の変哲もないトンネルだ。草が生い茂り、坑口上部に掛かる扁額も半分隠れて見えない。しかも逆光で写真もうまく撮れなかった。 ただ、「加杖坂峠」というのは仮称かもしれないが、扁額などに「加杖坂トンネル」とあるので、少なくとも「加杖坂トンネル」は正式な名称である。

   
加杖坂トンネルの青田側坑口 (撮影 2018. 5.25)
   

<標高>
 地形図を見ると、加杖坂峠はトンネルのほぼ上部に位置する。トンネル坑口の標高はほぼ550mで、峠の方は約615mと地形図の等高線では読める。トンネル上方を眺めてみても、僅かに鞍部らしいことがうかがえるだけだ。

   
加杖坂トンネルの青田側 (撮影 2018. 5.25)
この上方がほぼ加杖坂峠
   

坑口左手にトンネルの銘板 (撮影 2018. 5.25)

<トンネル開通年>
 坑口の左にはしっかり銘板が取り付けられていた。「1980年(昭和55年)9月竣功」とある。
 
 蓮ダムの着工は1971年だそうだが、文献では「昭和55年」(1980年)とも記されていた。本格的な工事が始まったのがその年なのかもしれない。 どちらにしろ蓮ダム建設に先立ち、加杖坂峠にトンネルが通じていたことになる。ダム建設の為の資材運搬などに、この加杖坂トンネルは使われたのだろう。あるいは、ダム建設があったので、それをきっかけに加杖坂トンネルが造られたとも言えるかもしれない。
 
 尚、高見峠の高見トンネルの着工が昭和55年8月、完工は同59年(1984年)3月(トンネル銘板では1983年3月)である。加杖坂トンネルは数年ではある高見トンネルよりも歴史は古い。

   
トンネルの銘板 (撮影 2018. 5.25)
   

<トンネル内>
 銘板の他には坑口脇のトンネル内壁に縦20cm、横幅30cmくらいの銘板に大きく「60」と書かれていた。近くに他の数字は見られない。何のことだろうか。
 
 青田側ではトンネル坑口まで電灯線が架設されて来ている。それでもトンネル内に照明は皆無だった。ただ、延長260mの加杖坂トンネルは真っ直ぐで、路面の起伏も最小だ。反対側の出口も良く見えていて、怖そうな感じはしない。内部も至って普通のトンネルである。
 
 尚、例の「60」という数値はトンネル延長の「260」の「60」だろうか。トンネル内には「200」とか「100」といった銘板があるのかもしれないが、トンネル奥には入らなかった。


謎の番号 (撮影 2018. 5.25)
   
トンネル内の様子 (撮影 2018. 5.25)
照明はない
   
坑口前の様子 (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
旧道へ 
   

<旧道>
 いつも迷うのは、旧道に進むかどうかである。トンネルもこれはこれで一つの峠ではある。しかし、やはり元からあった峠を一目見てみたい。ましてや車道が通じるなら少しくらい険しくても行って見る価値はある。
 
 しかし、最近は気力不足だ。車も以前のような走破性の高いジムニーやパジェロ・ミニではない。一応四駆だが、やはりどこか頼りないハスラーである。最低地上高の物足りなさも懸念される。ハスラーは街中でこそ映える車で、悪路には到底似合わない。
 
 また、湯谷トンネルでは蛭に噛まれただけで、旧道の痕跡も見付けられなかった。この加杖坂峠でも通れるかどうかは極めて不確定だ。やや迷ったが、再びこの地に訪れることはない。悔いを残したくないので、ハスラーに鞭を入れ、旧道へと突き進むのであった。

   

旧道のバリケード (撮影 2018. 5.25)

旧道に立つ面白い落石注意の看板 (撮影 2018. 5.25)
崖が車をにらんでいる
   

右にカーブして東に向かう (撮影 2018. 5.25)

<旧道へ>
 入口にはバリケードが置かれてあったが、隅の方に寄せてあった。脇を車が通っている証拠である。これも旧道へ入る切っ掛けとなった。路面はアスファルト舗装から直ぐに古ぼけたコンクリート舗装に変わった。「落石注意」の看板が立つ。これらもトンネル開通前からある古い物だろう。落石注意の看板は車や崖が擬人化された面白い物で、他でも2回程見掛けた。
 
 道は支流沿いに50m程登ってから右急カーブで川沿いを離れて行く。多分、加杖坂峠へ登っていた古い道は、そのカーブ手前で支流を渡り、峠への崖をよじ登って行ったものと思う。しかし、今ではそのような道の痕跡も確認できない。

   

<道の様子>
 路面のコンクリートはひび割れ、砂利や枯草・枯枝の堆積も多い。それでも路面自体は平坦で、ゆっくり走っている限りはハスラーでも何の問題もない。ただ、道幅はやっとどうにか乗用車一台分しかなく、軽トラック専用といった感じだ。こういうのを「狭い道」と言のである。
 
<景色>
 道は一路、峠とは真反対の東へと登る。間もなく開けた箇所を通過する。それまで通って来た青田川支流の谷を挟み、反対側の景色が望める。頂上に木が林立した山が見える。 地形図では「668m」と書かれたピークだ。その直ぐ下に道が横断しているのが確認される。現在の加杖坂峠の道で景色が望めるのはこの地点がほぼ唯一である。


開けた所に出た (撮影 2018. 5.25)
   
対岸の上部に道筋が確認できる (撮影 2018. 5.25)
   

林の中の道 (撮影 2018. 5.25)

<林の中>
 道は再び林の中に入り、視界を失う。道は徐々に悪くなって行く。もう、壊れたコンクリート舗装なのか、それとも単なる砂利道なのか区別がつかない。
 
 
<分岐>
 道は東へ行き切った所でUターンし、峠のある西へと転回して行く。そのカーブより右へと道が分岐する。奥に軽トラが停まっていた。山仕事か何かで山中に入っているのだろう。 こうして加杖坂峠の旧道は作業道として今でも細々ながら利用されている様子だ。また、こうして山中に入る者があることからして、青田に定住している方も居るのかもしれないと思われた。

   
右に道が分かれる (撮影 2018. 5.25)
奥に軽トラが停めてある
   

<分岐以降>
 分岐を過ぎた先は、山仕事の車もあまり入って来ないのか、道は増々荒れた。コンクリート舗装の様な痕跡も僅かに残るが、実質は未舗装路と変わりない。路面の凹凸も多い。日の当たり易い場所は草がはびこっている。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.25)

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<悪路>
 路肩が一部崩れている箇所に出くわした。軽自動車一台が通れる幅しか残っていない。路面のデコボコも大きい。 通れないこともなさそうだが、ここを切り抜けた先で、更に崖崩れで通行止にでもなっていたら厄介だ。バックでここを引き返してこなければならなくなる。 歩いて先のブラインドカーブ辺りまで様子を見に行く。道は荒れているが、崖崩れや路肩が落ちている箇所は見当たらない。それを確認し、先へとハスラーを進める。


悪路 (撮影 2018. 5.25)
   
悪路の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

悪路は続く (撮影 2018. 5.25)

<道の様子>
 路肩が崩れるような急斜面の区間は過ぎ、地形的にはやや安定しだした。ただ、路面の轍が深く掘れている。大きな岩もゴロゴロしている。ハスラーの最低地上高では危なそうだ。コース取りを慎重に、轍にはまらないように走る。
 
 
<再び分岐>
 峠の手前150mくらいでまた分岐がある。右手方向にUターンする形で分かれて行く。そちらの枝道へも轍は続いていて、どちらが本線か迷うくらいである。峠へはそこを直進する。 

   

右に分岐あり (撮影 2018. 5.25)
左が峠方向だが、轍は右へも続く

分岐を麓方向に見る (撮影 2018. 5.25)
左が枝道
   
   
   
 
   

<峠の青田側>
 道は峠に対し鋭角にアプローチしている。ちょっとした広い場所に出たかと思うと、道はそこより直角に曲がって峠の切通しへと続いていた。
 
 峠の青田側は地形が比較的穏やかで、落ち着いた雰囲気がある。峠が通じる峰の南東側になり、日当たりがあって明るいのも好印象だ。峠の切通しとは反対方向に枝道が分かれていて、三叉路にもなっている。その付近は空が開け、ぽっかりとした空間を形成している。


前方を右に曲がると峠の切通 (撮影 2018. 5.25)
   
峠の青田側 (撮影 2018. 5.25)
右が切通し
ハスラーは峠より分かれる枝道側に停まる
   

<切通し>
 今の加杖坂峠は稜線を切り崩した狭い切通しとなっている。車一台がやっとという幅しかない。車道開通前の峠は5mくらい上方に通じていたのではないだろうか。 路面は実質的には砂利道だが、元々コンクリート舗装されていたような痕跡もある。コンクリートが砕けて砂利道になった様にも見える。はっきりと言えるのは、その寂れ方だ。1980年に加杖坂トンネルが開通して以来、ほとんど通る車は居なくなったのだろう。

   
峠の切通し (撮影 2018. 5.25)
手前が青田、奥が栃谷
   

<青田側に下る道>
 現在の青田側に通じる車道は、ほぼ稜線に沿って下って行く。元の峠道は峠よりそのまま谷へと下り、トンネル坑口付近へと至っていたものと思う。 水平距離で僅かに100m余りしかない。ただ標高差は60m近い。車道の開削は難しいことだろう。現在、谷へと下る古い道のような痕跡を確認するのも難しい。


峠より青田側に下る道を望む (撮影 2018. 5.25)
元の峠道はこの右手の谷へと下っていたのか
   

<峠から延びる枝道>
 峠の青田側から南へ登る枝道が気になった。稜線近くを行く開けた道だ。少し進むとモヒガン刈りの頭の様な山が直ぐ先に見えた。 ここまでの旧道を登る途中に望んだ668mのピークである。峠から続く稜線上に位置する。枝道はそのピークの東側を通過しているようだ。 その枝道の周辺一帯は木が伐採され、植林でも行われている様子だった。車で入ることはしなかったが、多分眺めがいいことだろう。

   

枝道の先に668mのピーク (撮影 2018. 5.25)
モヒガン刈りの頭のようだ
枝道はその前を通って行く

枝道側から峠を見る (撮影 2018. 5.25)
左が峠の切通し、右が青田集落へ
   

<旧村境>
 加杖坂峠は、現在は松阪市の飯高町青田と飯高町栃谷との大字境でしかない。旧飯高町の時代もほぼ同じだ。 ただその前は、県道蓮峡線沿いの鳥獣保護区の看板に「旧波瀬(はぜ)村と旧森村の境界稜線」とあったように、峠は村境に位置していた。波瀬村も森村も明治22年から昭和31年まで存続し、その後どちらも飯高町の一部となっている。
 
<波瀬村>
 波瀬村は加杖坂峠を西に下った栃谷(とちだに)や木梶(きかじ)を含む、合計11の大字から成っていたようだ。 森村が大字森から蓮川上流域だったのに対し、波瀬村は概ね大字森より上流の櫛田川本流域となるようだ。多分、波瀬・森の村境は櫛田川と蓮川の分水界にほぼ一致していたものと思う。 尚、波瀬村は櫛田川本流最奥の地となり、そこに高見峠が通じていた。

   
栃谷側から見る峠 (撮影 2018. 5.25)
   

<車道の開通>
 元の峠が切り崩され、切通しの車道が通された時期は分からない。ただ、文献では「町道栃谷青田線」が「拡幅」され青田と栃谷を連絡するようになったとある。「町道」というからには飯高町が成立した1956年(昭和31年)以降となる。鳥獣保護区の看板にも、トンネルのない飯高町道青田栃谷線が描かれていた。トンネル開通が1980年なので、車道の旧道は僅か24年にも満たない短命だったということになる。
 
 気になるのは、文献の発行が1983年(昭和58)で加杖坂トンネル開通直後となる。文献に言う「拡幅」というのはトンネル開通のことかもしれない。 一方、1997年発行のツーリングマップルでもまだトンネルは記されてなく、加杖坂トンネルはなかなか道路地図に反映されなかった。文献もトンネルの存在に気付かなかったかもしれない。 それからすると、やはり飯高町になってから古くからの加杖坂が拡幅されて車道が通され、町道栃谷青田線と呼ばれるようになったように思える。

   

<峠の栃谷側>
 道は稜線の峰を巻くように急カーブして行く。峠の栃谷側は傾斜が厳しく、道以外の空地などの余裕はない。車道はその傾斜地を大きく蛇行して下って行く。急斜面な為か、法面の一部はコンクリート擁壁となっている。
 
 峠の鋭い切通しでも山肌が露出したままだし、急な崖でもガードレールは少なく、舗装は簡易的なコンクリート舗装で、旧道全般的に最低限の車道といった印象を受ける。擁壁を覆うコンクリート箇所も必要最小限だ。


峠の栃谷側 (撮影 2018. 5.25)
   
栃谷側へ下る道 (撮影 2018. 5.25)
一部はコンクリート擁壁となっている
   

<栃谷側の様子>
 栃谷側の谷は急だが、木々が林立し、眺めはほとんどない。車道開通当初だったら栃谷川が流れる谷が見渡せたかもしれない。

   

栃谷側の様子 (撮影 2018. 5.25)
眺めはない

栃谷側の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<峠のこと>
 峠からは稜線上に通じる山道が始まっているケースが多い。しかし、加杖坂峠の切通し付近からは、稜線へと登る山道などはなさそうだった。車道開削時に削られた岩が露出するばかりだ。ここは台高山脈の主脈などとは違い、登山などにも人気がないのかもしれない。
 
 かつては村境の峠だったろうが、車道が開通した時点では既に飯高町内の大字境でしかなかった可能性が高い。峠の境には何の看板もなく、全くそっけない有様だ。何か黄色い金属製のポストがあったが、看板が立っていたわけではなく、多分カーブミラーの残骸の様であった。

   

稜線へ登る登山道かと思ったが (撮影 2018. 5.25)
単に岩を削った跡のようだ

黄色い支柱はカーブミラーの残骸? (撮影 2018. 5.25)
   

<お堂>
 この峠で唯一注目される物は、切通しの北側の壁面に埋もれるようにして残るコンクリート製のお堂だ。前には供物を供える石も並ぶ。ところが、お堂の中はもぬけの殻である。 多分地蔵が祀られていたのだろうが、影も形もない。しかし、見当は付いた。トンネル開通後、ここは旧道となり通る者も稀だ。きっと地蔵は新しい峠の方に移されているに違いない。青田側にはなかったので、これから下る栃谷側にあるにだろう。そう期待した。

   

小さなお堂が佇む (撮影 2018. 5.25)

お堂の様子 (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
旧峠を栃谷側に下る 
   

<栃谷側の道>
 峠から栃谷側に下る道は、相変わらず荒れている。しかし、荒れたながらも一定レベルで安定している。 路面は砂利道で、小枝が散乱しているのが気になったが、深い轍や路肩が崩れている箇所は見当たらない。ハスラー程度の車でも、ゆっくり走っている分には何ら問題はない。 これは林道だと割り切ってしまえば、何てことない道である。
 
 峠直下の数100mの間は急傾斜地を下るので、擁壁が多い。中には一部崩落し、路肩にコンクリートが散乱していた。通行には支障なかったが、倒木が横たわっていたりする。こうして旧道は徐々に朽ちて行くのだろうか。


擁壁が崩れている (撮影 2018. 5.25)
   

ほとんど未舗装 (撮影 2018. 5.25)
倒木もちらほら見掛ける

僅かにコンクリート舗装 (撮影 2018. 5.25)
   

しっかりしたコンクリート舗装 (撮影 2018. 5.25)

<コンクリート舗装>
 300m余りも走ると、僅かにコンクリート舗装の様相を呈し、間もなくしっかりしたコンクリート舗装路となった。 道が走り易くなったことより、道路としての体裁が整っていることがうれしい。こうした峠の旧道ではいつ通行止にあってもおかしくない。 この様にしっかりした路面が保たれているということは、この先抜けられるということを意味する。

   

<分岐>
 峠より約500mで旧道区間では最南端の箇所を過ぎる。そのカーブより谷筋に登る未舗装路が分岐する。地形図には描かれていない。 栃谷川の上流部は幾つもの支流に分かれていて、その支流の一つだ。治山ダムなども設けられているようで、それらの工事用の作業道かもしれない。

   

右カーブの所を左手に分岐 (撮影 2018. 5.25)

分岐する道 (撮影 2018. 5.25)
   

<道の様子>
 最南端を過ぎ、道は一転北を目指す。旧道は大きな蛇行をしている。栃谷川の上流部を横切る形となり、崖沿いの道となる。 滅多にないガードレールも崖下に落ち掛けていて、あまり役に立ちそうにない。コンクリート舗装は概ね続いているが、道幅は如何にも狭く、踏み外さないようにと緊張を強いられる。

   

崩れ掛けたガードレール (撮影 2018. 5.25)

崖沿いの狭い道 (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
加杖坂トンネルの栃谷側 
   

<新道へ>
 林の先が開けて明るそうだと思ったら、不意に新道に合流した。旧道入口にはほぼ中央にバリケードが置かれてあったが、その横は十分に通り抜けられた。

   
新道に合流する (撮影 2018. 5.25)
   

<旧道の道程>
 旧道区間は、青田側も栃谷側もほぼ同じような距離でそれぞれ800m〜900m、合計1.7Km程だ。延長260mの真っ直ぐなトンネルを抜ければ、車なら僅か30秒であろう。 トンネル坑口から中を覗けば、手の届きそうな距離に反対側の坑口から差し込む明かりが見える。そこを旧道は山の中を未舗装同然な道で約1.7Km走り回って来ている。トンネルの威力をまざまざと見せつけられる。

   

<バリケード>
 栃谷側の旧道入口にもバリケードが置かれていた。ほぼ道の中央である。落石注意の看板は立つが、進入禁止などの看板はない。 しかし、バリケードがこうも真ん中で威張っていられると、入ってはいけないのではないかと心配になる。今回はバリケードが横にずらされていた青田側からアクセスしたので、旧道に入り易かった。栃谷側からだったら、旧道は諦めたかもしれない。トンネルを抜けただけでは加杖坂峠は詰らない。旧峠を見て来られてよかったと思う。


旧道方向を見る (撮影 2018. 5.25)
中央にバリケード
左手に例の落石注意の看板
(青田側にあった物とほぼ同様)
   

<坑口前>
 加杖坂トンネルの栃谷側坑口前は広いアスファルト敷きになっている。その脇から旧道が延びる。広場には太陽が射し込み明るい場所となっている。路肩に車を停めて休憩するのにも適している。

   

栃谷側トンネル坑口 (撮影 2018. 5.25)

旧道入口 (撮影 2018. 5.25)
   

<坑口>
 加杖坂トンネルは広いコンクリート擁壁の坑口をどっしり構えている。急傾斜地にそそり立つようだ。その上方の峠が通じる鞍部は、見上げても窺え知ることもできない。

   
坑口と地蔵 (撮影 2018. 5.25)
   

<トンネル>
 竣工年から早くも40年近くが経過するが、何の古さも感じさせず、華燭のないすっきりしたトンネルである。丁度陽を正面から受け、明るい雰囲気でもあった。写真も撮り易い。

   
坑口の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<銘板など>
 銘板や扁額の類もしっかり残る。青田側では草木に覆われジメジメと苔むした所もあったが、こちらは文字もはっきり読める。メンテナンスが行き届いているのかもしれない。 銘板などの内容はほとんど同じようだ。扁額の「加杖坂トンネル」の字体もトンネルの姿同様にすっきりとしていて好感が持てる。

   

トンネル銘板 (撮影 2018. 5.25)

トンネルの扁額 (撮影 2018. 5.25)
   

<トンネル内>
 栃谷側の麓から延びて来ていた電線などがトンネル内の配管に入って行く。例の「60」と書かれた銘板はこちらにもあった。

   

トンネル内から見る (撮影 2018. 5.25)
この左手に「60」の文字があった

トンネルの前 (撮影 2018. 5.25)
道は右手奥を栃谷へと下る
この左手に旧道入口
   

<栃谷川源流>
 どれが栃谷川本流かははっきりしないが、少なくとも栃谷川源流の一つであり加杖坂峠を源頭とする川が、トンネル坑口上部方向から広場の脇へと流れ下って来ている。周りは柵で囲まれ、そこより流れは道路の下を横切り、反対側の谷へと注いでいるようだ。


広場の片隅に沢が流れ下る (撮影 2018. 5.25)
   

地蔵と看板 (撮影 2018. 5.25)

<地蔵>
 やはり峠の地蔵はこの新しい峠へと移されていた。トンネル坑口に向かって右、旧道入口との間に地蔵を安置する木製のお堂が設けられている。嬉しいことにその脇に説明文が書かれた看板も立つ。こうした看板により、峠についても理解が深まる。
 
<看板の説明>
 地蔵は古来より通称加杖坂峠に安置されていたとある。石の地蔵の顔もやや摩滅していることを考えると、やはり古い物と思われる。 これで車道開通前にも峠が存在し、人々に利用されていたことが分かる。「通称加杖坂峠」としている点は、当時はそのような呼称がなかったのかもしれない。やはり単に「加杖坂」(かつえざか)などと呼ばれていたのではないだろうか。

   

お堂 (撮影 2018. 5.25)
鍵は開いていたが開けなかった

お堂の中の地蔵 (撮影 2018. 5.25)
   

 元の峠に車道が開通した折り、地蔵は切通しに新しく設けられたお堂に移されたのだろう。その後、トンネルが開通(1980年)したが、看板の日付は平成16年(2004年)5月とある。その時に地蔵はまた、この新しいトンネルの峠へと移されたようだ。

   

地蔵の説明看板 (撮影 2018. 5.25)

地蔵の説明看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠道の経緯>
 説明文にあるように、高見峠を越える和歌山街道からは加杖坂峠は外れた地にある。大正期以降の和歌山街道の換線で、後継となる国道166号が木梶川沿いに通じ、やや近い関係になった。しかし、それ以前は和歌山街道という大幹線路からは離れた存在だった。
 
 すると、加杖坂峠の役割も限られる。「行き来する村人たち」とあるように、もっぱら地域住民の利用が多かったのではないだろうか。稀に蓮川水域の青田などの住民が加杖坂峠を越え、その後和歌山街道に入って奈良や和歌山を目指すというようなこともあったろうが、もっぱら狭い地域間での交流に用いられたものと思う。
 
 昭和中期になって加杖坂峠に車道が通じると、青田川上流域からは国道166号への最短路となる。険しい川沿いに下って森に至るより、整備された国道166号経由で要衝森に出られ、「交通の便も一層円滑に」なったと文献は記す。
 
 ただ、旧道を走った限り、軽トラが通れる程度の狭く険しい道であった。車道としては最低限度という感じだ。それが1980年のトンネル開通で格段に快適になった。当初は蓮ダム建設の工事車両などが通っただろうし、その後も蓮川上流域の資源開発や観光に役立つ存在だ。

   

お堂の脇に貼られるお札 (撮影 2018. 5.25)
(本文とは何ら関係なし)
「大峰蛇之倉七尾山」は
「おおみねじゃのくらななおさん」と読むようだ
大峰山脈を縦走する修験道・大峯奥駈道とも関係するのか


 ところが、蓮ダム完成で肝心な利用者である地元住民が居なくなってしまった。かつて交わされた栃谷と青田との集落間の交流は、ほとんど絶えてしまったことと思う。 また、青田川沿いから奥加肌湖沿いに通じた新しい道の快適さは、バイクライダーが「狭い道」と印象する加杖坂峠より数段上である。もう、わざわざ峠越えで国道166号を使わなくとも、そのまま川沿いに下って森まで容易に辿り着ける。ただ、災害時などの為に、脱出経路は2経路以上あった方がよく、 その意味では加杖坂峠の存在は必要だろうが。
 
 現在の加杖坂峠はアマゴ養殖などを営む近隣住民が利用する程度であろうか。また、植林などの山仕事が続けられる限りは、旧道の方も細々とながら存続するかもしれない。
 
 時には奥加肌湖への観光客が加杖坂トンネルを抜けて訪れるかもしれないが、森からの県道蓮峡線が表玄関とすると、加杖坂峠は全くの裏口である。物好きしか利用しない気はする。
 
 地蔵の説明文では「にぎやかなこの地」と表現するトンネル坑口前の広場である。確かに旧道の峠に比べれば寂しくない。お地蔵さまもこちらの方がいいだろう。でも、日に何台の車が通ることだろうか。我々がすれ違ったのは僅かに一台だけである。

   
   
   
トンネルより栃谷へ下る 
   

<道の様子>
 栃谷側トンネル坑口から麓の国道166号に接続するまで、約2.5Kmである。下れば下る程、幹線路の国道に近付く訳で、やっと山中から抜け出せるという期待がある。 道の状態は青田側と大差なく、1.5車線幅が確保されている。ただ、時折路面に枯葉が吹き溜まっていて、どこか寂れた感じがする。

   
道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<栃谷川上流部>
 旧道に続いて栃谷川上流部の険しい地形はまだ暫く続く。道は川筋に沿って真っ直ぐ下ることなく、山腹を大きく蛇行して進む。林の中で周囲は開けず、何の景色もない。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.25)

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
白線が現れる
   

<白線>
 沿道にも見るべき物はなく、路面ばかりを見詰めることとなる。やや退屈な道である。暫く下ると、路面の脇に白線が出て来た。これだけでも道が引き締まって見え、立派な感じがする。 麓が近いと期待させる。ところが、その後白線は消えたりまた出て来たりを繰り返し、何の目安にもならなかった。

   

白線がなくなった (撮影 2018. 5.25)

また白線が出て来た (撮影 2018. 5.25)
   

<治山ダム>
 峠道の蛇行は治山ダムで終わる。道はその治山ダムの下流側を横切り、左岸側に入る。間もなく明確な川沿いになると、そこは栃谷川本流である。

   

前方に治山ダムが見える (撮影 2018. 5.25)

治山ダムの前を横切る (撮影 2018. 5.25)
   

<右岸へ>
 治山ダム以降は最後までずっと川沿いに道が通じる。200mくらいで栃谷川を右岸へと渡る。谷は徐々に広がりを見せ始めた。道幅も心持ち広くなっていったようだ。


栃谷川を右岸ヘ渡る (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
栃谷集落へ 
   

<栃谷集落>
 谷が一段と広くなったと思うと同時に人家が現れた。栃谷(とちだに)集落だ。木梶川支流の栃谷川沿いを中心に人家が点在する。 江戸期からの栃谷村で、村域はほぼ栃谷川水域に広がる。明治22年からは波瀬村(はぜむら)の大字、昭和31年からは飯高町の大字となって行く。

   
人家が現れる (撮影 2018. 5.25)
   

集落内で左岸へ移る (撮影 2018. 5.25)

<集落内>
 集落内で道は左岸へ戻る。右岸側にも細い道が通じ、人家の間を抜けて行く。そちらが本来の峠道であったろう。現在のコースはちょっとしたバイパス路だが、結局直ぐに右岸からの道を合わせて一本道となる。

   
左岸沿いの道 (撮影 2018. 5.25)
   

<沿道の様子>
 右岸の道を合わせる辺りから谷は更に広さを増し、開けて明るい雰囲気となる。穏やかな里山の景観が広がる。

   
右岸の道を合わせる (撮影 2018. 5.25)
   

 ただ、それ程建物は多くない。川沿いにポツリポツリと点在するばかりだ。多くは畑や水田となっている。また、人家というより何かの小屋の様な建物が目に付く。 店なのかもしれない。その軒先に「ChestnutValley」などと書かれていた。「栃谷」を英訳したのだろう。なかなか洒落っ気があって面白い。


沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

公民館前を過ぎる (撮影 2018. 5.25)

<集落の中心地>
 「栃谷」というバス停が壁に掲げられた平屋の建物の前を過ぎる。表札に「たかみ」とも書かれていて最初は人家かと思ったが、どうやら栃谷の公民館(集会所)らしい。
 
 この100m程下流で栃谷川の大きな支流・飯田原谷が合流して来ていて、栃谷川との間に広く平坦な三角州を形成している。栃谷川沿いとしては最も立地が良く、栃谷集落の中心地的な存在だ。
 
 ここは木梶川沿いから栃谷川を遡ること1Km足らず。背後に加杖坂の小さな峠を経て蓮川水域の広大な山間部が控えるが、実質は木梶川沿いに唯一の出入口を開いている、川俣(かばた)谷の山間集落である。

   

<分岐>
 公民館の直ぐ先で飯田原谷沿いに通じる道が左に分かれて行く。工事看板が立っていて、「ますの谷 治山ダム現場 ここより500m先」とある。ますの谷とは飯田原谷の支流だろうか。地図を見ると、飯田原谷沿いやその支流(ますの谷?)沿いにも僅かながら人家が点在するようだ。

   

左に分岐 (撮影 2018. 5.25)

分岐する道の様子 (撮影 2018. 5.25)
工事看板が立つ
   

<山里乃駅>
 また人家とは異なる建物が出て来た。「山里乃駅 栃谷」と看板がある。ただ、「休業中」という札も掛かっていた。 地元で採れた農産物や軽食などを商っていたのであろうか。幹線路でもないこの道沿いで商売をするのは難しいことだろう。加杖坂峠を越えない限り、ほぼ行止りの様な道である。 訪れる者は少ない。それでも、たまに通る我々の様な旅人が、気楽に立ち寄り、ちょっと休憩したり、その土地に関して理解を深められるような公共の場所を設けて頂けると嬉しい。


右手に山里乃駅 (撮影 2018. 5.25)
   

山里乃駅 (撮影 2018. 5.25)

山里乃駅の看板 (撮影 2018. 5.25)
   

飯田原谷を渡る (撮影 2018. 5.25)

<飯田原谷>
 山里乃駅は飯田原谷沿いに立つ。道は直ぐにその飯田原谷を渡る。銘板によると橋の名は飯田原橋である。「飯田原」は「いたはら」と読むようだ。こういう小さな川の名などは、現地でなければなかなか読み方は分からない。
 
 尚、飯田原谷はここより上流の栃谷川より流長が長そうだ。栃谷川水域の源流としては最も奥地に源を発する。それでも加杖坂峠の方が、栃谷川本流となるようだ。

   

飯田原橋 (撮影 2018. 5.25)

「いたはらはし」とある道 (撮影 2018. 5.25)
   

<水車>
 飯田原谷を渡った後は、再び谷は狭まって行く。すると左手に水車が回っていた。多分、飯田原谷から水を引いているのだろう。案内看板も立っていて、「山里の駅」代表の方による物と分かる。この地で暮らす方やこの山里を訪れた者へと造られたようだ。

   

水車と看板 (撮影 2018. 5.25)
奥は無人販売

水車の案内看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<栃谷足跡橋>
 水車より少し手前で右手の栃谷川を渡る小さな橋が架かる。対岸にはちょっとした敷地があるようだ。橋には「栃谷足跡橋」とあり、橋の袂の大きな岩には「栃谷・・・」と何か書かれていたようだが、よく分からない。

   
栃谷川に小さな橋が架かる (撮影 2018. 5.25)
   

「栃谷足跡橋」とある (撮影 2018. 5.25)

岩に「栃谷・・・」と何か書かれてある (撮影 2018. 5.25)
   

<谷が狭い区間>
 谷が狭まった区間では道は川に沿って屈曲した。沿道に灯籠や看板などが立ち並ぶ。灯籠脇から歩行者用の橋が架かり、対岸に神社があったようだ。

   
「栃谷マップ」の看板などが立つ (撮影 2018. 5.25)
   

<栃谷マップ>
 看板の一つは「自慢にしてます 我が郷土」と題して「栃谷マップ」が描かれている。これで栃谷の全容が分かる。本来は栃谷川下流から訪れてこのマップを見ることとなるのだろうが、今回は峠を越えて上流側から来た為、既にマップに示される集落の大半は過ぎてしまっていた。
 
 灯籠脇に架かる橋の先は栃谷神社、栃谷足跡橋を渡った先にはテニスコートがあり、「コミュニティー広場」とも書かれていた。 現在地から蓮ダム湖まで15分、ホテルスメールまで20分とある。これからすると「蓮ダム湖」とは「蓮ダム堰堤」までのことのようだが、そんなに近いだろうか。12Kmくらいはあると思う。それはともかく、加杖坂トンネル開通以前なら、峠に辿り着くだけで15分掛かっていたかもしれない。


栃谷マップ (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 栃谷マップに示される人家の数は20軒弱で、文献が記す昭和35年の世帯数18とほぼ変わりなはい。 ただ人口は119もあったようだが、現在は残念ながらそのような賑わいは感じられない。 しかし、栃谷集落では栃谷マップや「山里の駅」、水車などが設けられ、単なる寂しい山間の集落ではなく、旅人たちをも迎え入れてくれている様子がうかがえる。
 
<木梶川>
 細かいことだが、栃谷マップでは木梶川に栃谷川が注いだ以降を櫛田川としている。これもうなずける。やはり木梶川が櫛田川本流の源流であり、栃谷川に続き舟戸川・太良木川といった支流が櫛田川に注いでいることになる。

   

<庚申塚など>
 栃谷マップに続き、集落の標語が書かれた看板や何かの小屋、赤い消防倉庫などが並ぶ。
 
 その反対側、山の斜面に「栃谷庚申塚」と看板が立つ(下の写真)。 実際の庚申塚は看板より手前の少し上にあったようだが、看板の奥の方を見ていて気付かなかった。庚申塚の説明によると、栃谷集落には上組と下組があったようだ。現在の庚申塚は元の下組庚申塚の場所に建立されたとある。多分、この谷が狭まった付近を境に、上流側を上組、下流側を下組と呼んだのではないだろうか。


看板や小屋が続く (撮影 2018. 5.25)
   

栃谷庚申塚付近 (撮影 2018. 5.25)

栃谷庚申塚の看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

栃谷川を右岸へ (撮影 2018. 5.25)

<右岸へ>
 谷が幾分広がりだすと、道は栃谷川を渡って右岸に入る。その右岸の緩傾斜地にまた人家が点在する。ここが下組ではないだろうか。 公民館を中心とする一帯(上組?)に比べるとやや面積は小さい。今しも沿道の人家では鉢巻き姿の男性が屋根の修理を行っていた。下にも作業員が一人居る。栃谷集落で見掛けたのはこの僅かにお二人だけだった。

   

<栃谷の看板>
 人家の先で左岸にある畑か何かの敷地へ渡る橋を分けると、その後は沿道の建物も稀となる。
 
 道路脇の草地に小さな「栃谷」の看板が立っていた。ここより上流側が栃谷集落であることを示しているものだろうか。ただ、大字栃谷はこの先の木梶川沿いまで続く。


人家の直ぐ先 (撮影 2018. 5.25)
左手に橋、右手に「栃谷」の看板
   

右手に「栃谷」の看板 (撮影 2018. 5.25)
これより手前が栃谷集落ということか?

「栃谷」の看板 (撮影 2018. 5.25)
裏側も「栃谷」とある
   
   
   
集落以降 
   

<栃谷川右岸沿い>
 「栃谷」の看板を過ぎると、栃谷川にぴったり沿って200m程寂しい道が延びる。途中、右上に登る道が分かれ、そちらに建物が見えた。栃谷マップでは「香肌木工所」とあった場所である。人家はないのかもしれない。


右手に建物 (撮影 2018. 5.25)
   

前方に新栃谷橋 (撮影 2018. 5.25)
その手前に「栃谷」と看板があった

<新栃谷橋>
 やっと峠道の終点、木梶川沿いに出る。道はそのまま直ぐに新栃谷橋(しんとちだにはし)で左岸へと渡る。その手前にはさっきと同じ「栃谷」の看板があった。
 
 古いツーリングマップを見ると、この橋はまだない。道はここより木梶川右岸沿いに200m余り下り、そこに別の橋が架かっている。それが多分、栃谷橋であろうか。その橋の付近まで大字栃谷で、栃谷マップでは人家も記されている。

   
新栃谷橋 (撮影 2018. 5.25)
   

<木梶川>
 峠から流れ下る栃谷川は木工所近くで既に本流となる木梶川に注いでいた。新栃谷橋はその下流に架かる。しかし、橋の銘板には「木梶川」と出ていた。櫛田川ではない。どこから櫛田川と呼ぶかは曖昧さを残すようだ。


橋の銘板には「木梶川」とあった (撮影 2018. 5.25)
   

山里之駅の看板 (撮影 2018. 5.25)

<十字路>
 新栃谷橋を渡った先は十字路となる。栃谷集落方向には「山里之駅」の案内看板などが立つ。
 
<案内板>
 道をよく理解していないと、この十字路には迷わされる。単純に国道166号に出るのかと思っていると、そうではないのだ。幸なことに、十字路の正面に案内板があり新栃谷橋周辺が地図に描かれている(下の写真)。 元はここは国道166号だったようだ。その意味でも、この新栃谷橋の袂は加杖坂峠の栃谷側起点と言える。現在の国道には木梶トンネルが開通し、ここより少し上に並行して通じる。

   

案内板 (撮影 2018. 5.25)

案内板 (撮影 2018. 5.25)
現在地は新栃谷橋北側にある十字路
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 案内板の地図でもこの川は木梶川となっている。テニスコートのある栃谷広場(コミュニティー広場)も案内されている。 加杖坂峠方面まで描かれているが、「加杖トンネル」と「」が抜けている。 加杖峠とも呼ばれることがあるようなので、トンネルの方も加杖トンネルでもいいかもしれないが、少なくともトンネル坑口に掛かる扁額では「加杖坂トンネル」であった。

   
十字路より新栃谷橋を望む (撮影 2018. 5.25)
   

旧国道166号を高見峠方面へ (撮影 2018. 5.25)
狭く寂しい道

<旧国道(余談)>
 次の目的地は高見峠なので、旧国道166号を高見峠方面へ進む。木梶トンネル開通前までは現役の国道だった筈だが、その狭さ、寂しさに驚いてしまう。これがかつて松阪と和歌山を結んでいた幹線路だったとは。

   

<新国道(余談の続き)>
 旧国道区間は400m弱で、木梶トンネルを抜けて来た現在の国道166号に接続する。高見トンネルの開通もあり、今は2車線路の立派な国道である。
 
 この後、高見峠の旧道に向かったが、途中でハスラーがパンクしてしまい、断念することとなった。3年前には奈良県側から高見峠を目指したが、旧道は通行止だった。未だ高見峠にはお目に掛かったことはない。


新国道に出る (撮影 2018. 5.25)
左奥が高見峠方面、右手前が木梶トンネル
   
   
   

 加杖坂峠は、その栃谷側は短い栃谷川に沿う僅か2.5Km程の短い峠道である。しかし、青田側は蓮川水域の広大な山域に通じる。 小さな加杖坂峠一つが蓮川水域一帯を背負って立つかのようだ。その意味では大きな峠とも言える。現在の蓮川沿いはほぼ無住地帯となり、蓮ダムによる奥加肌湖が佇む。 奥地には蓮などの廃村跡を寂しく留める。加杖坂峠自身もトンネルが通じて新しくなったが、辛うじて旧道を残し、元の峠を訪れることができた。 峠の地蔵は栃谷・青田両地区の人の手により新しい峠に移されて祀られている。峠を下った栃谷の集落は、旅人も迎え入れてくれるほのぼのとした集落であった。 いろいろな意味で面白かったと思える、加杖坂峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2018. 5.25 青田 → 栃谷 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 24 三重県 昭和58年 6月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 24 三重県 1998年 7月 発行 昭文社
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
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<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
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